連載小説
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「……起きたか。気分は?」

 兄さんに声をかけられて、僕は目を覚ましているのだと自覚した。
 いつの間にか、ベッドに寝かされていたらしい。天井を見つめていた目を、兄さんの方へと向ける。
 椅子に座っている兄さんの、眉間に皺を寄せた難しそうな顔。
 それはとても悲しげで、見ているこっちまで悲しくなる。

「どこか、痛むのか?」

 その問いかけに、首を横に振る。
 まだ少しだけ、体中の妙な熱は残っていたし、背中とお尻に付いた異物は自分の意思で動かせてしまうけれど、少なくとも体の痛みが無いのは本当だった。

「そうか。何か食べたいものは?よく寝てたから、腹減ってるだろ?」

 気を遣ってくれているのだろう。今日も劇団で稽古があるはずなのに、わざわざ休んでまで、僕の事を看ていてくれている。
 色々な事を思っているだろうに、なんでもないように振舞っている兄さんを見ると、自分の情けなさを痛感してしまって仕方ない。
 いや、だからこそ、僕も出来る限り兄さんを安心させられるようにしないといけない。

「……じゃあ、桃がいいな。甘くて柔らかいのでお願い」

 心配をさせないためにあえて我侭っぽく言ってから、僕は思わず喉を押さえてしまった。
 それは、自分が発したとは思えないほど、高く澄んだ声だった。

「桃だな。すぐ買ってくる」

 いそいそと部屋を出て行く兄さんに、喉を押さえたまま頷く。
 ばたん、とドアが閉じて、静かな部屋に一人取り残された。自分の呼吸の音や、鼓動もよく聞こえる。途端に、僕の中で嫌な予感のようなものがどんどん膨らんでいった。
 何度触っても、喉の所に突き出していた骨の感触が無い。首が細いせいで結構目立っていたはずのものなのに、どうして。

 異常なほど敏感な肌にシーツが擦れるのを我慢して、ベッドから這い出す。
 体が震えて、息苦しい。喉の乾きも相まった、ひゅうひゅうという息遣いが耳障りで仕方ない。暑くてたまらない。汗ばんだシャツは鬱陶しいから、脱いでしまおう。

 色々な事が頭をよぎる。とにかく、怖い。それでも、確かめないと。
 姿見の前で、僕は俯き、深呼吸をする。
 そして、意を決して、鏡を見た。

「……あ、ぅ」

 思ったとおり、そこには見たくないものしか映っていなかった。
 鏡の中に居るのは、膝立ちになって泣きそうな顔をしている魔物。
 顔立ちは、僕に良く似ている。赤茶色の髪も、そっくりだった。

「違う……」

 僕が口を動かすたびに、鏡の中の魔物も口を動かす。
 鈴を転がすような声が聞こえたのは、きっとあいつの声。僕じゃない。
 必死になって否定しながら、鏡に近寄る。魔物も、僕に近付く。

 そっくりだけど、違う。
 僕の体はもっと骨ばっているはずで、こんな丸みを帯びて柔らかそうじゃない。
 僕の顔はもっと情けない男の顔のはずで、こんな本当の女の子みたいな顔じゃない。
 胸が少しだけ膨らんでいるように見えるのも、ズボンの中が何だか寂しいのも、気のせい。

「僕は……お前なんかじゃない……」

 否定された事を悲しむように、ズボンの腰周りから出ていた尻尾がだらりと垂れ下がる。

 僕は男で、人間だ。
 女の子でも、魔物でも無い。
 自分に言い聞かせて、柔らかい体を掻き抱く。自分の体に触れているはずなのに、自分じゃない誰かを抱きしめているみたいで、気持ち悪い。

「違う、よ。全部、全部……嘘、なんだ……」

 声が裏返って、鼻の奥がツンと痛くなって。
 気付いた時には、僕は泣いていた。
 悲しいのか、つらいのか、なんだかよく分からない気持ちがぐちゃぐちゃになって、涙になって零れる。
 なんで、どうして。考えても考えても分からない。
 神様の悪戯?僕は今まで男として生きてきたのに。女々しくて貧弱だから、いっそ女にしてしまえば面白いだろうとでも?あんまりだ。こんな酷い仕打ち、それこそ「非情なる神々よ!」と空に向かって叫びたいくらいだ。
 しかも、ただ女の子の体になるだけならまだしも、こんな悪魔の羽と尻尾まで付けられて。僕は、これからどうやって生きていけばいいのだろう。どんな顔をして父さんと母さんに会えばいいんだろう。

 色んな事が頭の中をぐるぐる回って、疑問と苦悩の吐き出し方も分からなくなって、意味不明な叫びを上げてしまいそうになった。
 でも、すんでの所でドアが開く音がして、正気へと返らされた。
 振り向けば、紙袋を手にした兄さんが立ち尽くしている。
 色んな甘い香り。桃以外も買ってきてくれたらしい。
 何か、何か言わないと。

「……おかえり」

 そう言った僕は、どんな顔をしていたのだろう。自分では、笑ったつもりだった。

「あ……あぁ、ただいま」

 だけど、兄さんの反応を見るに、きっと酷い顔をしていたに違いない。
 あからさまに目を逸らして、テーブルに置いた紙袋の中をごそごそと漁っているくらいだから、きっとそうなのだろう。

「ちょっと待ってろ。切ってやるから」
「うん……ありがとう」

 立ち上がる気力も無くて、ナイフで桃を切り分ける兄さんの後姿を、床に座り込んだまま見つめる。
 家の手伝いをしていた頃から、そうだった。兄さんは何でも上手で、たとえば今みたいに果物を切る時だって、危なげなく刃を入れて皮を剥き、計ったように切り分ける。
 昔を思い出したからだろうか。その後姿は、いつもよりも大きく見えた。

