連載小説
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前編



 携帯のアラーム音が鳴り響き、その大きな音量に快適な睡眠を妨害された阪野玲人は、しかめっ面を浮かべながらもゆっくりと起き上がった。こうでもしない限り、自分はすぐにアラームを止めて二度寝をしてしまうと知っているからだ。
 けたたましく鳴るアラーム音を止めてから大きな伸びとあくびをしてから、漫画や服で散らかっている床を器用に歩いて洗面台へ向かう。
 半分寝ぼけていた意識を真冬のとても冷えた水ですっきりさせて、もう一度大きなあくびをしながらリビングに行くと、既に朝食は用意されていて、妹の紗枝子がテレビの情報番組を見ながらトーストを齧っていた。特に朝の挨拶もなく、玲人は自分の席に座り同じくテレビを見ながら、ピーナッツバターをトーストに塗って齧った。
 妹の紗枝子との兄妹関係はあまり良くない。というか、居ても居ない扱いをされているのだ。それはいつから始まったのか思い出せないが、高校生になっても未だに玲人の事を視界に入れようともしないし、無関心だった。兄の玲人はそれを指摘する事もせず、紗枝子のしたいようにさせればいいというスタンスを決め、玲人と紗枝子の兄妹関係はまるで血の繋がった他人というようなものになっている。
 両親もそんな二人の事を無理に取り持つ事をせずに、任せる姿勢でいる。玲人と紗枝子の仲もそうだが、教育方針も個人のしたいようにさせている。とは言え血の繋がった子供なのだし、他人に迷惑をかけるような事をすれば叱る。しかし二人はこれまで人の道を外れるような事も、警察のお世話になるような事が一度もなかった。二人が高校生になり、殆ど大人に近い年齢になった頃には何の心配もないだろうという事で、二人には自由にさせている。もちろん、両親の二人へ対する愛情は変わらず、夫婦仲も円満である。
 ……別に気にしなくてもいいか。玲人はそう結論付けて食べ終わった食器を流し台に片付けてから自室に戻り、制服に着替えた。
 十分に充電された携帯ゲーム機をショルダーバッグに入れて、友人に貸して欲しいと頼まれた漫画も入れる。ちなみに玲人のバッグに教科書やノートなどのものはほぼ入っていない。それらは全て玲人の机で眠っているし、持って帰るのも終業式が近づいてきた頃に少しづつ分けて持って帰る。もちろんその為、帰宅後の予習復習なんてした事が無いし、定期試験も学校に居る時にしか勉強しない。
 玲人の成績は可もなく不可もなく。平均点よりも少し下か、少し上回る程度だ。特に運動は好まず、部活もやっていない。どちらかと言えばインドア派である。故に、玲人の自己評価はW普通=Bしかし小学校以来の友人は玲人の事を普通という認識ではないらしい。
 自己評価と他人からの評価の差異について考察しながら玄関を開ければ、前髪が伸びすぎて表情があまり見えず、じっと地面を見ながら待っていたのか、俯いたままの玲人の通う学校の制服を着た女の子が居た。
 玄関のドアが開く音に気がついた女の子は、玲人の姿を見て、耳を澄ませれば何とか聞き取れるほどの声で、

 「お、おは……ようござい、ます」

 と頭を下げた。
 すっかり失念していた。そう言えば今日、彼女は玲人と通学するという約束だった。
 玄関を開ければ女の子が待っている、という漫画のようなシチュエーションに戸惑いながらも、玲人はなんだか照れ臭くなった。

 「あ、うん……おはよ」
 「…………♪」

 玲人の挨拶に気を良くしたのか、彼女は玲人を見てはにかんだ。彼女の頭から生えた触角も揺れて、彼女の今の気分を表しているかのようだ。

 「待っててくれたんだ」
 「いえ……あの……、ご迷惑じゃ、なかったですか?」
 「そんな事ないよ。でもよく俺の家わかったね」
 「あの、昨日……阪野君と一緒に帰った時に、こっち方面に歩いていったから、近いのかなって……それで……」
 「なるほどね」

