連載小説
[TOP][目次]
勉強、始めました
 意志の疎通を図ることは、様々な生物が行っている、ごくありふれた行動の一つである。
 しかし、その手段に関しては、やはり種によってさまざまな多様性が見て取れる。
 動きによってエサのありかを教える、匂いによって縄張りを主張する、また体色によって警告することも意思疎通の手段の一つだと言えるだろう。
 その中でも、人間が持つ”言語”は、人間だけが使いこなしている独特の意思疎通の手段だと言えるだろう。

 言葉は、直接、間接を問わず、音声だけでなく、文章という形をとることによっても、情報を伝えることができる大変便利な道具である。
 また、言葉はその組み合わせによって、実に様々な情報を伝えることもできる。
 そして、言葉を使って遊ぶことや、人の心を攻撃することすらできる。
 まさに万能の道具と言ってもいいほど、言葉というものは自由度が高いのである。

 しかし、言葉は便利な道具である反面、習得するためには膨大な労力を必要とする。
 通常であれば、幼少期に精神が発達していく過程において、自然と身につくようになっている。
 また、脳機能の面から見ても、言語習得は幼ければ幼いほど容易である、という研究結果も発表されている。
 だが、これが脳が成熟しきった大人になってからであれば話は別である。
 母国語以外の言葉を習得するということは、相当なエネルギーを費やさねばならないのである。

 それほどまでに、言語の習得というのは難しくもあり、そして、その苦労に見合っただけの価値があるものなのである―――


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


「えーっと……『あなたがたに、集まって、感謝、する。私は、これから、〜〜の〜〜をお話ししようと思っている』この単語どういう意味だっけなぁ……」

 さっきからこんな調子で、一文読んで、詰まってはノートをめくって、該当する単語を探しています。

「ああ……”推理”と”結果”か……開始2ページでもう種明かし開始とか、どんな探偵モノだよ……『クラリスを、魔物に、した、〜〜』……まぁ”犯人”かな、たぶん『犯人は、この中にいる。それは、あなたです、〜〜〜のソラリス!』……ソラリス何なんだよ……あ、この単語まだ習ってない……」

 決めた。もう二度と映画の字幕スーパーとか、ゲームのローカライズに文句は言わない。
 ナマ言ってすいませんでした。
 翻訳者さん、あなた方は本当にすごいお方だったんですね……


 あ、僕が何やってるかって?
 それはもちろん、言葉の勉強ですよ。
 現地の言葉を理解できなきゃ、ろくな生活送れませんからね。
 こうやって、空いた時間はこの世界の言葉を覚えることに費やしているのですよ。


 二か月前、僕は特に理由もない異世界転移に遭遇して、ひょんなことからバフォメットのウルさんに助けてもらいまして、ウルさんのうちに住み込みのお手伝いとして居候させていただくことになったのです。

 さて、そんな風にして始まった強制的異世界留学ですが、この生活を始めるにあたって、僕に圧倒的に足りてないものがありました。
 それは何かといいますと、一言で言えば”語学力”です。

 たとえば”英語がしゃべれない”という人だって、自己紹介とか挨拶とか、簡単ないくつかの単語ならわかるでしょう? 僕だってそうです。
 大体、母国以外の国に行こうと思ったら、ふつうは現地語の一つや二つ覚えて行くもんでしょう? 買い物のときになんて言うかとか、”駅”はなんて読むかとか、普通は覚えてから行くもんです。

 ですが、ここに来た当初の僕は、この世界の言葉に関して、まったく何もわからない状況でした。
 相手が何を言っているかもわからない、聞き取れない。
 自己紹介と挨拶すらできない、しゃべれない。
 挙句、文字すらわからない、読めない。
 「聞けぬ、言えぬ、読めぬ」の三重苦でした。


 ということで、異世界の生活でまずはじめにやることは「言語の習得」だと決めました。
 ウルさんも、家の手伝いを覚えるよりも先に、言葉を覚えてもらわなければと思っていたようで、僕にこの世界の言葉を教えてくれました。

