読切小説
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薔薇迷宮の蛇
 黒馬に乗った男は、薔薇で出来た壁の前に止まった。明るい日差しが赤薔薇を照らしている。だが、薔薇の棘は人の立ち入る事を拒否している。ただ、一か所だけ入る事の出来る所がある。黒服をまとった男は、その入り口を見ていた。
 入口からは、薔薇の連なりを見る事が出来る。どこまで続いているか分からない赤薔薇の壁だ。その壁に挟まれた通路がある。その通路は、どこへ通じているのか分からない。
 男は馬から降り、馬を置いて歩き出した。そして薔薇迷宮の入口へと入っていく。黒服の男を、赤薔薇は冷ややかに迎える。男は足を止める事は無い。
 その男を、離れた所から見ていた者がいた。彼は、西にある村に住む農民だ。彼は、黒服の男の正気を疑った。魔物の手で造られた薔薇迷宮に入って出てきた者はいない。

 男は、薔薇の壁で出来た通路を歩いて行った。通路は、左右に繰り返し曲がっている。もしかしたら、同じ所を回り歩いているのかもしれない。入口は既に分からず、出口も分からない。どこを歩いているのかも分からない。だが男は、気に留める様子は無い。
 外側は赤薔薇で出来ていたが、中へと入っていくと様々な薔薇があった。白薔薇、黄薔薇、紫薔薇、そして伝説の青薔薇や魔界で咲く黒薔薇もある。様々な薔薇が迷宮を造っている。整然と配置された薔薇もあれば、一見すると自然に育ったような薔薇もある。
 男は、面白そうに薔薇を眺めながら歩いていた。足を止めると、黒革の手袋をはめた手で黒薔薇の茎をつまむ。花弁に顔を近付けて香りを楽しむ。そして黒薔薇と赤薔薇の連なりの中を歩き出す。
 薔薇の通路の先や薔薇の壁に、人ならざる者の姿が見える事があった。人体と蛇体の混ざり合った者が男を覗き見ている。人影もあるが、この迷宮に住む者は人ではなく魔物だ。男は、その者たちを軽く一瞥する。そうすると、人ならざる者たちは静かに引き下がる。
 男は、迷宮の奥へと歩き続けた。だが、本当に奥へ進んでいるのかは分からない。身長よりも高い薔薇の壁により、辺りを見回す事は出来ない。薔薇の壁には棘があり、昇る事は出来ない。そもそも男は、壁を上る気は無いようだ。奥へ進む気があるかさえ分からない。男は、薔薇を眺めながら歩いているだけだ。
 歩き続ける男の前に、開けた空間が現れた。そこは薔薇の壁で囲まれた空間だ。紫水晶で出来た噴水があり、その周りを青い光を放つ水晶で出来た彫像が囲んでいる。そして空の色に染まる水晶で出来た建屋がある。その建屋は、柱で囲まれているだけで壁は無い。建屋の中を見る事が出来る。
 建屋の中の寝椅子に、一人の女が体を横たえていた。

 女は、少しばかり体を起こしながら男の方を眺めていた。女の近くには誰もいない。男は、女の方へと歩いていく。
 近づいてみると、その女は類まれな美貌の持ち主である事が分かった。その繊細な造りの細面は、いかなる人間の名匠でも彫像とする事は出来ないだろう。古代神話における匠の神が、紫大理石と緑宝石、そして黄金を用いて作れば、その女を形作る事が出来るかもしれない。人ならざる者のみが許される美を備えた女だ。
 女は、美しさを除いても人ならざる者である事が分かる。女は、金糸の刺繍がなされた赤絹の服で胸と股をわずかに覆っているだけだ。彼女の体は、男には良く見えた。紫の肌を持ち、緑の髪を体の上に広げている。その髪の一部は生きている蛇だ。彼女の下半身は、緑の鱗が輝く蛇体だ。女は、黄金の瞳で男を見つめていた。
