連載小説
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アイテムポイント【ミルタ●クサーバー】
「フン、ぐぬぬ……」
田川恵子は一人、自室で何やらトイレのスッポンのようなものを自らの胸に当て、力一杯に引っ張っていた。十人並みの顔を真っ赤にさせて、その顔は今や、仁王様もかくやであった。彼女の周りには開かれたままの雑誌が転がっている。
それらは文言すら違えど一様に、
豊胸やら、バストアップやら、胸を膨らませる特集が組まれている。しかしそれだけでもなく、ちっぱいなんて怖くない、貧乳はステータスだ、ない胸を張ろう、あんなもの重たいだけだ、肩こりの辛さ、などなど、自己啓発や、巨乳のデメリットを述べた本や雑誌まで散らかっていた。
他にも数々の豊胸器具。冷蔵庫には各種のサプリが収められている。
何を隠そう、彼女は貧乳であった。
東に豊胸に役立つ牛乳あると聞けば絞りに行き、西に女性ホルモンを高めるマッサージがあると聞けば受けにいき、南に貧乳をなじる者がいれば殴りにいき、北に貧乳を讃える者がいれば馬鹿にするのかと罵りにいき、といった具合には、彼女はちっぱいを拗らせていた。
しかし、それも仕方のない話かもしれない。
今までに彼女が付き合った男性は路上でたわわな胸を見つければ目を惹かれ(それが彼女を愛していないということには繋がらないのだが)、癇癪を起こした彼女と喧嘩になって別れるということを繰り返していた。
もっとも、最後に付き合った男性は本気で彼女のちっぱいを愛で、巨乳には目もくれないという筋金入りの益荒男(ますらお)であったのだが、彼女はそのコンプレックスから、疑心暗鬼で癇癪を起こし、別れたばかりだった。今考えれば勿体無いな、とは思う。恵子も彼のことを嫌いになって別れたわけではないのだ。
ともあれ、
そんな、彼女の貧乳(ひんぬー)は、歴史のあるちっぱいであった。
「くっそう。これも効かないじゃない」
彼女はキュポンと自分の胸からスッポンを外すと、壁に叩きつけた。
ぽよん、とゴム部分が柔らかな音を立て、それもまた彼女を苛立たせる。
「何が母性の象徴よ。何が包容力がある、よ。……くっそう」
彼女は泣きべそをかきそうな顔を一瞬すると、すぐに覇気を取り戻してパンツ一丁の姿で台所に向かう。冷蔵庫を勢いよく開け放ち、腰に手を当てつつ豪快に牛乳を一気飲みし、そして腹を壊した。
ゲソっと頬をコケさせて、彼女はトイレから出てくると、豊胸に良いと言われた二プレスを貼り付け、出社の支度をする。シャツを着て、ワイシャツを着て、スカートをはいて上着を整える。化粧をして口紅を塗り、唇をつむいで整えれば、どこに出しても恥ずかしくないOLが出来上がった。
先ほどまでとは別人になった彼女はハイヒールをはき、「行ってきます」と、感情の籠もらない声で、朝の日差しを浴びた。

「恵子、あんたまた彼氏をふったの? また胸?」
と、喫煙室を出るときに、恵子は同僚の糸塚女史に声をかけられた。彼女は怜悧な美貌に眼鏡をかけ、ボタンがはち切れんばかりの胸を無理矢理スーツにおしこんでいた。
「別に男がみんな胸を求めているわけじゃないわよ」
と、困ったような顔をする。
それはそうだろう。彼女は胸だけでなく、尻もタイトスカートをパツパツと張らせている。だと言うのに腰は蜘蛛の腰のようにキュッとくびれて、まさしく彼女は恵子の天敵ともいえる相手だった。
何やら最近部下を彼氏にして、同棲も始めているらしい。そうしてますます美しさに磨きをかけているようで、妬ましく思う自分に恵子は辟易とする。
「ちょっと、なんでまた決めつけるように言うのよ」
