連載小説
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第2話 Kinky Kitty Catie 野良猫のダンス Bパート
 胃袋を身体の内部から震わすような、重低音のサウンドがフロア中に鳴り響く。『Black Bear』の店内は、点滅するレーザーとミラーボールの光に照らされ、ディスコミュージックに身を委ねて身体をくねらせる男女で溢れていた。とはいえ、クラブが最も盛り上がる深夜に比べればまだ人の入りは少ない。むしろ平日のこの時間からクラブへ繰り出す人々とはいったいどのような人種なのか、ケイティには疑問だった。
 店内へ足を踏み入れたケイティは踊る男女の隙間を縫ってバーカウンターへと近づく。ボディスーツで強調される身体のライン、誘うように揺れる腰の尻尾を見せつけながら、ケイティはゆっくりと歩いた。フロアには人間の女性ばかりで魔物の姿はなく、突如として現れたケイティの存在は否が応にも注目を集めた。しかし大半の人々は、すぐに興味を失って再び自分のパートナーとのダンスに熱中し始める。
 
ケイティはカウンターに寄りかかり、バーテンダーに上目遣いで声をかける。
「何かカクテルちょうだい。おススメのやつ」
バーテンダーは何も言わずに奥へ引っ込む。(しかしその目が一瞬だけケイティの胸元に吸い寄せられたのを、彼女は見逃さなかった。)やがて出されたモヒートを手に取ると、カードで会計を済ませ、ケイティはフロアを見回し始めた。
 そこでは、人間の男女が思い思いのやり方で一時の快楽を謳歌していた。腰と腰が触れ合う距離でリズムに乗って踊る男女、その場で熱いキスを交わす2人、奥の方にはあられもない恰好で抱き合うカップルの姿も見えた。
 その中にあって、少し異質な雰囲気を纏った集団にケイティは目を留める。ダンスフロアから一段高い場所に設置されたソファに足を組んで座り、クラブ内を見下ろしながら酒を飲み交わす若い男たちだった。白人や黒人、ラテン系も入り混じった集団だったが、皆一様に高価そうな宝飾品をギラギラと身体に光らせていた。
 その中の1人、背の高い白人の優男と目が合う。こちらに好奇の視線を向ける男に対し、ケイティは意味ありげなウインクで返す。優男はケイティを横目で見ながら隣の仲間たちと何かを囁き合い、やがて弾けるように笑いながら席を立ち、こちらへ近づいてきた。手に持ったウイスキーのグラスをカウンターに置き、ケイティのすぐ隣に肘をつく。
「お嬢ちゃん、ツレは?」
 大音量のディスコミュージックの中で声を届かせるため、男は肩が触れ合う距離まで近づき、耳元で話しかける。ケイティはイエスともノーとも言わず、ただ曖昧に肩をすくめてみせた。
「相手がいないなら俺と、どう?」
 男はもう一度、今度はケイティの手を引きながら言った。ケイティはやはり何も言わず、しかしされるがままにフロアへと連れ出された。
 中央に躍り出た2人は、たちまち周囲の注目の的となった。優男の身のこなしは中々のもので、学生時代から遊び歩いていたのであろうことを伺わせる華麗なステップを得意気に踏んでみせる。しかし、動きの魅せ方ではケイティの方が上だった。腰から下をまるで別の生き物のように自在にくねらせ、引き締まった尻と尻尾をリズミカルに揺らす。曲に合わせてステップも完璧に決め、ターンする度にしなる尻尾が優男の腰を叩いた。やがて一曲を踊り終えた2人がポーズを決めた時には、あちこちから拍手喝采が巻き起こった。

