読切小説
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水に流して
 開いた窓の外に目をやると、そう遠くないところに陽炎が揺らめいている。窓から入り込んでくるのは、そういう熱気と、自らの命を燃やして咽ぶ蝉の声ばかり。あとは、道路を通り去る車の通過音。 
「あつい……」
 うなだれながらに彼女がぼやくのを聞いて、うだる頭を落ち着かせて訊いてみる。
「……暑さ、吹っ飛ばしたいですか?」
 あー、と彼女は唸りつつ頷いた。熱は頭に上るが、尚もそれを抑えて続ける。
「……それなら、まずは俺から離れましょう?」
 彼女は即答した。
「やだ」
 同時に、押し込めていた熱が一気に放出される。
「だーっ! 言ってることとやってることが矛盾してるじゃねーか! あついあつい言いながらベタベタまとわりつきやがって! お前を吹っ飛ばすぞ!」
 ばたばた身じろぎしながら声高に主張する。
 彼女とは同棲の関係にあるが、これが結構厄介で、何かと俺にちょっかいを出してくる。内面は繊細な奴だと理解してはいるつもりだが、こうくっつかれては必要とされているようで嬉しい一方、暑さも増すばかりで不快は不快だ。
「補充してるんだよー、もうちょいだけ」
 彼女が暑さを感じない体を持っているわけではない。暑さを選ぶか、恋人を選ぶかという違いだ。魔物の多くは、恋人を選ぶらしい。魔物は人間とは違い、『精』というエネルギーのようなものを主食としている。これは人間の男性にのみ産出能力があり、主に性交によってこれを摂取する。ただし、『精』は微量ながらも体から発散されており、魔物側がこれを皮膚から吸収するというのもできない話ではないそうだ。
「わかったから、せめて俺の上に乗らないでくれ。重い」
 うつぶせ寝の状態に乗っかられているのだ、熱気と重圧の二重苦は流石に堪える。暑い中叫んだからか体力が物凄い勢いで奪われている気がする。
「乙女になんてこと言うんだよ」
 彼女が如何にも心外そうな声をする。女性の多くは体重を気にしているらしいが、それは魔物も例外ではないようだ。だが、これに対しては自分なりの持論がある。が。
「あのな……いいから、早く……」
 最早それを彼女に説く気すら起きない。暑さで思考がぼやけてきた。
「あ、ああ……大丈夫か? 熱中症でも起こしたんじゃあ……」
 彼女のふてぶてしい口調が途端に萎れだした。分かっている。彼女がまとわりつくのは、それだけ俺を必要としてくれているからだとは分かっている。
「とりあえず、離れて……」
 息も絶え絶えに、くぐもった声で促す。魔物はある程度暑さに耐性があるようだが、人間はそうではない。扇風機が申し訳無さ気に首を振っているが、暑さは一向に引かない。風通しをよくしようと窓を開けてはいるが、日が差し込んでくるばかりで肝心の風は扇風機からしか来てくれない。そもそも八畳一間に二人という時点で、相当なものになっている。
「ほんとにつらそうだな……ちょっと待ってな」
 気遣うような声で、彼女がキッチンの方へ向かっていった。打ち水でもしだすつもりだろうか。唸りながらごろりと仰向けになる。
 二人……八畳一間に二人か。ほんの少し前までは、ここに一人だった。カノジョと同棲、なんて話は他方からも聞いてはいたが、そんな狭苦しいものよりは気楽な方が良いと考えていた頃もあった。実際、来てみれば、思いの外楽しいものだ。それだけ厄介事も増えるが、差し引きではプラスになっていると思う。間違いではなかったはずだ。何だか走馬灯のよう。いよいよ俺まずいんじゃないか。
 霞んだ思考に身を委ねていると、彼女が何かを持って戻ってきた。包装された白い棒状の……あれは。
「ほら、アイス。食べられるか?」
 声は普段よりも穏やかだった。これが聖女か。いつもこうであれば厄介事も減るというものを。だが、今は下手に憎まれ口を叩かずに彼女の気遣いに甘えておこう。
「ありがとうな」
 素直に言うと、彼女の頬に薄紅が塗られて見えた気がした。
 アイスバーを受け取って、包装を取って口に含む。冷気と共にバーがとろけてバニラの優しい甘味が口いっぱいに広がる。10本入り150円の安物だったはずだが、これがこんなに美味いとは。冷たさに夢中で頬張る。半分ほど食べたところで、思考はだいぶ元に戻ってきた。何であんな回想していたのだろう。
「助かった。ほい」
「え、何」
