連載小説
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(75)ヴァンパイア
(1)邂逅
旅人が一人町を離れ、小高い丘を登っていく。
鬱蒼と生い茂る木々の合間は暗く、夕方とはいえまだ明るい時刻だというのに、夜のようであった。
木々の間に刻まれた道はか細く、気をつけなければ森に迷い込んでしまうだろう。
だが、旅人にとっては、森に迷い込んだところで何の問題もなかった。
目指す先は丘の頂にある屋敷であり、道を外れても斜面を登ればたどり着けるからだ。
帽子を目深にかぶり、マントを羽織った旅人は、一歩一歩着実に足を進めていった。
やがて、木々の合間を抜け、切り開かれた丘の頂にたどり着く。
丘の頂上には屋敷が旅人を待ちかまえており、夕日によって赤く染め上げられていた。
まるで、屋敷が血を被ったようだった。
『先代領主様にはよくしていただきましたが・・・』
丘の麓の町で、人々から聞いた話を思い返しながら、旅人は顔を上げた。
帽子の下にあったのは、短い金髪と女の整った顔だった。
その表情には、懐かしさと険しさが同居している。
彼女はしばし屋敷を見上げると、足を進めた。
やがて屋敷の玄関に至り、彼女の握り拳が扉を叩いた。板を打つ音が、屋敷の内外に響く。
「はい・・・」
しばしの間をおいて、扉が薄く開き、男が一人顔を覗かせた。
「突然お邪魔してすまない。先代領主に金を借りていた者だが、返済にきたんだ」
彼女はそう出任せを口にした。だが、金を借りにきたならまだしも、返しにきたという者を無碍に追い返す輩はいないだろう。
「・・・・・・・・・かしこまりました、どうぞ」
男は彼女の姿を上から下まで確認すると、扉を大きく開いて招いた。
彼女は、屋敷の中に足を踏み入れた。
最初に女を迎えたのは、埃の香りだった。
それもそのはず、掃除が行き届いていないのか、エントランスホールの家具には布がかけられ、床には薄く埃が積もっていた。
「こちらへどうぞ」
広間を抜け、廊下を進み、客間に通される。
男は、並べられていたソファの布をとりのけると、彼女に座るよう言った。
布のおかげで埃はないものの、やはりあまり掃除の行き届いていない部屋特有の臭いがする。
「ただいま主人を呼んで参ります。しばしお待ちください」
「分かった」
彼女が頷くと、男は客間を出ていった。
女は目を閉ざし、廊下を男の足音が離れていくのを聞くと、立ち上がり窓に向かった。
窓に下ろされている分厚いカーテンをめくるが、光は射し込まない。窓の外から板が打ち付けられているからだ。
「やっぱり、ね・・・」
木々の合間を抜けて見た屋敷の様子と、客間の様子。その二つから、女はこの屋敷の主の正体に予想がついた。
「お待たせしました」
窓のそばからソファに戻り、しばし待っていると、男が扉を開いた。
彼は盆を手にしており、その上にはティーセットとポットが乗っている。
そして男の背後に、もう一人分の気配があった。
「主人をお連れしました」
男に続いて部屋に入ってきたのは、黒いドレスをまとった金髪の美女だった。
背中の半ばに届くほどのさらさらとした金の長髪に、白くすべすべした肌、赤い唇は見るものの背筋を震え上がらせるような、単純な美貌とは異なる何かをその内に抱えていた。
ドレスに包まれた体に目を向ければ、最初に目に飛び込むのは胸元を押し上げる大きな膨らみだろう。そしてきゅっと引き締まった腹に続き、大きく膨れたスカートが彼女の腰から下を隠している。
スカートの膨らみと相まって、彼女の見事な体型が強調されていた。
だが旅人の顔を見ると同時に、屋敷の主人の表情に険しい者が宿った。
「ヴァニ・・・」
「久しぶり、姉さん」
屋敷の主人が旅人の名を口にすると同時に、旅人はそう応えた。
「姉さん?」
ティーカップをテーブルに並べ、茶を注いでいた男が、旅人の言葉を繰り返した。
「ああ、こいつは私の双子の妹だ・・・」
「道理でどこか似た雰囲気だったのですね」
納得がいったように、男が頷く。
「でもお客様は、夕日の中を堂々と歩いてらっしゃいましたよ。ご主人と違って」
「それはそうだ、この女・・・」
「私はダンピールだから、ヴァンパイアの姉さんと違って、日の下も歩けるのよ」
女主人が言うよりも先に、旅人はそう自身と姉について説明した。
「ヴァンパイアとダンピールの双子?そんなことが・・・」
「あり得ない、と言いたいだろうが事実だ。私とこいつが二卵性の双子で、父君が母君と交わっている最中にインキュバス化したから・・・」
「ご主人、お客様の前です」
「うむ」
男の言葉に、ヴァンパイアは口をつぐんだ。
「それでヴァニ、用件は何だ?先代領主への返済にきたと聞いたが・・・」
「そのままの意味だよ。姉さんを一人残して、家を飛び出したおわびをしにきたんだ」
「何の話だ?」
妹の話の意図が見えない、といった様子で、女主人は首を傾げた。
「そのままの意味だよ。母さんは父さんと愛し合っていたというのに、姉さんはまた人間を見下すようなまねをして、こうして彼を下僕扱いしているじゃないか」
茶を注ぎ終え、主人の斜め後ろに立つ男を示しながらのヴァニの言葉に、ヴァンパイアと男はきょとんとした表情を浮かべていた。
「・・・何の話だ?」
首をひねり、男を見上げながら女主人がそう繰り返す。
「・・・ええと、ヴァニ様はどうやら勘違いなさっているようですね・・・」
主人の問いかけと、ダンピールの言葉に応えるように、男が口を開いた。
「俺は、ご主人にはよくしてもらっていますし・・・」
「そうやって姉さんをかばわなくていいんだ。どうせ私が来るまで、馬車馬のようにこき使われていたのだろう」
「確かに馬車馬のように働いてはいましたが、それは俺自身の意志によるもので・・・」
「なるほど・・・客がきたらそう言えと、命じられているんだな・・・ひどい主人だな、姉さんは」
「いや、私そんなこと一度も・・・」
「ご主人」
ダンピールの言葉に、おろおろと弁解しようとした彼女を、男がとどめた。
「妹君の誤解を解くため、よそ行き&お客様対応はここで終わりにしましょう」
「で、でも・・・」
「妹君とはいえ、相手はダンピールです。誤解をそのままにしていてはひどいことに・・・」
「し、仕方ないな・・・よし、いつもの通りにしろ!」
ヴァンパイアは、意を決したように男にそう命じた。
「かしこまりました」
男は主人の命令に一礼すると、ダンピールに目を向けつつ、恭しく口を開いた。
「ところでヴァニ様・・・つかぬことを伺いますが、その旅装束はきつくありませんか?」
「ん?まあ、きつくはないが・・・何の話だ?」
訳の分からないやりとりを繰り広げたと思ったら、意図の掴めない問いかけをされ、ヴァニは首を傾げた。
「なるほど・・・ご主人、失礼」
男がすっと、ソファに腰を下ろすヴァンパイアの腹に手を伸ばした。
軽く握った拳が、彼女のドレスに覆われた引き締まった腹を打つ。
すると、コンコンという硬い音が室内に響いた。
「このように、ご主人はコルセットを付けております。姉妹だというのに、ヴァニ様とは大違いですねえ。いったいなにが違うんでしょう?」
「う、うぐぐ・・・」
