読切小説
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生きる為に食い、食う為に生きる【前】
 「ハァハァハァ」
 どうして、こんなコトになったのかな
 冷たい空気と息苦しさでボンヤリし始めている頭の片隅でそんな事を考える。
 随分と荒れた呼吸を整える余裕もない私は、ほぼ無意識の内に手を痛いくらいに伸ばして、岩の窪みを探しては指を引っ掛ける。そうして、痙攣を始め出して小刻みに震えている手に力を込めて腕を曲げると同時に、岩で擦れて少し鱗が剥げてしまった尾で自分の体を押し上げる。
 (よしっ)
 どうにか、小さな難所を越えて、緊張が緩んだ私はフッと身体の力を抜いてしまった。
 その瞬間、足(尾か?)元の岩が砕け、私は五臓六腑が反転するような浮遊感に襲われた。
 たった一瞬で、地面に叩きつけられて死ぬ事を覚悟しかけた私の、生への執念で本能的に天に向かって伸ばした腕を、私の頭上を登っていた青年が掴んだ。
 助かったと安堵し、途端に恐怖が腹の底から込み上げて来てしまう。
 見る間に顔面蒼白と化し、悲鳴の一つすら上げられない私を青年は、細い眉を寄せて見下ろしていた。
 そうして、彼は「フッ」と息を止めて腹に力を入れると、魔力で強化もしていない右腕をブルブルと震わせ、自分の体重の二倍はある私を顔を真っ赤にしながら引っ張り上げてくれた。
 「あ、ありがとう」
 私が何とか、岩の出っ張りを掴み、尾で自分の体を支えると、青年は汗ばんだ手を離し、私をゾッとするほど鋭い瞳で睨んできた。
 「・・・・・・しっかりしてくれよ」
 真っ赤になった顔を汗だくにして、肩で少し荒い息をしている青年に私は今一度、礼を言う。自分より年下の人間に礼を言うのは癪だったが、命を助けられた以上は礼を言うのが筋である。
 手の甲でグイッと頬を流れていく汗を拭った青年は、ベルトからぶら下げているホルダーに突っ込んだ水筒を傾けて、乾いた身体を潤し、火照った肉体を冷ましていく。
 青年は濡れた口許を拭うと、私の方を見ずに水筒を突き出してきた。
 「良いの?」
 「脱水症状を起こされたら困るからな。
 案内人として、前金は払っているんだから、仕事はちゃんとして貰うよ。
 自分の意地悪でアンタに死なれても目覚めが悪ぃし、目的の物を拝めなくなるのも困るんで」
 本当に口の悪い人間だが、言葉の端々から、根は優しい事は解る。
 口の端を歪めつつも、私は素直に水筒を受け取った。
 アルラウネの蜜を溶かしてある、よく冷えた水が全身に染み渡り、ついつい私は身体の力を緩めてしまう。
 そんな私を窘めるように、青年は舌打ちをわざと聞こえるように漏らしてきた。
 「この崖を登り切ったら、すぐなのか、森は?」
 「あ、えぇ」
 チラリと盗み見れば、青年は今の今まで不機嫌そうだったのに、今ではキラキラと輝かせている。まるで、待ちに待った自分の特別な日に、親に玩具屋に連れて行って貰える運びになった少年のような面持ちだ。
 思わぬ一面を見せられた、私の頬はカァと熱くなってしまう。
 私の名前は、ヴィアベル。近くの町で開かれる市場で山で採れた薬草や自分で作った小物を売っている、メデューサだ。
 赤らんだ頬を隠す私を怪訝そうに見ながら、チョコを齧っているこの青年の名前はカグラ・ムラマサ。謎に満ちた『ジパング』からやってきた、冒険者を副業にしている料理人。
 今、私達はこの辺りの一般人は近づきたがらない、深く暗い森に入る為に、人間も魔物娘も区別無く襲う怪鳥が飛び回っている崖を、死の影を背中に感じながら登っていた。
 ホント、どうして、こうなったのか

 先にも書いたが、私は市場で薬草や自作の小物を売って、生活費を得ていた。私が店を開く市場がある小さな町は比較的、私たち魔物娘に対して友好的ではある。
 しかし、私は幼い頃、近所の子供に苛められていた事もあって、市場に出向く時は尾を魔術で、二本の足に『変身』させていた。
 とは言え、エキドナには到底、及ばない私の実力では『髪』まで人間と同じ物にする事は出来ない為、帽子を深めに被って隠していた。

