連載小説
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その1

 ―世の中には芸術作品というものがある。
 ―それは絵画であったり、音楽であったり、建築であったり、彫像であったり色々な種類があるが…
 ―1つだけ共通しているのは芸術作品には、人の心に例えようのない衝撃と感動と衝撃を与える事。
 ―そして、その定義で言えば、『彼女』は俺にとってまさしく『芸術作品』であった。

 始めて出会った場所は剣戟響く戦場。それも敵と味方と言う剣を交える立場だ。けれど、澄んだ青の髪を返り血に染め、血糊が着いた白い腕を振るって、両手剣を振り回す姿は当時敵であった俺の心を間違いなく鷲掴みにし、今でも離さない。当然だろう。その時の『彼女』は、俺にとって死の女神よりも美しく、そして、その手で倒された俺はその魂をまさに彼女に刈り取られているのだから。

 ―そして、その想いを…今日こそ『彼女』に受け取ってもらいたい。

 だからこそ、俺はこんな所で…彼女の所属する騎士団の控え室の前で『彼女』を待っているのだから。時折、奇異の目で見てきたり、「またか」と呆れる様な表情を俺を見ながら通り過ぎていく魔物娘の視線にも負けず、こうしてここに立ち続けているのだから…っ!!!

 ―…いや、実際、今にもメキメキと心が折れそうですがね。

 何十度目かの覚悟も、呆れるような視線や奇異の目にごりごりと削れていく。流石にまだ逃げ出す程ではないにせよ、このままだとそんな行動を選ぶのも時間の問題なのかもしれない。

 「あら…どうしたの?」

 そんな風に思い始めた頃に、ようやく出てきた『彼女』は意外そうに俺を見た。元々、俺と『彼女』は所属する場所が遠く離れ、会う機会は殆どない。俺がこうして『彼女』の出待ちを――教会の侵攻を喰い止め、魔界の平和を今日も護って来た『彼女』がこうして控え室から出てくるのを待たなければ顔を会わせる事はほぼ無いだろう。この広大な魔王城の中では、それくらい俺と『彼女』の主な活動域は離れている。

 ―そして、そんな俺がここまで来た理由なんて一つしかない。

 あの時、『彼女』に負けてから、ずっとずっと秘め続けた感情を今日こそ受け入れてもらおうと、恋人と言う関係にランクアップさせてもらおうと、そんな覚悟に全身に力を込める。心臓が高鳴り、緊張に手が震えそうになるが、目だけはしっかり『彼女』に向き合ったのを確認し、俺は素振りの剣のように一気に頭を下げた。

 「グレースさん。結婚してくださいっっ!!」
 「100年ほど出直してきなさい若造」

 ―そんな冷たい言葉と、汚いモノを見るように見下す『彼女』…グレースさんの視線に
 ―俺の52回目のプロポーズは見事に失敗に終わったのだった。







 「と言う訳で無理矢理、結婚させられたグレースさんをどう助け出すかの会議を始めたいと思う」

 所は変わって、ここは魔王軍の食堂。より正確に言えば、誰も全容までは把握していないという噂さえあるこの広大な魔王城の中にある食堂の一つ…だ。けれど、その食堂でさえ、ちょっとした村が丸々入ってしまうほどの規模を持っている。何処の素材で出来ているのか夏はひんやりと、冬は暖かい熱をじんわりと放ち、空調も果たす岩で組み上げられているそこは、魔物娘と人間の数多い憩いの場でもあった。教会との戦いが終わり、魔物娘の旦那たちも魔王城に帰還したので、食堂のそこかしらで深いキスをしたり、時には服の中に手を入れてペッティングしたりとイチャついてるってレベルじゃない光景も見えるが…それは全力で無視する。
 そして、どうして俺がそんな所にいるかと言うと…何時も通りグレースさんに振られた後、何時も通り泣いてその場から逃げ出した俺は、何時も通り悪友を集めて、今後の作戦会議を開こうとしているからだ。

 「無理矢理ってお前…旦那さんよりグレースさんの方が如何見たって強いんだが」

 しかし、そんな世界創世の謎よりも、遥かに重要で緊急性の高い会議に悪友その1であるフェイは、まったくやる気を見せない。無精ひげを生やし男臭い顔を、不機嫌そうに歪めて、頬杖をついている。元々、熱しやすく冷めやすい子供のような性格をしているので、この辺りは別に問題ではない。火さえつけば、仲間内の誰よりも激しく頭を回し、リーダーと同等かそれ以上の勘の良さと相まって、名案を出してくるのだから、まったくやる気の無い姿であっても我慢するべきだろう。例えそれが俺の奢りで、食べきれないんじゃないか、と思う程の料理を頼んだ末の姿であっても寛大な心で…か、寛大な……ぐぎぎぎぎぎ。