男のノックと続く言葉に、ヴァンパイアが悔しげに顔を歪める。
「やはり妹君は、誰かさんと違って運動しているから、ああいう風に引き締まっているんでしょうねえ」
「うぐ、ぐぬ・・・」
「全く、誇り高きヴァンパイアの一族の末裔が、コルセットの下にだらしない肉を詰め込んでいるだなんて・・・そんなご主人の下で働きたがる物好きが俺以外にいるんでしょうかねえ・・・」
「うぐ、ぐぬぬぬ・・・ぐ・・・も、もういいだろう!?ヴァニ、わかったな!?こいつは私の下僕などではなく、こうして私を虐める・・・そう、鬼!吸血を必要としない鬼なのだ!」
顔を赤らめ、どこかあわてた口調でヴァンパイアは妹に向け言葉を紡いだ。
「だから、ダンピールのお前が倒すべきは私ではなく、この鬼を・・・」
「俺を倒してしまったら、誰がご主人の世話をするんですか」
「うぐ、ぐぬぬぬぅ・・・!」
男の言葉に、女主人は呻きながら口をつぐんだ。
「とまあ、このように俺とご主人は良好な関係を築いておりますので、ヴァンパイアハンターとしての手助けは不要なわけです。おわかりいただけましたか、ヴァニ様」
「ああ・・・よくわかったよ・・・」
目の前でのやりとりに顔をしかめながら、ヴァニはそう口にした。
この男は邪悪で、姉と男のやりとりは合成甘味料のように身体に悪い。
そのことがよくわかった。
「お二人には、私の手助けは不要なようだな・・・」
「そんな・・・ヴァニ!姉と妹でしょ!?」
「いやあ、でも何というか・・・姉さんと召使いさん、仲良さそうだし、やることないなーって」
「ご主人、妹君がああ言っているんだ、潔く諦めろ」
「そんな・・・」
ヴァンパイアの表情に、絶望が浮かぶ。だが、彼女はふと何かを思いついたように、目を見開いた。
「そうよヴァニ!しばらく泊まっていきなさい!久々の家だし、旅の疲れもたまっているでしょ!?」
「いや、麓の町で宿を取るから、大丈夫だよ」
「うちは無料よ無料!あなたの部屋もそのままだし、三食付き!」
無料、三食付き。その二つの言葉は、ヴァニの心を揺らした。
「でも、召使いさんが・・・」
「俺は構いません。ご姉妹で積もる話もあるでしょうから、どうぞごゆっくり」
「え?」
男の快諾に、ヴァニはもちろんヴァンパイアさえもが目を丸めた。
「それに、ヴァニ様がいらっしゃった方が、ご主人の生活態度の改善にもつながりますし」
その一言で、女主人のただでさえ白い顔から、血の気が引いた。
「さて、ヴァニ様のお部屋の準備と、食事の用意をしませんと・・・」
男は女主人の背後を離れ、扉に向かっていった。
「それではヴァニ様、ペテラ様。食事の準備ができたら呼びますので、ごゆっくり」
客間を出ていく前に、男はそう二人に告げてから、扉を閉めた。
「ヴァニ・・・」
「なに、ペテラ姉さん・・・」
幽鬼のささやきのごときか細い姉の呼びかけに、ヴァニは久々に姉の名を呼びながら答えた。
「やっぱり、麓の町に泊まってくれないかしら・・・?」
「もう遅いし、泊めてもらうことにするよ」
姉の顔が今にも泣きそうなほどに歪むが、ヴァニは無視した。
そう、しばらくこの屋敷で旅の疲れを癒すのだ。
二人のやりとりを我慢するのは、その間の宿代だと思おう。
ヴァニはこのとき、そう考えていた。

(2)おはようございます
目を覚ますと、いくらか埃の臭いがした。
無理もない、ヴァニが横たわっているのは、数年間使っていなかった彼女のベッドだからだ。
「あぁぁ・・・うぁあ・・・」
ベッドの上に身を起こし、あくびをしながら伸びをする。
ふかふかの、しかも自分のベッドでぐっすりと眠ったためか、疲れはいっさい残っておらず、むしろ体の調子がよくなったように感じる。
ヴァニはベッドを出ると、寝間着から普段着に着替え、部屋を出た。
廊下には埃が少し積もっており、彼女は埃をまき上げぬよう静かに歩いた。
この屋敷には姉のペテラとその召使いの男の二人しか住んでおらず、月に一度の大掃除以外では最低限必要な部屋しか掃除を行っていないと説明された。
日常的に掃除されているのは、ペテラの寝室に居間、キッチン、風呂場、男の部屋、そして各部屋を結ぶ廊下だ。
召使いの男は、昨夜一通りそれらの部屋を案内した後、明日からはヴァニの部屋も掃除すると約束した。
このように埃に気を付けて足を進めるのは、今日までだ。
風呂場で身だしなみを整えた後、彼女は台所に向かった。
朝食の準備をしているのか、いい香りがする。
「おはよう」
「おはようございます、ヴァニ様」
挨拶をしながら台所にはいると、調理台に向かっていた男が振り向いた。
キッチンは広く、中央に大きなテーブルをおいても、壁沿いの調理台が楽々使えるほどであった。事実、キッチンの中央にはテーブルが据えてあり、すでに二人分の朝食が並べられていた。
パンと湯気を立てる目玉焼きに、具が少な目のコンソメスープと生野菜が少々。
「美味しそうだね」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。キッチンの一角で申し訳ありませんが」
「いいよいいよ。こっちの方が片づけも楽だし、昨日の食堂よりずっと気軽に話せる」
ヴァニはテーブルに近づくと、どの席に座ろうか逡巡した。
「ヴァニ様、どうぞ」
「ありがと」
彼女は、男が引いてくれたイスに腰を下ろした。
「お飲物は?茶と水しかありませんが」
「じゃあ、お茶をお願いしようかな」
「かしこまりました」
男は調理台に向かうと、手慣れた様子でティーポットに茶葉を入れ、湯を注ぎ始めた。
「そう言えば、名前聞いてなかったね」
夕食の合間も、食堂で食事をするヴァニとペテラのために、キッチンとの間を往復するばかりで話す機会がなかったことを、ヴァニは思い出した
「クリス・トファーリと言います。クリスとお呼びください」
「わかった、クリスだね」
男の名を脳裏で繰り返し、彼女は覚えた。
「慣れてるねえ」
「長いことやってますから」
「一人だろ?大変だねえ」
「慣れましたよ。それより、お先に召し上がっていてください」
苦笑をはらんだクリスの返答を聞きながら、ヴァニはフォークを手に取った。
「いただきます」
彼女はサラダにフォークを差し入れると、口に刻まれた野菜を運んだ。
サラダには程良く酸味の利いたドレッシングがかけてあり、食欲を刺激した。
「うん、おいしい・・・」
「ありがとうございます。あと、お茶の用意ができました」
ティーポットとカップを手に、クリスがヴァニの側に歩み寄った。
彼はカップを彼女の席におくと、ポットを傾けて茶を注いだ。
「お待たせしました、どうぞ」
「ありがとう」
ヴァニはカップをとると、口を付けた。
口中から鼻へ、茶の香りが心地よく抜けていく。
「うん・・・おいしい・・・」
「お気に召されたようで、なによりです」
感想を口にした後、再びカップに唇を寄せるヴァニに、男はニコリと微笑んだ。
「それでは、少々失礼します」
「あれ?朝食は?」
「俺はもう済ませました」
彼の返答に、ヴァニは思わずもう一つの朝食に目を向けた。
「そちらはご主人の分です。ただいま起こして参りますので」
「起こすって・・・姉さん、夜型生活だったんじゃ・・・」
