読切小説
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勿忘
いつの頃からだっただろうか。
僕の部屋には、一つの箱が置いてある。
片手で持てるくらいの小さな箱で、蓋は南京錠で閉じられている。
南京錠と言うと、前部や底部にある鍵穴に鍵を挿して開けるものが一般的だが、この小箱に使われているものは特殊だった。淡い虹色で、前部に小さな穴が複数開いているのだ。材質も妙で、見た目や手触りは不透明な硝子に近いが、それにしては頑丈で、ちょっとやそっとの衝撃では傷一つ付かない。
僕は箱の中身が気になって、どうにかしてこの特殊な錠の鍵を探そうとしたけれども、家中を探してもそれらしいものは見つからなかった。尤も、どんな形の鍵なのかも分からなかったので、当然の事ではあったが。
錠があるのだから、鍵はきっとどこかにあるはずだった。しかし、見つからなかった。そもそも僕はこの箱をどうやって入手したのかもはっきりと……いや、全く覚えていなかったのだ。
中身が分からず、開ける鍵も見つからない箱。僕はこれを捨てようかとも思ったが、不思議な事に、これは捨ててはいけないものの様な気がしていた。





濾過して不純物を取り除いた青色の液に、赤い薬液を滴下。間を置かずに手早く容器を10秒ほど振り、軽く撹拌する。液が混ざったのを確認したら、白い粉末状の薬品を加え、更に熱しながら撹拌を続ける。色が鮮やかな薄紫になったら、容器を水に付けて冷やす。粗熱が取れたら瓶に移して完成。
朝から始めていた作業を終える頃には、数時間が経過していた。
調合はあまり好きではないが、比較的安全に生計を立てるとなれば、避けては通れない道だ。
調合によって作成した薬品類を、街に繰り出して売り捌く。危険を冒して用心棒などをするよりは、よっぽど安定する方法だ。
用心棒として戦うのは同じ人間……ではなく、殆どは街の外を徘徊している魔物。
教会の連中は魔物は忌むべき存在だと言っているが、僕はそれに同意する事は出来ない。僕は連中の言っている事が嘘だというのを知っている。無論、魔物は人間を殺しはしなくとも、連れ去って自らの伴侶とする点では非常に厄介だ。僕だって見ず知らずの奴に勝手に貞操を奪われたくはないし、襲ってきたら撃退も吝かではない。だが、魔物の中にも話の通じる奴もいないわけではない。少なくとも、人間が躍起になって殲滅するような種ではないと僕は思っている。
因みに、僕はこの考えを人に話した事は無い。話す者がいないし、いても理解が得られるかどうか分からないから、話そうとは思わない。
こんな街外れの辺境の地にまで足を運んでくる人間は少ないが、僕はこの環境を窮屈に思った事は無い。
一人で、好きな様に魔法の研究をして暮らす。とりわけ、反魔物思想の強い両親から離れた生活は、自分が予てから思い描いていた通りにとても自由で気楽なもので、半ば絶縁気味にでも家を出てきて良かったと思っている。
勿論、生計も自分一人で立てなければならないが、子供の頃から徹底した教育を受けていた事もあって、魔法学や薬学については生活に使えるだけの知識は持っていた。
こればかりは由緒有る魔術師の家柄だった事を感謝しなければならない。
両親は魔物が嫌いだったが、魔術師としての腕は一流で、僕も小さい頃は憧れの的にしていた。両親が言う事にも何の疑いも持たずに従っていたのをよく覚えている。
両親の教えは自我が形成されてきた僕には束縛にも感じられた。けれども、今は自由だ。僕を縛るものなんて何も無い。僕が何を考えたところで、それを咎める者はいないのだ。

今日の分の薬品作成は終了したので、売り出しや買い出しも兼ねて街へ行こうと考えたが、外から聞こえてくる雨の音で気が削がれた。
街へ行くのは明日にするとして、ならばこれから家の中でどうするのか。
頭を掻きながら思案していると、大きな欠伸が出て、そこで昨日はあまり寝ていない事に気が付いた。つい研究に夢中になりすぎて、寝るのが遅くなってしまったのだ。
今は時間的にも、一眠りするには丁度良い。僕は思い立つと、家の中の戸締りを確認した。そして、家に張ってある結界を張り直した。魔物が家の中に入って来れない様にするためだ。僕の家は辺境にあるので、魔物が入り込んで僕を連れ去る事も考えられた。その対策としての結界だ。多少大掛かりではあるが、僕の魔力であればそう難しい事ではない。寝る前の用心を済ますと、僕は軽食を腹の中に収めて寝室へ向かった。
寝室のベッドへ仰向けに身体を預ける。横を向けば、ベッドのすぐ傍に置かれた机の上にあの箱が目に入る。
僕の研究とは他でもない。この不思議な箱を開ける為の研究だ。
僕はこの箱を魔法で無理矢理開けようとした事があったが、この箱には相当な量の魔力が込められている。この込められた魔力というのがまた不思議で、分析した限りでは魔物のものと人間の者が混在しているのだ。
つまり、この箱は魔物と人間の魔力によって蓋をされているのだ。
魔物と人間……となれば、夫婦と考えるのが妥当だろう。しかし、どの夫婦が、何の為に、一体どういった経緯で僕の手に渡してきたのかは皆目見当が付かない。両親は有り得ないし、僕の記憶に見知った魔物の夫婦なんてものは無い。
空白になっている僕の記憶にその謎を解く鍵が隠されているのだろうか。もしかするとそれは案外……


僕は夢を見た。誰かが、僕に向かって声を掛けてくる夢を。

「私を忘れないで……」
「私?って、お前は一体……」


雷鳴の音で目が覚めた。辺りを見回しても、広がっているのは暗闇だけだった。一眠りのつもりが、夜になってしまった。どうやら僕の身体は僕が考えていた以上に疲れていたらしい。
ベッドの周りを手で探り、ランプと思われるものに火を灯す。寝室に光が行き渡ると、僕は寝る前と比べて一つ変わっているところがある事に気が付いた。
あの箱が、机から床に落ちている。
僕はそれを拾い上げながら、寝ている間に見た夢について思い出そうとしていた。
夢は最早僕の頭の中から消え去ろうとしていて、僕が思い出せたのは、私を忘れないで、という言葉だけ。誰が、どうして言っていたのかはもう思い出せない。
僕はその夢に妙な後味の悪さを覚えながらも、乾いた喉を潤しにランプを持って一階へ降りた。
蓄えてあった水を一飲みして、ほぅ、と息を吐く。
僕は寝起きの割にはよく目が冴えていた。それは出所の分からない胸騒ぎからくるものだったが、こうして起きていられる以上は、やる事は一つだ。研究の二字が頭に浮かぶ。
僕は研究室へ向かおうとしたが、それを止めるものがあった。
玄関口をノックする音が聞こえる。こんな夜の、しかも雷雨の中、辺境の家を尋ねる者。普通に考えて強盗か何かだろう。そうでなければ、迷った旅人か。どちらにしても追い返してやる。生憎とここは人を泊めてやれる様な所ではない。
僕は強盗に対していつでもカウンターが出来る様に術式を準備して玄関に向かった。
ノックは尚も聞こえる。僕は、意を決して戸を開けた。
僕は先ず、戸の前に立っていた者が自分の予想とかけ離れている事に驚いた。
強盗ではなく、その風貌を見る限りでは同業者…魔術師だ。そして、それ以前に……魔物だ。
ここで漸く、僕は起きた時から何となく感じている胸騒ぎの正体に気付いた。僕とした事が、寝る前に張り直したはずの結界が無くなっていたのに気が付かなかったのだ。
僕はすかさず、用意しておいた術式を発動しようとした。しかし、魔物がそれを妨害する方が早かった。僕は発動しかけた術式を止められてしまった。
魔物は目の前の異物を倒そうと躍起になる僕を諭す様に語りかける。

