連載小説
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 片田舎の小さな町で営まれている、小さな食堂。
 僕は、そこの次男として産まれた。
 両親と四つ上の兄に見守られながら、とても弱々しい産声を上げて、産まれて早々に「果たしてこの子はちゃんと大きくなれるのだろうか」と心配させたらしい。
 そして、両親の心配どおり非常に病弱だった僕は、咳一つがきっかけで数日寝込んだりはしたものの、どうにか大病は患わずには済んだ。
 しかし、生来のものなのか、あるいは病に伏せる生活がそうさせたのか。物心付く頃には、僕は良く言えば大人しく、悪く言えば女々しい少年となっていた。
 普通なら外で遊びまわるような歳になっても、「もう少し体が丈夫になるまでは」と母さんに言われていたから、何か特別な理由があって外に出なければいけないとき以外は、自室に篭って紙に綴られた物語に思いを馳せた。
 物語の中の世界を夢見ながらも、時折、外で遊んでいる同じ年頃の子ども達を見ては、自分もいつかあの輪に入れるだろうか、なんて事も思っていた。
 だけど、自分の姿を鏡で見るたびに、それは無理なのだろうとも、子供心に思っていた。
 男にしては長めの、赤茶色の髪。見るからにひ弱そうな細い体。陽に当たらない青白い肌。
 それはお話に出てくる吸血鬼みたいで、外に出たら焼けて死んでしまうかもしれない、なんて事すら考えるほどだった。

 対して、僕の兄さんは、強くて賢い子どもだった。
 もちろん、その強さも賢さも「子ども」の範疇から出るほどのものではなかったけれども、小さな町の子ども達のまとめ役になるには十分だった。
 父さんと母さんの手伝いをしてから、暇になったら外へ遊びに行って、夕方頃に帰ってくる。毎日のようにそんな事を繰り返すほど活発だった兄さんは、眠る前の僅かな時間を使って、一日中篭りきりだった僕のために、外であった事を話してくれた。
 その話はいつも楽しげだった。本当に些細な子どもの遊びも、まるで壮大な冒険譚のように語ってくれて、ただ見るだけでは到底感じられなかった憧れを僕にもたらした。

 だから、いつもより調子が良いと思えた、ある晴れた日。僕は少しだけ勇気を出して、兄さんに頼んだ。

「僕も、外でみんなと一緒に遊びたい」

 そう言われた兄さんは、とても複雑そうな表情をしていた。
 弟が勇気を出した事は喜ばしいが、外で遊ぶのには不安を覚える。
 内訳としては、きっと、そんな所だろう。

 だけど、兄さんは意を決したように頷くと、僕の真っ白な手を取った。
 具合が悪くなったらすぐに言うんだぞ、とだけ言ってから、僕を良く晴れた空の下に連れ出して、仲の良い子ども達に紹介した。
 もしかしたら、兄さんは既に僕の事を話していたのかもしれない。
 子ども達はすぐに僕を仲間として認めてくれて、その上で、ちょっと過剰なほどに僕の事を気遣ってくれた。
 あるいは、それは子どもらしい、配慮の加減も分からなかったという事情からかもしれないけれど。

 そうして、「友だち」と初めて遊んだその日は、本当に楽しかった。
 生まれて初めて追いかけっこをして、町中を走り回って、心の底から笑った。
 兄さんに手を引かれて、大丈夫か、具合は平気かと何回も聞かれて、その度に「大丈夫。すごいね、楽しいね」と笑った。
 今まで読んだどんな物語よりも、ずっとずっと、楽しかった。
 家に帰った後も興奮が治まらずに外で遊んだ事について語る僕を、父さんは嬉しそうに、母さんは心配そうに聞いていたのを、よく覚えている。
 兄さんはというと、もしかしたら母さんに怒られると思っていたのかもしれない。食卓の端で、少し縮こまっていた。

 本当に、楽しかったから。翌日、高熱を出して寝込んでしまっても、いつもより苦しくなかった。
 トイレに行こうとして起き上がれば体中が軋んだし、咳をするたびに頭が割れそうにがんがんと痛んだけど、それすらも、本当に外で遊べたんだと言う喜びに繋がった。
 むしろ、その日一日ずっと家に居て沈痛な面持ちをしていた兄さんを見るのが、辛かった。
 僕が眠っている間に、本当に母さんに怒られたのかもしれない。
 何回も何回も、ごめん、と、ベッドで寝ている僕を見ながら謝っていた。

