連載小説
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第一章
 雨が降っていた。
 白無垢姿の人影が、降り注ぐ雨粒を物ともせずに山中のけもの道を駆けていた。
 目深にかぶっている角隠しのせいでその表情は分からなかったが、必死に何かから逃げている様子であった。
 滴はかなり大きな音を立てて木の葉を叩いていたが、花嫁の耳には自らの荒い呼吸音しか聞こえない。
 雨が降っていることに気が付いているかも怪しい。それだけ無我夢中で花嫁は傾斜のきつい山道を走っていた。
 ぬかるみに足を取られ、転びそうになる。
 とっさに両手で受け身を取るも、泥水が飛び散り、白い衣装が黒く汚れた。
 そこでようやく花嫁は顔を上げる。
 容赦なく叩きつけられる雨粒を顔に浴び、初めて雨が降っていることに気が付いた。

 花嫁は後ろを振り返る。
 坂の下方、まだはるかに距離はあるが、藪の切れ目に村人たちの着物の色が見え隠れしていた。
 自分を追ってきている。完全に撒くのはやはり難しいようだ。
 花嫁は坂の上を見やる。
 木々の間からかすかに空が見えた。厚い雨雲で暗い空が。
 顔中に雨を浴びながら、花嫁はぬかるみを踏みしめて立ち上がる。
 ここでつかまるわけにはいかなかった。少しでも村から離れなければならない。一里、一尺、とにかく一歩でも遠くに。
 坂を上り切り、一気に視界が開けた。
 これで上りは終わりだ。その一瞬の油断が命取りだった。
 花嫁は再び足を滑らせる。
 あ、と思った時にはすべてが遅かった。上り坂の先は、急激な下り坂になっていた。
 花嫁の体は傾斜を一気に転がり落ちてゆく。平衡感覚は一気にかき乱され、冷静に考えることなど出来なかった。
 何かに掴まろうともがくが、腕は空を切り、足に力は入らなかった。体が転がるに任せるしかなかった。
 いつの間にか白無垢は無くなっていた。どこかに引っかかって脱げてしまったようだ。
 そして花嫁の体からすべての支えが失われる。
「あ」
 視界には、半分崖に切り取られた暗い曇天だけが広がっていた。

 死んだと思った。最後にあいつの笑顔が見たかったが、やはりそれも自分には過ぎた願いだったのかもしれない。
 ぱちん。と何かが始めるような音で目が覚め、そんなことを考えていた自分に気が付いた。
 目を開ける。薄暗い、石の天井が見えた。
 体を起こそうとしたものの、出たのは小さなうめき声だけだった。腕、わき腹、腰、頭、脚。全身ありとあらゆるところに痛みが走り、うまく体が動かせなかった。
 それでようやく、自分が崖から転げ落ちたのだと自覚した。
 情けない声を上げながらも何とか上半身を起こし、自分の体を確認する。大きな傷ができたのでは、と考えると恐ろしかったが、自分の体のことがわからないのはもっと怖かった。
 白無垢も角隠しも、斜面を転げるうちにどこかに引っ掛けて無くしてしまったらしい。身に着けているのはいつもの襤褸だけであった。
 だが、その襤褸の下には、白い布が巻きつけられていた。にわかには信じられなかったが、どうやら体中にあるらしい全ての傷に手当がなされているようだ。
 薬草を貼り付け、包帯のようなもので巻くという簡単なものであったが、体中、痛むところには全て丁寧に処置がなされていた。
 誰かが助けてくれたようだ。
 見たところここはどこかの洞窟のようだ。焚火が焚かれていて、ある程度の広さもある。床には枯草が敷き詰められていて寝ていて体を痛めることもなさそうだ。
 だが、薄暗く、少しじめっとしていて、人が好んで住むような場所とも思えなかった。
 恐らくここの住人が自分を助けてくれたのであろうが、しかしそれは一体どんな人物なのだろう。人家ならともかく、このような住処では想像することも難しい。