「落ち着いて。私は迎えに来たの」

僕は落ち着くどころか混乱した。
彼女は僕が彼女を知っている事を前提として語りかけていた。
当然、僕は種族としての彼女は知っていても、いち魔物としての彼女は知らなかった。全くと言えば、僕は彼女を見た時に微かな既視感を覚えたので嘘になるが、裏を返せばたったのそれだけで、僕は矢張り彼女を知らない。
確か、彼女の種族はリッチ。魔物の中でも凄まじい魔力を有する、上級アンデッドだ。僕の術式に先手を取って妨害するのも無理ではない。
だから、彼女の言葉は死神としての迎えなのだろう。正確には殺しに来たのではないのだろうが、連れ去って伴侶にされるのでは死んだも同然だ。

「何の事だか判らないが、お帰り願うよ」
「……私を憶えていないの?」
「当たり前だろ?魔物に知り合いなんていないね」
「……そう。それなら」

彼女の語り口は抑揚が少なく、表情の変化にも乏しい。
だが、僕の言葉を聞いている内に彼女の表情には失望に似たものが表れてきた。それはまるで、本当に僕を知っているかの様だった。
ただ、僕にその記憶が無い以上、彼女の変化は演技によるものであると判断せざるを得ない。

「……っ」

彼女は徐に僕に手を伸ばした。させるものか、と僕が彼女の動きに対応するより早く、彼女の方から伸ばした手を引っ込めていた。
右の二の腕を押さえ、顔には苦痛の表情が現れている。僕はどうして彼女がそんな事をしたのか疑問に思えてならなかった。

「おい。僕に何をしようとしたんだ」
「記憶を…引き出そうと思ったの。記憶が無いんでしょう?」

彼女は僕を狙っている。そう理解はしていても、彼女の言葉には引き寄せられる物があった。
僕の、空白となった記憶が明らかになるかもしれない。
僕は今までずっとつっかえてきたものが取れるという魅力に惹かれた。だが、会話の流れから考えて、彼女が嘘を言っていると考えられなくもない。それでも僕は、彼女を見た時の既視感を頼った。

「……お前はどうして僕に触れないんだ」
「呪いが掛けられているの。強力な烙印」
「…見せてみろ」

僕は彼女の質問には答えずに、彼女に押されている烙印を診る事を望んだ。まだ、彼女を信じたわけではない。
彼女が言う呪いがどれ程のものかで、彼女が本当の事を言っているかどうかの判断基準にしようと思い立ったに過ぎない。
彼女はローブに捲って、僕に二の腕を見せた。僕は次々と流れ込んでくる疑問に眩暈がした。
彼女の右の二の腕はある形に焼けていた。彼女の言った事に嘘は無く、確かに烙印が押されていた。それは紋章だった。僕の家の…バルシュムート家の家紋だった。
いよいよ僕は自分の記憶が判らなくなってきて、彼女の口車に乗る事にも疑いを持たなくなっていた。こんなものを見せられたら、彼女は僕に少なからず関わりがあるのではないかとも考えてしまう。

「これを解けば、僕の記憶が戻るんだな?」
「ええ、戻るわ」
「…少し静かにしていろよ」

僕は、どうして彼女の腕に僕の家の家紋が焼き付けられているのかについては考えなかった。それについては彼女が教えてくれるだろうと半ば投槍になっていたところもあったので、僕はすぐに解呪の準備をした。
僕は精神を集中させて、術式を構成し始める。彼女に掛けられているのはバルシュムート家で用いられる呪い。解き方はバルシュムート家の者にしか伝授されていない。バルシュムート家の魔法については、幼少の頃に粗方伝授されていたので、そこまで難しい事ではない。
彼女の腕に刻まれた烙印が消えていく。解呪は無事に成功した様だった。

「これで、呪いは解いた。さぁ、僕の記憶を取り戻してもらおうか」
「分かったわ」

そう言うと、彼女は改めて僕に手を伸ばして、僕の頭を引き寄せた。アンデッド特有の血の気の無い顔が、ずいと目の前に迫る。アンデッドとは言え、見た目は女性。僕は少しの恥じらいを覚えながらも、記憶だから矢張り頭に関連する事をするのかと勘違いした。

次の瞬間、僕は唇を奪われていた。彼女の冷えた唇が僕のそれを啄んでいる。僕は身体が強張った。それを良い事に、彼女は僕の唇を割って自分の舌を滑り込ませてきた。驚愕と恐怖で身体が縮み上がる。声も出ない。ただ僕は彼女の為すがままに口内を征服された。

「は……ぁ…んっ…れろっ……」

隙間から吐息が零れる。彼女の舌が硬直した僕の舌に嫌という程絡みつく。彼女の口から僕の口へ、止め処ない唾液が受け渡される。頬の裏。歯の裏。口の中の隅から隅まで、彼女の舌が舐って、味わい尽くされた。やっとの事で唇が離れる。気付くと、僕は床に押し倒されていた。息をするのも忘れていて、呼吸が荒くなる。その割には彼女の息は乱れていない。僕だけがこんな苦しい目に遭っていると思うと、屈辱だった。

「はぁ、はぁ…お前、やっぱり……っ」
「お願い…じっとしていて」
「…おい、やめろ!やめてくれ!」

僕は彼女を敵意の眼差しで睨んだ。騙されていたものだと考えて、怖くなった。彼女は僕の刺す様な視線に耐えている様だった。何かを噛み殺す様に、怯えて喚き散らす僕を必死に制止した。僕は彼女の魔力に中てられでもしたのか、身体の力が抜けて抵抗が出来なかった。
彼女は暗色のフード付きローブを羽織っている以外は何も着ていない。とどのつまり、彼女は常に自分の性器を露出していて、先程の口付けの所為か、そこはしとどに濡れていた。悲しい事に、僕のモノも既に準備は出来ていて、僕は彼女に跨られた。もう、彼女が何をしようとしているのかは分かる。
僕は頻りに首を振って彼女を拒んだ。身体が反応している以上そんな事を言ったところで説得力も何も無いのだが、合意も無しに犯されるのは男の僕だって御免だった。
そんな僕の叫びも虚しく、彼女の細い手が僕のモノを掴む。そのまま狙いを定めて、彼女は浮かせた腰を落とした。

「……っ……ふっ…うぅ…」

彼女の膣内は存外に暖かく侵入者を迎え入れた。彼女の肉が僕の肉に絡みついて締め上げる。僕は初めて味わう快楽に歪んだ。一方の彼女は、初めて味わう痛みに歪んでいた。
結合部に赤いものが見えたかと思うと、頭の中に何かが流れ込んでくるのを感じた。