 残りの半分を彼女に差し出すと、不思議そうな顔をされた。俺が一本食べきるという前提だったらしい。とはいえ彼女を尻目に一本まるごと貪るのも引け目がある。
「人間より暑さに対してマシっつっても全然平気ってことはないだろ。お前も食えばいい」
「え、あっ、ああ……」
 彼女は崩されるように棒の先端が突き出たアイスを受け取った。何か躊躇いの見える顔だった。
「……なんだ? チョコの方がよかったか?」
「や、違う、その……」
 彼女の頬の薄紅は、もう気の所為ではなくなっていた。扇風機の、風を送る音が聞こえて、彼女の黒髪がそれに揺れていた。ここまでされれば、それがどういうことかは俺でも察さなければならないところだろう。だが。
「お前っ、散々搾っといてそんなことで……」
「しょ、しょうがないだろ! 意識しちゃったんだから……」
 彼女は人間ではなく、魔物なのだ。それも、命ではなく精を狙う淫魔。『精』を主食としているとはいっても、その摂取方法が性交ではさもありなん。そんな奴が今更間接キスなんかで顔を赤らめているなど――つられたか、こっちの顔まで熱くなってきた。
「い、いいから早く。溶けるぞ、ほら」
「あっ……」
 言うが早いか、真っ白な雫が一滴、灰色の手にぽたりと落ちた。一瞬、昨日の夜の彼女が重なって見えた。
 すかさず、落ちた雫を彼女が舐めとる。淡紅色の舌が血の気の抜けた肌を這うのを見て、昨夜の彼女の輪郭が更に濃く見えた。……何だ、全然涼しくなっていないじゃないか、俺は。もっと冷やせ。
「急げ急げ。このままじゃ液状化だ」
「わかった、わかったから」
 おどけて彼女を急かす。煽られるようにして彼女はせっせと溶けかけのバーを咥え始めた。どうやら、今の俺の目は彼女に気付かれていなかったらしい。再び、体と意識を窓の外に向けるようにした。青い植木と向こうの空には、線路のような二本の白線が遠い音を立てながら引かれつつあった。方向で言えば、あれは東か。
 しかし、頭を冷やすとはここでは中々に難しい。寧ろ、ここには温かい、熱いというのが余りに多すぎる。その多くは、他でもなく、彼女が運んできてくれる。冬場では、とてもありがたいことだ。だからこそ夏場では彼女が無防備に牙を剥いてくる。そんな中でたまに涼しい、というのはあっても、冷たい、は精々冷凍庫の中に置いた箱くらいのものしかないのだ。そんなものを彼女が運んできたらぞっとするが。……冷凍庫。思考を何かが掠めて、送風と飛行が止まったように思えたが、その瞬間に、
「ジーンっ」
 テーブルにはもう、食べ終わった後の棒だけが置かれていた。跳ねるような馴れ馴れしい声と共に、後ろから細い腕と確かな重みとを感じる。柔らかな肌と、それと……あばらの感触。仕返しが怖くてまだ、言ったことはない。エイプリルフールのついでに言っておこうか。
「ひなた……またかよ」
 熱は、また運ばれた。気だるげながら、また、嬉しくもある。ただ、これは飽くまでも不服だ。人間は、暑さにも弱いのだ。
「いーじゃんいーじゃん」
「折角いいことが閃きそうだったのに……」
「なんの?」
「涼しくなる方法」
 冷やす方法、とも言うが、そのまま彼女に伝えては何の意味も無い。こう、復唱して、漸くまたあの感覚が戻ってきた。何か名案の閃く感覚。それは視界に稲光を齎して、脳髄を切り拓いた。
 それは衝撃でもあった。至って簡単なことだったのだ。こうしてぐったりと倒れていた事が実に阿呆らしくなるくらい、それは単純だった。
「そうだ。そうだよな」
「え?」
「こんな簡単なことだったのか。なんで気が付かなかったんだ」
意図が読めないといった様子の彼女を尻目にすくと立ち上がる。
「あっおい、まだ……」
「後だ後。涼しくなるいい方法がある」
 腕が解けたと不平を言う彼女を宥めた。これからするのは、そんなことよりも余程爽快なことなのだから、少しばかりぞんざいにしても釣りは来る。
 そのままキッチンを抜けて風呂場へ。とりあえず付いてきた彼女も漸く気が付いたようだ。
「ジン、涼しくなる方法ってまさか!」
「ご名答。いやー、暑いなら水浴びすればいい話だったのにな」
 言いながら、しみじみと頷く。彼女もこれには納得したようで、
「確かにこれなら一石二鳥だな!」
 と、酷暑でばてた表情を明るくした。
 ……一石二鳥? 俺は暑さを何とかすることだけを考えていたはずだったのだが、水浴びにそれ以外の得などあっただろうか。
