読切小説
[TOP]
空のお姉さんが、欲しかったこと
 「欲なんてもんは、それを満たした瞬間に後悔しちまうもんさ。食欲も、性欲も、睡眠欲も、人間の三大欲求なんて言われてるこれらでさえ、ヤッた後はあれ、なんでこんなことに必死になってたんだろうってなるんだよ」

「……はぁ、そうですか」

「あれ? なんか反応薄いな小僧。あ、もしかして図星か? 図星だな? 図星に違いない。まぁ小僧のことだから一人で元気よく性欲を満たした後、虚無感に苛まれてるんだろうなぁ、はっはっは」

 愉快そうに彼女は笑った。その美しい翼を広げ、はためかせつつ。

 俺と彼女、他には誰一人いない閉鎖された空間。鬱蒼と木々が生い茂る森の奥地で、俺達はいつも通りお喋りをしていた。

 そんな、人のこと馬鹿にして楽しんでいる彼女の態度から、思わずこめかみに指を当てて返事をする。

「あのね、そもそもなんですか。いきなり欲がどうだこうだなんて言われても、呆然なんですけど」

「で? 実際一日に一人で何回ヤッてんだ? まぁまぁ、小僧みたいな盛んで悩ましい年頃の男子だ。人外のお姉さんに思わず性癖をぶつけてしまうことだって、何も恥ずかしいことじゃねぇ」

「……はぁ、そうですか」

 呆れを込めて、わざと同じ返事をしてやった。

 何だか同情したような笑顔で俺を見るこの人外のお姉さんだが、本当に人の話を聞いていないようだった。

「で、欲がなんでしたっけ」

「だからさ、小僧の性癖は人外のお姉さんに自分の性生活を吐露してしまうことって、そんな話だろ?」

「そんな話はしてねぇよ」

 なんだよその特殊過ぎる性癖。

「はっはぁ、まぁあれだ。小僧の性癖はおいといて、その性欲ってのも含め、欲ってのは基本的にそれを達成してしまえば後悔するんだよって話だ」

「後悔、ですか……まぁ確かに、身に覚えが無いわけじゃないですけど。でも満足感とか、そういうのもちゃんとありますよ」

「そりゃ当然、あるだろうな。だがな小僧、それはその欲を満たしている最中のことだろ? 欲を満たし終わった後に残るのは、ただの虚無感でしかねぇ」

 大きな切り株に腰を下ろしている彼女はそう言うと、足をぱたぱたと愉快そうに振っている。

 地面に直座りしている俺はそんな様子を見上げつつ、その彼女の笑みに違和感を抱いた。

「なんか、妙にネガティブですね、今日は」

 後悔とか虚無感とか。

 ひょんなことから俺と彼女が出会ってから一ヶ月程度経つが、こんな言葉を彼女の口から聞いたことは無かった。

 予想だと、今日の彼女はもっとテンション高めの有頂天だと思っていたが、どうも違うらしい。

 俺の言葉を聞いた彼女は、少し目を丸くして、首を傾げた。

「ネガティブ……? あはは! そうか、小僧にはそう見えるか!」

 かと思うと、途端に楽しそうな笑い声を上げる。

 その様子に呆気に取られていると、彼女は再び口を開く。

「いや、すまんすまん、あまりに意外な言葉が出てくるもんで、驚いただけさ」

「意外って言うなら、俺も思いましたけどね。後悔とかなんとか……、むしろ、あんたは後悔なんてしないタチと思ってましたよ」

「おいおい小僧、それはあまりにも酷くないか? あたしだって後悔の百や二百……いや、三百かな?」

「多いなおい」

「まぁあれだ。とにかくあたしだって色々悩むことはあるんだよ。むしろ、あたし達の方が長命なんだから、百や二百なんてざらよ」

「長命ね……。人間は大体八十歳から百歳なんて言われてますけど、あんたらはどれくらい生きるんですか?」

「ん、あー……、言われてみれば、明確な寿命とかは聞いたことねぇな。まぁ種族によっても違うだろうが、あたし達ハーピィ属で言うなら、五百年くらいなんじゃねぇの?」

「五百……まぁ確かに、そんなに生きられるなら、後悔の一つや二つありそうですね。すみません」

「おう、解ればいいのよ」

 腕を組み、うんうんと頷く彼女。

 一つ区切りが付いたところで、先程の長命という言葉から、以前より彼女に聞いてみたかったことを思い出した。

 彼女と出会うまで……まぁ出会ってからもそうなのだが、彼女達について俺は何も知らず、長命というのも今初めて聞いたものだった。

 少し、今更になって彼女のことが気になった。

「そういえばなんですけど、あんた何歳なんですか?」

「ん? 今年で……十五だな」

 まさかの年下だった。

「はぁ!? 十五!? 十五でそれって……」

 彼女が十五歳と認識した途端、ふと彼女のその、魅惑的な引き締まった体へと目が向く。

 どんな成長速度だよ、と。

 すぐに目を逸らしたが、彼女は俺の視線に気付いたようで、何ともいやらしい笑みを浮かべ、前屈みになって自らの胸の谷間を強調し始めた。

「ははぁん、ピュアな純情ボーイにお姉さんのこの魅惑的なボディは刺激が強過ぎたか? ほれほれ、もう見る機会も無いかもしれんぞ?」

「いや、そういう意味じゃなくてですね……。っていうか、俺の方が年上だからお姉さんじゃないし」

「え、うそ、まじ? 十歳くらいだと思ってたんだけど」

 目を丸くし、心底意外そうな表情の彼女。

「まぁ、確かに童顔とは良く言われますけど、流石に十歳はないでしょ。……ん、待てよ、良く考えたらさっきの俺謝り損じゃないですか!?」

「は? な、何のことかな?」

 解りやすい惚け方だった。彼女は前屈みだった姿勢を素早く戻し、明後日の方向に視線を向けてそう言う。

 十五歳で後悔や悩みが百や二百あってたまるか。まぁ彼女達の生活環境をあまり知らないので、そこまで強くは言えないのだが。

 少しの間、ジト目で彼女を睨んでいると、何か良い言い訳を思いついたのか、「あっ」と小さく声を漏らしてから、彼女は口を開く。

「ほら、例えばさ、とある祭りの出店でりんご飴を買ったとしよう、だがたった数分先の出店で同じりんご飴が安く売られているのを見ると、後悔するだろう? 何故もう少し我慢しなかったんだと。そんな後悔も含めるとだな、まぁ百や二百に及ぶ訳で」