 ―いかんいかん。冷静になるんだ俺。

 「きっと弱みを握られているんだ!じゃないとあんな美しい人が、ゴリラみたいな顔の男と結婚するものか!」
 「いや、如何見たって尻に敷いてるのはグレースさんの方だろ」

 そう言うのは悪友その2のハンスだ。誰が見たって傭兵か兵士だろうと思う程、男臭いと隆々の体つきをしているフェイとは違い、こちらは何処か優男然としている。秋に実る稲穂のような金色を長く伸ばして、女のように束ねている姿は、格好良い、というよりも美しい、と言う形容詞の方がしっくり来る。無論、俺の女神であるグレースさんには及ばないものの、その美しさと女心を把握する技術で多くの女性を毒牙に掛けてきたコイツの経験は、フェイのように浮き沈みが激しくない分、頼りになるモノだ。
 そんなハンスも俺の言葉に呆れた様に、苦笑いを浮かべながら、付き合いきれない、と言わんばかりに首を左右にするのはどうしてなのだろうか。俺の「グレースさんは弱味を握られている説」は、毒牙に掛ける罪滅ぼしか基本、女性に優しいコイツにとっては賛同してもらえるものだと思っていたのだが…。

 ―まぁ、良い。これからしっかりと分かって貰えば良いのだから。

 何も俺だって、自分の説がいきなり認められるとは思っては居ない。グレースさんが弱味を握られていて、本当は俺に助けを求めている、なんて彼女の事を愛している俺にしかきっと分からないのだから。しかし、それをきちんと説明すれば、付き合いの長いこの二人であればきっと分かってくれる…と口を開こうとした瞬間、フェイがいやらしそうに口を歪め、先に言葉を放った。

 「おいおい。魔物娘は皆、旦那を尻に敷いてるぜ?勿論、夜の方だが」
 「そりゃそうだなHAHAHA」
 「って、真面目に相談に乗れよ!!!」

 フェイの下らない冗談に、合点が言ったというように手を叩きながら笑って応えるハンス。そんな二人にテーブルを叩いて諌める俺を二人の何処か呆れたような視線が射抜いた。

 「って言ってもなぁ…。実際、無理だろ。寧ろお前若干ストーカー入ってて怖ぇよ」

 ―ストーカー?何だそれは。

 少なくとも、俺はただグレースさんの事を愛しているだけだ。その過程で52回ほどプロポーズに断られているが、それも彼女があの中年親父に弱味を握られているだけに過ぎない。だからこそ、俺は何としてでもグレースさんを解放し、彼女も望んでくれている通り幸せな家庭を築いてあげなければならないのだ。

 ―しかし、肝心のコイツラがこんな様子じゃ…!!

 湧き上がってくる苛立ちを堪える為、俺はテーブルの上に置いてある皿の上から食べやすい大きさに切られている果実を一つ手に取った。乳白色をしたそれは指の間でふるふると震えて、柔らかな感触を伝えてくる。まったく見覚えの無い果実だが、色と言い、艶と言い、何とも言えない甘い香りと言い、とても美味しそうだ。見た事も無い果実に一瞬だけ躊躇ったものの、人間に毒のある物は出さないだろうと俺はそれを口にする。瞬間、口の中に広がる甘い果汁が何とも言えない感覚に俺を誘った。芳醇な匂いと味に翻弄されるのを感じながらも、俺は必死にそれを堪えて、果実を自分の取り皿の上に置く。

 ―なんつぅ危ない食べ物なんだ…。

 不味い訳でも毒があるわけでもない。けれど、その果実は一口で誰でも虜にするような恐ろしい甘さを持っていた。何とか遠ざける事で二口目の誘惑からは逃げられたものの、あのまま二口目を食べていたら逃げる事は出来なかっただろう。恐ろしいほど高い中毒性を持つそれは今、こうして視界にあるだけでも手を伸ばしたくなるほどの魅力を惜しげもなく放っているのだから。

