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五夜目:リリム 前半
一体、どうすれば良いのだろう。

天窓から射し込む月明かりだけが照らし出す薄暗い執務室で、国政に関する書類のタワーが幾つもそびえる机に突っ伏し、彼女は頭を抱えていた。

状況は、かつてないほど最悪、手詰まり。マズイ、ヤバイという言葉ばかりがぐるぐると頭の中で渦巻いている。

人口の急増に伴う雇用及び住居問題、レスカティエ教国が派遣する勇者達の侵攻に対する軍備増強、そして時折巻き起こる両親の世界の命運を左右する壮絶な夫婦喧嘩の仲裁など、国家に関わるあらゆる問題をその手腕でもって解決に導いてきた彼女であったが、今回ばかりは完全にお手上げ状態であった。

「はぁ……参ったのぅ……」

艶やかな口元から洩れる、不安からのぼやき。出来ることならば、何もかも放り捨てて、愛する夫と共に国を離れて欲望の赴くままに快楽を貪りたい。

だが、それは叶わぬ願い。国家運営の中枢を担う彼女が国を去れば、それこそ大混乱に陥るだろう。それ以前に、彼女は未だ独り身であった。

目を背けたいその事実に、彼女は何度目かもわからない溜め息をつく。

そもそも、自分に夫がいればこれほど悩む必要はなかったのだ。しかし、意中の異性はいるものの、今の彼女は一方的な片想い。しかも、日々多忙な執務で滅多に顔を合わせることもできず、その距離は開くばかりであった。

机に突っ伏したまま、ちらりと机の一角を陣取る写真立てに目を向ける。そこに収まっているのは、数年前に撮影した意中の異性とのツーショット写真である。

しかし、ツーショットと呼ぶにはあまりに微笑ましい光景であった。そこに写るのは、自分の膝の上に抱き抱えられながら顔を真っ赤にした可愛らしい少年。寝る間もない十日に及ぶ机上の強行軍であっても、この写真を視界に入れるだけで睡魔も吹き飛ぶほどの思い出の写真であった。

最近はしばらく顔を会わせていないが、彼が自分だけのモノになってくれれば、どれだけ幸福か。またもや彼女が溜め息をつこうとしたその時ーーー天啓が訪れた。

「…くふふっ……何故すぐに思い付かなかったのか!面白い、これは非常に面白いぞ!愚妹どもの驚く顔が目に浮かぶわ!ぬはははっ!」

何を思い付いたのか、いきなり立ち上がり、歓喜の表情で声を上げる。その拍子に机の上に重ねられた書類が床に崩れ落ちたが、彼女は一切気に留めることなく、その上を踏み荒らして足早に部屋を後にする。

向かうは、城下町で人気の男娼館、『銀雪館』。勢い良く閉じられた扉が起こす風でとりわけ重要な書類の数枚が夜空の闇に消えたことを、彼女は知る由もなかったーーー



「はぁ……もう終わりか。もうちょっと楽しみたかったもんだがなぁ……」

カウンターで支払いを終えたところで、ヘルハウンドのグレアは真っ白な天井を仰ぎながら溜め息をついた。

所変わって、ここは城下町で圧倒的な人気を誇る男娼館、『銀雪館』。楽しい時間はあっという間に過ぎていくもので、しょんぼりと尻尾を両足の間に垂らして重苦しい溜め息をつく彼女の手を、本日の相手を務めたマルクがそっと両手で包み込んだ。

「本当に、もう帰っちゃうんですか?せっかくグレアさんが来てくれたのに……」

マルクの本日最後のお相手はグレア。てっきり朝までしっぽりコースかと思っていたのだが、彼女は月も高く上がらない内に帰ると言い出したのだった。

不特定多数を相手にする仕事なだけに、あまり肩肘を張って気を遣う必要が無い分、親しい人物との逢瀬はマルクにとってささやかな楽しみでもあった。

それだけに、グレアの早めの退店には心寂しいものを覚えていた。

「もしかして、何か気に障るようなことをしちゃいました?やっぱり、僕が途中で五、六回気絶しちゃったからですか?それとも、僕がグレアさんのを全部飲みきれなかったから……」