「……はぁ、そうですか」

「なんだよその呆れて何も言えないみたいな顔は」

「だってその通りですから」

 無理矢理紡ぎだした言い訳なのは解りきっているし、余計に突っ込み過ぎるのも流石に可哀想なので、早々に切り上げ、別の話題を振ることにした。

「それにしても、魔物娘も祭りとかするんですね」

 こちらとしては、単に彼女達についてもう少し知りたいが為の話題だったのだが、想像に反して彼女の反応は、あまり芳しくないものだった。

「ん、ああ……それか」

 その表情に、今まで見た事が無かった翳りが見られた。

「俺……何かまずいこと言いました?」

 もしかして彼女達にとって、祭りとは何か特別な意味でもあったのだろうか。

「いや、別に隠すようなもんんでもないんだけどな。その祭りってのは、人間達がやってた所に、忍び込んだだけなんだ」

 だからりんご飴とか出店とか、そういうのを知ってただけなんだよ。

 彼女はそう続ける。

「へぇ、よくやりますね。この国って結構あんたらのこと、危険視してるっぽいですけど」

「はっはぁ、まぁ、魔力さえありゃあたし達は人間の姿に化けれるからな。よっぽど用心されてなければバレねーよ」

 なんだか今、さらっと重大で恐ろしいことを言われた気がする。

「まぁその、なんだ、その時に、ちょっとな」

 途端に彼女の口の滑りが悪くなっていた。何とか笑顔を保ってはいるが、やはりその様子は、今まで見たことの無い陰鬱なものに見えた。

「正体がバレた、とかですか?」

「まぁ、間違っちゃいねぇよ」

「じゃあ正解でもなさそうですね」

「まぁ、そうなるな」

「…………」

 訪れる沈黙、俺は彼女への返答に少し悩んでいた。

 相変わらず切り株から投げ出された足を交互に動かしつつ、両腕の美しい翠の翼をはためかせるその仕草は、先程と比べると、幾分か弱弱しく、自信なさ気に見える。

「……話したいなら、聞きますけど」

 恐る恐る、俺は言った。

 悩んだ末の答えがこれだった。

 彼女はこの話を続けることがどこか嫌そうだったし、さらっと流して別の話題を振ることも出来た。今も直前までそうしようとしていた。

 だが、彼女のその仕草を見て、おかしな探究心が俺の心をくすぐりだした。

 彼女に昔、何があったのだろうか。彼女が今も後悔していることが、そこにあるのだろうか。それが知りたかった。

 溌剌な彼女に、こうまでさせるその出来事を、彼女と共有したかった。

 それは、彼女のことをもっと知ってみたいとする俺の探究心であり、言い換えれば、ただの好奇心で。

「……はっはぁ、長生きはするもんだな。まさかあたしがこんな小僧に身の上話を聞かせる破目になるとは」

 俺の言葉を聞いて、しばらく素っ頓狂な表情をしていた彼女だったが、いつもどおりの愉快そうに笑い声を漏らすと、そう自虐した。

 その笑顔を見て、少しだけ安心していた俺がいた。

「長生きって、あんたまだ十五歳でしょうが」

「十五年も生きてこれたんだ、立派な長生きだよ」

「……そう考えるのは、環境の違いですかね」

 人間より長命であるらしい魔物娘を、長く生きることが出来るという点のみで若干羨ましく思っていたのは否定できない。

 長く生きれるということは、魅力的だ。ただ俺はこの時、その長命ということだけで彼女達に抱いていた羨望感を、どこか恥ずかしく感じた。

「だろうなぁ。小僧、冗談抜きで死にかけたことなんて無いだろ?」

「そりゃ、無いですけど。やっぱりあんたらにとっちゃ日常茶飯事なんですか?」

「あたしはまぁ、結構な目に遭ってはいるが、そりゃ生き方にもよるんじゃねぇの? のんびり穏やかに暮らしてる奴もいれば、リスクを承知で人間の生活に紛れ込む奴もいるし」

 たしかにそれは、人間であっても変わらない。ただその割合が、人間と魔物娘では明らかに違うというだけなのだろう。

 ふと、彼女の言葉から更に一つの疑問を思い付いた。魔物娘をよく知らない俺だから思い付いた疑問だったとも言えるのかも知れない。

「そもそも、なんであんたらは俺らの街に紛れ込むんですか? どれくらいのリスクかは知らないですけど、結構な目に遭ってるんですよね?」

「そりゃお前、気に入った男を攫う為だろう。こういう森の中とかで待ち構えるよりは遥かに良い」

「……なんか物騒ですね」

 攫って、やっぱり食べたりするのだろうか。この一ヶ月間、彼女が要望してきた食料は肉オンリーではあったが。まさか、人肉も?

 ……今ここで食べられるなんてことは流石にないだろうが、やはり少し警戒した方が良かったのだろうか。

 まぁ今更警戒しようにも、出来ないのだが。

「あ、そういえばこれ、今日の献上物です」

 食料といえば、彼女への食料を忘れていたことを思い出した。
懐のポーチから布に包まれた生肉の塊を取り出し、布を解いていく。彼女の腕は肘から先は美しい翠の翼になっているため、こういう細かい作業はいつも俺の役目だった。

「お、はっはぁ、毎回わりぃな」

「まぁ、なんかほっとけませんでしたから。これ食べながらでも話してくださいよ、昔話」

 布を解き終わると、子供の頭くらいの大きさの肉塊がその姿を表した。家を出るときに一口サイズに切って、それを纏めて布に包んでいるため、一見ただの肉塊に見えるが、手で触ると肉塊から一口サイズの生肉を摘むことが出来る。