「でもその通りでしょ」
「うぐっ、ぐぬぬぬぬ」
恵子はギリギリと歯ぎしりをしてしまう。
「ちょっと、女子がそんな音を立てるものじゃないわよ」
糸塚女史は呆れ顔で、その鮮やかなリップを微かに歪めると、
「そんなあなたに紹介したいアプリがあるのだけど、どうかしら」
と言ってきた。
恵子は彼女の豊満な胸部をチラと見て、複雑な気持ちを抱いた。それはきっと胸に関係するアプリなのだろう。アプリがどう関係してくるのかは見当もつかないが……。しかし、彼女は下手なものを勧めはしない。それに、恵子を馬鹿にしたり貶めたりすることもない。
だから、天敵とはいえ嫌うこともできず、心の底では良きライバルと認め、切磋琢磨の対象としていた。仕事の上で、ではあるが……。プロポーションも恋愛も天と地ほどに業績はかけ離れている……。
しかし。
それは今までのものとは違って効果があるのかもしれない。それでも、敵から塩を送られるのも……さらにはそれで効果がなければ奈落の底に叩きつけられるような屈辱を覚えるに違いない。いつしか恵子は眉根に皺を寄せていた。
「なぁに? 慈善事業のつもり? ふーん、彼氏のできた人は上から目線ですこと。さぞや毎日楽しいでしょうね」
恵子は皮肉たっぷりだったが、
「…………うん」
というまるで少女のように顔を赤らめる相手の様子に、思わず自分まで顔を赤らめてしまい、毒気を抜かれた。彼女のような怜悧な美女がそのような表情を見せれば、ただの少女よりも効果は抜群である。
「あー、あっついあっつい。ここ空調効いてないのかしら」恵子は襟元をはたいてそんなことを言った。
通りかかった、これまた見事なプロポーションの美女が、「む、空調の管理は十分だったはずだが……」というのには慌てて弁明する。エスニックな容貌の美女は、作業服を着てモップを手にしている。なんとなくだが犬っぽくも思える。
……というか、掃除のお姉さんにいたるまでこの会社には美女が多い。
彼女の胸も見て、恵子は心を決める。
「…………いいわ。やってやろうじゃないの」アプリを始めるというにしては尋常ならぬ覇気がこもっている。「あゆみ、いつまでもだらしない顔をしてないで、早く教えなさいよ」
「だ、だらしない顔なんてしてないわよ」
と、糸塚女史は我に返りつつ、そのアプリを教えてくれる。
恵子が彼女に教えられた通りにスマホを操作すると、そのアプリはすぐに見つかった。
「まもむすGO? 何これ、理想の男性があなたを捕まえに来てくれます……うわぁ、あゆみこんなのやるの?」
「私はやっていないわ。……彼とはこれを知る前に……」
「だーっ、はいはい。のろけはいいから。で?」
この説明だけを見れば、豊胸に繋がるとは思えない。恵子は先を促す。
「えっと、これには付属の機能で、体調、体格の自己管理機能がついているのよ」
へぇ、と恵子は言われた通りに動かす。
項目に出てきた通り、バストの項目もウェイトの項目も糸塚女史に万が一にも見えないように隠しつつ、彼女はタプタプとタップをしていく。そうして理想のバストサイズなりなんなりも隠しつつ打ち込んでいく。その際に、ナビゲート役の狸のマスコットキャラクターと目があった気がして、ソッと気まずそうに目を逸らされたのには、「狸ェ……」とスマホを投げそうになった。
「これでいいのね……」と、恵子はあゆみに尋ねた。
「そうそう。その後どうなるかは知らないけれど」
「ちょっと!?」
恵子は目を剥いたが、糸塚女史は「大丈夫よ。悪いようにはならはいはずだから。恵子がこちら側に来てくれるのを楽しみしているわ」そう言って、艶かしいヒップをくねらせて去っていった。女の恵子が見ても思わず触りたくなるほどに見事である。