 その日、私は日が落ち出した頃に店を閉じた。
 「はぁ」
 戻した尾をくねらせながら家路についていた私は、憂いの溜息を漏らしてしまう。
 「最近、売れが悪くなってきたわねぇ」
 そろそろ、肌寒さを感じる季節だ。山に生えている薬草も段々と少なくなってきている。
 自然に生える物である以上は、どうしようもない話だが、路銀を稼がなければ私も餓えてしまう。
 小物の評判は悪くない。時々、こんな感じの物を作ってほしい、と頼まれる事もある。
 だが、素人が暇な時間に作っている物だ、あまり高値を付ける訳にもいかない。
 まだ、蓄えは十分に残っているが、これから薬草が取れなくなる可能性だってあるだろう。
 それを思うと、ついつい、また溜息を漏らしてしまう私。
 (傷薬とか媚薬の作り方を覚えようかしら)
 幸い、今日は持っていた商品は全て売れ、一週間分の食糧は買う事は叶った。
 今の商品のままでも困らないかもしれないが、安定した生活を望むなら、薬の作り方を覚えておいても損は無い。
 しかし、勉強には金がかかってしまう。学校に行くのなら授業料が、独学なら資料を買う為のお金が。
 三度目の溜息を漏らした私は、大好物の卵を山盛りにした籠を持ち直す。
 (仮に、舞い込んできた何らかの幸運で手頃なお金を手に入れられて、魔法薬の作り方を修められて、その後はどうしたらいいのかしら?)
 また、市場で作ったそれを売る生活を続けて、ふとした拍子に将来が不安になるのだろうか。
 見通せない未来に翳りを感じてしまうのは、私に『目的』が無いからだろう。
 それなりの家に生まれて、それなりの教育を受けて、それなりの一人暮らしを送っている私には「コレがしたい!」「何かをやってみたい」、所謂、『将来の夢』と言うものが無いように思える。
 幼かった頃こそ、憧れの職業はあったのだが、自分の才能や家庭環境を冷静に把握できる年齢になったらなったで、その時の状況に見合ったと言えば聞こえは良いものの、要するに日和見的な選択をするようになってしまった。
 そんな選択を続けてきた結果が『現在』だ。
 私は自分がまだ若い、と言う自覚が十分にあった。何かをやろう、と決意さえすれば、出来ない事は少ないだろう。生活費にしたって、本気で悩んで、真剣に思案して、真面目に立て直せば、どうにか出来るだけの稼ぎは実際にあるのだ。
 しかし、一念発起するキッカケを掴めずに、ズルズルと惰性で日々を過ごしてしまっているのも現実だ。
 肩に重みを覚えた私が四度目の溜息を吐き出そうとした時だった、視界の端を何かが走った。
 不思議に思って、そちらへ顔を向けた瞬間、いきなり背後から肩に手を置かれた。
 元々、気の小さい私は悲鳴を上げる前に、反射的に振り返って、目を大きく見開いてしまった。
 しまった、と思ったのは、睨んでしまった相手の身体が、私の肩から手を離そうとした状態でビクンと痙攣して仰け反ってからだった。
 思わず、本気で魔力を叩き込んでしまった。
 わざわざ説明する必要も無い気はするものの、念の為に。
 私達、メデューサは見た相手を物言わぬ石像に変えてしまう事が出来る。気に入った相手が自分のアプローチにつれない態度を取ったら不意打ちで叩き付けた魔力を一気に相手の目から身体の内側へと流し込んで石像に変えてから家に持ち帰って、熱を感じられる状態に戻してから事に及ぶのだ。中には、Sっ気が強く、流し込む魔力を調節して手や足の先からジワジワと石に変えていき、男の恐怖を煽る事で性欲を更に高める者もいる。私の母親がそうだ。
 (は、早く、解呪しなきゃっっ)
 慌てた私は彼の石化状態を解こうと、呪文を唱えながら魔力を掌へと集めて、頬へと伸ばした。
 しかし、私の指先が触れる寸前、青年の肩が小さく揺れた。
 「え?」
 まさか、と指を止めかけた直後、身体を仰け反らせていた青年がゆっくりと顔を前へと戻し始めた。
 「んなっ」と私は引っ繰り返った声を上げて、彼から後ずさってしまう。
 予想外の事態で唇を戦慄かせている私を一瞥した青年。
 「・・・・・・驚いた」
 それはコッチの台詞だ、とツッコみたかったが、出そうとした声は喉にベッタリと貼り付いてしまう。
 彼はグルンと首を大きく回すと、再び、私へ視線を向けてきた。
 この辺りでは見ない、尖った硬そうな黒い髪と目で、青年が旅人だと察しが付いた。
 背丈は私より頭一つ半ほど高く、マントを羽織っていてもガッシリとした体格なのが解る。
 旅に慣れているのか、荷物は肩からかけている、少しばかり膨らんでいるだけの鞄だけ。恐らく、自分の身を護る得物は足首まで隠しているマントの中に隠しているのだろう。
 ジックリと青年を観察している内に、私は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
 (多分、石化中和作用のある魔術具か、マントの内側に呪術無効化の作用を持つ札を縫い付けてあるのね)
 そう考えれば、私の『邪視』を真正面から受けたにも関わらず、すぐに動けるようになったのも納得が出来る。
 自慢じゃないが、私は一族の中でも一、二を争う魔力を有していたのだ。そんな私の『邪視』を対応策も無しに受けて、動ける人間など一握りしかいない。もっとも、彼はその『一握り』であった訳だが。
 深呼吸をしていると、鋭い視線を向けていた青年が、不意に私の方にゆっくりとした足取りで私に近づいてきたではないか。
 反射的に、私は目に魔力を集中してしまう。
 私が再び、『邪視』を使おうとしているのに、目がオレンジ色に光り出した事で気付いたのだろう、青年は一瞬こそ、眉を寄せたが道具を持っているが故に精神的余裕からか、そのまま歩調を変える事無く近づいてきた。
 それでも、彼は私の警戒心を解く為に、敵意は無い事を示すように、両腕を高々と上げて歩いてきた。彼の行動に一抹の不安はあったものの、私は一応、魔力を抑える。途端、彼はホッとしたような表情を浮かべた。その表情の柔らかい事。不覚にも、頬が熱くなってしまった。
 青年が前に立つ。
 いきなり、石化させようとしてしまった後ろめたさがあった私はおずおずと頭を下げる。
 「あの、すいませんでした」
 「いや、問題ねぇ。
 だが、あんな強力な『邪視』を不意打ちとは言え、食らったのは久しぶりだ」
 「クラクラきたぜ」と微苦笑を浮かべる青年にやはり、私は何らかの道具を持っているんだな、と確信を深めた。
 「本当、すいませんでした」
 「まぁ、声もかけずに女性の肩に手を置いた俺にも非はある。こちらこそ、驚かせてしまって申し訳なかった・・・スマン」
 青年に深々と頭を下げられ、私は軽いパニックを起こしかける。
 「あ、いや、だいじょうぶですから」
 もう一度、大きく息を吸った私。
 「そ、それで、私に何か御用ですか?」と声を震わせながら尋ねてみると、青年は「アンタ個人に用があるって訳じゃないんだが」と困惑気味に黒い髪を掻く。
 「そろそろ、日も落ちるんでね、体を休められる場所を探していたんだ。
 それで、この先にある町には宿があるのか、聞きたかったんだが」
 「宿は一軒、ありますけど・・・」
 「けど?」
 「今日は団体さんで一杯だって言ってましたよ、ご主人が」
 青年は残念そうに肩を落とした。
 「しまった、出遅れたか」
 ガリガリと音を立てて髪を掻く青年。
 「仕方ない、また野宿だな・・・・・・駄目元で行ってみて、馬小屋にでも寝かせてもらうか?」
 小さく頷いた彼は私に顔を戻し、先程より深く頭を下げた。
 「ありがとう」
 そうして、踵を返した青年は鞄を担ぎ直し、町の方へ歩き出した。
 「あ、あのっっ」
 私は思わず、彼を呼び止めていた。
 「何だい?」
 「私の家、近くなんですけど・・・泊まりますか?」
 この申し出に青年は驚いたように右の眉を小さく跳ねさせたが、彼より私の方が驚いていた。

 何故、こんな積極的な態度になったのか、それが自分でも判らなかった。
 魔物娘の本能に従ったのだろうか、と考えてみても、少し違う気がする。確かに、彼と交われば、その辺りの男性とは比較できないほどの濃く、生気に満ち溢れた精を受け止める事が出来るだろう。
 しかし、私が彼を呼び止めた上に、自分の家に招こうとしたのは、この青年が自分の穏健だが退屈な生活を良くも悪くも変えてくれると言う直感があったのだろう、と今になって思う。

 「実にありがたい申し出だが・・・いいのかな?」
 彼の声で我に返った私は激しく、首を縦に振ってしまう。
 しばらく、町の方向を睨んでいた彼だったが、疲労を取りたいと言う気持ちが勝ったのだろう、私の方へと顔を戻すと直立不動の体勢で「では、今晩、お世話になります」と丁寧な言葉遣いで頭を下げてくれた。