 男は、魔物女に近づいていく。腰に剣を携えているが、それを抜こうとはしない。
「ここで薔薇を見てもかまわないか」
 男は静かに話しかける。
「その前に名乗り合わぬか。私の名はルキア」
 蛇の魔物は、甘さのある低い声で問う。
「私の名はフィリップ」
 男は、どうでも良さそうに答える。フィリップと名乗った男は、ルキアと名乗った魔物女から視線を外す。そして薔薇迷宮を眺める。
「素晴らしい薔薇だ」
「ありがとう」
「ここは、あなたの迷宮なのか」
「そうだ」
 フィリップは魔物女を見つめた。蛇の魔物と言えばラミアやメデューサがいる。目前の魔物女の髪は蛇となっている部分がある。だとすれば、メデューサの可能性が高い。だが、この迷宮の主は、より巨大な存在かもしれない。
「あなたはエキドナなのか」
 フィリップの質問に対して、ルキアは微笑みながらうなずく。
 エキドナとは、蛇の魔物の中でも上位にいる存在だと言われる。一説によると、魔王の娘であるリリムに匹敵する力を持つ者さえもいるそうだ。エキドナは、その巨大な力から“魔物の母”とさえ言われている。
 だがフィリップは、女がエキドナだと分かっても動じた様子は無い。彼の関心は薔薇に向けられているようだ。
「お前は薔薇を見に来たのか」
「そうだ。ここは、伝説と言われている薔薇園だ」
「この迷宮を出た人間はいない。薔薇を見るために我が身を捨てるのか」
「そうだ。悪いか」
 薔薇迷宮の主は微笑んだ。
「奇特な者だな。良かろう。好きなだけ見るが良い」
「感謝する」
 二人は、それ以上何も言わなかった。ただ、共に薔薇を見続けた。

 フィリップは、薔薇迷宮に滞在し続けた。薔薇迷宮をあてどなく歩き回る日々だ。薔薇の連なりを眺め、薔薇の香りを楽しむのだ。残照が薔薇を染める時間となると、ルキアの配下者が迎えに来る。彼女の配下は、蛇の魔物が多い。ラミア、メデューサ、バジリスクなどが、薔薇と戯れるフィリップを迎えに来る。そしてルキアのいる建屋へと導く。
 ルキアは、迷宮奥の建屋で横たわっている。絹と毛皮に覆われた寝椅子に身を横たえている。そこで配下の者たちに指示を下す。後は、黄金の瞳で薔薇を眺めている。
 フィリップは、夜になると彼女と共に建屋にいる。ラミアの持ってきた、薔薇の花弁が浮かんだ水盤で体を洗う。ルキアの前で体を洗う事になるが、フィリップは気に留める様子は無い。そしてラミアたちの用意した絹服をまとう。ルキアと共に食事を取り、彼女と酒を飲む。そうしながら、青い光を放つ珠が照らす薔薇を眺める。そしてルキアと共に寝椅子に横たわる。
 薔薇を見るために迷宮へ来たと、フィリップは言った。その言葉通りに、彼は薔薇を見るだけの日々を送っていた。ルキアも、彼と共に薔薇を見ながら日々を過ごしている。

 夜はすでに更けており、薔薇迷宮は静寂に覆われていた。普段は青い光の珠が夜の庭園を照らすが、今日は青白い月が薔薇を照らしている。水晶の建屋は、月光に輝いている。その建屋の中で、人間の男と蛇の魔物である女は共に寝椅子に横たわっていた。そして青い光を放つ水晶の盃で赤葡萄酒を飲んでいる。
「美しい庭だが少し物足りない」
 フィリップは、月光に染まる白薔薇を眺めながら言った。
「何が物足りないのだ」
 ルキアは、水晶の盃を眺めながら言う。
「“廃王の庭園”を知っているか」
