読切小説
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ひとりだけの目
「大丈夫――、誰も来たり、しないから」

 図書室の、背の高い本棚が並んだ奥の場所。床板の上で仰向けに寝転んだ僕に跨って、彼女がそっと耳元で囁く。
 彼女のブレザーのリボンが解かれて、横の床にそっと置かれた。
 部屋に満ちる本の匂いに混じって、ミントのような彼女の香りが漂って心臓を高鳴らせる。
 夜になった今部屋を照らすのは、ぶら下がった非常灯と、彼女の向こうにあるカーテンの隙間から漏れ出す月の光だけ。そんな僅かな光に照らされ、癖のついた彼女の長い黒髪が鈍く光っていた。

「私、ずっと独りだった。
 少しでも、この切ない気持ちを無くしたかった。
 だから、こっそり。紛れ込むみたいに、ここに居たの」
 
 学校指定のブレザーが傍に畳まれて、次に彼女はブラウスのボタンに手を掛ける。
 ぱさ、とかすかな音を立ててブラウスが床に置かれ、その下にある控えめな白のキャミソールが現れる。同時に彼女の下着と肌も露わになった。
 真っ白いその肌は”人間”と違って、洗いたてのシーツのように曇りがない。
 いつの間にか彼女はキャミソールも外して、ブラウスの上に置いた。

「でも、変わらなかった。……ううん、もっと悲しくなった。
 私だけがぽつんと浮いてるみたいで、すごく、不自然で」

 どんな表情で彼女がキャミソールを脱いだのか、僕は見ていなかった。見ることが出来なかった。脱いでいるのは彼女なのに、なぜか僕自身がどうしようもなく恥ずかしくなっていた。彼女が生まれたままの姿に近づくたび、僕は息の仕方さえ忘れそうになる。ほんの少し彼女の表情を伺うことさえ、僕には途方もない勇気が必要だった。
 意を決して、僕は恐る恐る彼女の顔を見る。
 癖のついた長い黒髪が僅かな日光で煌めく。彼女の目をすっぽり隠せてしまえる前髪の下から、真っ赤で円らな一つ目がちらちらと覗く。僕の方を見ているのか、それとも目を逸らしているのかは分からない。
 その代わりのように、彼女の口元はよく動いていた。しかし喋っているわけではなく、言いよどむような、唇を揺らす動きだ。頬だって真っ赤に染まっている。

「だから、もっと」

 チェックのスカートも外されて、身体を包むのは下着だけ。彼女が足をそっと動かして、自分のショーツを脱いでいくのが見えた。
 彼女の肌と僕の服が擦れる音がして、真っ黒な彼女の両手が僕の頬をふわりと包む。

「もっと私のこと、見てほしい」

 力強く鳴り続ける心臓の鼓動を必死で鎮めながら、僕は眺める。
 人間ではあり得ない、黒と白の入り混じった彼女の裸体を。
 真っ赤な一つ目を。



 

 二月の頭、まだ冬の寒さが残っている頃。
 僕はいつものように、いつもの道を通って、一人で登校していた。
 僕の通う中学校は町からだいぶ離れた田舎にあり、そのせいか生徒の数は多くない。そもそも地域に子供の数が少ないし、特に有名な学校というわけでもない。
 しかし、そんな小さな学校でも噂話はある。「人体模型が歩いた」「妖怪がいた」という怪談みたいな話もあれば、「誰と誰がこっそり付き合っている」とかいう身近な話も。
 でも、そんな話で盛り上がるのは一部の元気なグループだけ。
 僕はそういう子達とほとんど話した事がないし、仲が良い、という友達もいない。
 だからといって、皆からいじめられている、というわけでもない。
 授業で同じ班になれば誰かと話す事もあるし、無視されたりするわけでもない。
 ただ、僕は自分でもよく分かっているつもりだ。自分が明るい人間でも、親しみやすい人間でもないという事を。 

 最初のうちは話しかけてくる人もいたけれど、積極的に打ち解けてくる子はいなかった。
 僕だって邪険にしていたわけじゃないつもりだ。けど、なんて言おうか考えてるうちに皆の話は進んでしまって、結局何も言えなくなってしまう。
 みんなが知っているはずの話題が分からず、僕だけ黙っている事もよくある。
 何かを聞かれてもとっさには応えられないし、面白いことも言えない。
 気が付けば僕と話す子なんてほとんどいなくなっていて、誰かと学校の外で会う事も無かった。
 
 僕だけ静かに給食を食べながら、心の中で密かに思っていた。
 本当に一人ぼっちだと感じるのは、一人きりで黙っているときじゃなくて、他の誰かと一緒にいるときなんだと。