「兄さんのせいじゃないよ。みんなと遊べて、すごく楽しかったんだ。病気が治ったら、また、連れてってね」

 僕がそう答えても、兄さんはやっぱり辛そうな顔をしていた。
 だからだろうか。体調が良くなっても、兄さんは二度と僕を外に連れ出してはくれなかった。
 その代わり、毎夜毎夜、今まで以上に僕に色んな話をしてくれるようになった。
 隣合ったベッドの中、どちらかが眠ってしまうまで。内容は本当にあった事だけじゃなくなって、本で読んだ話そのままだったり、自分で考えた話を即興で、という事も増えた。
 そうして話を繰り返す内に、兄さんの語りはどんどん上手になって、言葉を紡げば、それが全て絵を伴って頭に浮かんでくるほどになった。
 でも、僕は兄さんの話を聞けば聞くほど、たった一度だけ、兄さんに連れられて外で遊んだあの日の事が輝かしい思い出になっていくのを、感じていた。

 そうして、時は流れて。
 「子ども」の終わりくらいになると、僕は体も多少は大きくなり、病弱だったのも、それほど心配はされない程度にはなった。それでもまだ、他の男の人たちと比べれば、貧弱なのは変わらなかったけれど。
 兄さんはと言うと、たまたま遊びに来ていた父さんの友人に役者の才能を見出されたのがきっかけで、家を出て、とある大きな街の劇団へと入った。
 田舎を出てやっていけるのかという不安は、母さんにも父さんにも、もちろん僕にもあったけれど、兄さんは本当にまめに手紙をくれた。
 はじめは雑事から。それから、非常時の代役だけど役を貰えた。小さな役だけど、舞台に立った。前よりも少しだけ大きな役を貰った。
 劇団での生活の事も交えられている手紙は、一通、また一通と届くたびに、兄さんの役者としての成長を感じられるものだった。

 そして、きっと、才能は本物だったのだろう。
 兄さんが家を出てから数年経った頃、「近いうちに、有名な演劇の主役を、大きな劇場で演じる事になった」と手紙が届いた。
 母さんと父さんは、「どうにかして見に行かなきゃ」とおおはしゃぎしていた。僕も、尊敬している兄さんが立派な役者になったのが分かって、とても嬉しかった。
 だけど、それ以上に嬉しかったのは、兄さんが僕だけに宛てた手紙を送ってきてくれていた事。
 そこに綴られていたのは、まだ僕が体の弱い子どもだと思っているのか、体調を心配するような言葉の数々。そして、母さんや父さんには見られたくなかったらしい、大役を演じる事への不安だった。
 どれだけ稽古をしても理想には程遠く、大舞台に立って観衆の視線を浴びる時の事を思うと、それだけで足が震える。最近では、劇を台無しにしてしまう悪夢を見るほどだ、と、最後の方は文字を掠れさせて書いていた。
 僕の知る限り、兄さんは優しくて真面目だから、団長さんや劇団の仲間にも、中々そんな不安を見せられなかったのだろう。
 そんな兄さんが、僕にだけ弱みを見せてくれた。それが、どうしようもなく嬉しかった。
 一方で、不安の吐露を見て喜ぶのは不純だと、ちくりと胸を針で刺されるような痛みも感じていた。

 次に手紙が届いたのは、それからほんの数日後の事だった。
 今度の差出人は、兄さんではなく、兄さんのいる劇団の団長さん。つまり、父さんの友人だった。
 何か良い報せかと笑いながら手紙を開いた父さんは、それを読み進めるうちに、見る見るうちに顔色が変わった。そして、何も言わずに、黙って僕に手紙を渡した。
 怪訝に思いながら、文面に目を通す。
 そこにあったのは、「言葉を尽くしても足りない」と前置きされた後に並べられた謝罪の言葉。
 そして、「兄さんが倒れた」という報告だった。


…………


 がたがたと馬車に揺られ、道中、いくつかの宿に泊まり、買い物もして。
 数日かけて、大きな荷物を抱えた僕は、大きな街に辿り着いた。
 初めての一人旅は不安だった。でも、父さんにも母さんにも仕事があって、僕も、「不安だから一緒に来てほしい」と我侭を言えるほど、もう子どもではなかった。

 怖そうな顔をした門番に魔物では無い事を確かめられてから城壁を潜り抜けると、大きな通りの両側に、ずらりと建物が建ち並んでいた。往来は人波で溢れ、絶えない喧騒には目が回りそうだった。
 右も左も分からない、初めて訪れた都会におろおろとしていると、「おや、もしかして……」というバリトンボイスが、僕にかけられた。
 声の方へと振り返ると、そこでは劇団の団長さんが朗らかな笑顔を浮かべていた。ようやく知っている人に会えた安心感から肩を撫で下ろし、団長さんへ駆け寄る。
 以前会った時、兄さんを連れて行った時よりも、顔に刻まれた皺が増えて、髪も白くなっている。単純な加齢なのか、苦労の勲章かは、分からない。

