連載小説
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その4 - 土曜日 PM -
 ○

 一途 一通

 ○


「ンっ――」

 ちゅくりと、湿った音がする。俺の視界にはカオルのつむじと背中と、後ろへ突き出した臀部しか映らない。だがもどかしげに震えるそれが、隠れて見えない右手が、カオルがどんな行為に及んでいるのかを如実に示していた。

(なんだこれ)

 今日何度目になるか分からない自問。

(朝起きたら女の子が風呂入ってて。女の子は俺が連れ込んだ家出少女で。俺は彼女の力になろうと思ったのにオカズになんかしちまって。そんで今度は彼女が、カオルが、)

 オナニーしてるのか。俺の前で。

「んあッ!」

 ひときわ高い嬌声に、俺の肩に添えられた手がびくりと動く。その動きに自失気味だった意識が戻った。
 手。俺の手はどうするべきだ。決まってる。

「ま、まてって! 待ってくれ! 俺はこんな、」
「だまっ、てっ、んぅ」

 下を向いたままカオルが言う。喘ぎ混じりの声だ。こんな彼女、想像だにしていなかった。
 だが、その程度で怯んでなどいられない。
 俺は右手を上げようとして、右肩がびくともしないことに気が付いた。カオルの左手が添えられているだけだというのに、まるで壁に根が張ったように動かない。
 ならば左手を、と振り上げかけたところで、衝撃。

「っうぐッ!」
「だめ」

 短く告げる声。カオルの頭が、俺の左肩にぶつけられた。それだけなのに、左肩も動かせなくなった。肘から下は動かせるが、力の基点を抑えられてはろくな力が出ない。これではカオルを押し退けられないだろう。

(狭すぎて脚もダメだ。外に出ようったって壁から動けねえ。どうする、どうしたら――)
「ねえ」

 頭を押し付けたまま、首だけ捻ってこちらを見上げるカオル。紅潮した頬とは真逆に、目が、ぞっとするほど冷たかった。

「動いちゃ、だめ。お返しなんだから」
「な、にを」

 これがお返し? 何の?
 カオルの雰囲気に気圧され、二の句が継げない。

「――んっ、良い子……♥」

 ほほ笑む彼女の瞳に、興奮を軽く越えて恐怖すら覚えた。俺の底を見透かして、ぐちゃぐちゃに暴き出すかのような苛烈さが覗いたからだ。情けないことに、その視線だけで抵抗する意思が削がれてしまう。
 ちゅくちゅくと水音がする。たしたしと滴る音もする。カオルの背中側から見れば、滑らかな脚線が、便器を中心にして卑猥なトライアングルを形作っていることが分かるだろう。

「ふっ、あっ、ん、すーっ、んっ♥、ふぅっ、すーっ、んぁっ♥」

 短く浅い呼吸が耳元で響く。そこには時折、深く息を吸うタイミングが混じった。肩の感触で分かるのは、カオルの鼻先が俺のシャツに埋もれていること。嗅いでいるのか、俺の匂いを。
 深く深く息を吸い、吸い、吐く。吐いては、吸う。俺というフィルターを介して、身体中の空気をすべて入れ替えようとしているかのようだった。
 水音は絶え間なく響き、くねる腰が尻肉を揺らす。俺の視界からはそれしか見えない。見えないが、じゅくじゅくと泡立たんばかりの音が、視覚よりもいっそ鮮明に彼女の具合を教えてくれていた。
 ごくりと、生唾を飲む。
 するとその振動を捉えたのか、規則的だった動きが一瞬、止まった。
 
