連載小説
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其の四/クノイチの場合
 その男――三人が惚れた件の男は、この町唯一の女郎屋で受付の仕事をしていた。しかしその四階建ての木造家屋は、一般的な女郎屋とは大きく異なっていた。
 まず遊女として在籍していたのは、全て魔物娘であった。そしてそこでは男が一方的に遊女を選ぶのではなく、両者は対等の立場にあった。つまりはまず男と遊女が広間で顔を合わせ、そこである種のシンパシーを感じた者同士だけが、本番を迎えることが出来たのである。
 そうして互いに共振する個性を感じ取った二人は、仲良く遊女の部屋へ入り、そこで一夜を共にする。そして夜が明ける頃には、二人はすっかりラブラブカップルへと変貌を遂げているのだ――外の大陸から齎された横文字というのは、意外と使いやすいものである。
 その後は正式に籍を入れて夫婦となる者もいれば、その場で結婚はせず、男を自分の故郷に「お持ち帰り」する者もいた。千差万別であるが、婿を手に入れた遊女はこの女郎屋を去っていくと言う点では一致していた。しかし抜けた後からまた新たな魔物娘が入って来るので、メンバーが不足することは無かった。
 要するに、ここはただの風俗ではなく、男女の出会いの場として機能していたのであった。故に「女郎屋」と表記するのは間違いであるかもしれないが、他に適当な言葉も無かったのでそう呼ばれていた。なおここの運営資金は、この町を治めている城主が全額負担しているため、参加費用は実質無料であった――愛は金では買えないのだ。
 どこまでもイレギュラーな場所であった。しかし、それもこれも城主が親魔物派であり、彼女達により多くの機会を与えようと腐心した結果であった――ここが「女郎屋」と呼ばれているのもまた、彼の語彙が乏しかった結果であった。
 なお彼の試みは、町の住人からはとても好意的に受け止められていた。出会いを求めて、町の外からやってくる者まで現れる始末であった。
 
「今日の分は、これで終わりかな。全部で十人か」

 しかしそんな場所で働くその男は、未だに独身を貫いていた。ここで働く男は他にもいたが、そのほぼ全てが結婚していた。遊女役の魔物娘とくっついた者までいた。しかし彼は違った。
 御年三十二歳。彼に焦りの色は少しも無かった。
 
 
 
 
「ん? 雨か」

 そうして予約客名簿の確認を終えた後、男は外で雨が降り始めたのを壁に当たる水音から認識した。彼のいた受付は一階の入口近くにあり、外とは漆喰の壁一枚で隔たれただけの、比較的近い位置にいた。
 この時、彼の周りに人はいなかった。それどころか他の従業員や客の全てが、店の奥に引っ込んでしまっていた。もうすぐ「お楽しみの時間」であり、広間での料理の用意や部屋の掃除やらで忙しかったのだ。
 故に彼が一番敏感に外の様子に気づくことが出来、なおかつ彼が一番早く外に出ることが出来たのだった。
 
「……看板しまっておこうかな」

 そんな中で、男は不意に外に置いてあった立て看板のことを思いだした。木の板に支え棒を取り付け、板の上に案内を書いた簡素な代物である。一応防水対策はしてあったが、それでも水気や湿気で木板の寿命が縮まるのではないかと、彼は少し不安になった。
 そして彼は、几帳面な男であった。心に生まれた不安をそのままにしておけるほど、図太い性格はしていなかった。彼は億劫そうに立ち上がり、隅に置かれていた傘を手に取って入口の戸を開けた。彼の他所通り、外では雨が降っていた。月夜は雨雲に隠れ、おかげで通りはいつもより薄暗くなっていた。
 予想外だったのは、雨の勢いが強すぎたことだった。土砂降りの雨と言っても過言ではなかった。外を一目見た男が口をあんぐりさせるほどに強烈な雨であった。
 
「ひでえ。台風でも通ってるのかな?」

 苦い顔を見せながら男が呟く。男はそれから呆然とそこに立ち尽くし、激しく音をかき鳴らす雨の景色を見つめていた。ここまで強烈だと、かえって見惚れてしまうものである。
 しかしいつまでも見ている訳にもいかない。男は意を決して傘を開き、外に出た。それから早足で脇にあった立て看板に向かい、肩と首で傘を挟んで看板を両手で持ち上げた。
 
「――ん?」

 そして踵を返して入口の方へ振り向いた時、男は初めてそれに気がついた。
 それは入口を挟んで反対側に佇んでいた。一人の女性が傘も差さず、腕を組み壁に背を預けた状態で、毅然と立ち尽くしていた。頭上に雨を遮るようなものは何もなく、おかげでその女性は終始雨に打たれっぱなしであった。
 