「お久しぶりです、団長さん」
「大きくなったなあ、見違えるようだ」

 僕が頭を下げると、団長さんは大きな手でばんばんとその頭を叩く。ちょっと痛いけど、これが団長さんなりの挨拶なのだろう。

「団長さんは……ちょっとだけ、白髪が増えましたね」
「ああ。嫁が厳しくてなあ」
「結婚されたんですか?」
「最近な。いつか紹介しよう」

 挨拶もそこそこに、団長さんは僕の持っていた大荷物を代わりに持ってくれた。そして、「こっちだ」と言って歩き出したので、僕も慌ててその隣に並んで歩く。
 人混みを避けながら歩く団長さんが口にしたのは、まず、謝罪。それから、兄さんの事。
 大舞台での主役なのだから仕方ないとはいえ、役作りや稽古に入れ込みすぎたのだろう、しばらくは安静にしているべきだと思う、と私見を述べる。
 そして、最後にもう一度、「私も無意識に、彼に重圧をかけていたのかもしれない。私が悪かったのだ。すまなかった」と謝った。
 そう言われても、僕は最初から団長さんを責めるつもりなど無かったし、謝られても困ってしまうだけだった。ただ、

「兄さんは、真面目ですから」

 とだけ答えると。団長さんも、大きく頷いていた。

 見た事も無い花々、色取り取りの果実、ぴかぴかの武器防具、分厚い本の数々、美味しそうな料理、使い道も分からない何か。
 色んなお店の前を通り過ぎていくと、今度は広場に出た。
 綺麗な噴水を中心に、屋台や露店が並んでいる。お祭りのように楽しげで、心惹かれるものがあったが、残念ながらそこを見て回っている時間はない。

 広場を抜けて何度か路地を曲がると、一転して、そこは静かな場所だった。
 団長さん曰く、ちょうどここが商業区と居住区の区切りらしい。故郷ではそんな区切りは無かったけれど、大きな街ではきっと必要なのだろう。
 レンガが敷かれた通りをしばらく歩き、自分がどっちを向いているのかも分からなくなった頃、団長さんは一つの建物へと僕を招き入れた。

 一本、まっすぐな通路があり、その両側に番号札の付いたドアが並んでいる。「アパート」と呼ばれるものの存在は知っていたけれど、実物を見るのは初めてだった。
 団長さんの後を着いて階段を上がり、通路の奥の方にある部屋、「208」と書かれた札のドアを、団長さんがコンコンとノックした。

 「私だ。ご家族を連れてきた」

 呼びかけてから少し待つと、ゆっくりとドアが開き、先に団長さんだけが部屋へと招かれた。
 何か、ニ、三ほど言葉を交わす声が聞こえてから、再びドアが開く。
 出てきた団長さんは僕に軽く頭を下げてから、「本当に、すまない」と言って、アパートを出て行ってしまった。
 取り残された僕は、ぽかんとしてその場に棒立ちになってしまう。

「……どうした、入れ」

 半開きになったままのドアの向こうから聞こえた声に我に返る。
 知っているようで、ちょっと違う声。少しだけ怖かったけれど、意を決して、ドアを開けて中へと入った。

 そこは、一人暮らしを前提にしているらしい狭い部屋だった。飾り気の無い椅子やテーブル、ベッド。棚には乱雑に食器が積まれている。そんな中、部屋の角に置かれた大きな姿見だけが、どこか浮いていた。
 そんな空間で、ベッドサイドに座っている、一人の男性。

「久しぶりだな……元気にしてたか?」

 その男性――兄さんは、随分とやつれてしまった顔を上げて、弱々しく笑った。

 どうして、そんな状態になってしまったのか。
 兄さんは、元気そうじゃないね。
 お芝居は、たのしい?つらい?

