連載小説
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前編
 遠ざかる彼に手を伸ばした。
 いや、遠ざかっていたのはこちらか。
 そもそも隣り合っていたことこそが間違いだったのか。
 ならば、何故。
 いずれ離れる運命ならば、何故。どうして。
 神は何故そのように無慈悲な真似を――

「――っ!!」
絶叫の一歩手前で、私は目を覚ました。
 指は寝具を掻き毟り、足先もこむら返りを起こしたように反る。
 引き攣った喉が呼吸を求めて噎せるまで、十数秒はそうしていたと思う。
 そして不意に全身の筋肉が弛緩した途端、空気と途方も無い疲労がのしかかってきた。
 しばらく獣じみた息遣いが続き、焦点すらも定まらない。
 更に数十秒を経て、私――「レスカティエ教国」聖騎士団――ウィルマリナ・ノースクリムは、王城に宛がわれている自室のベッドで毛布に包まって震えている自分を発見した。
「っは、はぁ、はぁ、はぁ……ゆめ、なの?」
 喘ぎ喘ぎ、確かめるように呟く。
 そう理解してからも震えは止まない。
 とても嫌な夢を見ていた、とまでは覚えている。
 しかし、それがどのような夢だったか思い出せない。
 喩えるなら、『悪夢』という一種の思い出自体を横合いから喰い千切られたかのような喪失感。
「夢なの、かしら……」
 思考が形を成す前に、半身が起き上がる。
 自分は何をしているのか。
 自分は何をしていたのか。
 心拍数の上昇に合わせて、眠りに落ちる前――即ち意識を失う直前の光景が、桶を水滴で満たす様にゆっくりと、浮かび上がってくる。
 その遅さに私は苛立つ。
「……私は」
 顔に当てた掌を、爪痕が出来るほど強く握りしめて、記憶を掘り起こしてゆく。
 確か、市街地の巡回に出ていた。メンバーは騎士団の精鋭四、五人だったか。
 その日、目だった異変はなかった気がする。せいぜい、路地裏で酔って暴れていたのが軍の一兵だったことに腹を立てたくらいか。
 夜半過ぎに城に戻り解散してから、城内に宛がわれている自室へと戻る道程。
 部屋に繋がる、最後の回廊の直線。

 ――その姿は、曖昧にしか思い出せない。白い翼、白い尾、そして全身に赤い――

「うぐぅっ……!!」
 頭に鋭い痛みが走る。火矢にも似た閃光が脳裏で弾けた。
 迸る魔力、身を焦がす業火、空を切る剣、遮られる詠唱、床を舐める屈辱と恐怖、自分を見下す者の美しい顔――
 それが切っ掛けとなり、記憶がその輪郭を浮かび上がらせてくる。
「私は、負けた……?」
 最後にどのような手管を使われたのかは、はっきりと覚えていない。強大過ぎる魔術の一端を見せつけられたのかもしれないし、或いはそれにも及ばないと判断され体術で叩き伏せられたのかもしれない。
 しかしどの道、未だ残る震えと、精神に根を張っている敗北感は、自分が打倒されたという事実を如実に物語っていた。
 『教国の光』は魔物に敗北した。
 勇者ウィルマリナは一匹の淫魔に屈した。
 かつて自分を称えてくれた人々の声が、今は呪いの様に重い。
「何が、勇者ウィルマリナだ……何が救世主だ……あれだけ無様に倒されて、私は……」
 ギリギリと歯を食い縛るが、しかし同時に覚醒してからこの方、何かを忘れているような心地がしてならなかった。
 忘却に包まれた焦りの正体は暫くの間明らかにならず、ただ泡のように膨らんで胸を押し潰す。
(なんだ……何かおかしい……)
(何かを忘れている……何を――――) 
 突然、記憶の空白が閃光に消し飛ばされる。おかげで白痴のような刹那が生じた。
 意識が戻るのと、ベッドから飛び出したのは、果たしてどちらが先だったか。
 次の瞬間には枕元に置いてある剣を掴み、扉へと駆け寄っていた。
「おかしい……なんなの、これはっ!!」
 自分は城内で魔物と出会い、倒された。
 ならばその魔物は、自分を打倒した後、どうしたのか? 
 騒ぎに気付き、駆け付けた増援によって追い払われたのか?
 そして気絶した私は手当てを受け、自室で休まされていたのか?
 否。
 それならば今自分が着ているのは休息着の筈だ。勇者の衣に戦闘用のブーツ、御丁寧にマントまで身に着けさせたまま、寝台に放る訳が無い。
 更に、もし城内の者が淫魔を退治したというのなら。
(今も身を刺すようなこの妖気は、どう説明するのか……迂闊な――っ!)
 安穏と眠っていた自分を責める心もあった。
 しかしそれどころではない。
 そのまま突き破らんばかりにドアにぶつかり、ノブを引き抜いた瞬間、
「――っ?!」
 待ちわびていたように、顔面へ飛んできた『何か』。
 正体を判別する間も無く身を捩らせると、かの物体は頬を抉るか否かというところで顔を掠め――後方の壁に激突した。
(黒い火球……攻撃魔法?!)
 部屋に四散した魔力がびりびりと皮膚を舐める。直接炎で焦がされるような熱が襲ってきたが、今の私にはそれすら遥か遠くの事のように思えた。