「ヒュー!やるなあ、君!」
 ダンスの輪から外れると、若干息を切らしながら優男が叫び、褒めるついでにケイティの尻を音を立てて叩いた。ケイティは涼しい顔でバーカウンターの席に座り、飲みかけのグラスを掲げる。男は自分のウイスキーグラスで軽く乾杯すると、その隣に腰かけた。
「それで?いったいどうして、君みたいな娘が1人でクラブに遊びに来てるんだ?」
「別に……何となくヒマだったから」
 ケイティは曖昧に微笑みながら答える。
「誰か一緒に来る人はいないのか?彼氏とかは?」
「ずいぶんプライベートなこと聞くのね」
「ああごめん、イヤだった?…お詫びに一杯おごるよ」
「…待って…!」
男が手を挙げてバーテンダーを呼ぼうとしたその時、唐突にケイティが男の肩を引き寄せ、耳元に口を近づけて囁くように言った。
「ホントはね…彼とケンカして飛び出してきたの…。今日は泊まる所もお金もなくて……困ってたんだ…」
優男はそれを聞くと、満面の笑みを浮かべてケイティの肩を叩いた。
「なるほどそうか!そういうことなら、ぜひ紹介したい仕事があるんだけど、どうだ?今夜の宿も、俺が面倒みてやるよ」
「ホント!?嬉しい!…お仕事って、どんな?」
「ああそれなんだが…」
男は秘密を打ち明けるように顔を近づけながら、店の奥を親指で差した。
「ここじゃ込み入った話もできないから、奥で…どうだ?」
 ケイティは色っぽく笑って頷くと、男に続いて席を立った。ソファで囃し立てる仲間たちに手を振り、踊る人々の間をすり抜けていく。そのまま店の裏口の方へ向かうと、優男は男子トイレの扉を開け、ケイティの手を引いてその中に消えた。
 トイレの扉が閉まり、しばらくの沈黙があった。
 不意に2、3発の鈍い音と男のくぐもったうめき声が響く。
 やがて再び静寂が訪れた。





「さーて、じゃあ色々聞かせてもらいましょうか?」
「……てめぇ…!」
 そこには、先程までとはうって変わって楽しそうな表情で優男を拘束する、ケイティの姿があった。トイレの床に這いつくばる男は歯を食いしばって振りほどこうとするが、首をケイティの太ももで締め付けられた上に腕を捻りあげられ、どれほど力を込めても拘束はびくともしなかった。
「ていうかさあ、ケンカしたぐらいで赤の他人の所に転がりこむワケないじゃない。アンタ魔物を何だと思ってんの?それともお酒にクスリでも盛るつもりだった?」
(…まあケンカしたのはホントだけどね)
ケイティは心の中で呟く。男たちを誘惑はしたが、別にこれくらい浮気じゃない、と本人は自分に言い聞かせていた。他の女の子と飲みに行ったんなら、あたしだってこれくらい羽目外してやるんだから。できることならクリスにそう言ってやりたかった。
「アンタたち獣人の子たちを囲って売春やらせてるんだって?どこに隠してるのか言いなさいよ」
「警官かてめえ…!警察がこんなコトしていいと思って…」
「警察じゃありません〜。通りすがりのヒーローです〜」
「何を訳のわからんことを……ぐぅっ!」
ケイティは拘束する腕の力を強める。鈍い痛みに息を詰まらせる優男だったが、警察ではないと聞いて気が大きくなったのか、薄ら笑いを浮かべてケイティを睨んだ。
「誰が言うかよ。くたばりやがれ…!」
「…売春してるのは認めるんだ」
「何が悪いんだ?ヤりてぇ奴にヤらしてやってるだけだろ!」
吐き捨てるように男が言った。その言葉に、ケイティは眉をひそめる。
「それ…本気で言ってる?」
「当たり前だろ。そういうビジネスなんだよ!」
「じゃあ十代の娘たちにソレをやらせてるのは?そっちはどう考えても許されないよね!」
ケイティの詰問にも、優男は変わらず口元に笑いを浮かべたままだった。
「扱いやすいんだよ。特にミンキー(※)はな。あいつら力だけ強くて頭は空っぽだから、ちょっと声かければ簡単について来るんだよ」
(※ミンキー(minky):獣人系の魔物娘を指すスラング。多分に侮蔑的な意味を含む。)

優男の言葉を聞いたケイティは、感情の消えた冷たい目で男を見下ろしていた。
「……あっそ。じゃあもういいよ。他の人に聞くから」
そう言い放ったケイティは、男の意識を奪おうと片手を振り上げた。
 その時、
「おいクリス!1人で楽しんでないで、俺も混ぜて…」
突然トイレの扉が乱暴に開き、ソファにいた黒人の男が現れた。ズボンのチャックに手をかけていたその男は、ケイティと優男の姿を見て固まる。
「え?」
「あ、ヤバ…」