「血塗られた庭園だ。今は牢獄となっている」
「そうだ。だが、美しい庭だそうだ」
 “廃王の庭園”とは、暴君として知られた王の造った庭園だ。その王は、己の気に入らぬ者たちを庭園で斬首した。血は白薔薇を染め、屍は赤薔薇の肥料となったそうだ。彼は魔王によって廃位され、自分の造った庭園に幽閉された。
「廃王は、己が屠った者たちの髑髏に銀箔を貼り、庭園に飾ったそうだ。銀の髑髏は、薔薇と共に月明かりの下で輝いたそうだ」
 フィリップの眼差しは夢見るようにけむる。
「下らぬ。そのような悪趣味な物は、この庭に置くつもりは無い」
 ルキアの冷ややかな眼差しに、フィリップは微笑みを返す。
「生きている内は醜くとも、死すれば美しい。廃王はそう言ったそうだ」
 人間の男は、魔物女にそう答えた。

 フィリップは、過去を思い出していた。自分の造り上げた薔薇園を、そこに飾られていた銀の髑髏を思い出していた。
 彼は、豊かな農地の広がる西の王国に住んでいた。彼は諸侯の一人であり、王家よりも古い家の出だ。彼の領地には小麦畑と葡萄畑が広がり、その葡萄からは良質な葡萄酒が出来た。
 フィリップは、自分の城の中庭に薔薇園を造っていた。赤薔薇と白薔薇そして紫薔薇によって造られた薔薇園だ。彼は青薔薇を欲したが、それは伝説上の薔薇であり手に入れる事は出来ない。仕方なく紫薔薇で代用した。薔薇は整然と配置されており、薔薇の回廊が造られていた。薔薇園の中央には、白大理石と黒曜石で出来た建屋があった。その周りには、白大理石と紫大理石で出来た噴水や彫像があった。
 彼にとっては、その薔薇園で過ごす時間だけが幸福な時間だった。すでに他の現実は、彼を責め苛むものでしかない。魔物や異教徒に対する「聖戦」の失敗により、彼の一族は没落の道をたどっていた。一方で、王の権力は拡大していた。王は、諸侯たちを抑圧する事でさらなる権力の拡大を狙っていた。
 フィリップの領地は、王の餌食になろうとしていた。フィリップは王に対して面従腹背し、法の操作と古い家の繋がりを使った社交で乗り切ろうとした。一族の一人は司教であり、彼を頼って主神教団を盾にしようとした。そして自分の権力基盤を固めるために、領地の経営に力を注いだ。
 それは空しい抵抗だった。法は、王の側近である法律家によって勝手に解釈された。古い家の繋がりは、新興勢力を味方につけた王の前では脆弱だ。主神教団は、「聖戦」の失敗により落日の中にある。領地の経営は成功したが、それは王の欲望をさらにかき立てる事となった。
 王は、フィリップが内部から崩れるように仕向けた。利益誘導による裏切りを煽ったのだ。フィリップの臣民は、王の隆盛とフィリップの没落を分かっていた。彼らから見ればどちらも支配者であり、滅びゆく支配者に対する哀惜など欠片ほども無い。臣民たちは、王の差し出す金や権益に飛びついた。
 フィリップは、裏切り者の殺戮に狂奔した。それ以外に彼の取る術は無かった。彼は、裏切り者を薔薇園で斬首した。かつて残虐さ故に廃された王がおり、彼は自分の庭園で謀反人を斬首したと言われる。フィリップはその廃王を見習ったのだ。白薔薇を裏切り者の血で染め、赤薔薇の下に埋めた。ただ、髑髏だけは埋めなかった。銀箔を貼って薔薇園に飾った。それも廃王に見習ったのだ。
 一人の女の事をフィリップは思い出す。幼い時からフィリップに仕えていた女であり、彼はその女を姉のように慕っていた。フィリップが年頃になると、その女は彼に性の奉仕をした。彼女は、フィリップの愛妾のような存在となっていた。