 「それにグレースさん子供だっているんだろ?その子はどうするんだよ」
 「無論、俺が育てる!あの子も俺に懐いてくれてるしな」

 果実の誘惑から逃げる為、集中しようとする俺の脳裏に、グレースさんの子供…リーナちゃんの姿が浮かび上がる。半分、あのゴリラの血が入っているとは思えないくらい美しく聡明なその子は、とある事情で剣を握れなくなった俺の教え子でもあった。

 「…懐いてる…ねぇ」
 「ありゃどっちかって言うと…」
 「おにいちゃーん♪」

 ―噂をすれば、何とやら…か。

 聞き覚えのある声に後ろを振り向くとばっと視界一杯に広がる紺碧の髪が見えた。リーナちゃんがグレースさんから受け継いだ、まるで雲ひとつ無い空の色のようなそれは光の反射で様々な顔を見せ、見ているだけで何処か楽しい気持ちになる。そんな事を思いながら手を広げると、何時も通り、リーナちゃんはすっぽりと俺の胸の中に収まった。

 「お兄ちゃん、探したんだよぉ」

 そんな風に俺の胸の中から見上げるリーナちゃんの頬は拗ねるように膨れていた。しかし、そんな顔もまた、何処か愛らしい。まだまだ幼く、輪郭にも丸さを大分残している姿ではあるものの、俺の女神であるグレースさんの血はしっかりと引いていて後5.6年すれば間違いなく美人になるだろう。そんな事を思いながら、俺は非難をかわす為、リーナちゃんの頭を撫でてあげた。

 「ごめんごめん。ちょっと用事があってね」
 「えへへぇ…♪」

 まだまだ擦れていない年頃のリーナちゃんはそれだけでも嬉しいのか、目を細めて甘えるように身を捩る。まるで、自分の匂いをつけようとするかのようなその動作に、太陽の下で一杯光を浴びた干したての布団のような香りが俺の胸の中で広がった。きっとリーナちゃんの体臭であろうそれは、嗅いでいるだけで何処か微笑ましい気分になるモノで、思わずぎゅっと抱きしめたくなるような魅力を持っている。

 ―流石にそこまでやると犯罪だろうけれどな。

 父親であれば問題ないだろうが、今の俺は『まだ』リーナちゃんとはただの教師と教え子の関係でしかないのだ。無論、普段から仲は良いのだけれど、流石に抱きしめたりするのを許されるのは異性であれば恋人か父親のような関係だけだろう。そして、残念ながら俺はそのどちらでもなかった。

 「って、またお兄ちゃん、お母さんのところ行ってたの…?」
 「いや、そんな訳ないじゃないか」

 思わず撫でる手に緊張が走りそうになるのを必死に堪えながら、俺は笑顔を何とか維持してそう言った。けれど、完璧だったはずの偽装工作はリーナちゃんには何故か見破られ、じぃぃっとじと目で見上げてくる。幼い子供が、まるで恋愛経験豊富な女性のように、心の奥まで見抜くような視線を送ってくるギャップに何処かアンバランスな魅力を感じながら、俺は堪え切れなくてついっと目を背けた。

 「もう!お母さんが困ってるから駄目ってあんなに言ってるのにっ!」
 「い、痛っ!」

 そんな風に頬を膨らましながら、ぎゅうっと脇腹を抓って来る姿は、夫の浮気を咎める妻に何処か似ている。無論、俺とリーナちゃんの関係はただの教師と教え子だから、そんな色のあるモノでは決して無いのだろうけれど、若干目尻を濡らしている様に見える姿は、どうにもそんな錯覚を俺に覚えさせるのだった。

 「い、いや…その…なんていうか」

 ―俺もこんな風に戸惑わなくても良いはずなんだけれどなぁ…。

 しかし、好きな女性の子供…と言う立場の所為か、こうして責められると俺はどうにも弱いのだ。そもそも、何も後ろくらい事はしていない――だって、グレースさんをあのゴリラの魔の手から救い出そうとしているのだからっ!――のだし、リーナちゃんに責められる所以は無いはずなのだが、何故か俺は彼女にはそれを隠そうとしてしまう。
 しかし、何時までも隠しているわけにはいかない。グレースさんをあのゴリラの手から救い出したとしても、リーナちゃんの理解が無ければ円満な家庭を築くことなど夢のまた夢なのだから。ならば、今ここで先にリーナちゃんの理解を得ておくことが何より重要な課題になるのではないだろうか?

 ―いや、そうに違いない…!