 
 その日のお昼も給食を食べ終えたら、僕はそそくさと教室を出た。他の皆は教室で話したり、外で遊んだりしている。
 僕が向かうところは図書室だ。学校で暇になると、いつも僕は図書室へ行く。それと今日は僕が図書当番だからというのもあった。小さい学校のわりに図書室は広くて、本の数も種類も豊富だ。面白い本がいっぱいあるし、僕が読んだことのない本もたくさんあってわくわくする。 
 クラスの皆は漫画やアニメの話をよくしているけど、僕の家にはそういう物が少なくてほとんど見たことがない。きっとこういう話題の少ないのも仲良くできない原因だろう。
 昨日から読み始めたシリーズ物の小説を僕は手に取って、僕は当番の人が座る受付カウンターに着く。休み時間の図書室にはほとんど人が居なくて、とても静かだ。
 僕は一応図書当番だけれど、本を借りに来る人なんてほとんどいないからサボっていてもまずバレないだろう。
 でも当番があっても無くても、僕はほとんど図書室にいる。
 学校で僕が居たい場所が他に無ければ、僕にとってここより居心地の良い場所もない。

 僕はちらっと、奥の方にあるテーブルを見る。
 そこには今日も、髪の長い女の子がいた。

 あの女の子というのは、癖のついた長い黒髪の子のことだ。
 目元まで髪が伸びていて、顔は鼻より下しか見えない。ぱっと見るだけでも体格は小さく、今三年生の僕よりは年下に見える。制服のブレザーは着ているけれど、学生証を付けていないので何年生かは分からなかった。
 ただ、僕が気になっているのはそこじゃない。
 僕が引っかかるのは、”この女の子が昨日も一昨日も同じ席に座っていた”ということ。
 いや休みの前も考えると、もう一週間はこの図書室にいるのを見かけている。それもずっと、同じ場所、同じ席で。
 もしかすると、彼女も本が好きなんだろうか。
 それとも僕みたいに、他の人と一緒に居るのが苦手でこの図書室に入り浸っているのだろうか。
 怪しまれない程度に観察していたら、彼女がずっと一人で本を読んでいて、読む本を変える以外にはほとんど動かないのが分かってきた。
 そして、僕が図書室に居た休み時間の時はほぼずっと彼女を見かけている。

 最近は見るたびに、彼女に声を掛けてみたい、と思っていた。
 どんな本が好きとか、おすすめの話とかそういう話をしてみたくて、どう話しかけたらいいんだろうと何度も何度も悩んでいた。
 けれど僕には気軽に声を掛けるための言葉も思い付かないし、それを切り出す勇気もない。クラスにいるスポーツのできる子みたいに、女の子にだって気軽に声を掛けられたらいいのに。
 どうしたらいいんだろうと考え出すと、もう本の中身が頭に入らなくなってしまう。
 なんて声を掛けたら――。
 
 その時、学校のチャイムが鳴った。
 いつもは五分前までに教室へ戻っているのに、しまった、と思った。それに午後の授業は体育からだ、早く戻らないともっと遅れてしまう。
 僕は読んでいた本を手早く棚に戻す。その時、ついまた女の子の様子を伺ってしまっていた。
 読んでいたであろう本はテーブルに倒れていて、彼女はテーブルに手を付いたままうつむいている。
 ……寝ている?
 少なくとも、チャイムが鳴ったから急いで教室へ戻ろうという様子はなかった。
 起こすべきだろうか。いや授業が始まるんだ、起こさないといけない。
 そうだ、これを口実にして話しかける機会かもしれない。
 
 僕は彼女のいるテーブルに近づいて、より近くで彼女の姿を眺める。
 絵の具のように真っ黒い前髪は長くて、近くで見ても目を瞑っているのか開けているのか、どこに目があるのかすら定かでない。寝息を立てる小さな音すら聞き取れなくて、ますます不思議な感じがした。本を選ぶふりをして彼女の近くまで行った事はあるけれど、ここまで近づくのは初めてだ。
 まずはとんとん、と指でテーブルを叩いてみる。
 俯いた彼女がそれに気づく様子はない。チャイムで気が付かなかったのだから当然だ。
 勇気を振り絞って、僕は声を出す。
  
「あの」

 それでも小さな声しか出せず、当然彼女は反応しない。
 僕は言葉を変えて何度も呼びかける、次第に声量は大きくなっていったけど、それでも彼女が起きる様子はない。
 思い切って、僕は彼女の肩に右手を伸ばしてそっと叩いた。
 それでも彼女が動く気配はなく、息をしていないのかと思うほど、まったく身動きしない。
 今度は強く、右手で彼女の肩を揺さぶる。
 
「チャイム、鳴ったよ」

 すると、とてもゆっくりとした動きで彼女が顔を上げた。
 傍に立っている僕を彼女が見上げても、長い前髪のせいで彼女の目は見えず、僕を見ているかどうかさえ分からない。
 彼女も僕も何も言わず、少しの間黙ったまま顔を突き合わせていた。
 