 その女は、容易くフィリップを裏切った。フィリップに関わる情報を王に売り、王のために工作に励んだ。彼女は、フィリップの父に命じられて彼の面倒を見ていたにすぎない。性の奉仕もその一つだ。フィリップに対する愛情など欠片も無く、より多くの金をくれる者がいればためらい無く裏切る。その程度の関係に過ぎなかった。
 フィリップは、その女を薔薇園で斬首した。白薔薇を一輪切り取ると、その薔薇を女の首に当てた。赤く染まった薔薇を日の下で弄びながら、血と薔薇の香りを楽しんだ。女の髑髏で銀盃を造り、月光で輝く薔薇を眺めながら髑髏盃で葡萄酒を飲んだ。薔薇の中に飾られた無数の銀髑髏は、青白く輝いていた。
 滅びゆく諸侯の退廃の宴は、長くは続かなかった。王は、密告を元にしてフィリップの反逆をでっち上げ、軍をフィリップの領内に攻め込ませた。フィリップは自軍を持って迎え撃とうとしたが、それはすぐに不可能だと思い知らされた。自軍は全く動かなかった。フィリップの側について王に抵抗する者などいなかったのだ。それどころか、フィリップを王に差し出そうとした。フィリップはかろうじて逃げ出した。
 フィリップの城は、王軍と裏切り者たちによって占拠された。彼らは城の中を略奪し、フィリップの薔薇園を焼き払ったのだ。燃えあがる薔薇を、暴徒たちは笑いながら眺めていた。
 フィリップはあてどない旅に出た。大陸各地を独りさまよい続け、自分たち古き者が滅びゆく様を見てきた。自分は、時代から捨てられた者だと思い知らされてきたのだ。彼は、既に生きる意味を失っていた。
 放浪の最中、フィリップは一つの薔薇園の事を聞いた。その薔薇園は、蛇の魔物により造られた薔薇園だそうだ。人間と魔物が作り育ててきた薔薇が集められている薔薇の迷宮だ。フィリップは、その薔薇迷宮を書物で読んだ事がある。実在しているとは考えておらず、話を聞いても信じなかった。だが、戯れで薔薇迷宮の探索を行った。そして蛇の魔物が守る薔薇の園にたどり着いたのだ。
 薔薇迷宮にたどり着いた時、彼は命を惜しいとは思わなかった。すでに生きる意味を失った身だ。魔物の巣くう薔薇迷宮にためらわずに入った。

 フィリップは、月光の下で輝く薔薇を眺めていた。かつて自分の薔薇園で眺めていたように、月明かりの下で葡萄酒を飲みながら眺めている。ただ、彼の持つ盃は、魔術で光を放つ水晶で出来ている。体を交えた女の髑髏で作った銀盃ではない。蛇の薔薇園には、銀の髑髏は飾っていない。
 薔薇を眺める男は、一つの光景を思い出していた。彼の薔薇園が燃えあがる光景だ。暴徒たちによって火を放たれ、瞬く間に炎に包まれていく。彼の愛した薔薇は、炎によって滅ぼされた。
 この薔薇も滅びるのだろうか。フィリップは、蛇の薔薇園を眺めながら想う。全てのものは滅ぶ。この魔物によって育てられた薔薇も滅ぶ。彼の目には、炎の中に消えていく薔薇の姿が浮かぶ。
「滅びるものこそ美しい、か。下らないな」
 彼の言葉は夜気に吸い込まれた。

 日差しの下で、薔薇は輝いていた。いつも通りの事だ。だが薔薇迷宮は、不穏な空気に包まれている。迷宮の外から、人馬の気配が叩き付けられている。悪意と憎悪に満ちた気配だ。蛇の魔物たちは、慌しく行き来している。庭師である魔物トロールも隠れ場を探している。