あれを自由にできる彼氏は幸せ者だ。
なんてことも思うが、それよりも……。
「くっ……なんて上から目線……。いいわ見てなさい。あなたですら羨むバストを手に入れてみせるんだから」
恵子はそう決意を固めるのだった。
そんな彼女をよそに、アプリを教えた糸塚女史は、自らの張った糸にかかった獲物を前に舌なめずりをする蜘蛛のように、鮮やかなリップを薄っすらと歪ませるのだった。その隙間からは、牙のような犬歯が覗いている。



「うーんと、ここを曲がって……」
恵子は終業後、見計らったようにバイブしたスマホを見れば、アプリにクエストの文字が浮かんでいた。

【バストアップクエスト】
指示された場所に行き、所定のアイテムをゲットせよ。

全力で馬鹿にするようなクエスト名に、彼女は憤慨と胡散臭さを思いながら、その指示された場所を探して街を歩いていた。
彼女の勤めている会社は定時キッカリに終わってくれる。心配になるほどに労働条件がよい。まだ夕焼け色にもならない空を見て、彼女はぽつりと呟く。死んだ魚のような目から、涙がこぼれないのが不思議であった。
「私、何やっているんだろう」
胸を大きくするために、天敵に授けられたアプリに従い、こうしてクエストで指示された場所へと向かっている。あゆみは信じられるので、行った場所で高額なサプリメントを売りつけられたり、妙な宗教団体に放り込まれたり、黒服の男たちに捕らわれて売り飛ばされたりなどはしないとは思う。
しかし、はたから見れば滑稽な自分の姿に、目頭が熱くなる気はする。込み上げてくるのは憤怒と嫉妬かもしれないが……。
街を行き交うカップルたちが鬱陶しい。結婚が人生の全てではないにせよ、まだ希望は捨てたくないと恵子は思っている。
本当に大きくするべきところは胸ではないのだが、今までのやり方を変えられずに、彼女は指定された路地の隙間に入り込んだ。
「なんか、ヤバげなんだけれど?」
大通りから一本入り込んだだけだというのに、なんとなく空気が違った。嗅いでいると妙な気分になりそうな、甘ったるい匂いがする。人っ子一人いないが、室外機の影に誰かが座り込んでいるような気もして、肌がぞわぞわとした
建物の隙間からは見上げる空は、一気に夕焼けになったような色合いで……
「あはは、ピンク色なんてあるわけないわよね……なんかやっぱり変な煙でも出てるんじゃないかしら……これで私が酷い目にでもあったら、意地でもあゆみの枕元にたどり着いてやる」
そうして彼女のあの見事なヒップを揉みしだいてやるのだ。こう、ワシワシと。彼氏と情事の最中だろうが知ったことではない。
と、胸ではなく妄想を育てていると、彼女はようやく指示された場所にたどり着いた。
そこにはイヤに重厚で、山羊だか牛だかの動物の頭をかたどった、ドアノッカーのついた扉があった。
まるで小説の中の魔術結社の館の扉のようだ。
あー、これは完璧にヤバいやつだ。と、恵子はここで引き返すかどうか迷った。
が、ピロン。
アプリの画面には、牛の方のノッカーでノックをしろ、という新たな指令が出た。
もって計ったようなタイミングでーーこれはGPS対応なのだろうかーー何者かに見られているような思いもして、恵子は頬をヒクつかせる。
しかし、もうここまで来たのだ。彼女は喉を鳴らして、ドアノッカーでドアを叩く。
ガチャリ
と、ドアが内側に開いた。
そこには、見目麗しい女性が、タキシードに身を包んで立っていた。
「『バー・バッカスロンド』へようこそ」
彼女は丁寧なお辞儀をしたが、その頭には変わった形のツノが付いている。まるで悪魔のツノのようである。しかし、