 最初に小声でなんか言ってた気もしますけど。
 あとから考えると、あれは『ぐふふ……この魅惑の個人レッスンでシンジを……』とか言ってた気がします。
 気のせいであってほしいです。

 とにかく、語学のレッスンをしてもらったのですが、これがまた簡単にはいかないんですよ。

 まず、外国の言葉を覚えようとしたら、アルファベットとか、ひらがな、カタカナを覚えるみたいに、”文字”から覚えるよね?
 まぁ、これは問題なかった。
 ウルさんが、文字の読み方、書き方をちゃんと教えてくれたからね。
 やけに密着してたけどね、手と手を取り合って文字の書き方レクチャーされたけどね。

 文字を覚えたら、次は”動詞”とか”名詞”とかの単語を覚えると思う。
 ここが問題なんですよ。
 なぜかっていうとですね、ないんですよ。あれが。
 辞典がないんですよ。

 これは大いに困りましたよ。

 わからない単語があったり、言い換えたい単語があってもすぐに調べられないんですもん。

 だから、最初から今に至るまでウルさんとずーっと作ってるんですよ。
 辞典を。

 最初はとにかく”水”とか”空”とか、指さすだけで教えられるような簡単な単語を片っ端から教えてもらい、その次は”歩く”とか”走る”とか、すぐに動作で表現できる単語を教えてもらう。
 そんな風にして、とにかく単語を覚えることだけに一心を注いできました。

 とにかく、言語っていうのは、単語を覚えないとお話にならないんですよね。
 完璧に現地語を使いこなしたいっていうわけではなく、とにかく最低限でも理解してしゃべることが重要な今、難しい文法とかは一切後回しです。そんなもん、慣れた時にでも習えばいいんです。
 今重要なのは”オレ、オマエ、トモダチ”レベルのカタコトしゃべりでもいいので、それができる程度の単語力を身に着けることです。

 そんなこんなで二か月後の今に至るわけですが、おかげで相手の言っていることもそこそこわかるようになりました。

 文法も、ウルさんと実際にしゃべって訓練したおかげで、ある程度身に付きました。

 つまり、日常生活を送る程度であれば、最低限のコミュニケーションは図れるようになったわけです。

 しかし「話す」ことだけで言語が成り立ってるんなら苦労は無いわけで、読解の方はまだまださっぱりなんですよ。

 ということで、今のウルさんとの語学の授業では、読解力を鍛えるために「本を一冊読み切る」という課題を出してもらっているのです。
 ついでに、わからない単語も出てくるので、その都度リストアップしてウルさんに教えてもらう準備もできるのです。
 一挙両得ですね。

 以上、長ったらしい説明終わり。

 まぁそんなわけで、さっきから本を読もうとはしているものの、やはり文法後回しのツケが来たのか、本をにらみつけているだけで、なかなか先に進んでいないという状況です。

『シンジー? 〜〜〜〜〜かの?』

 おおっと、ウル先生が様子を見に来てくれました。
 だけど、ここでも聞き取れない単語がっ

『え? すいません、ウルさん、いま、なんていいました?』
『ん? 〜〜〜〜〜いるか、と聞いたのじゃが……』
『その〜〜〜〜〜ってたんご、まだしらないです』


 こんな風に、普段の会話でもわからない単語があればバンバン聞きます。
 正直、人生で一番積極的に勉強していると思う。

『ああ、そうじゃった……うーん……〜〜〜〜というのはじゃなぁ……少し説明しずらいのぅ。シンジ、力を抜いて額を出せ』
『はい、わかりました』


 そう言って、素直に額を差し出すと、ウルさんがふっさふさの手を僕の額の前にかざします。

 そうすると、ぽうっとウルさんの手が光ったかと思うと、頭の中に何かがうにょうにょ入ってくる、不思議な感覚が襲ってきます。

 すると、あら不思議

『……ああ、わかりました! ”はかどる”おぼえました!』
『うむ、相変わらずお前には”概念伝達”の効きが悪いのぉ』


 この”概念伝達”こそ、僕が二か月という短期間で、誰も聞いたことがない言語をここまで覚えることができた秘密の一つです。

 これは、なんやかの超常的な力によって、相手の頭の中に、直接自分の概念を伝えることができる便利な技なんだそうです。
 これを使えば、言葉の壁なんか関係なしに、伝えたいことを相手に理解させることができるんです。