「……んっ、ふっ、ふふっ♥」

 思わず漏れてしまったというような、彼女の忍び笑い。肩に押し付けた口が、笑みの形を作っている。

「触り、たい……?」

 カオルの頭と左手の間の空間。俺の顎下から、カオルの右手が持ち上がってくる。その指には、精液と見紛うような白濁がてらてらと纏わり付いていた。

「すごい、でしょ。ここ、こんなに――」

 ちゅくちゅくちゅくちゅく

 ぬたぁ………

 人差し指と親指に、花蜜の架け橋をつくって見せる。

「――こんなに、出来あがってるよ……♥ 君のが欲しくて欲しくて欲しくてこんなに――」

 舐め上げる視線。赤い舌がちろりと覗く。興奮に火照った口はいつもより饒舌だ。

「……でも、だめ。これはお返しなんだから……」

 右手が再び見えなくなる。
 ンあっとカオルの艶声が、俺の耳朶を濡らした。くちゃりと涎が糸を引いてるのが幻視される。熱気の閉じ込められた個室はもう、お互いの吐息が見えそうなほどに湿り気を増していた。
 首筋にじわりと舌が染み込む気配。カオルの口が、俺のシャツの襟もとを食んでいた。

「私の、は、んンっ、君の、なのに、」

 ちうちうとしゃぶりながらも声は止まらない。

「君は、それを、」

 ぢゅくぢゅくぢゅくぢゅく

「君、は、ぜんぶ、私の、なのに、」

 もはや意味のある言葉ではなかった。声音にちらつく苛立ちをぶつけるかのように、カオルの動きが徐々に激しくなっていく。シャツを咥える口が離れ、視線が俺の下半身へ注がれた。呼吸が短距離走者のように、浅く短くなっていく。

「だめ、だめ、ゆるさない、ぜったい、ぜったい、ぜった、い、ひぅ――」

 ひと際激しく腰が揺れた。いや、振り幅は段々と大きくなっている。何もないそこに、見えないものを捩じるかのように、カオルの腰はうねる動きを止めない。

「ゆるさ、い、か、らァ、ゃッ、いッ、あっあッあッ、あッ」

 弓なりにしなった背筋が、さらに深く沈み込んだその瞬間。

「あぁああああッ――!」

 プシッ

 彼女の切れ間から、抑えきれない欲情が漏れ出した。全身がギュッと緊張している気配。芯で爆ぜた衝撃が全身に広がっているようだ。俺の身体にしがみついて、痙攣の止まらない下半身をどうにか支えている。ぱちゃぱちゃと、水の滴る音がいやに耳に響いた。

 俺は、果てた彼女の顔を見届けることができなかった。


 ○


 思いなおし 開きなおり


 ○


 カオルの"行為"が終わり、上昇した熱は徐々に落ち着いてくる。とはいえ、閉め切った部屋は温度も湿度もけた違いになっていて、さながらサウナのようだった。息苦しくもあったが、動こうという気力が湧かない。
 なんだかひどく、やるせない気分だ。
「ハーっ……ハーっ……」
 カオルはいまだに、呼吸を整えようと肩を上下させていた。下を向き、胸元を握りしめて、荒く息を吐いている。
 俺の愚息は、空気も読まずにいまだ膨張していた。だが俺は、何であってもこれを解放する気はない。

(お返しって、カオルは言ってたな)

 お返し。
 言われたときは、お礼の意味だと思った。お礼代わりにオナニー見せるとかktkrとか一瞬でも考えた自分をぶん殴りたい。彼女は、報復の意味でそれを言ったのだ。
 何に対してか。
 決まってる。
 俺が保護者面をしてたことに対してだ。

(考えてもみろ。会って間もない野郎が、兄貴分気取りで仕切りだしたらどう思う? さも分かってる風を装って、頼んでもないのに施しをしようって言いだして……)

 イラつくだろう。お年頃なら尚更だ。
 そしてやはり、服を選んでいたあの時に、俺の下心ありありな態度に思い当たったに違いない。
 なんだ、やっぱり身体目当てなんじゃないかって。
 そこに階段での事故で、いよいよ間違いないと確信したのだ。とんだ下種野郎の手を借りるところだったと。だから、自棄になって、こんな真似をしてしまった。ほら、お前の欲しいものをくれてやるとばかりに。
 それに気が付いたとき、俺は頭が真っ白になった。口の震えが止まらなかった。

(なんて言って謝ればいい? いや、謝ってすむことなのか?)