「ほら」

 差し出されたお皿の上には、小さめに切り分けられた桃が並んでいた。
 添えられた小さなフォークで、その内の一つを取って口に運ぶ。
 それは、ちょっとびっくりするほど柔らかかった。軽く噛むだけで詰まっていた果汁が溢れて、口中に甘い幸福感が広がる。
 咀嚼するたび、果肉が溶けるように果汁に変わって、ジュースを飲んでるみたいだった。
 でも、どうしてだろうか。こんなにも瑞々しいのに、僕の渇きは一向に治まる気配が無い。

「すごい美味しいよ。本当に、甘くて柔らかい。兄さんも、ほら」

 不安は押し隠して、難しい顔をしている兄さんにも桃を勧める。
 でも、それはあっさりと首を振って断られた。

「いや、俺はいい。それより……」

 やっぱり難しい顔をしたまま、何かを言いよどむ。
 続きを待っている間、僕はもう一つ桃を口にした。
 今度は、さっきよりも沢山の果汁が溢れて、みっともなく口からこぼしてしまった。
 フォークの柄を伝い、手首のあたりまで濡らしたそれを舌で舐め取る。はしたないとは思うけれども、もったいないと思う気持ちの方が強かったし、放っておいたらベタベタになってしまう。
 そんな僕から目を逸らして、兄さんは片手で顔を覆いながら言った。

「服は着ておけ。また、風邪引くだろ」
「あ……」

 そう言われて、思いだした。シャツを脱いで、そのままだった事に。
 今まではそれほど気にならなかったのに、自分の体を見下ろして「こんな体をさらしていた」と分かると、途端に羞恥心がやってきた。
 ごめん、と呟いて、洗ってあったシャツを掴む。
 それは、着心地の良いお気に入りのシャツだった。だけど、今の僕では、袖を折らないと余ってしまう。
 翼は隠してしまいたかったけれど、生地が擦れるたびにくすぐったくてたまらないので、裾を縛って背中ごと出す。おへそが丸出しなのは、我慢。
 尻尾を出すためにズボンもかなり低い位置で履いていて、お尻が半分出ているような状態だったけれど、これはもうどうしようもない。

 はっきり言って、今の僕は服を着ていてもかなり恥ずかしい格好をしていた。しかも、これを兄さんに見られているなんて、顔から火が出そうだ。

「で、出かける時とかは、上着で隠さなきゃいけないよね……暖かいのに厚着なんておかしいけど……」

 どうにか冗談にして、笑いたかった。でも、口に出して言ってしまうと、自分の姿を実感してしまってかえって落ち込むばかりだった。
 兄さんも下手な冗談に笑ったりしないで、まだ僕から目を逸らしている。

 当然だ。弟がこんな風になったのに、平然としていられるはずがない。
 ああ。あんなに眉間に皺を寄せて、何を考えているのだろう。
 悪魔に、魔物になってしまった弟をどうやってここから追い出すか。真っ先に考えるのは、そんな所だろうか。
 兄さんは優しいから、もしかしたら僕を無理やり追い出すのも気が咎めてしまうかもしれない。でも、魔物を家に住まわせてるなんてバレたら、大騒ぎになってしまう。
 じゃあ、僕はどうしたらいいんだろう。兄さんに迷惑をかけないためには。
 そんなの、決まってる。誰にも見つからないように、ここを出て行けばいい。
 兄さんの助けになりたいのなら、それが一番だ。

「そうだな、とりあえず……」

 思案に耽っていた僕は、兄さんの声に、びくりと体を震わせた。
 早く出て行け。そう言われると思った。

 でも、兄さんは僕が思っていた以上に、優しかったらしい。

「買い物は俺がすればいいとして、公共浴場にも行けないのは……まあ、体を拭くだけで我慢しろ。病気がちというのは劇団の皆も知っているし、しばらく顔を見せなくても平気だろう。その様子だと、服もどうにかしないとな……」

 思わず、ぽかんと口を開けて兄さんを見上げてしまった。
 そんな僕を不思議に思ったのか、兄さんは怪訝そうな顔をする。

「何だその顔は」
「……追い出したり、しないの?」
「追い出す必要があるのか?」

 本当に、本当にびっくりした。
 世の中には魔物と共に暮らす人たちもいるらしいけれど、少なくとも僕と兄さんの故郷も、この街も、魔物を受け入れていない。
 魔物は人を食うなんて噂だって聞いた事がある。僕自身も、僕がいつそんな風に凶暴な化け物になるか分からない。

「……兄さんは、怖くないの?」
「その格好の事なら、大した事では無いだろう。衣装や化粧でもっと怖い姿になった奴を見た事もあるしな」
「でも……」

 どうしても納得できない僕に、兄さんは深々とため息をつく。
 そして、何かを思いついたらしい。テーブルに着くと、紙袋を乱暴に横にどけて、言った。

「座れ」

 床に座ったままそれを見ていた僕は、言われるがままに、とりあえず兄さんの正面に座った。
 全身が今までよりも小さくなっているみたいで、テーブルがちょっとだけ高く感じる。

「勝負だ」

 尻尾が邪魔でいまいち上手く座れない僕にお構い無しに、兄さんは肘をテーブルについて、腕相撲の構えを取った。
 単純な力比べ。
 小さい頃にも時々やっていたけれど、兄さんに勝てた事は一度も無かった。

「……なんで?」

 しかし、なんで今?
 首を傾げても、兄さんはただ「いいから」とだけ答える。
 いまいち意図が分からないまま、僕はしぶしぶ身を乗り出して兄さんの手を掴んだ。
 ごつごつとして、大きな手。今の僕の手とは、大違い。思わず、しんみりしてしまったけれど、

「よーい、どん」
「えっ、ちょっと待っ……」

 完全に不意を打たれ、抗議を言い終える間もなく、僕は負けていた。
 ごん、と音を立ててテーブルの天板に手の甲を打ち付けられて、思わず兄さんを睨む。
 こっちは、懐かしさに浸っていたというのに。