 次の瞬間、耳をつんざく轟音と共に2人の男の身体がトイレの扉をぶち破って吹き飛んだ。向かいの壁に折り重なって激突する男たち。
「痛ってぇ…何つぅバカ力……っ!」
床に手をついて立ち上がろうとする優男だったが、その眼前にユラリと黒い影が立ちはだかり、強烈な蹴りを見舞った。トイレから出てきたケイティが、さらに冷たい眼で男を見下ろしていた。
「あんたクリスっていうの?……なんかすっごいムカつくんですけど」
「ちょ…待…!」
そのまま怒りに任せて執拗に蹴りを入れるケイティ。何度目かの蹴りで男が気絶し、ケイティが顔を上げると、そこで初めて、クラブ中の人間の視線が自分に注がれていることに気が付いた。口元を手で覆って絶句する女、曲を流すことも忘れて呆気にとられるDJ。ソファに座っていた男の仲間たちは全員立ち上がり、用心棒らしき屈強な男が拳を鳴らしながらケイティを睨みつけていた。
「あ〜……しまった…」
ケイティはきまり悪そうに頭の後ろを掻いた。






ナイトクラブ『Black Bear』の通りを挟んだ向かい側。
 不意に、シオンの持つ携帯電話が振動音を鳴らした。画面を見ると、
〔8:53PM: 24 St. Cuthbert Ave.にて事件発生。付近の方は避難してください〕
とのメッセージが表示される。EMR(緊急出動要請)が発令された場合に付近のCERIS利用者に自動送信される、CERIS Alertの通知だった。
 それとほぼ同時に、『Black Bear』の入り口扉が弾けるように開き、蜘蛛の子を散らすように若い男女が次々と走り出てくる。人々は口々に叫びながら店を飛び出し、通りはにわかに騒然とした雰囲気に包まれた。
「ったく何やってるんだか……シェリル、行くわよ」
「はい!」
 シオンはため息をつきながら携帯をポーチにしまい、店へ向けて歩きだした。






「捕まえろ!絶対に逃がすな!」
 仲間を2人投げ飛ばしたことで、ケイティは完全に敵と認定されたらしい。手にガラス瓶やナイフその他の凶器を持った男たちが一斉に襲いかかってきた。乱闘が始まると他の客は全員逃げ出してしまい、店内にいるのは10人弱の男たち。その全員が優男の仲間、クラブの裏稼業に関わっていた者とみて間違いなかった。
「逃げたりしないよ?こうなったらトコトン暴れてやるんだから!」
 ケイティは軽口を叩きながら、酒瓶を振り回す男たちの攻撃を躱し続けていた。テーブルや椅子、バーカウンターの上を軽い身のこなしで跳び回りながら、隙を見せた相手に強烈な蹴りを見舞う。既に数人が倒され、床やソファの上に気絶して横たわっていた。
「クソ、ちょこまかと…おい、囲め!」
 鋭い声が飛び、バラバラだった男たちの動きが統率されてきた。跳び回るケイティの行く手を塞ぐように連携し、徐々にその輪を狭めていく。
野生のヒョウのように身軽なケイティも狭いクラブ内では動きが制限され、気づけば壁を背にして男たちに取り囲まれていた。怒りで紅潮した顔の男がケイティに迫る。
「やってくれたなこのミンキーが…無事に帰れると思うなよ」
「あらら、何するつもりなのかな?身体で弁償させるとか?」
「その生意気な口も叩けねぇようにしてやろうか」
 ガラス瓶を持った大男が一歩前へ進み出る。腕を大きく振りかぶり、それをケイティの頭めがけて一気に振り下ろした。
 ムチで叩いたような鋭い音が響く。しかし、攻撃は届いていなかった。ケイティの手のひらの肉球によって、全ての衝撃が吸収されていた。ケイティは受け止めた瓶を掴む。大男は慌ててそれを引き戻そうとするが、ガッチリと掴まれたままびくともしなかった。ケイティの凄まじい握力で瓶に小さなヒビが入った。
 しかし、この一瞬は男たちにとっての好機だった。動きを止めたケイティに男たちが一斉に踊りかかる。拳が、ナイフが、ガラス瓶が、ケイティの身体に襲いかかろうとした。
 
