連載小説
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其の二/アオオニの場合
アオオニの涼香がその男と出会ったのは、今から二週間前のことだった。涼香は基本的に仲間のオニ達と共に、町はずれにある洞窟の中で暮らしていた。彼女達は人間社会と積極的に関わるようなこともせず、その日のように町に繰り出すことは稀であった。
 そんな涼香が町に出てくるのは、もっぱら酒や肴の調達のためであった。もっとも、近くの山林や魔界に行けば果物や獣は選り取り見取りであったし、酒も自分達で作れたので、町に出ずとも酒やツマミは十分自給自足出来ていた。
 それでもオニ達が涼香を遣わし、町でそれらを調達させたのは、町で流通していた物の方が遥かに美味かったからだ。やはりその道のプロが作った物の方が、自分達で作った物より格段に美味い。そんなわけで、彼女達はより良い物を求めて、こうして涼香を買い出しに向かわせていたのである。
 なお決まって涼香に行かせていたのは、彼女がオニの中では一番理知的で、良識と冷静さを併せ持っていたからである。
 
「今日はちょっと、大物を持ってきちゃったかしら……?」

 町と関わりの薄い彼女達は、金銭などという物は当然持ち合わせていなかった。なので町で酒類を購入する際、オニ達は山で狩った獣を持ってきて、それと酒類を物々交換するという方式を取っていた。前時代的ではあるが、オニの持ってくる大型の獣は、捌けば百人程が無補給で一週間食いつなげるだけの食糧となる分量を備えていた。それ故、町の人々がオニからの施しを疎ましく思うことは無かった。
 
「ああ重い。一人で来るのは間違いだったかも……」
 
 しかしその代償として、ブツの持ち運びに非常に苦労するという点があった。この日もまた、涼香は獣の運搬作業に非常に難儀していた。七、八メートルはあろう巨大なトカゲ――少なくとも、外見はトカゲに見えた――を台車に括りつけ、それを独りで山から町まで引っ張って来たのである。いかな人間を凌駕する膂力を備えたアオオニであろうと、その道程は平坦なものでは無かった。
 昼すぎに出発して、今はもう午後四時を過ぎていた。いつもよりずっと遅い。明らかに仕入れてきたブツが大きすぎるのが原因であった。
 
「やっぱりこれ、大きすぎるわね。あいつら何人か連れて来て、一緒にひかせた方が良かったかしら?」

 額から汗を流しながら、大通りを進む涼香が淡々と愚痴をこぼす。汗で眼鏡がずり始めていたが、それを直す余裕も無い。脇に避けて彼女に道を譲る町人達も、ただその彼女の引きずってきた巨大な獣に驚くばかりで、手を貸そうとする者は一人もいなかった。
 誰もが無慈悲だったわけではない。ただアオオニの鬼気迫る表情に腰を抜かし、近づきたくても近づけなかったのだ。
 
「でも、もう少し……あと、ちょっと……!」

 しかし、贔屓にしている町一番の酒屋まで、あと少しの距離だった。ここで弱音を吐くわけにはいかない。涼香は汗だくの体に鞭うって、ラストスパートをかけた。
 しかしそこで、彼女を不運が襲った。涼香はこの時、いつものように素足で通りを歩いていた。そして彼女は、道の真ん中にぽつんと置かれていた小石の存在に気づかなかった。石の上部は鋭く尖っていた。
 涼香は気づかぬ内に、それを踏んづけてしまったのだ。石の先端が土踏まずに深々と突き刺さり、刹那、涼香は足に鋭い痛みが走るのを感じた。
 
「……!」

 脳味噌に電撃が走る。針の筵に正座したような痛みを感じた涼香は反射的に歩みを止め、石を踏んだ足を素早く持ち上げる。しかしそこで勢いよく足を持ち上げてしまったために、涼香の重心がもう片方の足に大きく傾く。
 
「あっ、きゃっ、ちょ……きゃあっ!」
 
 体勢を立て直す暇はなかった。涼香は片足立ちの姿勢になった次の瞬間、バランスを崩して地面に真横に倒れた。受け身を取ることも出来ず、一人のアオオニが派手な音を立てながら大地に倒れ伏したのであった。
 両脇にどいていた人間と魔物娘が、それを見て一斉にざわつく。中には心配になって、こちらに近づいてくる者もいた。
 
