ザアザアと強くなる雨足から逃げるように、早足で駆ける。
　目指している先は商店街の裏手にある小さな割烹。
　漸くたどり着いた店先で傘を叩いて水滴を落とし、カラカラと扉を開けた。

「失礼します。空きありますか？一人です」
「いらっしゃいませ。お久しぶりですね。空いてますよ、あちらにどうぞ」

　席が少ないので駄目かと思っていたが、予想に反してお客さんは一人もいない。

「飲み物は何になさいます？」
「熱燗を…二合で」
「熱燗を二合ですね」

　温められた手拭いで顔を拭き、一息つく。生き返るようだ。
　親父臭いが、冷たい雨に打たれた後では誰も文句は言えないだろう。

　…

　お酒が届くまでの間にお品書きを物色した。何度か来たから分かるが、相変わらずここは
　川の幸の取り扱いが多い。
　鮎や鰻といった定番やアマゴ、イワナ等のあまりお目にかからないもの、
　ドジョウやすっぽんという珍味など実に多彩だ。

「お待たせしました。ご注文はございますか？」
「鰻巻き、アサリとキャベツの酒蒸し、小松菜のお浸し、とりあえず以上で」
「…はい。ありがとうございます」

　いつもなら賑わっている時間だが、天気が悪いからなのだろうか閑散としていた。
　梅雨時といえど今日のように風雨が強いと、陽気に慣れた体が寒さで震える。
　温かさを染み込ませるように熱燗を傾けながら、ぼんやりと女将さんを眺めた。

　…

　駅前商店街の裏にあるこの割烹は、カウンターが８席ほどしかないこじんまりとした店。
　繁盛時でもお手伝いさんは見たことがないので、彼女だけで切り盛りしているのだろう。
　仕事帰りに偶々見つけ、２ヶ月に一回ほど飲みに来ている。

「…どうぞ。鰻巻きと小松菜のお浸しです。酒蒸しはもう少しお待ちくださいね」
「ありがとうございます」

　待ってましたとばかりに鰻巻きに箸を伸ばして口に入れると、じゅわりと
　玉子から出汁が溢れた。噛み締めていけば蒲焼にされた鰻のコクが出てきて、
　薄めの出汁と混じり合い、実に良い。

　熱燗で口を流して次はお浸しを取る。鰹節がのっている小松菜をつまむ。
　掛けられている、すだちが少し入った醤油が高く香りだち、小松菜の青さと合わさって
　口の中に清涼な風が吹いた。
　自分が作ると青臭さがよく残るのだが、これは全く違う。

　料理を頬張り酒を楽しんでいると、笑顔の女将さんに見られていた。

「うふふ」
「えっと…」
「作った料理を美味しく食べていただけますと、とても嬉しいのですよ」
「実際とても美味しいですし」
「もっと美味しいものが有りますけど、興味あります？」
「…何でしょうか？」
「ワ・タ・シ」

　…噎せそうになった。というか半分ぐらい噎せた。

　まあ何というか、ここの女将さんは男をその気にさせるのが上手い。
　おっとりとした優しげ美人なのだが、よくこういう風にからかったり、さりげなく
　腰をくねらせて尻を揺らして。
　で、それを見たいがために足しげく通うことになるのだ…と前に常連が教えてくれた。

　自分は専ら食い気の為なのだが、時折その所作を目で追ってしまって、
　後で頭を抱えたくなる事がある。

「お待たせしました。アサリとキャベツの酒蒸しです」
「ありがとうございます」
「少し相談したいことがあるのですが、かまいませんか？」
「？ええ、まあ大丈夫ですが…何かありましたか？」
「ご心配しなくても大丈夫です。お品書きでお話したいことがあるのです」
「そういうことなら」

　…


　片付けを終えた彼女の話を聞いてみると、すっぽん鍋を安くしますので食べませんか、という話だった。
　仕入れ先からとは別にすっぽんを貰ってしまい、在庫が普段よりも多いらしい。
　おまけに明日と明後日の土日は普段と違い店を閉めるそうで、どうしようか悩んでいたとの事。
　次の注文は特に決めておらず、腹具合はまだまだ満足に遠いこともあり、
　食べてみようと決める。

「ありがとうございます。助かりました。何かご希望はあります？」
「いえ、特には。…女将さんと一緒に食べたい、とか？」
「あら、それだけで良いのですの？私も美味しいのですけど」
「…」

　２度目はなんとか耐えきれた。

「うふふ。でも今日はこんな天気ですし、もう他にお客様も来られないでしょうから、
　早仕舞いにして一緒に楽しむのも良いですね。御一緒してよろしいでしょうか？」
「…喜んで」

　藪をつついて蛇を出すとはこのことかね…
　とはいえ、ここの常連が聞いたら血涙を流しそうなことなので、ありがたく受け取った。


　彼女が準備に戻ったので、その間やってきた酒蒸しを頂く。
　下に広がった汁は酒と塩気と貝からのダシだけだが、これをまぶしたキャベツを齧ると
　キャベツ自身の甘みと合わさって、大変よい塩梅。
　貝の身は汁にあれだけの旨みを出しながら、まだまだとばかりに旨さが弾けて、
　それが舌に広がる心地よさに蕩けた。