 その中で、二人の者だけが寝椅子に横たわっていた。この薔薇迷宮の主とその客だ。主は、危機に動じる事無く薔薇を眺めていた。時折、自分の元に報告に来る蛇の魔物に対して、指示を出している。客である男は、噴水越しに薔薇を眺めていた。紫水晶の小鉢から柘榴を取り、その果実を味わっている。
「無粋な者たちが来たようだな」
「北国の王の配下どもだ。薔薇の美しさを解さぬ人間どもだ」
「どうするつもりだ」
「追い払う。薔薇を楽しむ者ならば歓迎するが、薔薇を焼き払う者は駆除する」
 客であるフィリップは、柘榴の汁で濡れた指を見た。その赤く染まった指と赤薔薇を比べ、指を濡らす汁を舐め取った。フィリップは立ち上がり、自分の剣を携えて歩き出す。
「どこへ行くのだ」
「散歩さ」
 剣を携えた男は、振り返らずに答えた。

 王の配下たちは、薔薇迷宮に火を放っていた。迷宮ごと中にいる者たちを焼き滅ぼそうというのだ。油が薔薇に注ぎ込まれ、火を放たれる。炎は薔薇を飲みこんでいく。魔物たちが丹精を込めて育てた薔薇は、炎の中に滅びていく。
 薔薇迷宮から、無数の茎が飛び出した。その茎は兵士たちを弾き飛ばし、縛り上げる。薔薇の茎は、その棘で無粋な兵士たちに痛みを与える。火を放った者たちは、苦悶の声を上げていた。彼らは鎧を付けているが、隙間から茎は侵入している。
 迷宮から光の珠が浮かび上がった。赤、青、黄、緑、紫、白そして黒い光の珠が浮かび上がる。それらの珠は、王の兵士たちへと飛んでいく。閃光が走り、悲鳴が交差する。薔薇迷宮は七色の光に輝く。その輝ける薔薇の間から蛇の魔物たちが現れた。彼女たちの手には弓があり、優美な音と共に矢が放たれる。
 だが、王の軍は大軍であり、次々と兵が薔薇迷宮に襲いかかった。さらに王軍は投石器を持ち出し、火のついた藁を薔薇迷宮に投げ込んでいる。また、弓兵たちは火矢を打ち込んでいる。薔薇迷宮に炎が広がっている。
 フィリップは、王の兵を迎え撃とうとするラミアの後に付いて行った。そうして薔薇迷宮の外に出る。そこでは、蛇の魔物たちと王軍の兵士たちが戦っていた。蛇の魔物たちの剣技は優雅であり、王軍の兵士たちの粗暴な槍や剣を弾き飛ばしている。だが、魔物たちが劣勢である事は明らかだ。
「客として恩に報いるとするか」
 フィリップは剣を抜いた。蛇の魔物に槍を突き刺そうとしている兵士を切る。剣は、炎を反射して輝く。黒衣の男は走り、剣光を煌めかせ、無粋なる者たちを切り捨てていく。その背に槍を突き立てようとする者がせまる。
 甲高い音がして槍が弾かれた。フィリップが振り返ると、槍を失った兵士が腰を抜かしている。黄金の瞳と緑蛇の髪を持つ女が剣を手にしていた。薔薇迷宮の主であるルキアは、客人に微笑みかける。
「客を守る事は主の義務だ」
「主の鏡だな。感謝するとしよう」
 客と主は、共に剣を振るう。銀光が光り、怒号と悲鳴が交差する。戦う人間と魔物を炎が照らす。
 ルキアの横から矢が飛んで来た。身をひねって交わすが、体勢を崩す。その隙に槍が突き出される。槍はルキアの左肩をかすめる。むき出しの肩から血がはじけ飛ぶ。フィリップは駆け寄り、槍兵を切る。二人を無数の兵士たちが囲む。
 にわかに空が曇った。雷鳴が轟き、閃光が走る。雷が下され、地が裂ける音が響き、叫喚が迸る。激しい雨が燃えあがる薔薇迷宮に降り注ぐ。暗黒の中で光が走り、雷と雨に打たれる人々を映し出す。野蛮な炎は、慈雨の中で小さくなっていく。
「どうやら間に合ったようだな」
 ルキアは空を見上げながら微笑む。
「これはルキアがやったのか。それとも味方の者がいるのか」