 見渡す限りごつごつした石の壁だったが、闇が広がる穴が二つほどあった。一つは天井に、そしてもう一つは壁に。
 通風孔と出入口、といったところなのだろうか。暗闇の先に何が待っているかはわからないが、進んで行ってみようか。
 立ち上がろうと足に力を入れる。しかし焼けつくような激痛が足首に走り、体勢の崩れた体は無様に地面に激突する。あまりの痛みに声も出せず、冷たい脂汗が滲んだ。
「だめです。まだ立ってはいけません」
 女の声がした。
 小さな声だった。だが、弱弱しい感じではなく、柔らかく、聞くものの心を落ち着かせる声だった。
 声は洞窟内に反響し、声の主が遠くにいるのか、近くにいるのかはわからなかった。すぐ近くから声がしたように思えたが、しかし周りには誰もいない。
「幸い骨は折れていませんでしたが、酷く筋を痛められているようでした。傷が治るまではここで休んでいてください」
「しかし俺は」
 自分の声が、低く木霊する。
 休んでいるわけにはいかないのだ。という言葉は出かかっただけであった。
 帰る場所も家族も全て捨ててきたのだという事を思い出したからだ。
 無我夢中で走ってきた。だが、その逃走の先に何の希望もなかったことを思い出し、全身から力が抜けてゆく。両手を広げて仰向けに寝転がり、目をつむった。体が重い。もう立ち上がれる気もしない。
「だ、大丈夫ですか」
 女の酷く慌てた声が少しおかしかった。
「実はあまり大丈夫では無いんだ。いや、体の方は手当をしてもらったおかげで死ぬことはなさそうだが、あんたが手当を」
「ごめんなさい。あまり慣れていないもので、上手にできなくて」
 気遣う声音が耳に心地よかった。脳裏に勝手に女の姿が浮かんでゆく。声の主はなんというか、細身で、大人しそうな、若い女。そんな気がした。
 自分にはもったいないような女だ。そんな女に助けてもらえただけでも身に余る幸運だ。
「いや、上手いもんだ。うちの村医者よりよっぽど上手いよ」
「あの、その、えっと。ありがとうございます」
「こちらこそだよ。あんたは命の恩人だ」
 ふふっと女が小さく笑った。瞼の裏の女が、涼やかに小さく微笑む。
「まさか空から殿方が降ってくるとは思いませんでした。うまく"巻き取れて"本当に良かった
。間に合わなかったらと思うと、今でも胸が凍るようです」
 なるほど、彼女が助けてくれた時には花嫁衣装はどこかに行ってしまっていたというわけだ。
 こんな屑みたいな人間、死んでも村の者は何とも思わないだろうに、この見ず知らずの女性は自分なんかの命でも惜しんでくれるらしい。
 しかし巻き取るとは何かのたとえだろうか。あまり聞きなれない例えではあるが、もっとも自分は村から一歩も出たことがないのだから、知らないことがあっても当然だろう。外の世界では当たり前に使う表現なのかもしれない。
「でも、どうして空から?」
「先も見ずに走って、焦って崖から足を滑らせてしまったのさ。愚痴にしかならないが、俺が走らなければならなかった理由を聞いてくれないか」
 一瞬の戸惑いが沈黙に滲んだあと、彼女は控えめに答えてくれた。
「よろしいんですか」
「ありがとう。少しは気を紛らわせそうだ」
 実際のところ、脚が焼けるように痛いのだった。無論全身の傷も痛んでいるが、脚に比べれば無いに等しいくらいだった。
 さて、どこから話したものか。


 まず俺が何者なのか、そこから話を始めようか。
 あんたが知ってるかどうか……この山の麓、都への街道沿いに小さな村があるんだ。俺はそこに住んでいた。妹の"さき"と二人でな。
 両親? 親はさきを生んですぐに死んでしまったらしい。だから俺達は親の顔も知らないんだ。