 そもそも何故彼女、大百足の魔物娘である新山菜々乃と玲人が一緒に登下校をする事になったのかは昨日の出来事があったからだ。



 放課後、玲人は通学ルートにある商店街を歩いていると、何かメモを持ちながら右往左往している大人しそうな、しかし下半身で存在感を出している女の子が居たのだ。何度も手に持ったメモを見ては周囲を見渡して、またメモを見るの繰り返しで、何か困っているようだった。
 周りの人たちも、それを察してはいるようだったがその姿から少し避けていて、助ける者も居なかった。玲人もその中の一人で、この辺では見かけないな、などと思いながらも通り過ぎようとして、何気なく彼女の方を見ると、偶然にも目が合ってしまったのだ。
 そして、意を決したのか、彼女は玲人に声をかけた。

 「あ、ぁ、あの……っ」

 玲人はそれを無視なんて出来なかったし、そのまま通り過ぎようとした自分を恥じた。その辺に住んでいる者と違うその姿に圧倒されて、自然と関わらないようにしていたのだ。しかし偶然とは言え目が合い、声をかけられれば答えない訳にはいかない。彼女だって、勇気を出したのだから。
 例え彼女が胴体を真っ直ぐに伸ばしたら優に五メートルはありそうで、首の裏から生えている、鋭い顎肢を持つ、所謂『怪物』と呼ばれる魔物娘、大百足であったとしても。
 姿はとても異質だが、表情は藁にも縋るかのようで、長い前髪の奥にある瞳が潤んでいた。魔物娘で大百足とは言え、彼女もれっきとした女の子なのだ。

 「は、はい」
 「この、近くに……、その……」
 「近くに?」

 大百足の彼女は何度も言葉を言いかけてはやめてを繰り返した。人見知りなのか、偶然通りかかった男に道を尋ねるのは、彼女にとってとても勇気を振り絞る事らしかった。
 そして、彼女はこう言った。

 「お、美味しいっ、たいやき……屋さんがあるって……聞い、て……」
 「……たいやき屋さん、ですか」

 思わず玲人が反芻すると、頬をかぁっ、と赤く染めて俯いてしまった。
 ――――しまった。
 玲人は彼女に謝ろうとしたが、先に彼女が頭を下げた。

 「ご、ごめんなさい……っ、あの、私のようなバケモノが、たいやきなんか……っ!」
 「謝らないでくださいっ! 俺が失礼な事をしただけなんでっ」
 「でもでもっ、私なんか、私、なんか……っ」

 まずい。
 玲人は直感で悟り、瞬時に彼女の手を取って頭の中にある地図で付近にあるたいやき屋を探しつつ、歩き出す。

 「えっ!? あ、あのっ」
 「こっちです!」
 「ぁ……は、はぃ……」

 突然大百足の女の子の手を掴んで歩き出す玲人の姿を、好奇の目で見る周りの目は意識から消した。ないものだと無理やりそう思い込んだ。
 とにかく今は、彼女が求めているというたいやき屋へ向かう事が重要だ。
 戸惑いながらも彼女は玲人の手をしっかりと握って着いてきてくれている。玲人の位置から見て、五メートル程離れている電柱と同じ場所に彼女の大百足の身体の先がある。
 大百足という種族は学校で学んだから知っているが、実際に見るとやはり大きい。家で過ごす場合はその長い胴体はどうしているのだろうか? 無理のない生活を送れるように家自体が凄く広いのだろうか? 胴体が長い種族は他にもラミア種などが居るので、問題なく過ごせるように専用の家が建てられるからだ。
 そんな事を玲人は延々と考えながら早歩きで目的地へと向かう。
 何故玲人はこうも強引に見知らぬ大百足の彼女を連れ出したのか?
 理由は一つ。あともう少しでトラウマのトリガーが引かれる所だった≠ゥらだ。