「味方だ。我が友に、天候を操る魔術を持つ者がいる」
 天から下される雷と薔薇迷宮から放たれる光の珠は、兵たちを打ちのめした。整然としていた軍列は、既に散り散りとなっている。軍の指揮官は、退却命令を出したがすでに遅い。兵たちは、指揮官を捨てて逃げ出している。
 フィリップは、懐から布を取り出した。その布をルキアの左肩に巻き付ける。布は、黒いために色は変わらないが、すぐに濡れそぼってしまう。
「感謝する。客に助けられるとは、主として情けないがな」
「私もルキアに助けられた」
 フィリップは、自分の剣を見つめた。何人もの兵士を切り捨てたのに、剣は血で濡れていない。
「この剣は、私の物では無いな。すり替えたのか」
「そうだ、お前が薔薇に酔いしれている間にな。その剣は魔界銀の剣だ。人を殺す事は出来ぬ」
「害虫は駆除すべきだ。美しい薔薇は、害虫を駆除する事で育つ」
「殺すばかりが術ではない」
 フィリップは、辺りを見回していた。倒れ伏した兵たちがいる。自軍の者たちに見捨てられた者たちだ。その者たちを、蛇の魔物たちは薔薇迷宮の中に引きずってゆく。
「この者たちをどうするつもりだ」
「庭師として育てる。野蛮な武器を持つよりは、薔薇を育てる事を仕事とした方が良い。お前は会っていないが、この迷宮には人間の庭師もいる」
 雨は降り注ぎ続けていた。炎はほとんど消えており、薔薇迷宮の所々が無残な焼け跡を晒している。焼けた薔薇と水で濡れた土の匂いが混ざり合っている。
「造り直すには時間がかかりそうだ」
 客である男は、沈んだ目で焼け跡を眺めていた。

 薔薇迷宮は、簡単には元通りにはならない。燃えた薔薇は元には戻らず、新たな薔薇を育てるには時間がかかる。庭師たちは、無残な焼け跡を片付けて一から薔薇を植えて育てている。その労苦は並のものでは無い。
 ただ、迷宮の奥は焼失を免れていた。ルキアとフィリップが薔薇を眺める建屋付近は、薔薇は無傷であった。二人は、月明かりの下で葡萄酒を飲みながら薔薇を眺めている。葡萄酒には薔薇の花弁が浮いていた。フィリップは、薔薇を口に含みながら葡萄酒を飲む。
「お前は滅びを見たかったのか」
 ルキアは物憂げに尋ねる。
「そうかもしれないな。この薔薇園が炎の中に滅びてゆくのを見たかったかもしれない」
「滅びが美しいとでも思っているのか」
「さあな。ただ、せいぜい美しく滅びれば良いとは思っている」
「下らぬな。そんなものは、感傷交じりの浪漫でしかない」
「腐っていく肉は醜い。だが、肉が腐り果て、雨に洗われ、風に晒された髑髏は美しい」
 フィリップはけむる眼差しとなる。
「すべてを滅ぼす炎も美しいかもしれない」
 ルキアは寝椅子から身を起こした。フィリップに身をすり寄せ、その体を愛撫する。
「肉を否定するのか。喜びを与える肉を」
 押しのけようとするフィリップの手を、蛇の魔物は静かに取り押さえる。
「無粋な真似をするな。月が笑っておるぞ」
 ルキアは葡萄酒を口に含むと、フィリップの口を口でふさいだ。フィリップの口に、薔薇の花弁と共に葡萄酒が流し込まれる。薔薇の苦さと葡萄酒の甘さが混ざり合う。二人の舌は絡み合い、葡萄酒は喉へと流し込まれる。
 フィリップの服は、蛇の魔物の手で脱がされていった。冷たく滑らかな手が男の肌を撫でさする。ルキアの手は男根を握った。すでに固くなっている。
「それで良い。快楽を受け入れよ」