「確かにヴァンパイアは太陽の下をあまり歩けませんが、だからといって昼夜逆転していいわけではありません。しかるべき時間に起きて生活すれば、自然と健康に日々を送れるのです」
「ほう・・・」
「では、しばし失礼します」
一礼の後ヴァニを残して、クリスはキッチンを出ていった。
「・・・・・・」
カップを置き、パンに手を伸ばしながらヴァニは、耳に意識を集中させた。
人のそれより遙かに鋭い聴覚が、クリスの足音を捉える。
彼は屋敷の廊下を進むと、不意に足を止めた。そして扉をたたく音が、響く。
『ご主人、おはようございます』
『うーん・・・もう、少し・・・』
『すでに朝食の準備はできています。スープが冷めますから、早く』
『うぅぅん・・・ん・・・』
『ヴァニ様はすでに起床されて、お食事をなさっていらっしゃいますよ。姉が寝坊するとか、妹君に対して示しが着かないのでは?』
『うぅ・・・うぐ・・・ん・・・』
『起きられましたね。あと、寝間着のまま出てきてはだめですよ。ヴァニ様がいらっしゃるんですから、身だしなみを整えてくださいよ』
『待ってクリス・・・着替えるから、手伝って・・・』
『・・・ご主人、昨日までは一人で着替えてましたよね。アレですか、妹君がこられたから、赤ちゃん帰りして俺の気を引こうとしてるんですか、子供みたいに』
『ち、違う!コルセットだ。コルセットをつけるのを手伝ってほしいだけなんだ・・・』
『何で朝からコルセットを・・・』
『親しき仲にも礼儀ありだ。妹とはいえ、ヴァニにこの身体を見せるわけには』
『なるほど。だらしない生活を悟られて、バカにされると思ってらっしゃるんですね』
『うぐ、ぐぬ・・・』
『日頃の不摂生が身体に出ているのを誤魔化すため、と認めるのならば、コルセットの装着を手伝いましょう』
『み、認める・・・』
『夜中にキッチンに入って小腹を満たそうとしない、と約束しますか?』
『うぐっ、ぐ・・・ぐぬぬ・・・うぅ、約束する・・・』
『かしこまりました。コルセットの装着を手伝います』
扉の開閉する音が挟まれ、クリスがペテラの部屋に入ったことがわかる。
『さあ、こっちに立ってください。そして、肉を上下に寄せて』
『うぐ、ぐぬぬ・・・』
『そうそう・・・この位置でいいですか?締めますよ』
『うむ、頼む・・・』
『せーの、よいしょお!』
『うぐぅ・・・!』
『よいしょぉ!』
『ぐふ、うぐ・・・!』
『よい、しょお!っと・・・』
『うぐ・・・ぐ、ふ・・・うぅ・・・』
『はい、こんなものでしょう。完璧プロポーションに見えますよ』
『ほ、本当か!』
『とは言っても、俺の疲労とミシミシ音を立てるコルセットの犠牲の上の、完璧プロポーションですけどね』
『ぐぬぬ・・・』
『じゃあ後は一人で着替えられますね。コルセットなしでドレスが着られるようになるといいですねえ。いつまでも、ご主人のだらしなボディが好きな召使いが手伝ってくれるとは限りませんから』
『うぐぅぅ・・・!』
『それでは失礼します』
呻くペテラの声を取り残し、再び扉が開閉する音が響いた。
そして廊下を足音が進み、クリスがキッチンに入る。
「お待たせしました。もうすぐご主人は降りてこられるでしょう」
「そうか・・・」
ヴァニの口から漏れた言葉に宿る苦い感情に、彼は首を傾げた。
「いかがされました?何か、料理に混ざってましたか?」
「いや、料理は美味しいよ・・・料理はね・・・」
ヴァニはお茶のカップを手に取ると、唇を縁に当て、茶を一口吸った。
仄かな甘みはいつの間にかそれとわかるほど甘みを増していた。
だが、その一方でヴァニの顔は苦々しいものだった。



(3)ダイエット作戦
朝、まだ薄暗い時刻にヴァニは屋敷の外にいた。
朝の冷気から身体を守りつつも、動きやすい運動着を身につけており、屈伸や足の腱をのばして、身体をほぐしていた。
これから、屋敷の近くを走ろうとしているのだ。
屋敷に戻って三日目になるが、屋敷でじっとしていると身体がなまる。そこで、こうして朝の涼しい時間に走り込みを行い、鍛えるほどではないにしても、身体を維持しようというのだ。
昨日の朝から始めた日課だったが、ヴァニはなかなか出発しない。
それは、人を待っているためだった。
「ヴァニ様!お待たせしました!」
響くクリスの声に顔を向ければ、運動着を身にまとった彼と、数歩遅れて着いてくるペテラが、ヴァニの方に駆け足で向かってくるのが見えた。
「お待たせしました」
「いや、それほど待ってないよ。柔軟体操をしていたからね」
ぜーはーぜーはー、と苦しげに繰り返されるペテラの吐息を背景に、ヴァニとクリスは言葉を交わした。
「すみません、せっかくご主人の運動につきあってもらうというのに、待たせてしまって」
「いいよいいよ。むしろ今日は、最初の最初で柔軟体操を教えるだけのつもりだったから」
「柔軟体操?走り込みでは?」
「姉さんみたいに普段運動していない人が、急に激しい運動をすると筋肉を痛めたりするんだ。だから、柔軟体操をしっかりやって、全身の筋肉を解さないと危険なんだよ」
「なるほど」
男は納得したように頷いた。
「ほら、姉さんは屋敷から少し駆け足しただけだというのに、こんなにへとへとになってるじゃないか」
ヴァニが、膝に手を突き、苦しげに顔をしかめて呼吸を重ねるペテラを示しながら、続けた。
「こんな人が急に走ったら、怪我してしまうからね」
「確かに。この程度の距離で息が上がってしまうようでは、走り込みは危険ですねえ」
「日頃の運動不足が目に見えるようだよ・・・にしては、少々疲れすぎじゃないかな、姉さん」
ヴァニがそう呼びかけるが、ペテラは荒く息をつくばかりで、返答を返す余裕はなかった。
「・・・・・・失礼します」
クリスがすっとペテラの側に歩み寄り、彼女の腹部に手を伸ばした。
一瞬ペテラは召使いの手に反応しようとしたが、避けることも身をよじることもできず、彼の手を腹部に触れさせてしまった。
軽く握られたクリスの拳が、彼女の腹を打つ。すると、ドアを叩くような音が響いた。
「ご主人、これから運動だというのにコルセット装着とは、どういうつもりでしょうか・・・?」
びくり、とペテラが彼の言葉に身体を震わせる。
「だ、だって・・・妹相手とはいえ・・・親しき仲にも・・・礼儀あり・・・って・・・」
「もうご主人の身体のことは、すでにヴァニ様もご存じですから、そうやって取り繕ってももう遅いんですよ。それに・・・」
クリスはペテラの、胸と腹の間あたりのわき腹を、がっしと両手でつかんだ。
「ひゃあいっ!?」
「ご自分でコルセットつけられたんでしょう?締め付けが緩いですよ」
「うぐ、うぐぐぅ・・・」
「ほら、ここの肉もかなりあまり気味で・・・コルセットつけて、この肉を強調しようとしてたんですか?それともわざと呼吸を制限して、運動効果を高めようと?」
「そ、そうだ!自らを窮地に追い込むことで、走り込みの効果を最大限に高めようと・・・」
「ただでさえ妹君より重りが付いているんですから、コルセットは必要ないですよ」
「うぐー!」
「それより、運動のじゃまになりますから、とっととコルセットはずしてください。俺も手伝いますから」
「し、仕方ない・・・」
