読切小説
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魔女と男12
 








「は。は。は」

 息が切れる。

「は。は。は」

 胸がはずむ。

「は。は。は」

 えんえんと走り続けているようで、僕はこれと良く似たものを知っている。

 ぐちゃりと崩れた人の形をした泥。
 槍の矛先と共に向けられた身震いするほどの殺気。
 愛する人の焼け焦げた死体。

 どれもが怖くて走った。
 どこを目指しているのかもわからずにがむしゃらに走り続けたあの感覚。
 走って、逃げて、けど追いつかれて、なんだか良くわからないものになってしまった。

 どうすれば良かったんだろう。
 どうすればこうなったりしなかったんだろう。
 あの時いわれたとおりに早く逃げ出していれば良かったんだろうか。
 それは良くない。
 だって、逃げたところで母さんは火に焼かれて死んでしまっただろうから。

 考えてもわからない。
 母さんはもう教えてくれない。
 帰る家はもう灰になってしまった。
 どこにもいけずにずっとうずくまる。

 ここはどこ?
 僕は誰?
 僕は――なに?

 ずっと考えていた。
 わからないことばかりが僕の中にたまっていって、気がついたらぶくぶくと大きくふくれあがってしまった。

 かえりたい。
 あの場所にかえりたい。
 それはどこにあるの?
 僕の頭の中にある。
 きびしくて、いたくて、つらかったけれど、母さんと過ごしたあの場所にかえりたい。
 だから僕はどこにも行かず、ここでうずくまっている。

 この気持ちが悪くて薄暗い森の中で、ずっと――死ぬまで。

 ぐすぐすと鼻を鳴らしていたら、僕の目の前で星が輝いてはじけた。
 ぱんぱんって二度、大きな音と一緒にはじけて消えた。
 なにが起きたのか僕にはぜんぜんわからなくて、頬がじんじんと熱く痛みだしてからなんとなくわかってきた。

 頬をひっぱたかれた。

「ようやく気づいたか。この泣き虫め」

 まっ白でなにも見えないのは、いつもよりずっと明るかったから。
 まぶしくてなにも見えなかったけど、この声が誰かは知っていた。
 母さん以外の誰かの声で、覚えているのなんて一人しかいない。
 あの、憎たらしくて乱暴な女の子だ。

 何度も目をぱちぱちとしているうちに、白いばかりだった僕の目にあの意地悪な顔が浮かんできた。
 栗色の髪と、白い顔と、長く曲がった二本の角。
 間違いない。
 いきなりなぐってきたあの女の子だ。

 僕の上に乗っかって、地面に押し付けて、女の子はにやにやと笑っていた。
 憎たらしかった。

「なんだその目は。わしに喧嘩で負けていながら、まだ判っていないのか? それとも記憶ごと吹っ飛んだのか?」

 思い出した。
 パンチと言って腕をぐるぐる回していながら、飛び蹴りをしてきた。
 ずるい。

 けど、僕はそういうずるい戦い方も母さんから教えてもらっていた。
 なのに僕は今の今まですっかり忘れてしまっていた。

 それが悔しい。
 あれだけ毎日母さんのことを思い続けていたはずなのに、僕はなにも覚えていない。

「くけけ。悔しがったところで負けは負け。この喧嘩、わしの勝ちだ。文句はあるまいな? あっても聞かんが」

 だから悔しい。
 よりにもよってこの女の子に負けてしまったのが、悔しくてたまらない。

 こわい顔をしてどれだけ睨みつけても、女の子は笑うばかりでこわがる素振りなんて一つも浮かべなかった。
 どろどろになるまで――どろどろになってもなぐり続けたのに。
 髪も角ももさもさの手や足も、全身泥だらけだったはずなのに、今は女の子の身体にかけらも残ってない。
 泥どころか服もない。
 なにも身につけず裸のまま、僕の上に乗っかっていた。