ここはコスプレバーか何かかしら、と。
異常なことを異常と感じさせない懐の深いクールジャパン文化を知っている恵子は(ちっぱい好きの以前の彼氏は、ツノのついたぺたんこ胸少女のフィギュアを持っていた)、店員の姿をただのコスプレとして受け入れた。
「さぁ、こちらへどうぞ」
豊満な胸の彼女に促されて(驚くべきことには、彼女の尻からはこれまた精巧な作りの悪魔の尾に、背中からも悪魔の羽が生えている)、廊下を進み、恵子は店内へと歩を進めた。
中は存分に賑わっていた。店内には、薄桃色や薄紫色の明かりが灯り、退廃的な印象を覚えた。客の男性は普通の格好をしているが、女性たちは様々なコスプレをしていた。
明らかに足のない女性や、肌の色が違う女性もいたが、最近の特殊メイクはすごいのね、まるでハロウィンみたい、と彼女は思う。ビバ、クールジャパン、ビバ、懐深く上っ面だけ吸収する日本文化、である。
まるで、ではなく、ある意味ここは本物のハロウィン、サウィンである。
魔物たちが我が物顔で跋扈する。
年端もいかない少女のような姿格好の店員にも、彼女はすでに気にすることはなくなっていた。彼女はカウンターに腰掛けると、スマホの画面を、巻きツノの女性バーテンダーに向かって見せた。彼女の胸も豊満である。
バーテンダーはアプリの画面を見て、納得したように頷くと、
「わかりました。ミルク生搾りですね」
「ええ」
と、恵子も頷きを返した。
ビールではなくミルクの生搾り。
風変わりなメニューだ。まさかこの裏に本物の乳牛がいるわけでもあるまいし、それに食品衛生の法律上、本物の生搾りは出せないはずだ。牛乳は細かく、殺菌する際の加熱温度、時間、が定められている。大学時代の懐かしい記憶を思い出しつつ、彼女は品が出てくるのを待った。
クエストの指令には何杯飲めなどとの細かい指示はなかった。
書いてあったのはただ、この店でそのアイテムを手に入れろ、とだけ。
奇妙な店も知れたし、そのミルクを一杯飲んだら帰ろう。カップルの多いこの空気の中で、一人酒はさすがにやれない。今度はあゆみを連れて来てみようか、女同士の客もそれなりに見かけるから、そうしてみるのもいいかもしれない。恵子がそう思っていると、
「お待たせしました」
トン、と。
前に樽の形をしたジョッキが置かれた。
ふわっと、ミルクのいい香りがした。甘くて優しい香りが鼻腔を満たす。へぇ、と恵子は軽く舌で唇を濡らし、期待にない胸を膨らませる。ジョッキを持ち唇をつけた。途端、
ーー牧場の景色が広がった。
芳しい、牧草の匂いがする。若草をはむ牛の、ノンビリとした歩み、筆の毛先のような尾が揺れる。そして、ふっくら膨らんだお乳のヴィジョン。
「いや、これ凄いわ……」
自分は確かにバーのカウンターに座っている。しかし、確かに感じた牧場の草いきれに、恵子は感心するしかなかった。味も甘いのに後を引かず、爽やかで、だと言うのに体が求めずにはいられない。まるで母乳を飲んだかのように染み込む、母性まで感じる。私に足りないのは胸ではない。このような包容力だ、とまで思った。
ジョッキを見れば、いつの間にやら空である。
「おかわりをもらえるかしら」
「ええ、そう言われると思いました」
バーテンダーの穏やかな微笑みに、
こやつ、できる……。
と、恵子は再び感心するのであった。

三杯もジョッキでミルクを飲んだと言うのに、朝のように腹を壊すこともなく、恵子は店を後にした。正直言えばまだイけたのだが、「初めはそれくらいにしておかれた方が良いですよ。体がビックリしてしまいますから」と、できるバーテンが豊かな胸を意味深に揺らしながら言うものだから、彼女は大人しく引き下がることにした。