「……ずるい」
「反応できない方が悪い。俺の勝ちだ」
「もう一回!」

 今度はこちらから不意打ちを、と思い、力を込める。
 でも、僕の手はちょっと持ち上がっただけで、すぐにまた押し戻されてしまった。

「ぬ……ぐぬぬ……」

 必死に腕を上げようとする僕を、兄さんはにやにやと見ている。
 それが悔しくて、力を込めるけれど、どうしても敵わない。

「……分かったよ。僕の負け。それで、これがどうしたの?」

 結局、僕は諦めてテーブルに突っ伏した。
 一回りほど小さくなってしまった手は、押さえつけられたまま。
 ためしに思いっきり兄さんの手を握ってみるけれど、ちっとも痛くないらしい。平然として、兄さんは笑った。

「力比べで勝てないような奴を、俺が怖がると思うか?」

 それが遠まわしな許容の言葉だと気付くまで、少し時間がかかった。
 きっと、これが兄さんの考える、僕が一番納得する言い方だったのだろう。
 確かに、良く考えれば意味が分からないけれど、不思議な説得力があった。嬉しくて、泣きそうになるくらいには。

「でも、兄さん小さい頃にお化けが怖いからってお漏らししたよね」
「……それとこれとは話が別だろう」

 浮かんだ涙を誤魔化すために、昔話を引っ張り出して笑う。
 ついでに、逆に手を握り返した兄さんへのささやかな仕返しも兼ねる。

「しかも、そのお漏らしを僕のせいにしようとしたの、今でも覚えてるからね?」
「あれは……いや、そうだ。お前の読んでいた本が怖かったせいだ。面白いと勧められて読んだのに、とんだホラー小説だったじゃないか」
「ちゃんと『怖いけど面白い』って言ったよ。それに、そんなに怖かったなら途中で読むのやめればよかったのに」
「仕方ないだろう。面白いのは確かだったんだよ。いや、面白いからこそ頭に残ってしまって、結果的に夜中にトイレ行くのが……ああ、もういい。この話はここまで!」

 兄さんはそう言ったけれど、どういうわけか昔話と言うのは、一度火が点くと中々止まってくれない。
 その後も、「こんな事もあった」「そういえばあんな事も」と話は次々飛び出した。
 途中、お腹が空いたからと、桃と一緒に買ってあったリンゴでアップルパイを作ったり、カードでゲームをやってみたり、兄さんも、あえて昔の事を重ねながら――僕は、兄さんの弟なんだって事を実感させてくれながら、ずっと付き合ってくれた。

 そうして、一日中思い出話に花を咲かせているうちに、すっかり夜は更けていた。
 「念のため」と、僕は今日もベッドで寝る事になり、かわりに兄さんが床で毛布に包まった。
 それでもなお、あくびを噛み殺しながら昔話は続く。

「ねぇ、小さい頃、眠る前に色んな話をしてくれたの、覚えてる?」
「……ああ。母さんに『もう寝なさい』って言われたのも、良く覚えてる」
「……どうして、兄さんはいつも話をしてくれたの?」

 それは、ずっと心に残っていた疑問だった。
 兄さん自身が楽しんでいたのか、外に出られない僕を憐れんでいたのか。はたまた、別の理由か。
 別に、答え次第ではどうこうというのではなくて、本当に純粋な疑問。

「なんでだったかなぁ。最初は、お前にねだられたからだった気がするんだが……」
「そうだっけ?」
「いや、多分……でも、まあ……大事な、弟だからな……兄としてちゃんと色々と……うん、そんなだったような……眠いし、うろ覚えだ……」

 要領を得ないふわふわとした言葉が、あくびに途切れさせられる。
 今にも眠ってしまいそうな大あくびに、僕もつられてあくびをする。
 いつも通り仰向けで眠るには翼と尻尾が邪魔なので、嫌でも横向きかうつ伏せにならざるを得ない。でも、今ならその違和感すら気にせず眠れるだろう。それくらい、心地よい眠気に襲われている。
 だけど、寝てしまう前に、一つだけ。どうしても言っておかないと。

「……兄さん」
「うん?」
「……ありがとう」
「……ん」

 返事をした後、兄さんはすぐにいびきを立て始めた。もしかしたら、適当に返事をしただけで明日にはこんなお礼も忘れられているかもしれない。
 あるいは、その方がいいのかもしれない。自分で言っておきながら、それは何だか、別れの言葉みたいだったから。

「……おやすみ」

 今度は返事はなかったけれど、念のためそう言って、僕も心地良い眠りの中へと落ちていった。

 そして、久しぶりに夢を見た。
 兄さんに手を引かれて、僕は走る。小さな町で、子どもたちに追われながら土道の上を駆ける。はじめて、外で遊んだ日の思い出。兄さんと僕の、大事な思い出。
 無邪気に笑う病弱な少年は、本当に楽しそうで、自分がいつか人間ですら無くなってしまうなんて思ってもいない。
 そんな「僕」の中で、姿を変えてしまった僕は、ただ、引き裂かれそうな胸の痛みを感じていた。


…………


 僕がこんな状態になっても、いや、こんな状態だからこそ、兄さんはいつも通りの日常を過ごす。
 開演の日も近いのに稽古をいつまでも休む事なんてできないし、もし誰かが僕をお見舞いに来たりしたら、かえって誤魔化すのに苦労してしまう。
 という訳で、僕は外に出られない以上、兄さんが出かけている間は、このアパートの一室で一人過ごさなければならないのだけれども。

「暇だなぁ……」

 存外、部屋の中だけでできる事というのは少なくて、お昼前には既に暇を持て余してしまっていた。
 掃除はしてしまったし、洗濯や買出しはこの姿ではできない。どうしてか、ご飯もあんまり食べる気になれない。
 ただ、癒えない渇きをどうにかしたくて、水ばかりを飲んでいる。

 あの夜に感じた熱が、まだ体の奥底で燻っている。この渇きの原因はきっとそれなのだけれども、どうすれば治るのかはまったく分からない。
 そして、その燻りは時々翼や尻尾が何かに擦れると、びりびりした感覚と共に、一瞬だけ火が付いたようになる。
 病気で感じるものとは違う、よく分からない熱さ。
 そういうものを治すためにはベッドで眠る以外の方法を知らないから、とりあえずベッドに身を投げ出してみる。
 でも、困った事にちっとも眠くない。ただ、暑くて熱い。

