心の傷の具現化

「準備オッケーにゃ!」
砂の壁に小さなお札を一枚貼り付けてきたスフィンクスは小走りでこちらへと戻ってくる。
「了解、起爆する。下がっていろ」
顔に巻いたスカーフで口元や鼻を改めて覆うと、シャノは小声で様子を伺う幾人かのスフィンクスとマミーたちに指示をする。
別に小声で行う必要はないのだが、ちょうどいい暗さと、これから起こることへの緊張感からか、いつも自然と小声になってしまう。
戻ってきたスフィンクスが自分と同様に顔にスカーフを巻くのを見届け、シャノはマッチを擦り、細い糸にそれを近づけた。
糸に移った火は音を立てて先の真っ暗な通路を進んで行く。
おぉ、という感嘆の声が後ろから上がり、曲がり角から顔を出して火の行方を見ようとするスフィンクスたちをシャノはいつも通り制止する。
そして、糸に火をつけてから十秒程が経つと、凄まじい爆発音と振動と共に大量の砂塵が襲って来た。
「っ…」
可能な限り砂塵が後ろに行かないよう、目を瞑り、両手を広げていると、眉の辺りに鋭い痛みを感じた。
「うっ、けっほ、けっほ…。いつものことながら酷いもんにゃ…」
「汚れるの嫌い…」
砂塵の勢いが収まり、後ろのスフィンクスやマミーたちが服に被った砂をお互いに叩き落としている音を聞き、シャノもやっと目を開けた。
身体中に乗った砂の重さも気になったが、それ以上に気になったのは、眉辺りの痛みと生温かな感触だった。
スカーフと手袋を脱いでそこに触れると、じゃりじゃりとした砂が何か液体に濡れている。静かにその手を目の前へと戻す。
血だ。
少し大きめな粒の砂か石でもあったのだろう。それが当たった、たったそれだけだった。
「…これで恐らく目標地点まで到着したはずだ。俺はその確認をしてくる。お前たちはこの砂の処理と、舗装の作業を頼む」
「ま〜た、仕上げかにゃ〜…。正直しんどいにゃ〜」
「腰が痛くなる…」
愚痴をこぼす後ろの者たちを尻目に、シャノはリュック片手に大量の砂がぶちまけられた通路を進んでいった。
先ほどまで砂の壁が行く手を阻んでいた先には、まるで誰かが計画して手掘りで作ったかのような真四角な通路が出来上がっていた。
やはり大したものだ。
暗い通路を進み、定期的に蝋燭を立てながらシャノは静かにそう思った。
強力な爆発する魔力の印を入れたお札を紹介したのは確かに自分だが、その爆発をコントロール出来る者がいようとは思わなかった。
壊す必要のない砂を魔力で防護し、爆発する魔力の逃げ道をこの通路の掘削にだけ使う。つまり、魔力で長方形の箱を作り、その中で爆発を起こすことで、自然とその形に象れるということだ。
その上、この遺跡が崩壊しないように入念な計画や準備をまでしている。
自分は所詮中間管理職だと苦笑いを浮かべていたが、この遺跡には誰よりも欠かせない人物であることは間違いない。
暗闇の通路に十五本ほど蝋燭を立てた頃、通路のずっと先から微かな光を感じた。
蝋燭とマッチをリュックにしまい込み、シャノは光に向かって駆け出す。
光の元まで来ると、通路はそのまま折れ曲がった様に緩やかな坂になっていた。光はその上から降り注いでいる。
どんどんと強くなっていく光に目を細めながら、シャノは坂を登っていく。
坂を登りきると、露出した肌を突き刺すような強い日差しと、熱がシャノを襲った。
遺跡の通路はやっと地上に繋がった。
スカーフを再び顔に巻き、シャノはあたりを見渡す。
ほとんどが砂ばかりで、それ以外のものなど、何もないかのように思う砂漠。しかし、通路の入り口が口を開けた先には、ぼんやりと砂以外のものが見えた。
砂は場所や陽によって様々な色に見えることがあるが、ぼんやりと見えるそれは明らかに砂が持つ色ではない緑を持っていた。
どうやら計画はうまくいったらしい。
シャノは軽く笑みを浮かべ、元来た通路を戻った。





「う、うにゃ〜…。もう疲れたにゃ〜…」
「腰、痛い…」
発破掘削により出来た砂を、魔力によってレンガの様に固めた物を作るスフィンクスと、それを腰を屈めて必死で敷き詰めているマミーたちの邪魔にならない様にシャノは通路を戻る。
ある程度通路を戻ると、広い空間に出た。
見渡すと、薄いレースカーテンが出入り口に掛かるいくつかの部屋がある。シャノはその中でも、黒い肉球のマークが描かれたカーテンが掛かる部屋に入った。
「すまん、もう少しだけ待ってくれ。これだけ書いてしまいたい…」
入り口に比べて、部屋の中は広い。四方の壁には、大量の書物や煌びやかな置物が入った棚が所狭しと並んでいる。
そんな部屋のほぼ中央に置かれた大きな机では、一人のアヌビスがせっせと何かを認めている。
独り言をぶつぶつと呟き、時々眉間に皺を寄せて、柔らかな肉球で器用に持ったペンをひたすらに振るアヌビスの言葉には何も答えず、シャノはスカーフを取って、無言のまま入り口近くで待った。
「…よし、まぁ、こんなものだろうな。すまんな、待たせてしまって」
「いや、大丈夫だ。大した報告じゃない」
「そんなことはない。私の魔力制御にミスがあっては大問題だからな。それで、無事に街の近くまで続いていたか?」
「あぁ、街までは一キロくらいだ」
「そうか…!うむうむ、やはり私の魔力制御は完璧だったか…!」
「あぁ、やはり大したものだな」
「そ、そんなことはないぞ…。本当は通路へ入ってすぐの所は広い空間にしたかったし、元々私がもっと上手く爆発を制御にして、床に模様を描けばレンガだって敷き詰めなくていいし…。そ、そもそも、あのお札だってお前が最初に持って来てくれたからであって…」
臆面もなく告げるシャノに、今まで嬉しげに胸を張っていたアヌビスは急に頬を赤らめ、しおらしく持っていたペンを弄り始める。
もっとも、そのふさふさの黒い尻尾はもっと褒めてくれと言わんばかりに、椅子の後ろで高らかに上がり、乱舞している。
こういうところが、スフィンクスやマミーたちに言わせれば、可愛い“上司”なのだろう。
謙虚で理知的な態度を保ちつつも、子供のように純真な心を隠しきれない彼女の名はスビア。遺跡の奥深くで暮らすファラオの命により、この遺跡だけでなく、ここに住むスフィンクスやマミーたちの管理も任されているアヌビスだ。
「ま、まぁ、とにかく…!私だけではなく、皆の力があったからこそ、この街近くまで遺跡を伸ばす計画は上手くいったのだ。部下たちにはもちろん、お前にも感謝しているぞ」
「そうか…。報告はそれだけだ。じゃあ、俺は戻って手伝いを…」
「待ってくれ…!」
カーテンに手を掛けたシャノをスビアは慌てて止めた。そして、椅子から降りると、静かに歩み寄り、シャノの顔に自身の顔を寄せた。
名は知らぬが、スフィンクスやマミーたちが使っている物とはまた違う、優しい香水の香りがシャノの鼻腔をくすぐる。
「む…。見間違いかと思ったが、やはり血が出ているではないか…!」
「ん?あぁ…」
そういえば、作業中に眉辺りから出血していたことをすっかり忘れていた。時々痛みはしていたが、気になる程のものではなかったからか。
「ちょっと、ベッドに座れ。すぐに治療してやる」
スビアはそう告げ、ベッドを指さす。特に断る理由もないシャノはそれに従い、静かに部屋の隅に置かれたベッドへと腰掛けた。
ふかふかのマットレスはゆったりとシャノの体重を受け止めた。まるで新品の様に。
…いらなかったか。
ベッドから向かい側に置かれた棚から治療道具を取り出すスビアの背中に、シャノは小さく吐息を洩らした。
元々は地べたに何かを敷いて寝ていたスビアたちの為に、安上がりで小さいながら、ベッドやマットレスなどを買い、この遺跡まで運んで来たのはシャノだった。
「これと、あとこれ…。よし、こんなものか。すまん、待たせたな」
調合した薬の入った秤量皿や包帯などをベッドに置き、スビアはシャノの前に少し腰を屈める。
さして身長差はないのだが、それでもいつも少し上目遣いの形で見つめられることに慣れてしまったせいか、こうして真正面から目と目が合うのはどこか気恥ずかしい。
「こ、こんなことで照れんでくれ…!こっちまで恥ずかしくなる…」
「…すまない」
謝りはしたが、先に顔を真っ赤にしたのはそっちだろう。
シャノはそう思いつつも、そっと目を閉じた。
「で、では、やるぞ。場所が場所だから、目は開くなよ?」
スビアの忠告に、シャノは頷いて答えた。