 唐突に脳裏に沸いたアイデアに一人頷きながら、俺はじっとリーナちゃんを見つめた。彼女は向日葵のような黄色に染め上げられたフリル一杯のワンピースを着ている。それが、急に自分を見つめてきた俺に小首をかしげる動作だけでもふわりとその裾を翻すのだ。リーナちゃん自身の可愛さと裾を翻している姿は相乗効果となって、純粋培養のお嬢様然とした清楚な雰囲気を作り出している。

 「リーナちゃんもあんなゴリラくさい親父より俺の方が良いだろう?」
 「え?それは嫌」

 ―なん……だと……?

 好意的な反応を返してくれると―少なくとも迷ってくれるとは思ってた俺は予想も寄らない否定で即答されて軽くパニックに陥った。だって、そうだろう?少なくともこうして見かけてくれるだけで抱きついてくるのだから。ある程度には好意を持ってくれていると思っていても不思議ではない。それなのに、こんな風に即答されるだなんて…好意を持ってくれていると思っていたのは俺の思い込みに過ぎなかったのか…。

 「私、お父さんの事結構好きだし。そ、それにお兄ちゃんはお父さんじゃなくてもっと身近なこ、恋人…とかになって欲しいかなぁ…なんて…」

 もじもじと恥ずかしそうに身じろぎしながらリーナちゃんが何かを言ったが、俺の耳には届いていなかった。グレースさんに告白に応えてもらえなかった時よりも激しいショックと、足元ががらがらと崩れていくような喪失感を味わい、周りの事なんてまったく頭の中には入って来ない。

 「…もうっ!!!」
 「痛っ!!!」

 しかし、そんな自失はリーナちゃんが唐突に俺の頬を引っ張ったことで終わりを告げた。驚いて胸の中の彼女を見ると、さっきよりもはっきりと頬を膨らませて全身で不機嫌さを表現している。さっきまでの何処かじゃれ合いのものとは違い、それは間違いなく怒っている証左で…俺の心をまた混乱に叩き込んだ。

 「え…なんで怒って…?」
 「〜〜〜〜っ!!!!!自分で考えればっ!?」

 怒ったようにそう言いつつ、リーナちゃんはすっと俺の腕から抜け出した。幼い子独特の高い体温がすっと俺の傍から抜け落ちて、何処か寂しいような、寒いような錯覚を覚える。反射的にその熱を取り戻そうと、俺に背を向けるリーナちゃんに左手を伸ばすが、怒っている彼女に掛ける言葉を俺は見つけることが出来なかった。

 ―どうして怒ったんだろう…?

 そのキッカケの言葉だけでも見つけようと、俺はさっきまでの自分の行為を思い出すが、怒られるような事はやっていない…と思う。確かにショックで自失には陥っていたものの、それだけだし、何もやっていないはずだ。それなのに、どうして、自失から立ち直るとリーナちゃんが怒っているのか、結局俺には理解できない。

 「救いようのないアホだなこいつ」
 「あぁ、まったくだ」

 ―コイツラでも理解できるって事はそう難しいことではないと思うんだが…。

 そう思いながら、助けを求めるような目でフェイとハンスを見つめるが、こいつらは薄情にも片手をひらひらと振って、「自分で解決しろ」と表現している。ちなみにもう片方は、テーブルの上に所狭しと並べられた料理を口に運ぶのに忙しいようだ。…人の奢りなのに、助け舟も出そうとしない薄情な友人――いや、もはや友人では無い。コイツラとは縁を切る!!――の助けを諦め、リーナちゃんの背を見るが、肩の骨までしっかりと見えるほど開いたワンピースが気になって、どうにも思考が纏まらない。

 ―しかし、華奢な身体だな…。

 無論、リーナちゃんはグレースさんと同じデュラハンなので、華奢なように見えてもその身体には人間の男顔負けの力を秘めている。俺の教える中でも、ぐんぐんと上達していくリーナちゃんは単純に腕力だけで見れば、俺を超えているだろう。それでも、俺が彼女に教えられるのは長年培ってきた技術と経験があるからで、実際に相対した場合、あっさりと俺は彼女に負けてしまうに違い無い。

 ―でも…まだ子供なんだよなぁ…。

 実力は俺なんかとっくに超えていても、リーナちゃんはまだまだ子供で、甘えたい盛りだ。俺を見かけるたびに抱きついてくるのもその一環で、特に好意のようなものがある訳ではないのだろう。…その思考に少しばかり、痛みを覚えないわけでもないが、彼女はきっと父親の愛のようなものに餓えているに違いない。きっとあのゴリラ男は、外では尻に敷かれている振りをしていても、実際は家の中で暴れまわるようなDV夫なのだ。

 ―これであのゴリラからグレースさんとリーナちゃんを助け出さなければいけない理由が一つ増えたな…!!

