連載小説
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憑依編
 視界を閉ざすと他の感覚が鋭敏になる。
肌を撫でる風の感覚。
さわさわと揺れる木々の音、鳥の鳴き声。
そして、周囲を漂うあの果実の甘い匂い……。

 きゅ、ぽん

 何かの栓を抜くような音が聞こえた。
多分、あのとっくりだ。
それと同時に鼻を突くアルコール臭。
(そうか……あれ、御神酒だったんだ)

 ぱちゃ、ぱしゃ、ぱしゃ……

 どうやら、少しずつ地面に振り撒いているらしい。
周囲の甘い匂いに酒の香りが混じる。

 ぴっ、ぴっ、

 顔や肩に冷たい水滴が散る。
御神酒をかけられているようだ。

 「……」
 「……」

 暫くの間、沈黙が続いた。
目の前に座る善治の気配はじっと動かない。
菊池も目を閉じたまま動かない。
ざざあ、と木々が揺れる。

 「……」
 「……」

 予測をしていたから、早くに気付いた。
鳥の鳴き声が止んでいる事に。
風も、先程吹いた一陣を最後に無風となった。
静かだ。
山の中にしては不自然な程。

 「ぁ……」

 敏感になった聴覚に、微かな女の声が届く。
善治の声ではない。

 「ぁ……ぁぁ……ぁ……」

 彼女だ。

 「……ぁ……ぁぁ……ぅ……」

 タネコヒさまだ。

 (落ち着け……落ち着け……!俺も頑張るんだ……!)

 肌に纏わりつくような濃く、甘い空気。
畏怖を感じさせる存在感が、いつの間にか二人の間に立っているのがわかった。
菊池は跳ね上がる心拍数を抑えようと必死になる。
善治は動かない。

 「……こ……給え……こ……給え……願い……」

 囁くように小さい声が、また聞こえる。
あの呻き声のような女の声ではない、善治の声だ。

 じり、と、傍に立っていた気配が動き、善治に近寄る様子が伝わってきた。
あの白装束がひらめく様まで克明に脳裏に浮かべる事ができる。

 「………」
「…………」

 少女の声と、女の声。
無音の中にあっても、聞き取れないような小さな声がひそひそと聞こえる。

 (善治……善治……善治……善治……善治……!)

 菊池は心の中で祈っていた。
タネコヒさまが去るように、ではない。
自分が助かるように、でもない。
ただ、善治に何事もありませんように、と、祈り続けていた。

 「……!」

 不意に、強い語気の言葉が聞こえた。
善治の言葉だ。
恐らく現代の言葉ではないのだろう、聞こえても何と言ったのかはわからない。
その言葉が発されたと同時だった。
ずし、と、胸の奥が重くなったように感じた。

 「……っ!……」

 菊池は顔をしかめながらも黙って耐える。
その胸の重たさには覚えがある。
物理的な痛みとは違う痛み……。
いつだったか友達と喧嘩になって、心にもない言葉を投げ合ってしまった事がある。
その時に感じた胸の痛み。
それを何倍にも酷くしたような感じ……。
そうだ。
心を傷つけられた時の痛みだ。

 「……???……」

 悲しい。

 菊池は、急に悲しくなった。
理由も根拠もなく、突然胸に悲しみが沸いて出て来たのだ。
目頭が熱くなり、瞼から溢れ、頬を伝う。

 (これは……)

 どうして?

 (この感情は……)

 何で?

 どうして?どうして?

 何でお前みたいな子が生まれたんだいお前なんかが生まれたから役立たず役立たず身体ばかり育ちやがって役立たずのくせに
無駄飯食らい愚図能無し孕めもしないのにそんな体してるんだからこうするのが一番役に立つだろう?どうだいええ?ええ?ええ?
あんたあの人に色目使っただろう子供も産めない癖に人様の男にちょっかい出すのだけはいっちょまえにええ?ええ?ええ?
お前のせいでうちはもうお前なんか生まれてこなければよかったのに全部お前のせいだ死んで詫びろ死んで詫びろ死んで詫びろ

 「……っっ……っっ……」

 心臓を胸から引きずり出されて目の前で踏み潰されたなら、こんな心地がするだろうか。
ずたずたに引き裂かれてなお踏み付けにされるぼろ雑巾はこんな気持ちだろうか。

 (タネコヒさまの……違う……「六条トウ」の……)