 無事に玲人と大百足の彼女、新山菜々乃(たい焼きを食べている時に自己紹介を済ませた)は目的地のたい焼き屋へ到達し、何故か揃って二人は公園のベンチに座ってたい焼きを食べていた。
 というのも、玲人は到着してからすぐに立ち去ろうと思っていたのだが、菜々乃がお礼に玲人にもたい焼きを奢ってくれると言ってくれたのだ。もちろん最初は遠慮した。だが、またも彼女が「そうですよね……私みたいなバケモノに……」とトラウマのトリガーに指がかかりかけた≠フで、玲人は頷くしかなかった。
 玲人はつぶあんがぎっしり詰まっているたい焼きを食べながら、隣に座る菜々乃の顔を伺った。伸ばしすぎた前髪、加えて伏し目がちで、暗い印象を受けるがよく観察するとその顔は慎ましい日本人らしい女性の顔で、艶のある黒髪が綺麗で、雰囲気も大人しく、男性の三歩後ろを静かに歩くような、そんな風景が浮かぶ女性だった。
 端的に言えば、新山菜々乃はとても美人なのだ。
 そんな女性と並んでたい焼きを食べている今の自分と、今までそんな漫画のような甘酸っぱい青春とは無縁だった自分のギャップに戸惑いつつも照れ臭いと思う玲人。
 しかし漫画のキャラクターのように話題がぽんぽんと出る訳もなく、そもそも初対面なのだから何を話せばいいのかわからずに二人の間には長い沈黙が流れていた。
 沈黙の間、玲人は隣に座る菜々乃を観察するぐらいしか出来ず、両手でたい焼きを持って頭から少しずつ、少しずつ食べるその姿を見て、差別的な言い方かもしれないが、彼女は女性らしい女性なのだな、と素直な感想を脳内で述べた。
 そしてあっという間に二人はたい焼きを食べ終わり、玲人はどうやって立ち去ろうか考えていたら彼女の方から話しかけてきた。

 「あ、あ……あの」
 
 手を組んだり、右手を左手で包んだり、また逆にしてみたりともじもじしながらも菜々乃は質問した。

 「どう、して……私の、手を……?」

 言葉はそれだけだったが、彼女の言いたい事は理解できた。
 つまりは、店への道を聞いただけなのに、何故手を引いて直接案内したのかを聞きたいのだ。
 もちろん答えはある。あの時玲人が悟ったのがなんだったのか。
 しかしそれはとても繊細な問題で、本当に答えていいものなのか? 玲人は答えあぐねた。

 「こんな……、バケモノの、私の手なんて……」
 「バケモノなんかじゃ、ないよ」
 「……え?」

 菜々乃が口にしたバケモノという言葉に、玲人は決心した。ついさっき知り合ったばかりの女性だが、踏み込んでしまおうと。

 「あの場で僕が新山さんの手を引かなかったら、きっと自身のトラウマに襲われるだろうと思ったから」

 そう言うと菜々乃の肩がびくり、と動いた。
 反応からして玲人の予想は的中していたようだった。

 「自分と周りの人たちの違いで悩んだり、心無い事を言われたり……」
 「ど、どうして……それ、を?」

 菜々乃は身を守るように身体を抱きしめながら聞くと、玲人は髪をくしゃくしゃ、と掻き毟ってから、たった一言だけ答えた。

 「俺、半魔人間なんだ」
 「半魔……って、もしかして」
 「そう、俺の母親は魔物娘で白蛇なんだ」

 玲人や菜々乃が誕生するよりも遥か昔、人間が魔物を討伐し、魔物は人間を喰らっていた時代。
 歴史の教科書にはその時代を旧魔王時代と呼ばれているが、新魔王が誕生し、世界の魔物の容姿は大いに変化した。それより以来、人間と魔物は殺し合う関係ではなく、人間と魔物娘が手を取り合い生きていく時代が始まった。
 しかしそこに問題が発生し、人間と魔物娘の間に生まれる子供は魔物娘しか生まれなかった。そこで、新魔王のサキュバスは魔力を膨大なものにする為に日々最強の勇者だった夫と励んだ。また、娘のリリムも一部は巨大都市を襲撃し陥落させて勢力を広げるなどもした。
 だが、新魔王が思っていたよりも主神の力が強かった。
 教会と呼ばれた反魔物勢力は蝋燭に灯された炎のように衰弱していったが、それだけでは足りなかった。剣と魔法の時代から移り変わり、科学技術と魔法の時代、つまり玲人や菜々乃が生きている現代になっても魔物娘から誕生するのは魔物娘だけだった。
 そんな時代が進んでいけば、人間の男性の減少は必然だった。事態を重く見た新魔王とその友人、バフォメットは魔物娘からでも人間の男性を出産可能な方法を探した。
 結果、人間として生まれた女性から卵子を摘出し、魔物娘の子宮へと移植、インキュバスになっていない夫の精子を受精させる事で人工的ではあるが人間の男性を出産する事が可能になった。
 それが、所謂半魔人間である。
 妊娠率は人間とほぼ変わらず、魔物娘よりも誕生しやすい。だが当然として問題は沢山ある。
 人間として生まれた女性が魔物娘になった場合にしか適用がされず、生粋の魔物娘には不可能な事。
 人間だった頃に卵子を摘出していない場合、半魔手術が出来ない事。
 半魔人間手術をしても誕生するのが男性限定とは限らず、女性も誕生する事。
 また、これは問題というよりも利点に近いが、男女問わずに半魔人間は多少の魔力が宿り、自然と魔物娘に好かれる事。
 しかしその技術は自然と魔物娘からインキュバスとして男性が生まれるまでに人間の男性が滅ぶ可能性が出てきた現代には必要不可欠であり、全世界で推奨されている。また、技術が進み手術費用が一般の人間でも手が届く範囲である事と、女性の身体への負担が開発当初よりも格段に軽減されている事から、年々半魔人間は増えている。
 玲人の母親である阪野紗緒理もまたその半魔手術を受けた女性の一人で、卵生である白蛇でありながらも玲人と紗枝子を胎児出産したのだ。