 ぜんぜん膨らんでいない胸をじっと見つめていたら、女の子がにやっと笑った。

「ようやく気づいたか。敗者は勝者にその魂をも捧げるのだ――と言いたい所だが、気絶しておっても勃つものをおっ勃たせた男気に免じて、身体一つで勘弁してやろう」

 温かくも寒くもなかったはずなのに、今は妙に温かい。
 温かいから、寒気がした。

 この温かさを、僕は知っていた。
 
「魔力を馬鹿食いしおって。おかげでわしはすっからかんだ。その代償に、すっからかんになるまで搾り尽くしてやる故、覚悟せよ」

 女の子は意地悪に笑いながらぐいと腰をひねった。
 僕の身体がびくびく震えた。
 背筋の寒気がそのまま腰から女の子に吸い上げられてしまうような感覚。

 嫌だ。

「……けひぃ!」

 僕は叫んだ。
 叫んで、起き上がって、女の子を突き飛ばそうとして、背中が浮かんだところであのもさもさの手に押さえつけられた。

「なんだなんだ。鳥のように鳴く奴め。そんなにわしの名器に感じ入ったか? 無理もない。何せわしは魔界一の――」

 嫌だ、嫌だ嫌だ、嫌だ!

「きぃ、きひぃー! ひいいいぃ!」

 女の子が何かしゃべっていたけど、暴れてもがく僕には何を言っているのか聞き取れなかった。
 
「……どうした。わしの具合が余りに良いから言葉にもならんとしても、悲鳴を上げるとは失礼な奴だな。せっかくわしが女体の良さを教えてやっているというにべぼっ」

 暴れたひょうしに拳が女の子のどこかに当たった。
 なぐった手がいたかった。
 つかまれた頭に爪が食い込んでいたかった。
 いたいのは気にならなかった。
 それよりもっとこわかったから。

「けぇえええ! かひぃいいい! ぎいぃいいいっ!」

 僕は身体に乗っかった温もりがこわくてむちゃくちゃに暴れた。
 腰から伝わる感覚におびえてめちゃくちゃに叫んだ。
 その二つから逃げようともがく僕に、拳が一発振ってきた。

「美少女の顔を殴るとは貴様正気か? 世界遺産に小便引っ掛けるクソガキか!?」

 やめてやめてやめてやめて!

「きぃいいいいっ! ひぃぃいい、ひきぃいいいいー!」

 なぐられた頬が痛い。
 内側までじんじん響く。
 なぐられるたびに星がぱちぱちとはじけてくらくらする。
 それでも僕は女の子を押しのけようと暴れ続けた。

「ええい――」

 僕の両手をつかんで地面に押し付けると、今度は脚で僕の腰をぐいと引き寄せてくる。
 その瞬間、身体の力が吸い上げられた。
 僕のちんちんがきゅっと締めつけられている。
 それだけで全身から力が抜けてしまう。
 腰だけがぶるぶると震えた。

 ずきずきと痛い。
 頭の中が痛い。
 叩き割っていたむ場所をひっぱり出してしまいたいくらい。
 なぐられたわけでもないのに、僕の目の前で星がぱちぱちとはじけた。

「ひ、ひ、ひっ」

 しゃっくりのような声をもらした直後に、僕のちんちんからなにかが出た。
 おしっことは違うどろどろとしたもの。
 母さんがそれを教えてくれた。

『それは射精というのよ』

 温かくて、気持ち良くて、教えられたばかりのその感覚に夢中になった。
 あの時とは違って、今はただ痛くて痛くて痛いだけだった。

「おお……わしの胎に精が満ちる。思った通り、良い精を溜め込んでおるな」

 僕がしゃせいしている間、うつ伏せに倒れ込んでいた女の子が顔を上げる。
 母さんと顔も年も胸も全然違っていたのに、とても良く似た表情を浮かべて笑っていた。 

「ふふ、どうであった? わしの奥の手、四段締めイソギンチャクの味は。下の口でありながら奥の手とはこれいかに。――ごほん。これが人間相手ではとても味わえぬ、魔性の器の味というものだ」

 女の子は勝ちほこったように笑って、ゆっくりと腰を回している。
 びりびりと頭の奥に残るいたみを感じながら、僕は抵抗する気力も失って泣いた。

「ひ、ひぃ〜……ひぃいいい〜〜〜……」

 いたいから泣いてるわけじゃない。
 悲しいから泣いている。

 どこにいるかもわからない。
 僕は誰なのかもわからない。
 なにになったのかもわかっていない。
 それなのに、女の子の身体はこんなに温い。
 それが悲しい。

 ひぃひぃとのどを鳴らして泣き続けた。



xxx  xxx



 わしは正直言って、困っていた。
 と言うのも、こやつの反応が一々予想外だからだ。

 ……むぅ。
 ちと調子に乗ってやり過ぎたか?
 ここで乗ってこなければまるでわしが強姦しておるようではないか。
 まああながち間違ってはおらんのだが、一度イッてしまえばその後はたいてい押し倒してくるものだが。