 彼に荷物を持ってもらい、私は家まで案内する。
 道中、お互いに名乗る。彼はカグラ・ムラマサと言い、八年前にジパングからやってきたそうだ。ジパング出身の人間の風貌が異なるのは噂に聞いていたが、会うのは初めてだった私は素直に驚いた。「ニホントー」なる武器を持っているのか、と尋ねるとカグラは頷いて、マントを捲って自分の得物を見せてくれた。
 雑談を交わしな、数十分、ようやく小高い丘の上にある私の家に到着した。
 「お邪魔します」
 「少し待っててくださいね。
 今すぐ、夕食を作るので」
 腕まくりをして台所へと入ろうとした私の肩へ、彼は手を置いた。
 「な、何ですか?」
 (ままままま、まさか、ご飯の前に私を食べたいなんて言うんじゃ)
 置いた手から私が緊張で身体を強張らせたのを察したのだろう、慌てて距離を取ったカグラ。
 「安心しろよ。不義を働くつもりはねぇからよ」
 そうして、カグラは食糧を入れている籠を掲げる。
 「泊めて頂くお礼に、俺に作らせてくれ」
 「え?」
 「俺ぁ、ジパングでは料理人をやっててね、旅の道中でも大衆食堂とかで雇われて日銭を稼いでいた」
 「え、いや、でも、お客さんを働かせるのも悪いですし」
 「気にしないでいい。
 ヴィアベルさんは俺をお客さんと言ったが、ここは宿じゃないし、アンタは俺からお金を貰う訳でもない。
 だから、夕食ぐらい作らねぇと、俺の気が済まねぇのさ」
 外見に見合って、押しの強い性格のようだ。
 そこまで言われると、逆に作って貰わない方が失礼な気がしてきてしまった私は「なら、お願いします」と頭を下げ返した。
 「じゃあ、冷蔵庫の中を拝見させてもらいますかね」
 冷蔵庫を開けたカグラさんの動きが一瞬、止まった。
 「―――・・・見事に・・・卵ばかり」
 カグラさんは籠の中にも卵が入っているのを見て、薄く苦笑いを漏らした。
気恥ずかしくなった私は顔を俯けてしまう。
 「んな気にしないでいい。
 以前、ラミアの村にもお世話になったが、やっぱ、卵料理ばかり出されて、次の日にゃ、卵を産めるようになっちまうんじゃと思ったよ」
 そうして、マントを椅子の背もたれに被せたカグラさんは冷蔵庫をザッと見回して、素早く材料を選び出した。
 「では、台所をお借りする」
 鞄の中から出したのは刃が長方形をした、使い込んでいる事が一目で分かる大きな包丁だった。

 三十分後、テーブルに並べられた料理の数々に私は絶句する。
 「卵をメインにして作ったから、ヴィアベルさんの口にも合うとは思うんだがな」
 大皿に盛られているのは、角切りにした豚の固まり肉を入れたオムレツだ。ボウルには潰したゆで卵と南瓜を潰して、ホルスタロウスの一番搾りミルクから作ったヨーグルトと混ぜたサラダ。コーンポタージュから優しく甘い香りが漂っている。
 「凄い・・・・・・」
 ただただ、私は呆然とするしかない。豚肉の炒め物に野菜を適当に切っただけのサラダ、昨日の残りのコンソメスープを出そうと思っていた自分が恥ずかしくなってしまう。
 「さぁ、どうぞ」
 「い、いただきます」
 手を合わせて小さく頭を下げた私はおずおずとフォークへ手を伸ばした。

 どの料理も味は言葉に出来なかった。
 こんなに美味しい卵料理を口にしたのは生まれて初めてだった私は食事の途中で感極まりすぎて、泣いてしまう所だった。
 せめて、洗い物だけはと引き受けた私は食器の泡を流しながら、思わず、溜息を溢してしまう。悲しみや空しさからの溜息ではない。
 「ホント、美味しかった・・・・・・また、食べたいなぁ」
 「明日の朝も作ってやろうか?」
 感動の余韻に浸っていた私はカグラさんがお風呂から上がったのにも気付かず、いきなり声を背後でかけられたので、「ひゃあ」と引っ繰り返った声を上げてしまう。
 あまりに驚いた私の手から大皿が落ちる。
 しかし、床に落ちて粉々に割れる寸前に大皿はカグラさんが素早く伸ばした左足の指に挟まれた為に、甲高い破壊音は鳴り響く事はなかった。
 「失礼」とカグラさんは左足を上げて指の間から大皿を取り、呆然としている私の手の上にそっと置いた。
 「凄い反射神経ですね」
 食事中も、生卵がテーブルの上から落ちかけたのだが、その時もカグラさんは目にも止まらぬ速度で床に落ちる寸前で卵を手で受け止めたのだ、掌の中で割る事なく。
 「それなりに修羅場も潜ってきたんでね。
 反応がトロいようじゃ、生き残れねぇんだ」
 謙遜もせずに、飄々と笑うカグラさん。
 「座っててください、今、お茶を淹れます」
 「あぁ、ありがとう」