 残してくれたものと言えば、この体と借金だけさ。働いて返そうにも小作人としても下の下としか扱ってくれない。毎日毎日人の倍働かされて、飯は半分程度。
 地主に掛け合っても、おまんまと家があるだけでもありがたく思えの一点張り。俺も妹も日が昇ってから暮れるまで田畑で働いて、夜は冷たい隙間風の入る納屋で藁に包まって眠りにつく。そんな生活の繰り返しだった。
 ……あいつ、まだ若い娘だってのに真っ黒に焼けて、擦り傷だらけで。
 人並みに娘らしく過ごさせてやりたかったけど、俺にはどうすることも出来なかった。あいつはいつもお兄ちゃんが居てくれるだけで幸せだと笑ってくれたが、俺はその笑顔を見るたび申し訳なくてな。
 でもな、さきは色は黒いが、綺麗な顔をしているんだ。あれで色が白ければ、都の連中だって放っておかないはずなんだ。器量だっていいし、料理洗濯、何でも出来る。
 けど、よりにもよって寄ってきたのが最悪の相手だった。
 あんたも噂くらい聞いているだろう? 都の大商人、田沼大丸と言えば"女壊し"で有名だ。人並み外れた異常な性欲の持ち主で、気に入った女を見つけては片っ端から金や権力を使って強引に手に入れているらしい。手に入れた女は連日連夜繰り返される拷問まがいの夜伽で、すぐに駄目にされてしまうって話だ。
 そんな女の敵が、うちの村にもやってきた。ただ都への道すがら村を通り抜けただけだったが、その日は村中の女が家の中に閉じこもっていたよ。目をつけられたらたまったものではないってな。
 だが、うちの妹はいつも通り働きに出るしかなかった。
 そして運悪く目をつけられてしまったんだ。
 村長の話によれば、大丸は妹の健康で頑丈そうなところが気に入ったそうだ。おもちゃにしてもすぐには壊れないだろうってな。
 大切な妹をそんな風に見られて、正直その言葉を聞いただけでも殺してやりたいと思ったが、村の地主は乗り気だった。田沼に嫁入りさせれば村に謝礼として金が入るからな。
 俺は妹にすぐ逃げるように言った。だが、さきは想い人に最後に会うまでは村を出ないと言い張った。
 女ってのは誰でも度胸があるもんだと思ったよ。しかも相手は村の人間じゃないという話だった。
 俺は心臓がつぶれる思いだったが、ただ一人の妹の頼み、しかももう会えなくなるかもしれない妹の頼みとあっては聞かないわけにはいかなかった。俺に出来ることはそれくらいしかなかったから。
 うちの村には定期的に旅の薬売りが来ていたんだが、妹はいつの間にかそいつといい仲になっていたらしい。
 結婚式の二日前、ようやく薬売りはうちの村にやってきた。
 説得するまでもなく彼は妹を連れて逃げることを約束してくれた。だが、式が近づいたということで村にも大丸の手の者が何人も入り込んでしまっていて、逃げようにもなかなか逃げられなかった。
 式の前日。妹は花嫁衣装で都へ向かうことになっていた。これが逃げられる最後の機会だった。
 俺達は村の連中と大丸を騙す算段を立てた。俺は花嫁に成り代わり、周囲の目を引いて、追っ手を連れて遠くへ逃げる。そのうちに、妹はそれとわからぬよう男装して、薬売りと一緒に安全な所へ逃げる。
 算段の通り、俺は花嫁に化けて村から飛び出した。先のことは考えていなかった。
 いや、一目海を見てみたくて、山を越えて海まで逃げてやろうと思ったんだが、山道の途中で足を滑らせて崖から落ちてしまってね。間抜けな話だろう。


 話すうちに自分がどんな状況に陥っているのかということを徐々に実感を伴い始め、最後の方は言葉が震えそうになってしまった。
 妹とはもう会えないだろう。村にも帰れない。帰ったら何をされるか分かったものではない。
 帰る場所は無くなり、帰りを待つ人も消えた。