 …いや、そんな風に逃避している場合じゃない。早くリーナちゃんに機嫌を直してもらわなければいけないのだから。

 「えーっと…その…リーナちゃん…?」
 「………」

 ―返事さえもらえませんでしたよちくしょおおおおおお!!!!

 小さな腕で腕組みをしながら、ついっと視線を明後日の方向へを向け、全身で拗ねるような姿も、歳相応の少女らしく可愛らしい。けれど、今は出来れば、何時もの向日葵のような笑顔が欲しいのだ。それも心から。何より早急に。

 「あーぁ。リーナちゃんをここまで怒らせるなんて中々出来る事じゃねぇよなぁ」
 「ある種、才能だよな。欲しいとは思わないが」

 ―黙れ部外者ども。

 そう心の中で言いつつも、俺は必死に打開策を探し続けていた。…というか、フェイ。お前にだけは言われたくは無いぞ。お前だって最近、デュラハンにちょっかいだして、仲良くなっているじゃないか。その過程で、山ほど呆れさせたり、拗ねさせているのを俺は知っているんだぞ。…いや、今はフェイの事なんかどうでも良い。それよりもリーナちゃんだ。

 「あ、あの…さ。出来れば俺の話を聞いてくれるとありがたいんだけど…」
 「………何?」

 ―な、なんという冷たい目…!!

 すっと横目で俺を見る視線―まるで北の果てに吹雪く風のように冷たい視線に、次の言葉は出てこなくなってしまった。今のリーナちゃんの冷たさの前では、汚物を見るように俺を見ていたグレースさんの視線がまるで南国のように感じる。

 ―そ、そこまで俺が嫌いになったのか……。

 ずんっと胸の中に直接ボディーブローを叩き込まれたような衝撃を感じる。胸がきりきりと痛み、さっきまで食べていた料理をそのままリバースしてしまいそうだ。まるで酩酊しているかのように地に足がついている感覚がせず、指先には震えさえ走っている。自分自身でも理解できないほどの衝撃は、俺の思考をそこで完全に停止させていた。

 「…やれやれ。お二人さん。それよりも時間は良いのか?」
 「時間…?」

 ハンスに言われたように胡乱な瞳で時計を見上げると、もう何時もの時間になっていた。…そう。何時も俺が幼い魔物たちに技術やら経験を教える訓練の時間だ。ここから訓練場まで歩いて十分ほどだから、遅刻は既に確定してしまっている。相談に乗ってもらうにもまだ時間の余裕があると思っていた俺は、あまりにも早い時間の流れに驚きつつ、内心、頭を抱えた。

 「この馬鹿は自業自得だから別に良いにしても、リーナちゃんは行かないとまずいだろう?」
 「それは…そうですね…」

 続けたフェイの言葉に少し困ったように目線を伏せるリーナちゃんの顔は、さっきの俺に対するものとは違って、敬語ではあれど親しみが無いわけではなかった。良く俺にくっついて、二人とも話をしている彼女にとって、フェイやハンスは仲の良い近所のおじさん程度の位置にはいるらしい。二人が言うには自業自得らしいが、普段からリーナちゃんとも強く接している俺があそこまで冷たい視線を向けられているのに、時折こうやって俺経由で話す二人には親しみを持った目を向けると言う事に何処か不公平感を感じてしまう。

 「デュラハンって奴は大変だな。他の魔物娘の規範とならなきゃいけない…だっけ?」
 「それが責務ですから」

 きっぱりとハンスの言葉に応えるリーナちゃんの顔には迷いのようなものは無かった。幼い頃から、グレースさんにしっかり教え込まれて、それに疑問を感じる事は無いのだろう。実際、デュラハンは魔王軍の中核を成す魔物娘であり、他の魔物娘へ示しをつける為に私生活でも真面目な個体が多い。幼いが、心は既に立派なデュラハンであるリーナちゃんにとって、その責務は受け入れやすいものなのだろう。

 「偉いなリーナちゃんは。そこの馬鹿に爪の垢でも飲ませてやりたいもんだ。…だから、惚けてないでとっとと行けよ、そこの馬鹿。それが仕事だろ」
 「それとも自分の仕事さえ忘れたか馬鹿」