「あはは♪ ごめんねー? もう扉なんていらないから吹き飛ばそうとしたんだけど、そこに立ってるなんて思いもしなかったんだぁ♪」

「あなたは……」
 殆ど白目まで剥き出しにしていただろう。
 私は凝視する。
「おはよーおねえちゃん♪ よく眠れた?」
 先程の攻撃など忘れたかのような無邪気さで語りかけてくる、小さな女の子。
 しかし彼女が只の童女でないことは、容易に判別できた。
 にんまりと笑う顔は、しかし健康的なそれとは程遠い爛れた色を纏っている。
 幼い肢体を申し訳程度に隠している、黒い衣、絡み合った蛇のような杖や帽子には、血の様に赤い宝玉が埋め込まれている。
 何より全身から発散されているのは、高濃度の邪気だ。一般人や新兵程度の精神力ならば、傍にいるだけで色欲にあてられてしまうことだろう。
 だが、私はそれを驚きながら、どこかで納得してしまっていた。

「ミミルちゃん……」
 そう、私に媚びた笑みを向けてくるこの女の子は、天才の名をほしいままにした魔術師にして私たち勇者の一員――ミミル・ミルティエの、変わり果てた姿だったのだ。

「んんー♪ うまくいったみたいでよかったなぁ♪ めでたしめでたしってところだね♪」 
 呆然と立ち尽くす私の周りを、ミミルちゃんは踊るようにぐるぐると廻った。
 まるで完成したばかりの砂の城を眺める子供そっくりだと、私は思った。
 その余りの自然さに油断して、あっけなく彼女の接近を許している自分に気付いた。
「は……離れなさいっ!!」
 無理矢理自分を奮い立たせ、正面に回ってきたミミルちゃんに剣を突き付けようとした。
 しかし――確かに向けた筈のその切先は、誰も何もない空間を指し示していた。
 虚空を貫く剣はじりじりと震えていた。
 否、震えているのは私の身体か。
 移動した邪気は、炎の様に氷の様に、私の脊髄を舐めていた。
「んもー、いきなりそんなもの向けたらあぶないよー?」
 心臓を握られたような心地になる。
(……瞬間移動!!)
 不意を突き、動作も最小限に抑えたつもりだった。
 それなのに、躱された。
 反射神経や演算速度もさることながら、驚くべきは魔力の流れに一切の乱れが無かったことだ。
 驚き、迷い、焦り、恐れ、そして回避の成功による安堵――そのどれもがまるで感じられず、只呼吸するように平然と精密なる魔術を行使した。
 これほどの安定性は、魔法において右に出るものがないと言われたかつての彼女にも見られなかった。未来予知もかくやといった手練れだ。
 戦慄した。
 全身が総毛立つのを感じる。魔力の糸に縛られたように身動きを忘れる。
 しかし私の恐怖などお構いなしに、なぜか彼女は満足そうな声を上げていた。
「でもでも♪ こーゆーところも含めてちゃんとなってるみたいだね♪ これならデルエラさまや、おにいちゃんもよろこんでくれるよね♪」