 妹は薬売りに任せておけば大丈夫だろう。あの男は自分よりもよっぽど頼りになり、妹のこともちゃんと想ってやってくれているようだったし。
 自分にはもう居るべき場所は無いのだ。
 涙は流れなかった。ただ、ひたすらに体が重い。ああ、なんだかもう疲れてしまった。
 目じりから滴がしたたり落ちた。
 自分の物ではない。不思議に思って目を開けると、また一滴、頬に垂れ落ちる。
 どうやら天井から滴が落ちているようだった。目元の水滴を拭い、目を凝らすと
「え」
「あ」
 天井に、女が張り付いていた。いや、それは女ではなかった。上半身は確かに人間の女の物であったが、下半身はたくさんの肢の生えた百足のそれであった。
 長く伸びる昆虫の身体。その無数の肢で天井の凹凸をうまく掴んで張り付いているのだ。
 その彼女が急激に近づいてきた。落ちてきたのだ。と気が付いた時には、息がかかるほどすぐ近くに彼女の顔があった。

 彼女の髪が柔らかく頬を撫でる。目に見えるのは、彼女の顔だけだった。
 白い肌、気弱げな眉、揺れる瞳はなぜだか濡れていて、頬も少し赤かった。
 声の主は彼女だったようだ。瞼の裏で想像していたよりも、実際の彼女はもっと綺麗だった。
 今までこんなに綺麗な顔は見たことがない。少なくとも村の女達とは比較にならない。思わず見とれてしまった。そして彼女の方が先に我に返り、身を離した。
「ご、ごめんなさい。いきなり目が合って驚いて滑ってしまって……。大丈夫でしたか」
 体を探りつつ身を起こすも、どこもぶつけてはいないようだった。あんなに咄嗟であったにも関わらず、彼女は自分の体をよけて着地してくれたのだ。
 当の彼女は壁際で小さくなりながら目元を抑えていた。
「泣いているのか。どうして」
「話を聞いていたら、気付いたら涙が出ていたんです」
 そんなつもりはなかったのだが、なんだか自分が泣かせてしまったようで妙にばつが悪い。
「あの、私の姿は気味が悪いかもしれませんが、その、脚が治るまではここに居てください。その足で山を歩くのは危険すぎます」
「まあ、話した通り帰る場所もなくてな。置いてくれるなら逆にありがたいよ。
 なぁ、あんたはやっぱり妖怪なのか」
「はい。大百足の百合と言います」
 百合は目を伏せながら、おずおずと焚火の明りに自分の姿をさらけ出した。
 やはり下半身は百足であった。橙色の明りをてらてらと照り返す甲殻の足は不気味でもあり、同時に言い様のない美しさもまた秘めているようであった。
 肢が邪魔をして上手く着物が着られないのか、上半身は裸同然だ。鎖骨から胸、臍の下までつづく女らしく艶めかしい曲線が惜しげもなく露出されている。
 我に返り、慌てて目をそらす。娘の体を舐めるように見てしまった。不快に思われていなければいいのだが。
 そんな失礼な態度に、百合は怒るでもなく悲しげに眉を寄せるだけだった。
「お、大百足というものは、もっと大きくて、なんというか虫そのものの姿かと思っていた。いや、こんなに美しい女怪だとは」
「安心してください。お世辞で機嫌を取らなくても、私達妖怪は人を殺して食べたりしませんから」
「いや決して世辞では。…つっ」
 気持ちを分かってもらいたくて、つい体が動いてしまった。
 足を少しねじるように動かしただけで、足首から全身に向けて激痛が走った。
 うめき声を聞くなり、百合は即座に駆け寄ってきて脚の様子を見てくれた。その表情は気弱げでありながらも、こちらを思いやる真摯なものであった。
 彼女の指が足をなぞる。痛みに思わず声が出てしまった。こんな調子ではまともに考えることも、眠ることも出来そうにない。
「私の毒を打てば、痛みは和らぐかもしれません」
「毒を?」
「毒といっても、命に関わるようなものではありません。力が抜けて、痛みを"別の感覚"で忘れさせられるかもしれません」