「…っ、ぐっ、うぅ……あ、たま、が……」

それは快楽によるものではない。流れ込んでくるのは、魔力。僕のものではない、彼女の、魔物の魔力。彼女が僕に、自身の魔力を伝達している。
性交を行ったのは、この魔力伝達をよりスムーズに行う為だったのか。何とも魔物らしいやり方だ。僕は毒づく前に、もっと大きなものが頭の中に流れ込んでくるのに気が付いた。
僕の、彼女のでもない、光の奔流。僕の意識はその衝撃に飲み込まれて、白くフェードアウトしていった。



僕は夢を見た。
夢の中の僕が、誰かと笑い合っている。
僕達は花を見ていた。
小振りで、可愛らしい、青い花を。
確か、僕はこの花の名前を知っている。花言葉を知っている。それは……



揺蕩う意識の中で目蓋を開けると、『彼女』が僕の目に映った。僕はあの時、意識を失った。そこを、きっと『彼女』に寝室へ運び込まれたのだろう。僕は何も着ていなかったが、それは今となっては些細な問題だった。僕が身体を起こすと、『彼女』は不安げに僕を見つめる。箱は、元通りに机の上に置かれていた。僕は『彼女』の瞳を真っ直ぐに見つめて、名前を呼んだ。

「…フリューネ」

『彼女』の濃紫の瞳が潤む。『彼女』は無言で僕の胸に抱きついてきた。僕は尚も『彼女』の名前を呼んだ。

「ごめんな、フリューネ」

『彼女』は何も言わずに、首を振った。『彼女』のすすり泣く声が、僕の胸を締め付けた。『彼女』が僕の所為でどんなに辛い思いをしたかは僕には計り知れない。
『彼女』の名はフリューネ・アーレント。僕が幼い頃に知り合ったリッチの子だ。




僕がまだ幼い時……




幼少の僕は今と違って腕白盛りで、魔法の勉強もロクにやらずに外で遊んでばかりいた。実際、僕はそれでも周りの子供達に引け劣る事なんて無かった。ただでさえ名門と謳われるバルシュムート家の子で、更に僕はバルシュムート家きっての天才と呼ばれる程の素質を持って生まれたのだ。それは僕の両親も認めるところで、両親はいつも口うるさく、バルシュムート家の者としての自覚を持てだなんて、年端も行かない僕に言っていた。僕は当然のごとく両親に反発して、言う事なんてまともに聞かなかった。
僕は家柄の所為か、外に出ても孤立する事が多く、遊ぶときは殆ど一人だった。そんな僕がとりわけ好んだ遊びが、魔物狩りだった。僕の魔法はこの時には既に、弱い魔物や幼い魔物程度になら十分に効き目がある程に洗練されていた。
僕がそうだというわけではなかったが、皆は口々に魔物は悪いから倒さなきゃいけないと言っていた。僕は子供心に皆から、特に両親を始めとした大人に認められたくて、あんな事をしていたのだと思う。僕には本気で魔物を殺すつもりなんて無かったし、見かけ倒しの魔法で驚いて逃げる魔物を見てけらけらと笑うのが精々だった。
当然ながら、それは井蛙の見でしかなかったし、そのしっぺ返しを食らったのは僕が魔物狩りというものを始めてから数日後の事だった。
あの日、僕はそれまで通りに、街の外れに行って自分の魔法を見せびらかして、それを見た魔物が怯えて逃げるのを楽しもうとした。けれど、あの日の魔物は妙に手強かった。それが『彼女』だった。彼女もあの時はまだ小さかったけれど、暗色のローブの下にはしっかりと、リッチ特有の暗さや冷たさというものを持ち合わせていた。

ぼくは獲物を見つけると、にっ、と口の端を歪めて走り出した。春風と共に獲物の前に躍り出ると、ぼくは手を高く掲げて、指先に僕の身体と同じくらいの大きさの火球を作り出して、獲物に見せつけた。けれど、獲物は全く動じない。赤々と燃える火球を一点に見つめたまま、微動だにしない。ぼくはたじろいだ。今までの奴らはこれを見せれば一目散に逃げ出したのに。

「…逃げなくていいのか?」

ぼくは堪らず脅した。逃げなきゃこれをぶつけるぞ、と。
でも、彼女はぼくの言葉に目をぱちくりさせると、こう言ってきた。

「…それって、まぼろしでしょう?」

ぼくは図星を突かれて益々たじろいだ。この火球が幻であることを一目で見抜いてきたのは、彼女が初めてだった。
ハッタリを見抜かれはしたが、ぼくはまだ彼女を『退治』する事を諦めてはいなかった。ぼくは指先に作っていた火球の幻影を引っ込めた。

「…ふん。じゃあ、これでどうだ?」

代わりに、ぼくは自分の周りに、握りこぶし大の火球を複数浮かばせた。今度は幻影ではなく、本物の炎だ。強がりなんかじゃない。ぼくだって魔物の一人ぐらい退治できるんだぞ、と。暗に示して、彼女を見た。

「どうって……」

彼女の表情は、変わらなかった。それがどうかしたの、と言わんばかりにぼくを見ている。ぼくはいよいよ頭に血が上ってきた。ぼくは凄い魔法使いなんだ。周りの子なんかと一緒にするな。もうどうにでもなってしまえ、と火球を彼女目掛けて次々に発射した。直撃した火球が爆発を引き起こして、辺りが噴煙に包まれる。ぼくだって、これくらいは出来る。肩を上下させて、煙の晴れた先を見た。ぼくは立ちすくんだ。
彼女は何も変わった様子も無く、そこに立っていたのだから。彼女は一歩ずつぼくに向かって歩いてくる。

「おまえ……何なんだよ」

ぼくは逃げ出しこそしなかったが、自分でもそれを認識せざるを得ないほど彼女を恐れていた。ぼくの魔法が一切効かない程の魔物が、反撃してくる。そう考えると、とても彼女とは向き合っていられなくて、でも逃げたくはなくて。ぼくはただ強がった。彼女はそんなことなんて、全然考えていなかったというのに。
手を伸ばせば届くくらいのところに、彼女が来た。
夜の闇を写し取ったかの様なフード付きのローブ。可憐で、でも少し露出度の高いワンピース。人間のそれとはかけ離れた白い肌。

「わたしはフリューネ」
「……そうじゃない!どうしてぼくの魔法を受けて平気でいられるんだ!」

ぼくは苦虫を噛み潰した様な顔をして彼女を睨んだ。思い通りに事が運ばないもどかしさに苛々していた。彼女はそんなぼくの顔を見てもまるで表情を変えない。

「どうして?…守ったから」
「守ったから、って…ぼくの魔法だぞ!?」
「うん」
「ぼくは強いんだぞ!?」
「うん」
「………」

ぼくは段々と自分の呼吸が乱されていくのを感じた。ぼくが声を荒げているのに対して、フリューネと名乗った子はあまりに淡々としすぎていた。呆気に取られるぼくに、フリューネはマイペースに話しかけてきた。そこには、ぼくに対する敵意は微塵も見られなかった。

「あなたも魔法が使えるのね」
「…おまえも見ただろ」
「わたしも魔法が使えるわ」
「だから何なのさ」
「わたしの魔法も見せてあげる。こっちにきて」
「……仕方ないな」