 ダークマターを垂れ流す元栓を、わしの膣内のごとくきゅっとしてやったまでは良かった。
 生き物を殺すだけの怪物は消えうせ、残ったのは元となった――頭と身体を好き勝手にいじくられた哀れな人の子が一人だけ。

 ちょうど魔力が尽きかけていたのもあった。
 空腹は最大のなんとやら。
 わしは本来外見年齢的に年上好みなのだが、実年齢的にはどいつもこいつも年下ばかりであるから誰が大年増だ。
 ごほん。
 とにかく、普段なら食指の動かぬ若い果実を味わおうと思ったのは、純粋に腹が減っていたからだ。

 わしにも、それなりの自負はあった。

 精通さえ達しておれば立派な男。
 男となれば、わしの名器に先っぽをちょこっと入れた辺りで獣のごとく。
 若いと言うならそれこそ猿のごとくわしの肉体にのめりこんで、明日からそれしか考えられなくなるロリコンの一丁上がり。
 だと言うのに、だ。
 よりにもよって殴ってまで拒絶とは、わしもちょっぴり傷ついたぞ。

「ひぃ〜〜〜っ。ひいいぃぃぃ〜〜〜っ」

 しゃくりあげる甲高い声が、わしの胸に突き刺さるばかり。
 いかにしたものか。
 泣き喚くばかりとは命乞いよりも始末が悪い。
 せっかく上質な精を胎に受け魔力も戻りつつあると言うに、これでは興醒めだ。
 少年に跨ったまま、殴られた顎を押してごきごきと首を鳴らした。

 柄にもない事はするものではないのか。

「やかましい」

 とりあえず泣き喚く子供を一発殴って黙らせた。
 肉を潰し骨を砕く殴り方ではなく、顎先をかすめ意識だけを綺麗に刈り取る。
 子供はぴたりと泣き止んで昏倒した。

 うむ。
 魔界随一の美少女魔法使いたるわしにとってみれば、子供をあやすなど赤子の手をひねるかのごとくだ。
 意識と共に萎れたこやつの一物の上から腰を上げて、わしはぱちんと指を一つ鳴らす。
 魔力で編んだわしの魅力を最大限に引き出す服を纏い、意識を失いくたりと倒れた子供を見下ろす。
 
 その胸に浮かんだ刻印。
 魔王の眷属に見初められた者に刻まれる魔力の徴。

「む?」

 見下ろすついでに、内腿を伝う白濁に気がついた。
 ついさっき搾り取ったばかりの精が溢れてこぼれ出ていた。

 膣内なら吸収効率も良いので、失っていた魔力も随分取り戻している。
 わしの燃費の良さもあるが、それ以上にこやつの精が上質という事もあった。
 怪物として向かっていた性質に細工してやった為だ。
 瘴気漂う死の土地を作り上げるだけの魔力を、ほとんど精に振り向けた。
 大河を塞き止める事は難くとも、支流を作り流れを変える事はさほど手間はかからぬ。
 魔物の魔力を注がれたインキュバスの枠を軽く超えて、これはこれで人外の領域だ。

 逆に言えば、わしであってもそれしか出来なかった。
 今更この子供を人畜無害な人間に戻す事は出来ない。
 呪いと祝福が複雑に絡み合い、無理に解呪を試みればやわな肉体など消し飛んでしまう。
 わしは内股からこぼれる精液を指で掬い取り、ぺろりと舐めた。

「……ふむ」

 まだまだ青臭い風貌の癖に、精液だけは特上とは。
 なんとも惜しい話だ。

 神の祝福とサキュバスの呪いをその身に浴びて、悪い冗談のような奇跡によって保たれている子供。
 魔の性質のみを持つわしでは生み出せぬ存在だ。
 捨てるには惜しい。
 そこらの魔物にくれてやるのも、人間の世界に戻すのも惜しい。
 拾ったのはそれが理由だ。