 「だから……少し、魔力が……」
 「あ、やっぱり感じる?」
 「ぁ、はい……少しだけ、ですけれど」
 「それで、母さんは半魔手術二度受けたんだけど、一度目は俺が生まれて、二度目は妹の紗枝子が生まれたんだ」
 「…………あ……」

 半魔手術は人間の男性を増やす為のものだが、女性も生まれる。
 その半魔人間の女性が成長し、自分がどうやって生まれたのかを知った時、自らの存在意義を見失ってしまう。その数は少なくなく、玲人の妹、紗枝子も過去に存在意義を感じられなくなってしまったのだ。
 精神状態は不安定になり、家族の目を避けるように部屋に篭り続け、ちょっとした事で癇癪を起こし混乱する。
 しかし、母親の紗緒理と父親の隼が玲人と変わりない愛情を注いでいる事を紗枝子本人が自覚し持ち直した。玲人も紗枝子はかけがえのない大切な妹であると話した時、素直に喜んでくれた。

 「ちょっと前までの紗枝子はかなり荒れてたよ。普通の人間と半魔人間のギャップとかもそうだし、手術の事もあったし、自分の事をできそこない≠ネんて卑下してさ」
 「…………」
 「それで、菜々乃さんが自分の事をこんなバケモノ≠ネんて言っていたから、紗枝子の事を思い出しちゃって」

 玲人の話を聞いていた菜々乃は俯いて、ぽつりぽつりと語り始めた。

 「私のこの身体を見て、みんな、一歩離れちゃうんです」
 「…………」
 「ケンタウロスさんとか、ラミアさんとか動物系ならまだしも、こんな大きくて足が沢山ある百足の胴体が……怖い、バケモノだ、って。もちろん、本気じゃなくってからかいだって、親は言ってくれましたけれど……」
 「…………」
 「私とみんなの身体が余りにもかけ離れ過ぎていて、どうして私は大百足なんだろうって……それで……本当は学校なんてもう行きたくなかったけど、親から説得されて、通う事にしたんです。ただ、受験を受けていなかったから、こんな時期に入学になっちゃいました……」
 「そうだったんだね」

 どおりで、と玲人は心の中で頷いた。
 菜々乃が着ている制服は玲人が通う学校の女生徒が着ているものだ。しかし学校で彼女の姿を見た事、聞いた事がなかったので疑問に思っていたのだ。

 「先生は優しかったですけれど……やっぱり、学校を歩いていたら色んな人たちに見られて、避けるように…………うぅ」
 「……不安、だよね」

 うっすらと涙を浮かべた菜々乃は頷き、そして玲人を見つめた。

 「でも、本当は私だって、学校でお友達を作りたい……! 素敵な男性とも……そ、その……」
 「……うん」

 菜々乃の言いたい事はわかった。それならば、同じ学校に通う者同士、助け合うのがいいだろう。
 ……なにより、女の子が困っているのを男が見過ごすのはいけない事だ。
 玲人は自分が出来る精一杯の笑顔を菜々乃に向けた。

 「俺でよければ、友達になって欲しい」

 玲人がそう言うと、菜々乃は涙を零して頷いた。
 そしてそっと手を取り、

 「私からも……お願いします。それで、あの……」
 「うん?」
 「私、こういう性格ですから、きっとすぐに落ち込んだりしちゃうかもしれません。その時は……阪野君を、頼っても、いいですか?」