「仕方ないのはこっちです・・・。全く、もうご主人のお肉とお別れになるかと思ったら、いきなりつまづくだなんて・・・というわけでヴァニ様、ご主人のコルセットをはずしてきますので、今しばらく・・・って、あれ?」
男は辺りを見回し、ようやくヴァニがいなくなっていることに気が付いた。
ヴァニはすでに、走り込みに出かけていたのだった。



(4)強制捜査
居間で新聞を広げながら、ヴァニはぼんやりと時間を過ごしていた。
朝、屋敷近辺の走り込みついでに、丘の麓の町まで降りて買ってきた新聞だ。
姉と召使いへの走り込み指導を初日でやめてから、すでに数日は経過している。
急に始めた日課は、屋敷での生活と共に、もうヴァニの身体に染み着きつつあった。
やはり、幼い頃をこの屋敷で暮らしたからだろうか。
ぱらり、と音を立てながら彼女は新聞のページをめくった。
すると、彼女の右手にある扉が開き、血相を変えたペテラが飛び込んできた。
「あ、ヴァニ!」
彼女は慌ただしく妹に駆け寄ると、早口で続けた。
「私は書庫の方にいったということにしておいて!お願い!」
「はぁ・・・?」
いまいち事態をつかめない様子のヴァニをそのままに、ペテラは入ってきたものとは別の扉から、居間を出ていった。
書庫に続く扉はそちらではないし、耳を澄ませば二階へ上がっていく足音が聞こえた。
「・・・?」
なにが起こったのか推測しながら、ヴァニが扉を見ていると、再び彼女の右手の扉が開いた。
「・・・む、ヴァニ様」
部屋に入ってきたのは、クリスだった。
「ヴァニ様、ご主人を見かけませんでしたか?」
「ああ、姉さんなら、書庫の方に行った、という伝言を残して二階に行ったよ」
「二階ですか・・・」
姉の言葉を伝えると、彼はヴァニの示した扉を見た。
「ありがとうございます」
「ところで、姉さんはなにをやったの?」
興味本位で、ヴァニはそうクリスに問いかけた。
「はい、実はつい先ほど、ご主人の寝室を掃除しましたところ、菓子の包み紙が出てきまして・・・」
「小腹が空いた時用だね。姉さんもいい歳して・・・」
子供の頃から寝室にお菓子を隠し、こっそりと食べていたときの頃を思い返し、彼女はクスクスと笑った。
「問題は、その量が少々多すぎたことです」
「多すぎる?」
「乗馬ブーツがパンパンになるほど詰め込まれていました。探せばもっと出るかもしれません」
「そんなに」
「というわけで、俺はこれからご主人に一言もの申さねばなりませんので、失礼します」
「あー、うん、がんばって・・・」
彼は恭しく一礼すると、ペテラが出ていった扉をくぐった。
そして静かに、階段を上っていく音が響く。
「・・・・・・」
ヴァニは手に新聞こそ握っているものの、すでに両目は記事から天井に向けられていた。
クリスの足音が廊下を進み、不意に止まった。
男の歩幅と歩数、そしてヴァニの記憶によれば、そこは来客用の寝室だったはずだ。
かちゃり、とドアの開く音が響き、直後ヴァニの両耳を轟音が貫いた。
「ぎゃぁぁあああああ!」
姉の、絹を引き裂きつつも鐘を鐘楼から地面に叩きつけたような悲鳴に、ヴァニは両耳を押さえながら耳に向けていた意識をそらした。
悲鳴は続いているが、鼓膜が破れるほどの大きさではない。
盗み聞きしていた罰だというのだろうか。
「あー、びっくりした・・・イテテ・・・」
少しだけ耳鳴りのする耳をさすっていると、微かに二人分の声が天井から響いた。
なにやら言い争いをしているようにも聞こえるが、ヴァニはもう耳に意識を向けなかった。
また悲鳴を上げられては、たまらないからだ。
二つの声は論争を続けながら、扉を開き、廊下を進んできた。
そして階段を下りてくるあたりで、人並みに落としたヴァニの耳でも聞き取れるようになった。
『だから、あれは非常食で・・・』
『非常食は日持ちのする食料のことで、お菓子のことではありません』
『でも、夜中におなかが空いたらどうするの!?』
『立派な貴族どころか、普通の人ですら朝まで我慢します』
『そんな・・・』
『それより、あの菓子をどこで手に入れてきたか、白状してもらいましょうか』
『言わない!』
『ならば、体に聞くとしましょう』
『ちょ、ちょっとあなた、どこを触って・・・ぎゃあああ!』
姉の悲鳴と同時に、扉が開き、ペテラとクリスの二人が居間に入ってきた。
クリスはヴァニの腹の上、胸部の少し下のあたりに両手を当てておりペテラはその手のひらから逃れようともがいていた。
「ほら、わかりますか!?ご主人が夜中に食べた菓子が、ここに付いているのですよ」
「ぎゃああ!やめて、触らないで!」
乳房でも触るような手つきで、ヴァニの指がコルセットの縁からあふれる肉を掴み、ペテラが声を上げる。
「俺は事実を言っているまでです。乗馬ブーツにぎっしり詰まった菓子の包み紙・・・あれ全部がご主人の体に」
「いやぁぁぁああああ!」
「ヴァンパイアだから大丈夫、ではないのですよ。ヴァンパイアなのにこんなになって、なのです。まあ、そんなご主人も好きな物好きがここに一人いますが、物には限度があります」
「うぎゃああああ!」
「さあ、下を触られたくなかったら、正直に菓子を手に入れた方法を言いなさい」
「言う!言うから!食料配達してくれる人にお金渡して、食料のついでにお菓子を庭に隠しておくよう頼みましたー!」
「やはり、ご主人に小遣いを与えていたのが間違いでしたか・・・」
クリスは悔やむような表情で頭を振ると、ヴァニの右手の扉に手をかけて開き、主とともに出ていった。
『わかりました。お小遣い制度は本日から中止で、欲しいものがあったら俺に言ってください』
『ぎゃー!』
『それと、今日からご主人の寝室の掃除も、俺がやります』
『いやあああ!片づけは、片づけは私がやるから!』
『そう言って今の寝室を作り出したのは誰でしたっけ?』
『ぐぅーぬぬ・・・!』
『とにかく、今から寝室の掃除をしますよ。いらない服とかも処分しますから、そのつもりで』
『いらない服なんてないから!全部やせたら着るから!』
『この尻でですか?』
『ぎゃぁぁぁあああ!』
その悲鳴を最後に、二人のやりとりは不明瞭になっていった。
「・・・・・・出かけようか・・・」
ヴァニは苦々しい表情で新聞を畳むと、席を立った。



(5)眠れぬ夜
夜、日付が変わる前後の頃、ヴァニは一人屋敷の廊下を進んでいた。
足音をたてぬよう、静かに静かに足を進め、キッチンに入る。
彼女はキッチンに併設された食料庫から牛乳の瓶を取ると、壁際の調理台に向かい、小鍋にミルクを注いだ。
そして、魔力で発熱する調理器具に小鍋を乗せ、しばし待つ。
ミルクが焦げ付かぬよう、時折匙で鍋の中身をかき回した。
すると、徐々にミルクが加熱されていい香りを放ち始める。
もう少し温めようか、このぐらいにしておこうか。
ヴァニが逡巡を始めたところで、彼女の背後から鋭い声が響いた。
「誰だ!」
聞き覚えのある誰何の声に振り返ると、ランプを手にしたクリスが、キッチンの出入り口に立っていた。
「ヴァニ様でしたか・・・失礼しました」
「いや、こちらこそすまない。どうも眠れなくてね、勝手にホットミルクを頂こうとしていたんだ」
小鍋を調理器具から離し、大きめのカップに中身を注ぎながら、彼女はそう弁解した。