 ――いま、なんと言った?――
 
 瞬時に白熱した思考の中、ドク、ドク、ドク、ドク、と自分の鼓動が強まるのを感じた。
 首を捩じり、背に立つ童女の顔を見遣る。剣を下すことさえも忘れていた。
 『おにいちゃん』?
 それは?
「おにいちゃんて、誰」
 頼むから違っていてくれと、祈っていた。
 教国の希望と謳われた私が、民の皆からの期待をこの身に受けていた私が、狂おしいほどに祈っていた。
「だれ、って」
 しかし、だとすると、それは道理だと言わざるを得なかった。
 民の希望と謳われた私が敗れた今、その私自身の祈りなど、届くはずもないということは。
「おにいちゃんはおにいちゃんだよ♪ おねえちゃんもよくしってる……それどころか、おねえちゃんがだーいすきな……♪」
 続きは言わせなかった。
 半月を描き真空に咆えた剣は、魔族の肉ではなくドアの脇に立つ姿見を粉砕していた。ノースクリム家に数ある家宝のひとつで、屋敷から送られてきたものだった。
 砕け散る鏡の破片は、中空で、湖中に落ちるような速度に思えた。そのプリズムの一片ひとひらに移る私の目の形から衣の皺まで全て視認できたような気がした。
 そして私は、確かに殺すつもりで剣を振り抜いていた自分に気付いた。
 しかし。
 砕け散った鏡面が銀草の様に咲く部屋の、外――見るもおぞましい触手が這い回る回廊で、魔女は未だあどけない者の様に笑っていた。
「さあ……♪ いよいよおおづめだよぉ? あとはデルエラさまにお見せしてぇ、それから……ふふふふふふ♪」
 独白も終わらぬうちに、ミミルちゃんだった魔女は私の視界から消えた。
 部屋から駆け出すと、黒い触手に塗れた回廊の彼方。
 ふわふわと浮かんでいる彼女の姿があった。
「待ちなさいっ!!」
「ほぉーら、おにごっこだよ? こっちにおいでよ♪」
 そこから私の追走が始まった。
 手は届かせず、しかし決して撒くこともせず、スキップのごとく軽やかに彼女は浮遊して、私を弄んだ。
 私はと言えば、足元を亀裂の様に走る触手に足を取られたり、突如しなだれかかってくるそれを切り開いたりして、普段の半分の速さでも走ることが出来なかった。
 苦戦する私を余裕たっぷりに眺めながら、魔女はまるで月面を跳ねる獣の様に回廊を進んだ。
 それにしても明らかになるのが、城内の荒れようである。黒荊の洞穴じみた触手に紛れて、壊れた窓や破れた絨毯、崩れた調度の残骸が空しく放置されている。この分だと王座も無事ではないだろう。
 更に窓の外を見れば、空には暗雲が立ち込め、城下町には魔物の魔力と思われる妖しい光が満ちている。空に翳る月の姿が無ければ、今が昼か夜さえ分からぬ程。
 レスカティエが落とされたということを悟るのに、そう時間は掛からなかった。
 だが教国の崩落を目の当たりにして心を占めているのは、神への祈りでも、ましてや国を失ったことへの絶望でもなかった。
 果たして、私は気付く。
(誘導、されている) 
 焦り、疲労と共に、不安が蓄積してゆく。
 彼女に追いついたとして。
 或いは彼女の行き着く先に辿り着いたとして。
 そこに待つ光景は?
 そこに待つ運命は?
 だが、行かねばならない。
 『あの人』に纏わる世界があるのなら、たとえそこが終末だとしても。


 角を曲がると魔女は目の前にいた。
 立ち止り、紫の血糊で化粧した剣を真正面に構える。
 驚きは、隠せていたと思う。
「おつかれさま♪ んんー大変だったでしょ? でも、やっととうちゃくだからね♪」
 相も変わらず満面の笑みで私を労った後、魔女は私の前から姿を消した。
 だが、もう案内は要らなかった。
 目の前には大きな扉。
 王座の間に通ずる、巨大な扉。
 私は刹那、辿った道程を反芻し、納得した。
 本来、城内に宛がわれている勇者たちの部屋は、火急の事態に備えて直ぐ王の元に駆け付けられるよう王の間と最短の距離に位置している。恐らく、私の自室と城の中心を繋ぐ回廊のどこかが破壊されたのだろう。
 それでこのような遠回りをすることになったのだ。王城の警備としては欠陥を抱えていたことになる。
 ――もっとも城のありさまを見るに、そんな些末な欠陥などあっても無くても同じであったとは思うが。
(わざわざ瞬間移動を使ったということは、自分の手で開けろという意味――なの、かしら)
 彼女がこのような儀礼じみた真似に拘るとも思えなかったが、そういう直感はあった。
 改めてみると、とても大きい。
 常ならば謁見の時は、扉の片方を衛兵二人掛かりで開けていたものだ。
 
 最早感慨など何の役にも立ちはしない。

 剣を鞘に納める。
 両腕を扉にあて、体重を乗せる。
 老木の嗚咽じみた軋みが城内に響き渡る。
 放つ音の奔流に反して、開く速度はとても緩慢であった。 
 頭を垂れ歯を食い縛ったのは、力を込める為か、それとも、待ち受けるさだめに耐える為か。
 頭が開けた空間に食い込み、肩が続き、両の腕が後方に置き去りにされる。
 身体が通り抜けて数秒後、後方でバタンと、扉の閉じる音がした。締め出された風圧がマントの裾と後ろ髪を撫でた。

「ひさしぶり……と言うべきなのかしら、ウィルマリナ」

 私を出迎えた第一声は、懐かしいひとのものだった。
 そこで思わず顔を上げてしまった私は、おそらく、覚悟が足りなかったのだろう。
 緩んだ頬がそこで凍り付いたのを、悟った。
 王座の傍に腰掛けていた彼女が目の前に来て、『まるで聖女の様に』手を組むのを私は呆然と眺めていた。
「ああ……天に召します我らが神よ……彼女を無事に送り出してくださったこと、心より感謝致します……♪」
 サーシャ・フォルム―ン。
 勇者のひとりで、貧民街に灯っていた温かな光とも言うべき人物。
 その余りの優しさゆえ、滅ぼすべき魔物の孤児院を作っているとすら噂された、類なき本物の聖女、
 