「その、早く行かないと、授業が」

 普段なら僕も、授業に遅刻してしまうからと焦っているはずなのに、何故かその点でだけは落ち着いていた。
 でも彼女と話す事に関しては緊張したまま、次に何を言うかすらあやふやだった。
 彼女の口元は動かず、何も言わず、無表情のまま。
 困った僕が目線をずらすと、テーブルに置いてあった本に目が行く。それは前に僕が読んだことのあるファンタジー物の小説だった。
 この本なら、どの棚に置いてあったかは僕も知っている。
 戻しておいてあげた方がいいだろう、そう思って僕は本に右手を伸ばす。

「そうだ、この本返しとくから、君も早く――」

 すると本を掴もうとした僕の手の甲を突然、彼女が握った。
 ブレザーの袖から伸びる彼女の手は、手袋でも着けているのか真っ黒で、けれど手袋よりも柔らかい感触がした。

「え、と、」

 驚いたまま僕は彼女の黒い手と、髪で隠れたその顔を交互に見る。
 彼女は僕の方を向いていたけれどやはり黒髪で目は見えず、何を訴えようとしているのかは分からなかった。
 そのまま、また何秒か無言が続く。
 彼女が、僕の手を掴んだまま。

「――あ、この本、借りるつもり、だったのかな」

 そう僕が言っても彼女はうんともすんとも言わず、たぶん僕の顔を見たまま、身じろぐことも頭を振る事も無かった。
 僕はそっと本と彼女から手を離す。何も言わないまま彼女も手を引いた。
 女の子に手を触られる事すら慣れていない僕はかっと頬が熱くなり、なんだかとても恥ずかしくなった。

「ご、ごめん。僕が当番なんだけど、もう授業の時間なんだ。
 借りるなら、あっちにある紙に書くか、また今度で。
 君も、急いでね」

 僕は早口でそう言うと、逃げ出すように図書室から出ていった。
 急いでいたのは遅刻してしまうから? 何も言わない彼女が気になったから?
 その時は色々な感情が混ざりすぎてよく分からず、どんな遅刻の言い訳をするかだけを考えていた。



 放課後になって、僕はまた図書室へ向かう。
 図書当番の時間は放課後から三十分ほどで、僕は部活動をしていないから当番が終わったらそのまま家に帰るのがいつも通りだ。
 けれどなぜか今日は、すぐに帰るつもりがなかった。
 図書室の扉を開けると、まず最初に僕は彼女の姿を探してしまう。まだそこに居るのかな、と。入口からでは分からないけれど、受付カウンターまでくれば彼女がいるかどうかは分かる。 
 なるべく自然に、僕はいつも彼女が座っているテーブルを見る。確証なんてどこにもないのに、きっとそこに居る気がして。
 思ったとおり、彼女はいつものようにそこに居た。
 今も本を読んでいる。たぶんお昼休みに見たときと同じ本だった。
 
 彼女に声を掛けたいのだけど、やっぱりどうしていいか分からない。
 僕は本の貸出確認をしながら、それが終わると本を読みながら、じっと考えていた。
 ――そうするとあっという間に三十分が経っていて、当番の時間はいつの間にか終わっていた。
 これ以上当番の僕が居たら、彼女はなんて思うだろう。
 不自然に思われるだろうか、それとも、当番時間なんて知らないだろうから素知らぬ顔で本を読み続けるだろうか。
 彼女がいつまでここに居るかは分からないけれど、まだ帰ろうという雰囲気ではなかった。

 ……そうだ、ようやくひとつ思い付いた。
 見渡すと、彼女と僕以外、図書室には他に誰もいない。今がチャンスだ。
 僕は彼女のテーブルにゆっくり近づいて、彼女に声を掛ける。

「ねえ」

 さっき彼女を起こした時よりは、自然だったと思う。
 今度は彼女も一声で気が付いてくれたらしく、本を開いたまま、僕の方を向いた。

「今日はもう当番終わりなんだ。だからその本、借りるならカードに書いとくよ」

 あんまり唐突すぎたから、変な奴だと思われたかもしれない。
 でも彼女がこの本をさっきも読んでいたのは事実だし、普通なら借りて帰るだろう。
 すると、
 
「……あ、」

 彼女の口から声が漏れる。とても小さな声だったけど、静かな図書室ではちゃんと聞こえた。

「え、えっと。この本、さっきも読んでたみたいだから、借りるかなって思って」

 緊張して早口になったまま僕は続ける。
 彼女はなんて思ってるんだろう。無視されたりしないだろうか。気持ち悪い人だって思われてないだろうか。
 取りとめのない不安が生まれて、まだ冬なのに汗が垂れてきそうなほど暑く感じた。
 僕を見ながら、彼女の小さな口が動く。