 色んな言葉が浮かんだけれど、全てをぐっと飲み込んだ。気を遣わせないように、何気ない事の様に、答える。

「うん。元気にしてたよ。母さんも父さんも、元気でやってる」

 上手くできているかは分からないけれど、精一杯の笑顔を作って、持ってきた荷物の中から食べ物と手紙を取り出す。
 紙を折りたたんだだけの手紙を兄さんに渡してから、道すがら買ってきた桃の皮を剥き、小さく切り分ける。
 ゴミ箱の中は空っぽだった。ちゃんと、何か食べているのだろうか。

「……父さんと母さんにも、心配をかけてしまったな」

 手紙を読みながら、兄さんはやはり弱々しく言った。
 数年会っていなかっただけなのに、何十歳も老いてしまったような声。

「まあ、見ての通り大した事は無い。少し疲れが溜まっていただけなのに、団長が大袈裟に伝えただけだからな」
「そっか。それなら、僕も安心だよ」
「ああ。安心してくれていい」

 顔は笑っているものの、桃を載せた皿を受け取った手は震えている。乾いて割れた唇に、くまの出来た目。
 桃を噛んで飲み込むだけでも、なんだか辛そうにしている。
 見ての通り、弱っている。安心できるはずがない。

「美味いな。うちで取れた桃じゃないな?」
「うん、来る途中の……名前忘れたけど、川が綺麗な町で買ったやつ。桃が名産なんだってさ」
「ほう。覚えておこう」

 まるで何でもないかのように喋ってはいるけれど、その声は微かに掠れている。
 大人になって声が変わったから、なんて理由じゃない。
 喉を潰すまで喋った時の掠れ方。

「……ただ、今は腹いっぱいなんだ。残りは後で貰う」

 嘘だ。棚には食器の類もあるけれど、どれも埃を被っている。日持ちするパンや食材もまったくと言っていいほど置いていない。団長さんも、「食事も喉を通らないらしい」と言っていた。お腹がいっぱいなんじゃなくて、食欲がないだけじゃないか。
 何でそんなに強がるのか。手紙に書いてくれたみたいに、僕にくらい弱音を吐いてもいいのに。
 そう、叫びたくなった。

 そんな僕の思いも知らず、兄さんは相変わらず貼り付けたような笑顔のまま喋る。

「今日は、すぐに帰るのか?宿を取るなら花屋の向かいにある所がいいぞ。併設してる食堂のカボチャスープが美味いんだ。」
「……兄さん」

 抑えなければ、とも思った。
 でも、どうしても、我慢できなかった。

「しばらくは、ここに泊まるよ。母さんと父さんにも、兄さんの面倒見てこいって言われちゃったから」

 あたかも本当の事のように言ったけれど、半分は嘘。
 大変そうだったら面倒を見てやれとは言われたが、無理やり泊り込んでまで世話をしろとは言われていない。

「……寝る所、無いぞ?」
「いいよ。毛布に包まれば床でも寝られるし」
「いや、お前……」

 きっと、「風邪を引くだろう」とか、そんな事を言おうとしたのだろう。だから、先手を打って首を横に振り、「大丈夫」と伝える。

「僕も、人並みには丈夫な体になったんだ」

 僕が大きくなる前に家を出たのだから、兄さんの中での僕は「病弱でか弱い弟」のままだとしても、無理はない。
 兄さんはまだ何か言いたそうに、しばらく口をもごもごさせていたけれど、やがて諦めたように小さくため息をついた。

「……分かった。まあ、団長にもしばらく稽古には顔を出すな、とまで言われたからな。お前がいれば、退屈しないだろう」
「なんかその言い方、引っかかるね?」
「そりゃあ、お前の考えすぎだ。ただちょっと、手間のかかる弟だと思っているだけだ」

 酷い言い草だと、笑った。兄さんも、笑っていた。
 まだどこか強がっているようだったけれど、冗談を言うその笑顔には、子どもだった頃の面影が残っているように見えた。




 食べて、眠り、体が鈍ってしまわない程度に、軽い運動をする。
 本当になんてことは無い、そんな事の繰り返しをしている内に、衰弱していた兄さんの顔色は随分と良くなった。
 感じていた重圧や一人暮らしの不精なんかもあるだろうけど、疲労が溜まっていただけ、というのもあながち嘘ではなかったらしい。
 時折、団長さんや団員の人たちが様子に見に来ては、「これならすぐに復帰できそうだ」と言い、僕の事を「もったいないくらい出来た弟さんだ」なんて言ってくれたりもした。
 色んな人に褒められるなんて事は今まで無かったから、嬉しさよりも恥ずかしさの方が大きかったように思える。
 そして、兄さんが色んな人から親しまれているのも分かったのは、嬉しさ半分、寂しさ半分といった所だった。

「ねえ、兄さんが演じるのって、どんな役なの?」

 ある日の夕刻。
 カボチャスープを作りながらそんな事を言った僕に、兄さんは驚いたように、目を丸くした。

「言ってなかったか?」
「聞いてないよ」
「そうか。すっかり言ったつもりでいたが……」

 公演が始まるまで、劇の内容には触れずにいようとも思っていたけれど、最近の兄さんは鏡の前で何やら台詞をぶつぶつ言っていることも多く、嫌でもその内容が気になるようになってしまった。
 兄さんは「あー、あー」と喉を確かめると、一度「おっほん!」とわざとらしく咳払いをしてから、声色を変えて語った。

