連載小説
[TOP][目次]
雷獣サマ(上)

 異常とも言える豪雨の中、人々が傘を差して足早に目的地を目指していく。その人混みの中を一人の男がのろのろと隙間を縫うように彷徨う。その様子を見てすれ違う人々が、憐憫、興味、侮蔑等様々な思いを瞳に浮かべて通り過ぎていく。

 雨の中を長く歩き続けていたせいか男の服はぴったりと肌に張り付いており、苦笑いのようにも、悲しんでいるようにも見える表情と合わさり本来の齢よりも老いて見える。そのぐったりとした表情をのみ顔に張り付けて、長い時間雨の中を進んでいた。

 体を叩き潰そうとするかのように降り注ぎ続ける雨粒を衣服が吸い、そののろのろとした歩みをさらに重くする。水溜りも気にせず歩み続けている為に靴はぐっしょりと水気を吸い、中の靴下までも侵食して激しい不快感を起こす。

 体力を奪われているせいか、それとも雨が目に入ったせいだろうか。ぼんやりと視界が霞んでいる。もしかすると、尽きたと思った涙のせいかもしれない。
 大きな水溜りに足を突っ込んだせいでばしゃりという音と共に水が跳ね、近くの通行人が嫌な顔をする。心の中でざまぁ見ろという薄黒い感情が浮かぶが、すぐにかき消えていく。

 情けない。自分は人に不快感を与えて鬱憤を晴らすような人間だっただろうか。これでは日頃嫌悪している下賤な輩と何も変わらないではないか。しかし人間追い詰められれば本性が現れるというし、やはり先ほどの自分が真実なのかもしれない。

 そう考えて、一つ溜息を付く。こんな事を考えるなんてらしくもない。気分が落ち込んでいるせいだろう。まぁ、嫁に捨てられて落ち込まない男はいないだろう。特に、愛情を感じていたなら尚更だ。

 今の気分を反映したような空に恨めしい視線を投げかけ、男にとってはつい先ほどのように感じられる……数時間前の出来事を思い出す。



「離婚しましょう」

 久々の休日に、日頃の感謝も込めて一緒にどこかへ出かけようと朝食を食べながら思っていると、話があると真剣な面持ち言われ何だろうかと不思議に思っていた食事の後の一言目がこれである。

「……理由を聞かせてくれないか」

 何を言うべきかと迷い、伝えた言葉が妻には不愉快だったらしい。普段から少々不満を感じやすい女性だとは思っていたものの、ここまで溜め込んでいたのかと非常に驚いてしまうぐらいに次々と言葉が飛び出す。

 給料が少ない、家事を手伝ってくれない、かまってくれない、無駄な事にお金を使う、だらしがない等々……まさに濁流のように口から流れ出る。

 そのいくつかに反論したのだが、それがまずかったのだろう。妻の言葉が荒々しくなっていく。 お隣の旦那さんはいくら稼いでいる、家事もきちんと手伝ってくれるし、休みの日にはいつもどこかへ出かけている。お酒も飲まないしセンスもいい。貴方とは大違いだ。

 何も返す言葉がないので肯定すると、それはそれで気に入らなかったようで、テーブルの上にあった物を投げて馬鹿にしているのかと怒鳴り散らしてくる。いつもそうやって人を馬鹿にしたような上から目線なのがむかつくのよ。と。

 そんな事はない。いつも感謝しているし愛している。見下した事など一度も無い。そう伝えても怒りが収まらない。

 どうしたものかと困っていると、妻が携帯の画面を見せてくる。

 妻と見知らぬ男が、仲良さげに肩を寄せ合い笑顔で並んでいた。

 ……もしかしたら、と頭の片隅に居座っていたものの、信じたくはないという思いから蓋をしていた疑念が、現実の物になる。過ごす時間が短くなっていたものの、それでも分かるぐらいに分かる雰囲気の変化。化粧や、衣服、明らかに豊かになった表情。

 その写真だけで、第二の人生を送ろうとしているのだろうとおおよそ想像がつく。妻は若々しいとは言えないが、やり直すには十分な年齢だ。……俺と違って。

「これ。もう私の分は書いてるから」

 緑色の紙が差し出される。見れば、妻の言った通り片方の欄はすでに記名されている。

「じゃあ」

 それだけ言って立ち上がる妻をただ呆けたように眺める。何を言えば、という思いともうどうしようもないのだろうという思いが頭の中をぐるぐると回る。

 そうして扉から妻が去っていくとき、ふと目が合う。……ここで何かを言っていれば、何か変わったかもしれない。変わらなかったかもしれないが、可能性が0ではなかったかもしれない。