 え? じゃあ、それ使えばわざわざ言葉を覚える必要なんてないじゃん、ですって?
 そらそうです、僕だってそれ思いました。

 でも、これ困ったことに一方通行なんですよ。
 なので、結局僕がしゃべれなかったら意味ないんですよね。
 人生そう甘くないんです。

 まぁ、言葉を教えてもらう分には便利なもんです。
 言い表しづらい言葉なんかは、これで一発で教えることができるんですよ。
 形容詞とか、ほとんどこれに頼りきりでしたもん。

 さて、先ほどのわからなかった単語は、日本語でいうところの「捗る」に当たる言葉でした。
 さっそく、マイ辞典(大学ノート)に意味を書いておきましょう。

 と、いざ書き込もうとペンを握ったところで気が付きました。

『すいません、はかどるの、つづりを、おしえてください』
『なんじゃ? 綴りがわからんか? ほれ、こう書くんじゃよ』


 そう言って、ウルさんが後ろから僕の肩越しに綴りを書いてくれました。
 まったく、こうされるとますます早く言葉を覚えてしまわないと、と思います。

 だって、ウルさんが必要以上に近づくもんだから、僕の顔の横から伸びた腕とか、ふわっと感じるウルさんの髪の匂いとか、背中に当たったなんらかの控えめなやわらかい感触とか、ものすごいよくわかっちゃうんですよ。
 今はまだ、理性でもってなんとか耐えてますが、異常なまでに惹かれるんですよ。
 アカンて。
 まだロリコンになりたくないって。

 なんで、可及的速やかに離れていただきましょう。

『う、ウルさん! よくわかりました! だから、じっけん、もどっても、だいじょうぶですよ!』
『んー? なんじゃ、なんじゃ? 急に焦りおったな? おっと、いかんいかん。胸が当たっておったなぁ。まさか、ワシの体に〜〜したわけではあるまいなぁ?』


 知らない知らない! その単語知らない!
 だけど、ろくでもない意味なんじゃないかってのは予想できる!
 なんで言うことがオッサンみたいなんですか!

『シンジぃ? まさかお前、我慢してたりはせんよなぁ? こぉんな、青い果実に〜〜してしまったのかのぉ? でも、お前がどうしてもというのなら……♥』

 え、ちょっと、僕のふとももに手を伸ばさんといて!!

『好きにしても、いいんじゃぞ……♥』

 アイエエエエエエ!? ユウワク!? ヨウジョがユウワクナンデ!? ヤバイ!! オゴゴー!!
 あまりの突然の誘惑に、シンジ=サンの理性は爆発四散寸前だ!

 これは、モノノホンにも記されている”外国の人は実際積極的”というやつなのでは!?
 まだ出会って二か月だというのに、もうGOサインだというのか!?
 なんたるカルイショウセツじみた恋愛メソッド!!

 だが、たとえそうだとしても、見た目がロリな子に手を出したら社会通念的にはアウトである!!
 Yesロリータ、Noタッチ! かのアダルト雑誌、エル・Oにもある、有名なコトワザだ!
 この言葉に逆らって、非IRC空間で無垢なロリータへの直接の猥雑に及んだペドフェリアは、漏れなくムラハチにされてしまうのだ!
 ムラハチとは陰湿な社会的なリンチのことである、実際コワイ。
 なにより、ハンダシンジ=サンはロリコンではない、いいね?
 とにかく、さっさとこの状況からエスケープしなくては!

