読切小説
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サマーアイス
 日本の夏とは、悲劇だ。
 単に暑いだけでなく、そこに湿気も絡んでくる。高温多湿という最悪の相乗効果が、国土を容赦なく責め苛んでいく。豊かな四季が日本の持ち味とはよく言われるが、顔色をころころ変えられるのも考え物だ。
 そんな夏が、いつものように今年もやってきた。八月の中旬。夏ど真ん中。回避不能の暑気が列島を襲う。そして都内某所のアパートに住む一人の学生の下にも、平等に熱気が贈られる。
 江古田邦夫。大学生。親元を離れ上京し、今は東京で一人暮らしをしている。そして夏が来るたびに、故郷の大学に行けばよかったと後悔している。コンクリートジャングルは降り注ぐ熱を跳ね返し、足下から温度を上げていく。自然と人工のありがたくないシンフォニーが、邦夫の住む部屋を上下から挟み丁寧に暖める。

「クニオ。そのままだと脱水症状で死ぬ」

 いつも通りなら地獄の如き季節だ。だが今年の夏は、少し事情が違っていた。
 
「水をやる。少し待っていろ」

 隣に座っていた女性がぶっきらぼうに告げ、立ち上がり、部屋の奥へ消えていく。そちらにはキッチンがあり、冷蔵庫や電子レンジも置かれていた。ああ、取りに行ってくれたんだな。それを見た邦夫は、軽い気持ちでそう考えた。
 次いで彼は、そうして水を取りに向かった女性に思いを馳せた。彼女――無愛想で口数も少ないが、何かにつけて自分の世話を焼いてくれる魔物娘を脳裏に思い浮かべ、邦夫がぽつりと呟く。
 
「何がどうなったんだろうな、これ」

 種族名グラキエス。個人名ツンドラスケープ。
 それが彼女について、彼の知る情報の全てだった。
 何故彼女が自分に構うのか。邦夫は把握することが出来ずにいた。
 




 邦夫とツンドラスケープの出会いは、あまり穏やかなものではなかった。一週間前の夕方、沈みつつある太陽がなお容赦なく熱気を放つ下で、二人は初遭遇を果たした。
 アパートの前で倒れていたツンドラスケープを、帰宅した邦夫が発見したのだ。
 彼は最初動揺し、困惑し、すぐ我に返って医者に診せようと思い至った。119番通報をし、救急車を待つ間カバンから取り出したノートで風を送る。やがて救急車が到着し、ツンドラスケープが担ぎ込まれる。第一発見者ということで邦夫も一緒に救急車に乗せられる。
 道中で邦夫は色々な事を聞かれたが、そこで何と答えたのか覚えていなかった。目の前の状況を理解し受け入れるので精一杯だった。
 そのうち救急車が病院に到着する。救急車から担架に載せられた状態で病院に送り込まれ、検査を受け、そしてただ熱気にやられて一時的にダウンしていただけだということが判明する。
 
「おそらく、日本に来るのは初めてだったんでしょう。はじめて来日する氷属性の魔物娘の中には、この国の暑さにびっくりして、こうなっちゃう子がたまにいるんですよ。本当にたまにね」

 ツンドラスケープを診た医師が、リラックスした調子で説明する。その後医師は同じテンションのまま、ツンドラスケープは今日中に退院できることを告げた。
 
「熱中症とか、そういうのにはかかってないんですか?」
「ないです。本当にびっくりしただけ。魔物娘はそんなにヤワじゃないですよ」

 邦夫からの問いかけに医師が答える。それを聞いた邦夫が、すぐ横のベッドで寝息を立てるグラキエスを見やる。
 大山鳴動して鼠一匹。しかも騒いでいたのは自分だけ。なんとも恥ずかしいオチがついてしまった。
 しかしそれでも、邦夫は達成感と満足感を覚えていた。あそこでちゃんと救急車を呼べてよかったという安堵感もついてきた。
 そして無事がわかったので、ここに留まる理由も無くなる。邦夫は軽く挨拶を済ませ、さっさと病院から出ていった。第一、自分とあのグラキエスは赤の他人なのだ。変に深入りする理由も無い。邦夫はそう考え、故に一人家路についたのである。