「……借りられるの?」
「う、うん。 このカードに、君の名前と、借りたい本のタイトルを書けばそれで」

 僕は持ってきておいた図書カードと鉛筆をテーブルに置く。でも彼女はすぐには手に取ろうとしなかった。

「……名前」

 ぼそっと呟いた彼女の声は、さっきよりも小さかった。
 ゆっくりと彼女が鉛筆を手に取って、僕の渡したカードに名前を書いていく。鉛筆を持つ手はどこかぎこちなく、何かを確かめるような動きだった。
 僕はこっそり、という程でもないけれど、彼女がどんな名前なのかを覗いて確かめる。

「マオ」

 僕がどんな名前か聞こうとするその前に彼女が言う。
 名前欄にはよれた文字で『マオ』とだけ、書かれていた。

「マオ?」

 僕が確認するみたいにおうむ返しすると、彼女は僕を見て、

「うん」

 と頷いた。
 相変わらず抑揚のない声だったけど、心なしか彼女の口元が綻んでいた気がする。
 たぶん、マオは彼女の下の名前だろうか。
 
「一応、名前は全部書かないといけないんだけど……それで、全部?」
「……? マオじゃ、ダメ?」
「あ、いや。いいんだ」
 
 冗談で書いた訳じゃないなら外国の名前だろうか? でもどこかで聞き覚えのある名前だ。外国人の知り合いなんていない筈なのに、なぜだろう。
 彼女はそのまま鉛筆を持ち直し、たっぷり時間を掛けて本のタイトルを書いていく。
 決して綺麗な字じゃなかったので読みにくかったけど、僕も知っている本だから分からない事はなかった。
 その時突然、この本にもマオというキャラクターがいたのを思い出した。そうだ、僕が引っかかっていたのはそれだったんだ。
 『マオ』は、この本に出てくる女の子の名前だ。

「そういえばこの本にも、同じ名前で、魔法使いの女の子がいたよね。
 無口なんだけど、ほんとは優しい子」
「……あなたの、名前は?」
「え? あ、ああ、僕は卯目(うめ)だけど」

 唐突に聞かれたものだから、どぎまぎしながら僕は答えた。
 すると彼女は、何かを思い出そうとするみたいに僕の名前を復唱する。

「うめ……うめ? そうだ、クロネコ。あの子と、一緒」
「黒猫?」

 と僕が聞くと、彼女も、
 
「マオの、友達」

 と言った。
 最初はよく意味が分からなかったけど、彼女が読んでいる本を見てピンときた。
 『ウメ』というのはマオが飼っている黒猫のことだ。

「もしかして、この本に出てくる『マオ』の猫のこと?」

 彼女はうん、と言って頷き、カードを僕に差し出した。
 学年の欄は書かれていないけれど、ここは別に強制じゃないから何も言わない。

「これで、借りられる?」
「うん。借りた日と返す日は僕が書いておくよ。
 期限は二週間だから……えっと、今月の16日だね。分かる?」

 カードを受け取って、僕は鉛筆で日付を書いていく。
 僕の質問に彼女は首を傾げていた。

「えっと、じゃあ、次はいつここに来れるかな」

 日付を書き終えて顔を上げると、彼女が僕のほうを向いていた。
 とても小さな彼女の口が開いて、ゆっくり動く。

「毎日、」

 それはいつもより、ほんの少しだけ大きな声。

「わたし、毎日、ここにいるから」

 僕の気のせいでなかったら、彼女の口元は微笑んでいたように見えた。
 


 次の日。
 図書当番ではないけれど、その日の昼休みも僕は図書室に向かった。
 
 戸を開けて、前まで読んでいた本を取りに行く。その途中で、彼女がいるのを確かめた。
 そして、彼女と僕以外の誰もいない事も。まあ当番が居ないのはべつに珍しい事じゃない、誰かがさぼっていたって怒るような人がいないからだ。
 いつもの奥の席に座っている彼女の方へ僕は近づいていく。
 彼女のそばに立つと、ゆっくり彼女はこっちを見た。

「となり、座ってもいいかな」

 もちろんそのつもりで僕は彼女の席まで近づいたのだけど、いざとなってその言葉が簡単に出たので自分でも驚いた。
 彼女がもう一度頷いたので、僕は彼女の右側に座る。
 今日も彼女は同じ本を、つまり昨日図書カードに書いた本を持っていた。

「その本、面白い?」

 彼女が僕の方を向いている間に聞いてみると、彼女は首を縦に振った。
 
「うん。すごく、面白い。……みんな、幸せそうだから」

 幸せそうだから。そう言った彼女の声にはどこか力がない。
 表情が見えないからよくは分からないけれど、きっと心に触れる何かがあるんだろう。
 話しながら僕は彼女が持っている本のストーリーを思い返してみる。
 