 百合は迷いの浮かぶ瞳を赤黒くはれ上がった俺の足に向ける。
「こんな事くらいしか私には出来ません。でも……私は……」
「やってくれるか?」
 苦痛をこらえ、無理矢理に作った笑顔を百合に向ける。出会ってから、彼女はずっと悲しげな表情ばかりだ。こんな自分のために彼女が悲しむのはなんだか忍びない。
 自分が笑えば、少しは彼女も安心して笑ってくれる。そんな気がしたのだ。
「適量を超えれば薬も毒となる、と薬売りも言っていたしな。ならば毒も量によっては薬になるだろう」
 百合はしばしこちらの目を見ると、一つ頷いた。気のせいかもしれないが、一瞬だけ彼女の表情が和らいだ気がした。

 脚に向かって、ゆるく口を開く彼女。その口の中で、小さな牙が白く光る。
 焚火の明りに、髪をかき上げながら今にも噛み付こうとする百合の横顔が照らし出されている。その姿は妖怪とは思えないほど幽艶であった。
 肉に牙が食い込む感触で現実の世界に戻される。痛みは全くなく、むしろ噛まれたところから痛みが引いていく。
 それに続いて全身に倦怠感と、そして奇妙な感覚が広がり始める。
「どうですか」
 と問いかける百合。ほんのりと頬が桃色に色づいていた。見つめてくる深い紅色の瞳に思わず吸い込まれる。涙で濡れたままの長いまつ毛。薄紅色の柔らかそうな唇。
 見ているだけで心臓の鼓動が早く、強くなっていく。
 唇が近づいてくる。いや、近づいているのは自分の方か。彼女の熱い吐息が顔にかかる。もうどちらでもいい。どうでもいい。いまはただこの唇を……。
「おーい百合ぃ。いるかぁ。なんか山で変なもの拾ってよぉ」
「そんなに大声じゃなくても聞こえるだろう。それより何かいい匂いがしないか」
「これが俺の地声だっての。言われてみれば、確かに、男のような」
 第三者の声に、俺と百合は互いの顔が至近距離まで近づいていることに気が付き、慌てて顔を離した。
 何だ。俺は今一体何をしようとしていた? いや、それよりも別の女の声がしている。しかも二人分もだ。
 百合の名を呼んでいた。という事は彼女の知り合いだろうか。当の彼女はとろんとした目でこちらを見ているが。
 視線を追うと、自分の下半身に行き当たった。いつの間にか、またぐらのそれが天井に向かってそそり立ってしまっていた。
 顔から火が出そうになるとはこの事か。慌てて両手で股間を抑えるのとほぼ同時に、洞窟の入り口から新たな妖怪達が顔を覗かせる。
 先に入ってきたのは蜘蛛の下半身に女性の上半身を持つ二本角の生えた妖怪だった。身に着けている物は、眼帯のように片目に付けた札と下腹部の骨飾りくらいのもので、着物は着ていなかった。豊かな乳房も鍛え上げられた腹筋も惜しげもなくさらしている。青銅色の曲線美は精巧な工芸品のような美しさを感じさせた。
 野性味の強い精悍な顔立ちをしていて、百合とは何から何まで対照的といった感じだ。
 後から入ってきたのは人間の女性かと思われたが、よく見ればこちらも立派な角が二本生えていた。
 肉感的な体を隠すのは二枚の虎柄の布きれのみで、こちらもほとんど裸同然だ。金棒が腰紐に結わえてあって、両手で大きな酒樽を抱えている。樽に押し付けられて、今にも布きれから乳房が零れ落ちそうだった。
 人懐っこそうな顔をしていて、一番人型に近いせいか、親近感が湧いた。
 しかし、正直女性の経験が無い自分にとっては目のやり場に困ってしまう。どこを見るべきなのか、視線が泳ぐうちに、ふと、蜘蛛の下半身の妖怪がその手に持っている白い着物が目に付いた。
「呉葉がいい酒を手に入れたって言うからよ、宴会でもと思ったんだが……まさか酒の肴を用意しているとは、さすがは百合。準備がいいぜ」