 これが一週間前のこと。そしてその二日後、件のグラキエスが自分の部屋にやってきた。
 そのままこの部屋に住み着き、今日に至る。
 ちょっと空回りして終わっただけなのに、どうしてこうなったのだろうか。邦夫は時々そんなことを考えるが、どれだけ考えても答えが出てこない。
 不思議だ。あのグラキエスの気持ちがわからない。
 
「待たせた。水だ」

 そこで邦夫の思考が目の前に引き戻される。ツンドラスケープが水の注がれたコップを手に持ち、彼の下へ戻って来たからだ。ツンドラスケープはそのまま腰を下ろし、邦夫に向けてコップを突き出す。
 
「飲め。少しはマシになるだろう」

 ツンドラスケープが淡々と言う。邦夫がコップを受け取り、言われるままに中身を飲み干す。
 キンキンに冷えた液体が舌を冷やし、喉を内側から冷ましていく。ああ、冷たい。うまい。
 
「ありがとう。生き返るよ」
「礼はいらない」

 水を飲み干し感謝の言葉を伝える邦夫に、ツンドラスケープが素っ気なく答える。そしてツンドラスケープは素っ気ない態度のままコップを受け取り、そそくさと立ち上がって再びキッチンの方へ姿を消す。
 しかし本当に冷たい水だ。ツンドラスケープの背中を負いながら、邦夫がふと考える。うちの水道水はこんなに冷えた水は出せないはずだが、何か魔物娘にしか使えない裏技でも使っているのだろうか。
 気になる。今度聞いてみようか。
 
「何もしていない。ツンドラスケープが勝手に用意しただけだ」

 そんな邦夫の思考を読んだかのように、戻ってきたツンドラスケープが言葉を投げる。いつものようにぶっきらぼうな口調で、表情も氷のように冷たかった。
 
「安心しろ。ツンドラスケープの水だ。毒は入っていない」

 冷たい表情と態度のまま、ツンドラスケープが邦夫の隣に腰を下ろす。彼女は一人称に自分の名前を使っている。最初それを聞いた邦夫は不思議に思い、意味を尋ね、そこから彼女の名前を知ったというわけである。
 
「魔力的なものも入ってないのか?」
「そうだ。それは普通の水だ」
「魔物娘はそういうの入れてきそうな感じなんだが」
「入れても問題ない状況ならば、そうする。だが今は違う。ツンドラスケープはこの日本の夏の危険性をよく理解している」

 人命優先だ。素っ気ない調子でツンドラスケープが言い放つ。
 なるほど説得力がある。
 
「……今、ツンドラスケープを馬鹿にしたな?」
「し、してないよ」

 またしても心の内を読み取ったかのように、ツンドラスケープが鋭く問いかける。邦夫は慌ててそれを否定し、否定されたツンドラスケープもそれ以上追求はしなかった。
 
「そうか。ならいい」

 そしてツンドラスケープは代わりに、それとなく身じろぎして邦夫の方へ距離を詰める。
 
「……」
「……あの」

 魔物娘が無言で近づいてくる。純粋な人間からかけ離れた存在とはいえ、相手は見目麗しい女の子だ。
 そんな存在が自分から接近してきたら、男たるもの、どうしたって意識してしまう。
 
「近くないか?」
「近づいたからな」

 しかしそんな男の葛藤を、ツンドラスケープは意に介さなかった。控え目な口調で尋ねる邦夫に、ツンドラスケープがあっさりとそう答える。さらにそこから、ツンドラスケープがさらに距離を詰める。
 互いの肩が触れ合う、そのギリギリのラインをツンドラスケープが攻める。そのもどかしい位置に置かれた邦夫が、思わず彼女に声をかける。
 
「それ、ちょっともどかしいな」
「もどかしい? なぜ?」
「ぶつかるならがっしりぶつかった方が後腐れないかなって思ったんだよ」
「肩を? ぶつけ合いたいのか?」
「あ、おう」