「あっ、痛ッ……!」

 そんな中で、涼香は顔をしかめた。この程度で怪我をするほどヤワではなかったが、この場合は精神的な面でのショックが大きかった。公衆の面前で醜態を晒してしまったことへの恥辱に、涼香は軽く打ちのめされたのだった。
 
「はあ……やっちゃった……」

 大きくため息を吐きながら、脚についた埃を手で払う。そして「次からは草鞋でも履いてこよう」などと恥じらいを誤魔化すように考え事をしながら立ち上がり、心配して近づいて来た人々に「もう大丈夫です」と言って追い返した。涼香の期待通り、寄ってきた人間達は少し不安げな表情を浮かべながら、すごすごと元いた場所に戻っていった。
 邪魔者はいなくなった。立ち上がった涼香は一つ咳払いをした後、何事もなかったように手綱を持ち直して台車を引っ張り始めた。
 
「すいません。大丈夫ですか?」

 しかしその時、近づいて来た面子の一人が、涼香に声をかけてきた。他の人達が離れていく中、その男だけが涼香から離れようとしなかった。
 その男こそ、それまで涼香達が草むらに隠れて夜這いをかけようと狙っていた男であった。中肉中背、普通の着流しを身に着けて普通の手提げ袋を手に持った、普通の男であった。
 
「さっき裸足で石を踏んだみたいなんですけど、怪我とかしてませんか?」

 その男は心から心配するように、優しい口調で涼香に話しかけてきた。涼香はそうやって自然な態度で声をかけてきた男に対し、最初呆気に取られた表情を見せた。初対面の人間からここまで親しく接されたのは初めてだったからだ。
 しかし涼香は慌てなかった。すぐに顔を引き締め、お気遣いありがとうございますと前置きした上で、愛想良く男に言い返した。
 
「もう全然平気です。このくらいで傷が出来る程、オニはひ弱じゃありませんから」
「本当に? 本当に大丈夫なんですか?」
「ええ、もうまったく平気です。これでも私、泣く子も黙るオニなんですからね」

 笑顔を浮かべて涼香が答える。愛想笑い半分、本気で心配してくれた男への嬉しさ半分が混じり合った、明るいが複雑な笑みだった。そしてそれを見た男は少し戸惑いを見せた後、すぐに「そうですか、わかりました」と理解を示した。
 
「じゃあ、早く運んじゃいましょう」

 そしてそう言った後、男はごく自然な動きで台車に繋がる手綱を手に取った。
 それを見た涼香はまたも呆気に取られた顔を浮かべた。
 
「あの、何をしてるんですか?」
「何って、これを引っ張ろうとしてるんですよ」
「何故?」
「一人より二人の方が早く済むでしょ? さ、早く済ませちゃいましょう」

 そう言って男が微笑む。茶化しているのではなく、本気で涼香を手伝うつもりだった。
 アオオニは呆然とした。赤の他人にここまで世話を焼かれるのは初めてだったからだ。そして周りの面々も、彼女と同じくらい呆気に取られた表情を見せた。野次馬の魔物娘の中には、何かを期待するかのように頬を赤らめる者までいた。
 
「それとも、俺がいない方が捗りますかね? 邪魔しちゃいましたか?」

 その中で、男が不安そうに涼香に声をかける。そんな男の気まずそうな顔を見た瞬間、涼香の心臓は小さく跳ねた。
 
「と、とんでもない! 手伝ってくださるのは、とても嬉しいです! はい!」

 そして反射的に、涼香の口から言葉が漏れた。彼女の体もまた無意識の内に動き、その首を激しく横に振っていた。もちろんそう言った直後に涼香は我に返ったが、そんな理性を取り戻した彼女は、咄嗟に口をついて出た言葉を否定しようとはしなかった。
 
「ですから、その……一緒に引っ張ってくれると、ありがたいです……」

 頬を赤く染めながら、涼香が上目遣いで男に頼み込む。男はすぐに首肯し、俺でよければ喜んでと、謙遜した姿勢を崩さずに答えた。
 その偉ぶらない謙虚な態度が、涼香の心により強い印象を刻み込んだ。荒くれ者ばかりのオニ達と長く共同生活をしてきた彼女にとって、その男の一歩踏み込んだ心遣いは、まさに五臓六腑に染み渡るものがあった。
 なんて優しい人なんだろう。涼香の心がゆっくりと傾いていく。そのアオオニはだらしなく口を開け、手綱を持つことも忘れて、男の顔をじいっと見つめていった。
 