「そうだね。
 最初は皆、すごく可哀想な境遇なのに、いつの間にかそんなの気にならないぐらい、元気に旅してる」
「うん。みんなが頑張ってて、皆がみんなを、求め合ってて――。
 ……すごく、きゅっとなる」

 彼女の言葉はきっとその心情を表していたんだろうけど、色々な感情が混ざっていたように感じた。
 恐らく彼女も上手く言いにくいんだろう。僕も、その本を読んだ後はぼんやりとした余韻に浸っていて、言葉には出来ない想いがあった。
  
「その本のシリーズって、この学校だと二、三冊しかないんだ。
 えっと、僕、この本が好きで、全部集めてて。
 だからその、もしよければ、その話の続きの本も、貸してあげたいんだけど……どうかな」
「……え、」

 僕は授業中に考えていた、話すための口実を切り出す。
 すると、小さく口を開けたまま彼女は止まってしまった。

「あ、急にごめん。
 でもほんとに面白いから、読んでみてほしいなって思って。
 この本の話をしたの、君が初めてだったから」
「……ち、違うの。 ……嬉しいん、だけど……なんか急に、そわそわしちゃって。
 ほんとに……貸してくれるの?」
「うん。もちろん」
「うれ、しい。 でも何だか……すごくくすぐったい、けど、ぽかぽかする、みたいな……。
 なんで、かな」

 彼女は持っていた本を閉じて、落ち着かないという感じで小さく身をよじらせた。
 いきなりの事だったから戸惑っているんだろうか、でも少なくとも嫌がられている、という感じはない。僕はその事に安心しながら微笑んだ。

「じゃあ明日、この図書室に持ってくるよ。
 そういえば、今読んでる本のひとつ前の話はどうだった?」
「あれも……面白かった。
 えっと、えっとね――」



 
 僕はその日の夜自分の部屋で、彼女に貸すと約束した本を読んでいた。
 思い返すのは、その本に出てくる『マオ』という名前の人物だ。 
 マオは女の子で、いわゆる孤児だ。物心が付くころには孤児院で暮らしていたけれど、それより前の記憶はほとんどない。
 マオという名前は、世界を旅する他の主人公たちと出会ってから、彼女自身が考えた名前だ。
 彼女が『ウメ』と呼ぶ黒猫と遊んでいたときのウメの鳴き声から考えたらしい。

 孤児院にいる彼女は、無口で、他の子達とほとんど話さなかった。自分から声を掛けることもなかったし、仲良く遊ぶこともしなかった。
 何故か?
 彼女は魔法が使えたからだ。
 魔法を使う人間がいる事自体は、その世界でも珍しくない。それなりの時間と勉強を重ねれば、才があろうとなかろうと一定の技術を持つ事はできる。
 でも彼女は幼くして、大人でも難しいような魔法をいとも簡単に使ってのけた。
 普通の人が一生懸命に努力して覚える魔術を、最初から知っていたみたいに理解していた。
 孤児院の人達も、子供たちも、そして彼女自身も――彼女が異質である事には敏感だった。 
 彼女は自分が何者なのか知りたいと言って、世界を廻る主人公たちに付いて行く決心をする。

 あの子が図書カードに書いていた本での話がそこまでだ。
 そして、僕が次に貸す本の話では――。



 翌日の放課後。
 昨日と同じようにテーブルに着いて、彼女の隣に座って話していると時間を忘れてしまい、もう午後七時を回っていた。
 電気が点いていない図書室は暗く、僕と彼女の二人の顔が隣同士でようやく見えるくらいだ。
 「せっかくだから一緒に帰ろう」、この言葉を切り出すのに、僕は何度も躊躇して、ようやくそれを口に出来たのは、それから十五分は後の事だった。
 でも、

「……わたしは、まだここにいるよ。
 だから、いいの」

 と言って、図書室を出ようとしない。
 もう夜なのにここに居残る理由、それを詮索して彼女を嫌な気分にはさせたくない、でも、その声があまりに弱々しくて、不安になってしまう。
 僕と一緒に帰りたくないだけならまだいい。でも、それよりも重大な何かを隠しているような、そんな気がして。

 「分かった」と言って、僕は図書室から出ていく。
 でも僕はそのまま帰らず、彼女が出てくるのを待っていた。
 まるでストーカーみたいだけど、彼女がちゃんと家に帰るかどうか、それだけが心配で僕は帰る気にならなくなった。
 ……何より僕は、彼女を図書室以外で一回も見たことがない。
 前髪で目を隠した彼女の姿はとても目を引くはずなのに、外で会う事も、すれ違う事もなかったなんておかしい。
 どうしても僕は確かめたくなって、出来るだけ図書室に近く人目に付かない場所を選んで、僕はそわそわと待つ。