「違うと思うぞ。牡丹、お前も見ていただろう。二人がなにをしようとしていたのか」
「見ていたさ。まだ何もしていないじゃないか。て事は俺が少しくらい"味見"をしたって構わないだろう?」
 先に入ってきた方の大柄な妖怪は、舌なめずりをしながらこちらに歩み寄ってくる。背筋にいやな汗が流れるが、脚が使えない今は逃げられないし、何より彼女がその手に持っている物から目が離せなかった。
 妖怪の手が体に届きそうになる寸前、百合が妖怪と俺の間に割って入る。両手を広げて、守るように立ちふさがった。
「だめです牡丹。この方は怪我人なんですよ」
「……ちぇ。いいじゃねぇかよちょっとぐらい。俺だって欲求不満なんだぜ。あぁあ、つまんねぇなー」
「牡丹」
「冗談だよ。親友が"つば"つけてる男を横取りするほど野暮じゃねーって」
 赤い妖怪がたしなめると、大柄な妖怪はひらひらと手を振った。
 そして音を立ててどっかりと腰を下ろした。その隣に赤い妖怪が座る。
 百合は俺の隣に腰を下ろし、二対二で焚火を挟むような構図となった。
「俺はウシオニの牡丹、こっちはアカオニの呉葉だ。なんだか今日はやけに山が騒がしいと思ったが、人間さん、もしやお前さんが原因かい?」
「多分、そうだろうな。なぁ、あんたが手に持っているそれ、どこで見つけたんだ」
「だから山の中だって。その辺の枝に引っかかってたんだよ。眺めてたら人間たちが寄ってきて自分達に返せってうるさくてな。拾ったもんは俺のもんだって怒鳴りつけてやったら、やつら"蜘蛛の子"を散らすようにいなくなっちまった」
 牡丹は声を上げて愉快そうに笑う。
「それ、多分俺が持ってきた物だ」
 その言葉に、牡丹は笑うのを止めた。
「何だよ。お前も返せっていうのか」
 貴重な品ではあるが、正直返されても使い道がない。それに、俺が持つべきものでもないだろう。
 どう説明したものかと思ったが、しかし隠し立てしなければならない事も無いのだと思い至り、すべてを話す事にした。
 俺は妖怪二人に対して、百合にした話をかいつまんで説明する。二人はさすがに涙を流すことはなかったものの、神妙な面持ちで話を聞いていた。
「だからそれは俺の物では無いし、あんたが欲しいって言うんならあんたの物にしてもらっても構わない」
 牡丹は白無垢と俺を交互に見ながら、合点がいったように頷いた。
「なるほど、どうりで女物の着物から男の匂いがするわけだ」
「牡丹。やっぱりそれはこの方に返してあげてくれませんか」
 百合が真剣な瞳を牡丹に向けていた。持ってきた、正確には盗んできた俺自身が必要無いと言っているのに、なぜ彼女はそんな頼みをしているのだろう。俺にはよくわからなかった。
「まぁ、確かに俺が持ってても仕方がねぇか」
 牡丹は手の中の汚れた白無垢を一瞥した後、無造作に差し出した。
「ありがとうございます。牡丹」
「ちょっと待ってくださいませ」
 動けない俺の代わりに受け取ろうとした百合の手が止まる。
 聞いたことのない声だったが、俺以外の三人が特に慌てた様子もないところを見ると、三人の知る妖怪のようだ。
 案の定三人の視線の先、天井に蜘蛛の下半身を持つ女性の妖怪が立っていた。
 豊かな黒髪を後ろに束ねた、おっとりした表情の美人だった。着崩れた着物から胸元が覗いていたが、この中にあっては一番まともな格好に見える。
 彼女の体が天井から床へとゆっくりと移動していく。一瞬目を疑ったが、よく見ると天井と彼女の間には細い光の筋が走っていた。自前の糸を伝って降りているのだ。
「椿、いつからそこに居たんだよ」
「牡丹と呉葉が、そこの殿方のお話を大人しく聞き始めたころからですわ。お酒と殿方の匂いにつられて」
 妖怪は頬を染めながら口元を隠した。