 結局のところ何も言えずただ目を逸らすだけに終わり、気分を変えようと外に出たのだった。



 ゆっくりと頭を振り、記憶を振り払う。終わったことだし、何度も掘り返すのは良くないだろう。……思い出さないようにするなんてのはおそらく、無理だろうが。

 かちかちと、男の歯が鳴り始める。体温が下がり、体が温度を保とうと働きはじめたのだろう。

 このまま歩けば男の体力は奪われ続け、その体は地に伏してしまう事になるだろう。それでも構わないかもしれないと男が思い始めた時。

「おうい」

 誰かが、呼んでいる。

「おうい、そこの野良犬のようなお前さん」

 聞き覚えの無い声だ。しかし、明らかに自分の事を呼んでいる。

「そっちは寒いだろうに。こっちへ来い」

 誰だろうか。しかし、不思議と引き寄せられる。そちらへぼんやりと歩いていくと、満足そうな声に変わる。

「よしよし。さぁ、顔を上げてみろ」

「……えっ?」

 俯いていた顔を上げて声のした方へ向けると、思わず声を出してしまう。

 今まで自分が歩いていたのは、それなりに人も多く栄えていた通りのはずだ。それが今、自分が見ているのは人っ子一人おらず、舗装されて無いせいでぼろぼろに荒れている道と、遠い昔に嗅いだ覚えのある土や木の匂いに囲まれたまさに田舎の風景。鬱陶しいほど身に注がれていた雨も消えている。

「ほらほらこっちだ。寄り道するなよ?」

 声のする方へ歩いていくと、寂れた神社のような建物が見えてくる。不思議と歩く足が速く、軽くなっていく。近付く度に、その神社の寂れた様子がはっきりとしてくる。長い事参拝されていないのだろう。雑草が生い茂り、ぼろぼろの壁も蔦が覆っている。

 階段に足をかけると大きく軋み、足場が崩れそうな雰囲気すらある。びっしょりと水気を吸った靴を適当に脱いで端に寄せる。それから同じように水分を含んだ靴下を眺め、これを履いたまま歩くのもどうかと思われたため脱いで靴の上に置き、冷えて感覚が薄くなった足で声に導かれるがままに進んでいく。しばらく歩くと、周囲と違って明らかに手入れのされている部屋へ辿り着く。

「失礼します」

「おう」

 返事を聞いて、襖を開き足を踏み入れる。

「来たか。さ、近う寄れ」

 そうして自分を導いた声の主を確かめようと、視線を動かし、思わず息を飲む。

 柔らかそうなソファーに女性が寝そべり、腕で頭をさ支えた状態でこっちを見ている。――美しい。ただただその一言だけが頭をよぎる。今まで見て来た女性の中で最も凛々しく、神々しさすら感じる整った顔立ちは、肉食獣のような鋭い瞳と相まって、男なら誰もがひれ伏してしまいそうな妖艶さを醸し出す。海のように深い碧さと、星空のような黒さを兼ね備えた蒼髪は宝石のようで、どんなに高級な装飾品すら霞んでしまいそうなほど煌めいている。

 そして視線を少しでもずらすと、その肢体が目線を釘付けにする。電子的雰囲気を醸し出しており、純粋な和装とSFを混ぜ込んだようなエキゾチックな和服はまるで、その魔性を人の体として封じ込める拘束具であったかのように体に食い込みながらも、その拘束を引き千切られたかのように大胆に着崩されている。局部は隠されているものの、白く透き通る肌は殆どが晒されており、蒼い髪と黒い衣服とのコントラストが女性の芸術性をさらに高めている。

「くく、そう見惚れるなよ。悪い気はしないがそのままではお前さんが風邪を引くだろ。さぁさぁ、こっちゃ来い」

「……失礼します」

 足を踏み入れると、ぞわぞわとした感覚が体中を走る。正体不明のそれを我慢して、ゆっくりと部屋を進んでいく。どうなっているかは分からないが、どうも女性に近付く度に刺激が増していっているようだ。