「いえ、そう言うことならば結構です」
「ありがとう・・・それにしても、なかなか鋭いね?私としては、君を起こさないよう気配も足音も絶ってたつもりなんだけど」
「あぁ・・・そのことですか・・・」
ヴァニの賞賛にクリスはやや困ったように頭をかいた。
「実は、ヴァニ様の気配に気が付いたのは、俺じゃなくてご主人なんですよ・・・」
「姉さんが?」
「ええ、先ほど俺の部屋にきて、『屋敷の中に誰かいる』って・・・ねえ、ご主人?」
キッチンの出入り口の陰に彼が顔を向けると、直接姿は見えないが、びくりと身体を震わせる気配が響いた。
「『絶対賊だから捕まえないと。でも怖い』って俺に頼みましたよね?」
「だ、だって・・・賊よ?賊。下手に貴族の私が出ていったら・・・」
壁の向こうから、ペテラの弁解の言葉が響く。
「夜は高貴なるヴァンパイアの時間だって、誰の言葉でしたっけ?」
「うぐ、それは・・・そ、そう!ほら私昼型生活だから、夜はだめなのよ」
「なるほど、昼型生活の方は、夜中に眠れないからといって、腹一杯になるまで菓子を召し上がる、と・・・」
「うぐ、ぐぬぬ・・・」
「妹君をご覧なさい。彼女は眠れないからと、ホットミルクで体を温めるにとどめようとしていらっしゃるのですよ。誰かさんと違って」
「うぐぅぅ・・・」
ペテラのうめき声が響くが、反論の言葉はなかった。
「これが正しい、眠れないときの対応です。それをご主人は、満腹になるまで隠し持っていた菓子を食べるから・・・」
ひょいとクリスが手を伸ばし、出入り口の陰に立っているであろうペテラにふれる。
「こうなるのですよ」
「うぐぅぅぅ・・・!」
「とにかく、物音の正体も分かりましたから、寝ましょうね」
「うぐ、うぅ・・・」
ペテラはうめき声で、彼の言葉に応えた。
「それではヴァニ様。俺はご主人を寝かしつけてきますが、後で片づけますので、鍋やカップはそのままにしておいてください」
「あ、ああ・・・それは助かるが・・・」
ヴァニは胸中に浮かんでいた疑問を、しばしのためらいを挟んで口にした。
「何で姉さんはそっちに隠れたままなんだ?」
「コルセットつけていない上に、寝間着姿だからです。これはこれで俺はいいと思いますが、ご主人が恥ずかしがられていますので。まあ、日頃節制していれば、堂々と出られたのでしょうけど。ねえ?」
「うぐー!」
彼の声にうめき声が応えた。
「では、ヴァニ様、おやすみなさいませ」
「ああ、お休み・・・」
クリスにそうヴァニが応じると、彼は一礼してからキッチンを離れていった。
キッチンに取り残されたヴァニは、カップを掲げてその縁に唇を当てた。
砂糖などは入れていないはずなのに、温められたミルクは妙に甘く感じられた。
だが、ヴァニの表情は苦いままだった。



(6)ダイエット作戦リベンジ
「それでは、ご主人を起こして参ります」
「ああ、うん」
キッチンのテーブルで、クリスの用意した朝食を食べながら、ヴァニは彼の言葉に生返事をした。
クリスは一礼すると、キッチンを出て行き、主の部屋に向かう。
ヴァニがこの屋敷に滞在するようになって十日ほどが過ぎるが、主を起こすのはもはや彼の日常のようだった。
ヴァニは耳からわざと意識を離し、パンをかじるのに集中した。
毎朝、姉が召使いの手を借りて着替える際のやりとりを聞かされていては、精神が参ってしまう。
ヴァニは目こそ開いてはいるものの、なにも見ずにパンを一枚平らげ、スープにスプーンを沈めた。
すると、二人分の気配と話し声が、キッチンに入ってきた。
「いたいよー、いたいよー・・・」
「わかりましたから、どうかお静かに・・・」
ヴァニが音の源に目を向けると、彼女の視界にペテラとクリスの姿が映った。
クリスがぽろぽろと涙をこぼすペテラの背中と膝裏を両手で支えながら抱いている。いわゆるお姫様抱っこ、という姿勢だ。
なにも見ていなかったはずのヴァニの瞳に光が宿る。
「・・・・・・」
「いたいよー」
「はいはい、朝食にしましょうね。一人で召し上がれますか?」
「腕が痛くて動かないよー」
「かしこまりました」
呆然とするヴァニの前で、クリスは主を席に座らせると、スプーンとスープ皿を手に取り、彼女の口元にスープを運んだ。
「はい、あーん」
「あー・・・ん・・・」
差し出されたスプーンを口で受け止め、スープを飲む。そして小さな具を数度かんでから、ペテラはのどを動かした。
「いかがですか?」
「おいしいよー。でもいたいよー・・・」
「ええと、姉さん、クリス・・・なにやってるの?」
目の前で繰り広げられる異常な光景に、ヴァニは思わず口を開いてしまった。
「ああ、ヴァニ様。実はご主人、全身がひどい筋肉痛でして」
再びスープをスプーンで掬い、主の口に運びながらクリスは応える。
「ベッドの上に起きあがることもできない、というので、こうして世話をしているわけです」
「なるほど・・・でも、筋肉痛って・・・昨日何かやったっけ?」
ヴァニは思い返すが、昨日は特になにもなかったはずだ。
「それが、ご主人は昨夜書庫で『三十日美容体操』という本を見つけまして。一月かけて体を慣らしていく、美容体操の入門書だったのですが、昨夜のうちに五日目までをこなしてしまわれたそうで」
「いたいよー」
「普段運動していないのに、まとめて五日分の体操をするからそうなるのですよ」
「クリスが私のことをだらしなボディとか言うから、気があせっちゃったんだよう」
「ものには限度があります。全く・・・これで今夜の体操はできませんし、明日も大事をとって夜は休まれるんですよね?」
「手も動かせないのに、体操なんて無理だよー」
「そして、そのまま本を書庫に戻して、体操のことも忘れると」
「うぐぐー」
「三日どころか、一日坊主じゃないですか」
「体操は五日目までがんばったよー」
「でも、実際に体操したのは昨日一日だけですよね」
「ぐぬぅー」
「まあ、これで筋肉痛にならずにいきなり痩せていたら、このお肉に別れも告げられませんでしたけどね」
クリスはひょいと手を伸ばし、ペテラの腹の辺りを触った。
「痛い!」
「すみません。今日はもう触りませんから」
「許す」
「ありがとうございます。はい、あーん」
「あー、ん・・・」
差し出されたスプーンを、クリスは咥えた。
「・・・・・・・・・ごちそうさまでした・・・」
「お粗末様でした、ヴァニ様」
「いや、おいしかったよ・・・」
ヴァニは席を立つと、足早にキッチンを出ていった。
これ以上キッチンにとどまっていたらどうなるかわからないし、今日は麓の町で仕事がある。
さあ、気持ちを切り替えていこう。
ヴァニは、意識の表面から姉と召使いのことを忘れた。
だが、その表情は妙に苦いままだった。



(7)主従の一線を越えた?
ヴァニが屋敷に滞在するようになって二週間がすぎた。
数日前から彼女は、丘の麓の町で害獣駆除の仕事をしており、それなりの報酬を受け取っていた。
今日も、町の外れに住む野犬を追い回し、夕暮れとともに屋敷に戻った。
「ただいまー」
屋敷の裏手、勝手口から帰宅するが、返事はなかった。
いつもならば、召使いのクリスが出てきて、風呂か食事かなどと尋ねるのだが。
二人とも出かけているのだろうか?