 「・・・・・・ところで、ヴィアベルさん」
 唐突に、マグカップをテーブルの上に置いたカグラさんの表情が真剣で剣呑なものに変わったものだから、私は背中に寒いものを感じてしまう。
 「な、何ですか?」
 (ま、まさか、この人、私を退治に来たんじゃ)
 そう疑ってしまうも、私自身、退治の依頼をされるような悪事など一つとして働いていない。市場では仲良くしてもらっているし、町の男性にだって手を出した事はない。何度か、力づくで私と交わろうとした余所者はいたが、尾で肋骨を呼吸をする度に激痛が走るレベルまで砕くべく締め上げてやったり、『邪視』で肺だけを石に変えて呼吸を出来なくさせたり、と罰はしっかりと与えている。
 だから、恨みを買う覚えなど、まるで無い。
 そうなると、逆恨みだろうか。前述の通りだから、逆恨みの一つや二つはされているかも知れない。もしかして、この前の抱き合わせた状態で石にしてやった二人組のどちらかが、『教団』のお偉いさんの息子か何かだったんだろうか。
 正当な自己防衛がほとんどな私は、『教団』が出しているランキングにも名が出ていないのだから、この首には一銭の価値も無いのだ。わざわざ、ハンターが来るとは思えない。
 「あぁ、安心してくれ。
 危害を加えるつもりはねぇから」
 私が怯えているのを察したらしく、カグラさんは表情を緩めた。
 「二つ三つ、聞きたい事があんだ」
 「な、何でしょう? 私が解る事でしたら」
 「ヴィアベルさんはここの出身なのか?」
 私はカグラさんの質問に、首を小さく横に幾度か振る。
 「いえ、私は三年ほど前にこっちに引っ越してきたので」
 「引っ越してきた・・・・・・」
 「はい、前にいた土地のゴタゴタで」
 それに関してはあまり突っ込んだ事は聞かれたくなかった。
カグラさんも私が浮かべた、慈悲を請うような苦笑いでそれを読み取ってくれたらしく、それ以上は聞いてこず、代わりの質問を投げかけてきた。
 「じゃあ・・・・・・ヘビーイチゴって知ってるかい?」
 「? 蛇苺ですか?」
 「いや、ヘビーイチゴだ・・・・・・ランク7の高給食材の」
 私は息を呑んでしまう。
 ヘビーイチゴは生憎、耳にした事はなかったのだがランク7と言えば、『教団』が定めている入手困難な食材の中でも上位に位置する物だ。ランク1の食材ですら手に入れて、尚且つ、無事に帰って来るには少なくとも、戦士・剣士・冒険者、どれでも構わないからランキングに名を連ねていないと無理だと言われている。
 それを踏まえて考えると、ランク7はとんでもなく危険な場所にあると言う事だ。
 そこで、私はようやく一つの噂に思い当たった。
 「・・・あくまで、町のお婆さんから聞いた話なんですけど」と私が前置きすると、カグラさんは身を乗り出してきた。熱い鼻息を感じてしまうほどの距離に突然、顔を近づけられたものだから、私は椅子ごと身体を引きかけてしまう。それでも、カグラさんはギラギラとした目で話の続きを無言の圧力を私にかけながら促してくる。
 「町の人のほとんどが近づかない場所は三つあるんですけど」
 一旦、席を立ってすぐに戻ってきた私はテーブルの上に地図を広げる。
 「一つは命を吸い取る紫色の沼」
 私は地図の紫に塗られている箇所を指す。
 「一つは螺旋の黄色い塔」
 私は地図の端に小さい点として記されている塔を指す。
 「そして・・・・・・賢者の樹が生えている深緑の森」
 私は一つ息を吐き出してから、地図の四分の一を占めている森を指した。この森は険しい山の中にあり、餓えた獣や魔獣が棲息していた。また、荒くれ者の山賊だけでなく、そんな彼らを獲物として襲うスライムやワーバットもいる事が原因で、町の人達は先に挙げた二つの危険箇所よりここに近づかなかった。
 そして、私は一週間に一度、この森の外側で薬草を採っている。何だかんだで、私が市場でお金を稼げるのも、他の森では生えない貴重な薬草を揃えているからだ。
 「この森には『命の果実』が成っているって、そのお婆さんは言ってました。
 五十年前、何十人もの冒険者が森に入ったけど、帰ってきたのは一人だけ。その一人も目的の『命の果実』を得るどころか、右足と左腕を魔獣に奪われていた、と」
 ちなみに、その冒険者さんは、看護婦をしていたお婆さんの妹さんと結婚したそうだ。
 「・・・・・・『命の果実』、か。
 聞いた話では、ありとあらゆる傷を癒し、病を打ち消し、瀕死の者を黄泉から救い上げる、聖なる実だ、とか」
 「多分、それがヘビーイチゴじゃないんでしょうか」
 「確かに、俺自身が聞いている話とも一致する」
 真面目かつ精悍な表情でしきりに頷いたカグラさんは机に広げた地図を摘み上げた。
 「ヴィアベルさん、悪ぃんだが、この地図を売ってくれねぇか?」
 「と、とんでもない、そんな高いものじゃないので、差し上げますよ!!」
 「ありがとう」とカグラさんは地図を丸め、筒状にすると鞄に差し入れる。
 「・・・って、採りに行く気ですか、そのヘビーイチゴを!!」
 「その為にここに来た訳だからな」
 首を力強く縦に振ったカグラさんの決意は硬そうだった。
 「いや、でも、危険ですよ!! 町の人達は絶対に近づきませんし」
 「だけど、ヴィアベルさんはこの森で薬草を採っているだろう?」
 「それは私がメデューサ、魔物娘だからです。
 大体、私もそんな奥にまで入った事はありません。
 それ位、危険なんですよ! 普通の人間が足を踏み入れちゃいけませんよ」
 私は今日、初めて会ったカグラさんを必死に引き止める。この時点で、私は彼にかなり惹かれていたのだろう。
 「―――男とか女とか、そんなのは関係なく、人間にはやらなきゃいけない事、行かなきゃならない場所があるだよ・・・例え、命を落としたり奪われたりする可能性があっても
 俺は、どんな小さなチャンスも逃したくねぇんだわ、自分が自分であり続ける為に」
 私を煙に撒くように婉曲的な言い回しをしつつも、どこか寂しそうな面持ちで、私を真っ直ぐに見つめてきたカグラさん。
 彼の瞳の奥に、常人どころか魔物娘ですら耐えられそうにない陰鬱な過去で背負ってきた闇を垣間見た私の、興奮で上がっていた体温は一気に下げられてしまう。
 「―――・・・分かりました、もう止めません」
 そこで、私は尾で床を叩き、身を乗り出してカグラさんが机の上で固く握り締めていた手に自分の両手をそっと乗せた。
 「私を『案内人』として雇って下さい」
 私の唐突な申し出に、カグラさんは目を丸々とさせた。
 「いや、でも、今、ヴィアベルさん、自分で言ったじゃねぇの。
 森の奥は危ないから自分も入った事は無い、って」
 「言いましたよ、確かに。
 でも、私は毎日、森に足を踏み入れていて、旅人であるカグラさんよりは森の内部に詳しいです」
 自分の手をギュッと握ってくる私の目をジッと見つめるカグラさん。
しばらく、唇を噛んでいたカグラさんだったが、不意に諦めたように溜息を吐く。そうして、私の手をやや乱暴に振り払うと、鞄を机の上へと乗せる。
 「いいぜ、ヴィアベルさん。アンタを『案内人』として雇おうじゃねぇの」
 「これは前金です」とカグラさんは鞄の中から取り出した札束を机の上に乗せた。
 私は息を呑んでしまう。
 今日まで半ば趣味で五年間、毎日、蓄えてきた貯金に相当する金額を前に置かれてしまい、私の思考は停止しかけたが、カグラさんは冷たい声で固まってしまっている私の身を打つ。
 「ヘビーイチゴを無事に手に入れられたら、この三倍を支払おう」
 「三倍!?」
 「その代わり、しっかりと案内してくれよ」
 「ももも勿論っっ」
 私が頬を赤らめて頷くと、カグラさんは満足気な面持ちで頷き返してきた。
 「と、ところで、このお金は・・・・・・?」
 「あぁ、ここに来る前にコックとして働いていた、サキュバスが経営するラブホテルで貰ったお給料の一部・・・・・・これは後ろ暗い事をして手に入れたお金じゃないんで、安心して受け取ってくれていい」
 若干、危ない橋を渡って稼いだお金も持っていると言われた気がした。
 しかし、私はあえて聞かなかった事にして、一つ頭を下げて、机の上で堂々としたオーラを放っている札束を手にし、その重さに改めて生唾を飲み込んでしまった。
 (・・・・・・ヤバい話に考え無しで、首を突っ込んでしまったかしら)
 その直感は後になって思えば外れていなかった。
 あんな恐ろしい思いをするとは思っていなかった。もっとも、あんなに素晴らしい経験が出来るとは、想像もしていなかった訳だけど。

 普段、私が森に行くのに使っている道が落石で塞がってしまったのと天候の関係で、森に向かうのは三日後になった。その間、カグラさんは市場に私と共に向かい、情報収集に余念が無かった。
 この辺りでは見かけないジパング出身だと一目で分かる容姿のカグラさんに、皆は興味心身だったようで、彼の質問にも快く答え、森に入る事を知ると驚いていた。中には「さすが、ジパングの人間だ」と感心し、サインを求める人までいた。
 カグラさんが情報収集と山登りの準備を市場でしている間、私は顔見知りのリザードマンやゴブリンにからかわれて大変だった。