その時、バツンッ!という音と共に突如として全員の視界が闇に包まれた。
「は?おい何だコレ!」
 完全に視界がゼロとなりパニックに陥る男たち。すぐ隣にいる仲間の姿も、目の前のケイティの姿も輪郭すら見えない状態だった。空調も止まって妙な静けさが空間を支配し、ブレーカーが落ちたのだと認識できるまでにしばらくの時間がかかった。
「ぐあっ…!」
「おい、どうし…あがっ!」
 暗闇の中で、次々と上がる男たちの悲鳴。互いの姿すらも見えない中で、男たちは見えない敵の攻撃に怯える事しかできなかった。
「あららもうおしまい?残念だったね!」
 最後に残った男が気絶する直前、目の前に見たのは、暗闇の中で光る2つの大きな眼だけだった。



「もういいわよシェリル。点けてちょうだい」
 シオンの一声と共に、店内が光を取り戻す。光に照らされて浮かび上がったのは、床に横たわる何人もの男たちと、その中に立つケイティとシオンの姿だった。忍装束を纏ったシオンがケイティを睨む。
「騒ぎは起こさないでって、私言わなかったっけ?」
「ま、まあまあ後はこいつらの誰かを叩き起こして聞けばいいわけだし…こうなったのは事のなりゆきと言うか……だってあいつムカつくんだよ!?」
「はいはい。言いたい事は後で聞くから」
 店の奥に転がる優男を指さして逆ギレするケイティを尻目に、シオンは裏口の方向を振り返る。奥から現れたのは、顔を隠すフード付きマントを羽織ったシェリルだった。
「終わりましたか?って……うわぁ…これ全部ケイティがやったの?」
「あたしだけじゃないし!こいつらだって暴れてたし!」
 店内の惨状を見てシェリルは思わず絶句する。フロア中の椅子とテーブルは倒れ、グラスや瓶は割れて床に散乱し、こぼれた酒類がむっとする甘い臭気をまき散らしていた。シオンが嘆息する。
「まあ、やってしまったものは仕方ないわ。後始末は警察に任せましょう。それより、早く女の子たちの居場所を聞き出さないと」



男たちの1人を尋問した結果、獣人の少女たちは店の地下一階に押し込められていることがわかった。3人が薄暗い急な階段を降りていくと、そこにはパーテーションにより雑に区切られた15部屋ほどの個室と、その中に備え付けられた粗末なベッドからなる場末の安ホテルのような空間が広がっていた。ありとあらゆる体液とマリファナの臭いが入り混じったような淀んだ空気に、足を踏み入れたシェリルは思わず咳込んだ。
今日はこれから客を取るところだったらしく、地下には出勤予定の数人の少女たちが待機していた。上での大乱闘の音はほとんど聞こえていなかったらしく、突然降りてきた奇妙な恰好の女たちの姿に、少女たちは面食らった顔を見せた。

クラブが潰されたことを聞かされた少女たちの反応は様々だった。
「助かったよ。給料がいいって言うから始めたってのに、あいつらほとんどピンハネしやがって。客もケチなのばっかりでチップくれないしさ。ザマあみろってんだよ、まったく!」
 ワーウルフの少女はタバコを吸いながらそう吐き捨てた。その一方で、マンティコアの少女は掴みかかる勢いでシオンに迫った。
「ちょっと、どうしてくれんのよ!唯一の仕事場だったのに、アンタたちが潰したって?明日からどうやって食っていけってのさ!」
「あなたまだ未成年でしょう?家に帰るか、バイトするにしたってもっとまともな仕事に就きなさい」
「もう19だし、アタシは家出してんだよ!まともな仕事って何?大人っていつもそうやってバカにして!」
 ガラの悪い見た目の少女はシオンと言い争いを始める。2人の間でオロオロと右往左往するシェリルだったが、横で成り行きを見ていたケイティがそこにすかさず割って入った。
「ちょっと2人とも!いったんストップ!」
2人の顔を交互に見るケイティ。
「勝手に職場を潰しちゃったのは謝るからさ、今はこれからのこと考えよう?お仕事探してるんだったら、私が紹介してあげられるよ?ダウンタウンにカフェとかファストフードとか沢山あるし、経験なくても始められるから。ね?」
 ケイティの提案に、マンティコアの少女は渋々ながらも納得した様子で頷く。ひとまず、今日は出勤していない他の少女たちも分も含めて、ケイティが求人の連絡先を教えるということで話がついた。