「あつい……」

 カーテンが閉まっていることを確かめてから、結んであったシャツの裾を解いて、脱ぎ捨てた。ズボンも脱いで、あっという間に人には見せられない格好へ。
 ベッドの上でうつ伏せになり、昨日よりも大きくなった気がする翼を広げる。
 誰にも教わらなくとも、翼の動かし方は分かってきた。飛べるのかは分からないし、試す勇気もまだ無い。
 尻尾も振ったりできるようにはなったけれど、何に使うのかは未だに分からない。物を取るのには短くて使いづらいし、触ると変な感じがするばかりで邪魔なだけ。

 それと、見た目には分からない変化として、やけに匂いに敏感になってしまった。
 こうしてベッドに突っ伏していると、ちょっと埃っぽい匂いに混ざって、兄さんの匂いがはっきりと感じられる。

「ふぅっ……は、ぁっ……」

 ものぐさなのか忙しいからなのか、ベッドには兄さんの匂いが濃く残っている。
 何度も何度も、深く息を吸い込む。変態みたいな事をしているって自覚はある。それでも、やめられない。
 お腹の奥がむずむずして、きゅうってなる。それを、太ももを擦り合わせて誤魔化す。
 僕も、そこまで子どもじゃない。いやらしい事も知っているし、一人でした事もちょっとくらいはある。
 でも。

「これは、違う。ちがう……」

 兄さんの、男の人の匂いで、「そんな気分」になってしまうはずは無い。
 僕は男だから。こんな事で興奮してしまうのは、おかしい。
 頭ではそう考えていても、体は言う事を聞いてくれない。
 胸の先っぽや、尻尾の付け根。そして、足の間にある女の子の部分が、触ってもらうためにじくじくと疼いている。

 「我慢、しないと……」

 でも、我慢してどうにかなるのだろうか。
 我慢するよりも、いっその事、満足するまでしてしまえば、楽になるのではないか。
 自分の体の事をもっと良く知っておくためにも、一度くらいは、触れておいた方がいいのではないか。

 頭の中に、「それをやってもいいんだ」という理由が、次から次へと浮かんでくる。
 もしかしたら、それは悪魔の誘惑だったのかもしれない。きっと、物語の主人公なら、その誘惑になんとか立ち向かっていくのだろう。
 でも、僕はそんな立派な主人公じゃないから、その誘惑に打ち勝つことなんて、できなかった。

「少しだけ、なら……」

 膝を立てて、お尻を突き出す姿勢になって、自分の胸に触る。
 小さいけれど柔らかい胸の、つんと尖った先端を指先で撫でる。

「くっ、ふ……」

 ただそれだけで、快感が背筋を痺れさせて、ぞくぞくする。
 胸を触っているのに、気持ちいいのがお腹の奥に伝わって、もどかしくなる。

「だめ、なのに……」

 片手で胸を触りながら、もう片方の手は、足の間に。
 そこは、下着越しでも分かるくらい濡れていた。女の子の体の事は良く分かっていないけれど、気持ちよくなったり、そういう気分になったりすると濡れてしまうのは、ぼんやりとだけど理解できた。

 くちゅ、と粘ついた音を立てて、下着越しに指でそこをなぞる。
 指を入れてしまうのは怖いから、どうにかして外側だけで気持ちよくなれる方法を探す。

「ひぃんっ!?」

 不意に、そんな声が出てしまうほどの快感に襲われた。
 女の子の部分の入り口、上の方にある小さな突起みたいな所。そこをちょっと触れただけなのに、頭が真っ白になった。
 怖い。でも、気持ちいい。

「っふー……ふぅー……」

 唇を噛んで、声が出ないようにして、もう一度。
 今度は、下着の中に手を入れて、指で直接撫でる。
 押し殺した声が、濡れた吐息になって漏れ出す。荒い呼吸を繰り返すほど、兄さんの香りを吸い込んでしまう。
 気付けば、僕はその痛いほどの快感を、必死になって求めていた。
 口も目もぎゅっと閉じて、本能のまま、自分の体を弄ぶ。
 燻りを大きくして、残らず燃やし尽くしてしまうために。
 もっと気持ちよくなるために、自分の小さく柔らかい手じゃなくて、兄さんに愛撫される妄想に浸って。

「こんなっ……こんにゃぁ……」

 それを咎めた理性が何かを言おうとしたけれど、口から出たのは蕩けきった声だった。
 指の先で弾いてみたり、擦ってみたり、挟んですり潰すみたいにしてみたり。
 気持ちよくなって、お腹の奥の方で何かがぐるぐるして、呼吸が苦しくなる。
 そして、そこを爪で軽く引っ掻いた瞬間。

「……っ!」

 何かが、弾けた。
 燻っていたものが快感となって燃え上がり、全身に広がったような感覚。
 手足もぎゅっと丸めて、息もできないほどの快感が過ぎ去るのを待つ。

「っは、ぁ……ぅ……」

 翼や尻尾が生えた時と似た甘い快楽が、体を包む。でも、まだまだ物足りない。
 火種は残っている。熱も、乾きも、消えてくれない。
 一人でいやらしい事をしても気持ちいいだけで、何かが足りない。

「……あと、は」

 ぼんやりした頭の中で、考える。
 一つだけ、思い当たるものはある。
 僕から無くなってしまったもの。女の子の体には、無いもの。それがあれば。
 でも、それを求めるのは、越えてはならない一線を越える事になる。

「それだけは……それだけは、だめ……」

 いやらしい汁でぐちゃぐちゃになった手を握り締めて、細い糸みたいになってしまった理性を必死に繋ぐ。
 僕の体は、どんどん女の子のものになってしまっている。でも、せめて心だけは。
 嫌だ、駄目だ。何度も、何度も心の中で繰り返す。
 まだ、僕の心は男なのだから。我慢し続ければ、いつかは。