 身勝手な態度でカオルをここまで追い詰めておいて。今更どんな言葉をかけろというのか。
 何も言えない。言えるはずもない。
 力なく立ち尽くす俺に寄りかかっていたカオルが、やがてゆっくりと動き出した。
 ほら、何か、なにか言え!

「あ、あの! あの、おれっ――!」

 喉がカラカラに乾いて、上手く口が回らない。それでも必死に声を出そうとしていたのに、カオルが目を向けてきただけで、ぴたりと息が止まってしまった。
 カオルは、ぷいと目を逸らすと無言で足元へ手を伸ばし、脱ぎ捨てた衣服を拾い上げる。

「……シャワー。借りますね」

 短く告げ、そそくさとトイレを出て行った。
 俺はそれをぼんやり見送ると、壁に寄りかかってずるずると座り込む。カオルがいなくなるのを見計らったかのように、息子が、ひと際大きく身体を揺すった。ネタが新鮮なうちにやっちまえと、徐々に心の声が大きくなっていく。

「情けねえ……」

 自嘲的な笑いしか浮かばなかった。もう俺は駄目かも知れない。
 だが、いつまでも失敗を引きずってうじうじとしていては社会人の名折れである。

 どれだけ凹んでも、やらかした事実は消えないのだ。

 最低最悪な休日を過ごしたとしても、憂鬱な月曜日はひと欠片の慈悲もなくやってくる。思い出せ、プロジェクトのせいで後回しにしていた宿題が両手で余るほどにあるじゃないか。それだけでテンションが駄々下がりになるが、それに負けないくらいの反抗心も湧いてくる。やるしかないのだ、やるしか。
 そして今の俺にやれることは、少しでもマシな休日に引き戻すことである。この問題を明日まで引っ張ってはいけない。今日中にケリをつけるのだ。
 差し当たって、まずは家事をこなそう。出掛けるときに干しておいた洗濯物を取り込まねばなるまい。
「やるぞ、おれはやるぞ……」
 うわ言のように自己暗示を呟く。この際何だって良い、気を紛らわすことが重要だ。
 のそのそと立ち上がり、トイレから出る。まだクーラーは付けていないが、中があまりにも暑すぎたせいで涼しさすら覚えた。
 カオルのことは、もう考えないことにする。部屋には泊めない、宿は提供する。それだけを死守するのだ。そうすれば、きっとどうでも良くなる。カオルにとってもそれが一番なのだ。立つ鳥に後を濁らせてはいけない。せめてこれくらいの意地は見せなくては。
 まっすぐにベランダに行こうとして、思い当たる。
(洗濯カゴ、洗面所のとこじゃん)
 洗面所すなわち脱衣所。少し時間が経っているのでさすがに生着替え中ということはないだろうが……。閉めきられた扉がひどく重たく映った。
(いいや。別に)
 迷う時間は少なかった。既にシャワーを浴びていたとしても、女子の聖域は近づくだけで罪深い。あらぬ誤解を掛けてしまう恐れもあるし、念を押しすぎることはないだろう。なにせ、あれだけのことをしでかした後なのだから。

(俺は、カオルに手を出したくない)

 言い聞かせるように強く思う。本音とは真逆の建前だ。でもこれが正しい。俺は正しいことをしたい。だからこれが本音で間違いない。繰り返し繰り返し、自分の本心を塗りつぶしていった。
 禁断の果実は、カオルだ。蛇の甘い誘いに乗ったイヴ、誘惑に負けたアダム。どちらの気持ちも今なら理解できる気がした。