 ―お前らは…。

 リーナちゃんに対する何処か心配そうな声音とは違い、心底見下した…と言うか、馬鹿にしたような台詞に流石に怒りのような感情さえ湧いて出てくる。普段であれば笑って流せるような台詞ではあるものの、リーナちゃんには何故か嫌われ、その理由さえも分からない状態の今には流石にそれほどの余裕も無い。そんな感情を込めつつ、怒りを込めて二人を睨みつけるが、二人とも何処吹く風…と言うレベルを通り越して、逆に挑発するように中指を立ててくる。

 「お前ら…後で覚えてろよ」
 「そりゃこっちの台詞だっての」
 「リーナちゃんをこれ以上悲しませたらマジかなぐり捨てんぞお前」

 ―悲しんでるって…リーナちゃんが…?

 確かに怒らせたのは俺の責任だと思うが、悲しんでいる…のだろうか。二人から視線を外し、そっとリーナちゃんの顔色を窺おうとしたものの、見えるのはすべすべとした背中だけ。流石にそれだけで彼女の感情を察する事は出来ず、俺は小さく肩を竦めた。

 ―…まぁ、今はそれよりも…早く訓練に向かわないと。

 リーナちゃんが本当に悲しんでいるのか否か確認するのも大事だが、時間が無いのもまた確かだ。少なくともここで突っ立って無為に時間を過ごしている余裕は無い。…それに今は俺にも彼女にも時間が必要だろう。…少し言い訳がましいが、今すぐに解決できる問題には俺には思えないのだから。

 「じ、じゃあ…行こうかリーナちゃん」
 「……」

 最後に勇気を振り絞ってそう言った俺の言葉に小さく頷きながら、歩き出した俺の背についててくてくと歩き始めたのが分かった。完璧に無反応だったさっきよりも機嫌を直してくれたことに若干の安堵をしながらも、しかし、はっきりとした進展の気配の見えない状況に頭を抱えたくなる。反応は返してくれる程度にはなったものの、この期に及んで俺はまだリーナちゃんが何故怒っているのかの見当もつかず、状況に流されるままなのだから。

 ―どうにかしないと…いけないんだろうけどなぁ。

 しかし、解決策どころか根本の原因さえ思いつかないのが現状だ。自然、気まずい雰囲気の中、口をつぐんで何も話さないままコツコツと廊下に二つの靴音だけが響く。普段であれば、無理矢理リーナちゃんに腕をとられて、恋人のように組みながら和気藹々と雑談しつつ訓練場へと向かっている最中だったはずなのに、それと比べると、今の歩みは味気なく、何より何処か寒気がするものだった。

 ―どうすりゃ良いんだ…まったく…。

 思わず色んなものを呪いたくなるような状況だったが、どうやら神様って奴はそれを許してくれないらしい。沈黙の中、突破口は意外な所から現れてくれた。

 「…ねぇ。お兄ちゃんはそんなにお母さんのことが好きなの?」
 「え…あ、あぁ、勿論」

 唐突にかけられた声に、驚きと安堵と、ちょっぴりの寒気を感じながら俺はそう応えた。無論、振り返る事はしない。…俺の後ろで今にも爆発しそうなほど、威圧感が膨れ上がっていて、もし振り返っていれば、思わず悲鳴をあげそうだったからだ。そんな未来予想図さえ浮かび上がるそのプレッシャーは間違いなくリーナちゃんから放たれたものだろう。普段と同じように問いかけられた今の言葉には思わず、背筋に冷や汗が流れるほどのドス黒い感情を込められていて、背筋で感じる威圧感と勝るとも劣らないほどだったのだから。

 「…でも、お母さんは結婚してるよ」
 「それは…リーナちゃんのお父さんを悪く言いたくは無いけれど、きっと無理矢理させられたんだよ」

 ―そうだ。そうに決まっている。

 「嘘」
 「嘘じゃないよ」
 「違うよ。そうじゃなくてお兄ちゃんが『そう思っている』のが嘘だって事」

 ―ふと背筋にゾクリと鳥肌が立つのを感じた。

 身体の中に熱い熱が篭り、左手にぎゅっと力が篭るのが分かる。心臓はその脈動を早め、思考をより早くしようと身体中に血液を回し始めた。自然、耳の奥で聞こえるほど、早く、力強いものになったそれは、俺の身体を臨戦態勢へと持っていく。…傭兵時代の終焉とともに、二度と訪れる事は無いと思っていたはずのそれは反射的に剣を取ろうと右腕を移動させる。…しかし、掴む物も掴むべきモノも無いそれは空しく空を切り、空気を揺らすのが精一杯だ。