 三十分、一時間。お腹が空いてきたけれど、彼女が出てくる様子はない。電気もついたままだ。
 するとスリッパの音を鳴らしながら見回りの先生がやってきたので、僕は慌てて掃除用具箱の中にこっそり隠れる。バレないか心配だったけど、どうやら気づかれなかったらしい。
 先生が図書室の中に入っていくのが用具箱の隙間から見えた。
 二、三分経って、ふっと図書室の明かりが消える。
 けれど図書室から出てきたのは先生の姿だけ。
 しかも、先生は鍵らしき物も持っていたのに、何故か図書室の扉には鍵を掛けず扉を閉めるだけで出て行ってしまった。
 そのままスリッパの音はどんどん遠ざかっていく。
 音が全く聞こえなくなっても、彼女が電気の消えた図書室から出てくることはない。
 扉を閉めるのを先生がうっかり忘れていた? 彼女にも気が付かなかった? 理由は並べられるけれど、どこか腑に落ちない。

 僕は図書室の扉に手を掛ける、やはり施錠はされていない。音が鳴らないよう静かに開けて、できるだけ足音がしないよう慎重に部屋の奥へと足を運んでいく。
  
 僕はちらっと、奥の方にあるテーブルを見る。
 そこにはいつものように髪の長いあの子が座っていた。
 ずっとそこから動いていなかったみたいに。

 先生が入った時彼女はどこかに隠れていた。そう考えれば辻褄は合うけどなぜか納得できない。
 なにより彼女がまだここに残る理由が、僕にはよく分からなかった。
 ――こんなに暗い場所でぽつんと一人、一体どうして?
 気が付くと僕はいつものように、彼女を呼びかけていた。
  
「ねえ」

 びくっ、と彼女の肩が跳ねた。そのせいで彼女が持っていた本を手から離すと、本がばたんと閉じる音が静かな図書室の中に響いた。
 そのまま僕はいつもの席、彼女の右隣にそっと座る。
 
「……な、なんで? 帰った、はずなのに……」
「忘れ物を探してて、気が付いたらこんな時間になってたんだ。
 それより、どうして? ……なんで、家に帰らないの?」
「え……と、」
 
 何を言えば分からないのか、彼女の声は音になるだけで言葉にならない。
 顔が見えなくても、明らかに動揺しているのが見て取れた。
 彼女の事情に口を挟んでどうにかなるとは思わない。それでも彼女の悩みを僕は聞きたかった。

「もしかして、家で嫌な事でも……」

 ふるふると彼女が首を振る。
 癖のある前髪が揺れて、その下にある何かが見えた、ような気がした。
 
「……違うの、そうじゃない。
 いつか言わなきゃいけないって、分かってたけど……もう、だなんて」

 彼女の声は、力ないまま。
 
「私、家も家族もない。自分が誰かも、名前も分からない。
 『マオ』は、私が自分でつけた、名前」

 ぽつりと口から洩れたように、ひ弱だった。
 普段なら到底信じられない言葉が、今はどう聞いたって冗談には聞こえない。

「……卯目くんと会ってから、私たち以外誰も来ないなんて、変。
 だからたぶん、それも私のせい」

 そう言われて僕は以前の事を思い返す。
 彼女に声を掛けるその前は確かに、少ないけれど図書室に他の誰かが来ていた。
 でも彼女に声を掛けた日からは図書室で彼女以外の人を見ていない。
 そんなの偶然だ、と言おうとしても、彼女の気迫がそうでないと主張していた。

「私は、人間じゃない」

 ほんの僅かな無音。
 呆然としたまま何も言えない僕を見て、彼女が言った。

「学校のみんなは、もう何にも言わない。
 私が『そう言ってほしい』って思ったら、わたしのこと人間だって言ってくれる。思ってくれる。
 だけど……鏡を見たとき、そこに居るのは人間じゃない、なにか」
「――そんな、どこからどう見たって君は、」

 次の言葉を言い掛ける僕を、彼女が制する。

「見せて、あげる」

 彼女がすっと立ち上がり、椅子に座ったままの僕を見る。ふっと空気が、雰囲気が変わるような何かを感じる。
 自分の真っ黒な両手で、彼女が自分の前髪に手を差しこむ。するといつの間にか、色白な彼女の肌がさっきよりも白くなっている。まるで雪のように、けれど手だけは真っ黒のままで、肌に白と黒が入り交じっている。
 そして、黒く細い指先が長い前髪を掻きわけると、その下にある彼女の顔が現れる。