 だったもの。
 
 あくまでも敬虔な神のしもべ然としたその表情は淫堕に赤く染まり、祈りの形に握った両手の奥には、ほとんど露わになった大きな乳房が押し込まれていた。
 『さだめ』は、それに留まらなかった。 
「わっふぅ♪ ウィルマリナ、あの頃とまったくおんなじね、かぁわいい♪」
 舌なめずりをしながら近寄ってきたのは、ミミルちゃんやサーシャさんと同じ勇者の一員で弓の名手であったプリメーラ――プリメーラ・コンチェルト。
 ハーフエルフだったはずの彼女の四肢は獣の毛と爪、肉球に覆われ、大きな黒い尻尾に新しい耳のようなモノまで生じている。これらは総じて、ワーウルフ種の特徴だった。
 かつて誰にも心を開くことのなかった彼女が、媚びるように頬を緩め、長い舌を飼いならされた犬の様に曝け出している。
「へぇー……スゲェな、魔術のチカラってのは。でもライバルが増えるってことだし、おちおち喜んでもいられねぇな……♪」
 彼女は『あの人』の所属する部隊の長だったから、よく覚えている――メルセ・ダスカロス。
 一度訓練で手合せしたこともあったが、決着はつかず終いだった。もし終局まで縺れたとしても、無尽蔵とも思えた彼女の体力を鑑みれば決着はわからなかっただろう。
 そんな彼女の下半身は大蛇のそれとなっている。ラミア種には様々な魔物が属しているが、この魔力の発散具合から判断するにエキドナ――最上位の種族。洞窟の探索などで遭遇したなら、迷わず退けと言われる危険な手合いである。
「まぁ、そこのところは個人でがんばるしかないよねぇ〜♪ 取られないように、さぁ♪」
 部屋の外で瞬間移動を使ったミミルちゃんもその場にいた。
 あれほど強大に思えた彼女の魔力も、この修羅場においては『構成要素』になり下がってしまう。
 それが恐ろしい。
「ふふふ、でも、私たちの番になった時のことを考えると、胸が熱くなってきませんか……? ああ、あの方に為す術も無く犯される私……♪」
 王座に腰掛けたまま身を捩らせているのは――フランツィスカ・ミステル・レスカティエ。
 教国の第四王女で、力無く、勇気無く、それ故立場も無かったおひと。
 『あの人』がノースクリム家を去ると同時に私も彼女の元を離れてしまったため、一人ぽっちに逆戻りしてしまったおひと。
 偶の会食で顔を合わせる度に顔色は悪くなり、近頃は体調不良を理由にほとんど姿すら見せなかった。
 内心胸を痛めつつも王族の誰一人彼女を顧みることが無かったため、こちらから話題にも出来なかった記憶が甦る。
 無論そんな事情は言い訳に過ぎない。
 だが本心では謝りたかった。
 『あの人』抜きでも、かつてのように振る舞うことが出来ればと、何度も後悔した。
「戸惑うまま、理屈もしきたりも倫理も無く、不安と諧謔と快楽が綯い交ぜになって犯される……♪ ああ、待ちきれない!!」
 しかし今の彼女には、かつての陰も儚さも、ひと欠片すら感じられない。
 ドレス状に纏った触手を打ち震わせ、恍惚とした表情で芝居がかった台詞を歌い上げる。
 恍惚と妄執に満ちたその表情は、以前の彼女を知った者には想像もつかない、毒々しいまでの風格を感じさせた。
 そもそも彼女に流れていたのは漆黒の血脈で、それ故教国という光の中で埋もれてしまっていたのではないか――そう疑ってしまうほど。
「ふふ……♪ お待ちなさいな、女王様。ちゃあんと、皆の分も『召喚』してあげるから♪」
 それでも――女王の威容を得たフランツィスカ様にも、揺るぎなき黒幕が存在した。
「あなたは……」
 柄に掛けた手が震える。
 その姿は、記憶の断末に映った淫魔と同じ。
「……また会ったわね♪ それとも、初めましてと言うべきかしら♪」
 その声は、鼓膜の切れ端を震わせた振動。
「自己紹介は、済んでいたかしら?」
「――間に合っています」 
 デルエラ。
 魔界第四王女。
 魔王の娘――リリム達の中でも過激派。
 何より、私を打倒した魔物。
 それが、フランツィスカ様のいる王座の真上に浮遊していた。
「元気そうで何よりだわ。よく眠れたかしら?」
 その白々しさに、怒りすら通り越して呆れてしまう。
「ええ、いい休息になりましたよ」
 眼前の淫魔は、微笑はそのままに首を傾げた。
「何を、しているの?」
「決まっているじゃないですか。教国の侵略者を打倒するのです」
 私が答えると、デルエラは驚いたような素振りを見せた後――神妙な顔をして言った。
「もう王座は落ちた。軍も壊滅、市街地はとうの昔に占拠されている。加えて教団はこの国の奪還をほとんど放棄した――体裁を保つための傭兵は定期的に駆り出されているけれど――あなた一人が闘ったとして、意義のあるものにはならなくてよ」
「勝敗など関係ありません。私の行為はただ、神への忠誠が為せる業なのでしょう」