放っておいた時には、大して気にも止めていなかったが、消毒や傷薬を塗り込まれると、思っていた以上に傷が深いことに気づかされた。
傷口が沁みるたびに反射的に震える体を落ち着かせようと、声を掛けてくれるスビアの優しさがありがたかった。
「よいしょっ、と。ふぅ、もう目を開けても大丈夫だぞ。何か問題はあるか?」
スビアの言葉にシャノはゆっくりと目を開ける。巻かれた包帯が目の端に映るが、特に支障はない。
そのことをシャノが伝えると、スビアは安堵した様に微笑み、隣に腰掛けた。
「他に怪我はないのだな?」
「多分な」
「多分?自分の体だろう?痛ければすぐに分かるだろう?」
「…そうだな」
「はぁ、全く…。どうしてそんなに無関心なんだ…。自分の体のことだろう…?」
「…」
呆れた様にスビアは大きくため息を吐く。しかし、シャノは静かに左腕をさするだけで何も答えようとはしなかった。
「…む。やはり、お前、疲れているのではないか?」
スビアはまたそっと手を伸ばし、シャノの目元に触れる。そこにはこびり付いたように色の濃いくまが出来ていた。
「大したことじゃない」
「…私が知らないとでも思っているのか?お前はここに来てから、いつも午前の三時ごろまで働き、六時少し前には起きて仕事をしているだろう」
「…別に、大したことじゃない」
シャノはスビアから目を逸らす。
確かに睡眠時間は少ないかもしれない。しかし、シャノにとってそれは本当に大したことではなかった。
むしろ、それぐらい働かなくては“安心”出来なかった。
「…まぁ、そのおかげで計画はとんでもない早さで進んでいるから、お前を悪く言う資格はないのだが…。心配ではあるのだぞ…?」
「…すまない」
柔らかな肉球の感触と温かさが離れると、シャノは軽く頭を下げる。
「あ、謝らんでくれ。部下の体調管理がなっていなかったのは私の責任だ…。でも、だからこそ、今日こそはお前にそれなりに早く寝て、休んでもらうぞ?」
「…どういう意味だ?」
「ふふん、今夜は元々おおよその計画の完成を祝って、その広間でちょっとしたパーティを企画していたんだ」
「…そうか」
「そうか…ではない!お前も必ず参加するんだ。そして、たまには仕事のことなど忘れて、しっかりと疲れを取るんだ」

ズキン…。

「どうかしたのか…?」
難しい、というよりはどこか苦しげな表情を浮かべ、さすっていたはずの左腕に爪を立てているシャノにスビアはおずおずと尋ねる。
「…いや、何でもない」
「何でもないはずないだろう?何かあるならはっきり…」
「何でもないって言ってるだろ…!」
空気が震える様に、スビアの体も震えた。
元々宴会の様なうるさいことが好きそうなタイプではないが、ここまで表情を歪ませるシャノを見るのは初めてだった。
「…あいつらの手伝いをしてくる。すまない…」
ベッドから立ち上がり、シャノは逃げる様に部屋を出て行った。







「ふ〜ん、パーティねぇ…」
「…ダメでしょうか?」
跪き、懇願する様に顔を上げるスビアの目の前では、煌びやかな装飾品の付いた服を着た女性が気だるげにチェスを指していた。
「まぁ、やりたければやれば良いんじゃないかしら〜?」
「あ、ありがとうございます。では、すぐに準備の方を…」
「あ〜、ねぇ、スビアちゃん」
立ち上がりかけたスビアを引き止め、女性はスビアの方に顔を向ける。
「遺跡の拡張も、パーティもいいけど、最近“あっち”の方の話を聞かないわよ〜?ちゃんとやってる〜?」
「“あっち”の方、とは…?」
女性が言わんとしていることが判然としないスビアは首を傾げる。すると、女性は椅子から立ち上がり、妖艶な笑みを浮かべたままスビアへと近づく。
そして、艶めかしくその露出したスビアのお腹をさすった。
「家族計画、子作りのこと」
「こ、こ、こ、こづくり…!?」
飛び上がらんばかりに驚き、顔を一気に赤らめるスビアの反応に、女性はくすくすと微笑む。
「そうよ〜。街や国を作るには、まずは人手がなくちゃいけないもの。そのためには、貴女たち家族を増やすことが一番早い上に、一番信頼出来るもの。そもそも、この計画だって、貴女たちがより良縁に恵まれるようにと思って考えたことよ〜?」
「そ、それは確かにそうで…ひう…!?」
頷きかけたスビアの首筋に女性は蛇の様に舌を這わせる。
「それなのに〜。みんなよりも早く男の子を見つけた貴女が〜、どうしてそんな悠長なことをしているの〜?」
「そ、それは、け、計画の実行が先決だと…はぅぅ…!」
「もぅ、貴女はどこまでも真面目なんだから〜。まぁ、良いわ。今夜のパーティは好きに楽しみなさい?私はいつも通り寝てるから〜」
「はぁ、はぁ、あ、ありがとうございます…。はぁ、それでは、し、失礼します…」
よたよたと覚束ない足取りで部屋を出て行くスビアの後ろ姿を見送り、女性は静かに微笑む。
「ふふ、あんなにウブじゃあ、手出しも出来ないか…。それに、あの子じゃねぇ…。まぁ、頑張りなさい、お互いに…」
女性はまた椅子へと腰掛け、静かにその目を閉じた。深い永遠の様な眠りから覚めても、未だに完璧には眠気は消えない。
彼女の名はファラ。
この遺跡の主にして、スビアたちの主人である、ファラオの一人だ。










「もう嫌にゃ…。働きたくないにゃ…。絶対に働きたくないにゃ…」
「ハタライタラマケカナトオモッテイル…」
砂の山や砂のレンガの上に倒れているスフィンクスやマミーたちを、持っているバッグを枕代わりに一箇所に寝かせたシャノは、一人黙々とレンガを敷き詰める作業に取り掛かった。
これまでにもかなりのレンガを敷き詰めたため、この作業は地味ながらに最も労力を費やすものだと知っているシャノは、敢えてスフィンクスやマミーたちを叱りつける様なことはしなかった。
むしろ、自身が出口の確認とスビアへの報告していたごく短い時間の内に、今日掘削した通路の半分近くまでレンガを敷き詰めたのは頑張り過ぎな程だった。
仕事がもうすぐ終わる…。
シャノの頭にふと不安の影が差し、心がざわつき始める。
「…くそ」
そんな不安をかき散らす様に、シャノは腰や眉の痛みなど気にせず、一心不乱にレンガを敷き詰めていった。