 ―何をやっているんだ俺は…。

 身体全体に受けるリーナちゃんからのプレッシャーに傭兵時代の事を思い出した所為だろうか。まるで昔に戻ったかのような血の昂ぶりと、一足さえも見落とさまいとする集中力に、俺自身、強い困惑を感じていた。ここまでの昂ぶりと集中力を感じるのは…あの時、あの街で教会とドンパチやった時くらいだろう。一挙一動を間違えれば死と隣り合わせだったかもしれないあの時と同等の昂ぶりは、周りに命の危機を与える『敵』や『危険』があるのをひしひしと感じさせる。けれど、死を感じる程の物も者も、この魔王城にはいないはずなのだ。恐らく全世界でも有数と言って良いほど安全で、死とは無縁の場所なのだから。

 ―しかし、何度そう言い聞かせても、俺の昂ぶりは止まらない。

 それどころか、心臓が一つ、また一つと脈打つ度に俺の視界が真っ赤に染まりそうになり、危険が一歩、また一歩と近づいているのを明確に知らせてくる。思わず挙動不審気味に『左右』を確認してみたが、見えるのは石積の壁だけで、危険そうなものは何も無い。

 ―そして後ろを確認する為に振り返ろうとした俺の耳にさっきよりも近いリーナちゃんの声が届く。

 「お兄ちゃんだって本当は認めているんだよね?お母さんとお父さんが愛し合ってるって。だから、私が生まれたんだって分かっているはず。それなのに、無理矢理だなんて思うはずが無い」

 ―それはまるで身体の底に響くほど近かった。

 密着するほど近くで話しかけられたら、こんな風に聞こえるのだろう。声が耳に届くのと同時に空気の震えさえも感じるそれは、薄皮一枚を隔てた先にリーナちゃんがいると言われても素直に信じられるほどだった。けれど、それなのに気配が無いのだ。振り向いたその視界に顔が入らないのでは無いだろうかと思うくらい近い声なのに、俺の身体には一切触れておらず、一切の気配を感じさせず、しかも足音一つさせずに近づいている。それに半ばパニックのような状態になり、俺は反論も否定の言葉も浮かばなかった。

 ―なんだよ…これ…!

 無論、俺はリーナちゃんの実力を知っている。デュラハンだけあって、俺の教えている魔物娘の中では特に飲み込みが早く、実力的には俺を超えているのも分かっている。けれど、技術的なものや経験的なものは俺の方がまだ勝っていると思っていたのだ。少なくとも達人の剣士が行うような気配の消し方や接近を――無論、俺は両方とも出来ない――リーナちゃんが出来るだなんて考え付きもしなかった。

 ―危険だ…これは危険だ…!

 ついに俺の本能が、注視しなければいけない相手としてリーナちゃんを危険だと告げてくる。けれど、俺の理性は強情にそれを受け入れようとしなかった。だって、そうだろう?命の危機を明確に感じるほどの昂ぶりは、つまるところ、リーナちゃんが俺を殺そうとしている事になる。しかし、彼女は俺が見ていた限りでは無手で何も道具は持っていない。無論、首を締め付ける、と言う方法があるが、リーナちゃんの腕力があってもそこから抜け出す技術を持つ俺の方がいくらか有利だ。

 ―それに何より…リーナちゃんが俺を殺そうとしているなんてありえない…!

 無論、さっき俺は地雷を踏んだらしくリーナちゃんを怒らせ、尚且つ悲しませた。けれど、彼女はそれだけで人を傷つけるような短絡的な子供ではない。寧ろ俺が知る中でもかなり思慮深いほうなのだ。だからこそ、そんな事は無いと、俺の理性は必死に否定し続けている。

 「それでもお母さんに執着するのは認めたくないからだよね?自分の中にある衝動を誤魔化したいからだよね?あの二人にこんなに時間が無い時に相談するなんて、答えを出して欲しくないからなんだよね…?」
 「何を…言って…!」

 今度は何とか否定の言葉が出た。けれど、その言葉は何処か震えて力が無い。その様はまるで萎えきった男のシンボルを髣髴とさせる。…いや、まぁ、実際、俺のそこはすっかりと縮んでいるんだが、それはさておき。

 「―お兄ちゃんが…少女性愛趣味って事…だよ」
 「違う…俺はっ!」

 ―グラマラスな女の方が好きなんだよ…!!!