「……本当に、そう思う?」

 その声に、背筋が凍った。
 声色も、何もかもが僕のものじゃない。でも、間違いなく僕が言った言葉。
 縋りついた淡い希望を否定する、恐らく、僕よりも「僕」の事を分かっている言葉。
 言うなれば、それは「悪魔」の言葉だった。




 答えの出ない悩みは、日が暮れても続いた。
 稽古を終えて帰ってきた兄さんは、あくまでもなんでもないように、いつも通りに振舞ってくれている。
 でも、僕の勝手な事情で、そんな心遣いをしてくれる兄さんの顔もまともに見られない。

 葛藤とは裏腹に、体はずっと快感を求めている。あの後も、何回も自分で慰めて、それでもまだ、満ち足りてはいない。
 僕は、妄想の中で兄さんを穢した。弟として大事にしてくれる兄さんが、僕に欲情して、女の子の僕を愛撫する。軽蔑されるべき妄想の中で、僕は何度も何度も、気持ちよくなってしまった。
 どうかしている。百歩譲って心まで女の子みたいになったとしても、相手が血の繋がっている兄だなんて。

「……あまり、調子が良くないみたいだな」

 ベッドに座ったまま項垂れていた僕は、その声に、弾かれたように顔を上げた。
 パジャマ代わりの古着を着た兄さんが、眉を顰めて僕を見下ろしている。
 もう眠るような時間になっていた事にも気付いていなかった。夕食を食べた記憶も曖昧で、何もかもがぼんやりとしている。

「大丈夫か?」

 頷こうとした。余計な心配をかけまいと、強がろうとした。
 兄さんを見習って、平然と振舞おうとした。

「……ううん。ちょっと、大丈夫じゃないかもしれない」

 でも、僕の口から出たのは、包み隠す事無い不安の言葉だった。
 膝の上で両手を固く握って、俯いたまま続ける。

「不安で……昨夜も、あんまり眠れなくて……」
「……そうか。そうだよな」

 頷いて、兄さんは僕の隣に座る。話を聞いてくれるのだろう。
 その優しさが、胸を刺す。
 僕は、何をしているのだろう。兄さんが倒れたと聞いて、助けるためにここに来たはずなのに、今ではすっかり僕が兄さんに頼ってしまっている。
 これじゃあ、昔と変わらないじゃないか。

「……ねえ、お願いをしても、いい?」
「お願い?」
「その、今日は……一緒に寝てくれないかな」

 それでもなお、甘えるように、僕はそう言っていた。
 なんで、そんなお願いをしたのだろう。
 だって、そうするしかないから。

「……仕方が無い奴だな」

 ちょっとだけ呆れたように兄さんはそう言った。
 そして、理由も聞かず無防備にベッドに転がって、まだ眠くもないだろうに「いつでも寝られるぞ」とでも言うような格好をする。
 壁の方を向いて寝転がった兄さんの背に、声を出さず「ありがとう」と言ってから、兄さんにしがみつくようにして僕も横になる。
 二人で入るようには作られていないベッドは、僕が小さくなったとは言ってもやっぱり窮屈だった。

「狭いな」
「うん。昔は、二人でベッド入っても平気だったのにね」
「……ベッドが一つだったのは、お前がまだ字も読めない頃だっただろう。よく覚えてるな」
「そんなに昔だったっけ?」

 僕のベッドを作ってもらうまでは、兄さんのベッドで一緒に寝ていた、と言うのははっきり覚えている。
 でも、言われてみれば、本当に覚えているのが不思議なくらい昔のことだ。その頃の僕が他にどんな事をしていたかも思い出せない。

「……じゃあ、本当に嬉しかったんだと思う」
「狭いベッドで寝るのが?」
「狭いベッドで兄さんと寝るのが、だよ」
「……たまに、変な事を言うな。お前は」

 ため息を付いた兄さんの表情は見えないけれど、少なくとも、その声色は本当に呆れているようには聞こえなかった。単に懐かしんでいるだけかもしれない。
 昨日も言い尽くせなかったくらい、他にもたくさん僕にも兄さんにも思い出はある。でも、僕の思い出は、ほとんど兄さんの事。
 生まれてから、一番長く傍にいた、一番素敵な男の人の事。

「……兄さんの背中は、大きいね」
「そうか?」
「うん……大きくて、あったかい」

 身を寄せて、兄さんの背中に鼻先を埋める。
 公共浴場に行ったせいか、そこまで汗の匂いはしない。
 稽古場での仮衣装の匂いもしない。化粧の匂いもしない。腕に抱いて慟哭したであろうヒロインの匂いもしない。
 兄さんの匂いだけが、残っている。
 そこに、僕の匂いも残したい。
 少しだけ、僕の中でそんな思いが首をもたげる。

「……あまり、くっつくなよ」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃあ……」

 兄さんの言葉に逆らって、僕は自分の体を兄さんに密着させる。
 柔らかくて小さい、女の子の体を、兄さんに感じてもらうために。
 そして、兄さんの大事なところに触れるために。

「……こういう風に、なっちゃうから?」
「っ!」

 兄さんが小さく体を震わせた。
 当然だ。いきなりペニスを触られて、撫でられて、驚かないはずがない。

 僕の中で、何かがねじれてしまっているようだった。
 僕は、僕の行動を咎めている。でも僕は、僕の欲望のままに行動している。
 腰に抱きついたまま、もっと大きくなれ、と兄さんのもののさきっぽを手のひらで撫でる。
 これは、やってはいけない事だ。そう思いながらも、これは、僕のしたかった事だとも思っている。

「……ね、兄さん。もう一つだけ、お願いがあるんだ」

 兄さんは抵抗すらしない。僕の手の中で大きくなっているものを、時々ぴくりと震えさせるだけ。
 それを優しく撫でながら、熱い吐息を兄さんの首筋に吹きかけ、精一杯の猫なで声で「お願い」する。