 その摘んだ生肉をひょいと、彼女の口の前まで差し出した。

「…………」

「……あれ、どうしたんですか」

 いつもなら嬉々として前屈みで食べにくるのだが。その時の翼とか足とかの動きがこれまた嬉しそうにバタバタさせて可愛らしかったりするのだが。
今日の彼女は俺の掴んだ生肉をじっと見つめると、不満げなジト目になっていた。

「おい小僧」

 あからさまに不機嫌そうな口調の彼女。思わず少したじろいでしまう。

「な、なんですか?」

「これ、なんだ」

「何って、生肉……」

「何の生肉だよ」

「何のって、そりゃ……鶏肉ですけど」 

 その瞬間、強烈な突風が俺の顔面へ断続的に吹き付けられ、思わず彼女の前に差し出していた生肉(鶏肉)を地面に落としてしまった。

「わっぷ、ちょ、なにす……」

 何かと思えば、彼女がその両翼を激しくはためかせて、俺に風を送りつけていたようだった。その表情は、やはり不機嫌というか、不満げだ。

「なぁ小僧。小僧から見て、私ってどう見える?」

 ようやく突風が止んだと思えば、彼女からどこか哲学的とも取れる質問。

「けほっけほっ、どうって……まぁ、綺麗に見えますけど」

「……おう、まぁそれはいい。それはいいとして、この翼見ろよ」

 そう言って、彼女は片方の翼を広げて見せた。

「この翼見て、私が一体どういう種族に見える?」

「ちょっと顔赤いですよ」

「うるせぇよ、さっさと答えろよ」

「ふぅむ……」

 顎に手を当てて、彼女の綺麗な体をじっくり観察する。両腕の美しい翠の翼、両足は膝から下が鷲のような勇ましい鋭い爪を持つ鳥の脚部に変形している。そんな彼女の体を見るに導き出される結論は……

「まぁ、鳥ですよね」

「だよなぁ! お前鳥の魔物娘に鶏肉食わそうとしてんじゃねぇよ!」

 珍しく、というか初めて彼女が語気を強めていた。

「え、やっぱ鶏肉ダメだったんですか?」

「ダメとかそういう問題じゃねぇだろ。っていうかお前やっぱってなんだよ、解ってて持って来たのかよ」

「でもほら、鳥と鶏って字違うし。俺ら人間は哺乳類ですけど同じ哺乳類の牛とか食べるし」

「いやまぁそりゃそうなんだろうが、何か気分悪いだろ。仮にも鳥のあたしが鶏肉食べるって、何か嫌だろ」

 ばさばさと、小刻みに両翼をはためかせる彼女。この一ヶ月で解ったことだが、どうやら彼女は感情表現を翼で表すのが癖らしい。

 しかし、どうしよう。とぼけていたが、実は鶏肉は今俺が落としてしまった一つだけで、後はちゃんとした牛肉なのだった。

 冗談のつもりで出してみたのだが、ここまで面白く反応されると、年下ということも判明したからか、もう少し弄ってみたくなる。

「あ……そうですよね、なんか、すみません。折角今日は奮発して、いい肉持って来たんですけど……無駄になっちゃいまいしたね」

 ということで、俯いて、見るからに落ち込んだ様子で残りの生肉を再び布で包んでみた。

「え? あ、ちょ……」

「これ、持って帰っても腐るだけなんで、捨てときますね。食べてもらいたかったけど、仕方ないですよね」

 その後、はぁ……と、わざとらしいため息も吐いておいた。
肉を包み終わって、少し視線を彼女の方に向けてみると、翼が不規則に揺れ動き、あからさまな挙動不審になっている。

「ま、まぁ待て小僧、別に言ってない。あたし、食べないなんて言ってない」

「え、でも、嫌なんですよね。それなのに食べてもらうわけには……」

 そう言うと、彼女はぴたりと挙動を止め、口をへの字に曲げて見せた。だがそれは不満げな顔というよりも、叱られた子供がいじけているような、そんな幼さが見えた。

「いやまぁ嫌だけど、嫌だけどさ。別に食べれないことはねぇし、お前にそんな風にされると、もっと嫌、というか……どうせ嫌なら、マシな方を取るってだけなんだが」

 そっぽを向いて、翼の先端だけを器用にはためかせる彼女。

「……ぷっ、くっ……!」

 ここで、堪えきれずに思わず笑い声。

 俺も明後日の方向を向いて腕で顔を隠すが、彼女には聞こえていたようで、今までの子供のような仕草が一変し、不機嫌そうなジト目になっていた。

 視線が痛いが、まだ表情筋が元に戻らない。

「……はっはぁ、小僧、やるようになったじゃねぇか。まさかあたしで遊ぼうとするとはな」

「くく……、はい、すみません、からかってました」

 遊ぼうとするというか、完全に遊ばれてましたよあんた。

 とは口が裂けても言えないが。

「ま、まぁというわけで、はいどうぞ」

 緩く締めておいた布を解き、今度はちゃんとした牛肉一切れを彼女に差し出す。

「ふん、やっぱりちゃんと用意してたんじゃねぇか」

「鶏肉は流石にまずいかなって思ってましたから。ああでも、この牛肉は本当に今までで一番良いやつですから、そこは安心して下さい。食べさせたかったってのもマジですよ」

「……おう、そっか」

「顔赤いですよ」

「だからうるせぇよ」

 両腕が翼の彼女は、物を掴めない。なので一人で食事する時はいつも地面に食料を置いて、口で啄むように食べるらしいのだが、流石にそんな光景を見せ付けられて何も思わないわけではない。ということで、この一ヶ月間は俺の手のひらに乗せて差し出した一口サイズの生肉を、彼女が前屈みになって食べるという行為をしてきた。