「ま、当事者は必要だろうな」

 子供をひょいと抱え上げて、わしは枯れた森を後にした。



「今帰ったぞー」

「なにゆえもがき生きるのか? 滅びこそ我が喜び。死にゆく者こそ美しい。さあ、我が腕の中で息絶えるが良い!」

「おい魔王。膝に下着が引っかかったままだぞ」

「やーめーてー」

「また大方闇の衣とか抜かして相方に目隠しでもして楽しんでおったのだろう。光の玉は見つかったか? 虹の橋の下に大層なものが二つぶら下がっておったろう。ん?」

「やーめーてーよー」

「ムカつくくらい肌をつるっつるにしおって。何をしておったのか、全く」

「ん。魔王と勇者ごっこ」

「なーにがごっこだこの当事者どもが」

「だってー。最近ちょっとマンネリ気味かなーと思って。初心に帰ってみたの。ものすごく新鮮だったわ♪」

「魔王と勇者でありながら、原点回帰が新鮮とはいかがなものか」

「私と彼って、一目惚れだったから♪」

「……まあ、どんなプレイをしておっても性癖にまで口は出さんが。時と場所だけは選べ? 働くのが馬鹿らしくなってくる」

「それはきっと、恋をしてないからね! バフォちゃんも恋をしたら私の気持ちが判るわ!」

「本体に言え。はぁ、全く。おぬしと話しておると、どうして魔王になれたのか疑問に思えてくる。歴代の魔王など知っただけで憤死するであろうよ」

「それは当然、時代を変える為よ。今まで勇者に討たれてきた魔王たちには悪いけれど、私は私の思い描く理想の為に戦うわ」

「その気概を失くさぬ間は、わしもそなたの手足として働こう」

「ん。期待してる。それで、私の前に戻ってきたという事は、期待していい答えを持ち帰ってきてくれたという事よね?」

「うむ。王国領内に発生した怪物は無力化してきた」

「……」

「そんな目で見るな。殺生はしておらんし、そのまま捨て置いたりもしておらぬわ。わしの住まいで休ませておる」

「ん」

「甘い奴め」

「えー。バフォちゃんも相当だと思うなぁ」

「あのな、魔王。甘い注文に応えておるのは逆らえば本気で泣くからだ。この魔王城に何重の結界を張っておると思っておる? 泣いたら暴れだすそなたの所為だこのあーぱー魔王!」

「きゃっとなってやった。ちょっとは反省してまーす」

「後悔をしろ、後悔を。今回の件、事後処理はこっちでしておくぞ。なにやらしち面倒くさい事になっておる」

「ん。バフォちゃんに任せる。……あ、そっか」

「なんだ?」

「バフォちゃんは甘いんじゃなくて、優しいのね♪」

「辞めよっかのー! 魔王の部下なんてー!」

「辞ーめーなーいーでー」



 なしはつけた。
 中身はあれだが魔王は魔王、諾を取ればおかしな所から横槍を入れられる事はなかろう。
 特に魔王の娘たちは母親に輪をかけたあーぱー揃いときておる。
 余所の事情にちょっかいを入れるのが大好物なあ奴らが、折角のおもちゃに目をつけんとも限らんからな。
 魔王だけあって一族郎党皆悉く厄介であるからして、いっそのこと厄介の代名詞にしてしまえばよいのだ。
 む、元々魔王とはそのようなものか。

 ぶちぶちと内心文句を垂れ流して根城に戻ったわしは、人の子を放り込んでおいた部屋へと向かう。
 先は少しばかり刺激が強過ぎたが、そろそろどつきあった身体も冷えてよい塩梅に落ち着いておる頃合であろう。
 ただ空腹を満たすためだけの交わりではなく、違った具合に楽しめる。

 頑張ったわしへのご褒美である。
 スペルマ(濃)

 膣内で味わった特上の精を思い返せば、足取りも軽く弾むと言うもの。
 蹄を鳴らしてスキップなぞしつつ、部屋の前までやってきた。

「今帰った」

 施錠の魔術を解除しつつ扉を開け放ち、そこに人の子の姿はなかった。

「ぞ?」

 呆気に取られた一瞬の空白。
 視線で部屋の中を追う前に、がすっと頭上から衝撃があった。

 予想外の衝撃にわしは手前に数歩よろけて、なにをされたのか理解した。
 奇襲だ。
 死角となるわしの頭上から襲い掛かってきた。

「――甘いわぁ!」

 蹄で床を踏みしだいて体勢を立て直し、わしはぐるんと首をひねった。
 身体のどこか――おそらく足であろう――を角に引っ掛けて、そのまま投げ倒す。
 狭い部屋の空中で、未成熟な体躯が木の葉のようにきりきりと舞った。
 そのまま壁に打ち伏せてやるつもりであったが、あろうことか四肢を張って貼りつきおった。