「私は、この世に生を受けた時から羊と共にあった。羊の鳴き声が私の子守唄であり、羊毛が寝床であり、草原を埋め尽くさんばかりの羊の群れが家族であった。世界は羊でできており、羊飼いとして生まれ、羊飼いとして死ぬ。それこそが、私の天命であると信じていた」

 突然始まった一人芝居に相槌を打つべきなのか悩んでいると、兄さんは「しかし!」と力強く叫んでから、続けた。

「訪れた街の喧騒の中で、偶然にも手が触れ合ってしまった一人の少女。言葉すら交わさぬ、目と目が逢っただけの一瞬。しかし、その一瞬だけでも、二人に『運命』という物を感じさせるには十分だった!」

 隣の部屋の住人に文句を言われるんじゃないかと不安になったが、あっという間に役に没頭してしまった兄さんを見ていると止めるに止められず、黙って見守る。

「愛し合い、惹かれ合い、二人はただ結ばれる事だけを、誰もが求める幸福だけを願った!だが、大国の姫君と凡庸なる羊飼いの恋など、誰が許そうか!ああ、非情なる神々よ!何故二人を出会わせてしまったのか!いっそ知らぬままならば、引き裂かれる苦しみも知らなかったであろうに!」

 その後もスープが煮えるまで延々と続いた語りを要約すると、つまり、劇の内容は身分違いの恋に落ちてしまった二人の話らしい。
 兄さんは、お姫様に恋をしてしまった羊飼いの役。物語の中心に存在して、揺るがぬ恋心と変えられぬ境遇に苦しみ、最期には姫を想いながらも海へと身を投げてしまう役。

 熱演を終え、ベッドに座って額に浮かんだ汗を拭っている兄さんのために、水を注いだコップを渡す。

「悲劇なんだね」
「ああ。そして、悲劇だからこそ、人の心を惹きつける演技でなくてはならない。気合を入れてかからなければいけない」

 そう言いながら、兄さんは水を一息で飲み干すと、眉間に皺を寄せて深々とため息をついた。
 やっぱり、気負っている。手紙を受け取った時から分かっていた、兄さんの感じている重圧。その一端が、しかめっ面から垣間見えた。

「……でも、無理は駄目だよ」

 どうにかして、それを少しでも軽くできたらいいとは思った。
 だけど、そんな魔法のような言葉は見つからず、結局、ありふれた心配しかできなかった。

「大丈夫だ、無理はしない」

 ニッと笑ってそう言った兄さんに、僕も笑顔を作ってみせた。
 本当は、問い詰めたかった。「無理をして、また倒れたりしないよね?」と、はっきりと言ってやりたかった。
 でも、できなかった。もし僕の言葉が兄さんの邪魔をしてしまったら、と不安だったから。

「兄さんがそう言うなら、信じるよ」
「そんなに心配なら、一度稽古を見に来ればいい。俺がむしろ気を抜きすぎて怒られているのが見られるぞ」
「それはそれで、どうかと思うけどなぁ……」

 後日、兄さんの言うとおり劇団へお邪魔して、稽古を見させてもらった。
 団員さんたちはみんな和気藹々としていたのに、一度稽古が始まると、怖いくらいの真剣さでそれぞれの役を演じていた。
 その中でも特に、兄さんの演技は鬼気迫るものがあった。それはきっと、団長さんが見出した才能と、血の滲むような努力の賜物なのだろう。
 僕がもっと呑気なら、あるいは劇に対して真剣なら、別の感想を抱いたのかもしれない。
 本当に凄い役者さんになる事が分かってしまったから。僕は、兄さんが遠くに行ってしまうような、寂しさばかりを感じていた。


…………


 街は広いけれど、何度も出歩けば何がどこにあるのか大体は覚えられる程度には、整然としていた。
 故郷の町よりもずっと沢山のお店があって、パンだけでも「今日はこっちのお店、次はあっちのお店」なんて選ぶ事もできた。
 それと、最近知った事として、「お祭りでもやってるのかな」なんて思っていた広場の露店は、場所が無くて店を構えられない人や行商の人が毎日出しているらしい。
 だから、訪れるたびに顔ぶれは少しずつ変わって、並んでいる品物も変わる。見るたびに新しいものが見つかるのは、とても楽しかった。
 このごろは兄さんの体調もすっかり良くなって、劇団の方に行っている間だけでなく、家でまで稽古を続けようとするほどだった。だから、「気分転換しよう」と言って広場に連れ出す事もあったが、どちらかと言えばそれを楽しんでいるのは、僕の方だった。