「姉さん?クリス?」
二人を呼びながら、ヴァニは屋敷の中を歩いた。
キッチンや居間に二人の姿はなく、浴場も風呂の準備はおろか、水すら浴槽に入っていなかった。
妙な不安を感じながら、ヴァニはクリスの部屋に向かい、軽く扉をノックした。
『っ!』
扉を叩く音に、部屋の中から驚くような気配が生じる。そして、扉越しにいくつか不明瞭な言葉が交わされると、部屋の扉が開いた。
「・・・姉さん?」
クリスの部屋の扉を内側から開いたのは、ペテラだった。
「ああ、ヴァニだったの・・・」
「いや、帰ってきたけど誰もいないなあと思って・・・それで、何で姉さんがクリスの部屋に?」
「ええと、それはね・・・その・・・そう、クリスが体の調子が悪くて・・・」
ややしどろもどろに、ペテラが視線を泳がせながら返答する。
「それで、私が看病してやろうと思って・・・」
「ああ、そう言うこと」
ヴァニは、姉の返答に合点がいったように頷いた。
今朝方元気だったクリスが、今はふせっている。
姉が妙に元気で艶めいているのに対し、召使いは妙に衰弱している。
そして、ベッドに横たわる彼が身に纏う、ごくわずかな魔力の気配。
それらが、ヴァニに対して一つの答えを示していた。
「姉さん、ヤったのね?」
「へぅ!?」
ヴァニの言葉に、ペテラが裏返った声で応えた。
予想だにしていない、ヴァニの言葉に思わず息が漏れたという様子だ。
ペテラは嘘を吐くのがとことん下手だ。ヴァニは幼い頃の思い出や、この屋敷でのここ数日を思い返しながら、彼女の反応から自分の推測が正しいことを悟った。
「とりあえず、おめでとうといっておくわ」
順番は多少前後してしまったが。ペテラとクリスの結婚を祝うべきだろう。
一度体を重ね、クリスがインキュバスとなってしまえば、もう円満おしどり夫婦は確定なのだ。
後はいかにして、長い夫婦生活へ二人を送り出すかだ。
これまでヴァニがヴァンパイアハンターとしてしとめてきた、主従の姿を思い返していると、ペテラが激しく首を左右に振った。
「いやいやいや!クリスとそう言うことしてないわよ!?」
「えー?でもさあ・・・」
ヴァニは両目の目蓋をおろすと、軽く鼻から息を吸った。
「・・・ほら、血の臭いがしないのに、姉さんが妙に元気だし・・・もう、吸血以外の行為で精を摂取したとか・・・」
「ちーがーうー!確かに精を摂取したけど、血からよ!」
ヴァニの推測に、ペテラは顔を真っ赤にしながら反論した。
「それに・・・ほら、クリスは私の召使いだし、そんな・・・そういう・・・ええと・・・とにかく、そう言うことはしないわよ!」
「えー?」
「えーじゃない!私は血を吸った!クリスの容態が悪くなった!看病している!以上!」
ペテラはそう締めくくると、ベッド脇を離れて、ヴァニの方へ歩きだした。
「姉さん?」
「飲み物と、毛布取ってくるのよ!」
妙にぷりぷりと怒った雰囲気を身に纏いながら、ペテラはヴァニの脇を通り抜け、部屋を出ていった。
そして後には、ヴァニとクリスの二人が取り残された。
「ええと、クリス・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・はい・・・・・・ヴァニ・・・・・・様・・・・・・」
たっぷりの間を挟みながら、クリスが応える。
「気分は?」
「多少、めまいはしますが・・・良好、です・・・」
目眩と身体の不自由。そして顔色から察するに、過度な吸血による貧血状態のようだった。
「さっきの、姉さんとのやりとり、聞いてた?」
「はい・・・ですが、ご主人と俺はあくまで主従ですので、一線を越えるような真似は・・・」
「うん、分かってる。不用意な発言をして、ごめん」
姉のうろたえ具合と、クリスの症状から、妙な勘違いをしてしまったことを彼女は反省した。
「構いません・・・勘違いなど、どなたにでも・・・うぅ・・・」
クリスが言葉の途中で、急に口をつぐんだ。
「クリス!?」
「大丈夫です・・・急に、天井が回って・・・」
貧血による目眩の症状の一つだ。どうやら、命に関わるほどの症状ではないらしい。
ヴァニがほっと胸をなで下ろす一方で、彼女の脳裏に疑問が浮かんだ。
「それで、ふと思ったんだけど・・・姉さんはどこから血を吸ったの?」
貧血状態のクリスはいるが、血の臭いがしない。
彼の症状や、今朝方の振る舞いからすると、昼間にペテラから血を座れたのは確実だったが、血液特有の臭気が彼の体からは感じられなかった。
ヴァンパイアは首筋に食らいつき、血を舐め啜る。そうすれば首筋に傷跡が刻まれ、血の臭いが残るはずだ。
だが、クリスからは血の臭いがせず、首筋もきれいなままだった。
「その、ヴァニ様・・・」
太腿や心臓の真上など、首筋と同じぐらい血を効率的に吸える部位をヴァニが考えていると、クリスが苦しげに口を開いた。
「俺は、傷跡がただれたり、後に残りやすい体質ですので・・・ご主人があまり傷を見たくないと言うのです。ですから吸血も、よほどせっぱ詰まったときだけ・・・傷の治りやすい口腔からのみです・・・」
「ああ、ちょっと待って・・・それって・・・」
口腔の傷からのみ、血を吸う。
クリスの一言に、ヴァニの脳裏に姉の吸血の際の様子が浮かんだ。
「はい。ヴァニ様は唇か舌、口内の傷以外では、血を吸われません」
ヴァニの脳裏に、唇を重ね合わせ、男の口から血をすすり上げる姉の姿が浮かんだ。
「クリス!ミルクと毛布、取ってきたわよ!」
部屋の扉が開き、ペテラが笑みを浮かべながら入ってくる。
彼女はストローの刺さったグラスを彼の顔に近づけると、クリスの体に毛布を掛けた。
「ほら、暖かいでしょ。それにミルク」
「あ、ありがとうございます・・・」
「早く元気になりなさいよ・・・」
ストローの端をクリスに咥えさせ、ミルクを飲ませながら彼女は彼の髪の毛をなでた。
そこには、いつものようにコルセットからあふれる肉を指摘され、生活態度の改善を求められる姉の姿はなかった。
「本当に・・・ごめんなさい・・・」
「ご主人・・・次から気をつければいいのです・・・」
男にミルクを飲ませ、髪をなでている内に何かを思い出したのか、ペテラが声に涙をにじませる。
すると、クリスが自身の胸の上に突っ伏す主の頭に手を触れさせた。
「・・・・・・」
ヴァニは無言のまま二人に背を向けると、部屋を出ていった。
あの二人にとって自分はおじゃま虫すぎるし、あのままあの場所にとどまる気力はなかった。
足を進めるヴァニの顔は、苦い表情に満たされていた。



(8)乙女の秘密
「あついー」
屋敷の北側、風通しのよい日陰に退避したヴァニは、声を漏らしながら扇子で自分の体を扇いだ。
ヴァニがこの屋敷に滞在するようになってもうすぐ一月。
例年にない速度で上昇していく気温は、屋敷近辺を春から夏に塗り変えていた。
普段ならば、過ごしやすい夏服に着替えているのだろうが、ヴァニには収納や荷物の奥から薄手の服を取り出す気力がなかった。
つまりは、下着に近い姿で涼んでいるのだ。
「うぅぅ・・・暑い・・・」
うめき声とともに、屋敷北側の風の通り道に、一体のヴァンパイアが迷い込んできた。
ヴァニの姉のペテラだ。
「姉さん・・・」
「話しかけないでヴァニ・・・あなたの声が空気をかき混ぜて・・・涼しさを奪う・・・」
ヴァニに対し、妙な理屈を重ねながら、ペテラはのそのそと日陰の一角に腰を下ろした。
「ああ、涼しい・・・」
「こっちは姉さんのおかげで、少しだけ暑くなったよ・・・」
汗の玉を肌に浮かべる、特盛りの姉肉に、ヴァニはそううめいた。
「まあまあ・・・どうせもううぐ・・・クリスが涼しさを得られる方法を考えてくれるはず・・・」
暑さのあまり錯乱しているのか、ペテラがそんな世迷い事を紡いだ。
「クリスー・・・何か、いい方法は・・・」
「・・・泳ぎにでも行きましょうか」
不意に響いたクリスの声に、ヴァニは全力で、暑さに疲弊する体にムチを打ち、顔を向けた。
すると、そこにはペテラとヴァニに倣うように、日影に立つクリスの姿があった。