つっけんどんな態度を取るぼくを意にも介さず、フリューネはただ無遠慮にぼくに向かって踏み込んでくる。フリューネにとっては、ぼくの魔法はただの見せ合いっこ程度にしか映ってなかったということだった。ぼくは、ぼくのプライドをひどく傷つけられたけれど、それについて怒る気力はもう残っていなかった。
怪訝に思いながらも、フリューネが促すままに近くへ寄る。ぼくたちは内緒話をする時みたいに顔を近づけた。ぼくはフリューネと目が合うのが何となく気恥ずかしくて、目を逸らした。フリューネは気にせず、顔と顔の間で指をパチン、と弾いた。

「どう?良い気持ちでしょ?」
「……ああ」

ぼくたちの間を、甘く、爽やかな香りが広がった。食べごろの果物みたいな、甘くて酸っぱい、そんな香り。香りがぼくの鼻腔を通り抜けると、あれ程ぐちゃぐちゃになっていた頭の中がすっきりと纏まっていく感じがした。同時に、フリューネに対して抱いていた、漠然とした不信感も溶けていく様な気がした。フリューネがぼくに微笑みかける。冷たいけれど、どこか温かい、そんな微笑み。僕の胸の底で、何かが疼いた。

「わたし、フリューネ・アーレント。あなたは?」
「…アルトゥール・バルシュムート」
「いくつなの?」
「…12才」
「わたしよりお兄ちゃんなのね」
「おまえは、いくつなんだ?」
「フリューネ」
「え?」
「フリューネ。わたしの名前」

不思議なことに、フリューネと話していると、ぼくはいつもの調子が出ない。どうしてなのか、調子が狂ってしまう。自分のペースで動くことが出来ないから、仕方なく彼女のペースに合わせてしまう。
もっと不思議だったのは、ぼくがそれをそこまで不快に感じていないことだった。当然、ぼくはこんな気持ちになった事は無い。

「……フリューネは、いくつなんだ?」
「9才」
「あいつと同じ…」
「あいつ?」
「ぼくの弟だ」
「どんな人?」
「ぼくより頭が悪い。けど、優しいやつだ」
「他には?」

フリューネは次々とぼくに質問をしてくる。質問に答えると、その答えからまた新しい質問が出される。ぼくも適当なところで切り上げてしまえばよかったのに、なぜか一つ一つ、ぶっきらぼうに答えていった。
気付くと辺りは夕焼けに染まっていて、帰る時間が近づいていた。カラスの鳴き声が、辺りに木霊している。このままフリューネと別れたら、明日はまた会えるかどうか分からない。そう思うと、ぼくは胸の中に靄が懸かるのを感じた。どうしてなのかは分からなかった。…いや、分かろうとはしなかった。だから、ぼくはフリューネがあることを訊いてくるのを待った。

「ねぇアルトゥール」
「なんだ」
「明日もまた、会える?」

驚くほどすんなりと、都合良く、フリューネはぼくにそう訊いてきた。ぼくは込み上げてくる明るい気持ちを必死で押し殺した。

「…フリューネが会いたいなら、会ってやる」
「……嬉しい」

フリューネはあまり感情を表に出さないタイプだ。けれど、口元を僅かに緩める程度ながら、よく微笑む。ぼくは何となく、彼女の微笑みを直視しなかった。……出来なかったんだ。

「も、もういいだろ。明日も会えるんだから」
「いつ会うかはまだ決めてないわ」
「じゃあ……お昼頃」
「それでいい?」
「……ああ」

その日から、僕はフリューネと知り合って、頻繁に会う様になった。フリューネが激しい運動をしたがらなかったから、僕はそれに合わせて彼女との時間を楽しんだ。新しく使える様になった魔法のお披露目をしたり。持ち寄った魔導書を一緒に読んだり。時には、実験を重ねて、魔法の開発までした。僕はフリューネの魔法に付いて行きたくて、それまでサボりがちだった魔法の勉強を真面目にする様になった。両親は特に褒めてはくれなかったが、僕に対する評価はいくらか改善された様だった。尤も、僕はそれよりも、フリューネの笑った顔を見る方がずっと励みになったのだが。

そうして何週間か経った頃のある日。僕はこの日もフリューネと会って、いつもの様に話し込んでいた。この日は、とても緊張していたんだ。

「ねぇアルトゥール」
「………アル」
「え?」
「アルでいい。……名前、長くて言いにくいだろ」

ぼくは依然としてつっけんどんな態度を崩していなかったが、少なくとも、フリューネと初めて会った頃よりかは明らかに軟化していた。
フリューネは、笑ってくれた。いつもの微笑みをぼくに見せて、ぼくの名前を呼んだ。

「……アル」
「……なんだ?」

ぼくは俯き加減に返事をした。顔がかあっと熱くなる。顔が赤くなっているのを、見られたくはなかった。フリューネが気付いているのかどうかは判らない。とても彼女の顔を見られる状態じゃない。

「今日が何の日か、分かる?」
「何の日でもない」
「ハズレ」
「じゃあ何の日だよ」

フリューネはくすくす笑っていた。ぼくは戸惑いながらも、顔を上げて彼女の答えを待った。ぼくはこの日に何か特別な意味があるとは考えていなかった。ぼくがこれから意味を持たせるつもりではあったが。

「今日はね、わたしの誕生日」
「…そうか」

ぼくは心中で驚いた。こんな日に、ぼくは何も用意してこなかったことを悔やんだ。とは言え、フリューネから教えられたわけでもないし、無理は無い。それ以上に、今日という日が彼女の誕生日だという偶然に、ぼくは驚いたのだ。

「…何にもないの?」

フリューネは表情の変化に乏しいが、ぼくは彼女と一緒の時を過ごして大分経ったからか、彼女が考えていることを判断しやすくなった気がする。今の彼女は悲しそうだった。無いよりはマシだと、僕は彼女に言葉をプレゼントした。

「……おめでとう」
「ふふ……ありがとう」

何の変哲も無い、祝いの言葉。たったの一言。それだけなのに、フリューネに向かって言うのがとても難しくて、ぼくは堪え切れずに目を逸らした。それでも彼女は笑ってくれた。

「ごめん、何もあげられなくて」
「わたしも、教えてなかったから」

フリューネが笑ってくれるのを見てぼくは良心が痛んだが、同時に、これに乗じる事を思いついた。迷っている暇は無かった。ぼくは面持ちを引き締めて、言った。

「フリューネ。もう一つ言うことがある」
「…なに?」

小さく首を傾げるフリューネ。それはそうだ、祝いの言葉はもう言ったのだから。それから改まって言うことなんて、いくらフリューネでも予測は出来ないだろう。ぼくは一呼吸おいて、静かに、しかし強く言った。

「ぼくはフリューネが好きだ」

言った。ぼくは言った。ぼくの気持ちを伝えた。後は、フリューネ次第。フリューネの返事を待つ間、ぼくは時間が止まったかの様な錯覚に襲われた。心臓の鼓動の音がフリューネに届いてやしないか気になった。フリューネの顔色は変わらない。少しだけ面食らった様な顔をして、ぼくを見ていた。彼女の口が開く。ぼくはどうにかなってしまいそうだった。

「嬉しい」
「…本当?」
「うん。わたしも、アルが好き。大好き」

ぼくはやっぱりどうにかなってしまいそうだった。ぼくの初恋は、幸運にも円満に収まったのだ。ぼくは恋がこんなにも呆気無く進んでしまうものなのかと肩透かしを食らった気分だった。