 か細い声で尋ねる菜々乃に、玲人はしっかりと頷いた。

 「もちろん。だって友達だろ?」
 「……はいっ」

 ――――それが、昨日の出来事だった。



 一見普通の人間に見える半魔人間の玲人と、その胴体で一目瞭然の大百足の魔物娘菜々乃。
 その二人が並んで登校する姿を、道行く人や同じ学校に通う生徒は物珍しそうに見ていた。玲人は真っ直ぐ前を向いて意識をしない事にしていたが、菜々乃は過去の事から人の視線は人一倍強く感じてしまう。
 登校途中、お互いの家族の話をしていたが、他人からの視線に菜々乃は地面を見ながら歩き、口数も急に減っていく。
 異形な自分の胴体を見られている。バケモノだと思われている。……近づかないで欲しいと、思われている。
 本当は、玲人だって気持ち悪いのを我慢しているのではないか? 昨日あんな事を言ってしまったから、引くに引けず、困っているのではないか?
 後ろ向きな思考の歯車がどんどん音を立てて回りだす。不快で五月蝿いその奇音は菜々乃の身体を駆け巡り、身体がこれ以上進んでいくのをやめようとしていた。

 「……新山さん」
 「あっ」

 玲人がそれを察知し、菜々乃の手をそっと握った。
 歩みを止めようとしていた菜々乃の身体はまた動き出す。玲人の手から伝わる、菜々乃よりも高い体温が心地よくて、離さないように菜々乃も優しく握り返す。
 ……なんて、頼もしい人なのだろう。
 そう思うと菜々乃は自然と笑みが零れた。

 「阪野君」
 「ん?」
 「手、温かい……ね」
 「そう? 新山さんの手はちょっと冷たくて気持ちいいよ」
 「あ……、離し、た方……が」
 「いいのいいの。綺麗な手だね」

 それは玲人にとっては無意識だったのだが、その無意識の発言は菜々乃の心臓の鼓動が早くなるのには十分すぎた。少し、顔が熱くなってきたのを感じて菜々乃はそれを見られないように俯き気味に言った。

 「あり、あり……がと」
 「うん」

 そのまま二人は学校まで到着し、登校する生徒達の視線をとても集めた。人一倍他人の視線には敏感だった菜々乃はそれどころではなく、登校中に繋いでいた玲人の手の事ばかり考えていた。
 また昼の休憩時間に会う事を約束し、玲人は自分の席に着いた瞬間待っていたとばかりに友人、慶が早速玲人に質問した。

 「色恋沙汰とはかけ離れていたはずの玲人さんおはよう」
 「……妙に棘があるなぁ」
 「そんな事はありませんよ玲人さん。僕も君が見知らぬ大百足の彼女と手を繋いで登校しているのを目撃しましてね」
 「何故に敬語?」

 玲人の返事には答えずに慶は芸能リポーターのようにマイクを向ける動作をしてから言った。

 「昨日と今日の間に一体何があったんですか? まさかナンパしたんじゃないでしょうね? そしてそのままお持ち帰りして――――」
 「昨日道に迷っている彼女を助けたら、同じ学校でこの時期に入学するって言うから一緒に登校してきただけだ」
 「ほう、ほうほう」
 「……なんだよ」
 「では、お二人の関係はまだおセッ」
 「言わせねぇからな」

 その身に母親の魔力を微量ながら受け継いでいる半魔人間の玲人でも、羞恥心の一つや二つはある。元々日本人はそういった手の話を恥ずかしい、大声で言うものではないという認識を持った者が多い。いくら世間が魔物娘一色だろうと、保健体育の時間は保健の比率が圧倒的に高くても、やたらとセクシーで露出の高い服を着ている魔物娘の先生が居ようと、である。
 とは言え、玲人ほどの健康な男子学生はやはりそういう手の話は興味津々であり。友人、慶は性に対して好奇心旺盛だ。むしろ、慶の方が一般的である。
 半魔人間は精力が強いが、玲人はそれを自制する生き方を選んだのだ。