「はむ……」

 今回も今までと同じように、前屈みになった彼女が俺の手のひらにある肉を一口で持っていく。手のひらに伝わる彼女の柔らかい唇と吐息の感触が、少しくすぐったい。

「うん、まぁ、中々美味いんじゃねぇの」

「そりゃ良かったです。奮発した甲斐がありました」

 拗ねた様子でそっぽを向いている彼女だったが、ばたばたと翼は嬉しそうにはためいていた。体は正直とはこのことだ。

「で、何の話でしたっけ」

「ああ、あたしの身の上話だろ? ……はむ」

 続けて肉を差し出すと、間髪入れずに彼女の口がやってくる。これがちょっと面白かったりする。

「いつの間にか話ずれてましたよね」

「はっはぁ、ずらしたのはお前だろ」

 まぁ、そうなんだけど。

「別に、話したくないなら話さなくてもいいんですよ?」

元々、彼女のことがもっと知りたいという俺の身勝手な好奇心から出た話だ。先程彼女はああ言っていたが、別に嫌というのなら、それはそれで構わなかったりする。

「おいおい小僧、それは逆に――はむ……それは逆に、聞きたいと言ってるようにしか聞こえねぇよ」

「喋るか食べるかどっちかにしてください」

「お前も中途半端なタイミングで出すんじゃねぇ」

 わざとではあったが、一応以後気をつけるようにした。

「まぁ、小僧がどうしても聞きたいって言うなら仕方がねぇ。小僧の欲を満たす為にお姉さんが一肌脱いでやるとしよう。折角だ、欲を満たした後にたっぷり後悔していけよ」

「そういえばそんなこと言ってましたね。俺、その説あんまり信じてないですけど」

「はむ……。はっはぁ、なら初体験だな小僧。因みに私もこの話をするのは小僧が初体験だ。初モノ同士だな、光栄に思えよ」

「十五歳の昔話初体験を光栄に思えって……、いやまぁいいですけど」

 機嫌は良質な牛肉効果もあってかすっかり良くなったようで、また牛肉を乗せた手のひらを差し出すと、彼女は嬉々とした表情と翼の動きで肉を口で持っていった。

「まだいります?」

「まぁ、今はいい」

 ということなので、外気に曝け出していた肉塊を布で軽く包んで保護しておく。

「さて、どこから話したもんかな。……そうだな、小僧、お前、家族っているか?」

 もう昔話とやらに入ったのだろうか。それにしては、それとは無関係に思える質問が、唐突に飛んできた。

「え、まぁそりゃ、いますけど」

「その家族のうち、親父でも、お袋でも、兄貴でも、妹でも、誰でもいい、一人が突然いなくなったら、どう思う?」

「そりゃ……嫌ですよ」

 今も俺の街にいる妹のことを想像して、自然とそう答えていた。

「はっはぁ、そりゃそうだろうな。人間として、当たり前な答えだ」

 その、人間として、という部分に妙な引っかかりを覚えて、思わずこんな問い掛けをしてしまっていた。

「あんたには、いるんですか? 家族」

「いるにはいるんだろうが、まぁ、どこにいるかは解らねぇな。それに、顔も覚えてねぇし、もし会ったとしても、家族なんて実感は湧かねぇだろうよ」

 ということは、彼女の身内が亡くなった話とか、そういう最悪の展開では無いらしい。

 良かった、聞いておいて何だけど、本当に良かった。

「まぁ結論から言うとだな小僧、この話のオチは、家族とか恋人とか、親しい奴が突然いなくなるのは誰だって嫌だよなって話だ」

「はぁ……そうなんですか」

 論理的思考に基づいて結論から言ってもらって非常に恐縮ではあるのだが、結局彼女が何を俺に伝えたいのか、良く解っていなかった。

「あたしが、人間の生活に紛れて暮らしていた話はしたな?」

 ぱっと心当たりが無かったので、記憶を思い返して、彼女の台詞を反芻してみる。

「……人間の祭りに忍び込んだってのは聞きましたけど、それですか?」

「ああ、それそれ。祭りに忍び込んだっていうか、元々その人間達の街で、人間に化けて生活してたんだよ。大体、半年くらいか?」

 その半年とはつまり、その街で彼女が魔物娘だと発覚した時なのだろうと、自分の頭を整理しておく。

「当時のあたしは、まだ恋なんて未経験でな。でも魔物娘の性なのか、どうも男を攫うとか、そういうところには興味があった」

「はぁ、そうなんですね。……ん? え?」

 折角整理していた頭が、途端に混乱し始めていた。というのも、彼女の言っていることが、支離滅裂だったからだ。

「ん、どうした小僧」

「いや、気に入った男を攫うとかは聞きましたけど、その前の、恋ってなんですか? 何か関係あるんですか?」

「関係あるも何も、自分が恋した男を攫うんだから、大アリじゃねぇか」

「は!? 恋してるのに攫うんですか!? でもその後食べちゃうんでしょう!?」

「食べる? まぁ、性的に食べるといやぁ間違っちゃいねぇが……。まさか小僧、盛大な勘違いをしてるんじゃねぇだろうな」

 呆れた様子の彼女、翼を水平に倒して、小さなため息をついている。

 盛大な勘違いとは。ここまで言われればもう大体予想は付くが、そんなの、普通の暮らしをしてきた人間が知る筈ないじゃないか。

「あー……、もしかして、魔物娘ってその、人間の肉とかをむしゃむしゃ食べたりなんてことはしないんですね」

「はっはぁ、いつの時代だよ、人を食べるなんて、私が生まれる遥か前の事じゃねぇか」

「そんなの知らないですよ、父さんからは、魔物娘は危険だから近づくなとか、子供のころから言われ続けてきたんですから」

 その真剣さたるは、本当にすごかった。会ったことも無い未知への存在を、親の敵のように教え込まれていたのだから。まぁ逆に、その必死さに当時子供ながらに若干引いてしまったところもあり、結局今に至るのだが。

「はぁん、成る程、そうやってあたし達の情報を敢えて知らせないことで、未知への恐怖感を植えつけているわけだ。人間も中々やるじゃねぇか」

「じゃあ、あんたらは別に人を食べるわけじゃないんですね」

「ああ、あたし達は恋をした男、まぁつまり自分の夫にしたい奴を攫って、二人きりで一緒に暮らしたいってだけなんだよ」

 なんだか微笑ましいような、やっぱり物騒なような。そういえばさっきも性的に食べるとか言ってたな。

 若干、話の流れが見えてきた。

「ふぅん……、で、当時のあんたは恋なんてしたことが無かったけれども、男の人は攫ってみたかったと」

「そういうことだ。まぁ何ていうか、順序を逆にしようとした感じもある。男を攫えば、恋が一体どういうものなのかが解る。その男に、恋が出来るんじゃないかって、そう考えたんだよ」