「将来、ぼくが大人になったら……お嫁さんになってくれる?」
「うん。わたし、アルのお嫁さんになる。やくそく」

ぼくたちは一丁前に婚姻の誓いまですることになった。
フリューネが取り出した、一つの小箱を使って。不透明な硝子の様な、不思議な小箱。

「その箱、何?」
「経箱。ここに、わたしの『魂』をしまうの」
「…魂?大丈夫なの?」

急によく分からない単語が出てきて、ぼくは思わずオウム返しをした。魂と言うと、普通は人間の身体に宿る精神の事を指す。それをこの箱の中にしまうとフリューネは言ったのだ。ぼくはフリューネがどこか遠くに行ってしまうのかと勘違いした。

「違う。魂っていうのは、わたしたちリッチの間では感覚の一種みたいなもので、これをしまうと、もっと凄い実験をしても身体が平気になるの」
「……成長の儀式ってこと?」
「それで合ってると思う」
「で、その箱をどうするんだ?」
「アルに預けるの。わたしたちが大人になるまで」
「分かった」

ぼくたちが大人になるまで。その約束の証としての小箱、ということだった。そういう事ならば、ぼくに拒否する理由は無い。ぼくは二つ返事で承諾した。

「じゃあ、少し待ってて」

そう言うと、フリューネは目を閉じて、精神を集中し始めた。両手に持った小箱を掲げると、足元に魔法陣が広がる。魔法陣から淡い光が零れ、彼女のローブがはためく。その様子を固唾を飲んで見守っていると、彼女の身体からぼんやりと白い煙の様なものが立ち上り始めた。煙は小箱へ吸い込まれていく。これが、彼女の『魂』なのだろうか。やがて、煙が全て小箱の中に収まると、魔法陣は消えていった。フリューネが目を開ける。どうやら、儀式は終了したらしい。

「終わった?」
「このままだとだめ。これに、鍵を掛けないといけないの」
「鍵って……魔法の?」
「うん」
「合言葉…ってこと?」
「そう。アルが考えて」

ぼくは戸惑った。急に合言葉を考えろだなんて言われても困る。何しろ、フリューネの大切なものを入れた箱なのだから、その場の思いつきで言うわけにもいかない。何か、この場に相応しい言葉を考える必要があったのだが、肝心な時に限ってぼくの頭は上手く回転してくれない。ぼくは苦し紛れに辺りを見回した。
結果的にそれが功を奏して、良い合言葉を見つけられたのだが。そのヒントはぼくが見ている景色にあったのだ。
それはこの辺りに群生している花だった。小振りで可愛らしい、青い花。ぼくはそれを指差して、フリューネに尋ねた。

「この花、ワスレナグサっていうんだ。花言葉、知ってるか?」
「…いいえ」

フリューネはぼくより年下のくせに矢鱈と博識だったが、この時ばかりはぼくの知識が勝った様だった。ぼくは自慢げにそれをフリューネに伝える。

「真実の友情。…誠の愛。それと……『私を忘れないで』」
「それが鍵?」

私を忘れないで。ぼくはそれが鍵にぴったり当てはまると考えたが、これをそのまま鍵として使ったのでは、日常生活でうっかり開いてしまう可能性も無くは無い。考えにくいことではあるが、万一開いてしまったら、ぼくはフリューネに会わせる顔が無くなってしまう。

「いや、このままの言葉だと間違って開けてしまうかもしれない。だから、別な言葉で言い換えるんだ」
「それでいいの?」
「ああ」
「じゃあ、アルも一緒に言って。それが、鍵になるから」
「分かった。ぼくが先に言うから、フリューネはその後に続いて。その時に鍵を掛けるんだ」
「うん」
「じゃあ、いくよ……」

そうしてぼくたちは、魔法の錠前で鍵を掛けた。錠前には似合わない、淡い虹色だった。

「…これでおしまい。はい、アル」
「ああ」

フリューネの『魂』が入った箱。受け取ろうとして、ぼくは手を差し出した。その時。

ちゅっ。

ぼくの右頬に温かいものが触れた。それがフリューネの唇だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。ぼくはそこまでは冷静だったが、急に顔に熱が上っていくのを感じて、まともな思考が出来なくなった。

「な、な………」
「ほら、アルも。わたしたち、『こいびと』なんだから」

戦慄くぼくに、フリューネは更に追い打ちしてくる。右頬を差し出すフリューネ。フリューネがそうした以上、ぼくにそれを拒む選択肢は残されていない。ぼくは半ばやけくそ気味に、彼女の頬に唇を近づけた。

ちゅっ。

ぼくの唇に感じる、フリューネの柔らかな頬。当然、ぼくにその感触を楽しむ余裕は無かった。きっと今、ぼくは耳まで赤くなっているのだろう。ぼくがこんなになっているのに、フリューネはただただ、悪戯っぽく微笑んでいた。とても恨めしかった。

「き、今日はもう終わりだ!また明日!」
「…うん。また明日」

まだ夕方と言うには早い時間だったが、これ以上フリューネと居てもぼくが恥を晒すだけだったので、ぼくは彼女の手から経箱をひったくった。
そのまま逃げる様にして、家路に着く。帰り道もずっと、右頬が熱を帯びていて、ぼくはそれがとてももどかしかった。



……言うまでも無く、僕は浮かれていた。僕があの時もっと冷静でいられたのなら。彼女を遠くから見る人影に気付けていたのなら、彼女はああも苦しい目に遭う事は無かっただろうに。





その日の夜。ぼくは父の部屋に呼び出された。
棚に飾られている、数々の勲章。感謝状。全て、父が賜ったものだ。こんな時でなければ、ぼくは自分のものでもないのに満足げに見つめていただろう。

「最近、頑張っているな」
「……うん」

父らしくもない。ぼくはどんな説教が待っているのかと身構えたが、最近は父の言う通り、目に余る行動はしていないはずだ。けれど、父が自分の部屋に呼び出すという事がどういう事を意味するのか、ぼくは嫌という程知っている。

「………これが、魔物絡みでなければどんなに良かったか」
「!!」

ぼくは頭の中が真っ白になった。

「魔物がどんなに危険な存在か、教えているだろう。増して、私達バルシュムート家がどんな意味を持っているか、お前には口を酸っぱくして言ってきたはずだ」
「……知ってるよ」

魔物は堕落を招く。人間を籠絡する。魔物は人を殺し、喰らう存在であると一般に説かれる中、バルシュムート家は魔物の真実を知る、他とは一線を画す一族。だからこそ、バルシュムート家は魔物を滅ぼさなければならない。それが真実を知る一族に課された使命。覚えたくなくても覚えた事だった。

「お前は将来バルシュムート家を背負って立つ者なのだ。それが汚らわしい魔物風情と……」

バルシュムート家を見てぼくを見てくれないのならまだいい。しかし、フリューネが侮辱されるのだけは、ぼくには耐えられなかった。

「違う!フリューネはそんな奴じゃない!!」
「それが魔物の策だとまだ判らないか、愚か者!」
「何だと…!あんたにフリューネの何が分かる!!」

噛み付かんばかりに猛抗議するぼくに、フリューネの振る舞いは全てぼくを堕落させる為の算段だと父は言ってのけた。家のしきたりに囚われて、魔物に歩み寄ろうとしない父が、知った風な口を利いてくることに、ぼくは益々腹が立った。