『ウルさん! あめが、ふるかもしれない、ので、せんたくもの、とりこんでくる!』

 ゴウランガ!
 面と向かって拒絶すれば角が立つかもしれないし、相手の機嫌を損ね、最悪ケジメすらありうる。
 しかし、別の重要なタスクを引き合いに出すことによって、相手の要求を先延ばしにしつつ、この場を収めることができる。
 日本のサラリマンも得意とする技、サキノバシ!
 ハンダ=サンの見事なオコトワリ・ジツだ! ワザマエ!

 ということで、さっさと常人の三倍速度でこの場から立ち去り、洗濯物を取り込みに行くのでありました。

『なぁんじゃ……残念じゃのぉ……』

 ……この誘惑はからかわれているだけだと思いたい。
 もし、本気ならマジでいつまで耐えられるかわからないです。


……………………………………………………………………


「で、ホントに雨に降られるというね……」

 宣言通り、洗濯物を取り込んでいたら、突然の大雨に襲われてしまいました。
 洗濯物はほぼ無傷ですが、僕はびしょびしょになりました。ぬれねずみです。
 嘘から出た真というかなんというか、この世界に来てからフラグ体質が強くなった気がする。

「風邪ひくから着替えよ……」

 自室に替えの服があったはず。
 そう思って、水浸しの服を着たまま部屋に引っこみます。

 そして、部屋のタンスを漁って、着替えようとしたんだけど

「……ない」

 なんでさ。
 今着てる一着と替えの二着があったはずだよね。
 なんで引き出しが空なの。下着もないし。
 天狗か? 天狗の仕業か?

 いや、待てよ。

 もしかして”天狗”じゃなくて、もっと違う身近な魔物では?

 たとえばそうだな


 コンコン

『シンジぃ? 部屋に入ってもいいかのぉ?』

 同居している”バフォメット”とか……
 って、やっぱりあなたの仕業ですか!? ウルさん!!

『ちょ、ちょっとまって! いま、へやかたづけてる!』

 今着替えようとしてたから裸なの!
 全裸なの、全裸!
 幼女に全裸さらすとか駄目! 事案! 事案発生だから!

『んー? 別に散らかっていても気にせんよ、ワシは』

 気にしてぇ! お願い!

『それとも何かの? さっきの”突然の雨”で着替えが必要になったが、替えの服が見つからないので、今、部屋の中で裸になっていて都合が悪いとかかのぉ?』
『ヴぇっ!?』


 Why!? 何故それをぉ!?

『くふふ、当然じゃ。ワシがお前の古い服を捨ててしまったからのう。ちょうどお前の新しい服が届いたのでな、あのボロはもういらんじゃろうと思うてな』
『な、なんだってー!?』


 なんてひどいことを!!
 物を大事にするMOTTAINAI精神はこの世界には根づいていないというのか!?

『まぁ、そういうことじゃ。おとなしくワシに裸を見せるのじゃ……ハァ……ハァ……おぬしの美味しそうな体を、ワシに見せてくれ……♥』

 あ、やっぱこいつ確信犯だな!? ”美味しそう”ってどういうことなんだよ!
 人の裸想像して息を荒げるとか、どんだけませた幼女なんだよほんとに!!

 だがどうする、このままだと生まれたままの姿を晒して、変態露出狂の称号をほしいままにしてしまう!!
 何か、何か手はないのか!!?

 と、思わずドアから後退ったそのとき

 ずるっ

 ズデェン!!

「痛ってぇ!!」

 何かに足を取られて転んでしまった。
 つくづくかっこ悪い。

『シンジ!? 大丈夫か!? 今の音はなんじゃ!? もう我慢できんから入るぞ!!』

 当然、その音はウルさんにも聞こえるわけでして……
 ”同居人が心配”という大義名分を得たウルさんが、部屋の鍵を開けて入ってこようとしている。

「あぁ、まずい……いったいどうすれば……!  こ、これは!?」

 だけど、怪我の功名というやつか、僕を転ばせた”あるもの”のおかげで天啓が降りてきた。
 これならば裸を晒すことを回避できる!!