「僕、この間からずっと、お腹が空いてるんだ……ううん、喉が乾いてる、の方が近いのかな。甘い桃も、アップルパイも、冷たい水も、美味しかったけど……なんでかな、どうしても、満たされない、って感じちゃうんだよ」

 兄さんは、まだ何も言わない。僕がどうするのか、はっきりと言うまで待っているのかもしれない。
 弟がまだ人間なのか、心まで魔物になってしまったのか、見定めようとしているのかもしれない。
 どちらにせよ、僕はもう、止まれない。

「……兄さんが、欲しくてたまらないんだ。きっと、これなら、僕も……お腹いっぱいになれる気がして……」

 そうして、僕は無理やり兄さんを仰向けにして、腰の上に跨った。
 やっぱり、兄さんは驚いた顔をしていた。そして、少しだけ、怯えてもいる。
 途端に、胸が引き裂かれるように傷んだ。僕は、とんでもない事をしようとしている。

「……ごめんね。兄さんは、こんなになっても僕のことを弟だって言ってくれたのに。その弟が、女の子の体で、兄さんといやらしい事をしたがってるなんて……気持ち、悪いよね」

 このまま、泣きながら謝り続けたいくらいだった。言っている事とやっている事がちぐはぐで、僕は本当はどうしたいのか、僕にももう分からない。
 ただ、僕の体だけは、欲望に素直であり続ける。

 兄さんのものに手を添えて、その上に膝立ちになる。
 僕のそこは、兄さんの匂いを嗅いだだけでも十分に濡れていて、受け入れる準備ができていた。
 入り口に先端をあてがうと、熱が少しだけ伝わってきて、それだけで体がぞくぞくする。

 見ない方がいいのかもしれない。でも、どうしても兄さんの顔を見つめてしまう。
 色んな感情がないまぜになって生まれた、悲しげな表情。
 優しい兄さんに、そんな顔をさせてしまっている。それによる罪悪感は、計り知れない。

「駄目、だ……こんなの、正気に……」

 絞り出すような兄さんの声。きっと、これが最後の説得で、引き返せる最後の場所。

「……うん。僕、正気じゃないんだよ。でも……きっと、お腹いっぱいになれば、治るから……」

 それでも、罪悪感すら、もしかしたら僕の中では興奮に変わっていたのかもしれない。

「せめて、兄さんが気持ちよくなれるように、がんばるから……」

 いじらしい事を言いながら、僕は自分の顔が喜びに歪んでいるのを自覚していた。
 そして、兄さんが抵抗する前に、ゆっくりと腰を下ろした。

 つぷ、と先っぽの膨らみが、固くなった竿が、僕の中を押し開くようにして入ってくる。
 少しだけ裂けるような痛みがあって、血の匂いがした。
 でも、それを我慢して、一番奥まで兄さんのものを受け入れた瞬間、やっと、感じていた物足りなさが埋められた気がした。

 兄さんのものはとても大きくて、僕の中には全部入り切らない。
 既に先っぽがお腹の奥、赤ちゃんを作るところをぐいぐい押していて、苦しいような、気持ちいいような感じがする。
 これだけでも、しあわせ。でも、このままでは駄目。ちゃんと、しないと。

「はっ……くぅっ……!」

 ゆっくりと腰を上げて、下ろす。兄さんに気持ちよくなってもらうために、何回も、それを繰り返す。

「ごめん、ね……僕、上手にできない、みたい……」

 両腕を支えにして、腰を上下させるだけなのに、兄さんのものが僕の中を擦るたびに、がくがくと体が震えて倒れそうになる。
 痛いからじゃない。とても、気持ちいいから。
 一人でした時とは全然違う。僕の中に他の人のものがあって、ごりゅ、ごりゅ、って出っ張りに引っかかれて、突き上げられて、なんだかもう、よく分からなくなってくる。
 このままだと、僕だけが気持ちよくなってしまう。それは、嫌だった。

「……ねえ、兄さんに、動いてほしいな」
「……俺、が?」
「うん。僕だと、兄さんが気持ちよくなってくれてるか分からないから……兄さんが、自分の気持ちいいように……僕の、女の子の体を、使ってくれないかな?」

 兄さんが戸惑っているのは、明らかだった。
 僕も「自分の体を使って」なんて言い方、どうなのだろうかとも思った。
 でも、今は僕が気持ちよくなるよりも、兄さんの方が大事だから。
 兄さんが遠慮とかそういうのを忘れて、僕の中で精を吐き出してくれないと、意味が無いから。

 女の子の体であっても、弟を相手にする。そんな行為に、嫌悪感を抱かないはずがない。
 だけど、兄さんは小さく溜息をつくと、そっと僕を抱き寄せた。そして、転がるようにして上下を入れ替えた。

「……痛かったら、ごめんな」

 こんな状況でも、兄さんは優しくしてくれる。
 僕の頭を撫でてから、ゆっくり、ゆっくりと、腰を揺するように動かす。
 僕の体を気遣ってくれているのが分かる、ゆったりとした行為。
 それでも、兄さんは時折小さなうめき声を漏らしながら、顔を歪める。

「ねぇ……気持ちいい?」

 僕の言葉に返事もせず、兄さんは抽送を繰り返す。
 ただ、それだけの事なのに。僕は言い知れぬほどの優越感を得ていた。
 最初は遠慮気味だったのに、兄さんの腰の動きはだんだん早くなってきている。
 ぐちゅ、ぐちゅ、とかき混ぜる音が、ぱん、ぱん、と肌を打ち付け合う音に変わる。