 そうは言いたい。言いたいのだけれど、何故かそこまで言葉が出なかった。違うと否定していても、証拠となる言葉が出てこない。無論、俺は少女性愛なんて持っているはずがないのだ。今まで惚れた腫れたの関係になった女は皆、出ているところは出ている女の魅力をぷんぷん振り撒くような女だったし、関係した娼婦もそんな女が殆どである。胸の大きな女に挟み込んで奉仕してもらうのが何より好きなプレイだったし、質感溢れる肢体を抱きしめながら寝るのが一番良く眠れるのだ。そんな俺が今更、少女性愛に転ぶなんて、しかもそれを認めたくがない為にグレースさんに言い寄っているなんてありえるはずがない。

 ―けれど、リーナちゃんはそうは思ってくれていないらしい。

 寧ろ俺の言葉を足がかりに追い詰めようと、より冷たい言葉を俺に向ける。

 「何時だってお兄ちゃん、何時もやらしい目で女の子を見てるもん。組み手をしている時にチラッと見えちゃうまだ膨らんでないお胸とか大好きなんだもんね。思わずそこに目がいっちゃって、動きが止まっちゃうくらい好きなんだもんね。私…何時もお兄ちゃんのこと見てるから知ってるんだよ」
 「違う…!俺はグレースさんにだって何度もプロポーズしてるし、そんな事あるはずが…っ!」

 ―そりゃ…そういう事もあるかもしれないけれど…!

 だが、それはいわば男としての本能だ。目の前で肌色が晒されれば男なら誰だって視線を奪われるだろう。それがまだ初潮も迎えているのか定かでは無い年頃の女の子だとしても、視線が引き寄せられるのは仕方ない。だから、それは少女性愛趣味――長ったらしいからもうロリコンで良いか――を俺が持っている証拠にはならないはずだ。

 「だったら、何でお母さんなの?もう結婚して私まで産んでるお母さんなら受け入れてもらえないから、プロポーズし続けているんじゃないの?お母さんにプロポーズする事で自分を誤魔化そうとしているんじゃないの…?」
 「そんな馬鹿な…推測だよそんなもの」

 ―そう。全部リーナちゃんの推測に過ぎない。

 それに例えそうであっても、そんなもの認めるわけにはいかない。だって、俺がそれを認めると言う事は、その対象は一番身近なリーナちゃんにも向けられていると言う事になるのだから。色々あって恥も外聞もとっくの昔に捨てているが、もし認めて今以上に嫌われ、さっきのような胸の痛みをまた味わうのは御免蒙りたい。

 「そう…やっぱり認めてくれないんだね。…じゃあ…認めたくなるまでじっくり…私がお兄ちゃんを『教育』してあげる…」
 「何を…」

 ―言っているんだ?

 そう言おうと振り返った俺の口は、言葉を放つどころか、受けた衝撃に口を開閉させる事しかできなかった。何が起こったのかパニックのような感情のまま下を見下ろすと…肩から足までしっかりと体重を乗せたリーナちゃんの拳が俺の肋骨の中心下部に押し当てられている。恐らく横隔膜を正確無比に打ち抜かれたのがさっきの衝撃の正体なのだろう。その影響で、全身に痛みが走り、リバースしてしまいそうな衝動を抑える為、思わず息を吸い込みそうになった。けれど、横隔膜が半ば麻痺し、肺が満足に空気を受け入れられない状態で、その呼吸をしてしまえば、俺の意識は間違いなく吹っ飛んでしまう。…しかし、必死に堪えようとしても、人間に息を止める事はできない。結局吸い込んだ息に、押し流されるように俺の意識は薄れていく。

 ―…あぁ、さっきの警告の原因は肉体的なものじゃなくて…精神的なものだったのか…。

 彼女の言葉が正しければ、俺はこれから『教育』されてしまう。それがどんなものかは分からないにせよ、俺の自意識に何かしらの影響があり…場合によっては今の自我が消えるかもしれない。…それを何処か俺の本能は予測し、身体を臨戦態勢にしてまで警告していたのだろう。

 ―ちくしょう…何時だって気づくのが遅いんだよな…。

 そんな事を思いながら俺の意識は完全に闇に飲まれていった。
















10/10/29 19:19更新 / デュラハンの婿
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