 百合も牡丹も、椿と呼ばれた妖怪から目を離そうとしない。困惑する俺に、目があった呉葉が説明をしてくれる。
「あいつはジョロウグモの椿。いつもは人里で暮らしているんだが、たまにこうやって山にも遊びに来るんだ」
「なるほど。しかし近くの山にこんなにたくさんの妖怪が住んで居たとは」
「こんなの序の口だぞ。まぁ、全てが全てこの山に住んで居るわけではないけどな」
 呉葉は何でもない事のように言うが、身近に知らない隣人が居たというのは少し恐ろしくもあった。
「で、待てってのはどういう事なんだよ」
「何もそれを譲ってくれとは言いません。少しお借りしたいのです。見たところ汚れてはいますが上等な生地に、作りも腕のいい職人の物のようです。私としては見逃せない逸品なのです。見分させていただいた後には必ずお返ししますので」
「構わないよ」
 俺の一言に、百合と牡丹が同じような不満げな表情を向けてくる。
「俺が使う予定もないし」
「ありがとうございます」
 椿は深々と一礼すると、二人がなにか言う前に牡丹の手から白無垢を奪い取った。あ、っと思った時には彼女は既に糸を使って天井に上がり、制止する間もなく穴の中へ入って行ってしまう。
「……何しに来やがったんだあいつは」
「そりゃ、酒を飲んで男を食うためだろう。あいつだって匂いに釣られたって言ってたじゃないか」
「男を食う? 人間は食べないんじゃ」
「いや、むしろ俺達妖怪は男を食うぞ。性的な意味でだが」
 俺が呆然としていると、牡丹と呉葉は肉食獣のような笑みを浮かべた。
「ああ、まともに"たてなく"なるくらい。いや、"たたなく"なるまで搾りつくすぞ」
「ま、たったらまたやるだけだしな」
 鬼の二人は豪快に笑うが。動けない身には笑えない話だ。
 頼みの綱は百合だけだったが、その百合はなんだか顔を染めてもじもじと身をくねらせている。
「しかし君にそんな事情があったとはな。私は誰かが鬼退治にでも来たのかと思ったよ」
「鬼退治?」
「ああ。鬼退治は女装して近づいて油断させ、酒を勧めて酔ったところに不意打ちをかますのが昔からの定番なのさ。もっとも私達は」
「酒も男もおいしくいただくけどな」
 そう言うと二人はまた笑う。
「そ、そういえば呉葉。そのお酒はどうしたのですか。楓が立ち寄る時期でもありませんけれど」
「ああ、街道沿いに無造作に荷車が放置されていてな。そこから拝借した」
「拝借って」
「捨てられて駄目になるよりは、誰かが飲んだ方が酒も喜ぶというものだ。だがこの酒はお前にはやらん。私と牡丹で全て飲み尽くす。お前は精々男の精でも啜っているといい」
 呉葉は片手で樽を抱え上げると、もう片方の腕で牡丹を掴んだ。
「おい呉葉。俺はまだ」
「いいから。暇なお前は朝まで付き合え」
 牡丹はその肢を総動員して床にしがみつこうとしていたが、呉葉の膂力はそれを上回っているらしい。必死の抵抗もむなしく牡丹は簡単に引きずられ、影に消えてゆく。
「やめろ。お前と差しで飲むのだけは勘弁してくれ。なぁ呉葉。呉葉ぁ」
 そんな声も次第に遠ざかってゆく。
 無街道に置かれていた荷車か。恐らく結婚祝いのために準備されていたものだろうが、引手が花嫁の捜索に駆り出されてそのまま放置されたのだろう。
 まぁ、もう俺の知ったことではないが。


 妖怪達の居なくなった洞穴に、聞こえるのは焚火の燃える音だけとなった。
 正直、俺は困っていた。
 鬼達と話しているうちに静まるだろうと思っていた一物が、いつまでたっても自己主張を止めてくれないのだ。そして、性欲のままに出してしまいたくてたまらない衝動に駆られている。
 再び百合と二人きりになり。俺は身動きするのも難しい。両手で隠してはいるが、彼女にこんな姿を見せ続けるのも恥ずかしい。