「分からんさ。だがな、今後、お前はどの道そのフリューネとやらに会う事は出来ん」
「……どういうことさ」
「私が彼女に会ってきただけのこと」

父の言葉がぼくの胸に突き刺さる。ぼくは魔物嫌いの父は大嫌いだが、同時に、魔法使いとしての父はとても誇らしかった。父の、魔法使いとしての実力がどれ程のものかは、ぼくもよく知っている。だからこそ、ぼくは血の気が引いていく気がした。それでも、叫ばずにはいられなかった。

「フリューネに何をした!答えろッ!!」
「………。重症だな」

いきり立つぼくとは対照的に溜め息を吐いて呟く父。ぼくは父が何と言おうとも、フリューネに関してだけは絶対に譲歩するつもりは無かったが、予想外にも先に根負けしたのは父の方だった。

「……お前がそれでも彼女に会いたいと言うのであれば、好きにしろ。だが、私はどうなっても知らんからな」
「言われなくても、そうさせてもらうさ!」

もっと長くなるものだと思っていたが、話が早く済むのならば、それに越した事は無い。
その日、ぼくはフリューネの身を案じて眠った。明日になれば、またフリューネと逢える。きっとそうだ。一緒に魔法の見せ合いっこをして、魔導書を読んで、魔法学の問題を出し合って、それで……いつもみたいにぼくに微笑んでくれるんだ。



それきり、僕がフリューネを想う事は無かった。
僕は魔物に敵対する事に迷いを覚えながらも、魔法使いとして順調に頭角を現していった。やがて僕の、父に対する我慢が限界になると、僕は一人で家を出た。魔法使いとして大成したわけではなかったが、一人で生きていけるだけの知識はあった。
街の外れの、魔物の棲み付いていない空き家を整備して、そこに移り住んだ。それからは、身分を隠しながら、傭兵になって護衛をしたり、薬を作っては街に売りに出たりして、生計を立てる日々が始まった。
目標は、誰よりも強い魔法使いとして大成すること。そして、この箱の中身を明らかにすること。



今日、目標の一つが達成された。丸い穴が複数開いた鍵穴は、声という鍵を認識するためのものだった。この箱は、フリューネとの約束の証だったんだ。

「……落ち着いた?」

胸の中でこくりと頷くフリューネ。泣き腫らした痕が、見ていて痛々しい。

「……ずっと、僕を探してくれていたのか」
「…うん。私…」

フリューネはぽつりぽつりと、事の顛末を話し始めた。

「私はあの日、家に帰ろうとしたら、貴方のお父さんが現れたの。とても怖い顔をしていて、私は怯えてた。私にあの人は呪いを掛けてきて、今後アルに近付くなって言われた。アルに近付かれるのも駄目。アルと接したらお前を許さないって……。だから、私はアルを見つけても、声を掛けられなかった。見つからない様に、逃げたの。アルと話したいのに、出来なくて…それが、辛くて……」
「フリューネ……」

僕はあの日以来、父にフリューネに関する記憶の一切を封じられてしまっていた。
記憶封印の魔法はごく一部の、強大な魔法使いにしか使えない禁呪クラスの代物だ。封印を解くには術者以上の魔力で作用させる必要がある。この時、解除者が被術者の封じられた記憶に関わる者であった場合、解除に要する魔力は少なく済む。この場合、フリューネは僕と繋がって直接魔力を伝達させたので、僕は容易に記憶を取り戻す事が出来たのだった。

「それから、何年か経って、アルが家を出たのを聞きつけた。私はアルに会って、この呪いを解いてもらおうとしたの。だけど……」
「肝心の僕はフリューネを知らなかった……」
「記憶が封印されているのはすぐに分かったから、後はどうやってアルに呪いを解いてもらうか、だった」
「でも、僕はちゃんとお前の呪いを解く事が出来た」
「……寂しかった」
「僕はずっと、お前に辛い思いをさせてきたんだな」

僕だけが、知らず知らずの内に、逢いたい人に逢えない苦しみから逃れていた。フリューネはずっと、その苦しみと戦ってきたのだ。手を伸ばせば届くのに、伸ばせない。目の前にあるのに、届かない。そんな苦しみと。

「…埋め合わせ、してもらうから」
「喜んでさせてもらうよ」

フリューネが言わなくても、僕の方からそうするつもりだった。僕だって、フリューネの事を思い出した今、フリューネが愛しい。

「愛してる、フリューネ」
「アル……」

僕達はベッドの上で互いを抱きしめ合った。肌と肌が重なって、フリューネの身体の柔かさが伝わってくる。僕はフリューネのフードを外して、彼女のさらさらとした銀髪を手で梳いた。目を閉じて、うっとりと身を任せるフリューネ。フリューネの、女の子の、甘い匂いが僕の鼻腔を擽った。
僕達の唇が重なる。彼女の唇は温かかった。僕はそれを何度も啄んだ。一回一回、優しく、彼女をいたわる様に。

「ちゅっ……はぁ…ぁっ……ア、ルぅ…」

口付けは啄む様な軽いものから、やがて貪る様な深いものへ。

じゅるっ……ちゅ…れろ……ちゅうぅ…

僕の舌が、フリューネのそれと絡み合って、溶けていく様な錯覚に襲われた。フリューネの口の中はとても甘くて、濃くて、僕は隅から隅まで彼女の口を味わい尽くした。フリューネも負けじと僕の口の中で舌を暴れさせた。唾液が蜂蜜の様で、僕達は一心不乱に蜜を啜った。水音と荒い吐息が、二人だけの空間に響き渡る。僕はフリューネを味わいながら、フリューネを押し倒していた。
最後にもう一度だけフリューネの口をなぞって、舌を離した。彼女の舌が名残惜しそうに追ってくる。切れた唾液の糸が、彼女の口元を汚した。
僕は続いて、フリューネの実りに手を伸ばした。この何年かで僕は勿論、フリューネも成長していた。それは僕が今手を伸ばしているトコロも例外ではない。手に吸い付いてくるかの様なフリューネの双房。押したところだけへこんで、力を抜くと戻る、程良い弾力。僕は初めて触れるその感触を確かめながら、また愉しむ様に揉みしだいた。空いた口で、彼女の胸や、肩や、首にキスの雨を降らせた。フリューネの口から時折、悩ましい吐息が零れる。それに従って、彼女の双房の頂点が自己主張してくる。
僕はおもむろに、その桜色に吸い付いた。もう片方を、指の腹で転がす。フリューネの身体がびくんと震えた。

「あっ……は、ぁん……ふふ、くすぐったい…」

フリューネが甘えた声で快感を享受する。ちゅっ、ちゅっ、と僕がフリューネの先端を嬲る音が、耳の中で、彼女の喘ぎと共に木霊する。僕の思考が、段々とフリューネへの愛で満たされてゆく。僕は一頻り彼女の胸の感触を確かめると、その手をゆっくりと下へ滑らせた。僕の五指がフリューネの白い肌を滑り降りていく。こそばゆさにフリューネは微笑んだ。
指が目的地へ到達しようとしている。頼りないランプに照らされて淫靡に光るそこは、既に蜜壺となっていて、蜜はシーツに垂れてしまう程に潤沢だった。充血した赤い花びらが早く早くとひくついていた。

「あまり見てないで…ね?」

僕が見惚れていると、フリューネが急かした。僕は我に返って指の運送を再開した。指を入れる前、僕はフリューネの目を見る。挿れるよ、と無言ながらにそう言って、僕は彼女の割れ目に指を滑り込ませた。僕の見立て通り、指は何の抵抗も無く、中に吸い込まれていった。