 恋をしてみたいっていう、欲があったんだ。

 と、彼女は自嘲気味にそう続ける。

「それで、好きな人を攫おうとして、バレちゃったとか、そんな感じですかね」

「その時点では、好きとかじゃなかったな。その半年で一番仲良くなった男を攫ったんだよ。さっき言った祭りとかもそいつと二人きりで回ったんだ。むこうは完全にあたしに惚れてるようだったし、いけると思ってた。実際、攫うなんていうより、駆け落ちみたいなモンだった。あいつも、同意の上だったんだよ」

 ここで、彼女の口が止まった。どうしたのかと少し様子を見ていると、彼女の視線が、俺の前に置いてある布包みに向いていることに気が付いた。

 直接言えばいいのに。

「どうぞ」

 包んでいた布をどけて、残りの肉塊から肉片を摘み、手のひらに乗せて彼女に差し出す。

「ん、……はむ」

 その食べ方は、つい先程のものと比べると、やはり少ししおらしく見えた。いつもなら二、三回咀嚼して飲み込んでしまうのに、いつまでも俺の手のひらから口を離さずに、もぐもぐと少しずつ咀嚼している。

 それは、この先を話す覚悟を決める為の、時間稼ぎのようにも思えた。

「大丈夫ですよ」

 それが少し、見るに耐えなくて。

 こんなのは、俺らしくもないんだけど。でも彼女らしくも無かったので。

「……はむ、はむ」

「何があったって、俺は笑って聞いてあげますから」

「……はむ」

「だから、吐き出しちゃってください。年頃の人外お姉さんの性生活を、人間の小僧に吐露しちゃってください」

「……はっはぁ、そんな話はしてねぇよ」

 彼女はそう言うと、俺の手のひらまで落としていた頭を上げて、いつも通りの愉快そうな笑顔を浮かべた。

 目尻が少し赤くなっていることには、気付かないことにした。

「まぁ、なんだ、話の続きだが、そこで思わぬ邪魔が入った」

「邪魔……ですか」

「大体予想は付くだろ?」

「まぁ、最初にあんなこと言われれば、流石に」

 だが彼女と、彼女と行く筈だった男にとってそれは、思わぬ邪魔でしかなかったのだろう。

「夜、空で行くために変化を解いたのが失敗だった。まぁ、あいつの身内にはずっとずっと見張られてたようだし、どうあがいても駄目だったんだろうが。……いや、違うな、一番の失敗は、変化を解いて、街の兵士が一斉に襲いかかってきた、その後だ」

 また彼女の口が止まり、ちらりと視線が布包みに向く。

「いいですよ、食べますか?」

「……いや、いい」

 そう言うと彼女は目を閉じ、静かに深呼吸を数回行った。じっと彼女を見ていて、その様子はどこか神々しく思えた。

「……その後、あいつと一緒に逃げたんだ」

 それが一番の失敗だったと、彼女は繰り返す。

「まず腕をやられた。なんだ、でっかい棍棒みたいなので思い切り殴られたんだ。それでも少しは飛べたからな、あいつを足で掴んで、何とか包囲網は抜けたが、まぁ飛ぶ直前に太ももを槍で突かれるわ背中を剣で切られるわで、酷いもんだったな

「…………」 

「まぁそのせいであたしは結構な傷を負ってな、街の裏路地に着地して、次にあいつを抱えて飛ぶのは無理になった。ここでまた失敗だ。もうそこで諦めればよかったものを、二人で逃げることを、まだ諦めなかった。地上を二人で逃げたんだ。もう、街の出口はすぐそこだったから。そしたらよ――」

 ――そしたら、偶然、一人の弓を構えた人間に見つかったんだ。

 ――ああ、気付いてたよ。でもさ、言っただろ? 結構な傷を負ってたって。

 ――完全にあたしを捉えていた、距離もさほどなかった。ああ、ダメだなって思ったさ、やっぱり欲に走るもんじゃねぇ。そのことを死ぬほど痛感して、目を閉じたよ。

 ――でもさ、不思議なことにさ、いつまでたっても脳天だか心臓だかに来る痛みがさ、来なくてな。

 ――嫌な予感がして、目を開けると。

「…………」

 彼女のその声は、元の声が解らなくなるくらいにまで、震えていた。今にも泣き出してしまいそうな、そんな潤んだ瞳をしていた。

 それでも俺は、もう口を挟まない。彼女が話を終えたその時、笑ってあげられる為に。彼女の話を全て、余すところなく、受け止めるために。

「……あいつは、あたしを庇って死んだ。それまでは、無傷だったんだ、ちゃんと守れてたんだ。だけど、最後の最後で、あたしを守って、死んだ」

「…………」

「正直、惚れたさ。ああ、恋ってこういうものなのかって、理解したし、攫いたいっていう気持ちも納得もした。でもさ、あたしの初恋はさ、気付いた時には、もう終わってしまってたんだよ。それと同時に、本当に、死んでしまいたいくらい後悔した。あいつと一緒に死のうかとも思ったけど、あいつ、死ぬ間際に何て言ったと思う? は、はは」

 それはとても、乾いた笑い声だった。自分を殺してしまいそうな、悲しい笑い声だった。それでも彼女は、瞳に溜まっているその雫を、流すことはしなかった。

「生きて、元気で、って、ただそれだけ言われて。もうその後は、ただの生存本能だ。死にモノ狂いで飛んで、逃げて、飛ぶこともだんだん難しくなってきて、どっかの森に墜落したと同時に、意識が飛んで」