「嘘ね」

 デルエラが呆れたように呟いたのを、私は聞き逃さなかった。
 どころかその科白は寸鉄の様に私の心を留めて、逃れることを許さなかった。 
「貴女に、真に神への忠誠があるのなら――教団の本部まで撤退するでしょう。頭の良い貴女なら、この場で感情に任せての殉教などは選ばない筈。勝利の為、苦い肝を嘗めるような一時の苦しみにも耐える筈」
 急所を突いた物言いに身が竦んでしまう。
「ああ、でも――そうね、これはこれで、まさしく貴女らしいわ」
 一人合点と、取り戻した微笑を見せられ、私は混乱する。
 そして――先程から密かに募らせていた違和感を、私は遂に口にした。
「貴女たちはさっきから、何を言っているの? 取るだの取られないだの、『私らしい』だの――意図が読めません」
 今度こそ――デルエラは呆気にとられた顔をした。
 魔界の実力者たる彼女にそんな表情をさせて一矢報いたような気分になってしまった自分が、可笑しかった。
 彼女は眼下のミミルちゃんに聞いた。
「ミミル――貴女、まだこのコに説明はしていなかったのかしら?」
「ん〜……あっ、忘れてましたぁ♪ あんまりにもうまくいっててうれしかったんですよぉ♪」
「……あらあら」
 能天気に答えた幼い魔女に、デルエラはただ苦笑していた。
「どういうつもりですか」
「ごめんなさいね、ウィルマリナ。私はただ――」
 デルエラはニコニコと見下しながら告げた。
「『貴女』が思考を疎かにするなんて、『あの人』についてのこと以外、あるわけないわねぇ、ってことを言いたかったの♪ だけどミミルったら貴女に……」 

 ――――――――

 思考が、白熱した。
 会話から隙を探す――その為の集中が一瞬で溶けた。
 不意打ちを堪えるため、鞘を抑えていた左手の親指が、いつのまにか、にじり出た刃をなぞっていた。
 その痛みすら忘れ、直感した。
 彼女は『勇者』ウィルマリナの敵ではない。
 『私』の――ウィルマリナ・ノースクリムの敵だと。
「彼に」

「彼に何をしたあぁっ!!」

 叫びはさざ波の様に反響した。
 剣は狼の牙の様にギリギリ唸っていた。
「フフ、『彼』だなんてお行儀のよい呼び名で、あなたは満足なのかしら?」
 お喋りを邪魔されたにもかかわらず、デルエラは談笑している最中の機嫌で問い掛けてきた。
 つきあえる程の余裕は無い。
「彼のことを口にするな!! お前に、その資格はない!!」
 血が沸騰したかのように、塞がりかけていた額の傷が開き、視界が赤く煙る。
 不意打ちの算段などは忘却に追いやられ、躍り出た剣の切っ先は淫魔の美しい顔を見据えた。
 彼女の赤い瞳に私の姿が映っている。
 髪は乱れ、全身は煤と滲んだ血に汚れ、教会の洗礼を受けたマントも防具も衣までもが煤けていた。
 だが私の眼光は、獣の油で立てた松明の様にギラギラと輝いている自覚があった。
 食い縛る歯は、竜の咢(あぎと)にも似て力に溢れていた。
 デルエラはそのような私を見て、赤い目を喜びに見開いた。
「そう。今の貴女は美しい……♪ 下らない体面や体裁を脱ぎ捨て、ひとりの愛する男の為に怒っている今の貴女は……でもね?」
 白い翼を翻し、デルエラは私と同じ目線まで降り立った。
 剣の切っ先は、赤い魔石の輝く胸元を向いていた。
 それにも拘らず、彼女には一切の迷いも怯みもなかった。寧ろ私の方が気圧され、呑まれていた。
 敵の急所を取っている絶対的有利な状況のはずなのに、それが命中するというビジョンは、まるで見えなかった。
「資格と言うのなら……今の今まで、貴女に『彼』を語る資格があったのかしら?」
「なっ……」
 呼吸を忘れていた。
 額の真ん中を撃ち抜かれたような、鉄槌にも似た衝撃が私の中を通り抜け、後方の扉にぶつかって消えた。
「『彼』が別たれてから長い間、教団や父親の方針、世間的な立場なんて愚にもつかない束縛を甘んじて受け入れていたのは、他ならぬ貴女。幸運なことに再会できた後も、迷うばかりで踏み出すことはなかった」
「違うっ!! 私は、彼のことを考えて……」
「『彼』が何故聖騎士団に入隊したのか、考えてみたことは?」
 瞬きを繰り返す私の前で、淫魔は翼と共に両腕を広げた。
「お金を稼ぐためなら、割のいい仕事は幾らでもあったはずよ。これだけの大きな国ですもの。それに、『彼』は育った孤児院の手伝いもしていたらしいけれど、団員になれば兵舎での寝泊りだから、往復するだけでも大変ね」
「う、うるさい!! 貴女に彼の何がわかるっ!!」
 はぁ、とデルエラは溜息を吐いた。その仕草は余りに人間臭くて――不覚にも、子供を労う母親を想起してしまった。
「でも『彼』は、孤児院への入金と世話をやめることはしなかった……そうまでして聖騎士団に入ったのは、どうしてだと思う?」
「うるさい、うるさい……」
 私はうわ言を繰り返す。
 そして気が付けば、デルエラの目と私の目は通じていた。
 どうしてだろう――淫魔の視線は絡み合うような媚態を込めているのが相場の筈なのに――今の彼女はまっすぐに私を見据えている気がした。
 突き出した腕が、掲げていた剣が、だらりと垂れさがった。
 問いに答えなければならない。
 そう感じた。
 ありえないと――絶対にありえないと思ってきた答えが、私の中にある。
 今はその一つしか浮かばない。
 そして彼女は、この答えを求めている予感がした。しかし『告げるのは自分ではない』と思っている。
 そういう直感があった。
「さて、そろそろ『貴女』 の正体を教えてあげないとね……♪」
 先程まで見せていた真摯さは露の様に消え失せ、再び淫靡な雰囲気を振りまいて、髪をかき上げる。
 その仕草で我に返り、剣を構え直した。
「か、彼はどこなのっ?!」
 しかし彼女は翻って飛び上がり、ローパーと化したフランツィスカ様の居る王座の背後――部屋の隅にある、王の寝室の扉の上まで移動した。
「この扉の向こうにあるわ、『貴女』が知りたい答え、知るべき答えの全部が……♪」
 私はその声を聞いた後、辺りを見回した。
 ミミルちゃん。
 サーシャさん。
 プリメーラ。
 メルセさん。
 フランツィスカ様。
 彼女達の動く様子はなかった。
 ただ、私がどう動くかに、あかい視線を集中させていた。
「――――――っ!!」
 駆け出し、広間の中心を突っ切り王座の隣を走り抜ける。
 フランツィスカ様とすれ違う刹那――彼女は身を乗り出し、私の耳朶に唇を寄せた。
 粘液で濡れた言霊は私の中に滴り落ち、心臓に流れ込んで――やがて溶けた。