 焦らされるのは好きではない。邦夫はそう正直に答えた。
 
「ここまで来たら、いっそひと思いにやれって感じかな。俺はそう思う。うん」
「そうか」
 
 それを聞いたツンドラスケープは、視線を邦夫から逸らし正面に向き直った。そして暫し沈黙し、納得したように言葉を零す。
 
「そうか。お前はそちらの方が好きなのか」
「え」

 邦夫がそれに反応する。だが彼が続けて言葉を放つ前に、ツンドラスケープが先手を取って己の肩を彼の肩にぶつける。
 
「うわっ」

 いきなり来た衝撃に、邦夫が僅かによろめく。ツンドラスケープはそんなことなど意に介さず、涼しげな顔で体勢を整える邦夫を見やりながら声をかける。
 
「ぶつけてやったぞ。嬉しいか?」

 その声はどこか自慢げだった。元の姿勢に戻った邦夫が苦言を漏らす。
 
「もうちょっと手加減してくれよ……」
「この程度で音を上げるのか。お前は脆い人間なのだな」
「そうだよ。次からは気をつけてくれ」
「……善処しよう」

 不満げな邦夫の言葉に、ツンドラスケープが言い返す。表情は相変わらず凍ったように固まったままだが、その心中では何かざわめきめいたものが生まれていた。
 何故だろう。胸がもやもやする。
 
「ところで、どうしてこんなことを?」

 そんな折、邦夫が疑問をツンドラスケープにぶつける。ツンドラスケープが自問を切り上げ、意識を邦夫に向け言葉を返す。
 
「こんなこと、とは」
「いきなり近づいてきたことだよ。肩ぶつける勢いでさ。何かあったのか?」
「ああ、それか」

 邦夫の返事にツンドラスケープが得心する。そしてそれから暫くの間、ツンドラスケープがほんの少し顔をしかめて黙る。
 いつもと気配が違う。微妙な空気の変化を敏感に感じ取った邦夫が不安げに彼女の横顔を見る。
 
「……他意はない」

 そうしてたっぷり間を開けて、ようやくツンドラスケープが口を開く。
 
「クニオの熱を少しでも和らげるためにしたこと。それ以上でもそれ以下でもない。ツンドラスケープは決して、決して余計なことはしない」
「そこまで念押さなくてもいいだろ」
「お前にツンドラスケープを誤解されるわけにはいかないからだ。お前がどう思おうと、ツンドラスケープは人間に特別な感情を抱くことは無い」

 矢継ぎ早に言葉を並べ立てる。いつもの冷淡さや落ち着きは無い。
 どこか変だ。邦夫は一層不安に思った。
 
「お前、大丈夫か。熱でもあるのか」
「世迷言を言うな。氷の魔物が高熱に罹るわけがないだろう」
「そ、そうだよな。でもお前、本当にいつもと調子が違うからさ」
「安心しろ。ツンドラスケープに問題はない。本当に問題はない」
「ああ、わかった。わかったわかった」

 不安に思った邦夫だったが、最後はツンドラスケープの圧力に押し負けてしまう。しかしそれでも、邦夫の心から懸念は消えなかった。
 本当に大丈夫なのだろうか。無理をしているのではないだろうか。相手が問題ないと言っているのだから問題無いのだろうと割り切れる程、邦夫の心は図太くなかった。
 
「それよりどうだ。熱は下がったか?」

 そこにツンドラスケープの声がかかる。慌てて意識をそちらに戻し、邦夫が答える。
 
「あ、ああ、うん。冷えたよ。ばっちり冷えてる」

 体感温度が下がったのは事実だ。だが前述の理由から、胸の内にあるモヤモヤは未だ晴れずにいる。それが熱を帯び、身体を内からじわじわ暖めていく。
 涼しいと暑いを同時に味わうのは、なんとも奇妙な感覚だった。
 
「お前がツンドラスケープの心配をする必要は無い」

 ツンドラスケープが口を開く。邦夫は言葉を返さず、次を待つ。
 すぐに次がやってくる。
 
「心配をするのはツンドラスケープのすることだ。弱い人間が魔物に気を揉むことはないのだ」
「弱くても心配くらいするよ」
「それが余計なお世話だと言っている」

 ツンドラスケープが語気を強める。同時にツンドラスケープが手を伸ばし、邦夫の側頭部を掴んで強引に自分の元へ引き寄せる。

「うわっ」

 邦夫は抵抗出来なかった。ただされるがまま、上半身をツンドラスケープの方へ持って行かれる。
 普通の人間と魔物娘の膂力の差が端的に表れた形である。
 
「どうだ。お前が心配する要素はどこにもない。ツンドラスケープの方がずっと強い」

 言い聞かせるようにツンドラスケープが言う。邦夫は何か言いかけたが、ツンドラスケープがそれを制するように続けて言葉を放つ。
 
「それよりお前、疲れているだろう。ツンドラスケープが傍にいてやるから、そのまま寝てしまうといい」
「えっ、いいよ。確かに疲れてるけど、寝るほどじゃ」
「いいから寝ろ。ツンドラスケープが寝ろと言っているんだ。横になるだけでもいい」