 ――気付いたら、お前がいた。

 そこで、彼女の昔話もとい、一ヶ月前の、俺がこの森で瀕死の彼女を助ける前に起こった話は、終了した。

「……はい」

 彼女が傷を負った場所が、俺が手当てした場所と全く同じだったので、それを言われる覚悟は出来ていた。

 そして、彼女の言っていた言葉の意味を、改めて理解した。

 『欲なんていうものは、それを満たしてしまえば後悔してしまうものだ』

 そんなことを経験すれば、誰だってこんな結論に辿り着いてしまうだろう。

 だが――

「別に、笑えねぇなら、無理に笑う必要は――」

 ずっと地面に付けていた腰を上げ、彼女の言葉を遮って、切り株に座って今にも泣き出しそうな彼女の体を、しっかりと笑顔で、やさしく抱きしめた。

 翼のせいか大きく見えるその体は、抱きしめてみるととても小さく、とても弱弱しく、少し、震えていた。

「え……は……?」

「あんたは、凄いですよ」

 抱きしめた体勢のまま、彼女の耳元で呟く。

 この話を聞いて素直に、心の底から思った感想だった。

「俺だったらこんなの、翌日には自殺もんですよ。で、あの世でその初恋の人に怒られるんです。僕が君を庇った意味はなんだったんだー! ってね。でもあんたは、俺が助けて、話せるようになってからもそんな素振り、全く見せなかったじゃないですか。怪我はしてたけど、楽しい話を沢山してくれたじゃないですか」

 彼女は初恋の彼の、最期の言葉に従い続けている。

 生きて、元気で。

 それが出来るのは、彼女が強い証拠で。

「でもたまには、吐き出してもいいんですよ、ずっと、絶え間なく元気でいる必要なんて無いんです。初恋の人には敵わないかもですけど、その悲しみを受け止めてあげるくらいなら、俺にだって出来ますから」

 ――だから、今は泣いていいんですよ。

 そう締めくくって、後は彼女をぎゅっと強く抱きしめた。

 彼女の体の震えは、いつの間にか止まっていた。

 代わりに、俺の肩が暖かい雫で濡れていた。子供みたいな嗚咽が、時々耳元で聞こえる。

「うぇ……、えぐ……!」

「ああでも、この後はまた楽しい話、いっぱいしてくださいね。いつまでも子供みたいに泣かれると、こっちも困るっていうか、ちょっとあたふたするっていうか」

「うん……」

 まぁ、今も若干あたふたしそうなところではあるのだが。

 そのまま、彼女が泣き止むまでどれほどの時間が経っただろうか。短かったような、長かったような、不思議な感覚のまま時は過ぎ、俺の肩に掛かる雫が涙から、俺の背後にある生肉に対する涎に変わった辺りで、彼女を抱きしめていた腕を解き、定位置である地面に座る。

「ってか、泣き止んだなら言って下さいよ。うわ、涎がこんなに……」

 そこから見る彼女の表情は、目尻に目立つ程の泣き跡はあるものの、いつも通りの、元気で愉快そうな笑顔を浮かべていた。

「はっはぁ、わりぃな小僧、まぁ思い切って泣いてみたら、思いの他腹が減ってな」 

「さっきまでむしゃむしゃ食ってたでしょ……」

「足りねぇって言ってんだよ、ほら」

 そう言って、ばさばさと翼で風を煽る彼女。

 いつもの彼女らしさに安心しつつ、やっぱり変わらないなと呆れつつ、随分と小さくなった肉塊からまた一つ肉片を摘もうとして、気付く。

「あれ……」

 布の上に置かれた肉塊は、既に一口サイズの肉片でしかなかった。

「最後の一個ですけど、はい」

 仕方が無いが、最後の一つを右の手のひらに乗せて、彼女へと差し出す。

「…………」

 だが、いつもなら差し出した途端にすかさずやってくる彼女の口が、今回に限り出てこなかった。

「どうしたんですか?」

「いや……ちょっとな、ほら小僧、これ、見てみろよ」

 彼女はそう言って、はためかせていた翼を止め、左の翼を俺に見えるように大きく広げて見せた。

 美しく翠色に輝くその翼は、何度見ても目を奪われる。

「一ヶ月前に負った怪我も、小僧の治療もあってかこの通りだ」

 彼女が何を言いたいのか、容易に察することができた。

「そうですね、まぁ俺がやったのは応急処置だけですけど、これでも医者を志す身なんで」

「はっはぁ、小僧が医者? 患者を逆に精神病に陥れねぇか心配で仕方がねぇよ」

 どういう意味だおい。

「まぁでも、お前が毎日一人でここへ来れるってことは、近くに街があるんだな」

「街っていうか、この国の首都ですよ」

「はっ、とんでもねぇとこに降りてたみてぇだな、あたしは。……で、どうなんだよ」

「どうって、何がですか?」

「はっはぁ、しらばっくれんじゃねぇ。一ヶ月も連続で首都を出てるんだ。怪しまれねぇ筈がねぇ」

「…………」

「薬草取りっていう言い訳も、もう持たない筈だ」

 彼女の言う通りだった。憲兵への言い訳が底を付いているどころか、魔物娘と密会している可能性ありとして、疑われてすらいる。

 こうして彼女と会うのも、今日が限界だった。だから奮発して、いい牛肉を持ってきたりもした。鶏肉を使って彼女を弄ってみたりもした。

 それを察していたからなのだろうか。今日の彼女が、あんなことを言い出したのは。

「まぁ何が言いたいかというと、これがお前から貰える、最後の肉なんだなってことだよ」

「そう……なりますね」

「何暗くなってんだよ、ただ確認したかっただけだ。ほら、手出せ」

 気付けば、彼女に差し出していた筈の俺の右手は自分の手元に戻ってきていた。

 言われるがままに再び右手を彼女の差し出すと、今度はすかさず彼女の口がやってきて、そのまま右手の上で咀嚼を始める。

「はむ……はむ……」

「随分スローペースですね」

「馬鹿、最後の一個はちゃんと味わないとダメだろうか」

「出来れば全部そうして欲しかったです……」

 結構高いんだから、この牛肉。

「っていうか、俺の手まで食べないで下さいよ?」

「……ああ、そうか」

「何だよその発想は無かったって顔は。いや、マジで駄目ですからね?」

「はむ……わかってるよそんなこと」

 手のひらでの咀嚼が今までで一番長いせいで、手のひらに吐息が掛かってくすぐったい感覚も長かった。くすぐったくて、彼女の食事風景から目を逸らし、しばし待つ。

「…………?」

 しかし待てど待てど、手のひらのくすぐったい感覚は無くなることはなかった。手のひらに置いていた肉の重量感は完全に無くなっていたが、どういうことかくすぐったい感覚は、むしろ感度を増していた。