「クリス・・・今、なんて・・・」
「泳ぎに行くのですよ。ちょうど丘の麓には川が流れていますし、場所によっては浅かったり、程良く深かったりしまいますから、泳いだり水辺で戯れたりできるわけです」
「なるほど、それなら・・・」
井戸水には劣るが、川の水は冷たい。川に飛び込み、体内にため込んだ熱を逃がせば、心地よく過ごせるだろう。
ヴァニの脳裏を名案がよぎった瞬間、彼女の手をペテラが掴んだ。
「姉さん・・・?」
「だめよ・・・水場は、だめ・・・」
何かにとりつかれたように、ヴァニがぶつぶつと漏らす。
「水は怨念をため込むし、川の水なんてどこから流れてきたか分からないし・・・・・・仮の上流の水で人が溺死して、その怨念が流れてきたら・・・」
「ね、姉さんやめてよ・・・」
言葉に込められた妙な迫力に、ヴァニは思わずペテラにそう言っていた。
「ほら、クリスも何か・・・」
「ご主人。ご主人が川辺をいやがるのは、水着のせいでは・・・」

ヴァニの言葉にクリスが口を開くと、ペテラが体を震わせて動きを止めた。
「ここ数年で、どれほど体つきが変わりましたっけ・・・?」
身を強ばらせるペテラの肩に手を触れると、クリスはゆっくりと彼女の方から背中、わき腹へ手を滑らせていった。
「確か、ご主人の部屋から出てきたのは、腹が隠れるたぐいの水着ばかりでしたねえ・・・」
「ぐう、うぐぐ・・・」
「でも、どれもこれももうお腹が収まらないから、もう着れる水着がありませんねえ」
「うが・・・うが・・・あぁぅ・・・」
「屋敷に残っているのはセパレートタイプの水着ばかり!気合いを入れて水着が着れるよう痩せるか、今のまま水着を着るか」
クリスは主の顔をのぞき込みながら、続けた。
「おすすめは、誰もいない浜辺でセパレート水着を着る、で・・・」
「だ、誰が・・・!」
言葉による責めに、ペテラが思わず口を開いた。
「では、これは何ですか?」
クリスの両手が、ペテラの腰のあたりを掴み、コルセットからはみ出た肉をもむ。
「いっこうに改善の気配のない、夜食と運動不足で蓄え込んだと思しき、出所不明の謎の肉・・・」
「うぐぅ!ぐぬぬ・・・!」
「水着を着れば確かに女性としての魅力が強調される場合もありますが、それはしかるべきプロポーションの場合です。ご主人はまず、こことこことこことこことこことここの肉を落とさないと・・・」
「うぐぐぬぬぐぬぐぐぅ!」
クリスの指摘に、ペテラが呻いた。
だが、ヴァニはもはや二人のやりとりから意識をはずしていた。もう、彼女の発言ではどうしようもない域に達しているからだ。
「それでは、川を泳いで涼を得る前に、だらしなボディを引き締めるところから始めましょうが」
「わ、私はそのぐらい、部屋の掃除と併せて・・・」
「部屋の掃除もできていませんでしたよね、ご主人」
クリスの一言に、ペテラが動きを止めた。
「では、ご主人が正気に返る前に、部屋まで連行させていただきます」
動きを止めたペテラを肩に担ぎながら、クリスはヴァニに向けて一礼した。
「ああ、うん・・・起こさぬように、気をつけて」
「ありがとうございます」
クリスはヴァニに一礼すると、屋敷北側の陰を出ていった。
一方ヴァニは、陰にとどまったまま口を開いた。
「あついなあ・・・」
言ったところでなんにもならない、ただ現状を表現するだけの言葉だったが、つい先ほど繰り広げられたやりとり忘れようとするには、十分だった。



(9)姉の威厳
「クリス!クリス!」
ペテラのうれしげな声が屋敷に響く。
普段、何か用事があるときに召使いを呼ぶときとは違う、明らかに呼びつける行為自体に何かが込められた声だった。
「はいはい」
クリスは作業を中断し、自身を呼ぶ声を追って屋敷の廊下を進んだ。
すると、居間のテーブルを挟むように腰掛ける、ヴァンパイアとダンピールの姉妹の姿が彼の目に入った。
「どうしました、ご主人?」
「クリス、見て!」
誇らしげに胸を張る主の指先に目を向けると、クリスは主とその妹の間にチェス盤が置いてあることに気がついた。
双方ともに、片手で数えられるほどの駒しか残っていなかった。
だというのに、不思議なことに、ペテラの方が勝っているようだった。
「どうだクリス!私だってやればできるのだぞ!」
えっへん、とばかりにペテラが胸を張り、その傍らでヴァニがなぜ負けたのかを反省していた。
「なるほど・・・ご主人が大勝したのは分かりましたが、ほかの勝負はどうなっているのですか?」
「え?」
クリスの問いかけに、ペテラが疑問符を浮かべた。
いったいなにを言っているのだろう、とペテラは考え、いったいなぜ返答しないのだろう、とクリスは思った。
双方疑問符を宙に浮かべたままでいると、不意にクリスが両手を打ちならした。
「なるほど!ただいま第一種目のチェスの決着が付き、これから走り込み、弓術、組み手、剣術の四試合を執り行って、白星の多い方が・・・」
「ちょっと待って、クリス」
残る四種目を並べるクリスに、ペテラが食いついた。
「なによその種目」
「高貴なる貴族の嗜み勝負です。貴族ならばできて当然な嗜みについて勝負を行い、どちらが貴族として優れているかをジャッジするものです」
「どれもこれもアウトドアな種目じゃない!高貴なる貴族は、肉体派なの!?」
ペテラが声を上げる。
「種目にご不満が?」
「アリアリよ。ねえヴァニ、高貴なる貴族って走り込みとかしないでしょ?」
「う、うぅん・・・うん、走る貴族なんて見たことないし・・・」
急に話を振られ、ヴァニは戸惑いながらも答えた。
「ヴァニ様は毎朝走られていらっしゃるようですが?」
「それは私の体力維持が目的だから。それに、家出しちゃったから、自分のこと貴族だと思っていないし」
「ほらね!ヴァニもそう言ってるわ!よって、種目の変更を要求するわよ。あまり体を動かさない、屋内種目を入れなさい!」
「かしこまりました。では、組み手と舞踏と料理、そして肉体美披露の四種目で」
「やっぱりストップ。チェス五本勝負にできないかしら?」
「自分が確実に勝てそうな分野だけでしか勝負を仕掛けないのは、いかがなものかと・・・」
「なによー!」
がたん、とイスを鳴らしてペテラが立ち上がった。
「自分が大部分で妹に負けてるから、数少ない分野で勝利を味わっちゃいけないの!?」
「あ、自分で認めちゃうんだ、姉さん・・・」
姉の言葉に、ヴァニは思わず漏らした。
「私だって、いろんなことそつなくこなして、ヴァニから『姉さんすごいや』って感心されたいわよ!でも身体関係じゃボロ負け確実だから、せめてチェスで勝ってもいいじゃないのー!うわーん!」
自分で言いながら情けなくなってきたのか、ペテラは涙をこぼして嗚咽した。
「すみませんでした、ご主人」
「うぅ、ぅ・・・」
咽び泣く主に、クリスは謝罪する。
「日頃から『チェスは頭の体操になる』と称して、一日中部屋にこもって菓子をかじりながら盤と駒を相手にしていたご主人ならば、チェスの腕は名人クラスでしょう。その名人クラスの腕前で、妹君をお好きなだけ叩きのめしてやってください。その後はプロポーション対決で、抱き心地のよい柔らかい体つきの方が勝ちといたしましょう」
「うわーん!」
ペテラはクリスの言葉に駆け出し、居間を飛び出していった。
「行ってしまわれましたね」
「いやー、流石に今のは君が悪いと思うよ?」
慌ただしく開閉された扉を見ながらのクリスの言葉に、ヴァニは思わず口を開いた。
「ただでさえ姉さん、いろいろと抱え込んでいるだろうに・・・それを刺激するようなことを言っちゃって」
「しかしあの場で、適度に甘やかしてチェス五本勝負をしてやっては、問題の先延ばし程度にしかなりませんよ」
「そうだけど・・・」
「それに、この一件で自らを省みて、生活態度を改められるのなら、むしろよかったぐらいです」
「姉さんが省みなかったら?」
「そのときは、夕飯頃には腹を空かせてるでしょうから、何事もなかったように振る舞うだけです」
クリスは言葉を一度切った。
