連載小説
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T The Wizard of Milky Peak
 

 「ミルキーピークの魔術師」という呼び名を、今日では知る人は少ないかもしれない。
 しかし、「トーマス・エリオット博士」という名であれば、この国の人間ならほとんどがそれを知っているだろう。
 
 その男は若い頃、勤勉で実直な時計職人として知られていた。さびれた田舎町ミルキーピークの時計屋に弟子入りし、朝から晩まで歯車やネジと向き合う日々を送っていた。やがてその腕を信頼されて親方に店を譲られたエリオットだったが、その後の経営はあまり順調とは言えなかった。
 腕のいい職人にはままあることだが、彼は人との付き合いを好まず、店を繁盛させることよりも一人で機械いじりに没頭することを優先するような性質であった。やがて店には人が寄り付かなくなり、彼はますます世間から遠ざかっていった。結婚もせずに毎日工房に籠りきりの彼を、人々は変わり者と噂した。
 しかし、数十年が経ち、職人エリオットが老年と呼べる年齢となったある年のこと、彼は突然人々の前に姿を現し、彼らを驚嘆させる「作品」を発表した。彼が発明したというその装置は不思議な形をしたガラスの球体で、彼が謎めいた細工をすると、球体は目も眩むようなまばゆい光を発した。しかもその光は風が吹こうが雨が降ろうが消えることがなく、どんな火よりも明るい光が夜の闇を昼間のように照らした。
 彼の発明はそれだけに留まらず、蒸気も使わずに動く巨大な歯車や、糸を使わずに人の声を遠くに伝える機械など、常人の想像を遥かに上回る新技術を次々に発表した。いつしか人々は驚きと畏敬の念を込めて、彼を「ミルキーピークの魔術師」と呼ぶようになった。

 天才職人エリオットの名は瞬く間に知れ渡り、数多の実業家や資本家がその技術を、とりわけ彼の機械を動かす未知の動力の秘密を知りたがった。彼らはエリオットに特許の申請を勧め、そしてその権利を自分たちに譲り渡すことを求めた。しかし、年をとるほどに頑固さに磨きがかかっていた彼は、どんな大金を積まれても決して首を縦に振らず、その技術を外に出すことを拒んだ。特に、彼の機械たちを動かす未知の動力(彼はこの力を「光力」(lightricity)と呼んでいた)の生成方法については、絶対の秘密として頑なに他人に見せようとはしなかった。
 ある時、エリオットは発明品の発表をピタリと止めると、町の外れに一軒家を建て、そこに引き籠って暮らすようになってしまった。「ミルキーピークの魔術師」の伝説だけを残して、彼はもう誰とも顔を合わせようとはしなかった。技術目当ての実業家たちも、やがて諦めてほとんど彼のもとを訪れなくなった。
 それから、およそ5年の月日が流れた。




 ミルキーピークの町外れ、郵便局の馬小屋を通り過ぎて町の裏山へと向かうなだらかな坂道を、1人の青年が息を切らせて歩いていた。紙束やペンのはみ出た鞄を右手に下げ、山高帽を被った青年の身なりは、南部の田舎町であるミルキーピークにはあまり似つかわしくないように見えた。
 青年が歩いていたのは、俗世間から隠れるように山の中腹に建つ一軒家、トーマス・エリオットの屋敷に続く道だった。町の人々から屋敷の場所を聞き出した青年は、長旅の疲れが溜まった足を引きずりながら、ただ一心に坂道の上を見つめ、黙々と歩みを進めていた。町の北側にそびえる山は錆びたような赤褐色に色づき、秋の深まりをひしひしと感じさせた。
 やがて坂は終わりに差しかかり、突如として目の前に開けた台地が現れる。山から吹き下ろす北風が、正面から青年の顔を強く叩いた。
 その場所に建つ屋敷の姿を例えるならば、子どもが好き勝手に積み上げた不格好な積み木の城とでも言えようか。5,6エーカーほどの台地の奥まった一角に建てられたその屋敷は、ごく一般的な郊外の一軒家に無秩序な増改築が繰り返された結果、何か巨大な怪物に変身しようとしている生き物のように、不自然で不気味な形に膨れあがっていた。外観からでは何階建てかも判然としない屋敷の屋根からは、不必要なほど長い煙突がそびえ立ち、灰色の煙を空に向けて吐き出し続けていた。
 青年は屋敷の異様な姿をしばらく見上げた後、襟を正し、確かな足取りで屋敷へ向けて歩き出す。意外にも綺麗に手入れがされた白い玄関の前に立つと、青年は一度咳払いをし、扉を叩いて大声で叫んだ。
「エリオット博士!トーマス・エリオット博士はいらっしゃいますか?」

