連載小説
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桃編

 逃れたと思っていた。終わったと思っていた。克服したと思っていた。
そうではなかった。
あの夏のあの日と同じに、その存在は雅史の前に立っている。
お隠しの奥から、雅史を見つめている。
よりにもよって、娘の姿形を取って。
「……っっ!……っっ!……」
ひゅうひゅうと声にならない息の塊を吐き出して、雅史は後ずさった。
どん、と背中が冷蔵庫にぶつかる。
ぐにゃりと膝が崩れて、雅史は床に座り込んでしまう。
そんな雅史の姿を見ながら桃はぺたり、ぺたり、と近付いてくる。
雅史は恐怖で思考停止に陥りそうになる頭を必死に回す。

どうすればいい?
どうすればいい?

 娘は明らかに普通の状態ではない。
「お隠し」の存在など知るはずもない娘が、あんな装いをする理由が思いつかない。
憑かれているとしか思えない。タネコヒ様にだ。
助けなければ、娘からタネコヒ様を追い払わなければ。
だがその方法が分からない。
依江、依江に頼る以外無い。
知らせなければ、今、自分が彼女に知らせなければ。
それが娘を救える唯一の方法だ。
雅史は立ち上がろうとしたが、膝が言う事を聞かない。
身を捻って床に這いつくばる。
恥も外聞もなく床を引っ掻いて進む。
台所からリビングへ。
逃げて行く雅史を桃は首を巡らせて視線で追う、見えないはずの目で追う。
そして急ぐでもなくぺたり、ぺたりと歩いて追いかけ始める。
「桃っ……!桃っ……!やめてくれ……!」
呼びかけながら這って逃げる雅史の声にも反応を示さない、ただゆらゆらと上体を揺らしながら歩く。
リビングを経由して、玄関に続く廊下に何とか辿り着く。
壁に手を付いて体を起こし、走り出そうとするが相変わらず膝はがくがく笑うばかりで全く思うように進まない。
「ぜっ……」
逃げなくては、とにかく今は。
「依江っ……!」
無意識に、妻の名を呼んでいた。

 カチャ

 聞こえた。
自分の乱れた呼吸音に紛れて聞き逃しそうになったが、確かに玄関から聞こえた鍵を外す音。
誰か?
妻以外にいない、帰って来てくれた。
依江。
雅史は泣きそうになりながら言う事を聞かない足を動かして玄関を目指す。
玄関のドアが見える。
それが開いて、依江の顔が見える。
大きく目を見開いてこちらを見た。
焦点がこちらに向けて逃げる夫から、その背後に合わされた。
「依江……!」
無我夢中で呼びかける。
それを見た依江は。

 微笑んだ。

 (え?)

 カチャ

 その表情に違和感を感じている間に、依江は後ろ手に鍵を閉めてしまった。
頭の中が疑問符で一杯になる。
どうして鍵を閉めて逃げ道を塞いでしまうのか?
桃を外に出さない為か、何か考えがあるのか。
何で笑った?
今の表情は驚きというより、まるで喜びを表しているような。
娘がこんな状態になっているというのに。
困惑する雅史に依江は微笑んだまま歩み寄って抱き締めた。
いつもの妻の柔らかさ、いつもの妻の匂い。
だけど今はそんな場合ではない。
「よ、依江っ!と、桃が!桃がんぐっ」
唇が塞がれる、驚嘆に見開かれる雅史の目を蕩けた依江の目が見つめ返す。
「ごめんね」
糸を引きながら離れた口から零れる謝罪の言葉。
雅史にはわからない、何故謝るのか、何に対する謝罪なのか。
そんな雅史を見て、依江はまた微笑んで唇を塞ぐ。
「んん!?」
ふわり、と、暖かな感触が背中を包んだ。
桃だ。
とうとう追いつかれてしまった。
温かい、こうして接触するのはいつぶりだったか。
成長するに従って接触を避けるようにしていたから、こんなに大きく育っている事に気付かなかった。
「んんー!」
身悶えて二人を振り払おうとする。
だが、逃げ惑う舌を依江が捕まえて甘噛みされただけで膝ががくりと抜けた。
「ぷはぁ、依江、依江、何で、どうして、んんっ」
必死に抗議するが、少しの間も離したくないというようにまた唇を奪われる。
昂っている、依江はたまらないくらいに昂っている。
「ふ、はぁぁ」
その昂ぶりを背後からも感じる、桃からも。
すり、すり、と股間に股間を押し付けられる、早く欲しいと催促するように。
すり、すり、と、後ろの臀部にも押し付けられる、こちらも催促するように。
桃が欲しがっている。
桃が!?
全身を貫くような衝撃が走る。
状況は理解できない、だが、このまま状況に任せると絶対に超えてはいけない一線を越える事になる。
「んん!んん!」
抵抗する。
なりふり構わず手足を振り乱して、自分を挟み込む二人の肉体から逃れようとする。
逃げられない。
甘く痺れた身体がうまく言う事を聞かない。
だが、それ以上に二人の力が強い。
小柄な妻と高校生の娘にまるで抗えない。
じゅっぱ
「善、治、頼む、お願い、だ、善治……」
唇から逃れ、無意識に妻の旧姓を呼んだ。
依江は微笑む。