 「では二人の関係はまだ手を繋ぐだけ、と」
 「友達ぐらいなら手を繋ぐだろうに」
 「友達ぐらいなら手を繋ぐだろうに……だってさ! くぅ、これが余裕って奴か!」

 芸能リポーターからただの彼女居ない暦イコール年齢の男子高校生に戻った慶は悔しそうに地団駄を踏む。

 「だから新山さんとは」
 「果たしてソレはどうかな」

 意味ありげにニヤつく慶に玲人はため息を一つついてから、仕方なさそうに聞く。

 「何が言いたいんだ?」
 「友達だと思っているのはお前だけで、あの彼女はそうじゃないんじゃないかって事だよ」
 「……いや、ないだろ。昨日知り合ったばかりなんだぞ」

 まだ新山さんの事何も知らないしな。
 そう脳内で玲人は付け足す。
 しかし慶はわざとらしく指を振る。

 「チッチッチ」
 「今時そんなんするのお前だけだぞ」
 「友達うんぬんすっ飛ばして恋人からスタートするのも珍しくないこの時代に、男女が手を繋いでお友達です、なんてありえん! もしかしたら彼女の中では恋人同士になっているんじゃないか?」
 「女と付き合ったこともないのに豪語するねぇ童貞」
 「うっせぇお前も童貞だろうが!」

 心の中で大声で童貞って言うなよ、と突っ込みを入れつつ、続きを促すと慶はこほん、と咳払い。
 そしてずい、と玲人の顔に近づいて声を潜めつつ言った。

 「ぶっちゃけよ、お前は彼女の事どう思ってるんだよ?」
 「顔がちけぇよ。……うーん、新山さんってどうしても前の紗枝子を思い出しちゃうんだよな」

 自分に自信が持てずに、前に進む事をやめそうになるような危なっかしさ。その姿が玲人には紗枝子と被って見えて、放っておけないのだ。
 この感情は恐らく紗枝子に対するものと同じで、妹が一人増えたような気分だった。

 「前の紗枝子ちゃんって言うと……」
 「あぁ。新山さんもちょっと、自分に自信がないみたいだ」
 「……なるほどな」

 以前紗枝子が部屋に篭ってばかりの時期に、玲人は数少ない友人、慶にも相談をしていた。故に慶も事情は知っている。

 「自分の事をバケモノ、なんて言ってさ」
 「ほう」
 「自分で自分を責めて辛い思いをするのは見過ごせないんだよな」
 「そこに付け込んだわけだなこの軟派野郎」
 「…………」

 割と力を込めて、玲人は慶の額にでこぴんをお見舞いした。

 「いってぇ!」
 「弱みに付け込むような野郎じゃねぇよ馬鹿」
 「へいへい、わぁーってますよ」

 額をさすりながらも慶は至って真剣な表情で玲人に言った。

 「でもよ、彼女だって魔物娘だろ? 少なくとも気になる人≠ノはなってるんじゃないのか?」
 「……どうだろうな。俺は心が読めないし」
 「心が読めなくても顔を見たらある程度はわかるだろ?」

 そんな事をさらっと言う慶に少し驚きながら、玲人はぼそ、と呟く。

 「……お前ってなんで童貞なんだ?」
 「うっせぇ! 俺はただ学校生活で甘酸っぱい日々を送りたいだけで、その相手が未だに見つからないだけだ!」
 「スタートダッシュに遅れたもんなぁ」

 入学してすぐ、恋人の居ない魔物娘は一秒でも早く彼氏を作りたがるものだ。この学校でも一年生の最初の頃は気になる男性を放課後に捕まえてはお持ち帰りする風習がある。
 しかし慶はそんな事をすっぱりと忘れて、新作ゲームの発売に合わせてダッシュで下校したおかげでどんどんと一年生の魔物娘たちは恋人を作っていき、今では数少ない彼女なしの男の仲間入りである。
 ちなみに玲人はそれどころではなく、妹の紗枝子の事で手一杯だった。放課後声をかけてきた魔物娘に一言断りを入れて真っ先に下校していた。

 「でももう今の一年生には彼氏なしの魔物娘なんて少ないんじゃないか?」
 「折角探しても、『今気になる人が居るの……』って言われたなぁ」

 快晴の空を遠い目で眺める慶に、玲人は一つ提案する。

 「んな苦労しなくても、キューピッドやりゃいいじゃん」

 玲人の言うキューピッドとは、ネットにあるサイトに自分の情報(例えば年齢や大まかな住所、好きな食べ物)を登録すれば、気に入った魔物娘からのミニメールが届き、そこからメールや電話のやり取りを繰り返し、最終的には実際にデートして付き合いを始める。
 簡単に言えば出会い系サイトである。ちなみにこのキューピッドというサイトは国が正式に採用しているれっきとした機関で、十六歳以上ならば誰でも利用する事が出来る。
 玲人の提案に、慶は机をバンと叩いて抗議する。