 思いついたら即行動!  スピード勝負だ、間に合え!

 そして、その数瞬の後!

 ガチャッ!

 ウルさんが、僕の部屋の中に飛び込んできた!

『シンジ!  大丈夫かの!? 怪我とかしていないか? 怪我があるなら、ワシにその体をじっくり、ねっとりと見せて……あれ?』

 ウルさんが、僕の姿を見て驚いていた。

「ふぅ……ふぅ……間に合った……」

 だって、素っ裸だと思っていた相手が

『どうしました? ぼくはだいじょうぶですよ?』

 体中にシーツを巻き付けて

『へやで、はだかに、なってなんかいませんよ!』

 服にしているのだから!

『いや……なんじゃその格好は。なぜシーツなぞ体に巻きつけとるんじゃ』
『これですか? これは、ぼくの、せかいの、ふくそうです!』


 嘘は言っていない。
 古代ローマの服(トーガだっけ?)だけど。
 そのうえ、真似っこだけど。
 けして、嘘は、言っていません!!

『ああ、そうであったか……では、ここに新しい服を置いていくからの。濡れた服は、ワシが預かっておくぞ……チィッ!  裸になったところを無理やり手籠めにしてやろうと思うとったのに!

 びしょびしょの服を持って、ブツブツと何やら言いながらウルさんは撤退していきました。
 聞こえなかったけど、すんごい不吉な文言だった気がする。

「はぁ……助かった……」

 あの眼は間違いなく獲物を狙う狩人の眼でした。
 このシーツがなければ、まず間違いなくやられていたでしょう。
 ですが、なんとか、ロリコン認定されるような事態は回避できました。