 もしかすると彼女は、いや、きっとダラダラにかいた汗も流せるという意味なのだろう。そうでないと今度はこちらがまさかと言う番になってしまう。
「ひなた、お前まさか一緒に入るつもりじゃ」
「えっ、ジンは一人で入るつもりだったのか?」
 ああ、ご名答だった。二人で入るのがこいつの前提だった。
 そうだ、一緒に暮らしていると忘れかけてしまう。彼女は魔物で、決めた男性と共に在りたいと願うことを。
 赤い大きな一つ目も、血の失せたような灰色の肌も、背から生えだす目付きの触手も、全ては人ならざる者の証だ。
「あ、いや、ほら……うちの風呂、狭いし」
 何の気なしに見つめられても、事が事だけに目を逸らしてしまう。同棲の上に既に関係を持っているとはいえ、未だに控えてしまうこともある。
「でも、一緒に入ったこともあるじゃん?」
「うっかり二人とものぼせたのを忘れたとは言わせないぞ」
 一緒に入浴するということは、二人とも裸になるということであって。浴室が狭いということは、二人とも密着するということであって。彼女は魔物なのであって。俺も乗せられてしまったのであって。
 今二人で水浴びをしたら、そんなことがまた起こるのは分かりきっていた。
「今日は水浴びなんだから、のぼせる心配はないだろ?」
 つまり、これはもう言外にそういうことをすると誘っているに等しい。それが判ると、暑さで彼女の肌に浮き出た玉の汗も、途端に扇情的なものに見えてくる。
「それともジンは……シたく、ないのか?」
 言葉を渋っていると、ひなたの尋問がいよいよ踏み込んだものに変わってきた。仄かに顔を赤らめて目を伏せているところを見ると、そんなわけないと言い放ってしまいたくなる。
 だが、彼女が魔物なのに対して俺が人間である以上、理をはたらかせるのもおかしくはない、寧ろ妥当だ。
「……まあ。でも、まだ昼だからな」
 ひなたは、ぐぐ、と不満げに口を噤んでいる。
 昼だからできない、というのは裏を返せば夜になればできる、ということなのだからそれでいいのではないのか。朝三暮四ではあるまいし。
「じゃ、ジンとアタシが順番に入るってのか?」
 ひなたが口を尖らせながら訊ねる。普通そうだろうに。しかし、魔物に人間の『普通』は通用しないものだ。
「そうした方が俺はいい」
「でもさ、二人まとめて入った方がラクじゃん。時間の節約になるし、話もできるし」
 もっとも。ひなたの言っていることは正しい。
「そりゃ、うっかりシなければ時間は節約できるだろうな」
 声のトーンを軽く上げて嘲った。そもそも二人で入れば行為に発展するのは避けられない。仮にひなたが奇跡的に自分の熱を抑え込んだとしても、その時は俺が我慢できなくなっているだろう。お互いが、お互いに入れ込んでいるのは確かなのだから。
 何も事を起こさずに二人で水浴びしようなんてのはどだい無理な話だったのだ。
「……もういいっ! ジンのバカ! ヘタレ!」
 破裂するように声を荒げたかと思うと、言い返す間も無く、ひなたは居間へと転がっていった。
 ふう、と、大きく息を吐いて棚のバスタオルを手に取り、汗で肌に張り付いた衣服を脱いだ。浴室へ入ると、小窓から差し込んでくる日差しで乾いた水の匂いがした。一応、明かりは点けておこうか。
 ハンドルを捻ると、上から冷めた水の粒が降ってくる。髪に降りた冷水が額、目尻と顔を伝って落ちていく。床で弾ける雫の音が、テレビの砂嵐のように聞こえていた。
「冷た……」
 冷水のシャワーというのは、いつでもいやに冷たく感じる。水泳の授業は言うに及ばず、家でだってそうだ。
 ――流石に、素っ気が無さすぎただろうか。別に、セックスは夜になってからするという取り決めをしているわけでもない。こちらの価値観を向こうに押し付けているだけだ。
 魔物にとって『精』は主食だ。食欲は性欲であり、性欲は食欲だ。勿論、湧き上がる欲に逐一従っているのでは獣と同じだ。だから、人間はそこで理を用いるが、魔物の理は人間のそれよりずっと希薄なものだろう。
 人間の世界に居る以上は人間の価値観に合わせてもらわねばならないだろうが、それは公共の場での話であって、家の中でまでそれを強いるのは酷にも思える。
 全身に落ちる冷水が、体の熱を急速に奪って彼女の癇癪を思い起こさせた。しかし、どれだけ水を浴びても、熱を失っていない部分があった。奪われた熱はそこに集中していく。