効果のほどが楽しみだ。
そうして彼女は意気揚々と、家に帰った。

「すげぇ……。あ、よだれ出ちゃった……」
翌朝、起き抜けのボサボサの頭で、彼女は驚愕していた。
自らの胸をぷにゅぷにゅと触ってみる。
今までどれだけ試しても変化のなかった胸が、膨らんでいた。触りすぎて腫れた程度の変化ではない。今までは押してもまな板の上に、あの、カレーをつけるナンを乗せた程度の厚みしかなかったというのに、今はナンと言うことだろう、六枚切り食パンを乗せた程度には弾力を感じる。
夢じゃなかろうか……。
そう思って彼女は豊胸器具の一つを手に取ってみる。乳首をつまんで胸に刺激を与えるというやつである。簡単に言えば、お笑い芸人がよくやる、乳首バサミのソフトなやつ。夢でなければそれなりの刺激が加えられるはず。彼女は期待を持って、それで乳首をつまむ。
「ふやぁあああ!」
予期しなかった刺激に彼女は喉を仰け反らせて震えた。
慌てて乳首バサミをパッチンともぎとれば、その刺激でまた絶頂を迎えた。彼女は真っ赤になる。
「な、なんでこんなに敏感になってるのよ……。副作用? 変な薬でも入っていたわけじゃないでしょうね……」
彼女は今までに自分でも他人からでも感じたことのない快感に、少々怖気付いた。
しかし、ようやく発育の兆しを見せてくれた自らの胸に対する期待の方が大きかった。彼女は二プレスを取り付ける。
「うっわぁ……。乳首勃起したまま治らないじゃない……」
二プレス程度でおさめられると思うなよ、と力強く主張する自分の乳首は自分のものではないよう。だが、彼女はもう恐怖など感じてはいなかった。
笑みを抑えきれないという顔で、彼女はタンスの引き出しを開ける。
「これは……まさか私がブラジャーをつける時が来たというのかしら?」
そこにはいつか使うためのブラが、カップ別にいくつも収められていた。友人に送ると誤魔化しながらも、買い続けた甲斐があったというものだ。
「まずはスポーツブラからね」
身につけてみれば、胸の膨らみを抑えるための少々の圧迫を感じる。感じとしてはその程度だが、その程度でも胸に膨らむ期待は抑えられない。彼女は「うふふ、」と、気味の悪い微笑みを浮かべると、いそいそと出社の支度をするのだった。



「あゆみ! ありがとう」
昼どきに見つけた糸塚女史に、恵子は飛びついた。
「きゃっ、ちょ、ちょっと……お尻を触らないでよ」
「いいじゃない減るものじゃないし」
「そうだけど……」と、彼女はやけに陽気な恵子の様子に怪訝な顔をしたが、すぐに形の良い鼻をヒクつかせて、恵子の顔に鼻を寄せて来た。怜悧な美貌が息のかかるほどの間近に現れて、恵子は同性でも妙な気分になってしまう。
若干頬を赤らめる恵子の鼻に、あゆみの甘い香りがする。それだけなく、これは……。
「早速行って来たのね。その調子なら上手くいったようで何より」
「え……ええ。といっても、まだ兆しくらいだけど、この調子であなたを追い抜く日もそう遠くはなさそうよ」そんな風に人体の一器官である乳房が膨張したら恐ろしいが(胸は風船ではない)、恵子の胸は期待にはち切れんばかりだ。
そんな彼女にあゆみは真っ赤な唇を吊り上げる。
「そう。その通りだから、まわりの目は気にしておいた方がいいわよ。急に膨らみすぎたらまわりが驚いてしまうわ」彼女は確信を持った瞳でそう言った。恵子の胸が近々、スーツをはち切れさせんばかりのあゆみの胸の大きさを、即日超えることが、まるで手を離したリンゴは地面に落ちる、というほどに当たり前であるかのように……。