「決めた……さっさと買い物のやり取り覚えて、服とか買いに行けるようにしよう……」

 少しでも、ウルさんの魔の手(文字通り)から逃れるためにも、自活力をつけなくてはならないと、決意を新たにする僕であった。

「あぁ、なんか疲れた……服しまって、部屋片づけないと……」

 そう独り言をつぶやいて、すっかり散らかってしまった部屋を片付けようとして、引き出しを開けた。

 そうしたら、そこにはなんと普通の服が、ちゃんと入っているではありませんか。

「えっ!? 見落としてた!? なんだよ、それならこんなシーツなんて着なくても―――」

 そこまで言って、言葉が詰まり、表情が固まった。

 そこにあった服は、僕がもともと着ていた服。

 この世界に来る前にも着ていた、この世界に来た当初も着ていた、お気に入りのあの服だったから。

「…………」

 僕は、その服を見なかったことにして、引き出しの奥に押し込んだ。
 そして、引き出しを閉めて、何事もなかったかのように新しい服に着替え始めた。

 そうしてしばらくして、すっかり部屋をきれいにした僕は、ベッドの脇の文机に本を広げて、また翻訳を始めた。

 外ではまだ雨が降り続いていた。
 僕にとっては最高の環境だ。
 雨の音で心が落ち着いて、余計なことを考えずに済む。
 何も考えずにこの本を読むことができる。

「えーっと……確か探偵がソラリスを犯人だと断定したところで終わったんだっけ……」

 無心で翻訳する。

『ソラリスさんは、確か、クラリスさんと同じ出身ですよね――』

 何も考えない。

『帰る家を、なくした、あなたは――』

 今やるべきことをやるだけ。

『わたしは、あなたの、故郷で――』

 考えたってしょうがないじゃないか。

『ソラリスは、魔界に行って変わってしまったのだわ――』

 考えても答えなんか出ないんだから。

『帰ってきてください、ソラリスさん!  あなたは――』

 それができたら苦労はしない。

『魔界に触れたら……もう二度と戻れないのよ』

「そんなこと、あってたまるか!!」

 バン!
 コロコロ……

 本を思い切り閉じた反動で、シャーペンが部屋の隅に転がって行ってしまった。
 だが、今の僕はそれを拾いに行くような気分になれなかった。

「……くそっ!!」

 なんで、こんなこと考えてるんだ。
 もう、ここの言葉を学び始めたときに諦めたはずだろう。

 この世界から帰れる可能性なんてないって、そう結論づけただろ。

 そんなこたぁ、分かってる。
 最初の一ヶ月に、ウルさんにダダこねて頼んで、さんざん調べてもらって、ウルさんが申し訳なさそうな顔で謝ってきたんだ。
 元の世界に帰る方法なんてなかっただろ?
 その時に、もう期待しないことにしたよ。
 この地に骨をうずめるしかないんだって、そう決めたよ。

 じゃあ、なんで今更、服ぐらいでナーバスになっている?
 別にいいだろ、服の一つや二つ、気にせず着たらいいだろう。

 着れるもんならとっくに着てる。

 じゃあ何を気にしてるんだ?
 何が不満だって言うんだ?

 そんなもん、本当はまだ諦められていないからに決まってんだろ!!
 信じられるか!? こんな理不尽!!
 僕はこんな別世界に行くことを、心の底から望んだことなんて一度だってない!!
 言葉も通じない、友人もいない、こんなところに行きたいなんて思ったことなんてない!!
 だのに、僕の意思なんてまるっきり無視されて、急にこんなところでこんな不自由を強いられてるんだ!!
 こんなことってあるか!? 

 ああ、なんだ。
 まだ、あきらめてなかったのか、僕は。
 その事実を見ないために、がむしゃらに語学に打ち込んできてたのか。
 そりゃあ、上達もお早いわけだ。

 その事実を認識してしまった僕は、ふらふらと机の横のベッドに腰掛け、あおむけになった。

 胸に一度芽生えた郷愁の念は、少し寝たくらいでは収まりそうになかった。

 家族や友人などの頼れる人が全くいない、そんな生活は僕にとってすさまじいストレスだった。

 今すぐに帰りたい。
 帰ってみんなの声が聞きたい。
 もう、こんなわけのわからない言葉なんて聞きたくない。うんざりなんだ。

 そんな気持ちが、忙殺されていた心の奥底から、後から後から湧いてきて、涙となって頬を伝う。
 そして、その気持ちの中から、もう一つの感情が生じてくる。

 それは自己嫌悪。

 この世界で唯一、僕にやさしくしてくれている恩人への申し訳なさ。

 前の世界への未練と、それに伴う現状の不満は、彼女への最低最悪の裏切りだと思っていた。

 二つの相反する気持ちが、僕の心の中に深い深い沼を作っていく。

 その沼は底なし沼。

 一度入れば出ることは叶わず。

 ただ、負の心に溺れ、苦しむことしかできない。

「ちくしょう……ちくしょう……!」

 自分の不甲斐なさに、そんな言葉が思わず漏れてしまう。
 何度もベッドに拳をたたきつけ、やり場のない怒りと悲しみを発散するしかない。

 いっそ、前の世界の事を全部忘れてしまえたらいいのに。

 そうしたら、こんなことなんて考えないでいられるのに。
 そうすれば、こんな後ろ暗い感情の発散先としてではなく、純粋な気持ちで言葉を学べるだろう。
 楽しく、笑いながらウルさんとレッスンすることができただろう。

 ああ、それにそうだ、ウルさんとのことも悩まずにすむ。

 本当は僕だって、こんなあからさまな好意を向けられているのに、それに気付いていないわけじゃない。
 それに、個人的にはウルさんと付き合うことだってやぶさかじゃあないんだ。
 それじゃあロリコンじゃないかって? いやいや、よく考えてみようよ。
 そもそも、ウルさんは魔物で、もうずいぶんと長いこと生きているっていう話を聞いている。
 だったら、ウルさんのほうが確実に年齢は上だ。
 だから、僕がウルさんを愛したとして、狭義の意味ではロリコンではないだろう。
 ただ、見た目が幼い、年上のお姉さんってだけの話だ。
 もともと、何も問題はないはずなんだ。

 なのに、やれロリコン趣味は犯罪だとかなんとか言って、良識ある大人ぶってるのはなんでだ?