 どうなっておるのだこやつの手足は。

 奇襲してきたのはあの人の子だ。
 わしの頭上から、殆ど垂直に落下してきて蹴りつけてきおった。
 頭の上の角を撫でながら、流石に長く張り付いてはおれんのか壁からベッドの上に降りた人の子を苦々しく眺める。
 落ち着くどころか、やる気満々戦意に溢れてわしを睨み返してきおる。

「誰に喧嘩を売ったか、負けたことまですっかり忘れておるのか?」

「……かぁーっ!」

 猫科の獰猛さで咽喉を鳴らし、人の子は獣の姿勢でわしを威嚇した。
 山猫め。

「ならば良い。その喧嘩買ってやろう。以前と違うだなどと考えているなら以前通りだ! わしは子供であろうと平気でぶん殴れる美少女であるからして、殴り倒されてから後悔せい!」

「ふかぁーっ!」

 拳骨を握って見せたわしに、人の子は獣の素早さで襲い掛かってきた。

 襲い掛かってくるたびに、あっさり殴り倒してやった。
 幾ら魔術的に身体そのものが強化され、ただ戦いの為だけの訓練を受け続けたとはいえ、わしと人の子とでは土台が違う。
 わしとやりあうには戦闘経験が少な過ぎるのだ。
 可愛げの欠片もない癖に攻め方が素直過ぎて、余計に腹立たしい。
 一度や二度で懲りれば良いものを、部屋に訪れるたびに襲撃してきた。

 安息やら平穏とは程遠い日々を重ね、それこそが日常となっていった。

「ほれ、食え」

 わしはちぎった白パンをあやつの口に押し付ける。
 この人の子は人間味に欠けておった。
 腹が減っても飯を食おうとせんのだ。
 怪物化の後遺症で腹が減らんのか、空腹に耐える訓練を受けていたか、それともわしから食べ物を受け取るのが気に食わんのか。
 後者だ。
 何せ空腹で動けなくなってもわしが差し出す食事を払いのけおったからな。
 それゆえ食事のたびに魔術で拘束し、無理矢理食わせた。

「美味いか? 美味いであろう。わしの頬には負けるが、王国でも評判の柔らか白パンだ」

 身体の自由を奪い、ついでに顎を操り魔術的に咀嚼させる。
 以前、口の中のものをわしに吐きかけてきおったので、以後食事はそのようにした。
 人の子はただ自由に動く目だけを動かし、わしを睨みつけていた。

「わしに全敗しておる弱虫の分際で、わしに逆らうな。飯を食いたくなければ一度くらいは勝って見せろ。意見を通したいのならまずは力で示せ。ここではそれが筋だ」

 鼻で笑うわしに、あやつは睨む事をやめなんだ。
 本当に、憎たらしいクソガキであった。

 そこまで食事が嫌ならば、いっそ魔力の循環で補えるようインキュバスにしてやろうかとも思った。
 だがそれは無理だ。
 わしとてただどつきあって過ごしていた訳ではない。
 空いた時間はこの人の子の中で何が起きているのか詳しく調べ倒していた。

 前時代的な怪物化の原因は神の祝福が原因だ。
 よりにもよってというべきか、この人の子は神々を統べる主神の加護を得ており、それは今も尚失ってはいなかった。

 これが海神ポセイドンか、闘神アレス、もしくは愛の女神エロス辺りなら話は違っておったのだろう。
 まあ、最悪一歩手前で堕落神辺りでもこの際良かった。

 だが、主神である。
 今の魔王を毛嫌いし、前時代に戻したがっておる彼奴だ。
 人間の上位存在として、不倶戴天の天敵として、食物連鎖の頂点に立ち人間を適度に間引く。
 それは主神が求める正しさによって定められた魔物としてのあり方。
 故にこの子供はインキュバスとはならずに怪物と化した。