いや。
この場合は、ーー坂を転がりだした石は止まらない、と言った方がいいのかもしれない。
あゆみの瞳の奥には怪しい光が宿っているのだが、恵子はそれに気づかず、冗談半分で受け止めておく。
そんな非現実的なことあるはずがない。
自分の胸が成長の兆しをみせている時点で、彼女の信じる現実の枠は壊されているわけではあるのだが……、彼女はその点では自分のポテンシャルを信じていた。ちっぱいを拗らせすぎて一周回って胸に関しては呆れるくらいにポジティブだった。そうでなくては、今でも豊胸器具を購入しているはずもないだろう。
恵子は胸を張って答える。朝よりも圧迫を感じて気分がいい。
「せいぜい気をつけるわ。あなたこそ、成長した私の胸に悔しがらないようにね」
「大丈夫よ。私は今の体格で十分だから」
少しだけ頬を染める彼女に、いつもならケッと悪態をつきたくなるが、今日はそんな気分にもならない。むしろ素直に祝福できる。胸が大きくなると、器も大きくなるのかもしれない。
そして恵子は鼻をヒクつかせる。
「はいはい。彼が昨夜もお楽しみだったみたいで」彼女は鼻をつまんで小声で言う。「あゆみ、匂うわよ。男の人のあれの匂い」
にまりと笑う恵子に、あゆみは頬を緩める。
「あら、もう気がつくようになってるのね」堂々とした反応には少しだけ拍子抜けする。さらにはむしろ、あゆみは真剣な瞳になって、
「それで? その香りはいい香りかしら? あなたが彼の匂いをどう感じたのかは興味があるわ」
何やら糸のはりつめるような気配に、恵子は鳥肌がたつような気がした。まるで蜘蛛の糸が巻きついてくるかのよう。根拠はないが、「なりかけの分際で私の男に手を出すのなら容赦はしない」巨大な蜘蛛が爪を鳴らしてそう言っている気がした。
あゆみの不穏な気配に恵子は平静を装って手を振る。
「別に何も思わないわよ。何も……不快にも感じない自分がいるのには不思議だけれど、別にいい匂いだとも思わないし、ムラムラしてくるなんてこともない。私、そんな淫乱じゃないわ」
あゆみの不穏な気配が消えた。彼女はホッとしたような、それでいて不服そうな顔をする。
「…………別に私見境なしじゃないわ。それは彼にだけ」
「否定しないのね……」
「さて、メールチェックしないと」
そそくさと、タイトスカートにパツパツのヒップをくねらせて、彼女は恵子から逃れようとする。が、恵子は逃すまいと、あゆみの尻に手を伸ばしていく。
「ちょっと! やめなさい!」
「あゆみが逃げようとするからじゃない」
まるで女子高生に戻ったかのような二人のじゃれ合いに、まわりの男たちはキュンと、前かがみになるのであった。



恵子は女子トイレに篭っていた。
ヤバい……私の体はどうなっているのだ。こんな姿じゃ外に出られないじゃない。
彼女は個室で上半身をむき出しにして、自らの胸に腕をよりかけつつ、どこかの司令か名探偵のように、組んだ手を口元に寄せていた。彼女の目は死んだ魚の眼をしていた。だが、彼女の胸はすでに魚を乗せるまな板ではない。
その胸は、たわわに見事であった。まるで乳牛のお乳のよう。
「どうしてこうなった……」
いや、それは分かりすぎるほどに分かりきっている。
あのミルクのせいだ。
恵子の胸は、あゆみの胸などとうに超えている。この大きさだと言うのに、重力を振り切って、垂れることもなく少しも形を崩さずに、見事な曲線を描いて彼女の腕を乗せている。
胸が成長しているとは思っていた。
だが、1日でこれとはどう言うことだ。