「「たね」」

 前と後ろから、二人の声がシンクロして聞こえる。
妻と娘の声。

「「下さい」」

 (ああ……)
すとん、と雅史の身体から力が抜けた。
認識してしまったのだ。
自分は逃れられない背徳の運命に囚われている事に。
力の抜けた雅史の身体を、二人はずりずりと奥のリビングに引き込んで行く。
(何時から?)
引きずられながら、雅史の脳裏に疑問がよぎる。
何時からなのだろう。
この運命に囚われたのは。

 善治と結婚した時?

 善治がタネコヒ様に憑かれた時?

 善治に相談した時?

 森でタネコヒ様に見初められた時?

 そもそも善治と出会った時?

 あるいは生まれた時から?

 わからない。
ただ雅史にわかるのは。
自分の陰茎がその交わりの予感にはち切れんばかりに膨張し。
二人がそれを心底喜んでいるという事だけだ。







 「ご先祖に何か咎があったとしか思えん……お前のような者が生まれるなど……」
ごめんなさい
「全く役に立たない癖に図体ばかり大きくなりよって」
ごめんなさい
「何で家にいるんだい、居る権利があると思うのかい?」
ごめんなさい
「どうして生きてるんだ?この愚図」
ごめんなさい
「ちょっとは役に立てたって喜びなよ、そんな体をしてるんだからさ、アハハハハハ!」

 「……ん、もう……」
ベッドから身を起こし、桃は頭を振る。
時折見る悪夢。
見知らぬ人々に責められる夢。
それだけでも辛いというのに、さらに最悪なのは自分がその言葉に対して一々締め付けられるような罪悪感を覚える事だ。
これは昔からずうっとだ。
物心付いた時から定期的にこの悪夢を見る。
その手の事に詳しい母に聞いてみても「いつか分かる時が来る」と言われる。
分からないと言われるならまだしも、分かっているけど知るのは今ではない、みたいな言い方をされるから気になる。
「んー……」
とは言え、もはや見飽きる程に見た悪夢だ。
内容についてくよくよ悩む事もなく、ごそごそとスマホを取り出して時刻を確認する。
窓から差し込む明かりとしゃわしゃわと聞こえる蝉の合唱で大体わかっていたが、もうそろそろ起きなくてはいけない時刻だ。
身を起こし、長い髪を整えて支度を始める。
荷物自体は前日に準備を終えていたので内容を確認するだけだ。
ヴー、ヴー、
スマホが振動し、メールの受信を伝えたので内容を見ると父からだった。

 (おはよう、寝坊してませんか、電車の時間に遅れないように
お父さんとお母さんは無事到着しました、とてもいい所です、そちらも旅行楽しんで)

 一文と共に旅館の内装を撮った写真が数枚送られて来ていた。
「寝坊してませんよーだ……」
メールに返信しながらも、桃の心情は少し重い。
両親に嘘を付くのは初めてではない、だが、これだけ大きな嘘を付いた事はない。
夏休みと言えば普段は家族三人で旅行に行くのが恒例だったが、今年は違う。
自分は友人と一緒に旅行に行く予定があるので、両親とは別行動をする。
旅行に行くというのは本当だが、友人と一緒にというのは嘘だ、自分一人で行くつもりだ。
そして伝えてある旅行先も嘘だ。
両親には有名な観光地に行くと伝えているが、実際に行こうと計画しているのは知名度も何もない場所。
「……」
とん、とん、とスマホを操作し、何度も調べたその地名を表示する。

 △△村

 実際には現在廃村になっているその場所。
どうしてそんな所に?と聞かれてもわからない。
ただ、どうしてもそこに行きたい。
行かなくてはいけない気がする。
行ってどうするかもわからない、でも行かずにはいられない。
「はあ……」
溜息が漏れる。
親に嘘を付いている事に対しての罪悪感もそうだが、今日は顔を見られないと思うと寂しい。
これから数日の間、お父さんに会えないのが辛い。
自分はファザコンだ。
周囲にも公言している事だが、自分は相当に重症だ。
シュッ、シュッ、と画面をスライドさせて写真を表示する。
色々と撮っているが、ジャンル分けされている中で一番多いのが父の写真だ。
家族写真というには少しおかしい。
一緒に写っているものだけではなく、明らかに隠し撮りとしか思えないものも多数ある。
きっと人にバレたら気味悪がられるだろう、そう思いながらも止められない。
それどころか、自分はこれを超える犯罪まがいの事も……。
今日会えない分を補充しようとするかのように、父の写真を一枚一枚舐めるように鑑賞してからスマホをしまう。
もう電車の時間だ。
荷物を纏めてリュックを背負い、桃は蝉の鳴き声とうだるような陽光の中に足を踏み出した。


20/09/20 09:46更新 / 雑兵
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