 「あの黒髪の兄ちゃん、アンタの所に泊まってるんだって?」と声をかけてきたのは、この街に滞在しているリザードマン。ある貴族の護衛の仕事が終わり、ここで体を休めているそうだ。ちなみに、ランクングは四〇位、『鋼の爪(スチール・クロウ)』と呼ばれているそうだ。
 「アンブルさん、誰から聞いたんですか?」
 アンブルさんはニヤニヤと笑って、自分の後ろに隠れていたゴブリンを私の前へと尻尾で押し出す。私の前に出るや否や、彼女は手をパシンと合わせた。
 「私が教えちゃった。ゴメン」
 「・・・・・・カルム」
 カグラさんを紹介した時点で、口の重くない彼女が共通の友人であるアンブルさんに話すのは目に見えていたから怒りは感じなかったが、少しばかり呆れてしまう。
 「だって、ヴィアベルに、やっと好い人が出来たんだし」
 私が「舌を石に変えてやろうかしら」と思いながら眉間に皺を寄せたのを見たカルムは慌てて、顔を青ざめさせて言い訳を始めた。
 「そんなんじゃないのよ、あの人と私は。
 ・・・・・・私はあの人に、カグラさんに雇って貰ったの」
 私が小さく肩を竦めて薬草を束ねると、不意に厳しい顔つきになったアンブルさん。
 「聞いたぜ、『森』の奥に入るんだってな。
 私も仕事を入れてなかったら、手伝ってやりたいけどなぁ」
 アンブルさんは本当に残念そうだった。聞けば、明日の朝早くに隣町へ向かう、商人を護衛する依頼を受けてしまったそうだ。
 「ありがとう、アンブルさん」
 「でも、危なくない?」と森の恐ろしさを母親から懇々と聞かされてきているカルムの顔色は先程より悪くなっている。
 「危ないでしょうね。でも、カグラさんは『行く』って聞かないの」
 「ヴィアベルがわざわざ、案内をする必要は無いんじゃないかしら?」
 考え直したら、と私の左手を力強く握るカルムの手に私は右手を重ね、首を小さく横に振ってみせる。
 「・・・・・・正直、初めてなの」
 「何がだ?」
 「見ず知らずの、しかも、初対面の他人に対して、『何とかしてあげたい』って気持ちになったのは」
 私の言葉に、アンブルさんとカルムは瞬きを繰り返した。
 「さっき、カルムがからかった時は否定したけど、多分、私、カグラさんの事が好きになり始めてる・・・・・・と思うわ」
 自分でも尻尾の先まで熱が篭もっているのが、わざわざ触らなくても解る。
 「あぁ、くそっ、羨ましいぜ、ヴィアベル、お前」
 未だに、自分を負かすほどの相手に出会えていないアンブルさんは「悔しいぜ」と言いつつも、私に向けてくれている笑顔は優しかった。
 「・・・・・・でも、本当、気をつけてね」
 「分かってるわ、無理はしない」
 一層、心配そうな表情を深めたカルムを逆に元気付けるように、私は彼女の頬をそっと尾の先で撫でてやる。

 お昼頃、買い物を追えたカグラさんが、馴染みの喫茶店で他愛の無いお喋りに花を咲かせていた私たち三人の元にやってきた。両腕には大量の紙袋を抱えているのに、その体幹をまるでブラさずに歩いているのを見たアンブルさんは「ほぉ」と感心の声を小さく上げた。
 「ちょ、ちょっと、戦いを申し込まないで下さいよ」
 アンブルさんの目に好戦的な光が灯った。それに気がついた私は焦るも、返された言葉は意外な物だった。
 「・・・・・・止めておこう」
 「え?」
 「負けはしない・・・・・・と思いたいが、正直な話、楽に勝てる気もしないな」
 私とカルムはアンブルさんの相手と自分の実力差を見抜く眼力の高さを知っているだけに、緊張した面持ちの彼女が漏らした自信無さ気な台詞にただ驚くしかない。
 「こんにちは」
 「こ、こんにちわ」とカルムはアンブルさんの背中に隠れながら、微笑んでいるカグラさんに頭を下げる。
 「市場の方に行ったら、もう店じまいをしたと聞いたんで」
 改めて、アンブルさんはニコニコと人畜無害な笑顔を浮かべているカグラさんの頭のてっぺんから爪先まで鋭い視線を走らせ、肩を大きく竦めてから彼に握手を求めた。
 「初めまして、私はアンブル・エキャルラットだ」
 「カグラ・ムラマサだ。
 光栄だな、かの『鋼の爪』にお会いできるなんて」
 「いや、私などまだまだ未熟者だ」
 自分の手を握ったカグラさんの言葉に苦笑い混じりに首を横に振ったアンブルさん。
 「そちらの方は一度会っているな、確か、カルム・スリさんだったか」
 「は、はいっ」
 「改めて、よろしく」とカグラさんに手を握られたカルムは耳まで真っ赤になってしまう。
 「大丈夫かぃ?」と今にもヘナヘナと腰を抜かしてしまいそうなカルムを心配するカグラさんを見ていた私の胸に一瞬、『嫉妬』の炎が揺らめいてしまう。
 「お買い物は済んだんですか?」
 極力、声に感情を篭めないように気をつけながら尋ねた私の声は不自然に軋んでいた。
 「あぁ、どうにか」
 「何を買ってきたんですか?」とカルムが聞くと、カグラさんは紙袋を開いて、中身をテーブルの上に出してみせる。最初に出てきたのは水がタップリと入ったボトルが五本。
 「水だな、とりあえず5ℓ」
 「!?」
 「あぁ、安心してくれていい。ヴィアベルさんに持ってもらうのは一本だけだからよ。
 それで、『発光』と『発火』の魔術札に、バナナやチョコなどの食糧」
 次に、出てきたのは拳大の岩?
 「岩塩か。長時間、歩くと汗を大量にかいて、塩分補給の必要が出てくるからな」
 「天候が変わってしまう事を予想してカッパ。あと、虫除け」
 そうして、カグラさんは自分の足元を指差す。
 「うわっ、凄い」
 カグラさんが見せてくれた長靴の裏には鉄製のスパイクがびっしりと付いていた。近づいて来る時にカチャカチャと妙な音がしていたから何かと不思議だったが、この音だったらしい。
 「底をフェルト素材にした滑りにくい防水性の川足袋か」
 「靴屋さんの工場を借りて修繕してきたんすよ」
 そうして、最後に出したのは『通信』の魔術札だったが、私達が足を踏み入れる森は各属性の魔力が混ざり合っており、先に出した使用時に魔力を流し込んで効果を発揮する魔術札と違って、周囲の魔力の属性に影響を受けやすいこれは役に立たない可能性が高かった。「まぁ、無いよりは有った方が心強いからな」とカグラさんは道具を紙袋に戻していく。
 「森に入るそうだな」
 「あぁ、随分と危険な森だと聞いてる」
 「崖を登るそうだな」
 「普段、使っている道が塞がってしまったそうなんでね」
 「ヘビーイチゴだったか、それを探しに、か」
 「あぁ、もっとも、本当にあるかどうかは判らねぇんだが、『ある』可能性が1%でもあるなら、それに賭けてみないと気が済まない性分なんで」
 「アンタがしたい事を止める気は微塵も無いが、アンタの我儘で私の友人が傷を負うよな事があれば、私はアンタを八つ裂きにするぞ」
 そう言って、アンブルさんは危険な光を放つ爪を尖らせた。
 「忠告は心に留めておくが、案内を自分から買って出たのはヴィアベルさんだ。
 依頼人である俺を守れなんて無理は言わねぇが、自分から『やる』と口にした以上は、自分の身は最低限、自分で守って貰わないと困るな」
 カグラさんは並みの冒険者を震え上がらせるアンブルさんの容赦ない闘気を真正面からビシビシと当てられているのに、まるで動じていない。もしかして、外見に見合わず、かなり強いんだろうか? さっきの、アンブルさんの言葉も、それを見抜いたからなのか。
 「・・・・・・確かに、な」
 暖簾に腕押しだと悟ったのか、アンブルさんは爪を引っ込める。
 「それでも、ヴィアベルは私の大事な友達だ。
 なるべく、危ない目には遭って欲しくない」
 「大丈夫、出来るだけ安全なルートを選ぶから」
 私はドンと胸を叩くが、アンブルさんの表情は晴れない。
 すると、運ばれてきた紅茶にミルクを渦を巻くように注いだカグラさんがポツリと漏らした。
 「俺も冒険者の端くれだ。
 安心してくれ、と安易には約束できねぇんだが、無理だと判断したら、強引に進もうとするヴィアベルさんを担いでも帰ってくる」
 「頼む」
 「お願いします」
 アンブルさんとカルムは二人揃って、カグラさんに頭を深々と下げた。
 そんな二人の気持ちが嬉しく、不覚にも私は涙が溢れ出そうになってしまう。慌てて、顔を背けた私にカグラさんはウィンクをしてきた、「アンタは良いお友達を持って、幸せもんだな」と微笑みながら。
 別れ際、不意にアンブルさんは私を手招きし、柱に背中を預けながら道中の無事を改めて祈ってくれた。
 「本当に気をつけろよ・・・・・・まぁ、あのカグラさんが私の予想通りの人間なら、大抵のアクシデントは乗り越えられるとは思うけどな」
 「え!? カグラさんって、もしかして、結構な有名人なの? 私もどっかで聞いた覚えはあるんだけど、なかなか思い出せないのよね」
 「―――・・・本物ならね」とアンブルさんは口を濁した。
 私がしつこく聞いても、確証が持てない限りは口を閉ざす性格の彼女はそれ以上は詳しい事を話してくれなかった。
 ただ、一つだけ、「本物か偽者かは別問題として、あの人の絶対に側を離れないように」と釘を刺された。