朝から徐々にスポーツブラがキツくなってきていた。しかし、こうまで急激に大きくなるとは……。アプリからアラート音が鳴り、課長が慌てたように「トイレに駆け込むのニャ!」と言ってくれなければ、オフィスであられもない姿を晒すところだった。
嫌な予感を抱いていた彼女は、課長の語尾に突っ込むことも忘れ、言われた通りにトイレに駆け込んだところで、胸が爆発した。あれはまさしくパイ・アラートだったわけだ。
スポーツブラの締め付けも、シャツのボタンも弾けさせ、彼女の胸は一気にこの大きさまで実った。アプリの表示を見れば、『クエストコンプリート』の紙吹雪を撒きつつ、満面の笑みの狸さんが、

課金アイテム【4次元ブラ】
どんな爆乳でもあら不思議。ブラの大きさに合わせて収納されます。
急激な胸の成長を隠すための必須アイテム。

と、新規アイテムを押し付けるような勢いで勧めてくる。
そうして彼女は、これは手を出してはいけない極悪アプリだったことに今ようやく気がついた。
そして、頭に手を触れてみれば……、
「何よこの角ぉ……しかも尻尾まで生えているし……。うっわ、思った通りに動くじゃない。あれ、特殊メイクじゃなくて天然物だったのね……」
彼女は遠い眼をして、昨夜のバーを思い出す。出迎えの女性の悪魔のような角、しっぽ、羽、バーテンダーの巻き角も、全てが全て天然物だったのだ。
アプリのステータスの種族欄には、昨日は人間と書かれていたはずなのに、今ではホルスタウロスと書かれている。
彼女は盛大にため息をつく。胸が大きくなりたいと思ってはいたが、人間を辞めたいとまでは思ってはいなかった。
私も彼らの仲間入りかぁ……。と、彼女はむにむにと腕で胸を挟んでみる。
うん、デッカい。
それに彼女は複雑な顔をする。嬉しそうな顔。怒った顔。困った顔。泣き出しそうな顔。そして、やっぱり嬉しそうな顔。
ーーこんな時、どんな顔をすればいいのか分からないの。
ーー笑えばいいと思うよ。
ちっぱい好きのかつての彼氏の家で見たアニメのワンシーンが思い起こされ、彼女は乾いた笑みを漏らす。ここにはその顔に反応する男性はいない。そして叫ぶ。
「どないしろっちゅうんや! というか、あゆみ知っていたわね! あの性悪蜘蛛女ー! というか、あいつも魔物娘なんじゃないのかしら。それこそ、性悪な種族で、あのムチムチの尻からだらしなく糸を垂れ流すのよ。その糸に火ぃつけてやるわ! 火ぃ、ひ、ひひひひい!」
「うわー。いい感じに壊れているわね。というかそんな物騒なことを言わないでくれないかしら」
と、個室のドアの上からあゆみの声が聞こえた。
彼女の視線は、恵子のたたわな乳房に向けられ、その目は笑っていた。
「すごいわね。さすがホルスタウロス。1日でそんな風になるとは思っていなかったけれど、あなたの願望が強すぎたのかしら。でも、念願のお乳が手に入ってよかったじゃない」
「ぶっコ●す」
立ち上がった恵子は胸がブルンと揺れて、バランスを崩す。今までにない質量に、遠心力が働いていた。
「く、くくくく……」
沸騰した頭に、自らの胸に対する暴力的に圧倒的な歓喜。
恵子は個室の鍵を開けて、ドアを勢いよく開ける。
が、その目にしたものに呆気に取られて、上半身むき出しで固まる。
そこには、「ハロー」とにこやかに手を振る、下半身が蜘蛛の姿をしたーーそのムッチリと膨らんだ蜘蛛の腹は彼女の魅力的な尻がそのまま大きくなったかのようだーーあゆみがいた。その隣には、ニタニタ笑いを浮かべる課長。彼女の頭には猫の耳、尻には猫のしっぽ。彼女も魔物娘だったというのか……。と、恵子は愕然とする。
そんな恵子にあゆみはニンマリと笑って、手を差し出してくる。
「私はジョロウグモ。課長はチェシャ猫よ。さあ、私たちの世界にようこそ」