「おぉ、皆凄いな…!」
何とかファラから今日のパーティの許可を得て、現場へとやって来たスビアは感嘆の声を漏らした。
ほんの少しの隙間もなくレンガが敷き詰められた通路は、もはやこれだけでも美術性があり、足を踏み出すことが一瞬躊躇われる程だった。
「うむうむ、やはり私の部下たちだ…!素晴らしい出来栄えだぞ!ほらほら、疲れているだろうが、お前たちも見てみろ!」
バッグを枕代わりにして、中には寝息すら立てているスフィンクスやマミーたちの頬を軽く叩き、スビアは全員を起こす。
「うにゅ…。何にゃ…もう少し寝かせ…ス、スビアさ…痛っ!?」
「掟今巣。沖手医鱒。御規定桝」
驚きのあまり飛び上がり、天井に頭を打ち付けるスフィンクスや、片言でイントネーションが不安定な言葉を連呼しながら立ち上がるマミーたちに眉をひそめつつも、スビアはその肩を叩いていく。
「相当にお疲れだったようだな。だが、良くやってくれた。この進捗状況なら、今夜くらい羽目を外しても、計画に問題はないな」
「そ、そうですにゃ…?にゃ、にゃははは…」
「万歳、万歳、万歳」
急に訳も分からず、機嫌の良い上司に肩を叩かれるというのも、部下としては素直に喜ぶことが出来ない。ましてや、辛い仕事とはいえ、さぼっていた直後とあっては、悪意ある嫌がらせか何かとしか思えないものだ。
もっとも、今回に限ってはそんなことはないのだが…。
「よし、では、これから通路を通って街に行くから、その準備を…」
「…?」
通路の奥の方を向いていたスビアが急に固まる。不審に思ったスフィンクスやマミーたちが振り返ると、通路の奥からシャノが歩いて来ていた。
通路の半分以上にレンガを敷き詰める作業を、スフィンクスたちよりも短時間にこなしたシャノの額や露出した右腕には大量の汗がくっついており、その大変さが窺い知れた。
しかし、不思議だったのは、右腕は肘の辺りまで腕まくりをしているにも関わらず、左腕は少しもまくろうとしていなかった。

…うん。
理由は分からないが、スビアが固まっている間に、その場にいたスフィンクスやマミーたちはお互いに顔を見合わせ、静かに頷きあうと、無言でシャノを囲んだ。
「…暑いぞ」
「ぜ、全部やっちゃったかにゃ…?レンガ敷き…」
「一応」
シャノを囲んだ者たちが一斉にガッツポーズを取った。しかし、まだ手放しには喜べない。
「…あの、スビア様には、さぼってたこと黙っててもらえませんかにゃ?」
「…分かった」
YES!
不気味なほどに揃った歓喜の声を上げ、スフィンクスとマミーたちはハイタッチやハグを交わしていく。
もちろん、休んでいたのは事実だが、それ以前に頑張っていたのも事実だ。厳しく咎める必要性はない。
それに何より、彼女たちがさぼっていたことを知れば、スビア自身が悲しむことだろう。
元々怒ったり、注意したりが少なく、部下たちに寄り添いながら、やる気をできるだけ引き出すようにスビアは日々頑張っている。
案外、彼女たちが必死でさぼりを誤魔化そうとしたのも、大切な可愛い上司のご機嫌ややる気に水を差さないようにしたかったからなのかも知れない。
「それで、街まで行くからその準備をしてくればいいんですかにゃ?」
「…」
「スービーアーさーまー?」
「えっ…あぁ、うむ…。そうだ、すぐに出発するから、手早くな」
「アイアイにゃー!」
「40秒で支度しな」
スフィンクスやマミーたちが足取り軽く通路を戻って行ってしまうと、気まずい空気が二人の間に流れ始めた。
お互いに先ほどの件を引きずっていたために、何と声をかけて良いか分からなかった。また、スビアに関してはファラからの何とも言えぬプレッシャーもあり、顔を合わせるのも何となく気恥ずかしかった。

「…さっきは、すまなかった。急に声を大きくしてしまって…」
先に頭を下げたのはシャノだった。
スビアはおずおずと振り返り、静かに首を横に振ると、慎重に言葉を選んだ。
「い、いや、私の方こそ、すまなかった…。しつこく、何度も聞くようなことをしてしまって…。それで…」
「…」
顔を上げ、いつものシャノの表情が見えると、スビアは喉元まで出かかった言葉を何とか飲み込んだ。
さっきの歪んだシャノの顔は見たくなかった。
「…それで、皆にも言ったが、これから街へ今夜のための買い出しに行くんだが…。一緒に来てくれないか…?」
「…荷物持ちで良いなら」
「そうか、ありがとう…」
「じゃあ、一度汗を流してくる」
「そうだな、分かった。待っているから、焦らなくて良いからな」
「分かった」
口ではそう告げるが、シャノは全速力で通路を戻って行った。



出来上がったばかりの通路を抜け、昼下がりの灼熱の砂漠を一キロ歩く。
この環境に慣れない、あるいは街を出ることもなく暮らす者たちにとっては、なかなかな苦労だろうが、シャノやスビアたち、また砂漠を行き来するような商人たちにとってはさして苦ではなかった。
スビアが通路の出入り口を街から少し離したのもこれが理由だった。
スフィンクスやマミーたち、ひいてはファラにとっても、人間が遺跡に入り、誰かと恋仲になることは願ったり叶ったりなことだ。しかし、遺跡を訪れる人間の数は可能な限り制御する必要はあった。
遺跡という閉鎖的な空間で育ったというのもあるが、何よりも家族が暮らし、安全に暮らしている家に、危険な者が入り込むことをスビアは危惧していた。
いくら地下に潜っているといっても、今の世界の情勢くらいは知っているのだから…。

「うにゃ〜!久しぶりに来る街はやっぱり楽しいにゃ〜!」
「少し街の雰囲気が変わってる」
仕事をさぼってしまう時はあるが、街まで遊びに行くという、スビアの信頼を大きく裏切るようなことはしなかったスフィンクスやマミーたちは、久しぶりに感じた街の楽しげな雰囲気に浮き足立っている。
そんな彼女たちの一番後ろをシャノと並んで歩いて来たスビアは、母親の様に念押しする。
「よし、お小遣いはついては先に渡した通りだが、あくまでパーティで使う用の物を買うんだぞ?食料や飲み物がメインであって、一応遊ぶためのものじゃないんだからな?」
「分かってますにゃ〜!」
「心得ております〜」
「気をつけて行くのだぞー!」
駆け出して行く部下たちの背に、最後の言葉をかけると、スビアは困った様な笑みをシャノへと向けた。
「全く…。落ち着きのない者たちだ」
「それだけ元気がある、ということじゃないか?」
「それは、確かに…。ふぅ、まぁ、心配ばかりしていても仕方ない。私たちも買い出しに行くとするか」
「何を買うんだ?」
「まずはある程度のパーティ用の食料や飲み物だな。一応あの者たちにもそういった物を買って来いとは言ったが、あの者たちの性格を考えると…」
「…そうだな」
スビアが言わんとしていることを察したシャノは軽く肩を竦める。
「まぁいい、では行こう」
「…待ってくれ」
「ん?」
不思議そうに顔を少し傾げるスビアを左へと軽く押すと、シャノはその右側へと立った。
「一応、そっち側を歩いてくれ」
「えっ、あ、あぁ…。そういうことか…。あ、ありがとう…」
頬が少し熱くなるのを感じ、スビアは囁くように礼を言う。しかし、シャノはそれに特に答えることはなかった。
ただスビアの声が聞こえていなかったのか、あるいは、男が道路側を歩くのは当然だと思っているのか、その理由は判然としない。