 少女たちを全員一階まで連れ出したケイティは、その中の1人、コボルトの少女が集団を離れて一人、何かを見つめて佇んでいるのに気が付いた。
「どうしたの?」
 ケイティが優しく声をかけたが、少女は視線を動かさなかった。その視線は、ケイティに投げ飛ばされてトイレの前で気絶する、あの優男に注がれていた。
「…彼、私が田舎から出てきたばっかりの時に出会って…すごく優しくしてくれたんです」
ケイティが側に立つと、少女はポツリポツリと語り始める。見た目は15,6にしか見えない、小柄な少女だった。
「エンパイア・シティのことも色々教えてくれて、一緒に住もうって言ってくれて…大好きだったんです…」
語っていくうちに、声が震え始めた。一枚だけ羽織った薄いネグリジェの端を両手で強く握りしめる。
「でも、初めてHした次の日から、急に乱暴になって…叩いたり蹴ったり、出て行こうとすると、写真をネットにばら撒くって脅されて……そのあと、ここに連れてこられたんです。それから毎日毎日、知らない男の人と、ベッドで…ベッドで…」
 そこから先は言葉が続かなかった。顔をくしゃくしゃに歪め、ケイティの胸に飛び込んで声を上げて泣き始めた。ケイティはそんな少女の頭に手を置き、犬の耳を毛並みに沿って撫でながら、両腕で強く少女を抱きしめた。
 そのままずっと、3人が現場を離れる直前まで、ケイティはそうして抱きしめ続けていた。



 
*   *   *
 9:40PM、ナイトクラブ『Black Bear』前
 乱闘騒ぎのあったクラブの入り口前に、数台のパトカーが停車していた。明滅する赤と白のパトランプに照らされる中、事件現場を見物に集まった野次馬で小さな人だかりができていた。
 その人ごみの中から、1人の若い警官が姿を現す。オレンジに近い栗色の髪の上に制帽を被り、ECPDのシンボルが入った階級章が肩に光る。警官は足早に野次馬の前を通り過ぎ、「KEEP OUT」のテープの下をくぐって店内に入った。
 爆弾テロの後かと疑うほどに物が散乱した店内の中央には、中年の警官が立って現場を見回していた。注意深く足元を確認しつつ、若い警官が近づく。
「警部、容疑者の収容が完了しました」
「ああ、ご苦労さん。じゃ、俺らの仕事はこれで完了だな」
「ですが、売春の被害に遭った少女たちの聴取がまだ…」
「いいんだよ。ここら辺に闇売春宿があるって情報は上がってたんだ。むしろ立ち入り検査の手間が1つ省けてありがたいこった」
「1つ?同様の店が他にもあるということですか?」
「…警察の調べでは数十件。人権団体サマの言うことにゃ、それも氷山の一角だとか何とか…ま、詳しくは知らねえが」
 さほど興味がなさそうにそう言うと、警部は踵を返して現場を出ようとする。若い警官がその背に追いすがった。
「では、店を襲撃した犯人は?その点も捜査が必要では?」
「ギャングの抗争にでも巻き込まれたんだろうよ!よくある話だ。奴らの資金源の一つだからな」
「しかし、彼らの証言では、魔物が突然攻撃してきたと…」
「ギャングに襲われましたって素直に言うと思うか?口止めされてんだよ。バックにいる奴らにな」
 そういうことでいいんだよ、と小さく付け足すと、警部はタバコをくわえながら店の入り口を出た。
「勇敢な魔物が仲間を助けに来たってか?バカバカしい…」


