連載小説
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プロローグ
 俺は教団の兵士だが、そこまで信心深い方ではない。比較的貧しい平民の子として、極々普通に主神様の教えを聞かされて育っただけだ。聖騎士団や勇者様のような、高尚な信仰心や正義感で戦っているわけではない。
 もちろん、神は尊ぶべきものだと思っている。神様を汚した者や悪に魅入られた者は死後、地獄へ落ちると聞かされて育った。それを教えてくれたのは両親だったか、それとも神父様だったか。どちらにせよ、彼らは地獄がこの世にあるとは知らなかったのだろう。




「水……水……」
「くそ、馬鹿野郎が……くそ……!」
「剣をくれ! 剣を……自決を……!」

 洞穴の中は苦悶の声に満ちていた。三十名はいるだろうか、敗残兵の誰もが岸壁にもたれかかり、矢傷の痛みに苦しんでいる。喉の渇きに耐え切れず、自分の血を啜る者もあった。自決用の剣や毒を求める声も多い。
 かくいう俺も、その内の一人。まだ何とか動ける程度だが、それでも腕と背中に深々と矢が突き刺さり、鏃が肉の中に残っていた。口の中は喋るのも困難なほどに乾いている。

 酷い奴は体に十本以上の矢を受け、それでも尚死に切れず、苦痛に喘いでいた。これが魔物と戦って負った傷なら、まだ諦めがつくだろう。昨夜の戦いでは確かに魔物と戦うはずだった。だが戦いの直前、俺たちを魔物と誤認した味方が矢を射掛けてきたのだ。俺は傷を負いながらも這々の体で逃げ出し、途中で多くの仲間とはぐれながらも、森の中に逃げ込んだ。魔物のうろつく敵地とはいえ、身を隠す洞穴を見つけられたのが唯一の幸運だった。
 戦場での誤認・誤射は日常茶飯事だ。ましてや夜間ともなれば、同士討ちは頻発する。無理もないことだ。

 それでも、今度あの弓隊の連中に会ったら、皆殺しにしてやろう。そう念ずることで、生きる気力を保っていた。

 隣に座る少年兵が、母さん、母さんとうわ言のように呟いている。こいつはクロスボウの矢が腹から背中まで貫通していた。応急処置はしてやったが、腹に巻いた包帯からは未だに血が滲み、息も荒い。内臓にこれだけの傷を負ってはもう助からないだろう。治療魔術師でもいれば別だが、そんな気の利いた者は配備されていなかった。
 教団と神への忠誠心に燃え、自分が英雄になると信じて疑わなかった少年。俺のような、食い詰めて志願した兵隊と違い、それなりに裕福な家に生まれた奴だ。入隊しなければ平凡な暮らしができただろうに、いたたまれない。

「おい……水はないか……誰か……」
「殺してくれ……殺してくれよぉ……」

 戦友たちの声を聞きながら、傷の痛みに耐える。ふと、洞穴の入り口から差し込む光に気づいた。昨夜ここに隠れたとき、近くに落ちていた木の枝などを集めて、外から分からないよう偽装したのだ。その間から木漏れ日のように、光が差し込んでくる。昔見た天使降臨の絵画を思い出し、そこから救いの天使様が姿を現すことを一瞬期待した。俺と同じことを考えた者は他にもあったようだ。苦悶するうち何人かが、期待の籠った眼差しで光を見つめていた。
 だが、所詮ただの朝日に過ぎなかった。『聖戦』に疑問さえ抱き始めた俺たちに、神が救いの手を差し伸べることはないのだろう。

 しかし夜が明けたということは、魔物の軍は夜ほど活発には動かないのではないか。確証はないが、そんな考えが胸に浮かんだ。
 再び、仲間たちに目を向ける。立って歩けるのは俺を含めたごく一部だけで、多くはもう限界だ。味方陣地まで行くのは無理だろう。かといってこのまま隠れていても、いずれ魔物に見つかり、皆殺しにされるだけだ。
 もし近くで味方の斥候にでも会えれば、救援を頼める。そうでなくても、苦しんでいる仲間たちに水くらいは汲んできてやれるだろう。
 少なくとも、座して死を待つよりはマシだ。槍を杖にして、痛む体に力を込めた。幸い利き腕は無傷なので、物を握ることはできる。

 背中の矢傷が焼けるように痛かった。魔物相手に少しでも殺傷力を上げるため、鏃が緩く固定されており、矢を引き抜いても鏃が体内に残るようになっているのだ。溜まった疲労がそこに追い打ちをかけるが、それでもどうにか立ち上がることができた。

 入り口を塞ぐ木の枝を押して避け、外に出た。光が眩しい。鳥のさえずりが聞こえる。苔の生えた木々が風に揺れ、その足元には花が点在している。敵地であることを忘れるほど、美しい森だった。良い香りが漂っている。
 槍の柄で体を支えながら、ゆっくりと歩いていく。一歩踏み出す度、矢傷が痛んだ。

 俺を癒してくれるのは鳥の声だけだった。動物にこんなに感謝したのは初めてのことだ。地獄から一時的に抜け出して、平和の中に身を置いているような気分だ。しかし地獄にいる仲間たちのために、苦痛をこらえて歩かねばならない。