買い物を終えたスビアとシャノが、集合場所である街の出入り口に戻ると、そこにはスフィンクスやマミーたちの姿は一つもなかった。
もっとも、こんなことだろうと、部下たちの行動をある程度予測していたスビアは、街に入った時点で近くの飲食店に目星をつけていた。
店内からも街の出入り口がよく見えるそこならば、部下たちが集まってきてもすぐに分かる。それに、客もまばらで、そこまで賑やかなそうではない店内ならばシャノも落ち着けるだろうと考えていた。
「では、私は…このメロンソーダというものを頂こう」
「メロンソーダね。そっちの彼氏さんは?」
「普通の水を頼む」
手荷物を横の椅子ではなく、膝へと乗せ、街の出入り口の方を時折振り返るシャノに、この店の主人はカウンター越しという近さにも関わらず、露骨に顔を引きつらせた。
「彼氏さんねぇ、そこは何か別の美味しそうな飲み物を頼むもんだよ?」
「…何故?」
「そりゃあ、共有…いや、今時はシェア、っていうんだっけ?それをするためだよ」
「シェア?」
「そう。美味しいものを共有すれば、一体感が生まれて、ぐっと二人の距離も近くなるんだよ。おじさんもよく知らないけど」
「…全く分からない」
「まぁ、とにかく、水以外の物を頼んでくれよ。彼女さんのためにも、もちろん俺の店のためにもね」
「…分かった」
前半はともかく、後半の正直過ぎる主人の頼みを無下にする訳にもいかず、シャノは真剣にメニュー表に見つめた。
そんなシャノを見て、主人はスビアに苦笑いを浮かべる。
「大変だね、彼女さんも…」
「い、いや、その、うむ…」
スビアは恥ずかしさのあまり俯く。
こんなにもシャノが恋愛に関して知識がないと思わなかった。

だが、二人の飲み物が出されても、聞いている方が恥ずかしくなるような、シャノのある意味の天然は爆発する。
「…何故、ストローが一本なんだ?」
「なんでって、そりゃあ、あれだよ…。間接的なことを自然とやらせるためだよ」
「…間接?」
主人の言っていることが理解出来ないのか、シャノは不思議そうにストローを見つめる。
その隣では、スビアが恥ずかしそうにストローから口を外した。
「ストローで間接って言ったら、あれしかないだろ?」
「…??」
どこか得意げな口ぶりの主人に、シャノはもっと眉をひそめる。
「…本当に分からないのか?」
「ああ」
「全く、こいつは…!ストローといったら、間接キッスだろうが!」
「間接キッス…」
「そうだよ!」
「そうか」
疑問が解消されると、シャノはそのままストローには口を付けず、ごくごくとジュースを飲み干してしまった。
「…」
「…」
スビアと主人が何とも言えぬ哀しげな目でシャノを見つめる。
「…何だ?」
居心地の悪さを感じたシャノが尋ねるが、二人は大きなため息を吐くばかりだった。





シャノがジュースを飲み干して、すぐのことだった。
ふと、ローブを纏った金髪の少年がシャノの隣のカウンター席に座った。
店の中は、夜に近づくにつれ人も増えていくのだろうが、それでもまだまだテーブル席にも余裕がある。
カウンター席に座るのはまだ理解出来るが、わざわざシャノのすぐ横に座る必要性はないように見えた。
膝に乗せた荷物を落とさない様に抱え直すふりをして、盗まれぬようにしっかりと腕を回すと、シャノは少年の方を盗み見た。
ぼさぼさの金髪には微かに砂が乗り、少年の額やこめかみの辺りにはびっしりと汗が滲んでいる。恐らくは砂漠を歩いて来たのだろう。
しかし、古びてはいるが、手入れはされているらしいボンサックを肩から下げているだけで、それ以外の装備は見たらない。
明らかに砂漠を越えるには軽過ぎる身なりからは一見ここら辺に住んでいるようにも思えた。
この少年は一体…?
不意に少年の目が動きシャノと目が合う。
慌ててシャノは目を逸らす。
少年の得体の知れなさに、恐ろしいという気持ちがない訳ではない。だが、慌てて目を逸らしたのには別の理由がある。
心を見透かされる、そんな気がしたからだ。
シャノは荷物を抱きかかえながら、左腕を撫でた。
“瘡蓋”が服に擦れて、少しだけ痛む。

「…牛乳はあるかい?」
シャノが目を逸らしてから、少し後に少年は静かな口調で尋ねた。
「ぎ、牛乳?あることはあるけど…」
「なら、それを水で薄めた物をくれ」
「水で薄める…?そんなことしたら、せっかくの風味が…」
「…」
少年はポケットから何枚かの紙幣を取り出し、それを主人へと差し出した。前払いという意味もあるのだろうが、シャノにはそれが、黙って言われた通りにしろ、という意味で差し出されたものにしか見えなかった。
「わ、分かった…」
少年の何とも言えぬ圧力に負け、差し出された紙幣を受けると、主人は言われた通りにグラスに牛乳を少し注ぎ、そこに水を足していった。
「ほ、ほらよ…」
「…」
グラスを受けると、少年は無言でその牛乳、というよりは乳白色の液体を飲み干した。
「…やっぱり、薄くないか?」
「ぶはぁ…。いや、これくらいでいいよ。あまり濃いと匂いが強くて、他人に迷惑になる」
「…それだけの為か?」
「あぁ、それだけの為だ」
さも当然の如く答えると、少年はグラスを主人へと返す。
「また同じように?」
「ああ。…ところで、その機械は音楽を流すための機械かい?」
「ん?あぁ、これか?」
先ほどと同じものを手早く作り、グラスを少年へと渡すと、主人はカウンターの中にある機械に近づいた。
全体的に傷つき、所々ひび割れもしれている機械だ。本当に動くのかは怪しい物だった。
「そうだ。こう見えても、夜中は歌って踊って楽しめる店なんだ。ちょっと前に胡散臭そうな狸の行商人から買ったのさ。少し古臭いが、綺麗な音も流れるし、ちゃんと動くから重宝してるよ」
「へー、あんたが歌は歌うのか?」
「ああ、もちろん。全然上手くはないが、歌うぞ」
「何故?」
「なぜって、そりゃあ、まぁ、やっぱりストレス発散にもなるからだろうなぁ…。お客さんと一緒になって、歌って、踊ってれば、嫌なことや辛いことも軽くなるしな」
「なら、それ止めろ」
少年は静かながらも強い口調でそう告げた。
「…は?」
少年が何を言っているのか、一瞬誰にも理解出来なかった。
二人のやりとりを聞くともなしに聞いていたシャノやスビアも驚き顔を上げる。
「えっ、と…それはどういう意味だ…?」
「歌って、踊って、嫌なことや辛いことを忘れる、それを止めろ、そう言ってるんだよ」
「…なんでお前にそんなことを命令されなくちゃならないんだ?」
一瞬は少年の言葉に虚を突かれ、驚いたが、今は明確に反抗の意思を生み出す怒りがあった。
「なら、誰の命令なら聞き入れるんだ?」
「…そりゃあ、いつも来てくれるお客さんや家族が嫌だ、止めろって言うなら、まだ考えるが…。少なくとも、会ったばかりのあんたに言われても、俺はやめる気はない…!」
主人は機械を叩き、少年を睨みつける。
「…そう、それが自然な反応だよな。親しくもない人間からの命令や忠告に耳を貸す奴なんかいない。ましてや、それが自分にとって“必要”なことなら尚更な」
「何を言って…」
「止める必要はない。お前が“必要”だと思うならな。でも、忘れるな。理解を得られない行動は忌避され、孤独を生む種になる。この世には自分の不幸や苦しみこそ史上ものだと考えている奴らが大半だからな。まぁ、もっとも、その孤独をでたらめに育てるも、手放すもお前の自由だがな」
「…」
「あと、やるんなら、清潔なもんでやることだぞ。失くしたくないんならな」
意味も分からぬことを告げると、少年は静かに席を立ち、店を出て行った。
店にいた誰も追う気も、呼び止める気にもならなかった。
「い、一体なんだったんだ…?」
「不思議な男、だったな…」
主人とスビアが人混みへと消えていく少年の姿を見ながら呟く。
そんな中、シャノは一人左腕を握りしめたまま、少年が残していった乳白色は液体を見つめていた。