 そして、三日後、辺りが薄明るくなって来た頃に、私達は膨らんだ鞄を背負って家を出る。
 山の裏側の崖に辿り着いたのは家を出てから一時間後だった。
 頂上こそ、どうにか目視で確認できるが、落ちれば間違いなく命は無いであろう高さの崖を見上げたカグラさんはゴクンと唾を飲み込んだ。さすがに、心なしか青ざめ、頬もわずかに引き攣っていた。
 しかし、口許は笑っている。
 (あぁ、この人もアンブルさんと似たタイプなのね)
 危なければ危ないほど気が昂ぶり、実力を存分に発揮できるタイプだ。ムラが激しいとも言えたが、こんな表情をしてくれていると少しだけ安心できた。
 「じゃ、登るか、気合を入れて」と、ジャングルジムか何かを目の前にしているような感じで、気軽に言い放ったカグラさん。
 緊張で心臓が痛くなっていた私はただ、小さく首を縦に振るしか出来なかった。

 カグラさんのクライミングは凄まじかった。人間かと疑いたくなるような身軽さと俊敏さで登っていく。岩肌を尋常じゃない握力でしっかりと掴み、わずかな凹凸にも爪先を突っ込んで安全な体勢を保持しながら、焦ることなくジックリと。しかも、人の足に『変化』させれば、もっと登り易かったのだが、それだと魔力を無駄に消費してしまって、万が一の時に自分の身を護れねぇぜ、とカグラさんに指摘を受けて、蛇身のままでいた私には登り易いが自分には登り難いルートを選んでいるのにも拘らず。

 そして、途中、休憩を挟みながら、私達は無言でクライミングを続け、三時間後、ようやく頂上に辿り着いた。
 頂上からの景色は言葉に出来ないほど美しく、地面にへたり込んだままで私 はボロボロと大粒の涙を流しながら、遠くに見える海を見つめた。
 「・・・・・・綺麗」
 「海に行った事はねぇのか?」
 私より重量のある荷を担いで、ここまで登ってきたのに疲労度は私の半分以下しかないようなカグラさんに聞かれた私は小さく頷く。
 カグラさんが渡してくれた水筒を一気に煽り、私は喉を潤す。
 「写真でならあるんですけど、実際に行った事は一度も・・・・・・
 カグラさんは旅の途中で何度も行ってるんですよね」
 「あぁ、海中も。スキュラやマーメイドのお嬢さんに雇われてね」
 「どんな感じですか?」
 「一言で表現するなら、『大きい』かねぇ、月並みで申し訳ないが」
 「大きい、ですか」
 「自分の小ささが嫌でも解るよ。
 靴を脱いで砂を踏みながら進んで、足を寄せては返していく波に撫でられると、一層、そんな気分になったよ、俺は。
 自分はまだまだ未熟、だからこそ、ここからなんだ、って」
 「行ったみたいな」
 「行けば良い」
 「え?」
 「アンタを縛る物なんて何一つとして無いんだ。
 自分がやりたい事、やってみたい事は『なるべく』じゃなく、絶対にやるべきだ」
 「・・・だから、カグラさんは旅を続けてるんですか?」
 「当たり、かな。もっとも、旅は『目的』じゃなく、『手段』の一つに過ぎねぇんだが」
 そう、カグラさんは悪戯っぽく、決して上手とは言えないウィンクをしてきた。
 「さて、しばらく体を休めたら行くか」
 「はいっ」
 私はバナナの皮を剥きながら、先に鬱蒼とした薄暗闇が待っている細道を見つめ、ゴクリと息を呑んだ。
 (考えれば、この崖を登ったのも初めてだけど、下りるのも初めてだわ)
 普段、私は何があってもすぐに逃げられるよう、森の入り口辺りで薬草を摘み取っている。その理由は獣や山賊をやっている人間が相手なら石化させれば良い。森の中で暮らしている魔獣は濃い瘴気に慣れている所為で、逆に森から出てしまうと動きが鈍くなるから問題ない。
 だからこそ、相手が機敏に動ける陣地の中に踏み込みすぎるのは危険だった。
 森は奥に入れば入るほど危険度が増すのではなく、中央に近づけば近づくほど獣や魔獣の強さや凶暴性も高まるそうなので、どの方向から入ろうが危ない事には変わらない。
 (・・・・・・アンブルさんの言った通り、カグラさんから離れないように歩こう)
 一時間後、しっかりと体力を回復した私達は森に繋がる道とは呼べない道へと、深呼吸を一つしてから足を踏み入れた。