「じゃあ行きましょうか。これはどこに運べばいいんですか?」

 そんな涼香に、男が問いかける。問われた涼香もすぐに我に返り、いつもの理知的な姿で彼に返答した。
 
「もうすぐそこです。あと一息ってところですね」
「そうなんですか? じゃあそこまで一緒に引っ張っていきましょう」
「はい!」

 男からの問いかけに、涼香が心から嬉しそうな声をあげる。それから二人は二人三脚で台車を引っ張り、目的の酒屋に到着したのであった。
 
 
 
 
 その酒屋の主は、いつものようにアオオニが持ってきた獣がいつも以上に巨大な物であったことに大層腰を抜かした。そして店主は「これは下手したら売り物全部あげないと釣り合わないんじゃないか」と、そのオニと男の引っ張ってきたデカブツを見ながら不安そうに呟いた。
 しかしそのアオオニは謙虚だった。狼狽える主人に対して「いつもの量で構いませんよ」と気さくに返し、そして驚く主人に向かって言葉を続けた。
 
「今回のこれは、いつもお世話になっているあなたへの、私共の感謝の気持ちです。何も言わずに受け取ってもらえないでしょうか?」
「いや、それ明らかに不公平なんだが、本当にいいのか? こっちの得の方が大きすぎるだろ。もちろんそっちがそれでいいなら、俺も別に問題は無いんだけど」
「もちろん構いませんよ。そもそもこんな大きな物を持ってきたのも、元はと言えば、私達がちょっと張り切ってしまっただけなんですから。見返りを求めての行動では決してないんです」
「そうかい? そこまで言うならもらっちゃうけど……」
「ええ。是非とも」

 涼香と店主の交渉は、すんなりと解決した。店主はいつものように酒樽五つと適度な肴をアオオニに受け渡し、アオオニはその見返りに持ってきたトカゲっぽいそれを店主に贈った。
 
「ありがとうございました。その、助かりました」

 そして空になった台車に酒樽と食べ物を積み終えた後、涼香が青年に向かって頭を下げた。青年は「大したことはしてませんよ」と謙遜したが、それがまた涼香の琴線に触れた。
 
「それにしても、何故積極的に助けようと? オニが怖くないのですか?」

 好奇心のままに涼香が尋ねる。人間がそうであるように、魔物にも親しみやすいものとそうでないものがいる。それに当てはめると、オニは非常に親近感を得られにくい種族に属していた。短気で気性が荒く、大酒のみな上にジャイアニズムの権化でもある。出来ることならお近づきにはなりたくない連中であった。涼香もそれを自覚していたので、人から避けられることにもさして抵抗はなかった。
 しかしこの男は、自分からぐいぐいと涼香に干渉してきた。下心無しで、純粋に手助けがしたいという気持ちから、涼香に近づいてきた。それが彼女にはとても新鮮で、眩しく見えた。
 
「不用意にオニに近づいたら、ばっくり食べられてしまいますよ。それでも構わないというのですか?」
「いや、それは……」

 静かに、しかし脅すように涼香が問いかける。それを聞いた男は困ったように苦笑を漏らし、それから涼香をまっすぐ見つめてそれに答えた。
 
「困ってるあなたを放っておけなかったんです。本当にそれだけですよ」
「……それだけ?」
「はい。それに俺も職業柄、いろんな女の人や魔物娘と顔を合わせてますからね。オニくらいで怖がったりはしませんよ」

 俺はもっと怖い人とも会ってますから。男はそう言ってにこやかに笑った。それを見た涼香は、自分の心臓が再び跳ねるのを自覚した。
 もっとこの人を知りたい。涼香は初めて赤の他人に興味を抱いた。好意から来る興味であった。そしてその好奇心のまま、涼香は彼に声をかけた。
 
「あの、もしよろしかったら、その、……この後少し、どこかでお話ししませんか?」

 この人のことが知りたい。この人に近づきたい。この人と一緒にいたい。
 その感情の正体が何なのかわからないまま、涼香は男と親しくなろうと躍起になった。しかし男はそれを聞いて、頭を掻きながら困り顔を浮かべた。
 
「ごめんなさい。これから仕事あるんですよ」
「えっ? 今から?」

 空では既に陽が傾きかけていた。涼香は不思議そうに男を見た。
 
「夜のお仕事なのですか?」
「そんな感じです。俺、いつも夜に仕事してるんですよ」
「なるほど」

 涼香はそれを素直に信じた。彼は嘘をつく人間には見えなかったからだ。しかしそこから先に踏み込むことは、その時の涼香には出来なかった。酒が入っていない時の彼女は、その「仕事」の詳細について正面きって聞き出せるほどの図々しさは持ち合わせていなかったのだ。
 