「何してるんだ、あの人?」

 男は一瞬、その女性が何をしているのか理解できなかった。しかしその女性を認識した次の瞬間、彼は無意識の内に体を動かしていた。立て看板をその場に置き、傘を持って女性の元に駆け寄った。
 
「あの、すいません」

 そしてまったく自然な動作で、男が女性に声をかけた。男はそこでようやく、その女性の雨のベールに隠されていた詳細な姿を視認することが出来た。
 紫の忍装束を身に着けた長身の女性。口元を布で隠し、腰から細長い尻尾を生やしていた。
 それを見た男は、彼女が魔物娘であるとすぐに気づいた。

「?」

 そんな魔物娘が、男の声に気づいてそちらに顔を向ける。雨に打たれていることを全く気にかけていない、もしくはそのことにすら気づいていないかのような、悠然とした仕草だった。
 その不思議な魔物娘に、男は躊躇うことなく傘を差しだした。
 
「そんなに濡れると風邪引きますよ。これ使ってください」

 魔物娘は、そう言って男の差し出してきた傘と、その男の顔とを交互に見比べた。彼女は口元を隠したまま、両目を僅かに見開いた。驚いていたのは明白だった。
 男は構わず傘を突き出した。
 
「俺のことは気にしないで使ってください。いくら人より頑丈だからって、こんなことしてたら魔物娘だって体調崩しちゃいますよ?」

 なぜここにいるのか、ここで何をしているのか、男は一切聞かなかった。彼はなにも詮索せず、ただその魔物娘の健康だけを心配していた。そんな彼の言外の優しさは、その魔物娘にしっかり届いていた。
 届いていたからこそ、魔物娘は顔を僅かに赤くして目を逸らした。そして豪雨の中でも辛うじて聞こえるほどの声量で、魔物娘は男に告げた。
 
「……お気になさらず。人を待っているだけなので」
「人? こんなところで?」

 男が問いかける。魔物娘は頷き、そして壁から背を離し、男が出てきた家屋を見上げながら言った。
 
「我はその……護衛を務めているのだ。この建物の中にいるお方をお守りするために、こうして外で見張りをしている」
「なるほど」

 男はまたしても、それ以上問い詰めることはしなかった。彼は何も聞かないまま、その魔物娘の隣に立った。
 そして傘を持ち替え、自分と魔物娘が同じ傘の下に入るよう位置を調整する。そんな彼の動きに気づいた魔物娘が、ジト目で彼に告げる。
 
「気遣いは無用。その傘はあなただけで使うがよい」
「放っておけませんよ。いくらクノイチだからって、この雨の下に放置するなんて俺には出来ない」
「我が何の種族か気づいていたのか」

 魔物娘、クノイチが感心したように呟く。男は小さく頷き、それから「他のことも推測出来ますよ」と言って言葉を続けた。
 
「たぶんあなたは、城の関係者だ。村田様か、その一家を護衛している。そうですよね?」

 村田様とは、彼らの暮らしているこの町を治めている城主のことである。男の働く女郎屋を設営したのも彼であった。
 そんな男の推論を聞いたクノイチは、素直に首を縦に振った。
 
「その通りだ。中々冴えているな」
「クノイチが護衛をするってことは、それなりに地位の高い人が基本ですからね。でも村田様はもう結婚されてるし、ここに来る必要もないからなあ……」
「いや、そうとも限らぬぞ。なぜなら村田様は視察という名目で、夫婦揃ってここに来られることもあるからな」
「どうして?」
「ここには、城には無い特別な道具が数多くあるからな。それ目当てだよ」

 城主村田とその妻は、新鮮な刺激を求めて不定期にここへやって来る。そしてここで部屋を借り、家来や家族の前ではとても出来ないような特殊なプレイに興じるのだ。クノイチはそう説明した。
 
「えっ、そうなんですか?」
「そうだ。まったくお二人の性への好奇心には感服するばかりだ。まさに主の鑑であるな」
「へ、へえ……」
 
 そんなことが起きているとは知らなかった。男は素直に驚いた。彼はここに来た客の顔は全て記憶していたつもりだったが、彼の脳内にある顧客履歴の中に、村田様の顔は記憶されていなかった。
 そんなことを考えて首を捻る男に、クノイチが続けて説明をした。
 