 ハンドルを捻って水を止め、濡れた髪を掻き上げる。もう一度大きく息を吐いて、浴室の扉へ向き直った。手を掛けようとすると、それよりも先に扉が開いた。
「えっ、ひなた?」
 開いた扉の先に、ひなたが立っていた。口を真一文字に結んで、こちらを睨みつけている。彼女の目線が一瞬だけ、下腹部に下げられた。
「水浴び、終わったのか」
「あっ、はい」
 癇癪がまだ残っていて、口調には有無を言わせない迫力があった。剣幕に押されて、こちらの口調が畏まってしまう。
「なら、次はアタシだ」
 そのままひなたが浴室に入り込んでくる。彼女の物々しい表情に俺は出るタイミングを失って、他に身を置く場所も見当たらなかったため、自然と空の浴槽に体をうずめる羽目になった。
 ひなたは気にしたふうも無く、淡々とハンドルを捻って水浴びを始めた。
 結局、二人一緒に入ることになってしまった。水浴びしているのを浴槽から俺が見ているという構図自体は、さほど妙ではない。ただ、浴槽とシャワーの間には見えないカーテンのようなものが引かれていた。カーテン越しにすら、二人の会話は無い。水と時間が共に流れていくだけに決まりの悪さを覚えた。
「あの……ひなた」
 機嫌を窺うように名前を呼ぶと、刺さるような視線だけが返ってきた。背中を流れたのが冷水なのか冷や汗なのかの判別がつかない。それは、彼女が本来『凝視者』であることを思い出させた。
 だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「その、ごめんな。俺の『精』が欲しかったのに、突っぱね……うわっ!」
 意を決して謝ったが、言い切る前に冷たいものが降ってきた。シャワーをかけられたのだ。
「ちょっ、ひなた! やめて! ごめん! ごめんって! 許してひなた!」
 気が動転して平謝りしてしまう。謝っていることには間違いが無かったはずなのだが、一体何がいけなかったのだろう。
「へへっ……バーカ」
 彼女は、既に笑っていた。さっきまでの怒りがどこかへ消えてしまったかのように、どこか嬉しそうだった。謝罪に対して怒っているから水をかけられたのかと思えば、今度は笑っている。ひなたの気持ちが読めなくなって、俺は呆然としていた。
 ひなたはシャワーを戻して再び体を洗い始めて、困惑している俺を諭すように語りかける。
「魔物が『精』を求めるのは、確かに腹が減ったってのもあるさ。けど、それだけじゃないってのも分かってくれよな」
 切と語る彼女は、もういつものひなたに戻っていた。
「魔物はみんな、好きなヤツといつでも一緒にいたいもんなんだよ……」
 そう考えると、今まで見えていなかったものも見えてくる。水浴びに来たのだから、今のひなたは当然生まれたままの姿になっている。
 体が水に濡れているというだけで、どうしてここまで情欲を誘うのだろう。濡れた髪が彼女の整った横顔に張り付いているだけでも身体にぞくぞくしたものを覚える。小振りな臀部が瑞々しい果実にさえ見えてくるようだ。
「……聞いてるのか?」
「あッ? ああ」
 まったく肢体に見入っていて、途中から声が耳を通り抜けていた。間の抜けた声が零れる。
「嘘つけ。ずっとアタシの体見てたクセに」
 いとも簡単に見透かされてしまい、口ごもってしまう。見られていた当人は満更でもなさそうだが、こちらの下心が露呈していたと思うと顔に熱がこもる。
「まったく、こんな貧相な体見て何が楽しいんだか……」
 彼女が呆れながらに自分を卑下する。真っ先に否定の言葉が口を突いて出た。
「それは違う!」
 血相を変えた俺に驚いたか、彼女はぽかんと口を開けていた。矢継ぎ早にまくし立てる。
「ひなたの体はとても魅力的だ。灰色の肌はすべすべだし、胸は小さいけど柔かいし、黒髪は長くてさらさらだし、それに触手だって」
 パートナーの魅力など、探そうと思えばわけはない。このような体を承知して俺はひなたを選んだのだから、その全てはとても惹かれるものにしか見えない。
「何よりもその一つ目」
「あーやめろやめろ! なんてこと言うんだ!」
 尚も語り続けていると、押し黙っていたひなたが顔を真っ赤にして突然怒り出す。些か彼女の魅力を列挙するのに集中しすぎた。
 閉口が気恥ずかしさからだとは気付けなかった罰として、再び冷水を浴びせられる。
「わっ、何だよ褒めてるじゃん!? お前の目かわいいから! 褒めてるから! やめて!」
「うっさいバーカバーカ! ヘンタイ!」
「そりゃお前のせいだろ!?」