 しばらく待てども、屋敷からは物音一つ聞こえてこなかった。重苦しい沈黙が辺りを支配する。一瞬博士の不在を疑う青年だったが、煙突から途切れることなく立ち上っている煙を見ると、その可能性は薄いように思われた。
 青年がもう一度扉を叩こうと一歩を踏み出したその時だった。
 不意に扉が少しだけ開き、扉の隙間から眉根に皺を寄せた鉤鼻の老人が顔を出した。老人の髪は白く染まり、額だけでなく顔全体に何本も刻まれた深い皺が、男の生きた長い苦難の年月を示していた。しかし、扉越しにも男の体躯は決して小さくないことが伺え、扉を押さえる手は分厚く、力強さを感じさせた。何よりも、何年も人を信用したことがなさそうな鋭く敵意に満ちた眼光に、この男の底知れない意志の強さがにじみ出ていた。
「ああ、よかった!エリオット博士でいらっしゃいますか?」
「あんたは?」
 しわがれた声で尋ねる老人、エリオットの問いに、青年は山高帽を脱ぎ、丁重に一礼した。
「申し遅れました。ニコラス・ハーバート・ケントと申します。ミルキーピークの大科学者、エリオット博士の噂をお聞きして参りました」
「……『博士』?」
 エリオットの眉が微かに動いた。
「わしは科学者なんぞを名乗った覚えは一度もないが」
「ご謙遜を!今や北部から南部まで博士の名を知らぬ者はおりません。今世紀最大の科学者だと誰もが……」
「帰れ」
 ニコラスの話を聞こうともせずに、エリオットは吐き捨てるように言った。
「資本家どもの回し者はもうたくさんだ」
 そのセリフを言い終わらないうちにエリオットは顔を引っ込め、扉を乱暴に閉めてしまった。

 ニコラスは慌てて扉に駆け寄り、縋りつくようにして大声で訴える。
「待ってください!私は違います!私も科学者です!」
恥も外聞もかなぐり捨て、あらん限りの大声で中のエリオットに呼びかける。
「ベンジャミン大学で5年間物理学を研究しました!教授からの推薦状もあります!どうか、どうか私を、あなたの弟子にしていただきたいのです!」
 ニコラスは、自分がいかに自然の神秘を愛し、科学研究に人生を捧げてきたかという話を語って聞かせた。新聞でエリオットの発明品を目にし、震えるほどの感動を覚えたこと。家財道具を売って旅費を工面し、北部の町から鉄道と馬車を乗り継いで何日もかけてやってきたことなどを、情熱的に熱弁して見せた。
 するとまたしても唐突に、扉が乱暴に開かれる。しかしその奥にいたのは、片手に木のバケツを持ち、怒りで顔を真っ白にしたエリオットだった。
呆気にとられるニコラスに容赦なくバケツの水が浴びせられる。ご丁寧にバケツの中身はドブから汲んできたような泥水だった。それからエリオットは何も言わずに再び扉をピシャリと閉めた。

 しばらくの間ニコラスは茫然とそこに突っ立っていた。不意に一陣の北風が吹き抜け、思わず身震いをする。とっさに後ろ手に庇った鞄は無事だったが、一張羅の古いジャケットはずぶ濡れになってしまった。元より汚い古着なので、汚れがあまり目立たないのがせめてもの救いだった。滴をしたたらせながらニコラスは落胆のため息をつく。



 その時だった。
 どこからか、鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。高く、よく通る女の声だった。振り向くと、玄関のすぐ右手側、ポーチを降りた所に、気づかぬうちに若い女性が立っていた。目が合うと、女性は一瞬ハッとした顔をして、口元に手を当てる。
「あら、失礼。お気に障りましたらごめんなさいね。ただ……」
そう言いながらも、こらえきれない含み笑いが女性の口元からこぼれた。
「あんまりひどくやられたものだから。……バケツで追い返される方なんて、久しぶりですわ」
 女性につられて、ニコラスも恥ずかしそうに苦笑いを返す。
「これはお恥ずかしいところを……どうやら博士のご機嫌を損ねてしまったようです」
 顔にかかった泥を拭うと、ニコラスは女性の顔をようやくはっきりと見ることができた。