「違う違う!違うんだって!アタシがそんくらいで機嫌悪くするわけないだろうが。今日も最高に可愛かったぜ、マルク〜」

「わぷっ。ぐ、グレアさん、くすぐったいですよー」

泣きそうになるマルクを、グレアはしっかりと抱きしめる。頬を擦り付けながら匂いを肺一杯に吸い込み、名残惜しそうに彼の頬をペロペロと舐める。

その様子にヘルハウンド特有の凶暴性、獰猛さは微塵もなく、飼い主に異様になついた単なる大きめの犬のように見えなくもなかった。

「あらあら、グレアちゃん、もう帰っちゃうの?もう少しゆっくり出来ないかしら。マルクちゃんもこう言ってるんだし、ね?」

見送りのためか、クラウディアが店の奥から小走りに駆けてきた。その両手には、土産物らしき城下町で人気の菓子詰め合わせの箱が抱えられている。

「アタシもそうしたいんだけどねぇ。ほら、明日は『例の日』だろ?警備が強まる前に身を隠さなきゃならねぇんだ」

「ああ、なるほどねぇ。もうそんな時期だったかしら」

「あ〜……アレですか。すっかり忘れてましたね」

三人揃って、納得したように首を頷かせる。

グレアの語る例の日。それは、魔王城で年一回行われるパーティーのことである。

しかし、ただのパーティーではない。魔王直系の血を引く、『リリム』と呼ばれる娘達が一同に顔を合わせる特別なパーティーであった。

正確な人数は定かではないが、現在のリリムの人数はおよそ百人を軽く越えていると思われる。その彼女達が、行く先々で見初めた人間の男性と共に年一回、近況報告のため城に集まるのだ。

当然、次期魔王候補でもある彼女達が帰省の道中に万が一のことがあれば一大事。そのため、このパーティーが行われる数日前から、魔界一帯に厳重な警備体制が敷かれるのである。

あまり城下町の住人には関係の無いイベントだが、そのパーティー前日ともなれば、より警備は厳重になるだろう。

少々の息抜きにやってきたグレアが急いでアジトに帰らなければならない理由も納得であった。

「そんなわけだ。近い内にまた顔を見に来てやるから、良い子で待ってな。じゃあな、マルク」

「ええ、約束ですよ。絶対来て下さいね、グレアさん!」

マルクとクラウディアから見送られながら、土産物を片手にグレアは上機嫌に店から去っていった。

「ふん、ようやく帰ったか、あの駄犬め」

その時、近くで様子を見ていたらしいローレットがマルクの傍に降り立った。清掃の途中だったようで、腰に真っ白な清潔感のあるエプロンを巻き、腕にはそれぞれモップとバケツを抱えている。

「あら、ローレットちゃん。グレアちゃんなら、もう帰っちゃったわよ」

「ふん、誰があの駄犬の見送りなどしてやるものか。私は単なる通りがかりだ。他意は無い」

「もう……ダメですよローレットさん。グレアさんにそんなこと言ったら」

恐らく、顔を合わせれば一悶着あることを想定して、敢えて姿を見せなかったのだろう。感情や本能の赴くままに行動する彼女も、やっと店の一員であることを自覚し始めたということだろうか。

「それはさておき……マルク、今日はもう終わりだな?ならば、今夜は私に付き合ってもらおうか」

「えっ?あ、あ〜……その……」

今夜は既に五人の客と寝床を共にしたため、ローレットの相手は許されない。ちらりと横目でクラウディアの表情を覗き見ると、笑顔の裏になにやら怒気のような感情の揺らめきが感じられた。

それをローレットも感じ取ったのだろう。その表情が焦りに変わった。

「ま、待て待て、勘違いをするな。私はただ、マルクと酒を酌み交わしたいと思っただけだ。ここいらでは珍しい遠い異国の酒だ。一人で味わうのは味気無いからな」

そういえば、つい先日ローレットは店を休んで財宝の捜索に出掛けていた。恐らく、その旅先で入手したのだろう。

「あら、そうなの?それなら全然オッケーよ。たまには二人でゆっくりしていらっしゃいな」

「よし、店主の許可は得たぞ。マルク、これならば文句は無いな?」

「う、うう……仕方ないですね。わかりました、お付き合いしますよ」

どちらにせよ酒に弱いマルクにしてみれば気の乗らない誘いだが、これがローレットの息抜きになるのであれば断る理由は無い。

マルクが頷いてみせると、ローレットは満面の笑みを浮かべ、尻尾も感情の高ぶりを表すように床を叩いている。

「よし、決まりだな。では、私は部屋で支度を……」

「……?どうしました?」

急に口を閉ざし、ローレットの動きが止まる。何かに感付いたのか、つい先ほどグレアが去ったばかりの扉を見つめている。

いや、ローレットばかりではない。クラウディアやラウンジの客、そしてお楽しみ中であっただろう客までもがあられもない姿で部屋から顔を覗かせていた。

「おいおいおい!一体どうしたってんだこりゃ!」

静寂に包まれたラウンジに、アークが慌てた様子で駆け込んできた。どうやら魔物にしかわからない何かがあるらしく、マルクを含む男娼達にはわけもわからず、困惑したように辺りを見回している。