 「俺は! 学校で! 彼女と! 甘い日々を! 送りたいんだよォ!」
 「はいはい、そうですか」

 クラスの生暖かい視線が慶に集中するこの状況に苦笑しながらも、玲人は先ほどまで彼女、新山菜々乃の手を握っていた掌を見つめる。
 自分自身はまるで妹のようだ≠ニいう印象だが、菜々乃はどうだろうか? あの時、彼女はどんな表情をしていた?
 ……思い出そうとしても、彼女の長い前髪が殆ど顔を隠してしまっていたからわからなかった。



 その後、小休止の時間に見ず知らずの女性たちがこぞって好奇心で菜々乃との関係を質問攻めし、玲人が同じ事を言っても勝手に想像を繰り広げられ、段々と疲れてきた頃、ようやく昼食の時間となった。
 待ち合わせ場所の中庭には既に菜々乃が待っていて、玲人を見つけると真っ直ぐにやってきて玲人の手を取った。

 「阪野君……やっときてくれた」
 「あ、ごめん。遅かったかな」
 「ううん、私が早く来すぎただけ……だから」

 丁寧に手入れがされた芝生の上に二人は座り、大樹の下でそれぞれの昼食をとった。程よく腹が膨れて満足した玲人は、早速菜々乃にクラスの事を聞く事にした。

 「クラス、どんな感じ?」

 そう聞くと、菜々乃は少し俯いてからゆっくりと答えた。

 「……やっぱり、私の身体で……その、魔物娘の子たちは優しい、けど」
 「……? うん」
 「人間の女の子や男の子は……やっぱり、怖がっていて……」
 「そ、っか」

 そればかりは予想の範疇であり、最早仕方のない事だった。
 菜々乃本人の性格がこんなにも大人しいのに、どうしてもこの百足の身体は見る者を怯えさせてしまう。何よりも百足という文字に劣らず、多数の足は普通の人間が見れば恐ろしいものに見えるだろう。
 ――――新山さんはこんなにもおしとやかなのにな。
 玲人はそっと脳内で付け加える。

 「仕方のない事だって……わかってる。わかって……る、けど」

 首を垂れる菜々乃の頭を、玲人はそっとあやすように撫でる。

 「……ふぇ?」
 「これから、だよ」
 「これから……?」
 「新山さんは今日学校に来たばかりで、どんな女の子かもみんな知らないんだ」
 「……うん」
 「きっと、みんな新山さんの事を理解してくれる。友達の俺が言うんだから、間違いない」
 「と、とも……だち……」

 励ましのつもりで言った筈なのに、何故か菜々乃は先ほどよりも落ち込んでいるように見えた。

 「阪野君……は、あの……」
 「?」

 菜々乃は何かを言おうとしてやめて、また口を開いたかと思うとやめた。玲人は続きを促す事もせずに、じっと待った。無理をしなくていい、自分のタイミングで言えばいいのだから。
 やがて、前髪越しに玲人の瞳を見てからしっかりと伝えた。

 「玲人……くん、は、私の……あの……と、特別……な、あの……とも、とも……だちです」
 「特別?」

 菜々乃の頭を撫でていた手をそっと握り、そして――――

 「えっ!? ちょっと、新山、さん?」

 その手を菜々乃の胸へ自ら当てた。まさかの事態に慌てる玲人に、菜々乃は必死に言葉を繋いだ。

 「こんなに私、ドキドキ、してるんです」
 「……あ」

 玲人は菜々乃の胸の柔らかさに戸惑ってばかりだったが、菜々乃が伝えたかったのはそれよりも奥の部分。確かに菜々乃の言うとおり、彼女の心臓は早鐘を打っていた。

 「玲人くんのお家の前で待っている時も……登校している時、手を握ってくれた……時も」
 「…………うん」
 「私を、こんなにドキドキさせてくれる……」
 「本当、だね。鼓動が早い……」