 蛇の魔物は、男の肌に舌を這わせた。人ならざる長い舌で、人肌を滑らせていく。蛇の魔物は、男の股に顔を埋めた。薄い唇で男根に口付けをすると、男根以上の長さの舌を絡みつかせる。男の口から喘ぎ声が出た。蛇の魔物は、男の顔を見ながら微笑む。
 舌は、蛇のように男根に絡みついた。月明かりの下では、二匹の蛇が戯れているように見える。蛇たちは絡み合い、身をすり合わせる。雌雄の蛇による官能の踊りが繰り広げられる。
 雄は長くはもたなかった。生命と欲望の証である液を撃ち出す。その液は雌に浴びせられ、雌は恍惚とした表情で受け止める。精の臭いが辺りに広がる。
「濃いな。お前の生命力の強さの証だ」
 蛇の魔物は微笑む。男は虚ろな表情で女を見つめる。
 魔物の舌は、男根に絡みつきながら踊り続けた。一度は柔らかくなった男根は、再び硬く反り返り始める。蛇の魔物の言うとおり、男の生命力が強い事を男自身が証明している。
 蛇の魔物は、身を起こして自分の体を男に見せつけた。魔物は、ゆっくりと服を脱ぎ落していく。女陰は濡れており月光で輝き、女の匂いが漂ってくる。彼女は、男に覆いかぶさった。女陰を男根に押し当てて、そのまま飲みこんでいく。
 蛇体は男に巻き付き、男の体を拘束した。人間と同じ女体も男を抱きしめる。体温の低い体は男に張り付き、女の柔らかさが男の体に染み込む。女から放たれる甘い香りは、男の体を包む。
「ああ、温かい男の体だ。それにたくましい男根。私を酔わせようというのか」
 蛇の魔物は、掠れた声でささやいた。
 男は答える余裕はない。快楽を貪る獣となり、腰に力を込めて女を突き上げる。荒い喘ぎ声を上げながら雌蛇の体を蹂躙する。
「そうだ、私の体を貪れ。その力の全てを振り絞って、私を貪るのだ。私を酔わせよ」
 男と雌蛇は絡み合う。月明かりの下で二つの者が混じり合う。すでに二人の境界は判明しない。
 男は激しく突き上げ、同時に男は決壊した。男の生命液が雌蛇の中に放たれる。雌蛇は叫び声をあげ、男体を噛む。男は、さらに生命の液を雌蛇の子宮へと叩きこむ。
 雄と雌は絡み合っていた。二匹は寝椅子に体を横たえ、荒い息と共に体をうごめかせている。体は汗で濡れており、二匹の汗が混ざり合っている。
 フィリップは、ルキアの左肩に顔を寄せた。槍傷は治っているが、少し跡が残っている。フィリップは傷痕に口付けた。ルキアは彼の頭を抱きしめる。
 滅びを望む人間男と滅びを拒否する魔物女は、月光に照らされながら抱きしめ合っていた。

 フィリップとルキアは、薔薇迷宮で共に過ごし続けた。ルキアは庭師たちに指示を下し、薔薇を育てている。フィリップは、彼女と薔薇を眺めている。二人は、共に酒を飲みながら薔薇を眺める。そして肉の交わりを行う。
 情交の跡を残しながら眠る蛇の魔物を、月明かりが照らしていた。交わりの後の気怠さの中で、フィリップは彼女を見下ろしながら想う。永遠不滅のものなど存在しない。この美しい魔物もいずれ滅びるのだろうか。この薔薇迷宮と共に滅びるのだろうか。
 フィリップは目を閉じた。彼の前に幻影が現れる。全てを滅ぼす炎が燃え盛り、後には骨だけが残される。滅びの跡は風に吹かれている。
 目を開くと、咲き乱れる薔薇が見えた。滅びを幻視する男は微笑んだ。
「滅びの時まで、せいぜい薔薇と女を楽しむとするか」
 彼のつぶやきを聞く者は誰もいない。

18/11/14 19:30更新 / 鬼畜軍曹

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