 変態の素質はあったかもしれないが、それを覚醒させたのは他でもないひなただ。そもそも魔物の方が大概な癖に、変態呼ばわりされる筋合いなどない。まだノーマルのはずだ。
 一頻り言い合いした後で冷静になると、ひなたの水浴びも終わった。二人揃って浴室を出れば、事は丸く収まるだろう。二人にその気が無ければ、の話だが。
 気が付くと、二人で浴槽に背中合わせで座っていた。狭くて、脚を折り曲げなければ二人は入らない。
 座って、どれくらい経ったのだろう。背中から、ひなたの熱が、鼓動が伝わってくる。触れ合った背中の部分だけ、妙に熱く感じる。ひなたは一向に話し出す気配が無い。自分から切り出してしまおうか。どう切り出せばいいのだろう。時間も経ってしまったし、しかし今更引き下がれないし。
「ひなた」
 呼んでしまった。
「何だよ」
 どうしよう。直球で誘えばいいのか。それでは華が無さすぎるのでは。
「……何で、あの時入ってきた?」
 何を訊いている。訊いてどうする。
「そりゃ、ジンがそろそろ上がるかなって……」
「でも、怒ってたんじゃ」
「それはそうだけど」
 両方とも声はたどたどしかった。どのタイミングで言い出せばいいのか、機を待っているのだろうか。今度はひなたの番だった。
「あの、ジン」
「なんだ」
「……そこ、カタくなってるよな」
 散々悩んだ自分が痴愚か何かだと思えるくらいに直球だった。そこまで言えてしまうものなのか。魔物の性質なのか、ひなた自身の胆力なのか。指摘されたおかげで熱が集中してびくびくと震える。
「それは」
「アタシを見てそうなったって……こと、か?」
 自分の心音が大きく聞こえてきた。背中を通してこの大きすぎる鼓動がばれてしまっているのではないだろうか。
「そう、だ」
「……嬉しいな」
 自分で興奮してくれることは、嬉しいこと。はにかみがちな彼女の声で、体の熱は更に増した。
「ひなた。……する?」
 結局誘い方は呆れるほど直接的で、至極容易なことであった。熱に浮かされてしまえば、恥じらいもへったくれもない。
 返事はなかった。その代わりに繋がった背中が一瞬離れて、直後に肩へずしりとした重みを感じた。彼女が背中に覆いかぶさってきたのだ。
 振り向くと、一つ目が俺を見ていた。異常な引力をもっていて、視線を離すことができない。そのまま目に吸い込まれてしまうように、互いの唇を重ねた。濡れた髪からシャンプーの香りがする。触れるだけだったが、思考のヒューズが焼き切れそうなくらいに背中がぞくぞく震えた。
 唇を離すと体を向かい合わせるが、そこからどちらともなく目を伏せてしまう。互いが互いの腹を探り合っていて、中々声を出せない。いや、そもそも下手な言葉など要らないのかもしれない。だが、今回は飽くまでも彼女の欲を満たすためだ。出来る限り、彼女の希望を叶えたい。彼女にしかできないことをさせたい。
「その……今日は、さ。かけても……いいぞ」
 ゲイザーはその単眼を用いて暗示をかける。単純に自分のことを好きだと思い込ませたり、意識を奪ったり、犯す犯されるの命令すらも思いのままにできるらしい。魔物である以上、物騒な能力であってもそれは性行為のためだけに用いられるが、彼女が暗示を使うことはない。俺が控えるように説得したのだった。
 暗示がなくとも行為に支障はきたさないし、彼女も了承はしてくれた。だが、単眼を用いた暗示は確かにゲイザーの、ひなたのアイデンティティに違いない。彼女だって止めろと言われて素直に止めたわけでもなかった。
「……いいのか?」
 俺がしつこく説得したのを知っていればこそ、彼女は目を丸くして確かめるように言う。
「お前だってかけたいだろ?」
「でも、ジンが嫌がるならしたくない」
「大丈夫。たまにはひなたの言うことも聞かないとな」
 俺が暗示を嫌がるのは、その暗示にかけられている感覚が得意でないから、というのがある。気を悪くするのでは無理強いもできないと、彼女は渋い顔をして認めてくれたのだった。それだけ平生は暗示をかけたがっているということでもある。
「へへ……へへ。ありがとな」
 鼻歌でも始めそうな顔をして彼女は微笑んだ。混じりけの無い笑みと礼の言葉。彼女が純粋に喜んだ顔は、あまり見たことがない。そこで礼を言うのなら尚更。それに慣れていないだけに、思いの外照れ臭い。
「……やめろよ。水臭い」
「洒落か?」
「うっせ」
「よーし、ジンに暗示のよさ、たっぷり教え込んでやらないとな」