 そして、兄さんが「稽古で遅くなる」と言って出かけた、ある日。

「そこ行くお兄さん、ちょいと見ていきませんかい?」

 数日分のパンを買い込んだ帰り、一人歩いていた僕に軽快な調子で声をかけてきたのは、広場の地面に布を敷いて店を広げていた、奇妙な女の人だった。
 頭の上に乗っけただけの小さな緑の帽子と、少し動くたびに「ちりん」と澄んだ音を鳴らす、袖についた鈴。綺麗な木目が入った箱の上に座り、目が合うとちょいちょいと手招きをしている。
 そんな異国情緒を感じさせる格好が気になって、普段は怪しんで素通りしていたであろうところで、僕は足を止めた。

「僕、ですか?」
「ええ、ええ。お兄さん、何か悩みがありますね?」
「そんな事……」

 いきなり「悩みがありますね」など、田舎から出てきた人間を騙すつもりなのかと思うほどに胡散臭い。
 しかし、否定して立ち去ってしまうには、その女性の眼光は鋭すぎた。嘘は全て見抜かれる、なんて考えてしまうくらいには。

「ああ、いや、失礼。ちょいと胡散臭い言い方でしたね。なに、大した事じゃあ無いんです。あっしは見ての通り、お守りを売ってましてね。こちらでは、『あみゅれっと』の呼び方が耳慣れてますかね」

 お守り、と言われても、見た限りでは単なるアクセサリーにしか見えない。
 指輪やネックレス、ブレスレット、形は様々だが、どれも同じような宝石細工が付いている。

「強き想いも言の葉も、目に見えるものではございません。だからこそ、無形のそれは宿る何かを要するのです。『あなたが心配なんです』の言葉と共に形あるものを手渡せば、それは硬い楔となって、想いを心に打ち付けましょう」
「なんで……」

 何で分かったんですかと言いかけて、慌てて口を閉じた。
 出任せか、本当に考えが読まれていたのかは分からないが、墓穴を掘ってしまったのは、その女性の「やはり、そうでしょうと思った」という言葉で分かった。
 得心したと頷きながら、女性はシンプルなネックレスを一つ取って、にやと笑う。

「だから、これを、差し上げます」

 差し出されたネックレス、僕はきょとんとして見つめる。
 紐の先で揺れている小さな宝石は、銀色の中に淡いピンクが混ざっていて、日の光を受けて妖しく輝いている。
 その輝きは、貴金属には詳しくない僕にも上等なものだと感じさせるには十分だった。

「いや、差し上げますって……」
「こちらは、遠き南の島国で取れる上質なしろがねに、「るーん」と呼ばれるまじないの文字を刻んだものです。単に祈りを篭めるのではなく、魔術を根拠に、願いを永久の力に変える。これは特に、人の体を整える……まあ、健康祈願のるーんですねぇ」
「……はぁ」

 ルーンとかまじないとか、魔法の事はよく分からないが、なんだか凄いものらしい。
 そんな凄いものを、どうして差し上げましょうなどと言えるのか。
 僕の疑問をまたもやどうにか察したようで、女性は大きく頷きながら続けた。

「ええ、ええ。もちろん分かっています。タダより高いものはない。だから、お代と言っては何ですが……」

 見計らったように、ぐぅ、と女性のお腹が鳴った。

「パンを、お一つ貰えませんかね?」

 飛び出したのは、思いもよらない、質素な申し出。
 恥ずかしそうな、しかし人懐こい笑顔に、僕もつい笑ってしまった。
 確かに、お腹が空くのは辛い。行商をしているのなら、安定してご飯を食べるというの難しいのだろう。
 躊躇う事無く、紙袋から一つ、まだ温かい焼きたてのパンを選んで女性に差し出す。

「パンくらいなら、いくらでも」
「いや、いや、ありがたい!品には自信があるんですが、困った事に中々売れないものでして。石じゃあお腹は満たせませんからねぇ」

 冗談めかした物言いに、最初に感じていた警戒心はすっかり消えてしまっていた。
 まだ多少胡散臭いとは思うものの、その所作からなんとなく「根は悪い人では無い」と思えてしまう。

「……でもやっぱり、お代は払いますよ。いくらですか?」
「んぅ?ふぉほばほ……ひふれい」

 パンを咥えたまま喋ろうとした女性はこちらに頭を下げると、椅子代わりにしていた箱の蓋を開けて、中から細長い筒を取り出した。
 それは竹で作った水筒のようで、中身を呷ってパンを流し込んでから、あらためて口を開く。