 洗濯物を取り込み、おおよそ畳み終えた頃。からからと脱衣所の扉が開いた。タオルを頭に乗せた、Tシャツ1枚姿のカオルが出てくる。あえて大き目のサイズを着ているのかと思ったが、よく見ればワンピースのような服だった。噂のTシャツワンピというやつか。
「……」
 カオルはじとっとした目を俺に寄越した。俺の方から見ているのは良くない気がしたので、洗濯物に視線を戻す。
「そろそろ14時だし、宿を取りに行こう」
 あくまで作業のついで感を装った。さっきの行為は無かったのだと、雰囲気で誤魔化していく。
「駅の方だから少し歩くけど、まあ遠いってほどじゃないから。ご飯食べながらでもさ」
「ねえ」
 カオルが、被せ気味に口を開いた。
「私、出ていきたくない」
 それは何を思っての宣言なのか、俺はよく意味が分からなかった。でも関係ない、こっちの腹は決まってるのだ。
「駄目だ」
「どうして?」
「俺たちは会ったばかりで、君は子供だから。そんな関係で泊めるわけにはいかない」
「それは法律の話?」
「法律なんて関係ないよ。これはモラルの話」
 社会に身を置く人間として、倫理に背くような真似だけは絶対にできない。それを破ってしまったら、俺という人格のどこかが崩れてしまう。一度でも崩れてしまったが最後、先に待つのは爛れた未来だ。
 絶対に、それだけは出来ない。何より彼女のためにも。
「君がなんて言おうと、俺は譲らないよ」
「……っ」
 真っすぐにカオルを見つめる。彼女は唇を引き結んで、やがて視線を落とした。

「……私が、他人だからダメ?」

 初めて聞く、悲し気な声音でいう。
 なぜ、そんなことを言うのだろう。君は俺に呆れていたんじゃないのか? もしかして、俺はとんでもない勘違いをしているんじゃないのか?
 ぐるぐるとした不安が鎌首をもたげてくる。だが、それを見てはいけない。目先の感情に囚われてしまっては本末転倒だ。
「そんなことないよ。でもやっぱり……」
 関係性の薄い相手との付き合いにおいて、倫理観は重要な指標になる。出会って間もない相手に、互いの懐を晒していいはずがないのだ。それは信頼とは程遠い、もっと気味の悪い何かである。
 ああ、そうだ。カオルは会ったときにこう言ったじゃないか。
「"信頼はゆっくり築いていくものだから"、ね」
「――」
 今度こそ、カオルは泣き出しそうな顔で俯いてしまった。
 でも、俺は彼女に手を差し伸べたりはしない。創作世界の話ではないのだ。社会に身を置く限り、他人との付き合いには常に責任が伴う。俺はまだ、その責任を背負う覚悟ができていない。
 だから、俺は抱きしめてあげたい衝動を必死に抑えていた。


 ○


 1日目の終わり


 ○
 


 カオルをホテルに送り届け、自室に戻ってきた。瞬間、どっと疲れが押し寄せてきて、そのままベッドに沈み込む。
「……あぁー……」
 枕に顔を押し付け、盛大な溜息を吐き出した。
(やれたんじゃねえか……あんな美少女と……)
 裸を見て、オナニーまで見せつけられたのだ。これがギャルゲーなら今頃はこのベッドでズッコンバッコン励んでいるところである。カオルのような子が相手なら、棚の下に入れっぱなしのエチケット弾を空にする勢いで臨んだことだろう。
(バカやったんじゃねえかな……バカやったぞおれ……もっとうまくやってれば……ほんと……)
 悶々とした気分は収まらず、自然、カオルの身体が思い起こされる。
(すっげえエロかったよなぁ……最近の子の発育ってやべえなぁ……)
 あんな子がクラスにいたら、男子の平均学力は大いに削られるに違いない。彼女の後ろの席だったら授業どころじゃないし、帰ったら勉強する前に1発解消するまである。
 あるいはもっと身近に、会社の同僚とかだったらどうだろう。あんな子が働いていたら目で追ってしまって、仕事どころではないかも知れない。逆に彼女にアピールしようと必死になって取り組むだろうか。
 いや、チキンな自分にはそれだって遠すぎる距離だ。今日は相当に頑張った方である。
 いずれにせよ。もう会うことはないのだけど。
 ホテルは4日分で取ってきた。未成年のみでは取れなかったので、俺と彼女とでダブル部屋を取るしかなかった。もしホテルから連絡が来てしまったら平謝りするしかないだろうが、それ以外で俺があそこに近づくことはない筈だ。
(……ヤるか。もう、今日はいいや)
 もろもろの家事は片付いている。昼飯はまだだったが、食欲が湧いてこなかった。それよりも、主張し始めた愚息をどうにかしたい。
 雄々しい息子に比べ、己の心境のなんと女々しいことか。
(はぁ……情けねえ……)
 なんとも自分が嫌になってくるが、止める気はなかった。のったり身体を起こすと、パソコンを起動してお宝フォルダをクリックする。2次元はいいなあ、責任とは無縁のひたすら気持ちいいだけの世界だ。