 兄さんが、僕の体に夢中になっている。

 その事実に、ぞくり、と背筋が震えた。
 昏い喜びが僕の中に芽生えて、愛おしさで胸が一杯になる。

「気持ちよくなって、限界だって思ったら……そのまま、出していいからね」

 背中に腕を回し、抱きつきながらそう言うと、兄さんは返事の代わりに、何回も頷いた。
 もう、遠慮なんて欠片もなかった。
 兄さんは、僕のためというよりも、自分が気持ちよくなろうとしているだけに見える。
 それでいいんだと思えた。兄さんは、僕を使って気持ちよくなることだけを考えていればいい。
 そうやって、僕といやらしい事をするのはとっても気持ちよくて、やめられない事なんだって、思ってしまえばいい。

「くっ……!」

 不意に、兄さんが歯を食いしばった。
 ただでさえ大きかったペニスの先っぽが一層膨らんで、僕の中を押し広げる。
 そして、びゅく、びゅく、と震えながら、とても熱くてどろどろした精液を、僕の中に放った。

「……!」

 言葉も出ないほどの快感と、充足感。
 ずっと、これが欲しかった。初めての感覚なのにはっきりと分かる。
 燻りは快楽の熱に溶けて、乾きは精に癒やされて。足りなかった全てが満たされた幸福感に、頬が緩む。

 同時に、自覚してしまった。

 僕はもう、男じゃないんだ。
 僕は、好きな人の精を貰って生きる、魔物の女の子なんだ、と。
 これからずっと、兄さんとこういうことをして、精を貰って、そのかわりに兄さんを気持ちよくしてあげて生きていくんだ、と。
 そうじゃなければ、お腹の中に兄さんの熱を感じているだけで、こんなにも幸せになるはずがない。

 喜悦に浸っていると、射精に体を震わせていた兄さんが、ゆっくりと顔を上げた。
 本当に申し訳なく思っているのだろう。僕とは、目も合わせようとしない。

「……その、ごめん」
「ううん、兄さんが謝る必要なんて無いよ。僕がお願いしたんだから……それより」

 兄さんの腰を引き寄せるように、僕は足を絡める。
 そして、自分から腰を押し付けて、まだ大きいままの兄さんのペニスを、やんわりと締め付けた。

「もう一回、して、ほしいな……」

 僕の誘いに、兄さんは少し躊躇う素振りを見せたけれど、僕が小さく首をかしげて「だめ?」と訊くと、やがてゆっくりと抽送を再開し始めた。
 こうやって、何回も、何回も、繰り返せばいい。そうすればきっと、兄さんは僕をもっと求めてくれる。

 だって僕は魔物で、この体は兄さんのためだけのものなのだから。


…………


 初公演を終えた劇団の人達によって貸し切られた食堂では、今もなお飲めや歌えやの大騒ぎが続いている。
 二階の空き部屋で毛布の埃をはたいていた僕は、階下の騒ぎ声を聞きながら、明日も公演があると言っていたけれど大丈夫なのだろうか、と、部外者ながらに心配していた。
 そして、舞台の上では最高の演技を見せた主役も、祝いの席では早々にお酒に負けて裏方へと引っ込んでしまっていた。

「兄さん、大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」

 兄さんはちょっとびっくりするくらいにお酒に弱くて、何杯かぶどう酒を飲んだだけで足取りもおぼつかなくなり、まだ団長さんのお話も終わってないというのに、半ば無理やり休まされることとなった。
 仕方なく僕が肩を貸してここまで引きずってきたけれど、埃っぽい毛布の上で唸り声を上げている兄さんは、かつて役の重さに苦しんでいた時にも似た弱々しさを感じさせている。
 ただ、今回は心配するような体調の悪さではないので、そんな姿をちょっと可愛いと思える余裕もあった。

「お水、もらってくるよ。ちょっと待ってて」
「んー……」

 分かったのか分かってないのか曖昧な返事をした兄さんを置いて、一人で食堂へ戻る。劇団の衣装を引っ張り出したのか、仮装をしてはしゃいでいる人たちもいるような大騒ぎの片隅で、水差しを一つ拝借する。
 それから、適当に空いているコップは無いだろうか、とキョロキョロしていた僕に、「はい」と、女の人の声と共に、コップが二つ手渡された。
 お礼とともに振り返ってみれば、コップをくれたのは、今回の劇で兄さんの恋人役を演じていた女優さんだった。
 僕よりも小さいけれど、僕よりもずっと年上らしい。とても気が回る人で、今みたいに誰かが困ってるとすぐに助けてくれる。

「お兄さん、大丈夫?」

 劇中では初めての恋に苦しむ少女だったのに、ひとたび舞台から降りれば、ちょっと体躯が小さいだけで立ち振舞いは立派な女性。
 すっかり女の子になってしまった僕としては、その大人っぽさにちょっと憧れたりもする。
 だけど、どこか親近感のようなものもある。何と言うのだろう、雰囲気というか空気というか、そんなものが少し近い気もする。以前着けていた、銀のチョーカーのせいかもしれない。
 僕が勝手にそんな事を思っていると、その人は形の良い眉を八の字に曲げて、小さく頭を下げた。

「ごめんなさいね、うちの人が無理やり飲ませたから……」
「気にしないでください。兄さんも、ちょっと調子に乗ってたみたいですし」

 「うちの人」という言葉に微笑ましいものを感じながら、羨望も抱く。
 この女優さんが団長さんの奥さんだと知ったのは、つい最近だった。結婚をしたのはもう何年も前で、僕が「もしかしたら兄さんと」なんて思っていたのは、完全に空回りでしかなかった事になる。
 今思うと恥ずかしくもあるけれど、同時に、誤解させてくれたことにはちょっとだけ感謝もしている。それが、「きっかけ」になったのだから。

 団長さんに呼ばれて行った女優さんに改めて頭を下げ、他の劇団員さんたちとも軽く挨拶を交わしてから、コップと水差しを手に、空き部屋へ戻る。
 相変わらず、兄さんはぐったりとしていた。いや、僕が部屋を出る前よりも伸びてしまっているようにも見える。