警部が立ち去った後も、若い警官は現場に佇んだままだった。もう一度ぐるりと辺りを見回し、事件現場を細部まで注意深く観察する。
警部の言うことには納得できなかった。警官は考え込む。もしもギャングに襲撃されたのであれば、不審な点が1つあった。現場に銃撃の跡がなかったのである。つい先ほど現場を詳しく調査したが、銃痕も空薬莢も、銃器の類が使われた痕跡は何一つ発見できなかった。これだけの破壊を行ったギャングの集団が、襲撃に銃器を一つも使わずに終わるなどというケースを、彼は聞いたことがなかった。
その時、警官が脇に抱えていたハンドバッグ大の機械が電子音を発した。液晶画面と試験管のようなガラスチューブが取り付けられたその装置を抱え上げると、画面には今まさに鑑定の結果が表示されるところだった。
「ゲノムトラッカー」。ECPDで実験的に配備されている生体鑑定装置で、生物の体組織の一部を検査機にかけることで、およそ15分という短い時間で簡単なDNA鑑定を行うことができる装置だった。彼はこの検査機で、乱闘の跡に残されていた一本の毛髪を鑑定していた。東洋人を思わせる、長く、真っすぐな黒髪だった。この装置で特定可能なのは、動物の場合その種類、そして魔物の場合は、その大まかな種族。

〔鑑定結果: 魔物、サキュバス属〕
 液晶に表示されたその結果は、男たちの証言通り、獣人とは異なる種族の魔物が先程までこの現場にいたことを示していた。
 しかしこれを見せたところであの警部が考えを変えるとも思えなかった。若き警官は黙って装置の電源を落とすと、警部の後を追って現場を出た。



*    *    *
 ほぼ同時刻、ケイティとクリスのアパート
 音を立てずに玄関の扉を閉めたケイティは、廊下の明かりは点けないまま、抜き足差し足でリビングへ向かう。そのままクリスの書斎の前を通り過ぎようとした、その時。
「ケイティ!」
「あっ…」
 耳ざとく帰宅した音を聞きつけたクリスが、廊下に通じる書斎のドアから飛び出してきた。
「今朝は本当にごめん、ケイティ!もう黙って飲みに行ったりしないし、女の子と会ったりしない!あと女の子と写真も撮らない!だから…」
 床に這いつくばる勢いでまくし立てたクリスの謝罪は、最後まで続かなかった。不意にケイティがその胸に飛び込み、顔を埋めたからだった。
「…ケイティ?」
「…ううん、いいの。私こそごめん。こんなワガママで」
くぐもった声でケイティが言う。
「わかってるから。クリスにはクリスの都合があって、私にそこまで縛る権利はないってことくらい……でもね、たまにどーしても我慢できない時があって、そういう時はつい怒っちゃうの。クリスがどこかに行っちゃうみたいで」
ケイティは顔を上げた。真っすぐにクリスの目を見上げる。
「こんな私でもいい?嫌いになったりしない?」
「ケイティ…」
 クリスの顔にみるみる喜びの色が満ちていく。返事をする代わりに、クリスはケイティの肩を抱き寄せ、たっぷりと時間をかけてその唇にキスをした。

「でも、どうして機嫌を直してくれたんだい?朝はあんなに怒ってたのに」
 ふたり一緒にリビングへ向かいながら、クリスは尋ねた。ケイティは少しバツの悪そうな顔で答える。
「ん……ちょっとね。……あたしはだいぶ幸せだなぁと思って…彼氏が優しくて」
そっぽを向きながら小声で言うケイティ。
 その時、テーブルの上にあったクリスの携帯が振動した。条件反射的な速さでそれを取るケイティ。クリスは、携帯の通知を勝手に見るのはやめてほしいと頼むのを忘れていたことにその時気づいた。
 じっと画面に見入るケイティ。クリスは恐る恐る、その肩越しに自分の携帯の通知を確認した。
〔シオン:今日のランチの件だけど、同僚に見られてたみたいで、『もしかして彼氏ですか!?』って聞かれたわ。面倒だから今後呼び出すのは控えてちょうだい〕
ゆっくりとケイティが振り向く。
「今日、シオンと会ってたの?」





その日、クリスはリビングで寝た。
17/04/05 10:55更新 / 琴白みこと
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■作者メッセージ
シオン「いや、だってあんなに早く仲直りしてるとは思わなかったから……てっきりまだ帰ってないかと…」



ちなみに、シオンは26歳、ケイティが24歳、シェリルが23歳です。

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