「ひぅんっ……」
(もう一本、入りそう…)

待ち望んでいたかの様にフリューネが喘ぐ。既に僕の中指は彼女の蜜壺に呑み込まれている。きゅっ、きゅっ、と柔かく、ざらついた感触が僕の中指から伝わる。僕は更に人差し指を蜜壺に潜り込ませた。間髪入れず、指をストロークさせる。

「あっ…ひぁっ…ふっ、ぅん……」

指を軽く曲げて、彼女の奥を擦ると、熱の篭もった嬌声が響く。僕は出来る限りの技術を尽くして、自分の指を操った。擦る角度を変えてみたり、ストロークの速度をずらしたり、焦らす様に浅いところで擦ってみたり。僕が違った責め方を試してみると、その度にフリューネも違った反応を見せてくれた。
僕は辛抱出来なくなって、また彼女の唇を奪った。
また、水音が響く。フリューネの上の口と下の口の、両方から、くちゅくちゅと、蜜の撹拌される音が。とても綺麗で、とてもいやらしい音。その二重奏が僕の手で奏でられていると思うと、僕の身体は一層火照った。
二重奏が終わると、フリューネは顔も、口も、膣も、全部が蕩けていた。糸を引く僕の指。フリューネの愛液で濡れた僕の指。口元に近付けると、フリューネの、むせ返る様な、濃い雌の匂いが鼻を突いた。僕は、脳幹がぴりぴりする様な刺激に襲われながら、自分の指を音を立てて吸った。フリューネに見せつける様に、下品に、赤々とした舌を目一杯に伸ばして。
当のフリューネはというと、僕が指に付いた愛液を啜るのを見て、目を逸らしていた。流石の彼女もこれには羞恥心を煽られてしまうらしい。

「フリューネの味がする」
「ア、アル。私、もう……」

調子づいてしまって、僕は思わず彼女の首筋にキスした。誤魔化す様に僕を急かすフリューネ。もう一度キスしたくなったが、僕ももうそろそろ我慢の限界が来ている。
僕はもっと深くフリューネを愛そうとしたが、そこで一つ、忘れていた事があるのに気付いた。

「そうだ、経箱…」
「えっ…開けるの?」

フリューネの『魂』が入れられた経箱。僕達はもう大人だ。あの時の約束を果たすのなら、今開けるしかないと思うのだが、フリューネはそれに難色を示した。

「……でも、いい。開ける」
「あ、ああ…」

フリューネは少し悩んだ後、納得したのか、箱を開ける事に決めた。一体何に悩んでいたのかが気になるところだったが、僕はそれについてあれこれ考えるよりも、フリューネとの約束を優先した。

「いくよ、せーの…」

僕は机に置いてあった箱を手に取って、フリューネに促す。僕達は、箱に鍵を掛けたあの時を思い出しながら、息を合わせてその合言葉を告げた。
正しい合言葉を受け取った錠前は、脆い硝子細工の様に砕け散った。欠片がきらきらと光りながら、虚空に消えた。時を経て、箱は開く。フリューネの『魂』が、在るべき場所へと還ってゆく。

「…何だか、実感が無いな」
「私にはある。身体が熱くて……壊れてしまいそう」

箱に入っていたのはフリューネの『魂』なので、それを開けたところで僕に変化が起きるわけではない。逆に言うと、フリューネには何らかの肉体的変化が起きている事になる。
フリューネが自分で言った通り、彼女の身体はとても熱かった。前戯で火照ったにしても無理がある。僕はフリューネの身が少し心配になって、彼女の頬に触れた。

「ひぅっ……」
「え……?」

僕はただ頬に触れただけだ。その程度の事なら箱を開ける前にもしたし、その時の彼女はただ目をとろんとさせて、僕に身を任せるだけだった。
だが、今は違う。僕の手がフリューネに触れると、それだけで彼女は敏感なところでも触られたかの様にびくっと跳ねた。
前とは明らかに違った反応を見た僕は、フリューネと、彼女の『魂』についてある関係性を考えていた。

「……フリューネ。もしかして…」
「……うん。私、色んな性魔術を身体に掛けていて……『魂』が離れてる間は何とも無かったんだけど。このままアルと繋がったら、私、どうなるか分からない」
「構うもんか!…寧ろ、僕は…フリューネの乱れるところ、見たい、し……」

フリューネは魔物だ。太古とは違う、性を強く求める魔物娘だ。小さい頃ならまだしも、成長してくれば、次第と彼女も魔物娘としての本能を想起するだろう。膨大な魔力を有するリッチは、それを性魔術の為に浪費する。魔術の対象は自身にも及ぶが、それによって受け取る強烈な快楽は、自身の『魂』を経箱に収めておく事で軽減する…。
今の僕ならそれが十分に理解出来た。そして、それを要約する事もわけは無い。
フリューネは今、とても敏感だ。全身に媚薬でも塗りたくられたかの様に、彼女の身体を魔法が侵している。
この状態でフリューネと交わったのなら……きっと彼女は、前戯で見せた反応なんて目じゃないくらいに乱れるのだろう。
フリューネは、その姿が僕の気を削ぐのではないかと心配して、箱を開けるのを迷ったのだ。
だが、それはある意味では、フリューネのありのままの姿だ。それが見られるのなら、僕は躊躇なんてしない。僕は咄嗟に否定したが、それに続く言葉がどんなに恥ずべきものなのかを知って、俯いた。

「……アルのえっち」
「う、うるさい。フリューネに言われちゃオシマイだ」

ここぞとばかりに僕を責めるフリューネ。僕はこれ以上フリューネに責められまいとして、彼女の口を、僕の口で塞いだ。

「ふぁ…ん、ちゅる……はむっ…ぅあっ、はぁん…」

僕が舌でフリューネの唇をなぞると、彼女はそれだけで陰唇を舐られたかの様に震える。
僕が舌をフリューネの舌に絡ませると、彼女はそれだけで陰核を弄ばれたかの様に腰を浮かせる。
フリューネはそれを嫌がるでもなく、寧ろ、もっともっと、と僕との繋がりを欲して舌を絡ませてきた。
僕達の口の隙間から漏れる、熱い吐息と喘ぎ。魔術漬けになったフリューネの身体は、キスだけでも感じてしまう程に淫乱なものとなっていた。
荒い息。潤んだ瞳。赤くなった頬。額にしっとりと浮かぶ汗。果てる寸前の様な、恍惚に満ちたフリューネの貌。
それを見た僕はどうなったか。フリューネの懸念を粉々に打ち砕く様に、僕は下腹部のモノを熱くした。僕の怒張で彼女を貫きたい。彼女を喘がせたい。叫ばせたい。快楽を与えたい。溺れさせたい。果てるまで愛したい……
……僕はこんなにサディスティックな性癖を持っていたのだろうか?……いや。これは愛だ。愛ゆえの暴走だ。
僕はこう考えていたが、薄々感付いていた。フリューネに掛かっていた魔法が、彼女との繋がりを通して、僕にまで作用してきているのを。もう、僕は堪えられない。