 距離が1メートル程度になったところで立ち止まると、上から下までをじっくりと観察される。それから満足そうに頷くと愉快そうに言う。

「オレの目もまだまだ衰えて無かったな。ばっちり的中じゃないか」

 からからと笑う女性に何と返せば良いのか逡巡していると、ぐしゅり、と品の無い音と共にくしゃみが出る。それを見た女性が慌てて体を起こす。

「いかんいかん。まず何より着替えないと風邪を引いてしまうな。おうい!服を持ってこい!あと飯だ!酒も忘れるなよ!」

 どこかに向けて声を出したかと思うと、奥でぱたぱたと音が聞こえてくる。様子からして、10人以上は仕えているのではないだろうか。そんな事を考えていると、女性がソファーから立ち上がりこちらに近付いてくる。一歩下がろうとすると、白く滑らかな指が服を掴む。

「動くなよ。脱がし辛いだろう」

 何を言っているのか理解する前に、女性がぐいと体を寄せ、今まで体温を奪っていた濡れた服をするりと脱がしていく。その動きすらも美しく、乱暴に剥ぎ取られたせいで飛び散る水滴すら、彼女の美貌を際立たせるために用意されたかのように思える。

 その動きに見惚れていたせいで、ずるりと下まで完全に剥かれていた事に気付くのが数秒遅れる。慌てて下を隠そうと動く前に、女性が飛びかかってくる。あまりにも激しかったためかなりの衝撃を覚悟していたが、その予想とは反対にふんわりとしたものが体を受け止める。

 先ほどまで何も無い床だった所に、布団が出現している。女性に近付く途中に踏んだ時にはしっかりとした硬さを持っていたため、幻覚などではないのだろう。

「おい、絶世の美女に押し倒されても無反応か?お前さんは枯れてるのか?」

「すみません」

 むすりとした表情すら芸術品のようで、ぞわぞわとする感覚が掻き消される気すらする。

「謝るな謝るな。褒めろ。何でもいいぞ」

「……柔らかい、です」

「おう、それから?」

「とても、良い匂いが」

「当たり前だ。それで?」

「暖かい、です。本当、に……」

 どれだけ体が冷え切っていたのだろう。服越しと肌が直接触れた部分の両方からエネルギーが注ぎ込まれるかのように、温かみを感じる。遠い昔、母に抱かれた時のような温かさ。そのゆったりとした快感に、瞼から力が抜けていく。

「おお、よしよし。少し休むといい。しばらくしたら起こしてやる」

「す、み……ま……」
 ゆっくりと頬を撫でる指に魂が吸われるかのように視界が暗くなり、最後まで言い終わる前に、意識が深く沈んでいった。



 ゆっくりと体を揺らされ、沈んでいた意識が浮き上がってくる。ぼんやりと思考を手繰り寄せながら覚醒を待っていると、凛とした声が響く。

「そろそろ起きろ。飯だぞ」

 声が聞こえた方を向くと、浴衣のようなものを先ほどの服装と同じように大胆に着崩して、座っている姿が目に入る。

 起き上がると、体を揺すってくれたのであろう少女がぱたぱたと駆けていき、女性と違ってきっちりと服を着た他の少女達に並ぶ。その少女達の顔立ちには女性の面影がある事から恐らくは彼女の娘なのだろう。

「とりあえず何か着た方が良いだろうと思ったから適当に着せておいた」

 こちらに背を向け、テーブルに並べられた食事を取り分けながら話しかけてくる女性の強調された臀部が目に入ってしまい、寝起きで熱を持っていた下腹部がさらに熱くなる。着せられていたのは女性が身に着けているような薄い生地のもので、そのまま立ち上がれば確実に盛り上がっている事がばれてしまいそうだ。

 こちらに興味ありげな視線を投げかけてくる少女達にばれないように位置を調整して服の中に納まるように隠していると、女性がこちらを振り返り首をかしげる。

「どうした。起き上がれないなら手を貸してやろうか」

「い、いえ。すみません」

 慌てて立ち上がりゆっくりと女性に近付くと、にこにことした顔で真横の床をぽんぽんと叩く。恐らくここに座れという事なのだろう。示された通りに横に着席する。そこでようやく、聞きたかったことが口から出る。

「あの、貴女は一体……」

「まぁまぁ、色々話もあるがしばしそれは忘れろよ。腹減ってるだろ?」

 言われてみれば、確かにそうだ。どれだけ寝ていたのかは分からないが、それなりの時間を歩いていたため昼食の時間は過ぎているだろうし、その分空腹を感じている。しかし相手がこう言ってくれているとはいえ、食事に手を付けるのはいささか……