 命令である。しかもツンドラスケープが変わらず側頭部を抑えつけているため、力ずくで振り払うことも出来ない。詰みだ。
 
「……はいはい」

 なので邦夫は折れた。寝ることはせず、ツンドラスケープの膝の上にこめかみを置く。
 氷の魔物娘だけあって、やはり冷たい。ツンドラスケープの膝がもたらすひんやりとした感覚が、邦夫の頭を優しく包む。
 その心地良い冷たさに喜びを感じていると、ふと邦夫が「それ」に気づく。
 
「なんかお前、ぬくいな」

 暖かい。ツンドラスケープの膝から暖かさを感じる。
 錯覚ではない。確かにそう感じる。
 ツンドラスケープが反応する。

「なんだと?」
「本当だって。なんかぬくいんだよ。暑いってわけじゃなくて、温もりっていうか……」

 上手く言語化できない。それでも邦夫が頭越しに感じた違和感を、どうにかツンドラスケープに伝えようとする。
 対するツンドラスケープは、それを聞いて気難しい表情を見せた。
 
「馬鹿なことを言うな。ツンドラスケープはグラキエス。氷の魔物だ。それをよりにもよって暖かいだと?」
「ああ、ごめん。気分悪くしたなら謝る。ごめん」
「……別に嫌と言うわけではない。ただ、ツンドラスケープはグラキエスで、冷たい魔物だ。それを知っておいてもらいたいだけだ」
「ああ、うん。わかった。忘れないよ」

 罪悪感を覚えた邦夫が素直に非を認め、その身を引く。しかし同時に小声で「本当にあったかいんだよなあ」とも呟く。彼は自分の感覚に自信を持っていた。
 ありえない。それをばっちり耳にしたツンドラスケープが心中で言い返す。ただし馬鹿正直に言葉にはせず、代わりに思考の中断を彼に促す。
 
「いいから休め。余計なことは考えるな。身の回りはツンドラスケープが守ってやる」
「お、おう……」
「……休めよ?」
「わかってるよ」

 ツンドラスケープがしつこく念を押す。邦夫は半分やけっぱちになりながらそれに応え、リクエスト通り体から力を抜く。
 
「……」
 
 といっても、すぐに寝れるわけではない。そもそも女性に膝枕された状態で即座に寝つける程、邦夫の神経は図太くは無かった。
 良くも悪くも不器用な男だった。
 
「っ……」

 それでも、彼は体を休めようと努力した。唐突な上に動機がわからないが、とにかくツンドラスケープが骨を折ってくれている。それを無碍にするのは野暮だ。
 
「ふう……」
「おさまりが悪いなら自分で頭を動かして構わんぞ」
「ありがとう、そうするよ」
 
 結論から言うと、邦夫は最後まで寝れなかった。彼は目を開けたまま、終始神経を張り詰めたままだった。
 だが居心地が悪かったわけでは無い。邦夫は眠るほどリラックスできなかったが、それでも落ち着いた気持ちで穏やかに時を過ごすことが出来た。
 
「心地いいか?」
「最高」
「ならば良い」

 そしてツンドラスケープもそれを知り、満足そうに頷いた。
 
 
 
 
 邦夫が自分の膝の上に頭を載せている。眠ることも嫌らしいこともせず、ただ体の力を抜いてこちらに身を任せている。
 ツンドラスケープはその姿を、何も言わずに見下ろしていた。その表情には困惑の色がうっすらと込められていた。
 
「……」

 自分は今、何故こんなことをしているのだろう。その疑念こそが、ツンドラスケープの顔に翳りを落としていたものの正体だった。なぜつがいでもない人間の男に、こうも簡単に膝を許しているのだろうか。ツンドラスケープは自分の取っている行動の意図を、自分で把握することが出来ずにいた。
 何より、自分はこの状況に嫌悪や忌避を一切抱いていない。それどころか満足感すら覚えている。これはいったいどういうことなのだろうか。
 