 そこには、真っ赤な瞳をした目が、一つだけ。

 彼女が僕から目線を逸らすと、ガラス玉みたいな瞳がごろん、と動く。
 その赤い一つ目は僕の目よりも遥かに大きく、丸くて、それさえも生き物のようだった。
 
「これが、私の本当の姿。
 ……不気味、だよね」

 今にも泣きだしそうな声で、彼女が椅子に座りなおす。
 前髪をあげていた手が降ろされて、一つ目が黒髪の下に隠れる。
 彼女は両手で膝のスカートをきゅっと掴んだまま、うつむいて、震えていた。
 
「卯目くんも、さっき入ってきた先生も、他のみんなも、私を見てもおかしいって思わなかったのは――、
 きっと私が『そう思ってほしい』って、思ったから。
 でも、それは私が人間じゃないことの、証」

 髪の下に隠れていった彼女の顔が、何故かぼんやりとしか思い出せない。
 さっき僕が驚いた理由があやふやになって、だんだん驚きは薄れていく。
 けれど僕の心の中のどこかで、決して無くなろうとしない感情があった。

「最初はここにいる人達に、紛れてるだけだった。
 私も他の女の子と一緒だって、そう思うためにここにいた。
 でもそれじゃ埋まらなかった――ううん、前より、切なくなった。
 結局、私は人間じゃないって。仲間外れだって、ずっと心の中で言われてるみたいで」

 彼女の黒い手の甲に滴が落ちる。
 僕の前にいるのが、人間なのか別の生き物なのか僕には分からない。彼女が誰かなんて、分かりようがない。

「でも、卯目くんは、私が『そう思って』ないのに、声を掛けてくれた。
 私、一緒に話ができて、嬉しくて仕方なかったのに、どうすればいいか分からなかった。
 ずっと言わなきゃいけないって思ってて、でも言いたくなんて、なくて、」

 それでも彼女は、僕に向けて整理のつかない言葉を一生懸命に並べてくれる、真っ直ぐで健気な女の子だった。

「もう一回、」
 
 まだ僕は、彼女が見せてくれた事実を忘れる気なんてない。
 胸の中が熱くなって、彼女に掛けたい言葉がいくつもいくつも浮かんでくる。彼女が僕に話してくれたことをこのまま無かった事になんてしたくない。
 真っ白な頭の中、彼女と同じように、ただ自分の思いをぶつけたくなって僕は口を開く。

「もう一回、ちゃんと見たいんだ」

 彼女は僕の言葉に反応して、ほんの少しだけ顔を上げる。
 何か彼女が言おうとする瞬間に僕は席を立つ。彼女の前で膝立ちになって目線を合わせ、彼女の前髪にそっと手を差し込んで優しく掻き分けていく。
 もちろんそこにあるのは、白い肌と、真っ赤な一つ目。
 彼女は口を小さく開けて、驚いたような表情をした。

「――あ、」

 口から洩れたような、彼女の小さな声。
 僕と彼女の目がばっちり合って、彼女の大きな瞼がぱちぱちと瞬く。
 その中まで覗こうとするみたいに、僕はもっと目を近づけていく。

「あんまり突然だったから、よくは分かってないかもしれない。
 でも僕にはちゃんと見えるよ。赤くて丸い、君の綺麗な目が」

 真っ赤な彼女の瞳が薄暗い光の中で鈍く輝く。とても長い睫毛が、ぴくりと動いた。
 大きな目が僕を見つめるたび、僕もなんだか顔が赤くなって、どきどきしている。

「不気味なんかじゃない。大きくて、すごく可愛らしい」

 つい口に出した言葉が恥ずかしくて、ますます僕の顔が熱くなる。
 少しの間僕達は何も言わなかったけれど、彼女の大きな目玉がごろごろ動いて、それと一緒に頬も染まっていくのが、暗い図書室の中でもよく分かった。

「……え、あ、」
「君と居るとなんだか……うまく言えないけれど、安心できるんだ。
 僕はもっと、君と一緒にいたい」

 僕が何か話すたび、僕も彼女も真っ赤になるぐらい緊張していく。
 熱に浮かされたみたいにお互い何も言えなくなったけれど、居心地の悪い沈黙じゃなかった。 

「わ、たし。……そんなこと言われたら、……もっと、欲しくなる。
 ……もう、だめ。
 我慢できなくなって、離したく、なくなっちゃう――」
「え――わっ、」

 言葉が終わるその前に、彼女は跳ねるように僕に向かって抱きついていた。驚いた僕はバランスを崩して床に押し倒され、そのまま仰向けに寝転がされる。
 触れた彼女の身体はとても柔らかくて、細くて、儚いものに感じた。
 強く抱きしめると折れてしまいそうで、だけど、抱きしめていないと離れてしまいそうな。

「……前にね。わたし、男の人に、ずっとこうして欲しいって思ってて。
 だから、抱きしめられたことは、あるの。
 でも……やっぱり、違う。
 今のわたし、自分でもびっくりして、どきどきしてて、でも嬉しいのがいっぱい。
 こんなの、初めてで……すごく、あついの」