 

「あ……あふぁ……♪」
 背後から突き上げてくる彼へ、肩越しに舌を送る。
 するとすぐ私の意図を理解して、彼も口を寄せてきた。お互いの涎と愛液でとうに濡れそぼっていた唇と舌は、ぬちゃぬちゃ泥の様な音を立てて触れ合った。
 これが、好き。
 座ったまま全身を抱きすくめられ、上も下も繋がってひとつに――どんどん大きくなってゆく炎にも似た、情熱と安心感。
 それに包まれている間は、私を脅かすものはなにもない。
 ただ焦がされてゆくだけ。
「あ、んっ♪ あむ、んちゅ、ちゅ……♪」
 まるで二人でスライムになってしまったみたい。
 そうしてそのまま、彼のモノが私の中で爆ぜた。トプトプとお腹の中に注がれる精液は、今日で何回目だっただろう……
「んくぅぅぅぅぅぅ……♪」
 多幸感に身を委ね、私は鳥の様にさえずる。
 いつもなら他の娘に負けないよう焦って交わるのだけれど――今夜に限っては、その必要も無い。
 彼と、『私』だけだ。
 みんなには申し訳ないが、でもみんなにもそれぞれ『自分の番』は回ってくる。だから、今夜ぐらいは我慢してもらうしかない。
 もっとも――自分がお預けになった夜のことを考えると、それだけで、心が冬の様に冷たくなってしまうけれど。
「はぁ……はぁ……ねぇ、あなたぁ」
 背後から胸と繋がったままの下半身をこねくり回す彼に、私は囁いた。
 が、一度離したその舌は、再び、容易く、絡め取られてしまう。
 頭を引き寄せ、髪を梳くその手に堪らない愛おしさを覚えてしまう。
「んん〜〜〜っ♪ も、もう、んちゅっ♪ イタズラばっかりなんだからぁ……♪」
 彼から求められるということの、何にも代えがたい幸福が、伝えたかった言葉をあっさり放棄させた。
 どの道、まもなくわかることなのだから問題はなかったのだけれど――と思っていたら、次の瞬間に彼は私の顔を解放した。
「……どうした?」
 ――顔と顔の間に入り込む空気が、少しさみしい。
 私は彼と正面から抱き合うように体位を変え、口付を交わしながら問い掛けた。
「どうして今日、んん♪ 急に二人きりに、してもらえたと思う?」
 薄紅の瞳に幾らか理性を取り戻して、彼は押し黙った。その間も、胸を這い回る指と突き上げる腰はゆるゆると動き続けていたので、私は犬の様な喘ぎを上げながら待っていた。
「確かめたいことがあるって、デルエラ様が言ってたのは知ってる。ただ、驚く反応がみたいとかいって内容までは……」
 そのままじぃっ、と私を見つめてくる。
 その視線だけで、胸の奥が疼いた。
 でも、私のときめきに比べて、彼の表情はちょっと物足りない。
 ちょっと意地悪してみようかとも思ったけれど、すぐ、その時間がないことを悟った。
(ドクン……ドクン………してる!! 私の中で、何かが!!)
 感覚でわかる。
 身体という殻を突き破り、魂が抜けていきそうな衝動。
 隣り合った二つの水溜りが、その間に打たれた一滴の雨垂れによって惹かれ合うような心地。
 近付いてくる。
 『私』が、目と鼻の先に居る。
 今、ドアノブを――握った。
 捻った。
 そして……躊躇いがちに押した。