「……」

 ツンドラスケープが無言で邦夫の横顔を見下ろす。下手に声をかけて彼の平穏を乱してはいけない。ツンドラスケープはごく自然に、まったく無意識の内にそう考え、胸中で巡らせた思いを口に出すことはしなかった。
 横顔を見つつ、改めて自問する。なぜこんなことをするのか?
 否。少し考えて、誤魔化すのをやめる。嘘をついて時間を稼ぐことをやめる。
 答えは既にわかっていた。自分のことを理解できないほど、ツンドラスケープは視野の狭い魔物娘ではない。
 
「そうだ」

 自分はこの男を好いている。ツンドラスケープは心の中にある好意を素直に認めた。
 まだ態度には出せていないが、愛しているのだ。
 邦夫に惚れたのはいつからだったか。
 
「あの時からか」

 ツンドラスケープがこぼす。当人に聞こえないほどの極小の声で呟く。
 あの時。自分が日本の夏に敗れ――この国の暑気を甘く見た自分の完全なる落ち度だ――倒れていたところを、邦夫に救われた時。ツンドラスケープは自分のために助けを呼び、声をかけ続けたあの男の姿をはっきりと視界に収め、脳裏に焼き付けていた。
 救急車でずっと自分の手を握っていたことも覚えている。本気で心配する視線を向けてきたことも覚えている。
 弱った意識の中で、そんな邦夫の行為、?偽り無い献身が、ツンドラスケープの記憶に強く刻まれた。
 氷の魔物が「愛」を知り、凍てついた心が溶けだしてしまうほどに。
 
「貴様のせいだ」

 そうだ。全部貴様のせいだ。最初は吊り橋効果と思っていたが、共に過ごす中でそれが貴様の「素」であることを知り、余計に好きになってしまった。なおさら貴様のせいだ。
 
「ツンドラスケープを本気にさせるとは」
 
 温もりを抱いたグラキエスが眼下の邦夫に小声で言い放つ。邦夫は疲れからか緊張からか、それに反応する素振りは見せない。
 好都合だ。今の自分の顔をこの男に見せるわけにはいかない。
 そんなこと、恥ずかしくて出来ない。
 
「責任はとってもらうぞ。馬鹿者め」

 ツンドラスケープが口元を緩め、何も知らない邦夫に宣戦布告する。氷の魔物を甘く見た報いを存分に受けさせてやる。今後邦夫に対して行う「仕打ち」の計画の数々を夢想し、ツンドラスケープは人知れず不敵な笑みを浮かべた。
 
「ううん……」

 その時、邦夫が小さく呻きながら頭を動かす。よりリラックスするために寝相を変えようとしていた。
 ツンドラスケープはすかさずそれを察知した。思考を切り替え、男のこめかみと頭頂部に手を添え、彼の頭の動きを手助けする。
 
「これくらいでいいか?」
「うん、ありがと……」
「言うな。もっと頼るがいい」

 調整はすぐに終わった。邦夫の気持ちいいと感じるポイントはあらかた把握済みだ。
 そしてその後弛緩しきった声で礼を述べる邦夫に、ツンドラスケープが穏やかな声で返す。邦夫もそれを聞いて笑みをこぼしつつ再度体の力を抜き、それを見たツンドラスケープも柔らかな表情を浮かべ安堵と充足感を覚える。
 直前まで考えていたサディスティックな計画の数々は、完全に頭の中から消滅していた。
 
「まったく、ツンドラスケープがいなければ貴様は本当に駄目だな」

 代わりに悪態をつく。苦笑交じりの、親愛のこもった悪口。
 ツンドラスケープは意識してそう言葉を発した。未だ素直になりきれない、彼女なりの本音の出し方である。
 
「本当に……」

 だめな奴め。ツンドラスケープが心から穏やかな声を出す。自分でもびっくりするほどの穏やかな声。
 だがそれを不快とは思わない。もう元には戻れない。
 それでも構わない。。
 
 
 
 
 夏。雪解けは確かに始まっていた。
20/09/07 19:40更新 / 黒尻尾

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