「……あの、何してんですか」

 視線を手のひらに向けると、確かに手のひらに置いていた肉片は完全になくなっていたが、彼女は俺の手のひらから頭をどけることなく、俺の手のひらを一生懸命に舌で舐めていたのだった。

「ん、何って、食べるのが駄目なら、舐めればいいんじゃねぇのって思って」

 ぺろぺろと。


「……それで、何か味が解るんですか」

「はっはぁ、そうだな、強いて言えば、少ししょっぱいな」

 再びぺろぺろと。

「……で、いつになれば止めてくれるんですか」

「え? ダメだったのか?」

 懲りずにぺろぺろと。

「ダメに決まってんだろ」

 まったく、本当にこの可愛すぎる人外のお姉さんは。あ、年下だったか。

 許されることならば、まだ、ずっとここで話をしていたい。

「あ、そういえば、楽しい話して下さいよ。俺言いましたよね」

 会話を続けるために、無理に話題を繰り出した。少しでも長くここにいるために、どんな手段でも使うつもりだった。

「ふむ、楽しい話って言われてもなぁ小僧。そう言われるとあまり出てこねぇんだが……、ここは、そうだな、本当に私の性生活の話でもするか」

「え、いや、ちょ、それはいいです。割かしマジでいいです。ただの冗談なんで」

「安心しろ、あたしは処女だ。自慰とかもしたことがねぇ。だからこれと言って話すことがねぇ」

 …………

「……それがどうした」

 この返答はマズイと気付く。動揺しているのがあからさまにバレバレだった。

 彼女は俺の言葉を聞くと、またいやらしい妖艶な笑みを浮かべ、切り株からずりずりと俺の方へ近寄ってくる。

「ほほう、どうした小僧。お得意の上辺だけ敬語が崩れてるぞ。ん? そんなに処女が魅力的か? ん?」

 両翼を俺の左腕に絡めて、そこにわざとらしく胸を押し付けてきた。意識しないよう明後日の方向をみて、会話を続ける。

「いや、そんな漫画みたいなの無いですから。健全な付き合いが出来ればそれで充分ですから」

「はっはぁ、まぁそりゃ、あたし達じゃ健全な付き合いは無理か」

「無理って事はないでしょうけど、そりゃ色んな制約が――って、え?」

 さらっと出た彼女の言葉に、さらっと返事をしてしまったが、その彼女の言葉を頭の中で再生し、その意味を深読みして、更に理解してしまった時、俺の顔面の表面温度が途端に急上昇したのを実感した。

 そして思わず彼女の方へ振り向いたその瞬間、

「……ん」

 彼女の顔面が目に飛び込んできたかと思いきや、唇に柔らかい何かが当たっていた。それは時折微かな吐息を伴っていた。その吐息は、俺のものとは明らかに違う、どこか、甘い香りがした。

 頭が真っ白になって、何も考えられない時間が数秒か、数十秒か、或いは数分か、そんな感覚さえも解らなくなって、気が付くと、満面の笑みの彼女が、さっきと変わらず両翼を俺の腕に絡ませながら俺を見ていた。