「新参さん、いらっしゃーい、にゃ」
そんな二人に、
「あ、あはははは……」
と、恵子はもはや笑うしかないのであった。



数日後のオフィス。
「で、彼とはよりを戻したのね」
「戻したというか何というか……」
あゆみに尋ねられた恵子は、ちっぱい好きだった男性とよりを戻していた。
彼女は大きくなった胸をもって、その男性の元を訪れた。外出には当然4次元ブラを身につけて、である。こんな非現実的なこと、2次元の世界にとっぷりと使っている彼でないと受け入れてくれないだろう。
という気持ちもあったが、そのような悲愴な気持ちの末に、というよりは、魔物娘になってから持て余した性欲をどうしようと思っているうちに、いつの間にか本能に従って、彼の元を訪れていただけである。まるで美味しい草の香りを嗅ぎつけた牛のように。
「人間じゃなくなっちゃった」という恵子の言葉に彼はしばし呆然としていたがーーオタクは意外と現実的なところがあると、恵子はその時初めて知ったーー受けれいてくれた彼に、彼女は嬉しくなった。
しかし、おずおずと4次元ブラを外し、「胸も大きくなっちゃったの」といった彼女に対しては、彼は、
「チェンジで」
と真顔で言ってきた。それで恵子は彼は真にちっぱい好きの益荒男(ますらお)であったことを知ったのだったが、思わず(性的に)襲いかかった後は覚えていない。
もっと彼を信じればよかったなぁ、と彼女は後で思った。
しかし、彼女の教育(調教)により、今ではどっちもいけると言ってくれているので、良しとする。
「あなたの飲んだのはホルスタウロスミルクじゃなくてミノタウルスミルクだったんじゃないの」とは呆れ返ったあゆみの言だ。魔物娘のことを知った今では同意せざるを得ないが、そんなことを言うならもうミルクはやらないと思う。
「さあ、今日の分よ」
そう言って恵子は、魔物娘の同僚たちに搾りたてのミルクを渡す。
これじゃあコーヒーサーバーならぬミルクサーバーじゃない、と彼女は複雑な表情を浮かべる。美味しいと思って飲んでもらえることに喜びを感じ始めている今日この頃だが、恥じらいはまだ残っている。しかし、見せつけたく感じているのも事実だ。
「今日は特に濃厚じゃない。昨夜はお楽しみだったのね」
と、そんな風に彼との仲が丸わかりなのである。
鮮やかに赤い唇で笑うジョロウグモのあゆみに対しーー人間型になっている彼女の蜘蛛の下半身はそのはち切れんばかりの尻に凝縮されている。パツパツのタイトスカートの黒い光沢は、蜘蛛の甲殻のようだ。
「あなたもね」
と、恵子は不敵に微笑む。
4次元ブラに包まれている彼女の胸は、見た目は以前と変わりない。しかし、私脱ぐとすごいんです、を地でいけるようになった今、それを解放して溢れ出す牧場の魅力を振りまきたいと思うが、世間的には隠れている魔物娘だから、大々的に解放するわけにはいかない。
それに、あの胸のサイズではスーツを特注しなければ収めきれそうにない。
もはや成長は止まったはずなのだが、彼との夜の営みで、朝には搾ってもらわなくてはならないほどには乳が張り、一回り大きくなっていて毎朝驚く。
理想の乳を手に入れたが、以前のちっぱいを懐かしく思わなくもない今日この頃の恵子であった。
17/09/21 09:04更新 / ルピナス
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■作者メッセージ
糸塚さんはもちろん、【オフィス・スパイダー】のジョロウグモさんでございます。

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