 かつての感情の奔流が、自分に流れ込んで来ているのだ。

 「ふ、ぐ……ぅぐっ……」

 とても、耐えきれるものではなかった。
ぼたぼたと膝に涙が零れ落ちる、悲しさとやるせなさで、胸が潰れてしまう。

 ごめんなさい

 その悲しみの中核を成しているのが、その言葉だった。
そして、もう一つ。

 さみしい

 圧倒的で、絶望的な、孤独。

 ごめんなさい
こんな風に生まれて、ごめんなさい
さびしい、誰か、さびしい、さびしい……。
ごめんなさい……。

 「違うだろ……」

 口に出して言ってしまった。
喋ってはいけないのに、言ってしまった。
だが、菊池の心から漏れ出た言葉だった。

 何を謝る必要があるんだ、ごめんなさいじゃないだろう、自分のせいじゃないだろう、「六条トウ」のせいじゃないだろう。

 「違うだろぉ……」

 ズボンの膝を握りしめ、ぼたぼた涙を流しながら、菊池は思う。

 タネコヒさまというものが、どういうものなのか、菊池は理解した。
元にあるのは「寂しさ」だったのだ。
それが、死後にまで押された罪人の烙印によって土地に縛り付けられた。
長い年月を掛けて歪み、曲がり、そして周囲のあらゆる悪いものが引き寄せられ、集まり……。
「憎悪」へと変貌してしまった。
その憎悪によってまき散らされた悪意に罪が無い、などとは言えない。
村一つを消し去ってしまう程の憎悪に、罪が無いなどと言えない。
だけど。

 「寂しかっただけなんだろうがよぉ……!」

 嗚咽を漏らすように、呟く。

 ふい

 と、軽くなった。
胸がだ。
ぎりぎりと万力で締め上げられるようだった悲しみと絶望が、胸から消えた。

 カチャン!

 その音で意識が現実に引き戻される。
何を、自分は何を?
喋ってしまった、言われた事を破ってしまった。
今の音は何だ?
とっくりか。
とっくりが転んだ音なのか。
何が起こった?
善治は?
どうなったんだ、無事なのか?
自分のせいで何か失敗してしまったのでは?善治の邪魔をしてしまったのでは?
同情してはいけない、とも言われていたのに、同情してしまった。
善治が心配だ、目を開けて様子を確認したい。
だけど声を出してしまってこの上目を開くなという言いつけまで破ってしまって大丈夫なのか?それで今度こそ致命的な事になったら……。
猛烈な勢いで、菊池の頭が回る。
回るばかりでどうしていいか分からない。
ただ暗闇の中、止まった涙の代わりに大量の冷や汗が背中を伝うのを感じる。
先程のとっくりの音以降、何も聞こえない。
耳を澄ましても、森のざわめきも鳥の鳴き声も聞こえない。
まだいる、タネコヒさまはまだいる。

 (……あれ……そういえ、ば……?)

 ぽっかりと疑問が頭に沸いた。

 民宿の夜に覚えた心の引っ掛かり。
実は、それ以前から感じていた違和感。
(神様と妖怪の線引きは難しいんだけど……これは、死んだ人の恨みが形になったもので「祓う」対象だから妖怪って扱いになる感じかな……)
そう、「恨み」だ。
「六条トウ」が「タネコヒさま」へと成り果ててしまったのは、寂しさが憎悪に変わったからだ。
なのに。
(悪意があるのだけが厄介って訳じゃないんだよ)
(あれは「悪い物」じゃないから……)
菊池は感じた事がない、彼女の恨み、怒り、憎悪を、彼女が傍に来た時に。
村を滅ぼす程の怒りならば、必ず肌身で感じるはずなのに。
脳裏に映像がフラッシュバックする。

 資料に記載されていたのは墨汁で描かれた絵。
布団に横たわっている男性を見下ろす着物を着崩した女。
絵の中ではその「お隠し」は捲れ上がり、素顔が晒されている。
墨汁で薄暗く表現されたその表情は目は吊り上がり、口角が耳元まで裂けんばかりの形相。
まさしく、鬼女だった。

 その鬼女の如き姿は、当時の憎悪の権化と成り果てたタネコヒさまの姿。
恨みによって姿かたちも悪鬼と化した……。
では、自分が民宿で遭遇したタネコヒさまはどうだったか?
どうして……。
どうしてタネコヒさまは「生前の美しい姿を取り戻している」のか?
憎悪によって歪んだ形が、元に戻っているのだとしたら……。

 (今のタネコヒさまを動かしているのは……憎悪ではない……?)

 「…………」
「……ん……んん……ん……」
耳に、声が届いた。
善治の声だった。
(……善治……!)
耐えきれず、菊池は目を開けた。
善治と目が合った。
今まで、見たことのない顔をしていた。
瞼を半分閉じて薄目になっているのは同じだが、仏のような柔和で凛とした雰囲気を携えていた先程と全く印象が違う。
それは陶酔の目だった。
とろん、としたその目は潤んできらきらと輝いている。
しゃんと伸びていた背は力なく前のめりになり、前髪が垂れて陰になっているため瞳の妖しい輝きがより際立つ。
地味、と友人は評していたがこの顔を見ても同じ事が言えるだろうか。
「……、……」
「ん……ん……ん……」
その横に、タネコヒさまがいる。
座っている善治の真横に膝を着き、小柄な善治にしなだれかかっている。
善治の肩に当たって乳房が淫猥にその形を変えている。
そして、陶酔した表情の善治の右耳に顔を近付けてひそひそ、ひそひそと何かを囁いている。
「ん……ん……」
それに対して、善治は微かに頷きながら何かを返しているのだ。

 (失敗……したんだ……)