「ん…?」
喉の渇きを感じ、目を覚ましたスビアはそっとあたりを見渡す。
あちこちに部下たちが倒れ込み、食料や飲み物も散乱している。一瞬、状況が思い出せず、じわりと冷や汗が滲んだが、すぐに自分たちが酒に飲まれ、睡魔に抱かれたことを思い出した。
…そうだ、パーティで少し羽目を外し過ぎたのだ。
ストレスを溜め込んでいるつもりもないのだが、久しぶりの宴会ということもあり、感情的になっていたのは覚えている。怒ったりはしていないと思うが、愚痴を言ったり、何かを叫んだりした記憶は微かにだがある。
スビアは少し恥ずかしくなり、その熱を冷まそうと近くのグラスに水を注ぎ、一気に飲み干した。
冷たい水が頭や頬の熱をちょうどよく冷やしてくれる。
頭が冷えてくると、いつも通りの自分が姿を現し始めた。
皆を起こさぬ様に気をつけながら、起き上がり、スビアは照明を薄明かりへと変え、静かに眠る部下たち全員にタオルや毛布などをかけていった。
「あれ…?あいつは…?」
タオルや毛布をかけ終わったスビアは、この広間にシャノがいないことに気がついた。
そういえば、パーティ中も最初以外はシャノの姿を見た記憶がない。やはり、嫌になっていつの間にか抜け出してしまったのだろうか。
スビアは胸が少し締め付けられる様な息苦しさを感じた。
嫌なことに誘ってしまったこともそうだが、朝の件についても、謝りはしたが、まだ決して解決出来た訳ではない。
スビアはそっとシャノの部屋へと向かった。
シャノについてはまだ知らなくてはいけないことがある、そんな気がした。
そして、それは決して部下だからという理由ではなかった。

シャノの部屋のカーテンは閉じてあった。
仕事などで留守ならば開いているのだから、おそらく寝てしまったのだろう。
しかし、スビアは帰る気になれなかった。
シャノに会いたかった。シャノと会って話がしたかった。
何故そんなことばかり考えてしまうのか分からない。
だが、そう思うことがいつもの様に、悪いことではしたないことだとは感じなかった。
酒のせいで未だどこか理性を欠いてしまっているせいかもしれない。
でも、それでも今日くらいはいいだろう。
スビアはそっとカーテンを開けた。
部屋の中は真っ暗だったが、カーテンを開けたことで通路から明かりが潜り込み、微かに物の輪郭を映し出した。
シャノは起きていた。
ベッドボードに寄りかかり、ぼんやりと何もない天井を見つめていた。
「シ、シャノ…?すまない、こんな時間に、ちょっとだけ…?」
カーテンを開けたままに、シャノに近づいたスビアの鼻がまず異変を感じた。
血の臭いがする。
何故なのかはすぐに分かった。
「…っ!?」
シャノに近づいたスビアが見つけたのは、真っ赤に染まったベッドと、未だ絶えずシャノの左手首から流れ出る鮮血だった。
「シャノ!シャノ!?」
スビアはシャノの肩を強く揺する。
しかし、シャノはぼんやりとした虚ろな目でスビアを見つめるばかりで、言葉は返さなかった。
もはやスビアはパニック状態だった。
大切な人が大量の血を流している。
どうするべきなのか、何をしたらいいのか、今のスビアには判断がつかなかった。
「だ、誰か…誰か…!誰か来てくれ…!」




「これで大丈夫。簡単には解けない」
慣れた手つきでシャノの左腕全体に包帯を巻いたマミーは、心配気に見つめていたスビアとスフィンクスに力強く頷いた。
「ふにゃ〜、良かったにゃ〜」
心配することで疲れたのか、スフィンクスは地面に座り込む。
「でも、かなり傷が深い。まだ少し出血もしてる。また、すぐに包帯は変えた方が良い」
「そうかにゃ…。じゃあ、傷薬の調合をしてくるにゃ」
「なら、包帯も持ってくる」
「じゃあ、スビア様。ちょっとだけここをお願いしますにゃ」
「あっ、あぁ…分かった…」
スフィンクスとマミーが部屋を出て行くと、スビアはベッドへと腰掛け、眠るシャノの様子を眺めた。
マミーの言っていた通り、左腕に巻かれた包帯、特に手首近くはもう既に血が滲んできていた。
シャノの傷がいつ出来たものかは定かではないが、少なくとも一晩は過ぎているはずだ。それに、もう取り替えたが、あれだけシーツを真っ赤に染めたところを見ると、その量は考えたくもない。
「シャノ…」
スビアは真っ青な顔で眠るシャノの頬に触れる。
このまま死んでしまうのではないかと心配になってしまうほど、温かみを感じない。
深いため息と共にスビアは頭を抱えた。
シャノが何故“自ら”こんなことをしたのかスビアには理解出来なかったからだ。
当初は何者かが入り込み、シャノを襲ったのではないかとも考えられていたが、シャノを傷つけたナイフがベッドの側で見つかり、そのナイフがシャノ自身の持ち物だということが分かると、これはシャノ自身の自傷行為なのではないかと疑われた。
しかし、この遺跡を主であるファラにより、侵入者は存在しなかったことが証明されると、自傷行為だとほとんど確定された。
しかし、無論、スビアを含め、スフィンクスやマミーたちにもシャノが何故自傷行為を行ったのかは分からなかった。
むしろ、自傷行為のこと自体、どこかで聞いたり、書物で読んだりしたぐらいで実際に目にしたことはもちろん、自分たちの近くに存在するものではないと思っていた者がほとんどだった。
何故こんなことをしたのか、これになんの理由があるのか、シャノの行動はスビアを悩ませ、苦しめた。
しかし、一つだけ確実にしなければならないことがある。
それは、こんな自傷は絶対に止めさせることだ。
どんな理由であれ、目的であれ、自分の体を傷つけることは決して良いことではない。
下手をしたら、死んでしまうかもしれないのだから。
スビアは見つかった血まみれのナイフを憎々し気に見つめた。

ぴくん…。
ふと、スビアの魔力が遺跡に誰かが入り込んだことを伝えた。
人数は一人、場所は昨日出来上がったばかりの通路から、どんどんと直進している。
スビアは部屋から出ると、近くにいたスフィンクスやマミーたちを連れて通路を駆けて行った。
「止まれ!ここへの無断での立ち入りはまだ禁じられているぞ!さっさと立ち去れ!」
スビアが先頭に立ち、侵入者に命じるが、足音はどんどんと近づいてくる。そして、カンテラの薄明かりの奥から一つのシルエットが浮かび上がってきた。
「ご丁寧に掘られた穴だと思ったら、なるほどそういうことか…」
スビアたちに怯むことなく進んで来たのは、昨日スビアとシャノが寄った店にやって来たおかしな少年だった。
「お前は…」
「ん?あぁ、昨日、あいつといたアヌビスか」
挨拶とばかりに少年は軽く手を上げる。
「スビア様、し、知っている人ですかにゃ…?」
「あ、あぁ、少しな…」
背後で未だ気を緩めずに少年を睨みつける部下たちの質問にスビアは小さく答える。
もっとも、知っているのは昨日の異様さのみで、道を開けるべきかどうかは別問題だった。
「ん?昨日のあいつはどうした?」
「「…」」
シャノがいないことに気がついたのか、少年が尋ねる。しかし、スビアも含め、事態を知っている者たちは誰もが口を閉ざした。
「…その様子じゃあ、“死んだ”かい?」
「…っ!」
無意識の内にスビアは手から圧縮した魔力を打ち出していた。
無論、殺傷能力はない。ただ、常人であれば気絶させるには十分すぎる程の威力は持っていた。
しかし、少年は避けようともせず、それを片手で受け止めと、ボールを握り潰す様に消滅させた。
「あぶねぇ…!」
「シャノは生きている…!」
スビアは少年に向かって吠える。だが、少年は特に怯む様子もなく、ローブの砂をはたき落とす。
「…でも、結構ぎりぎりなんだろ?」
「そ、それは…はっ…!」
言葉を詰まらせた時には遅かった。
「ち、違う!げ、元気だ…!そう、シャノは元気だ…!」
「いや、さすがに無理があるだろ…。その嘘…」
「うぐぐっ…」
少年は呆れる様に苦笑いを浮かべる。
「まぁ、ぎりぎりでもいいや。生きてるなら会わせてくれよ」
「…何故だ?」
「俺、こう見えても医者だから」