「失敬。ひとたび『こう』と言ったなら、それを後から違えてしまうは、商人の矜持に関わる最も忌むべき行いでして。なぁに、お守り一つ差し上げたのなら、他の方に百売れば良いだけですよ」
「売れないと言ったそばから、強気なんですね」
「ええ、ええ。そうですねぇ、お兄さんがそれを持って街をぶらりと一周すれば、『おっ、なんだいそれは、ちょいと見せておくんなされよ』となりまして、あっしの店も満員御礼大繁盛、と言った所でございましょう」
「……えっと、つまり、宣伝をしてこいって事でいいんですか?」

 何やら回りくどいが、つまる所そういう事なのだろうか。
 妙な打算を邪推して、タダで貰える事にも納得しそうになったが、女性はあっけらかんと笑いながら否定した。

「いやいや、冗談ですよ。ですが、それを想い人に渡す時、『どこで買ったのか』と聞かれたら、『鈴を鳴らした行商人』とお答えくださいな」
「それだけで、いいんですか?」
「ええ。名はどこかに残れば、風と共に遠く彼方まで流れるものです。情けは人のためならず。ここでお兄さんに渡したそのお守りが、いずれあっしを大商人にしてくれるでしょう」
「……よく分かりませんが、そこまで言われるのならば、素直にいただきます」

 結局、何を言っているのかは良く分からなかったが、お金は受け取ってもらえないらしい。
 ならば、と、そのネックレスをズボンのポケットに大事にしまった。

「ええ、ええ。なに、品については保証しますよ。あなたとあなたに想われる人に、幸多からん事を」
「ありがとうございます。……あなたの旅路にも、神様の加護がありますように」

 互いに小さく祈りを交わし、僕はその場を後にした。
 少し歩いてからもう一度振り向くと、その商人はまだこちらを見ていた。
 お礼代わりに手を振ると、会釈と共に、ちりん、と鈴の音が返ってきた。もう随分遠いのに、その音はやけにはっきりと聞こえた。




 結論から言えば、ネックレスを兄さんに渡す事はできなかった。
 何か渡せない理由があったわけじゃない。
 ただ、僕にその勇気がなかっただけ。

「ごめんなさいね。遅くまで、お兄さん借りちゃって」

 その日の晩、とても綺麗な女の人に肩を借りて、兄さんは帰って来た。
 一度だけ、稽古を見に行ったときに会った事がある。
 兄さんがヒーローなら、この人はヒロイン。
 兄さん演じる主人公に会うため、無謀だと知りつつも小船で海へと漕ぎ出して荒波に呑まれて死んでしまう。愛に殉じたお姫様を演じていた。

 はっきり言って、胸中穏やかではなかった。
 兄さんが酔い潰れているのなんて初めて見たし、稽古場でもこの人と兄さんはとても親しげだったのをよく覚えていたから。
 それに、この人の首に着けているのは、今日僕が買ったネックレスと同じ石を使っているらしいチョーカーだった。
 もし兄さんにネックレスを渡せば、この人とお揃いみたいになる。その様子を想像するだけで、何故か嫌な気持ちになってしまう。

 それでも、きっと今までのどんな時よりも、僕は上手く笑顔を作って見せた。

「いえ、いいんですよ。主演お二人ならば、するべきお話もたくさんあるでしょうから。ありがとうございます。わざわざ連れてきてくださって……ほら、兄さん、起きてお礼を……」
「あ、そのまま寝かせてあげて?とても、疲れてるみたいだから」
「……そうですか、分かりました」

 本当にありがとうございました。こちらこそ、ありがとう。
 そんな応酬を数度繰り返して、扉が閉まってから。
 いびきを立てている兄さんに肩を貸したままの僕は、深々とため息をついた。
 揺すっても起きる気配は無い。ここまでの深酒は、本当に珍しい。
 仕方なく、服も着替えさせないままベッドに寝かせる。
 酒臭い息を吐きながら気持ち良さそうに眠る兄さんは、僕が世話をしている時には決して見せないほどに安らいだ表情をしている。

 不意に、胸が苦しくなった。
 そして同時に、何故こんなに胸が苦しいのかと、不思議に思った。
 兄さんだって、もういい歳である。恋人くらいいてもおかしくないし、それこそ結婚の話が出ていてもいいくらいである。
 弟として、兄が綺麗な恋人と結ばれるのなら、それは祝福すべき事だ。
 なのに、どうして。

「……駄目だ」

 きっと、これは考えちゃ駄目なことだ。
 胸の痛みを誤魔化すように、冷めてしまったスープを少しだけ食べて、毛布に包まって床に転がる。
 一晩眠って明日になれば、きっと気分も変わるはず。
 根拠も無いそんな願望を胸に、じっと眠りに落ちるのを待つ。