 「獣・・・出てきませんね」
 この森は未踏未開の地である為に地図など存在しない。コンパスで方角を確認しながら、慎重に進んでいる為に私達の歩みは速いとは言えなかった。
 しかし、少なくとも一時間半は歩いているのだが、最も力が劣る為に餓えている筈の動物達が枝上や藪の中から襲い掛かってこない。わずかな気配や視線を感じるので、ノロノロと進んでいる私達を追っては来ているようなのだが、一向に動きは見せない。
 (ま、まぁ、襲ってきて欲しい訳じゃないけど)
 「まぁ、標的との実力差を計れないほど、頭が悪いって訳じゃねぇんだろ。
 アイツらだって、石にされるのは嫌だろうし」
 (いやいや、メデューサである私を恐れてる訳じゃなくて、むしろ、ただの人間にしか見えない貴方を怖れているんじゃありませんか)
 頬を伝った汗を拭い、私はその言葉をあえて飲み込んだ。
 カグラさんはマントの中に幾つかの護身具を仕込んでいるし、「ニホントー」を手にして歩いている。しかし、ここの獣の大半は、刃物を持っている人間には怯んだりなどしない。銃器を持っていれば、火薬の臭いを嗅ぎつけて警戒こそするだろうが、自身の俊敏性をフルに活かして襲い掛かってくるだろう。
 にも関わらず、私・・・達を襲わないのは、カグラさんが隠している実力を、一端だけでも本能で感じ取っているからだろう。
 不意に、カグラさんは足を止めた。
 「しかし・・・・・・いい加減、ウザッたいな」
 自分達の周りをビクビクとしつつも、万が一の好機を期待して微妙な距離を置いた上で追ってきている獣達の気配にやはり勘付いていたらしい、カグラさんはガリガリと頭を掻く。
 そうして、トンと一つ、足踏みをした。
 途端に、恐怖に染まった悲鳴を上げながら獣達は我先にと、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。耳に入った、遠ざかっていく足音があまりに多いものだから、私は唖然としてしまう。
 「そ、そんなにいたんですね・・・・・・と言うか、今、何かしたんですか?」
 私にはただ足踏みをしただけに見えたが。
 「ちょっと威嚇を」
 「私は何も感じませんでしたけど?」
 「獣を追い払える程度だし、ヴィアベルさんにここで気絶されても困っから。
 約束どおり、置いていっても構わねぇんだろうが、やはり、俺の良心が痛むんで」
 そう嘯いたカグラさんだったが、ふと眉根を寄せた。
 「しまったな・・・ちょっと強くしすぎたか」
 苦い表情を見せた彼の呟きに私が「え?」と漏らした時だった、「ビーーーン」と言う甲高い羽音が私の耳を打ち据えたのは。
 「嘘っっ」
 慌てて、周囲を見回せば、この辺りに巣を作っていたと思われるホーネットに、私達は包囲されてしまっていた。
 「珍しい事もあるものだな」と、リーダーと思わしき、頬に十字傷を持つホーネットがカグラさんへと、麻痺毒で妖しく光る槍の穂先を突き出した。彼女等を刺激しないよう注意を払いながら、カグラさんとの距離をそろそろと詰めた私は彼の横顔を盗み見た。
 カグラさんの顔色は変わっていない。感じているのかどうかは定かはないが、恐怖の色は見えない。しかも、周りのホーネットは大半の男を発情させる淫毒を全身から放出しているのに、それにも反応していないように見えた。
 カグラさんの無反応ぶりに違和感を覚えているのは私だけではなく、ホーネット達も同じようで、リーダーは彼を「そこそこに出来る人間」と見定めたようで、他のホーネットも彼女に倣うように槍を構え出す。
 「私達の目的はあくまで、男だけだ。ここいらの山賊は狩り尽くしてしまってな。
 隣のメデューサ、命が惜しくば、さっさと去れ」
 「それは困るな、二つの意味で」
 カグラさんがゆらりと長身を動かすと、ホーネット達は触覚を尖らせる。
 「俺は探し物をしなきゃならないし、ヴィアベルさんにはそこまで案内をして貰わないとならん」
 ついに「ニホントー」を使うのだろうか、と場違いな期待に私は胸を膨らませかけ、頭の蛇たちも興奮で身をくねらせ出す。だが、カグラさんは「ニホントー」を鞘から抜き放つ事無く、地面に荷物と一緒においてしまう。
 彼が武器を手放したのを見たホーネットは訝しげな表情を浮かべたが、警戒を緩めようとはしなかった。
 「どうかねぇ? お互い、ここは顔を合わせなかった事で・・・・・・そちらから退いて貰えるとありがたいんだがね、俺としても」
 言葉だけ聞けば低姿勢だが頭を少しも下げず、無茶な要求を口にしたカグラさん。思わず、私は気が遠くなりかけた。いくら、私達、魔物娘に人間を殺す気がまるで無くても、元来、気性の荒々しいホーネットにそんな言葉を口にしたら、両腕を落とされたって文句は言えない。言おうとしたって、その口を針と糸で縫われてしまう可能性もあるだろう。
 アンブルさんの『見込み』は珍しく外れていたようだ。
 (この人は単に頭の螺子が外れちゃってるだけだわ)
 私はホーネットに気取られないよう、周りを見回す。大体、数は十五。一番、強いのは間違いなく十字傷のホーネットだろう。彼女さえ、石にできれば交渉を円滑に進められる。
 そう決心した私が魔力を目に集中しようとした時だった、いきなり、カグラさんが動いて私の視界をその広い背中で覆い隠してしまった。
 「?!」
 私は慌てて、カグラさんに退くよう、背中を肘で小突いたが彼は頑として、その場から動こうとはしなかった。
 「・・・・・・どうかね?」
 「却下だ」
 キッパリとリーダーはカグラさんの要求を蹴った。
 そうして、彼女は槍で宙に小さく二重の円を描く。その動きに頷いた、私達を囲んでいたホーネットが動いて退路を塞いでしまう。
 「大人しく、私達に捕まれ、男・・・・・・悪いようにはしないぞ、貴様のような勝気な上に顔の整った男は」
 「生憎、こっちも却下だ」とカグラさんはニッコリと笑った。
 「残念だ」と肩を竦めたリーダーが槍を突き出した。
 「行け!」
 背中の澄んだ羽を一つ大きく震わせ、毒で光る槍を構えた部下達は私達に向かって突っ込んできた。
 (どどどどどどうしよう、後ろは駄目だから、右? 左?)
 危険を承知で森の中に飛び込むべきだろうか、と迷った私が目を前に戻した時、カグラさんの姿はそこに無かった。
 ただ、カグラさんが地面を蹴った時に上がったと思われる、土煙だけが残っている。
 「え?」と私が間の抜けた声を上げかけた刹那、カグラさんは槍を前に突き出したままのリーダーの左側に現れた。そうして、槍の柄を握ってしまう。
 「んなっ」
 槍を振り抜けず、引けなくなったリーダーが驚愕に顔を歪めかけたのと同時に、彼女を助けようと空中で方向転換したホーネット達が次々と手から槍を落とし、地面へと崩れ落ちていく。
 「お前らっっ」
 地面でピクピクと小刻みな痙攣を繰り返し、辛うじて自由の利く目を動かして、自分に助けを求めてきているのを見たリーダーの顔色が青ざめる。
 何度もしつこく言う事じゃないが、私はメドゥーサだ。魔力を篭めた視線で相手を物言えぬ像に変える能力を持つ魔物娘である以上、動体視力にはそれなりに自信はあった。
 しかし、そんな私や戦闘のプロと言っても過言じゃないホーネットの目ですら、自分に向かって槍を向けて突っ込んでくる相手の隙間を駆け抜けると同時に必倒の攻撃を叩き込んだカグラさんの動きを追う事は叶わなかった。
 首をわずかに動かして背後を振り向いたカグラさん。その瞳の冷たさと言ったら、表現のしようがない。
 「殺しちゃいねぇ、見て解る通りな」
 そう呟いた彼の握り硬く折り曲げた指の間には、目を細めないと見えないほど髪の毛なみに細く長い針が握られていた。
 「これで、数時間は身体が痺れて指の先まで動かせなくなるツボを刺した。
 ちなみに、そのツボをあと数cmばかり深く刺していたら、呼吸を司る神経も麻痺させられたんだがな」
 恐ろしい事を微笑混じりに、サラリと口にしたカグラさんにリーダーの顔色は更に悪くなる。
 「さて、どうするよ? まだ、戦うかぃ?」
 俺はちっとも構わないがね、とカグラさんは優しく微笑んだままで、危険な光を放っている針の尖端を反応に窮しているホーネット達に向ける。
 「全員、俺の針で動けなくなって、地面に倒れたままでいたら、獣達に食べられてしまうだろうね、ろくな抵抗も出来ず」
 「・・・・・・参った」
 グッと言葉に詰まったリーダーは手から槍を落とし、おもむろに地面へと跪いた。その英断に、部下たちも続く。
 「嬉しいよ」
 カグラさんが拳を解いた途端、針は地面に落ちず、逆に袖の中へと素早く引っ込んだ。
 ゆっくりとカグラさんを刺激しないよう注意を払いながら腰を上げたリーダー。
 「では、仲間達を動けるようにしてやって欲しい」
 しかし、首を横に振ったカグラさんは爪先で地面を軽く蹴って土煙を上げたかと思うと、再び、私の前まで戻ってきた。
 愕然としているリーダーを安心させるように、カグラさんは微笑んだ。
 「スープか何かで身体を内側から温めた上で、大人しく二時間ばかり床に伏せていれば、起き上がれるようになるさ」
 「本当か?」
 「決着が付いた以上は嘘を吐くメリットはねぇよな?」
 小首を傾げたカグラさんを睨んでいたリーダーだったが、腹を括ったのか、無事である部下達に動けない仲間を担ぐよう指示を出した。
 「私はスティーリアと言う。想像も及ばぬほど強き貴方の名を教えていただきたい」
 ホーネットのリーダーである、スティーリアさんは地面に落とした槍を拾い上げると、穂先を地面に向けた上で、自分の名を告げた。
 「カグラ・ムラマサ。こっちはヴィアベルさん」
 カグラさんは拳を胸の前に上げてから、はっきりと名乗った。唐突に紹介された私は驚いたが、スティーリアに頭を下げられたので、慌てて頭を下げ返す。
 「この敗戦の記憶、私は死ぬまで忘れないだろう」
 「では、スティーリアさん、勝者の権利として一つ質問させてくれ」
 「何でも」
 「・・・・・・ヘビーイチゴに関して知っているか?」
 「ヘビーイチゴ? 初めて聞く名だ」
 「この森の何処かに成っていると聞いたんですけど」と私が口を挟むと、スティーリアさんは少し考える素振りを見せた。
 そうして、しばらくしてから、ハッと顔を上げた。
 「そのような名で呼ぶのかは知らないが・・・・・・五十年に一度、たった一つだけ実がなる花があるとは聞いた事がある。
 百歳を超える者でも、その実を口にできれば、瞬く間に青春時代に戻れる、と」
 「・・・・・・若返りの効果もあるの?」
 「確か、その花が実を結ぶのは今年の筈だ」
 「フフフフ、期待に胸が膨らむねぇ」
 ギラギラとした笑みを浮かべるカグラさんにスティーリアは若干、気圧されてしまったのか、距離を取ってしまう。
 「だが、何処に生るかは私も知らない。恐らく、女王様もご存知ではない、と思う」
 「ヘビーイチゴかどうかはともかく、その手の果実があると解れば、大助かりだ。感謝するよ、スティーリアさん」
 また、カグラさんは目にも止まらない速度で動き、スティーリアさんの前に迫り、彼女の手を握り締めて感謝の意を示した。突然、手を握られてしまったスティーリアさんは言葉も出ないようだ。
 「本当にありがとう」
 「役に立てたのかは解らんが、礼を言って貰えると救われる」
 スティーリアさんはぎこちなく頷いた。
 「では」と手を離したカグラさんはやっぱり、追う事の出来ない速度で私の横へと戻ってきた。
 そうして、私達はホーネットのテリトリーを抜けた。