「お邪魔するぜ〜」
少年は遠慮なくカーテンを開け放った。
部屋では変わらずシャノが一人眠っていた。
「うわっ、随分派手にやったもんだな…」
部屋の中を軽く見渡した後、少年はベッドへと腰掛け、シャノの左腕に巻かれた包帯を解いた。
「お、おい!せっかく治療したのに…!」
「大丈夫だって、もう出血は止まってる。それに、こんな傷は大したことじゃねぇ」
包帯が解かれると、痛々しい“傷だらけ”のシャノの左腕が晒された。
傷を覆う、黒く固まった血がべっとりとついた腕に、スビアは顔を覆う。見ていられるものではなかった。ましてや、それが大切な人の腕であっては尚更だった。
「うわぁ、こりゃ、動脈まで達してるな。頑張り過ぎだろお前」
少年はベッドから立ち上がり、顔を覆うスビアに話しかける。
「お前、こいつを助ける気はあるか?」
涙で視界がぼやける中、スビアは少年に向かって何度も頷く。
「当たり前だ…!助けられるなら何だってする…!」
「…言うは易しなんだよなぁ、まぁ、今はその言葉を信じるか…。あいつの隣に横になってくれ」
ベッドを指差す少年の指示通り、スビアはシャノの隣に横になった。
横では未だ青い顔のままではあるが、ちゃんと生きているシャノがいる。そう思うと、スビアは少しだけ元気を貰えた。傷に気をつけながら、スビアはシャノの左手を握る。
「そのまま目を瞑ってろよ?すぐに始める」
言われた通りに目を瞑って待っていると、額に少年の手が触れた。
そして、次の瞬間、スビアの意識が消えた。









“よく頑張ったわね。でも、もっともっと、頑張りなさい!”
…俺はどこまで頑張れば良いんだ?
頑張れば褒めて貰える。それが当たり前だったし、それが当たり前のことだと思っていた。
話しかけるためには、テストを頑張る必要があった。
抱きしめてもらうためには、手伝いを頑張る必要があった。
愛してもらうには、もっともっと頑張る必要があった。
…何かを得るには、何かの対価を支払わなくてはいけない。
お金も、地位も、名声も、愛さえも…。
だが、どんなに心が欲しても、体は付いてこなかったし、頑張っても、得られないこともあった。
そんな時、決まって心が痛かった。
でも、何故痛いのかは分からなかった。それが、怖かった。
自分で自分のことを傷つけるようになったのはそれからだった。
傷つけてると、体は痛がったが、心の痛みは和らいだ。
その理由も分からない。ただ、やめることはしなかった。
心が痛い方が苦痛だったから。
母から離れてからは、その頻度は減った。
愛よりも、誰かに必要とされたい、そんな気持ちが強くなったからだと思う。そして、その気持ちを満たすために、死に物狂いで働いた。
働いている時は、心の痛みを忘れていられたからかもしれない。
…でも、それももうすぐ終わる。
スビアたちとの仕事が終わる。
終われば、俺は必要ではなくなる。
仕事がなくなれば、必要とされなければ、この心の痛みを忘れることが出来なくなる。
…また、心が痛み出した。









「やめておきなさい。スビアちゃん」
ファラの答えはあまりに冷たいものだった。
「な、何故ですか!?昨日はあれほど…!」
「確かに、昨日はスビアちゃんの恋を応援していた。それは認める。でも、事情が変わるものなのよ?」
「どう変わったというのですか…!」
「分かっているはずでしょう?あの子のことよ」
「…っ」
吐き捨てる様に告げるファラに、スビアは奥歯を噛み締めた。
「シャノの事情なんか変わっていません!あの行為は一時的なものです!」
「そうでもないんだよなぁ…」
ファラの部屋の豪華な装飾や置物を見物していた少年が、スビアの叫びに茶々を入れる。
「あいつの左腕を見ただろう?今回は手首の傷が酷かったが、腕には他の傷も傷跡も大量にあった。この意味分かる?」
「だ、だから、それは…」
スビアは言葉を濁すしかなかった。
古い傷があることは、治療中にも気がついた。それに、シャノの記憶や心の一部で、彼が子供の頃から自傷行為を繰り返していたところを目の当たりにしている。
…それでも、シャノを忘れて、捨てることなど出来るはずがなかった。
「…シャノは、ここで十分に働きました…。だから、十分に労う必要があります…!」
「ええ、もちろんよ。でも、それは金銀財宝で事足りるでしょう?スビアちゃんが慰みものになる必要はこれっぽっちもない」
「…何故、ですか…」
「…?」
「何故、急にシャノをそんなに毛嫌いするのですか!?」
スビアの叫びは遺跡中に響き渡った。
昨日までシャノと自分の恋路をあんなにも急かし、応援していてくれたファラの、あまりに急な気の変わりようが許せなかった。
目からは大粒の涙を零しながらも、スビアはファラを睨みつける。
しかし、ファラはスビアの問いを鼻で笑った。
「当たり前でしょう?“気色悪い”から、それだけよ?」
「…っ!」
「だってそうじゃないかしら〜?どんなに辛いのかは分からないけれど、それで自分の体を傷つける様な人が、スビアちゃんにはまともに見える?」
「…」
「それに、私には彼が気を引くためにやっている様にも見えるのよ。誰かに気にして欲しい、誰かにに心配して欲しい、誰か僕を見て、っていうアピールなんじゃないかしら?今回はちょっと加減がうまく出来なかったようだけど、まぁ、スビアちゃんたちにこれだけ心配してもらえれば、願ったり叶ったりなのかもね〜」
嘲る様に笑うファラに、スビアは返す言葉がなかった。もう話すことさえ出来そうになかった。
スビアは踵を返し、ファラの部屋を出て行った。
「…心にもないくせに、酷いことを言うもんだ」
「あらっ、全部が全部、嘘というわけでもないのよ?」
スビアが出て行った方を遠い目で見つめながら、ファラは静かに微笑んだ。
「この程度で気持ちが変わってしまうなら、スビアちゃんはあの子を支えきれないし、あの子もスビアちゃんを頼りきれない。離れた方が二人にとって幸せなはずよ?」
「なら、あの“気色悪い”も本音?」
「そうね〜。あれに関しても、少しは正直な気持ちもあるわ。私には彼の気持ちが分からないし、それに自分に理解出来ないことは怖いことでしょう?」
「まぁ、その通りだな。人は理解出来ないことに対して強烈な拒絶反応を起こす。そして、理解出来ないものを自分から遠ざける。そうやって自分の価値観を正当化する」
「…だから、私があの子を捨ててもいいでしょう?私にとっては、スビアちゃんの方が大事だもの」
「それはご勝手にどうぞ。あぁ、でも…」
部屋を出ようとしていた足を止め、少年はファラに向き直った。
「そんな奴でも生きているのさ。そいつが望む、望まずに関わらずな」