 部屋の中には大きなベッドがあり、一組の男女がそこで絡み合っていた。
 腹の奥に火花の様な一瞬の熱が奔ったが掻き消えた。
 私は、彼を呼んだ。
 彼は返事出来なかった。
 私は目を見開き、一歩踏み出した。
 私は息を呑み、もう一歩踏み出した。
 私は唇を噛み、更に一歩踏み出した。
 私は目を瞬かせ、最後に一歩進んだ。
 私は膝を着き、剣を落とし、涙を流した。
 彼の目が、赤い色に染まっていることを認めたようだった。
 ああ、結局、守れなかったのだ。
 「世界」を救えば「あなた」も救われる――そんな償いは、希望は、独り善がりであったことを。
 否、もし、それが正しかったとして――「世界」を救うことが出来れば「あなた」も救えたとして、どの道。
 そうはならなかった
 それで、この話はお終いになってしまうということを。 
「ウィルマリナ」
 誰かが私の名前を呼んだ。
 私は面を上げた。
 その声には聞き覚えがあった。
 声の主は、彼と抱き合っている女だろう。そしてそれは、淫魔に違いない。王座の間で散々見せつけられた悪夢は、今もなお彼に纏わりついていた。

 声に、ききおぼえ?

 そんなものじゃない。
私は『晩鐘』に気付く。
 それは危険だと鳴り響く。
 それはドラゴンの咆哮よりも鋭い本能によるものだ。
 それは彼と抱き合う女が振り返る刹那、狂ったように理性を掻き回して――もろとも、粉微塵に消えた。

「ああ、やっと来た♪」

 彼に抱かれていたのは『私』だった。

 意味が分からない。
 快楽でぐちゃぐちゃになった顔すら拭わず、蕩け切った表情で、『私』はこちらを見つめていた。
「んん―、驚いてるわねぇ。自分と同じ顔をしている者が目の前にいるのですもの……しかも♪」
 『私』は上体を持ち上げ、彼と繋がっている部分を見せつけてきた。
 ぬちゃあっという音が無音だった室内を渡り、獣臭さすら感じさせる饐えたにおいが私の鼻先をくすぐる。
 でも、顔を背けることなどは考えもしなかった。
 私はただ、青銅の像であった。
「最愛の彼が目の前に居て、しかも『自分じゃない自分』と愛を交わしている……こんな状況、説明されてたって頭が追い付くはずもないわ。それがたとえ、魔物のチカラだとしても」
 耳に入る声が、私の意識を僅かに呼び戻す。
 それは彼の呟き。 
「まさかここまでとは、思わなかった。『ウィルマリナ』を思いだしておけって、こういう意味だったのか。でもこれは……」
「どういう意味、なの」
 彼の言葉に割り込むように私は言った。
「王座の間で、教国が敗北したことは知った……兵団のみんなやフランツィスカ様も魔物になってしまって、そして……あなたも魔物になってしまったことは」
 一度に全てを言うことは出来なかった。
 鼻がツンと痛んで、枯れたと思った涙が、止まらない血の様に顔を走っていた。
「……今、わかりました。でも。なぜ。どうして」
 口にすることさえ恐ろしい現実を――あるいは悪夢を――問う。
「『私』が二人もいるのですか? 淫魔の気を撒き散らしている『貴女』が偽物なのですか? それとも、陥落した教国において、未だ淫魔じゃない『私』こそが、偽物なのですか?」
 涙に滲んだ視界の果てで、見間違いでなければ、彼は、痛切な顔をしていた。
 そして目の前の『私』にも。
 ほんのかけらほどだけど、それが感じられる気がした。
「初めに、断っておくね?」
 暫く噤んでいた口を開き、教え諭す様に『私』は言った。
「『貴女』も『私』も、どちらもまぎれの無い、本物よ」
「嘘はやめて下さい。この期に及んで甘言に乗る気など……彼の傍に居て良い私は、本物の私だけ」
 剣を抜く。
 切先はどちらに向けるべきなのだろう。
「私は誰なのですか? 魔に堕ちた『勇者』を前に、今は亡き『勇者』の恰好をして――かつての勇者と同じ顔を突き合わせている、この私は誰?」
 堰を切ったように内心が吐き出されてゆく。それは風化し、ポロポロと剥げ落ちる死骸の毛皮にも似ていた。
 だけど……答えは出ていた。
 確かめるように、或いは自分を納得させるように、わらった。
 そんな私の内心を察したのか、目の前の『私』はもう一度言った。
「どちらも本物だって、言っているでしょう?」
「私、気付いています」
 両手でつかんだ剣を、自分の胸に向ける。
「『貴女』の表情が、いつだったか私が幸せになったことを想像した時のそれとそっくりですもの。その喜びは――彼と共にいる喜びは、本当の私以外では、描けません。なら」
 筋肉が収縮した。
 窓から月が滴った。
 剣先が光に身を翻し私の目を眩ませる。
 それでも剣を止めることはない。
 白熱した視界を飛沫が洗う。