 手を彼女の背中に回して、おそるおそる抱きしめる。
 彼女は甘える猫のように顔を僕の胸元へこすりつけ、僕を抱く両腕にぎゅっと力を入れた。 

「わたし、もう今日はずっと、離さない。
 一晩中、離れないから――」

 黒髪の隙間から見えた赤い一つ目が、にんまりと笑ったのが見えた。
 心地いい彼女の体温を感じながら、僕も彼女もお互いを抱き合って静かに目を閉じる。
 その日僕たちは図書室の中でずっと、一つになっていた。

 
 
 それから僕がその中学校を卒業するまで、およそ一ヶ月の間。
 僕たちは以前のように図書室で会って、色んな話に、色んな事をした。
 僕は彼女を求め、彼女もまた僕を求めてくれていた。
 彼女の心をどれくらい埋めてあげられたかは分からないけれど僕は、彼女といて幸せだった。

 ――けれど僕の卒業式の前日から、彼女の姿を見ることはなかった。
 式に出る生徒の中にも、図書室にも、学校中のどこにも。
 僕には何も言わずに、ふっと彼女は消えてしまった。
 卒業した後も、僕は何度も学校を探して、町の中を探して――。
 それでも、彼女を見つける事はできなかった。

 そしていつの間にか高校へ入る日が来て、僕は親元を離れて一人暮らしをするようになった。
 だからこそ彼女を探して言うつもりだった。一緒に暮らそう、と。
 なのに、どうして?
 一体彼女はどこに消えてしまったのか。 
 彼女にそれを伝えられなかった自分を恨みながら、僕はただ黙々と高校に通っていた。

 授業の終わった放課後、その高校の図書室に入ってみる。
 その図書室は中学校の頃より一回りも二回りも大きくて、本の量も比べ物にならず、本を借りに来る人もたくさんいた。けどそれで僕の心が満たされる事はなかった。
 たとえどこを探したって、彼女がいるはずがないんだから。

 ぼうっとうろついていると、その図書室の本棚に、彼女に貸した本があったのに気が付いた。
 黙って僕はそれを手に取って、奥の席でページを開いていく。



 ――幼くして魔法を自由に使う『マオ』は、世界を旅する中で、自分が人間ではなく『魔物』であるという事実を知る。
 その事を知った彼女は、自分の正体については何一つ言わず、仲間達から離れる。
 孤児院の頃から一緒だった黒猫の『ウメ』さえ置いて、彼女は消えてしまう。
 それでもウメは一匹だけで彼女を追いかけて行く。
 言葉が通じなくても、人間でも魔物でもなくても、ウメはただマオに付いていこうとしていた。
 そしてマオとウメは再会し、彼女は仲間たちの元に戻る決心をする――。



 いつの間にか、僕はうたた寝していたらしい。
 気が付くともう夜が更けていて、図書室の中は真っ暗で静まり返っている。時計を見ると、もう午後九時だった。
 誰も奥で寝ていた僕に気が付かなかったのだろうか。図書室は勿論、もう学校だって閉まってしまうような時間なのに。
 ふらふらと僕は立ち上がって、ひたすらに暗い部屋の中を眺める。
 僕はたった一人、この図書室に取り残された気分だった。 
 
「ごめんね」
 
 僕の後ろで誰かが囁く。とても耳触りの良い声で。

「高校って、前のところよりとっても広くて、大きくて、人がいっぱいで。
 準備するのに、すごく時間が掛かっちゃった。
 けどこれで、前と一緒。 二人だけ」

 僕の背中に柔らかな感触がして、温かい何かが僕に寄り添う。
 高校で指定されたセーラー服を着た細い両腕が、そっと僕を後ろから包んだ。

「……そっか。僕より早く、来てくれてたんだね。
 僕と一緒に、居てくれるために」

 僕がゆっくり振り返ると、そこにはいつもと同じ、長い前髪の彼女が居た。
 そのさらさらした黒髪を掻き分けると、髪の下から現れた赤い一つ目が大きくまばたきをする。僕が目元にそっと口づけをすると、彼女はにっこりと微笑んだ。
 それは僕だけが見ることが出来る、彼女の本当の笑顔。
 
「じゃあ……今まで会えなかった分、いっぱい、ぎゅってしてもらう。
 ね。 今日は何回、してくれる――?」
14/03/18 12:20更新 / しおやき

■作者メッセージ
最後までお読みいただき、ありがとうございます。

なにジョジョ、濡れ場が上手く書けない?それは無理に書こうとするからだよ
逆に考えるんだ 「書かなくてもいいさ」と考えるんだ

いちおう空気(?)を重視したつもりなんですが、思ったような雰囲気がつくれない。
エロに限らずもっと深い描写が出来るようになれればと思う次第です。

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