 サキュバス化した母親の注ぎ込んだ魔力が主神の加護によって捻じ曲げられ、あのような不細工な怪物へと仕立て上げる。
 よってわしがどれほどの魔力を注ぎ込んだところで、子供は魔物にとって理想のオスであるインキュバスとはならずに再び怪物と化す。
 属性が魔物に傾けばどう足掻いても凶暴で攻撃的なだけの魔物にしかなれぬ。

 厄介なのは、この子供を生かしておるのは主神の加護故でもあるのだ。
 魔物の魔力は、時代を遡れば人間にとっては猛毒。
 母親は子を生かす為に己が全ての魔力を注ぎ込み、結果的に命を救いはしたが毒として身体を蝕んでおる。
 命まで奪ってしまわないのは、主神の加護によるものだ。
 
 こやつの中で神と魔物の魔力が常にせめぎあい食い合っておる。
 うかつに手を出せば幼い身体など耐えられぬ。
 病に掛かった人体が、体内より悪しき病を取り除くために高熱を発し、その熱にうなされる。
 判りやすく言えばそういう事だ。

「厄介な事よな」

 わしは暴れに暴れてようやく眠りについた子供の傍らで、ため息を吐き出した。
 眠っている時くらいしか相応の顔を見せぬ。
 憎たらしい洟垂れのクソガキだが、今この瞬間は、無垢で純真な子供に過ぎなんだ。

 だからこそ、余計に際立つ。
 この人の子は眠りについても安息が約束されていない。

「ひぃ、きっ、ひぃーっ」

 悪夢にうなされ苦しめられる。
 もはやこの子供に逃げ場は残されていない。
 人間の業に魔物の業まで背負わされ、今にも押し潰されんばかりだ。

 わしは甲高い悲鳴を上げる子供の額に手を乗せる。
 触れる事はこの子供にとって恐怖を与える行為だが、心の底から拒絶しておる訳ではない。
 温もりの中で火に巻かれるという経験が恐れさせているだけで、温もりそのものを拒んではおらぬ。

「ここにおるぞ」

 眠っている子供に呼びかける。
 聞こえているのかいないのか。
 魔術など用いなくともわしの声が伝わっている事くらいは判った。

「もう一人ではないぞ」

「ひ…ひぃー……」

 触れれば確かに握り返してくる。
 人間も魔物も恐れおののく魔獣の手を握り、悲痛なだけでしかなかった悲鳴が和らぐ。
 悲しみの余り言葉まで失ってしまった子供を見つめて、そっとため息をついた。

「判っておるのか。わしはおぬしを使い魔にしようとしていたのだぞ」

 初めは物珍しさから連れ帰り調べていた。
 魔王やそれに従う魔物たち――或いはわしの本体も首を縦には振らんだろうが、やがて訪れる神との最終戦争を見越し、兵器としての魔物も必要だと感じておる。
 荒ぶるままに慈悲も容赦もなく、敵対者の咽喉に牙を突き立てる魔物らしい魔物。
 この子供を使い魔としていずれ役立てようなどと考えてもいた。

 そのような思考が、馬鹿馬鹿しく思えるようになったのはいつの頃か。
 自らの行いに慈悲がないと感じるようになったのはどうしてか。
 是とする事が出来なくなったのは、情が湧いてしまった故であろう。

 食わぬから食わせた。
 湯浴みを嫌がったので無理矢理押し込んだ。
 いずれも抵抗されたので、力ずくになった。
 だが、何もかも暴力によって従わせていただけではなかった。

 体内で神と魔物の魔力が常にしのぎを削っておるが故に、人間よりはるかに頑健で頑丈な肉体を持ちながらも脆弱という矛盾も抱えておった。
 おおよそ人間が掛かる病全てに抵抗を持つが、自らの魔力によって身体を壊す。
 オドフィーバと名づけた独特の持病を抱えておった。

 三日三晩高熱が下がらず、全身から汗という汗を流して呻くばかりの日もあった。
 治癒も復元も受け付けぬ。
 わしの魔術を施したところで、怪物としての本性が曝け出されて今度こそ自分を失うか、先に肉体が滅びるかのどちらかだ。
 水で濡らしたタオルで汗を拭い、失われていく水分を補給させるだけしか出来なんだ。
 顔を合わせればいつもいつもどつき合いをしていた訳ではない。
 オドフィーバを引き起こすたびに、ただ傍らで何も出来ない己の無力に歯噛みする日もあったのだ。
 