 自分では長い距離を歩いた気になっても、振り返るとまだ洞穴が見える。近くに池か川でもないだろうか。水たまりでもいい。内臓をやられている連中に水を飲ませれば死んでしまうだろうが、どの道長くは保つまい。例え泥水でも末期の水には十分だ。

 だがそのとき、水の音とも鳥の声とも違う物が、耳に聞こえてきた。行進歌だ。



 ーー荒野に咲く 一輪の花よーー

 ーーその名は エーリカーー


 微かに聞こえた歌声は男女混在で、複数人いるようだった。同時に足音も聞こえ、徐々に近づいてくる。


 ーー幾千万の蜜蜂たちーー

 ーー熱を上げて群れを成す エーリカーー


 傷ついた体に鞭打って、咄嗟に大木の陰に隠れた。教団の行進曲ではない。
 歌声の主たちは草木を踏み分け、徐々に近づいてきた。二列縦隊の軽装歩兵……二十人以上はいる。若い男が先頭に立ち、その後ろには女性兵が……蜥蜴の尾が生えた、リザードマンの兵士がいた。その後ろにいるのはまた人間、そしてミノタウロス、アラクネ……魔物の軍勢だ。ルージュ・シティの斥候隊だ。

 見つかればいよいよ最期か。木の陰で諦観しながらも、俺の心は不思議と、連中の口ずさむ歌に引き寄せられていた。血生臭さと懸け離れた、人間的なメロディーに。


 ーー故郷に住む可愛い乙女ーー

 ーーその名は エーリカーー

 ーー君こそ我が至宝ーー

 ーー幸福の女神なり エーリカーー


「全隊、止まれ。朝食にする」

 士官が号令をかけ、部隊は停止した。人と魔物の兵士は背のうを下ろし、近くの倒木などに腰掛けて休息を取る。奴らの装備は泥や埃で汚れており、かすり傷を負っている者もいた。昨夜の戦いに参加していたのだろう。そして奴らが声高らかに歌いながら歩いているということは、戦闘の結果は教団の敗北だったのか。そうだとすれば救援は期待できない。

「警戒を怠るな。敗残兵がどこに潜んでいるか分からないからな」

 大木にもたれかかり、俺は嘆息した。残党狩りの最中のようだ。朝になれば魔物の活動は減るというのは単なる思い込みだったらしい。洞穴の仲間たちもすぐに見つかるだろう。
 俺にはいくつかの選択肢がある。仲間を見捨てて逃げるか、洞穴に戻って動ける者だけでも逃すか。否、逃げ切れるものではない。

 ふと、風に乗って肉の匂いが漂ってくる。敵たちが干し肉とパンを齧っていた。空腹の俺は思わず生唾を飲み込んでしまう。人間も魔物も同じ物を食べて、そして談笑していた。行きつけの酒場の話、ギャンブルの話、恋の話……
 すぐ側に敵がいる。それなのに、森の中には平和な空気が漂っていた。地獄の洞穴と違って。

「傷は大丈夫?」
「どうってことないって。ちょっと擦りむいた程度だから」

 仲の良い友人同士のようなやり取りが聞こえる。
 俺はふと気付いた。奴らは兵隊だ。恐るべき魔物とそれに与する輩だが、俺と同じ兵士なのだ、だ。

 無謀なアイディアが浮かんだ。槍をぐっと握りしめる。この行動で本当に仲間を救えるかは分からない。普通なら絶対にやってはいけないことだ。
 だが極限状態のためか、決心は意外にも早くついた。槍で体を支えて立ち上がる。布の擦れる音を聞きつけたのか、魔物たちはこちらを見た。敵だ、と叫ぶ声が聞こえる。武器がガチャガチャと鳴る音も。
 その瞬間、俺は槍を放り捨て、叫んだ。

「降伏だ! 降伏する!」

 両手を上げ、丸腰であることを強調する。次いで、洞穴の方を指差した。

「仲間を助けてくれ! 頼む! 仲間を……!」

 必死で叫んでいるうちに、足元がふらつく。すぐに駆け寄ってきた敵兵……男とワーウルフが、俺を取り押さえた。というより、地面へ寝かせた。奴らも何かを叫んでいる。

「あの洞穴の中だ! 俺の仲間を助けてやってくれ! 手当してやってくれ……!」

 乾ききった喉で大声を出したせいで、次第に声が掠れてくる。それでも無我夢中だった。先ほどのワーウルフが俺の装備を外し、腕の矢傷を確かめている。違う、助けて欲しいのは俺じゃない。
 人も魔物も、何事か叫んでいる。何を言っているのか、俺の耳は聞き取らなかった。しかし士官らしき男が洞穴へと向かったのが見えた。そいつの声だけは、はっきりと聞こえた。

「衛生兵を呼べ! 中は重症者で一杯だ!」

 その言葉を聞いた瞬間、体から緊張がふっと抜けた。矢傷の痛みも、疲労も、全て消えていく。代わりにやってきたのは、猛烈な睡魔だった……

16/06/23 19:56更新 / 空き缶号
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