 そうして、街中が眠りについてしまった頃。
 どれだけ望んでも眠気など欠片も得られずにいた僕は、喉の乾きに耐えかねて起き上がった。
 いつの間にか汗でじっとりと濡れていたシャツを脱ぎ捨て、コップに汲んだ水を一杯、二杯と飲む。それでも乾きは消えてくれない。
 少しだけ、体も熱い気がする。もしや、久々に病にやられてしまったのだろうか。兄さんに感染させてしまったら大変だ。どうにかしないと。
 感じていた胸の痛みとはまた違う、新たな不安が、焦りを生む。

「……あ」

 ふと、テーブルの上に置いていたネックレスが目に入った。
 月明かりを受けた姿は、昼間、広場で見た時よりも綺麗に見えた。その輝きが、少しだけ僕の心を慰めてくれる。
 想いを心に打ち付ける。もう少し早く、これを渡していれば。

「……馬鹿みたいだ」

 独りごちて、首を横に振る。
 渡していれば、なんだというんだ。
 別に、兄さんは僕のものじゃない。兄さんには兄さんの生活があって、情熱を向けるべきものもある。
 それを、独り占めしたいなんて。ちょっとでも思ってしまう時点で、おかしい。

「はぁ……」

 ため息と共に、水差しからコップに水を注いだ。
 早く寝よう。眠って、明日からもいつも通りに生活しよう。今夜の事は忘れよう。
 水と共に嫌な気持ちを飲み込んだ、刹那。

「……っ!?」

 突然、お腹の奥に焼けるような痛みが走った。
 足から力が抜け、その場に膝を付く。背を丸め、お腹を押さえ、歯を食いしばって、襲い来る何かに耐える。
 取り落としたコップが床で割れて、破片が散った。だけど、そんなものには構っていられない。
 握り締めたネックレスが、淡く光っている。だけど、お守りであるはずのそれも、この痛みからは助けてくれない。
 悪い食べ物が当たってお腹を壊したとか、そんなものじゃない。
 もっと根本的なところから違う、体の中にあるものが熱に溶かされて消えてしまうような感覚。
 その熱は、火が燃え広がるのと同じく、ゆっくりと体中へと広がる。
 熱くなった箇所から何かが燃え落ちて、灰となり、何かに作り変えられる。
 自分の身に何が起こっているのかなんて、分からない。
 くるしい。つらい。だけど、何よりも、熱い。
 熱い。熱い。熱い!熱い!

「――――」

 何か、言葉にもならない悲鳴を上げた気がした。
 何か、感じた事の無いものを感じた気がした。
 何か、大事なものが消えてしまった気がした。
 何か、僕には無かったはずのものが、生まれた気がした。

 いっぺんに色んなものが僕の体をめちゃくちゃにすると、熱は痺れに変わり、今度は痛みよりもずっと甘いものが体を満たした。
 快楽。きっと、そう呼ぶべきものが、僕の中をいっぱいにする。

 理由は変わったけれど、やはり体は動かせない。
 少し身動ぎするだけで、服に擦れた箇所に痺れるような感覚が走り、その度にお腹の奥が疼いてしまう。
 自分の体であるはずなのに、感じられるものは何一つ自分の知っているものと同じじゃない。

「なん……で……?」

 弱々しく、しかしどこか綺麗なその呟きは、自分の声には聞こえなかった。
 滲んだ涙でぼやけた視界を、月明かりを頼りに、部屋の隅にある鏡へと向ける。
 そこには、情けない泣き顔をした僕が映っている、はずだった。

「え……」

 背から生えた小さな翼。
 お尻から生えた、細い尻尾。
 確かに、僕の顔をしているのに、鏡の中のそれには、僕にはあるはずの無いものが付いている。
 小さい頃に読んだ本の挿絵にあった魔物。人を堕落させてしまう、悪魔。
 鏡の中にいるのは、まさにそんな悪魔にそっくりだった。

「やだ……やだよ……助けて……兄さん……」

 自分が化け物になってしまったなんて信じたくなくて、ひたすら否定する。
 そして縋るように、ベッドで眠っている兄さんへと手を伸ばす。
 心なしか小さくなってしまった手は、月明かりを受けて震えていた。

 白い肌に、細い指。
 見覚えの無い、女の子の手が、兄さんに助けを求めている。

 それ以上、そんなものを見ているのが耐えられなくて、目を閉じる。
 そして、目を閉じてしまったがために、僕は、意識を失った。
18/03/14 14:22更新 / みなと
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