 「危なかったですね」
 「本当に・・・・・・」とカグラさんは溜息を漏らした。
 (いやいや、溜息を漏らしたいのは私だから)
 頭の蛇が「シャー」と甲高く息を吹く。
 私が心の中だけで放ったツッコミが聞こえたのか、カグラさんは一度目より大きく、溜息を吐き出した。
 「あの時、ヴィアベルさんがスティーリアさんを邪視で石に変えていたら、アンタは八つ裂きにされてましたし、俺も彼女等を殺さないとならない所だったよ」
 「え?」
 「恐らく、と言うか、間違いなく、スティーリアさんは部下達に自分が人質や交渉の道具にされても構わずに自分ごと相手の命を奪うように日頃から言っていただろうからな」
 つ、つまり、カグラさんが私の邪魔をしたのではなく、私が場を穏便に済ませようとしていたカグラさんの邪魔をしかけた?
 途端に、気恥ずかしさと後悔が腹の底から込み上げてきた私は反射的に、前を歩くカグラさんに頭を下げ、大声で自分の非を詫びるしかできない。
 「すいません!!」 
 「まぁ、何事もなくて良かったよ」
 振り返ったカグラさんの口許に浮かんでいるその微笑は苦々しかったものの、先程のものと比べるとまるで恐くなかった。
 「お、怒ってないんですか?」
 「アンタが邪視を使おうとしているのに気付いた時こそ、ヒヤッとしたが、 ヴィアベルさんはヴィアベルさんで、俺と自分の命を繋ぐ為にはその選択が正しいと思ってた訳だから、それを攻めるのも筋が違うって話だろう?」
 疑問系で尋ねられても返すべき答えに困ってしまう私。
 「過ぎちまった事は気にしねぇ、冒険の鉄則だ。
 失敗は次の機会に活かせば良いだけだ」
 「―――・・・はいっっ」
 一瞬だけ、私を窘めるように表情を険しくしたカグラさんの言葉に私は首を力強く縦に振った。
11/06/09 15:03更新 / 『黒狗』ノ優樹

■作者メッセージ
二作目です
以前の投稿で頂いたアドバイスを参考にしてみました
後編は明日以降に投稿したいです

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