「そなたが知らぬのも当然だ。村田様は決まってお忍びで、裏口からいらっしゃっているからな」
「ああ、そういうことですか」

 それなら自分が知らないのも当然だ。男は納得し、同時に自分が下っ端従業員であることを再認識した。
 
「そうしょげるでない。村田様はああ見えて恥ずかしがり屋なのだ。そなたと顔を合わせないのは、決してそなたの地位が低いからではない。どうかあの方を責めないでほしい」

 落胆して肩を落とす男に、クノイチがフォローを入れる。男もそれを聞いて気を取り直し、すぐまた本題に戻った。
 
「でも、もしそれが本当なら、あなたがこうして正面に回る必要も無いですよね?」
「そうだな。村田様をお守りする際は、我はいつも裏口の近くに陣取っている。こうして表に回ることは無い」
「ということは、今ここにいるのは城主じゃない?」
「だとすれば、今ここにおられるのは誰であろうな?」

 クノイチが目を細め、悪戯っぽく笑いながら問いかける。彼女は今の状況を楽しんでいた。雨足は弱まることなく、なおも土砂降りの様相を呈していた。
 その中で二人同じ傘の中に収まりながら、男がクノイチからの問いに答えた。
 
「若様……ですか?」

 村田様の一人娘――母と同じサキュバス属の少女の姿を脳裏に思い浮かべながら、男が言った。彼が城主の娘の姿を明確に思い出せたのは、彼女が父の意向に従って町に繰り出し、そこに住む人々と積極的に関わっていたからである。この男も、前に何度か彼女と対面したことがあった。
 男が娘と会ったことがある。それを知ったクノイチはまた小さく驚いた。
 
「そなたも御嬢様と面識があるのか?」
「ええ。昼休みの時に一緒に通りに出て、二人で食べ歩きとかもしましたよ」
「なるほど、ならば詳細に覚えているのも道理か」

 クノイチが目を閉じて頷く。そのクノイチに、男が慌てて補足を加える。

「別に変なことはしてませんからね? 一緒にご飯を食べて、適当に町の中を歩いただけなんですから。それ以上のことは何もしてませんから」
「むしろ流れに任せて襲ってしまった方が、魔物娘との付き合い的には正しかったのではないか?」
「そんなことしたら打ち首になりますよ」
「双方同意の上でならば問題はあるまい。婿探しをしているのは、御嬢様も同じことだしな」

 慌てる男に、クノイチが澄まし顔で言い返す。一方でその言葉を聞いた男は一瞬ハッとなり、そしてすぐに何かを閃いたように目を輝かせる。
 
「……ああ、だから御嬢様はここに?」
「そうだ。こちらは奥方様の意向でな。サキュバスたるもの、男性を誘惑する術を学ぶのは何より大切である。とのことだ。要するにこれは婿探しを含めた実地訓練、習うより慣れろという奴だ」
「そういうことですか。個人的にはちょっと早いような気もしますが……」
 
 御嬢様の外見年齢は八、九歳だったはずだ。幼いサキュバスの姿を思い出しながら、男はそんなことを言った。クノイチはそれに対して、首を横に振って答えた。
 
「それは人間の価値観だ。サキュバスを人の物差しで測ってはいけない」
「言われてみれば確かに……」
「まあそういうわけだから、我はこうして御嬢様をお待ちしているのだ。今日こそ良き伴侶に出会えればよいのだが」
「見つかりますかね?」
「面子次第だな」

 男の問いにクノイチが呟く。その後クノイチは男の方を向き、冗談めかして言ってのける。
 
「そなたが婿になっても良いのだがな?」
「冗談やめてくださいよ。俺と御嬢様じゃ、格が違いすぎます」
「恋愛に格差など関係ない。大切なのは心だ。相手を慈しみ、愛する心だ。その点そなたは合格だ。我が保証する」
「理由は?」
「見ず知らずの我に、ここまで優しくしてくれたのだからな」

 クノイチはそう言って、恥ずかしげに目線を逸らす。その仕草を見た男も不意に恥じらいを覚え、同じように顔を逸らす。
 
「……」
 
 二人して無言になる。一向に止まない雨の音が二人の耳をつんざく。気まずい空気に包まれながら、男が恐る恐る口を開く。
 
「雨、止みませんね」
「そうだな……」
「……」

 会話が止まる。男の額から冷や汗が流れ落ちる。
 なんとか場を繋がないと。気まずさに耐え切れなくなった男が言葉を吐き出す。

「……ここじゃ冷えますし、中入りませんか?」
「い、いや、我はここで待つと御嬢様に約束している。ここから離れるわけにはいかない……」

 クノイチがそわそわしながら言い返す。向こうも向こうで焦っていた。
 相手が自分と同じ心境にあることを知って、男は少し安堵した。しかし安心した直後、また気まずさが心を支配していった。自分がリードしないと。男は妙な義務感に駆られながら、何か話題は無いかと脳内の記憶を掻き回した。
 何もない。男がそわそわし出す。クノイチもまた渋面を浮かべ、生唾を飲み込む。
 二人して甲斐性なしであった。
 