「フリューネ、僕、もう……」
「うん。ちょうだい。アルの、ここに……私と、一つに…アル、愛してる」

度重なる愛撫でどろどろに弛緩した秘裂を指で開けて、フリューネは僕を求める。僕は途端に、眩暈がした。
あたまが、あつい。僕の理性は、もうどこかへ行ってしまった。
僕の怒張がフリューネの充血した秘裂に宛がわれる。僕は息も荒々しく、腰を思い切り前に突き出した。

「んはあああああぁぁっっ!きたああああぁぁっっ!!」
「はぁっ……っ、はぁっ……」

灼熱の様に熱いフリューネのナカ。すっかり解れたそれは侵入者を寧ろ歓迎して咥え込んだ。怒張を四方八方から責める様に蠢く膣壁。僕はフリューネの様に、挿れただけでも意識が飛んでしまいそうな程の快楽に襲われた。僕は下半身が爆発しそうになるのを必死で抑えて、無我夢中で腰を打ち付けた。

「あっ、うあぁっ!これ、しゅご、ひいぃぃっ!」

獣の様な容赦無い抽送。ぶつかり合う肉と肉。咳込みそうなフリューネの芳香。弾け飛ぶ液。響き渡る淫猥のコンチェルト。全部が心地良い。
降りられない快楽の高台に追い詰められたフリューネ。『魂』を戻した状態でこういう事をするのは初めてなのだから、それも仕方無い。
それでも快楽が足りていないと感じて、頻りに腰を打ち付ける僕。こつんこつんと、子宮口をノックする。
僕は胸の中から湧いてくるどす黒い感情に支配されていた。フリューネへの、止め処ない愛だ。これだけじゃ駄目だ。もっと執拗に責めなきゃ、フリューネは満足してくれない。僕が満足させなきゃいけないんだ。

「もっと、僕をっ、感じて、っ…フリュー、ネっ…」
「ひにゃあぁぁっ!すっちゃ、あんっ!ゃらあぁぁっ!」

僕は上体を倒して、痛いほどにそそり立ったフリューネの乳頭に食いついた。ざらつく舌で、嬲って、つついて、転がして。時々、思い出したかの様に甘噛みすると、膣の動きもそれに応じて、きゅんきゅんと締め付けてくる。
波打つ悦楽から少しでも逃れようとして、舌を出すフリューネ。だらしなく弛緩した眉。それでも逃れられなくて、結局表情を崩しているしかないみたいだった。それでいいんだ。
動きを止めでもしたら最後、この時間が終わってしまいそうで、僕はどうあっても、腰を動かすのを止めたくはなかった。ワンパターンでも良い。ただ、少しでも長く、この時間を味わっていたくて。でも、出来なくて。

「フリューネぇっ…!もう…っ…!」
「らひてっ、アルぅっ!はりゃませてぇぇっ!!」

僕がどれだけフリューネを愛していたとしても、それを行動で示すのには、限界がある。フリューネがそうなっている様に、僕もまた、魔法に中てられてしまっている。僕の身体から込み上げる白。フリューネの身体を穢す白。
この時間が終わってしまう。もう逃れられない。ならいっそ、一思いに。
僕は自分からそれを終わらせようとして、最後の力を振り絞り、全力で腰を前後した。

「う、ぐ……あぁぁぁっ!!」
「ひ、うあぁぁぁぁあぁぁぁあっっっ!!」

アルトゥール・バルシュムートはフリューネ・アーレントを世界で一番愛している。
僕はフリューネを力の限りに抱きしめて、思いの丈を吐き出した。フリューネは抱きしめ返して、一際大きな快感に身を震わせた。
フリューネの最奥へ注ぎ込まれる僕の愛。最後の一滴まで僕の愛を渇望するフリューネの膣。
僕達を襲う快楽の津波。僕達は家中に響き渡る様な声で絶頂した。
津波が引いていくに従って、僕達は気持ちの良い疲労感に包まれた。

「フリューネ……」
「アルぅ……すきぃ…」

隙間無く密着する身体。暖かで幸福な、伴侶のぬくもり。僕達は羊水の様なそれに包まれながら、愛を囁き合った。
魔法に中てられた僕達は、朝日の昇るまでお互いを愛した。そうでもしないと、魔法の所為で気が狂ってしまいそうだったんだ。






僕達は住み慣れた土地を離れ、親魔物領のウルムラントに越してきた。
僕の家が街外れにあるからと言って、ディーベルクは反魔物領だ。もしもの事があっては困る。
だから、少しばかり手続きに時間を要するとしても、身の……フリューネの安全が保証される様な場所に住むことにした。バルシュムート家の名はここにまで聞こえてくるが、弟は立派に後を継いでいるらしい。
ずっとディーベルクに住んでいた僕からすると、ウルムラントの光景は異様だった。街中を魔物とのカップルが闊歩しているなど、考えられない事だった。だが、ここならフリューネも安心して僕と暮らせる。そこで僕は一つ、まだ問題がある事に気付いた。とは言え、これは僕の我が儘なのだが……
あの夜、フリューネが僕の元を訪ねてきた時、フリューネはローブを羽織っているだけで、他には何も着ていなかったのだ。
あのワンピースはどうしたのかと訊くと、事もあろうにフリューネはローブだけでも特に困る事は無かったから着なくなったと答えた。
僕はフリューネの身体が他の者(特に男)に見られるのが耐えられなくて、せめてもう一枚着てくれと駄々をこねたところ、フリューネは僕が選んでくれたものなら着るという。
ならばということで、僕達は今日、そのための服を買いに来たのだ。

「似合う?」
「…見れば、分かるだろ」
「…似合うって言って」

試着室から出てきて、僕の選んだ服をお披露目するフリューネ。僕が選んだのは、青い花柄のワンピース。
僕が思っていた以上に、それはフリューネとマッチして、清楚ながらも理知的な印象を生み出す。…正直なところ、僕はフリューネが着るのなら何だって似合って見えてしまいそうではあるのだが。
それでも僕は、こういう時に面と向かって褒めるのが苦手だ。
フリューネも僕のそういうところを知っておきながら、褒めろとせがんでくる。よりにもよってここは公衆の面前だというのに。ひどい。

「……似合ってるよ」
「ふふ…ありがとう」

けれども、フリューネが求めてくる以上は、僕も出来る限りそれに応えなければならない。
頬を紅潮させてフリューネの希望に答えると、彼女はいつもの微笑みを僕に見せた。目を細めて、口元を僅かに緩めるだけの、軽い微笑み。
リッチという冷静な種族ゆえに、フリューネのこの笑みは冷たいものと誤解されがちだが、僕はこの笑みに存在する確かな温かさというものを知っている。

嗚呼、僕はこれに弱いんだ。
もう、二度と忘れてなるものか。
僕の、世界で最も愛しいひと。







「じゃあ、いくよ……Vergissmeinnicht」

「「Vergissmeinnicht」」
15/09/06 18:42更新 / 香橋

■作者メッセージ
前作に比べると大分長くなりました。連載にして前後編に分けるべきか結構悩んだ次第です。濡れ場の比率が少なくなってしまって申し訳無い限りです。
目安として今回からあらすじに総文字数を入れてみました。読む際の参考にして頂ければ幸いです。

一作目の反響が予想以上に大きくて、かなり驚いています。執筆の原動力になったので幸運には変わりないのですが。

本番はハートを使ってみようかと思ったのですが、もっと経験を積んでからでも遅くはないとの判断で、今回は見送りました。

次作は……誰になるのでしょう。私も楽しみでなりません。

ご覧いただき、ありがとうございました。

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