「アークさん、一体何があったんですか?皆さん急に固まっちゃって……」

「それどころじゃねぇぞ!とんでもねぇ魔力が近付いてきやがる。こりゃもしかしたらアイツかもな……」

「アイツ……ですか?」

これから訪れるであろう来訪者が今の状況を引き起こしているようだが、マルクには何が何だかわからない。

すると、全員の意識を戻させるようにクラウディアが手を打った。

「さぁ皆さん!早くお部屋に戻って、しばらく男の子達を外に出さないようにしてちょうだい!ラウンジの子達も、早く控え室に戻って!」

「……!ダメだ、クラウディア!もう遅せぇ!」

「何が起こってるんですかアークさん!ちゃんと説明をしてーーーむぐっ!?」

「喋るな、マルク」

店の扉が開かれるのとマルクの口元をローレットが腰に巻いたエプロンで覆ったのはほぼ同時。その瞬間、開け放たれた扉から凄まじい淫気が怒濤のように流れ込んできた。

それは一瞬で広いラウンジを満たし、濃厚な甘い匂いに包まれる。そこでマルクが目の当たりにした光景は衝撃的なものであった。

「ふぁぁぁ〜……」

「ああ、ダメ……っちゃうう……」

その淫気にあてられた瞬間、男娼の少年達はその場に崩れ落ちるかのようにへたりこみ、恍惚な表情を浮かべている。しかも、淫気に晒されただけで絶頂に達してしまったらしく、薄いズボンにじわじわと染みが広がっていく。

幸い、直接淫気を吸い込まなかったマルクは同じような姿を晒さずに済んだが影響は受けたらしく、逸物は痛いくらいに立ち上がっていた。

「こいつは……やっぱアイツか?」

「そうみたいね……まったく、来る時は前もって連絡して、っていつも言ってるのに」

店がこの様子では、もはや店じまいする他に選択肢はないだろう。肩を落とすクラウディア達であったが、この淫気の根源であろう人物がマルク達の前に姿を見せた。

「邪魔をするぞ、皆の衆!今宵も貪欲に盛り、男を喰らっておるかぁ!?ぬははははっ!」

酔っ払いのオヤジのような節操のない笑い声と共に現れたのは、長い白髪紅眼の見目麗しい一人のサキュバスであった。

蝙蝠のような白い翼に加え、胸元から臍の下までぱっくりと大きく開いた黒のレオタード風のスーツからは、今にもたわわに実った二つの果実がこぼれ落ちそうで、上からふかふか材質の真紅のガウンを纏っている。



いかにも不審者と言うべき見た目ではあるがーーー彼女をサキュバスと呼称するには語弊があった。

同じサキュバスであるクラウディアを遥かに凌駕する魔力に加え、真っ赤なルビーを思わせるその瞳は、見つめられるだけで酒に酔ったような陶酔感、そして抗いがたい情欲を強制的に植え付けてくる。

一瞬でも気を抜けば、今にも襲い掛かって押し倒したくなるほどの暴力的な美しさ。ローレットの香りがするエプロンで直接淫気を吸引していないマルクであっても、マグマのように沸き上がる感情を抑え込むのに必死であった。

「うおおおおっ!もう我慢できねぇ!」

「あっ、バカッ!」

遮るものも無く、直接淫気と魔力に晒されたドルカスがアークの制止を振り切り、入店したばかりの彼女に向かって猛然と走り出した。

力ならばミノタウロスとも互角を張る元傭兵あがりの屈強な大男に襲い掛かられれば、彼女は為す術もなく押さえ込まれ、跨がられるだろう。

誰もがそう確信していたーーー彼女の本性を知る数人を除いて。

「ほう、なかなか活きの良い者が入っておる。じゃが……」

くすりと、笑みを浮かべた彼女は向かってくるドルカスへと向かって手を伸ばす。押さえつけんとする豪腕をさらりと避わし、指先でコツンとドルカスの額を軽く突いた。

「ふぉっ!?は、はへぁあああぁぁ……」

その瞬間、ドルカスは駆ける勢いをそのままに、彼女の脇をすり抜けた直後に転倒した。

その表情は恍惚に沈み、その体格に見合う剛直からドクドクと精液を床に吐き出している。僅かに指先を触れさせただけで、彼女は自身の魔力と魅力をもって、ドルカスを絶頂に導いたのだった。