 それは誇張なしに、彼がこれまで見た中で最も整った女性の顔であった。鼻や唇は大きすぎず小さすぎず、互いに調和した見事な位置に収まっている。肌は陶器のように白く、透き通るように明るい金髪は後頭部で小さく纏められていた。空の青をそのまま写し取ったような2つの眼が光を反射し、睫毛の一本一本までもがガラス細工のように輝いて見えた。非の打ち所のない、完全無欠の美。それはまさに万物の創造主が作り上げた、原初以来の最高傑作であるかのように思われた。
 ニコラスは上着の裾を絞りながら女性に尋ねた。
「ところで……どこかで井戸をお借りできませんか?せめて顔を洗いたくて……」
「ええ、こちらです」
歩き出した女性の後について、屋敷の裏手へ回るニコラス。屋敷のすぐ背後には森が迫っており、どこからか渓流のせせらぎが聞こえてきた。
「こちらをお使いくださいな」
 立ち止まって女性が指し示すそれが井戸だと、ニコラスが理解するのには少し時間がかかった。円筒形に積まれた石組みは確かに井戸の形をしてはいたが、その上に見たこともない鉄の塊が覆いかぶさっていた。手押しポンプならば今どき珍しくもないが、この妙な機械は明らかにそれよりも大きい。呆気にとられるニコラスをしり目に、女性はその装置に歩み寄ると、側面に取り付けられたハンドルを少し回し、その横のレバーを下ろした。
 すると、機械が小刻みに振動し、水を吸い上げるような音が中から聞こえた後、鉄の蛇口から水が勢いよく噴き出した。
 ニコラスは驚きで声も出なかった。蒸気式のポンプならば起動するだけで数分はかかるところを、この女性はものの数秒で、しかもごく単純な操作でそれをやってのけてしまった。
 思わず分解して中を調べたい衝動に駆られたが、今はまず本来の目的を果たすことにした。噴き出す水に手を突っ込むと、真冬の小川のように冷たかった。
 やがて、顔や髪の泥をすっかり洗い落としたニコラスは顔を上げ、女性に尋ねた。
「ありがとうございました。この素晴らしい装置も博士の発明ですか?」
「ええ、毎日の水仕事が大変だろうと、私のために作ってくださったの」
 たった1人の女性のためにこれほどの発明をしてしまったという事実に、ニコラスは息を呑む。いったい彼の頭にはどれだけのアイデアが眠っているのか。それはほとんど無尽蔵かもしれないとさえ思われた。

「先ほどのお話……弟子入りされたいというお気持ちは、まだ?」
女性が尋ねた。
「ええ。諦めたくはありません。ただ……今後話を聞いていただけるかどうか……」
「きっと驚かれたのですわ。弟子になりたいだなんておっしゃる方は初めてだから、どう答えたらよいのか、困っていらっしゃるのよ」
「もしそうなら、まだ望みはあるということでしょうか……」
 知り合って間もないこの女性との会話に引き込まれながら、ニコラスは彼女の正体について考えを巡らせていた。最初は屋敷のメイドかとも考えたが、女性の着るワイン色のドレスは家事仕事をなりわいとする者の服装とは思えなかった。何より女性の上品な言葉遣い、洗練された所作は、このような田舎の一軒家を守るメイドには似つかわしくなかった。

 女性とエリオットとの関係について、ニコラスが質問を投げかけようとしたその時、
「メアリ!どこにいる?」
屋敷の中からイライラしたような鋭い声が飛んだ。エリオットの声だった。
「こっちへ来るんだ!」
「はい。お父様」
 その声を聞くと突然、女性は会話を打ち切って返事をした。
 そのままニコラスに挨拶もせずに踵を返すと、女性は足早に屋敷の裏口へと歩き去ってしまう。呆気にとられるニコラスも、水を吐き出し続ける謎の機械もその場に残したままだった。
 冷たい風が濡れた顔を撫で、ニコラスは今日何度目かの身震いをした。あの偏屈なエリオット博士に娘がいるとは、噂にも聞いたことがなかった。このような寂しい屋敷に、妙齢の女性が父親と二人暮らしという状況も、恐ろしく奇妙なものに思われた。


 その他にも頭の中は疑問だらけであったが、とにもかくにもニコラスは、後日再びこの奇妙な屋敷を訪問することを心に決めた。
20/10/11 18:42更新 / 琴白みこと
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ある程度書き溜めているので、まとめて投稿します。

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