 何も詳しい事はわからないが、どう見ても善治が正常な状態でないのは一目でわかった。
自分のせいだろうか、自分が決まりを破ったから、善治が……自分のせいで……。
後悔と罪悪感が頭で渦巻くが、菊池の身体は動かない。
いや、善治に駆け寄ろうとした瞬間に動けない事に気付いた。
金縛り。
歯を食い縛って動こうとしても、頑として体は言う事を聞かない。
(ちくしょう、くそう、俺のせいで、俺のせいで善治が、ちくしょう、やめろ、善治から離れろ……!)
ぎりぎりと歯噛みするしかない菊池は気付いた。
二人の間にある倒れて御神酒を地面に零しているとっくり、その向こうの善治の膝の上……。
(……あれ、あれって……!?)
いつの間に、持ってきたのだろう。
もしやタネコヒさまが持ってきたのか。
ピンク色の果実。
あの石碑に実っていた果実……。
それを、善治が膝の上で手に包むようにして持っているのだ。
「……、……」
タネコヒさまが囁く。
善治がこっくりこっくりと頷く。
ピンクの実を持つ手が、ゆっくりと持ち上がる。
(何だ……何を……)
善治が、大きく口を開けた。
「やめっ……」

 カシュッ

 齧った。
ぽたぽたと果汁が胸元に零れる。
「あむ、ん」
しゃく、しゃく、と、甘露で口元を汚しながら善治はそのピンク色の実を食べていく。
「んむ、ん、じゅ、」
一緒に食事をした事は勿論ある、昨日だって一緒に食べた。
だが、何故か善治が実を食べるその姿に菊池は興奮を覚えた。
そっと、タネコヒさまが顎に垂れた果汁をその細く白い指で掬い取る。
「ん……ちゅっ……」
その指を善治の口に含ませる、善治は素直にそれをしゃぶる。
「……、……」
「ん、ん……んむ……こきゅ……」
ひそ、ひそ、と、タネコヒさまが囁く、それを耳にしながら善治はすっかり実を身体に納めてしまう。
菊池はどうする事もできずに、その背徳的な光景をただ見ていた。
体はまだ、動かない。
ふらりと善治は立ち上がり、頼りない足取りで菊池の傍にまで歩いてくる。
タネコヒさまは善治を導くようにその背後に取り付いて背中を押す。
とっくりが足に当たってころころ転がるが、気に掛けない。
ぺたん、と、善治は菊池の目の前に座り込んだ。
近い。
とろりと蕩けた瞳の善治の顔で、視界が一杯になる。
甘い匂いと、善治の匂いが混じり合う。
その瞳に魅入られた菊池の頭は一瞬真っ白になる。
ここがどこであるか、今がどういう状況であるか、全部が真っ白になって。
善治の瞳が世界の全てになる。
「きくち、くぅん……」
今までの善治が決して出さなかった声だった。
甘えるような、媚びるような、男を誘って止まないような……。
善治の瞳がそのまま近く、大きくなる。
ふわりと善治の両腕が菊池の頭を抱き寄せる。

 ふちゅ

 静かな森の中、木漏れ日が照らす石碑の前で、二人の唇が交わった。
瑞々しい唇の感触で菊池の意識は遥か彼方へと旅立つ。
(あ、もう、何かどうでもいいや)
初めてのキスを善治とした。
それだけで今までの苦労が全て報われたような気さえする。
善治は化粧っけがなく、リップも塗っていない。
しかし先程の果実の果汁で潤んでいるのか、ぷるりと弾力を感じるその感触がたまらなく心地いい。
だが、善治の行為はそれにとどまらなかった。
ぐい、と後頭部に回された善治の腕が菊池の頭をより引き寄せる。
合わせて唇を接触させていた口が徐々に開かれ、その内側にまで菊池を誘う。
菊池は逆らえない、逆らおうという意思も起こらない。
ただ、人の口腔内って熱いんだな、などとぼんやり思う。
その口の中にある歯や舌の作りが自分より小さい事に猛烈な興奮を覚える。

 ぢゅぅぅ……

 口の繋がりが深くなる。
小さな舌が伸びてきて、菊池の舌にぺっとりと密着する。
舌の表面のざらつきと唾液のぬめりを感じる。
背筋から頭頂部にかけて快感と多幸感が駆け抜ける。
きもちいい。
これだけで、射精してしまう。
本当に暴発の危機を感じ、思わず菊池は身を引こうとする。
だが、善治は許してくれない。
両腕で一層頭部を引き寄せ、首に角度を付けてより繋がりを深くする。

 「ん、ぢゅ、ちゅ」

 にゅるん、と、小さな舌に侵入される感覚でまた、脊髄が痺れる。
もう、どうでもよかった。
いつの間にか動くようになった腕を善治の背中に回して抱き返す。
小さな体はすっぽりと腕の中に収まる。
「くぅぅん」と喜びを表すような声を上げて、善治がますますしがみついてくる。
菊池は見た。
善治の背後にいたタネコヒさまが、すうっと消えていくのを。
21/04/23 22:32更新 / 雑兵
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