「悪いな。一応、気持ちだけは伝えとこうと思って。ちなみに、今のもファーストキスだ。お前はどうだ小僧、初めてか?」

 未だに心臓の音が直接耳に伝わってくる。心拍数が急上昇しているのが解る。

「は、初めて、です……」

「はは、そっか」

 彼女は嬉しそうに、少し頬を赤らめながら笑った。

 笑って、そのまま俺の肩に体を預けた。

「不思議だな、キスしたいって欲を満たしたのに、あんまり後悔してねぇ」

「じゃあ、あんたの説は間違ってたんですよ。証明失敗です」

 そう言うと、彼女は愉快げに鼻で笑って「かもな」と一言。

「でも、抑えなきゃならねぇ欲もある」

「例えば、何ですか?」

「そうだな……例えば、お前を攫うとか」

 そこで、彼女の言っていた言葉を思い出した。

 魔物娘は、自分の夫にしたい男を攫って、二人きりで暮らしたい、と。

「……はは、十五歳が、キスだけじゃ飽きたらず一丁前にプロポーズですか」

「キスしただけでテンパってた年上に言われたくねぇよ。っていうか、お前の年齢聞いてなかった」

「あれ、そうでしたっけ? 今年で二十三です」

「……結構年上なんだな」

 良かった、その歳でキスもまだだったのかよ、とか言われるんじゃないかと内心焦っていた。

「歳の差結婚は嫌でした?」

「いや、嫌じゃねぇ、むしろ燃える。だが、医者を志すってことは、そろそろ正念場なんじゃねぇの? ちゃんとやってけんのか?」

「父さんからは滅茶苦茶反対されてますからね。まぁ医者を志していた身としては、もう懐かしさすら感じますけど」

「……ん、志していたって、小僧、こんな短い間で諦めちゃったのよ。志低すぎるだろ」

「別にいいじゃないですか、低かったって。他にやりたいことが出来たんですよ」

「ほう、別に興味がある訳じゃねぇが、一応聞いてやろうじゃねぇか」

「……まぁ、政治関係の仕事ですよ」

「政治? なんでまた――……おい小僧、まさか」

 彼女は何か察したのか、肩に掛かっていた彼女の重みが、ふと軽くなった。

 顔をそちらの方に向けると、目を丸くして俺を見る彼女と目が合った。そんな彼女に、にっこり笑いかけて、俺は言う。

「さっきの返事ですけど、三年だけ、待ってもらっていいですか?」

「……はは、なげぇよ」

「声、震えてますよ」

「うるせぇ」

 手の甲に、暖かい雫が落ちてきたのを感じた。彼女の表情は、俺の肩に額を押し付けており、俺から直に見ることは出来ない。

 出来はしないが、彼女がどんな表情をして、どんなことを想っているのかは、容易に察することが出来た。

「三年経ったら、まずは、そうですね。お墓参りに行きましょう」

「……うん」

「ごめんなさいと、ありがとうを言う為に」

「……うん……!」

 それからは、これといった会話は無かった。

 ただ二人、お互いに肩と肩に体を預けあって、目を閉じて、二人で居られる精一杯の時間まで、そうしていた。

 特に会話の必要は感じなかった。それだけで、充分だった。

 欲は、満たしてしまえば後悔する。そう言った彼女の欲は、今どうなっているのだろう。

 きっと俺と同じで、決して満たされることの無い、とても大きな欲に違いない。

 満たされている最中の欲は、満足感と充実感、そして何より、大きな幸せを感じた。

 俺達の終わらない欲は、満たされ続ける。



   ………………


 よぉ、久しぶりだな。本当なら三年で来る筈だったんだが、どっかの国の若年王様が、二年であたし達に関する法律やら何やらを変えちまいやがった。おかげでどこの町も魔物娘が楽しそうに暮らしてるよ。

 お前が望んでた世界も、こんなんだったんだろうな。

 だから、まぁ、取り敢えず、お前に会いに来た。生きてることと、元気にやってることくらいは、見せてやらなきゃと思ってな。

 ごめんな。まずは、謝ろうと思う。

 あたしの初恋の相手ってお前なんだけど。正直言うとさ、あたしがお前を攫うって言った時、まだお前に恋心とか抱いてなくってさ。じゃあいつなんだよっていうと、お前が庇ってくれた時に、惚れちゃったんだよ。皮肉だよなぁ。どうあがいてもどっちか死んでんだもんなぁ。

 ほんと……皮肉だよ。

 でも考えてみるとさ、お前ってこの国を変えた影の立役者でもあるんだよ。お前に助けてもらった後、また一人生意気な小僧に助けてもらってな。小僧と言いつつ実は八も年上だったんだが、情けねぇことに、お前に教えてもらった恋心を、そいつに抱いちまってさ。はっはぁ、解んねぇもんだなぁ、恋心なんてのは。初恋を自覚して三秒で砕け散って、一ヶ月経たずにまた次の恋だぜ。

 まぁなんだ、それでその小僧に、恋心からかは知らねぇが、お前との熱い逃避行のことを話してよ。慰められて、やっぱり小僧に惚れちまって、それからあたしが何か言ったからなんだろうが、それまで医者を志してた小僧が急に政治関係の仕事に就くとか言い出して。

 ……今思えばあの小僧、政治関係だとか嘘じゃないように見せかけて、とんでもねぇ嘘吐いてやがった。政治関係とかじゃなく、政治そのものになっちまうんだから、笑えるわ。

 ん、ああ、つまりだな、深い森の奥で傷ついた魔物娘を救ったのは、一国の王子様でしたってオチだよ。しかも長男、第一王子だったんだってよ。そりゃ医者なんて猛反対されるわ。

 私と一ヶ月間毎日会えたのも、王族特権乱用しまくりだったみたいだ。それで魔物娘との密会が疑われてたってんだから、よくもまぁあたしの為に無茶してくれたもんだ。

 で、だ。まぁその小僧もとい王子様がやる気を出してくれたおかげで、今の世の中が出来たってわけだ。この元凶はつまり、お前にあるんだぜ。誇れよ。すげぇよ、お前。

 ああ、それからお前の家族にも会ってきた。また棍棒で殴られるくらいは覚悟してたんだが、何だかあっさり返してもらえたな。おまけに日記がどうとか言って、こんな紙束も貰えたんだ、お前これに何か書いてたのか? ……あたしが読み書きできねぇからって変なこと書いてたんじゃないだろうな。……ふぅむ、読めん。

 まぁでも読み書きについてはこれから勉強していくつもりだし、しばらくはお前の日記で練習させてもらうぜ。

 と、まぁそんなわけで、またあたしはお前に助けられたわけだ。お前が日記だが何だが付けてくれたおかげで、あたしへの被害は食い止められたんだからな。

 お前の守護霊でも付いてんのかねぇ、あたしは。

 おっと、魔物娘の私がこんなこと言えねぇか。はっはぁ。

 ……ん、もう時間なのか? え、この後中央広場で演説がある? いやそれなんであたしなんだよ、小僧の仕事だろ。

 は、魔物娘のあたしだから伝えられることがある……? あと追加で今日中に南広場と西の貿易都市の視察? ……はっはぁ、あの小僧、医者にならなくて大正解だな。冗談抜きで患者だけでなく部下上司共々精神病に陥れそうだ。

 っていうかその第一人者があたしになりそうなんだが。ったく、王妃なんてやるもんじゃねぇな。そもそもあたしのガラじゃねぇし。

 っと、すまねぇな、ってなわけで、今日はこれくらいだな。最近はこんな感じで忙しくやらせてもらってる。面白い話題が出来たら、また足を運んでやるよ。あの世で達者で……じゃあな。
 

 …………
 

 おっと、いけねぇ、大事なことを伝え忘れてた。これを伝えるために来たのにな。はっはぁ、やっぱ、面と向かっていうのは、いくらあたしと言えど、恥ずかしさが込み上げてくるぜ。

 ……いや、まぁ、けど、こればっかりはちゃんと言わせてもらうわ。





 ……守ってくれて、ありがとう。愛してた。
15/11/08 20:51更新 / いおりんりん

■作者メッセージ
 どうも、凄くお久しぶりです約二年ぶりの更新です。いおりんりんです。

 まずはこの作品をここまで見てくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。

 いかがでしたでしょうか、今回はサンダーバードのお姉さんと見せかけて悩ましい年頃の可愛いサンダーバードさんです。

 内容としては、ただサンダーバードさんと主人公が話してるだけです。それオンリーです。それ以外に何があるんだと言われても、何も無いです。

 基本こういった文章しか書かない(書けない?)ので、また気が向いたら別の魔物娘でこんな感じの短編を出したいと思いますので、その時はまたよろしくお願いします。

 それでは今回はこの辺で。

 はつかねずみがやってきた
 はなしは、おしまい

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33