「……それじゃあ、今日はここでお別れですね」

 涼香が口惜しそうに告げる。男も頷き、「じゃあ俺はこれで」と言って涼香から離れていく。
 
「今日は無理ですけど、もしまた会えたら、その時は改めて色々お話ししましょう」
「そ、そうですね。その時にまた」
 
 甲斐性なしな自分が恨めしい。しかし去っていく男を無理矢理引き留めるだけの図々しさは、残念ながら涼香は持ち合わせていなかった。
 彼女は良くも悪くも人が良かった。仲間のアカオニとは正反対であった。
 
「それじゃ、さよなら!」

 だから涼香は走り去る男の後姿を、ただ呆然と見送るしか出来なかった。この時の涼香は口を力なく開けてその場に立ち尽くし、頬を赤く染めていた。
 それが決して夕陽のせいではないのは、誰の目にも明らかだった。
 
 
 
 
「それがあの人との馴れ初めでした。でもそうやって別れた後も、私の頭からはあの人の顔が消えなかったんです」

 そこまで話してから、涼香がしみじみと言葉を放つ。楓とクノイチは、それに対して揃って首を縦に振った。
 
「わかるにゃ。そのもどかしい感覚はよくわかるにゃ」
「忘れたくとも忘れられない。まさに恋煩いだな」
「その通りです。私は自分でも知らないうちに、あの人に恋をしていたんです」

 おそらくは一目惚れだろう。涼香は冷静に自分の心を分析した。しかし分析は出来ても、心は全く収まらなかった。むしろそれを自覚したことで、余計に男への恋慕を募らせていった。
 
「自分が恋をしていると気づいてからは、何も出来ませんでした。いつもいつも頭の中にあの人がいて、それ以外に頭が回らなくなったんです。お酒も全然味がしなくなって、酔う事すらできなくなった。あの人で頭がいっぱいになって、心が爆発しそうだった」
「そして居ても立っても居られなくなって、今日こうして夜這いに来たということか」

 クノイチの言葉に、涼香が無言で頷く。
 
「……何度も自分で自分を慰めました。でもどれだけいじっても、心の猛りが収まることはなかったんです。もうあの人の温もりが無いと、満足できない体になってしまった……まさか私がこんな簡単に恋に落ちるとは思いもしませんでした」
「それは普通のことであろう。魔物娘たるもの、恋をして当然だ。それに本当の恋というのは、自慰如きで鎮まるほど穏やかな感情でもない。慰みに満足出来なくなるのも当たり前のことだ」
「なんか悟ったような言い方にゃね。心当たりあるのかにゃ?」

 達観した物言いをしてみせるクノイチに、楓がそれとなく問いかける。クノイチは一つ頷き、自信満々に言ってのけた。
 
「私がそうだからな。彼と出会って以来、どれだけ自慰をしても物足りなさを感じるようになってしまった。訓練にも身が入らず、憂鬱な毎日が続いたものだ」
「それ自慢げにいうことじゃ無いにゃ」
「何がいけない? 自分の恋心を露わにすることは、別におかしなことでは無かろう?」

 クノイチはどこまでも自信たっぷりだった。楓はそれ以上突っ込むことを諦め、その横で涼香がクノイチに尋ねた。
 
「もしよろしければ、あなたの話も聞かせていただけないでしょうか? 私としてはとても気になります」
「それ、私も気になるにゃ。クノイチはどうやってあいつと知り合ったんだにゃ?」
「我か? そうだな……確かに二人から話を聞いて、我だけ何も喋らないというのも不公平であるな」

 クノイチはそう納得し、二人からの催促に応じた。三人の中で最も背の高かった彼女は、すらりと伸びた脚の片方に重心を載せ、優雅に腕を組みながら、ゆっくりと口を開いた。
 
「我が彼と出会ったのは、今から一週間ほど前のことだ」
「あら、意外と最近なんですね」
「一番短いにゃ」
「確かに短いな。だが日数は問題ではない。肝心なのは、その一週間で我が彼を好いてしまったということだ」

 そう言ってから、クノイチは自分の恋路を淡々と語り始めた。
16/10/17 22:47更新 / 黒尻尾
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