「……ッ」

 そんな時、クノイチが先に動き出した。彼女は少しずつ男の方にすり寄り、そして意を決したように男の肩に自分の手を載せた。
 
「わっ、我は――」

 顔を真っ赤にして、視線を泳がせながらクノイチが口を開く。男が咄嗟に彼女に注目し、彼の視線を浴びながらクノイチが告げる。
 
「我は、今のままでも、満足だぞ」
「えっ――」
「だから、もう少し……このままでいさせてほしい」

 クノイチがもう一歩近づく。肩と肩が触れ合い、互いの存在をより間近に感じる。
 男の心臓が大きく跳ねる。クノイチもまた、男の吐息と気配を直近で感じて体を強張らせる。
 
「駄目か?」

 前を見たまま、クノイチが問いかける。その声は小さく、震えていた。
 男は直立不動のまま、そのクノイチを横目で見ながら口を開いた。
 
「俺も、その……構いませんよ」
「――え?」
「もう少し、今のままでも……」

 男の言葉はそこで途切れた。しかしそれだけでも、それまで硬直していたクノイチの顔は喜びでほぐれていった。
 
「すまない」
「いえ、こちらこそ」

 張り詰めた空気が緩み始める。二人は穏やかな表情のまま、無言で「御嬢様」を待ち続けた。
 二人の間に言葉は無く、雨はまだざあざあと降り続いていた。それでも男とクノイチの心は、不思議と暖かさに満ちていた。
 
 
 
 
 二人はその後、明け方まで待つつもりでいた。「御嬢様」が相手を見つけた場合、その後の二人の行為は朝まで続くかと思われたからだった。
 しかし実際は違った。近づき合った二人が無言になってから数分と経たない間に、件の御嬢様が一人で外に出てきたからだ。
 
「おまたせ、ヒスイ……」

 正面の戸を開けて、幼いサキュバスが打ち沈んだ顔で姿を現す。名を呼ばれたクノイチはすぐにそれに気づき、入口付近に現れたサキュバスの少女に目を向けて口を開いた。
 
「お、お帰りなさいませ、御嬢様」
「うん、ただいま」

 突然の来訪に、クノイチのヒスイは明らかに動揺した。対して御嬢様の方もまた、憂鬱な表情を浮かべながら彼女の方に近づいていった。
 彼女もクノイチと同じように、自身が雨に打たれることなど気にしていない風であった。今の彼女の場合はそれを気にする余裕が無いほどに、その心が暗く沈んでいたのだったが。
 そんな露出の激しい服装を着ているのに平気なのか? ヒスイに続いて御嬢様の存在に気づいた男は、その彼女の心情に気づかぬまま、ふとそんなことを考えた。

「今日も駄目だったよ。いい人見つからなかった……」
「そ、そうでございますか。残念でございましたね」
「うん……あーあ、こんな調子でお婿さん、見つかるのかなあ……」

 男がそんなことを考えていると、サキュバスの御嬢様は困り果てた調子で言葉を漏らしながら、彼の差している傘の下へと入っていった。これは別に最初から傘下に入って雨をしのごうとしたからではなく、ヒスイの元に歩み寄った際の副次的な結果であった。彼女は男の存在に気づかぬほどに、伴侶が見つからなかった事実に打ちのめされていたのだ。
 そんな御嬢様がその男に気づいたのは、自身に雨水が落ちてこないことに気づいた直後だった。彼女はそこで自分が傘の下にいることを知り、そしてここで初めて、ヒスイの隣に男が立っていることに気づいたのだ。
 
「あら、あなた人間ですか? これは失礼しました。お見苦しいところをお見せして――」

 人間の男の存在を知った御嬢様は、まず最初に自分が情けない姿を見せてしまったことに対して謝罪した。育ちの良さが如実に表れていた。
 しかし彼女の謝罪は、最後まで続かなかった。
 
「しまっ……て……」

 背を反らし、見上げた男の顔を視界に納めた瞬間、彼女の心は思考停止した。
 
「え、嘘、あなたどうして――!」

 唐突に目を大きく見開き、その御嬢様は驚愕の表情を見せた。瞳の中には男の顔がしっかり納まっていた。そして男を見たまま言葉を途切れさせ、目を開けたまま口をぱくぱくと動かすその姿は、本気で驚き焦っているように見えた。
 なぜそんな反応をするのか。男は何が何だかわからなかった。ヒスイもまた、御嬢様がどうしてここまで驚いているのか理解できずにいた。
 