 ほろりとした感動もつかの間、彼女が何か物騒な方向に燃え始めている気がする。
「お手柔らかに頼むぞ」
「大丈夫。ジンの嫌がるようなことはしないし、させない。それに、この暗示はアタシにもかけるから」
 無い胸を張って彼女が得意げに言う。一蓮托生とあれば確かに無茶な真似はできないだろう。しかし、自己暗示とはいかに。暗示の効き目に差異が生じたりしないのだろうか。
「どうやってかけるんだ?」
「ジンの目を使うんだ」
「俺の目を?」
「そう、アタシがジンの目を見て暗示をかける。そこでジンの目に映ったアタシにも同時に暗示をかけるんだ。だから、アタシの目、しっかり見ててくれよ」
 瞳は鏡。ひなたが自分に上手く暗示をかけられるかどうかは、俺の目に委ねられているということになる。要は動かなければいい、ということだろうか。背筋が伸びるような感覚がした。
「わかった」
「わかってない」
「えっ」
 やることは理解できたと首肯したところ、即座に一蹴されてしまった。今のどこに否定されるような要素があったのだろうか。
「暗示を深くかけるにはリラックスが必要なんだ。オマエ、緊張してるだろ?」
「あ……」
 暗示を成功させねばと体が強張っているのに気付いた。彼女の、こちらの機微を読み取る力には時々驚かされるものがある。暗示で相手の精神に関わる分、そういったことに敏感なのだろうか。
「ちょっと、深呼吸してみるか。息を大きく吸って」
 言われるまま、水垢の臭いがする空気を吸い込む。彼女の甘い匂いが少しだけ混じっていて、僅かに気が高揚する。
「ゆっくり、吐いて」
 吸って溜めた空気を押し出していくように、吐き出す。
「吸って」
 吸う。
「吐いて」
 吐く。
「……落ち着いたか?」
「ああ……ごめん、気遣わせて」
「いいよ、慣れてないもんな」
 彼女の言葉を聞いていると、体の凝りが解れていく気がする。それは、口調が普段と違ってとても穏やかだからだ。彼女は、こんなにも包容力のある奴だっただろうか。いつもはこちらが制する側だったはずなのに、今は彼女に導かれている。
「暗示に必要なのはもう一つある」
「何だ?」
「……暗示をかける相手を、信頼すること」
 ひなたはいやに勿体を付けた口ぶりで言った。
「なんだそれ」
 拍子が抜けて鼻を鳴らした。それにつられたか、当然だよな? と確かめるように彼女の口角が上がった。
「じゃあ、アタシの目を見て……」
 座ったままの姿勢で改めて向かい合い、ひなたの赤眼を覗き込む。そこにはくっきりと、真剣な面持ちをした自分が映っていた。こんな顔をしているのは、ひなたも同じだった。ここから、ひなたの暗示が始まる。
「さっきと同じように、深呼吸……深く、息を吸って……吐く。体の余計な力が……息と一緒に……抜けていく」
 間延びした子守唄のような口調でひなたが語りかける。先程と同じ要領で長い呼吸をする。吸い込んだ空気に身体の力が染み込んで、息を吐くと、脱力。呼吸をするたびに、体に力が入らなくなっていく。胴、腕、脚、手指……無意識に、考えるともなく、投げ出されていく。
 呼吸を続けるうち、自分が何をしているのか、段々と判らなくなってきた。視界には、ひなたの赤い瞳だけが見えている。体に甘い痺れが走っている。
「言葉は、声は……とっても気持ちの良いものだ。頭の奥で感じて。言葉の一つ一つを深く意識して。オマエの一番好きな声が、頭の中で波紋みたいに何度も跳ね返る」
 頭の中はしじまの水面。言葉は投げ入れられる石。立った波は水面すべてに拡がる。言葉が、声が、頭に拡がる。
「アタシの声、聞こえる?」
 意識は、明瞭でない。ここがどこなのかも、よくは判らない。けれど、そこにひなたがいる。そしてこの声は、言葉は、何よりも明白な輪郭を伴っている。
「とてもよく、聞こえる。頭に直接響いてくるみたいに、何回も、木霊してる」
「んッ……よし、大丈夫だ。アタシの声、よおく、聴いててくれよ」
 頭が空洞化してしまったかのように彼女の声が反響している。しかし、声が何重にも滅茶苦茶に重なって聞こえてしまうかと思えばそうでもない。脳髄にかんと感じる。
 何だか、声を聴いているだけでも身体が火照ってくるようだった。熱源は、下腹部から。
 ひなたがおもむろに抱きついてきた。彼女は人間よりも少しだけ体温が低いが、この時は俺と同じかそれ以上の熱さだった。ひなたも同じなんだ。