「すまぬが、今宵は男を買いに来たわけではないのでな。また機会があれば乗ってやろう。さて……」

改めて、彼女はマルク達に向き直る。真剣な表情を浮かべ、ゆっくりと歩み寄っていく。

「久しいのぅ、叔母上、叔父上よ。すまぬな、火急の要件ゆえ、連絡の暇が無かった」

「それはいいんだけどな……せめて閉店後に来いよ。どうすんだ、大惨事じゃねぇか」

「本当よねぇ。もう、明日はお休みにしなくっちゃ」

彼女から呼ばれて、クラウディアとアークが溜め息混じりに呟く。これだけ店内に充満した淫気が抜けるには、それなりの時間を要するだろう。既に周りでは他のサキュバス達が総動員で店内の窓を開き、倒れた男娼達の回収に走り回っている。

「火急の要件だと言ったじゃろ?まぁ、それはさておき……」

微塵も罪悪感を感じない返答の後、アーク達の前に立った彼女の視線が、ちらりとマルクへと向けられる。

お互いの瞳が交差した瞬間、彼女の表情が少女のように無邪気な笑顔へと変わった。

「ぬははははっ!息災にしておったかマルクよ!ふむ、しばらく見ぬ間に大きくなったのぅ!」

「ぬわっ!?こ、こら貴様!やめないか!」

「り、リゼットさん!ちょっと待って!まだ心の準備がーーーむぐぅーーーっ!」

ローレットの腕からマルクをひったくり、彼からリゼットと呼ばれた彼女は彼を全身で包み込むように抱擁する。

これだけの淫気を放つ彼女に至近距離から、しかも抱き締められては為す術もない。

リゼットの豊満な胸に顔を包み込まれ、かろうじて他の男娼と同様に射精まで至らなかったものの、完全に腰が抜けてしまっていた。

「くっ、ぅ……ふぁぁ……」

「おっと……久しい男の匂いに魔力が漏れていたか。すまぬすまぬ。じゃが、リゼットさん、とは他人行儀じゃな。ワシのことは『姉上』と呼べと教えたじゃろうが。うん?」

「はぅぅ……り、リゼット……お姉ちゃん……」

息も絶え絶えなマルクの言葉に、リゼットはますます機嫌を良くしたらしい。抱き締める力に比例して、彼女の淫気もさらにその濃度を増していく。

「むぐううーーーっ!!」

「ぬははははっ!よいよい!おぬしは本当に愛い奴よのぅ!ワシも久々に女陰のたぎりを抑えきれぬわ!ぬははははーーーうぐっ!?」

「やめなさい、マルクちゃんが可哀想じゃない」

リゼットの後頭部へ向かって、クラウディアがスリッパによる一撃。一瞬怯んだ彼女から、ローレットが素早くマルクを取り返した。

「だ、大丈夫かマルク!?ああ、なんという姿に……っ」

「は、はぅぅ……」

ローレットに抱かれながら、マルクは力を失った瞳で、つい先ほど叩かれた頭を擦るリゼットを見つめた。

彼女はサキュバスでなく、リリムと呼ばれるさらにその上位種とされる魔物である。

そして彼女達リリムは、その全員が現魔王の娘であり、リゼットはその中でも第一王女と呼ばれる存在である。すなわち、現魔王の元で最初に誕生したリリムなのだ。

最も色濃く魔王の力を受け継いでいるだけに、その魔力は他の魔物を圧倒する。ドラゴンであるローレットでさえ、リゼットの前では普段の横暴な彼女の性格を前面に押し出せないようであった。

そんな彼女も、マルクとは彼がクラウディアの元で暮らし始めた頃からの顔見知りである。

たびたび遊びに来てはマルクを玩具代わりにしていた彼女だが、ここ数年はベッドの上で多忙な母親に代わって魔王城全ての執政を担っており、こうして顔を見合わせたのはずいぶんと久しぶりであった。

「あたた……ひどいではないか、叔母上よ。やっとのことで監視の目を盗んで抜け出し……いや、執務を片付けてやってきたというのに」

「ひどいのは貴方よ、貴方。お店もめちゃくちゃだし、突然訪ねてきて一旦何の用なの?ずいぶんお急ぎの用事みたいだけど」

叩かれて興奮も少しは落ち着いたらしく、リゼットから放たれる淫気も少しずつ薄くなっていった。改めて真剣な眼差しで腕組みをする彼女の腕に抱えられ、たぷんと乳房が形を変える。

「要件というのは他でもない。叔母上に頼みがあってな」

「あら、私に?珍しいこともあったものねぇ」

「うむ、事は急を要しておる。要件というのはな……」

そこで口を閉ざしたリゼットの瞳が、マルクへと向けられる。ゆっくりと持ち上げられた腕が、彼へ向かって指を差した。

「マルクを、ワシの婿に譲ってもらいたい」
17/12/01 22:59更新 / Phantom
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