「ほら、お水もらってきたよ。飲める?」
「飲める……」

 ふわふわした声で頷いた兄さんは、あぐらをかいて座ると、コップの水を一気に飲み干して、また変な唸り声を上げて項垂れた。

 その間に、僕は季節外れの厚着を全部脱いで、小さくため息をつくと――

「……やっぱり、ちょっと窮屈なんだよね」

 隠していた翼を大きく広げ、足に巻きつけていた尻尾も伸ばして鞭のように振った。

 あんなに嫌がっていた魔物の体も、自分のものだと受け入れてしまえば、何も怖いことなんて無かった。
 それどころか、人間だった頃よりも色々な事ができて、ちょっと楽しいくらい。
 翼や尻尾は少しだけなら大きさを変えられるから、頑張って隠せば外も歩ける。もともとそんなに体格の良い方ではなかったから、厚着さえしていれば女の子になってしまった事も意外と気付かれないというのも分かった。
 それに加えて。

「……兄さん、どうしたの?」

 解放感を楽しんでいた僕を、兄さんがぼんやりと見上げていた。
 そんな兄さんに、下着姿のまま、そっと近寄る。そして、女の子の体である事を忘れてしまったかのように、無防備に兄さんの顔を覗き込む。
 それだけで、ごくり、と、兄さんがつばを飲む。

 誘惑。
 今の僕なら、そんな事もできる。胸やお尻は小さいけれども、そういうのとは関係ない、魔法みたいなもので、男の人を誘ってしまえる。きっと他の魔物も、こうやって人間を誘ってから、「食べて」しまうのだ。

「お水、足りなかったかな。それとも、他に何か……」

 息がかかるくらいの距離で、兄さんの目を見つめる。
 こうしていれば、きっと。

「ひゃっ……」

 思った通り、兄さんに腕を掴まれて、そのまま床へと押し倒された。
 鼻息荒く僕を見下ろす兄さんの目は、ぎらぎらしている。

「……だめだよ、こんな所で。誰かに気付かれちゃうかもしれないよ?」

 僕の声なんか聞こえていないみたいに、兄さんはズボンを脱いだ。
 兄さんのペニスは、おへそに付きそうなくらい、固くなって反り返っている。
 そして、僕の下着も無理やり剥ぎ取られてしまった。
 触られてもいないのに濡れていたそこに、兄さんがさきっぽをあてがう。
 あっという間に、兄さんの理性は崩れかけてしまっていた。

 僕が兄さんをこうしたのだと思うと、嬉しくて自然と口元が緩んでしまう。
 ふー、ふー、と、発情した獣みたいに息をつく兄さんを見ていると、ぞくぞくする。
 これから僕は犯されるんだと思い知らされて、お腹の奥が、赤ちゃんを作るところが、きゅんってする。

「昨日も、あんなにたくさんしたのに……まだ、足りないの?」

 昨日だけじゃない。一昨日も、その前も、溢れるくらいに注いでもらった。
 それでも、足りない。僕も、兄さんも。

「……お前が、悪いんだ」

 普段の兄さんなら到底言わないような、僕を責める言葉。それだけ、余裕が無いのだろう。
 そして、そうやって理由を付けないと、僕の体を使うなんてできないのだろう。
 本当に、兄さんは優しい。
 だから。

「……うん。僕が、兄さんをおかしくして、いやらしい事をさせてるだけなんだよ」

 まだ少しだけ残っている理性を、壊してあげるために。
 兄さんの首に腕を回し、抱き寄せる。
 そして、ちっちゃい子をあやすみたいな声で、囁く。

「兄さんは、なんにも悪くないんだよ。だから、兄さんは何も気にしないで……」

 僕を使って、いっぱい、気持ちよくなっていいんだよ。

 そう言い終える前に、ずん、って、一番奥まで兄さんのものが入ってきた。
 こうなった兄さんは本当にめちゃくちゃに、乱暴に腰を振るから、きっと普通の人間なら痛くて耐えられないと思う。
 でも、今の僕は、そうやって兄さんに乱暴に犯されても、おかしくなりそうなくらい、気持ちいいと感じてしまう。
 女の子の大事な部分を、好きな人の精を受け止めるための部分を、ごつ、ごつ、と突き上げられるたびに、悦びの悲鳴をあげてしまう。
 気持ちよくなりたいとか、愛し合いたいとか、そういうのじゃない。本当に、雌を孕またいとしか思ってないような動き方だったから、兄さんが限界を迎えるのもあっという間だった。
 びくん、と、兄さんのものが僕の中で震えて、さきっぽが膨らむのが伝わってくる。

「あはっ……もう、出ちゃいそう?」

 夢中になって腰を振りながら、兄さんは何度も頷いた。
 その必死さが、可愛らしい。

「じゃあ、そのまま……一番奥に……ね?」

 僕に言われるまでもなく、そのつもりだったのだろう。
 膨らんださきっぽが、僕の一番奥に押し付けられて、どくんどくんと脈打った。
 うめき声を上げながら射精する兄さんが、痛いくらいに僕を抱きしめて、腰を押し付ける。

「くぅっ……んっ……ふふっ……」

 今この瞬間だけは、無防備に、ただ快感だけを、僕だけを求めてくれている。
 兄さんが、僕のものになっている。
 それが、嬉しくてたまらない。

「……ね、まだ、足りないよね?」

 兄さんの両頬に手を添えて、おでこを当てて、見つめ合う。
 快感と、たぶん罪悪感で淀んだ兄さんの目には、僕しか映っていない。
 みんなに慕われていて、かっこよくて、優しい兄さんの中に、今は僕だけがいる。
 それが、嬉しくてたまらない。
 そうだ。僕は、ずっとこうなる事を願ってたんだと、実感する。
 小さい頃に、隣合わせのベッドで僕だけにお話をしてくれていた頃から、ずっと。

 兄さんの心だけは、絶対に、僕のものにしたかったんだ。

 そのためにも、今は。

「もっと、もっと。僕に……兄さんのものだって印を、ちょうだい?」

 そう言った僕の目が、兄さんの目に映り込む。
 その目は、あの銀色のネックレスのように、妖しく光っていた。
16/09/19 00:52更新 / みなと
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