 ひなたが耳元に口を近づけてくる。彼女の吐息が耳にかかる。もう、少し、息が上がっている。はあ、はあ、と。
 ――変だ。耳がおかしい。ひなたの息が、熱すぎる。耳を通して脳まで焼けそうだ。ただ、耳元で呼吸されているだけなのに、背筋の泡立つような快感を覚えている。そして下腹部の熱は更に燃え上がっている。彼女の体に隠されて見えないが、もうガチガチになっている。まだ、彼女に触れられてすらいないのに。
 息が急速に上がる。彼女の息にも喘ぎのようなものが混じってきた。少し色めくそれを聞くだけで、意識と剥離して体が勝手に跳ねる。
「はあ……ッ、なんだよ、これっ……」
「言葉は、声は、気持ちの良いもの。……そうだよな?」
 今の俺には頷くことしかできない。そういうことだった。彼女が意地の悪い微笑みを浮かべる。読める。これは何か「ちょっかい」をかける時の顔だ。体が動かない。恐怖じゃない、期待だ。彼女の口は、耳元へ。
「だいすき」
 電流走る。
「……ッ! あッ!? うッ、ぐあああ゛ッ!」
 その言葉を囁かれた。そう思った瞬間、体の芯まで沸騰するような感覚がして、溜まっていた熱が白濁となって一気に迸った。
「はッ、は、ぁ……これ、は……」
 射精させられた。触れずとも、たったの一言で。虚脱し、ぼんやりした思考が渦巻く。
 彼女は得意そうな顔をして、いつの間にか目の端から涙を零していた。
「あっ、は、は、危なかった……これは、言葉や声でも強く感じる暗示。イイだろ? こういうの……」
 吐き出され、浴槽に落ちた精液を勿体ないと言わんばかりに掬い上げて舐めている。手に垂れた、溶けたアイスを舐め取るように。
「なら」
「へっ?」
 びくびくと震える彼女を抱きとめて、すかさず耳元へ口を近づける。
「愛してる」
 そう、仕返しした。
「ひッ!? はっ、ああああぁっ、……ッ!」
 全身を強く痙攣させて、派手な絶頂を味わってくれているようだ。喉から捻り出される嬌声は、確かに、頭の中に打ち込まれるような快楽だった。確かに、油断ならない。今さっき出したはずのモノが、それだけでもう第二ラウンドを待ちわびている。
「あッ、あ、あはっ……こ、この……やったな」
「ひなたが自分にもかけるって言ったから、ちゃんと効いてるのかなって」
 一度目の絶頂だが、ひなたの目はもうどこを見ているのか知れない。俺も、自分の言葉にあまり自信が無かった。暗示のせいで思考がおぼろげになっていて、何を言っているのかがぼやけている。だが、ひなたの声だけは大鐘のようにわんわんと頭に響いていた。
「オマエな……みてろよ」
 ひなたが肩で息をしながら腰を浮かせた。細い手が赤黒く屹立したモノを掴む。忘れそうになっていたが、ここからが本番だ。
 ……本番、だと?
「お、おいひなた……」
 俺は俄かに狼狽した。両方がまだ絶頂したばかりというのもあるが、それ以上にこれからが本番だということに動揺を隠せなかった。
 先の絶頂は、彼女の暗示の作用であって、お互いの性器はおろか性感帯の一つも触れてはいないのだ。そんな状態で本番を行うということは……ひなたは、制止を無視して狙いを定め、躊躇いなく腰を落とした。
「あぁっ、ジンの……ジンの……」
 絶頂した直後でとろとろの膣が待ちかねていたように肉棒を迎え入れた。ひだを押し分けるこの感覚。絶妙な締め付けでこちらの性感を刺激してくる。彼女はモノの収まった腹を撫でながら、恍惚とした表情をしていた。腰の溶けるような快感を何とか逃がそうとして、小刻みに息を吐いた。
 しかし、彼女からは逃げられない。四肢を背中に回して、密着されてしまっている。
 ひなたがまた耳元で、容赦のない追い打ちをする。
「いっしょに、いっぱい、きもちよくなろうな?」
 それが合図であるかのように、あられのない声が喉から吐き出されて、二度目の吐精が始まった。
「あ、きた、きたぁっ! ジンの、アタシのナカに、いっぱいぃ……ッ!」
 膣内で射精されたという多幸感でひなたは絶頂してしまい、未だびくんびくんと跳ねているペニスから更なる精を搾り取ろうとする。ひなたの色に塗れた声がそれを後押しする。快感に耐え切れず喘げば喘ぐほど、ひなたの快感も増し、膣の蠕動はよりねちっこいものになっていく。
「あ゛っう゛ぁ……! が……とまらな、い゛っ……!」
 異常だった。射精感がいつまで経っても終わらない。時間が止まったかのように絶頂が持続している。既に精液は出し終わっているにも関わらず、筆舌に尽くしがたい暴力的な快感が次々と押し寄せてくる。