 これは、もしかして。
 玲人は先ほどまで新山菜々乃という女性が妹のような存在だと思っていたのだが、彼女は玲人の事を…………。
 しかし玲人はそこでストップをかける。
 何せ、知り合ったのは昨日で、友達になったのも昨日だ。それなのにこんなにも早く、……になるはずはない。
 はずはない、のに。今目の前に居る女性は、玲人が自分をドキドキさせると言った。
 ……どうすれば、いいのだろうか。

 「だから、あの……これからは……もう呼んじゃった、けど……」
 「う、うん」
 「玲人くん、って……名前で、呼んでも……」

 不意に、悪友の言葉が蘇る。
 ――――心が読めなくても顔を見ればある程度はわかるだろ?
 その言葉の通りに従うと、顔を隠すように伸びた前髪の奥には、頬がほんのりと赤く染まり、瞳は潤んでいる菜々乃の表情がそこにあった。
 勘違い……ではない、のか? 本当に、彼女は……?

 「あ、あの……玲人、くん?」
 「――――あっ」

 考え事に没頭しすぎて返事をまだしていなかった。
 彼女は玲人の返事を待っている。今はそれに対する返事をしなければいけない。

 「うん、名前で呼んでくれて大丈夫だよ」
 「♪ よかった……」

 それぐらいなら大丈夫だ……大丈夫。
 …………何が、大丈夫なのだろうか?

 「それで、よかったら……私の、事も……菜々乃、と呼んでください」
 「菜々乃、さん」

 彼女が望んだ通りに名前を呼ぶと、玲人の手を両手で包み込んでから、

 「……はい❤」

 とても、とても嬉しそうに菜々乃は返事をした。
 玲人の手を包む手のひらの感触が心地いい。いつしか、玲人は菜々乃から目が離せなくなっていた。
 それは菜々乃も同じで、お互いに見つめ合い、そしてどちらからともなく、吸い込まれるように――――。
 と、まるでタイミングを見計らったかのように昼食の時間が終わりを告げるチャイムが鳴った。その音で二人を包んでいた雰囲気は全て吹き飛び、慌てて距離を離す。

 「あ、あのっ、ごめんなさい……」
 「いや、こっちこそ……」

 我に返ってみれば、先ほどの雰囲気は完全にキスをしてしまいそうだった。今朝、慶に言った玲人の「妹のような存在」だったはずの菜々乃にだ。妹のような存在だったのに、あのまま行けば確実にキスをしていた。
 それは何故なのか? 玲人の本当の心は、彼女を妹のようではなく一人の女性だと認識しているのではないのか?
 大人しくて、どちらかと言えば引っ込み思案な菜々乃に引き込まれると感じたあの力は一体なんなのか? その力は、彼女自身の魅力ではないのか?
 自分はその魅力に酔ってしまったのではないだろうか?
 ――――一体何をしているんだ俺は。菜々乃さんが俺に頼ってくれているのを利用して、何をしようとしていたんだ。
 玲人は自制する事で、先ほどの事を一時の迷いとして反省した。

 「ほんとに……ごめん」
 「……そんなに、謝らないでください」

 菜々乃は悲しそうに呟く。
 何故彼女は悲しそうだったのか、玲人にはわからなかった。

 「予鈴鳴ったし、戻ろうか」
 「……そう、ですね」

 ……やってしまった。
 菜々乃は玲人を頼っているのに、その頼られている人間が彼女を落ち込ませてしまった。
 原因は間違いなく、玲人が菜々乃にキスをしてしまいそうになった事だろう。
 もしかすると、これが原因で菜々乃は玲人に近づかなくなってしまうかもしれない。
 ますます自分の卑怯な所が嫌になっていく玲人。しかし後悔をしてももう遅い。既に菜々乃は自分の教室へと戻ってしまったし、そもそも原因を作った人間が何を言ってもどうしようもない。
 そんなに、謝らないでください。
 ならば、なんと声をかければいいのか。
 そればかりをずっと考えながら、玲人も自分の教室へと戻ったのだった。
13/01/27 01:14更新 / みやび
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■作者メッセージ
まさかの新シリーズです。
舞台は中世から打って変わり、現代になりました。
なんか凄い時代設定にしちゃったんですが、いかがでしょうか?
いかんせん、新たな試みなので不明なところがあるかもしれません。質問や指摘があれば遠慮なくどうぞ。

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