 俺の状態に気が付いているのかいないのか、彼女はゆっくりと振り向いた。
 その視線は、間違いなく俺が必死に隠そうとしている部分に向いている。
「さ、さっきはどうしてあんなに花嫁衣装に執着していたんだ」
 俺はとっさに話題を変えようとする。だが、百合の熱っぽい視線は変わらない。
「だって、妹さんとの最後の繋がりじゃないですか」
 心ここにあらずといった様子でありながら、言う事はまっとうなことだった。
 そうなのかもしれない。俺には一切そんな考えはなかったというのに、この娘は本当に。
「さき様との別れもお辛いとは思います。ですが、今もお辛いですよね。ほら、こんなに」
 百合は、視線をそのままに続ける。
「私の毒の副作用なんです。だから、私が何とかしなければいけないんです。……これは責任を取るだけ。それ以外の他意は……」
 ぶつぶつとつぶやきながら百合は俺に這いより、止める間もなく着物の中から俺の男根を露出させる。
 信じられないくらいに固く勃ち上がっていた。俺も独り身の男である以上何度も自分で処理はしてきた。だが、こんなになっているのは初めて見る。血管の浮くそれは自分で見ていても恐ろしげであった。
 だが、百合は信じられないことに迷いなくそれを口の中に入れてしまった。
 熱い。最初の感覚はそれだった。何という事をさせてしまったんだという考えは、一瞬にして溶けて消えた。
 唾液が男根に絡みつき、形を探るように百合の舌が舐りあげてくる。
 ゆっくりと根元まで俺の物を銜え込んでは、頭を引き上げながら、じゅるじゅるとみだらな水音を立ててかり首まで吸い上げていく。吸われる際に竿の隅々まで柔らかな頬肉に包まれ。それだけで腰が抜けそうだった。
 そして口内で器用に舌を動かして唾液を塗りつけながら、再び奥まで飲み込んでゆく。
 焦らすように、ねっとりと百合は頭を上下させる。
 百合の息遣いが。動くたびに形を変える唇が、淫らな水音が。経験の無い俺の頭を快楽一色に染め上げてゆく。
 腰の奥から獣のような欲望がせりあがってくる。もう体は刺激に耐えられそうにない。
 だが、この人を汚すわけにはいかない。見ず知らずの俺に良くしてくれた人に対して、恩を仇で返すようなまねだけはできないという最後の理性が何とか俺を踏みとどまらせる。
 攻め方が変わる。百合の舌がかり沿いをゆっくりと舐めあげ、丹念に裏筋を嘗め回す。
「く」
 そして再び喉奥まで使って俺のすべてを飲み込んでゆく。涙が滲んだ蕩けた瞳が俺を見上げる。理性のすべてがどうしようもなく溶かされてゆく。
 彼女の喉奥で、俺は自分自身を開放してしまった。信じられないほどの快感が背筋を這い上がり、体ががくがくと震えてしまうほどだった。
 俺はただただ荒い息を繰り返しながら、彼女の顔に見とれ続ける。
 彼女は最初の一瞬だけ苦しそうな表情をしたものの、すぐにその感覚にも慣れたらしい。俺の放つものを嚥下し喉の奥へと落してゆく。その喉の動きが、物の先端に伝わっているから、それがわかる。
 ようやく射精が止まると、彼女は再び俺の物を吸い上げる。残っている物を吸い尽くそうとでも言うように。
 感じやすくなっている俺は思わず声が漏れてしまった。
 彼女は最後に鈴口を舐めあげると、ようやく俺を開放してくれた。
 はぁ、と大きく息をする彼女の口の端が、自分の放ったもので少し汚れていた。
 半開きの口から見える舌と、眠たげにも見える目じりの下がった目が、本当に淫らで。ああ、もう彼女の全てを俺の物にしてしまいたい。
 そんな風に思いながら俺の視界は闇の底へと落ちて行った。
12/06/10 22:47更新 / 玉虫色
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