「うあああ゛っ、あ゛っ、ああ゛ッ! イクの、とまんなッ、ああ゛ー!」
 ひなたも同じ感覚を味わっているらしい。感電したようにがくがくと全身が痙攣を延々と続け、盛り狂った声を上げている。声。これが全て声のせい。
 ――意識も飛びそうな快感のなかで、俺は素晴らしいことに気が付いた。
 ――動いていない。挿入して囁いただけで、俺もひなたも全く動いてはいないのだ。
 ひなたは、いっしょに、いっぱい、きもちよくなろうと、言っていた。きっと、なれるだろう。
「えう゛っ!?」
 ひなたの弾力のある尻をむんずと掴んで、腰を思いきり突き上げる。彼女はがくんと震え、瞠目した。構わず、何度も何度も突き上げる。
「だめぇッ! ジン、だめ、あ゛ッ! う゛あっ、あッ! ああ゛ーッ! うあ゛ぁーッ! ――――」
 最初は拒んだりしていたが、そのうち意味のある言葉も無くなっていった。快感を貪る獣が二匹できあがるのに、そう時間はかからなかった。



 気が付くと、ひなたが腕の中で白目を剥いて気絶していた。俺も今の今まで気を失っていたのだろう。暗示をかけられて一度目の射精をしてから記憶が曖昧になっている。ただ、相当な時間交わっていたのは確かなようで、小窓から見える空は真っ暗になっていた。浴室全体にも、精液と愛液と互いの汗とで、えも言われぬ臭いが充満している。噎せそうだ。
「あ゛っ……」
「……うわ」
 体は繋がったままだったので、完全に燃え尽きたモノを引き抜くと、ひなたがひしゃげたカエルのような声を上げた。今までこんな声は聞いたこともない。
 膣口を見てみると、出したであろう精液が、締め忘れた蛇口のようにどぽどぽと溢れ出ていた。行為の壮絶さに思わず乾いた笑いが零れる。
 体も凄まじいことになっていた。行為の際に残したであろう、夥しい数の『跡』。互いの体の至るところに付けられている。
「……体洗うか」
 行為の後の心地良い疲労感と幸福感、彼女への征服感、それと少しばかりの後ろめたさ。色々なものを息に交えて、シャワーのハンドルを捻った。
「よくもまぁ……」
 体を流しながら、未だに時折ぴくぴくと震えるひなたを見下ろしてぼやいた。行為の際に出た色々な汁がバスタブに少し溜まってしまっていて、そこにぐちゃぐちゃな顔をしたひなたが倒れている。かなりひどい光景だ。流石に少し心配になってきた。もしかすると脱水症状とか起こしてるんじゃないだろうか。
「大丈夫かこれ……ひなた、おーい、ひなた? ひなたー」
「あ゛ひっ! なまえ、もうらめぇ……」
 名前に反応したのか、がくんと跳ねながら軽く絶頂したようだ。もうちょっと連呼してみたくなるが、何故暗示が残っている。
 白目に吊り上がった口角。表情は恍惚とした堕落。これが魔物の本分なのだろうか。じき、自分もそちらへ行くのだろうが。
「ま、こいつが満足してくれれば、いいか……」
 そんな呟きにさえ彼女の体は反応してしまったのだろうか。
「えへぇ……」
 心底幸せそうな微笑みだった。
 ――つられてしまった。



 かんかん照りの窓の外から、気休めの微風が吹き込んでくる。蝉はうるさいままに、向こうの空の飛行機雲は、いつしか交差していた。
「あつい……」
 相も変わらずうなだれる彼女に警告する。
「暑いなら離れろ」
 何を言っているんだというふうに彼女が言い返した。
「オマエが抱きしめてるから離れられないんだけど?」
 ……確かに。彼女を俺の脚の間に座らせる格好で抱きしめている。これでは離れようにも離れられない。
「放せば離れるのか?」
 苦笑気味に訊いた。そうはならないだろうとの嘲りを込めて。
 彼女も負けじとにやついて言い返す。
「離れていいのか?」
 遠くで、ヘリコプターの音が聞こえる。首振る扇風機の風に彼女のさらさらした黒髪が弄ばれて、俺の顔を擽る。暫時、沈黙。
「……暑いな」
「……だな」
「なぁ」
「何だ?」
「また……かけても、いいぞ?」
 酷暑は、まだ続きそうだった。
16/06/06 00:06更新 / 香橋

■作者メッセージ
最近、左耳より右耳の方が弱いと判明しました。ささやかれたいです。

前日譚がなくはないのですが、その前に書かなければいけないものはあります。
先は長いです。

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