「ん…」
目を覚ますと、そこはいつもの自室だった。
机や椅子もない。ただ、苦痛である眠るためだけの部屋。
スビアに半ば無理矢理当てがわれた部屋だ。自分には部屋など必要ない、そう言っても、スビアは駄目だと言って聞かなかった。
部下たちの面倒をしっかり見て、褒めることも上司の務めだ、そんな様なことをしきりに言っていた。
軽く目が眩し、気分も優れないが、体を起こそうとした時、左腕がひどく重かった。
見ると、左腕にしがみつく様にしてスビアが眠っていた。
スビアにも驚いたが、シャノが余計に動揺したのは、左腕に巻かれた包帯だった。
自分で包帯など巻いた記憶はない。むしろ、他人に見られない様に左腕だけは曝け出さずに過ごしてきたはずなのに。
何故包帯が巻かれているのかを考えると、シャノの左手首がズキズキと痛み出す。
そうだ、俺は…。
あの時のことを思い出したシャノは、そっと左腕からスビアを離すと、ベッドを降り、静かに部屋を出た。
遺跡の中は静まり返っていた。そこでやっと今が夜なのだとシャノは気がついた。
朝であればこんなにも静かなはずはないし、場所が違うとはいえ、スビアが寝ているはずもない。
脈打つ様に痛む左手首を押さえながら、シャノは遺跡の出入り口へと向かった。
深い理由はない。なんとなく外の空気が吸いたかった。
「あっ…」
「よっ。きっちり目が覚めたな」
少し肌寒さを感じながら砂漠へと出る階段を上がると、すぐ近くの柱に昨日の少年が寄りかかって立っていた。
「頭の中が少しすっきりしたか?」
「…あぁ、しばらくは大丈夫なはずだ。新しい仕事を見つけられるくらいまでは」
「ここに残る気はない、そういうことか?」
「あぁ、もうここにはいられない」
「何故だ?」
「…迷惑になる。そして、もう感謝されないから」
「感謝ならこれからだってされるだろう?」
シャノは乾いた笑みを浮かべた。
「そうじゃないんだ…。俺は、いつも誰かに必要とされていたいんだ…。でも、傷のことを知られると、もう誰にも必要とされないんだ…。口では優しくしてくれるし、頼ってくれる…。でも、頼りにする以上に、俺を怖がってるんだ…」
「なら、傷つけるのをやめろよ」
「…」
シャノは少年を静かに見つめた。
その通りだった。もはや、それが最も早く、正しい解決策だと分かっている。
…でも、分かっていても。
「…なんてな、そんなことをお前に命令、忠告する資格は俺にはないさ」
「えっ…」
あまりに意外な言葉にシャノは目を丸くする。
「やめたからって、そもそもの問題が解決するわけでもない。むしろ、たぶん悪化するだろ。冷たいかもしれないが、お前のやりたいようにやってみればいいさ。楽になれる方を選んで何が悪い」
「…ふっ、不思議な奴だな」
理解してくれる人などいないと思っていた。
傷を知られ、勇気を持って話しても、汚れたものを見るような目は変わらなかったから。皆がそうなのだと信じていた。
「おかしいとはよく言われるよ。ただ、おすすめはしないぞ。前も言ったように理解する気のない奴もいるからな。知られないようにやる、あるいは、出来る限りやらない。でも、俺が一番良いと思うのは…」
「…?」
少年はそこで言葉を区切ると、シャノに微笑みかけた。
「お前の傷のことを“受け入れてくれて”、なおかつ、お前自身が“受け入れられる”奴を探すこと、だと思うぞ」
「…」
「ちょっと、難しいか?」
「…わからない」
「はははっ。まぁ、気長に探せばいいさ。急ぐ必要なんかない。それに、無理に俺の話を信じることもない。その都度、その都度自分に都合が良いことを信じれば良いさ」
少年は夜空を見上げる。
澄んだ空には無数の星々が煌めき、夜の砂漠を微かに照らしている。
それを見ていると、自分の悩みや存在などひどくちっぽけなものに感じてしまう。
「…俺は生きていていいのかな?」
「ん?」
「…結局はそれなんだ。必要とされたいのは、生きている価値がその時は感じることが出来るからなんだ。必要とされないと、生きていていいのか、分からなくなる…」
「…で、不安になって、傷つけて、また人が離れて…の繰り返しってことか?」
「あぁ…。まぁ、結局は俺の心の弱さなんだろうな…」
「そうかい?俺は十分あんたは強い心を持ってると思うぞ?」
「えっ…?」
「だって、他人を傷つけないじゃないか。自分の不安や苦しみを、もがきながらも自分だけでなんとかしてる、だろ?死ぬ気なんかないとか、アピールだ、とか言って人を馬鹿することでしか、自分の立場を守れない連中よりずっと大したもんだ。少なくとも、俺はそう思う」
「そう、かな…」
「おっと、慰めに聞こえたなら、そんなことはないぜ?俺は感じたことを言ったまでだからな。さて、と…」
柱から背を離すと、少年は大きく背伸びをする。それでも、身長的にはシャノの方が勝っているのだが、シャノには少年の姿は不思議ととても大きく感じられた。
「お前の考え方や感じ方もあるが、俺の考え方や感じ方もある」
「あぁ、そうだな」
「じゃあ、他の奴らはどうなんだろう、ってことさ。じゃな」
軽く左手を挙げ、少年は砂漠へと歩き出した。
シャノはその背中が見えなくなるまで、ずっと見つめ続けた。







少年との会話は、シャノの心に安定をもたらした。それはきっと一時的なものなのだろうが、それでも別に構わなかった。
少なくとも、今が良ければ、それでいい。
きっと、この心の痛みや苦しみは、加減は違えど、死ぬまで続くはずだ。不治の病ではないのかもしれないが、シャノ自身には治し方は分からなかった。
なら、痛む時に“痛み止め”をすればいい。
たとえ、それで死んでも、文句はないし、悔いもない。
むしろ、心の何処か片隅では、それを願っているのかもしれない。
死を懇願しているわけではない。しかし、死を拒絶するつもりもない。
ただ、なんとなく今を“死んでいない”だけなのだ。

部屋に戻ると、先ほどは眠っていたスビアが起きていた。
「あっ…」
ベッドに体育座りし、必死に自身を抱きしめていたスビアは、シャノの姿を見ると安堵した様に、小さく声をあげた。
シャノは何とか部屋に入るが、その場で足を止めた。
何と声をかけて良いか分からなかった。
傷のことは知っているはずだ。おそらく治療してくれたのもスビアたちだろう。
しかし、感謝よりも、申し訳なさの気持ちの方が大きかった。
騙すつもりはなかったが、それでも理解しづらいことをしていたのだから。
それにしても、今頃になって、何故あの少年とあんな話が出来たのか、不意に疑問に思った。
初対面のはずなのに、傷のこと、なおかつ自身が抱える不安のことさえも、隠すことなく話せた。
何故なのか…。
あの少年に不思議な感じはした。まるで全てを肯定してくれる様な、そんな心地よさがあった。しかし、おそらくそれだけが理由ではない。
自分があんなにも話せた理由、それはたぶん、彼が親しい人間ではないからだろう。
もはや会うこともない。彼には迷惑はかからない。
そんな不可思議な安心感があったからだ。
…だから、こんなにもスビアと話すのが気まずいのだろう。
話さなければならないことは色々とある。
傷のこと、不安のこと、そして、ここを出ること。
しかし、話す勇気がなかった。
ここを出て行き、もはやスビアたちにとって、自分は過去の人間になるはずなのに。
最後の最後に、迷惑をかけることをひどく恐れていた。