 そんなの、ただ言い訳にしているだけだ。

 ほんとは、今の生活に不満を持っていることで、彼女の行為を裏切っているように感じているのが情けないだけだ。
 彼女にすがって、かろうじて生きているのが申し訳ないだけだ。
 彼女にバレて、軽蔑のまなざしと共に見捨てられてしまうのが怖いだけだ。

 だから、執拗に距離を置く。
 決して、雇用主、恩人、同居人としての位置を超えようとしない。
 必要以上にへりくだり、奉仕して、見捨てられないようにしているだけだ。
 今の僕は、精神的な奴隷に他ならない。

 なら、こんな気持ちを抱かせる前の世界なんて、いらないんだ。

 そうすればウルさんと対等な目線になれる。
 彼女の好意に応えられる。
 素直な気持ちで、恩を返せる。

 ああなんだ、それで万事解決じゃないか。
 前の世界のことなんて、全部捨てて、全部忘れてしまえ。

 さっさと、もう一度覚悟を決めて、この世界での新生活をちゃんとはじめればいい!

 でも、それはできない。
 まだ未練が残ってるから。
 元の世界に、家族に、友達に、向こうの生活すべてに。

 それに怖い。
 この世界に染まり切ったら、もう本当に戻れないんじゃないかって思うと、たまらなく怖い。
 もしかしたら、こちらの食べ物を口にした時点で、ヨモツヘグイのように、もう向こう側には戻れなくなっているかもしれない。
 そんなことを考えると、自分の足元が崩れ落ちて、どこまでも落ちていくかのような、恐ろしい感覚に囚われる。

 でも、同時に思う。
 今更、向こうに帰ったところで何がどうなると言うのだろうか?

 はっきり言えば、僕は思わず惜しんでしまうほど輝かしい道を歩んでいたわけではない。
 特になんの才能もなく、秀でたことは何もない。
 すさまじい勉学の才を持っていたわけではない。
 運動神経が抜群だったわけでもない。
 芸事で光るものがあったということもない。
 何か、強いしがらみがあってわけでもない。

 なんの変哲もない、つまらない生活だったろ?

 そんな僕が、異世界への転移なんていう、間違いなく特別な体験をしているのだ。
 この生活を、もっとありがたがるべきなんじゃないか?
 ここでの新鮮な経験に比べれば、向こうのありふれた生活なんて―――

 そう割り切ってしまえればいいのに、割り切れない。
 じゃあ、戻りたいのかと聞かれたら、答えに詰まる。

 前の世界を捨てられない。
 こっちの世界も捨てがたい。

 諦めることもできない。
 執着することもできない。

 覚悟もなく、思想もない。

 ただ、もやもやと考えて。
 ずるずるとその日暮らし。

 踏み込みもせず、かといって引こうともしない。

 ただじっと、ベッドの上にうずくまって頭を抱える。

 今の僕は、最高に中途半端だと思った。


 雨は、まだ止まない。
13/12/08 02:14更新 / ねこなべ
戻る 次へ

■作者メッセージ
くそなげぇ

今回の話が、この連載で一番書きたかった話かもしれない。
ようするに、翻訳こんにゃくがない転移ものをきっちり書いてみたかったんです。
それでもだいぶご都合主義的ですが。

あと、思ったより最後の方、重い文章になってしまった。
どうもこういうのちょくちょく挟まないと気が済まない性質なんです。
ほのぼのとはなんだったのか。

あと、途中の某ニンジャ系サイバーパンクパロは、ごめんなさい、やりたかったんです。

次こそは、もうちょっと普通にほのぼのするはずです。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33