 そう思うものの、目の前に並べられた食事から目を逸らすことができない。もし料亭で食べるなら、一体いくら払う事になるのかというぐらいに豪勢な料理の数々がテーブルの上に乗っている。

 山菜の物と思われるお浸しにはじまり、様々な素材が使われて揚げたての香ばしい香りをさせている天ぷらや、鮪や鯛やイカやタコだので覆い尽くされ何があるのかもよく分からないほど盛られた刺身。見るからに新鮮そうな野菜と赤みが鮮やかな肉が脇に準備された鍋物に、鮎と思われる魚が丸ごと入った炊き込みご飯。その他にも様々な料理。

 美味いものをこれでもかと言うほど集められたこの食事には、かなりの忍耐力を自負する男ですら食欲を隠せない。

 その様子を見て女性が顔を綻ばせる。

「それだけ喜んでくれると準備した甲斐があったというもんだ。さぁ、遠慮せず好きな物を食え」

「い、頂きます……!」

 手を合わせると、もう我慢が出来ないと言わんばかりに料理に箸を伸ばす。

 そこから先の事は、男には殆ど記憶がない。正確には無いわけでは無い。余りの多幸感に我を忘れ、がむしゃらに貪り続けていた為はっきりとしていないだけである。口に入れる度に弾ける今までに経験したことが無いような味わいに無我夢中となってしまっていた。

 ようやく男の思考が正常なものに戻り始めたのは食べ始めてから1時間程度経過してからだった。おおよそ腹を満たして箸が落ち着き、一息付いていると女性が声をかけてくる。

「いい食いっぷりだ。腹は膨れたか?」

「おかげさまで……なんとお礼を言えば」

「いらんいらん。まったく、クソ真面目は血筋だな」

 苦笑いをしながら女性は盃にとくとくと酒を注いでいく。

「とりあえず飲め。酒が入ってないお前を相手にするのは骨が折れそうだからな」

「はぁ……いただきます」

 ずいと差し出された盃を受け取り、ゆっくりと飲み干す。甘みと独特の香りが口に広がり、嚥下するとそれがゆっくりと喉を抜けていき、酒を飲んだ時特有の体が熱を持ったような感覚が臓腑から湧き上がってくる。

「美味い……」

 思わず声が漏れる。それを見て愉しそうに笑うと、男の盃をひょいと取り上げそこに酒を注いで一気にあおる。勢いよく傾けたせいで口の端から液体がこぼれて喉を伝っていく。それをぐいと袖で拭い、にやりと笑う。

「当たり前だ。適当なものを客に出したとあっては沽券に関わる……さて、体はどうだ?」

「……?何、が、っ……!」

「うむ。流石は子作り酒と呼ばれるだけあるな。あの狸もたまには役に立つ」

 どくり、と体全体が脈打つような感覚と共に体が猛烈に熱を発し始める。特に下腹部付近は血が煮えたぎっているかのように激しく熱を持ち、ぎちぎちと逸物が張りつめる。目の前の女性が何かを喋っているのは分かるが、その内容にまで頭が回らず、

「おうおう、辛そうだなぁ……」

 自分の体を支え切れなくなった男を自分の胸に抱くと、女のその白い指が服をはだけさせていく。男がそれに抗おうと身じろぎをするが、まるで蜘蛛が獲物をがっしりと捕らえるかのように女の肢体が絡み付く。

 その様子を少し離れた所で少女達が見入っている。小学校に通うような年齢から成人になる手前ぐらいまでの年頃の少女達の眼は、目の前でこれから繰り広げられる行為を期待するかのように熱を帯びている。

「さて、お前らも将来やる事になるんだ。きちんと見て勉強するんだぞ?」

 少女たちの方に声をかけ、全員が食い入るように見つめているのを確認すると、男の耳元でねっとりと囁く。

「さぁて、お前さんよ。これから、オレからもう二度と離れられないような体にしてやるからな……?」
15/10/08 00:38更新 / ポレポレ
戻る 次へ

■作者メッセージ
雷獣さんに一目ぼれしてしまい、連載中の物が終わってから書こうと思っていたものを繰り上げて連載開始しているので、同じようにのんびり待っていただければ幸いです。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33