「ぐ、具合はどうだ…?」
ずっとこの空気のまま朝を迎えるのかと思うほどの時間が流れた時、スビアがおずおずと、消え入りそうな程の声でシャノに尋ねた。
「…大丈夫だ」
「そうか…。なら、良かった…。な、なぁ、もう少しだけ寝ないか…?」
「…あぁ」
シャノは頷くと、スビアが寝転がった横に、静かに体を横たわらせた。
本当は眠くなどないし、寝る気もなかった。
ただ、このままスビアを起こしたままにする訳にもいかなかった。
シャノはスビアに背を向け、寝息の様な呼吸を繰り返す。すると、背中に温かいものがくっついてきた。
「すまなかった、シャノ…。本当にすまなかった…」
スビアはシャノの背中にくっつきながら、なかなか枯れない涙に身を震わせていた。
「お前の気持ちを、全然分かってやれなくて…」
「…スビアは、気にしなくていいんだ」
分かるはずもない。
スビアのことを悪く言っているのではない。むしろ、スビアたちの方こそが正常なのだ。
異常なのは、こんなことをしている自分自身なのだ。
シャノは左腕を撫でる。傷口や瘡蓋が擦れて、ひりひりと痛む。
しかし、そんな痛みとはまた違う、小さな痛みと温かさが背中に走った。
「馬鹿を言うな…!気になるに決まっているだろ…!大切な奴が傷ついているんだぞ…。無視なんか、出来るか…!」
ぽかぽかと背中に叩きつけられるスビアの両手。その両手を通して、温かさと優しさがシャノに流れ込んできた。
「シャノ…。やらないでくれ、とは言えない…。あいつも言っていた様に、お前にとって“あれ”は必要なことなんだろう…?」
「…」
「だから、私には止められない…。でも、お前が“あれ”をやっているからって、私はお前を気色悪がったりしない…。文句を言う奴は、出来る限り遠ざけるし、ファラ様の意見だってきっと変えてみせる…。だから…」
スビアはシャノの背中に、未だ涙の流れる顔をくっつけた。
「お願いだ、どこにも行かないでくれ…」










この温かさと優しさはなんだろう…?
対価の様に得ていた温かさや優しさ、そして、愛とはまるで違う。
今まで感じたことのないものだった。
しかし、不気味さはない。むしろ、ずっと感じていたいほどの温かさと優しさだ。
これは…?



そっと体を反転させ、スビアと向かい合う。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でスビアはこちらを見つめた。
愛おしい…。
自然と手がその温もりを求める様に背中へと回り、スビアの体を抱き寄せた。
身長的にも包み込んでいるのはこちらのはずなのに、スビアから伝わる温かさと優しさが自身の体全体を包んでくれる様だった。
「…スビア」
「ん?」
「こんな俺が、ここにいても良いのか…?」
「あぁ、もちろんだ…」
「…俺は、生きていても良いのか?」
「もちろんだ…。ずっと、一緒に生きよう…」
背中に回されたスビアの温かい両手に力が入る。
不思議にも、それに負けじと、自分の手にも力が入ったのが分かった。











左腕の傷は今でも残っている。
だから、それを曝け出してしまうような服を着ることは出来ない。
少し残念に思うこともあるが、それほど後悔はしていない。
何故なら、ここには傷を受け入れてくれる者たちがいる。
傷を知ってなお、認めてくれる者たちがいる。
それだけで十分幸せだった。





















「随分、涼しくなったな…」
窓辺に座り、薄暗い空を見つめながら人虎はぽつりと告げる。
確かに、最近は暑い日もなく、半袖の出番も少なくなり、専ら上に何かを羽織って出かけることが多くなって来ている。
もう秋だ。そして、もうすぐ冬になる、
「そうだなぁ…。そろそろストーブでも…」
よれよれで、だぼだぼの白衣を着た金髪の少年は新聞を読みながら、そう言いかけてやめた。
窓辺に座る人虎の尻尾が嬉しそうに立ち、ふにゃふにゃと動いているのが、視界の端に見えたからだ。
「…うん、ストーブはやめだ。少しは節約しないとな」
「…ちっ」
あからさまな舌打ちが聞こえた様な気がしたが、少年は特に気に留めなかった。
それからも、目の前を往復するなどの、人虎の地味な嫌がらせを無視していると、不意に出入り口が勢いよく開いた。
「よっす、来てやったぜ!」
びゅう、と冷たい風と共に入って来たのは、両手や顔に包帯を巻いた、緑色の髪と猫耳が特徴的なグレムリンだった。
「誰も来てくれ、なんて頼んでないんだよなぁ…」
「んだよ、つれねぇな…。おっ、あんたも来てたのか?」
「ん…」
グレムリンが手を振ると、人虎は軽く片手を上げた。
仲が良いのは勝手だが、溜まり場にされて困るのは少年だった。
そんな少年の気など知らず、グレムリンは少年へと近づき、その手から新聞をもぎ取った。
「あっ!おいっ!」
「いいじゃん、少しくらい。あたしんち、新聞取ってないんだからさ!」
奪い取った新聞を床に広げ、グレムリンは地べたに座って新聞を読み始める。
少年は仕方なしに立ち上がり、薬棚へと向かった。
「ったく…。で、今日は何の用だよ?」
「あぁ、いつもの薬お願い。あと、軟膏多めにね」
「…お前また家燃やす気か?」
「ち、違うって!あれは事故だよ、事故!」
「はいはい…」
「さてさて面白そうなのは、っと…。ん?“砂漠を横断する遺跡”?」
「砂漠を横断?」
不思議な見出しに釣られたのか、人虎もグレムリンの横へと座り、新聞を眺める。
「なになに…。商人や旅人たちの間でも指折りの危険地帯として知られていた、とある砂漠に、それを横断する様に出来た遺跡が見つかった。遺跡への入り口は街から少しだけ離れた所に存在し、遺跡を通ることで、大きな危険もなく砂漠を越えた街へと到達出来ることから、商人を中心に利用が盛んになっている。また、遺跡の中では、休むための“休憩所”もしっかりと完備されており、近くの街では旅人や住人たちの利用を促す広告も広がっている…。なるほどねぇ、随分考えたなぁ」
「…“休憩所”の求人などは載っていないのか?」
「うわっ、勝手に新聞めくるなって、まだ読んでるんだから!」
背後で騒ぐ二人を横目に、少年は薬を袋へと詰めていく。
「新聞破くなよな」
「分かってる、分かってる!」
「全く…。それより、その記事に写真は載ってないのか?」
「写真?あぁ、あるぜ。この遺跡を作ったアヌビスと、その部下たちだってよ」
「ふ〜ん、男は写ってないか?」
「男?う〜ん、あっ、写ってる写ってる。これは…あぁ、アヌビスの旦那だって書いてある」
「その男の左腕は?どうなってる?」
「左腕?いや、よく見えない。てか、白黒なんだから、よく見えるわけないだろ?」
「…それもそうだな」
薬を袋に詰め終わった少年は二人の元へと戻り、新聞を奪い返した。
「ほら、薬」
「おぉ、サンキュー。でも、まだ新聞は読んでくぞ」
薬の袋を受け取った手とは逆の手を差し出し、グレムリンは早く渡せと催促する。
少年はざっと記事を眺めると、すぐに新聞を返した。
アヌビスとその旦那が写ったという写真さえ見れば良かったからだ。



写真の中の二人は肩を寄せ合い、幸せそうに微笑んでいた。


最後まで読んでいただきありがとうございました。
誤字、脱字等は本当に申し訳ありません。
グレムリンのお話はそのうちに書きます。
[エロ魔物娘図鑑・SS投稿所]
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33