 使い魔として扱うのでは、この子供を切り刻んで好き勝手に継ぎ接ぎした人間たちと何も変わらんではないか。 

 呼吸がわずかなりとも穏やかに、悲鳴が寝息に変わるのを見届けて、ふと脳裏に言葉がよぎった。

『バフォちゃんは甘いんじゃなくて、優しいのね』

「……魔王め」

 わしは優しいのではなく、甘いのだ。
 魔王との魔力のリンクによって甘さまで移ってしまっただけだ。

 わしを冷酷な魔獣でいられなくしたのは、数多の血を吸ってきた鉤爪の生えた手を握り泣き眠る、たった一人の子供だった。






 そして今、憎たらしいばかりであった子供は年月を重ねて成長し、相応の姿に育った。
 魔力が安定しオドフィーバに悩まされることはなくなり、言葉を取り戻し、自らの意志も示すようになった。
 成長し変わったことは多々あるが、未だに変わらぬこともある。
 例えば、眠っている間に触れると握り締めてくるこの手。
 手の皮は分厚く、幾年にもわたる素振りでタコとマメが潰れては重なり硬くなった無骨な手で、あの時と変わらず握り締めてくる。
 図体は大きくなっても心は子供の頃とそう変わらなかった。

 わしはその手を握り返す。
 こやつがもさもさだと評した手で、鉤爪の先がうっかり食い込んで目を覚ましたりせぬように。
 悪夢にうなされ泣き出したりせぬように、わしはここにおると伝える。
 一人ではないのだぞと、今までそうであったように伝えた。

 力の序列に依った関係を一度やり直すために、魔獣から魔女へと姿を変えて新たに築いた。
 別人にはなれず振る舞いも特に変えたつもりはないが、魔獣ではないというわしの言をあっさり信じて疑わなかった。
 人為的に作り出された環境で育ったとはいえ、いやそれが故に、疑う事すら知らぬただの子供だ。

 わしがしたのは、子供を育てただけだ。
 一人での教育に行き詰まりを感じた為に使途を呼び寄せ、足りぬものを補い、全てを失ってしまった子供に世界とは何かを教えているだけに過ぎない。
 当たり前の事だ。
 世の親と同じに、手探りに試行錯誤を繰り返して一人の子供を育てた。

 ため息を一つそっとこぼして、寝顔を眺めた。
 普段は愛想を知らんむっつりスケベだが、眠っている間は無防備を覗かせる。
 今も昔も変わらん。
 いや、魔力的に安定した分以前よりもぐっと好転しておる。
 悪夢にうなされる事もない、穏やかに眠る子供のそれ。
 図体ばかり大きくなって中々乳離れの出来ん奴だが、まあ大目に見てやろうではないか。

 ようやく平穏な眠りを手にしたのだから。

「だが、まあ」

 もう少し疑う事くらいはせよ。
 わしのことを妹と認めておるくせに、姿を変えただけで魔女殿とはなんだ。
 わしの芝居に乗っておるのではなく、素で別人と思っているのであろう。
 アホか。
 幾らなんでもそこは気づけ。
 おかげですっかり明かしづらくなってしまったではないか。

 疑いを知らぬというのも善し悪しだ。
 魔獣の言葉を鵜呑みにするなど、先が思いやられる。
 楽園とは程遠いこの世界において、疑り深いくらいでちょうど良いのだ。
 
「世話の焼き甲斐がある奴だ」

 おぬしにつけた名の意味を、もっと深く考えてみよ。
 まだまだMBには程遠い。
 おぬしの行き着く先は、さしあたってそこだ。
 名に相応しいだけのものに成って見せよ。

「なあ、MBよ」

 今はまだどつき合えるだけだが、いずれはわしを打ち負かして見せよ。
 その時こそわしはおぬしを認めようではないか。
 Master Baphomet.
 わしがいずれ主人と仰ぐ者よ。

 未だその時は遠かろうが、長き道のりを歩むもまた楽しだ。
 歩むうちに様々な世界を目にし、触れるであろう。
 おぬしは変わり、わしもまた変わる。
 世を嘆く暇なぞ与えはせぬぞ。
 故に。

「新たな世界を知ろうではないか」

 繰り言に返事はなかったが、握り締めた手を確かに握り返してきた。

 わしも、ずいぶん甘くなってしまったものだ。








 
12/07/31 01:08更新 / 紺菜

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