　…

　心ゆくままに酒と肴を楽しんでいると、やけに大きなカセットコンロが置かれる。
　次に来た土鍋に納得するも、この大きさは…

「なんか土鍋が結構な大きさなんですが…」
「ええ。頂き物が滅多にない大物でしたので。こちらの仕入値と同じでいいと言われて、
　つい買ってしまったのです。料理のお値段は安くしておきますので、大丈夫ですよ」
「いいんですか？」
「お客様はよく食べられますし、よく飲むでしょう。これぐらいはご贔屓しないと」
「まあそうですが…感謝します」

　…

　程よく煮えた頃合いに、取り皿とポン酢が配られる。

「もう大丈夫ですね。どうぞお召し上がりください」
「頂きます」

　鍋から取っていると、新しい盃が充てられた。

「折角だから乾杯しませんか？誘ってくれた御礼です」
「いやもう何から何まで…」

　軽く盃を合わせて乾杯。お酒を飲み干し、よく煮えた具材をいただく。

　それからは鍋をつつきながら楽しみ、新しく焼酎を頼むといいものがありますと勧められ。

　時折、
「このすっぽんを勧めてくださった魚屋さんは、『いい人に食わせて、
　しっぽりと楽しんだらどうだい？』とおっしゃっていたんですよ」
　と返答に困るお話をふられたり、
　脂がついた唇をぼぉっと見てしまって、それが分かったのかぺろりと艶めかしく動いた舌に、
　下半身が反応して慌てて目をそらすとか、楽しみながらもヒヤリとして。

　そうこうしながら、〆の雑炊を平らげ、お茶で一服する。

　…

　でかい。半端なくでかい。何を見ているかというと、女将さんの胸。
　割烹着の上からでも存在感抜群であったそれが、着物だけになると
　男に対する凶器といっても差し支えないほどで。
　熟して柔らかくなった果物が実っている、という形容がぴったりだった。

　少し屈めば、安産型の肉付きの良い桃尻が着物に線を浮かべる。
　それが左右にふりふりされると誘っているようにしか見えず、
　常連が鼻の下を伸ばすのもよく分かる。

　以前に三十代のおばさんだと小耳に挟んだが、その美貌はもっと若く言われても違和感がない。
　しかし脂ののった豊満な熟体は、若さだけでは出せない妖艶さに溢れている。
　それでいて不均衡からくる不恰好さが無く、蠱惑的で謎めいた不思議な人。

　酔いが入った頭で彼女をそう鑑賞…もとい盗み見ながら、時間を確認する。
　あまり遅いと電車も無くなるし、タクシーも捕まらないだろう。

　会計を済ませ、外へ出ようとして…


　───ザアザア、ゴウゴウ───


　…来たときよりも激しい嵐に、思わず扉を閉めた。

「すみません。もう少しここに居て良いでしょうか？」
「こんな嵐ですものね。ごゆっくりどうぞ」

　濡れ鼠では済みそうにない天気。出るのは諦めよう…
　帰れる状況にあるかどうかを、スマートフォンで確認してみる。

　…
　………

　大雨で家のある方向に向かう電車は、途中に流れる川の増水で運行停止中。
　多分タクシーもだめ。
　確認できる近くの宿泊施設もほとんどが満員で、今から行っても入れるかどうか。
　24時間営業の店で徹夜ぐらいならできるし、ネットカフェという手もあるが、
　こんな状況で空きはあるのかな…

「参ったなあ…」
「何かありました？」
「向こうの川の増水で、家への電車が止まっていて…宿泊できる場所もなさそうですので、
　どこかが空いていないと、駅前で徹夜になるかもと」
「それは…もし良ければ、ここに泊まりませんか？」
「さすがにご厄介になるわけには…」
「時々酔い潰れたお客様を介抱することがございますし、このまま外に出ると
　濡れて体が冷えてしまいますよ。お気になさらずにどうぞ」
「…少し考えさせてください」

　先程見た降水状況では、この状況が暫く続くと推定されている。
　少し収まったところで駅に着く頃には下半身がずぶ濡れだろうし、風も強いから
　傘が持つとも限らない。
　何時間も濡れたままでいるのは正直言って厳しく、ご好意に甘えることに決めた。

「すみません。泊まりたいと思いますので、よろしくお願いします。
　…こう言ってはなんですが、料金とかは？」
「そこまでご遠慮しなくても。明日にでも相談していただければよろしいかと思います」
「そうですね。…ご厄介になります。本当に助かりました」

　そう言って頭を下げた。

　…

　２階の居間まで連れられ、そこで待って欲しいとお願いされる。
　片付けと言って彼女が階段を降りるとき、チロリと舌なめずりをする、そんな幻影が
　一瞬だけ見えた気がした。