 
 痛みはなく。
 感触があって。

 彼がそこにいた。


 腕は確実に折り畳まれ。
 剣は確実に肉を裂き。
 血は確実に溢れ。
 昂ぶった神経は殆ど暴走しているけれど。
 それでも、痛みはないように感じられた。
 私は息を呑むことしかできない。
 漂った沈黙はどちらが所有していたのだろう。
 ただその間に、私は顛末を目で追った。
 彼の顔が、伸びる腕が、事実を物語る。
 剣は私の胸を逸れ、爆ぜた血は私のものではなかった。
 彼が寸前で、剣の軌道を変えたのだ。
 彼の指に食い込む刃を見て、私は狼狽する。
「…ぅして」
「どうしてなの」
 剣はもう、偽物を貫いてはくれない。
 彼の傍に居て良いはずのない、私という贋作は、消える機会を失ってしまった。
 彼の強い目を見て確信した。
 彼は、私を、無くさせない。
「どうして? 王座は簒奪され、軍も壊滅し、勇者だけが人間だなんて、ありえない。だったら目の前にいる『魔物の私』が本物で、私は」
 その先は彼が遮った。
「お前が自分の嬉しい顔を知ってるっていうんなら、俺はお前の嬉しい顔も、悲しい顔も知ってる」
「事情はうまく呑み込めないが、目に映るどちらもが俺には本物のそれにしか見えない。そして俺はウィルマリナが傷つくのを黙って見ていられない」
「だからぁ、どっちも本物だって言っているでしょう?」
 『私』がベッドから飛び出し駆け寄ってくる。
「んもう、怪我しちゃってる……♪ ぺロ、ペロッ」
 血の流れる彼の指をくわえながら、上目遣いに『私』はこちらを睨んだ。
「分身薬、って知ってるでしょう?」
 予想外の言葉に、私は一瞬この状況を忘れてしまった。
「え、ええ……勿論、知っています。サバトの者により作られた魔法薬」
 教科書通りの回答に満足したのか、『私』は肯いて続けた。
「そう。貴女は、それで生まれたもう一人の私なの」
「ま……まさか!! あれは男性専用の薬のはずです!! それに……魔物の貴女から、魔物じゃない分身が出来るなんて」
「かなり大変だったみたい、一度出来上がった術式を変更することは。万が一にも失敗できないし、試行錯誤の繰り返しで、あの意地っ張りなバフォメットが何人もそれぞれのおにいちゃんに泣き付いたとか♪」
 『私』が口を離すと、彼の指の出血はすっかり止まってしまっていた。
「その努力の結果、女にも効果のあるようになり、更に対象の年齢まで操作できるようになった――とデルエラ様が言っていたわ。詳しいことは私にも分からないけれど」
「でも……でも!!」
 私は反駁する。
 そんなに――そんなに都合の良いことがあるはずない。
「じゃあ、聞くわ」
 葛藤に悶える私へ『私』が口を開いた。
「自分を偽物だと言うけれど、貴女のその、『彼』を想う気持ちは偽物なの?」
「……!!」
 その問い掛けは、余りにも真摯だった。
 『私』なら――私にとって誤魔化せる問いと誤魔化せない問いがあることを、当然知っているのだろう。
 私とは似ても似つかないワインレッドの瞳の奥に見えたのは、果たして何の色だったか。
「……ぅ」
 言葉の代わりに涙が流れ、嗚咽で唇が歪んだ。
 だけど、言わなければならない。
 たとえ私が偽物だとしても。
 今胸の中にあるこの心は。
「違う……それは……それだけは……っ?!」
 全てを言い終わる前に、私の身体は力強く引き寄せられた。
 その腕の主は、言うまでも無く。
「ウィルマリナ」
 あらゆる否定を受け止める寛容さで、彼は言った。
 いや、それは強引さなのかもしれない。
 私がどんな否定をしようと受け止める、もう逃がさない、という。
「――ウィルマリナ」
 ああ。
 人間だの魔物だのということに拘泥していたのは、いったいなんだったのだろう。
 想い人がくれる暖かさに違いはないというのに。
 彼の胸に抱かれ、私はその背を抱き返す。名前を呼ばれるというただそれだけが、何にも代えがたい。
 国は亡び、月日を越えて、世界の極北で漸く、私は彼と出会えたのだ。
11/12/13 03:05更新 / ももんが2号
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■作者メッセージ
今宵「あれ……ウチの出番なくない?」

健康クロス様的な発想でいけば人間時代のキャラは野暮なのかもしれません。
しかし――あの優れたデザインと「素直になれない事情」を使わない手はないと考えて、人間時代のウィルマリナさんを主役としました。一応のフォローは後編に入れるつもりなので、ご理解頂けるとありがたいです。

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