「チェスボードと駒は片づけましょうか?」
「いや、いい。自分でもなぜ負けたのか分析したいし、後で片づけるよ」
「かしこまりました。では、少し早いですが、夕食の準備をします。今日はご主人の好物にしませんと」
彼はくるりときびすを返すと、先ほどペテラが飛び出していったのとは別の扉から、今を出ていった。
そして後にはヴァニが取り残された。



(10)彼のいない日
昼過ぎ、キッチンの食卓テーブルに、ペテラとヴァニが腰を下ろしていた。
ペテラの手元にはチェスボードとお菓子が、ヴァニの手元には読みかけの推理小説があった。
しかし二人とも、駒や本には触れてはおらず、今は静かにティーカップに唇を寄せていた。
今日は朝からクリスが出かけており、久々にこの屋敷に姉妹二人きりだ。
「姉さん」
「なに?」
不意のヴァニの呼びかけに、ペテラが応じる。
「ふと聞きたくなったんだけど・・・何でクリスをクビにしないの?」
「っ!?っごほっ!げほっ!」
茶が気道に入ったのか、ペテラは咳込んだ。そして咳が落ち着くと、目元に涙を浮かべながら彼女は妹を睨んだ。
「な、なにを急に・・・」
「いやあ、クリスって時々かなり無礼だよね。それで姉さんの性格からすると、無礼な召使いなんて容赦なくクビにして、新しいのを雇うんじゃないかなーって」
姉の性格、とはいってもヴァニが家出するより昔の性格だ。
「まあ、時々無礼だけど、クビにするまではないわね」
だが、ペテラ自身も自覚している性格はその当時のものらしい。
「だって、クリスは仕事は完璧にこなすし、財産の管理とかしてくれてるし、私のこと考えてくれてるし・・・」
「姉さんのこと考えてる?」
姉の口からこぼれた言葉に、ヴァニは眉を片方上げた。
「クリスが?」
「ええ。ほら、私にもう少し運動しろ、とか部屋の片づけをしろ、とかいろいろ言ってくれてるじゃない?」
「でもそのたびに、姉さんのお腹摘んだりしてるよね」
「うぐ・・・で、でもあれのおかげで、私も自分の惨状が自覚できるし・・・」
ペテラはこほんと咳払いを挟むと、続けた。
「とにかく、クリスの言動が無礼なときはわりとあるけど、それは私を思っての言葉であり行動なのよ。それに・・・単純に私がだめだ、って罵倒するんじゃなくて『今のご主人も好きですけど』って言ってくれるし・・・」
「んー・・・」
かすかに目を細め、どこか嬉しげな口調でクリスの言葉を再現する姉に、ヴァニの脳裏に浮かんでいた一つの可能性が、いっそうその色濃さを増した。
「姉さん」
「なに?」
「もしかして・・・クリスのこと好きなの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・好き、よ・・・」
否定するかと思われたが、ペテラは長い沈黙を挟んでから、ゆっくりと頷いた。
「私が貴族としてふさわしい振る舞いができるよう、いろいろ手助けしてくれるし、優しいし、私のこと考えてくれてるし、料理とか上手だし、たまに私が料理作ったときも美味しいっていってくれるし・・・うん、好き」
ヴァニに理由を説明するようであったが、彼女は自分の気持ちを再確認していたらしく、最後にもう一度頷いた。
「私はクリスのことが好き」
「ああ、分かったから姉さん・・・それで、何で結婚しないの?」
ペテラがそれほどクリスを好いているのならば、結婚だって可能だろうに。
「だって・・・彼が貴族になったら、私とつり合わないじゃない。私は彼が言うように、だらしなくて、生活もだめだめで、自制心がなくて・・・貴族としてあまりふさわしくないのよ。でも彼は召使いなのにキチっとしてる。そんな彼が貴族になったとき、その側に私が立てる?」
「んー・・・」
「答えは言わなくていいわよ」
ヴァニが姉を気遣って言葉を選んでいると、ペテラが頭を振った。
「とにかく、今の私じゃ彼にふさわしくない、ってことよ」
「だったら生活態度を改めて、立派な貴族として振る舞えるようになればいいじゃない」
だというのに、姉は生活を改めるどころか、あっちを変えればこっちが戻りを繰り返している。クリスにふさわしい貴族になるつもりじゃなかったのだろうか。
「そうしたいのは山々だけど・・・クリス、だらしない私も好きって言ってくれてるし・・・」
「あー、そういえばそうだったね」
「だから、私が変わってしまったら、彼の気持ちも離れそうで変われないのよ」
ペテラはため息をつき、ヴァニを見ながら尋ねた。
「ねえ、どうしたらいいのかしら・・・?」
「とりあえず、主人の権限を発動させて寝室に呼びつけて、一緒に寝ればいいんじゃないかなあ。クリスは姉さんの吸血のおかげでだいぶ魔物になりかけてるし、もう一押しでインキュバスになると思う」
そうなればペテラが責任をとるという形で、クリスを婿に迎えればいい。
「寝室に呼ぶなんて・・・そんなことできないわよ」
「はぁ?」
「だって・・・ほら、クリスは命令すればそういうことしてくれると思うけど・・・違うのよ」
視線を手の中のカップに落とし、茶の表面を見ながら、彼女は続ける。
「命令すれば応えてくれるだろうけど、それはあくまで主従の間柄でのことでしょ?でも、私としては時々『こんなご主人に仕える物好きが、俺以外にいるんでしょうか』って言ってくれる彼と、対等な男女としてつきあいたいの。それに命令したところで、『そんな命令は、ちゃんとした貴族になってからしてください』って断られそうだし。だから理想としては、私のムチムチボディに我慢できなくなった彼が、私の寝室に来て襲ってくれるって流れなのよ。もちろん、ようこそ状態だと引かれるかもしれないから、多少は抵抗するわよ。でも最終的には受け入れるわ。だって、その・・・彼との赤ちゃんとかほしいし。あ、子供が産まれた時にヴァニがいたら、名付け親になってくれないかしら?まあ、まだ身ごもってもいないし、彼が私を襲ってくれる気配もないから、もっと後になるでしょうけどね」
「はぁ・・・」
「だから、今は彼が来てくれるのを待ってるのよ。でも、このままでいいのかしら?」
「別にそれでいいんじゃないの?」
ヴァニは真面目に応えるのもイヤになり、適当にそう応えた。
「そう・・・よね・・・そうよね・・・そう。うん、もうしばらく待ってみるわ」
しかしペテラは、妹の言葉に宿るぞんざいな気配を感じ取れなかったのか、自らに言い聞かせるように納得した。
「ありがと、ヴァニ」
「どういたしまして」
適当に応じてから、ヴァニはふと思い出した。
今初めて、姉から礼の言葉を聞いた気がする。
だが、続くペテラの言葉に、ヴァニの感慨はあっと言う間に消え去った。
「それでヴァニ、最近コルセットを締めるとき、紐の余りが少しだけ長くなったのよ!クリスが気がついたら、誉めてくれると思う?それとも襲ってくれると思う?」
「ああうん、それはよかったねえ」
「うん、本当に嬉しいわぁ」
にこにことほほえむ姉をみながら、ヴァニはカップを手に取り唇を縁に当てた。
口内に流れ込んだ茶は、妙に甘かった。
12/11/13 21:16更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
ヴァンパイアがちょーながかったよー。
書きたいことの半分も書かないうちに、こんな長さになったよー。
これなら初期構想の、
『ナマイキなヴァンパイア自称貴族の屋敷を爆破して太陽の下に引きずり出し、ギャーギャー泣きわめくのをビンタで黙らせて無理矢理手込めにし、軽く手を動かすだけでビクっと身を縮めるレベルにまで大人しくさせつつ種付けして、腹が膨れだしたあたりから丁重に扱い、母子ともどもかわいがってやる』
って方にしとけばよかったよー。

ちなみに今回の登場人物は
ペテラ:ペテラ・キャス・イング
ヴァニ:ヴァーナ・ヘラ・イング
クリス:クリス・トファーリ
って名前でした。
元ネタとかすぐにわかるよね。

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