「あの、どうかしましたか?」
「御嬢様?」
「あ、あっ、いや……おほん!」

 大人二人から問い詰められ、御嬢様サキュバスがすぐに我に返る。それから彼女はわざとらしく大きな咳払いをし、男を振り切るように思い切りよく顔を動かし、ヒスイの方を見ながら言った。
 
「ヒスイ、今日はもう疲れました。このまま帰ってしまいましょう」
「わ、わかりました。御意の通りに」

 いきなり態度を変えてきた御嬢様に、ヒスイは狼狽しながらも恭しく答えた。クノイチもコロコロ態度を変える御嬢様の姿に違和感を覚えていたが、それを指摘することはしなかった。彼女は忠臣であった。
 一方でその忠臣の言葉を聞いた御嬢様は、満足そうに頷いた。それから続けて男に視線をやり、早口気味に彼に言った。

「そういうわけですので、あなたともここでお別れです。またお会いしましょう」
「えっ? もう帰っちゃうんですか?」
「はい。これ以上ここにいても収穫はなさそうですので」

 御嬢様が澄まし顔で男に返す。それはどこか無理をしているような、力任せに表情筋を動かして取り繕ったような顔だった。その証拠に、彼女の口の端は僅かに引きつっていた。
 しかし心優しい――ヘタレとも言う――男は、そのことを指摘したりはしなかった。ヒスイを伴って去ろうとする彼女を引き留めようともしなかった。
 
「それじゃあ、これ使ってください」

 代わりに男は、自分が持っていた傘を二人に差し出した。クノイチとサキュバスは共に驚き、それから揃って男の方を見た。
 
「いいんですか?」
「ええ。お二人とも、傘とか持ってきてないでしょう? 突発的な雨でしたし、用意してないのも当然ですよ」

 御嬢様からの問いかけに男が答える。するとヒスイが渋い顔を浮かべ、首を左右に振りながら男に言い返す。
 
「そこまで面倒を見てもらうわけにはいかない。申し訳ないが、その気持ちだけ受け取っておこう」
「魔物娘だからって、雨に打たれていいわけ無いですよ。後で返しに来てくれればそれで構いませんから、これを使ってください」

 男も男で譲らなかった。どうでもいいところで頑固な男だった。
 ヒスイと御嬢様は互いに顔を見合わせた。そして御嬢様サキュバスが困ったように苦笑を漏らし、付き人クノイチに声をかけた。
 
「ここはこの人の厚意に甘えましょう」
「ですが……」
「この人は一度こうと決めたら、梃子でも動かない人なんです。私にはわかるんです」
「……」

 御嬢様はやけに自信に満ちていた。それを聞いたヒスイはやや逡巡した後、彼女の言葉に従うことにした。
 
「……ではそなたの傘、借りても良いだろうか?」
「もちろんですよ」

 男は喜んで傘を差しだした。ヒスイがそれを受け取り、自分と御嬢様を覆うように傘を持つ。代わりに今度は男が土砂降りの雨に晒される羽目になり、男は急いで入口の戸を開けて女郎屋の中に退散した。
 
「それじゃあ、さよなら! 夜道には気を付けて!」

 そして入口近くの、雨風を凌げるギリギリの位置に陣取りながら、雨の音に負けないくらいの大声で男が二人に言った。ヒスイと御嬢様もそれに頷き、二人揃って言葉を返す。
 
「この借りは必ず返す!」
「またお会いしましょう! 絶対ですよ!」

 それから二人は身を翻し、城に向かって仲良く歩き始めた。ヒスイはしっかりその傘を活用し、二人は雨からその身を守りつつ夜道を歩いていった。
 男は戸の外に顔だけを晒し、その二人が見えなくなるまで無言で見送った。魔物娘二人が雨のベールに隠れて消えるまで、大した時間はかからなかった。
 
「……あっ、看板忘れてた」

 そうして二人を見送った後、男は唐突に自分の本当の仕事の存在に気が付いた。そして男は傘も差さずに外に飛び出し、大急ぎで立て看板を両手で抱え、玄関へと引き換えした。
 たったそれだけのことなのに、男の体はずぶ濡れであった。こりゃ風呂に入った方がいいかな。男は濡れそぼった自分の体を抱き締めながら、そんなことを考えた。
 そして数分後、彼は寒さに打ち負けて、共同浴場に突っ走ることになった。しかしその顛末を、ヒスイと御嬢様は知る由もなかった。
16/10/19 22:30更新 / 黒尻尾
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