 いざ、めくるめくインモラル世界へ。


 ………………
 ……………
 …………
 ………
 ……
 …
 …


 

 ○


 そして また明日


 ○



 ホテルの自室にたどり着き、カオルは手荷物を乱暴に転がした。苛立ちをぶつけるように、ベッドに倒れ込む。
「……はー……」
 枕に顔を押し付け、盛大な溜息をこぼした。
(何やってるの、私。あんなことして……)
 それでも我慢など出来るはずがなかった。なにせ、あんなに美味しそうに膨れて実っていたのである。あそこで二度目の空撃ちなど看過できる筈がない。あの場面は、力で押して押して押し切るべきだった。それなのに。
 カオルはおもむろに、ポケットから携帯電話を取り出した。着信はなく、ダイヤルも押さない。画面にはロック画像しか映っていなかった。
「……どうして邪魔したの」
 誰もいない部屋に独り言が響く。携帯電話もどこにも繋がっていない。だがカオルは、まるで話しかけるように喋り出した。

「当たり前だ。あれでやってしまったら、今度こそ取り返しが付かなかったぞ」

 カオルの口が自らの独り言に応える。その目尻はピッと吊りあがり、さながら怜悧な刃を思わせた。

「彼は義務感の強い人間だった。あのままでは追いこむだけだ。下手をうてば自首してしまうだろう」
「関係ない。骨抜きにして、そのまま理性を溶かせば良い」
「流石に無茶だよぉ。私の魔法、こっちに来てからすごく効きが悪いし。お菓子もバッチリ効いてたのに、魅了しきれなかったもの」

 声音が穏やかなものに変わる。目元はふにゃりと緩み、表情も柔らかくなっていた。

「こっちに来るだけでも相当な力を使ったのに。あんまり力押しするのって危ないよ?」
「……魔法の効果は、あなたの責任。私なら身体でどうにでも出来る」
「問題はそこだけじゃないって。もし彼に両親に挨拶したいなんて言われたら誤魔化しきれないよ。そしたらお母様に悟られちゃう」

 今度は快活な口調に変化する。瞳をパッと開かせた、年相応な幼さを思わせる表情だった。

「ようやく撒けたってのに、横やりが入ったら危険だって。お母様にバレちゃったらキタガミ獲られちゃうかも」
「追ってこれるかも分からないのに? あなたたちは慎重すぎるきらいがある」
「お母様の技量を甘く見るな。先んじて彼を捕えておかねば、横取りされる可能性は十分ある」
「ぜったい大丈夫ってなるまではいけないと思うなぁ。私たちは本気のお母様を知ってるんだから。忠告は聞くものよ?」

 次々に独り言がこぼれてくる。そのどれもが、口調も声音も表情もすべて違った。演技とは思えない、異様な雰囲気がそこにある。

「1対3だ。今回はお前の失策を認めるべきだな」
「ごめんね。でも魔法の効きが悪いことはちゃんと伝えてたでしょ?」
「堕とせる条件は整ってたよね。欲望に忠実すぎた結果かなー」
「……うぅー……」

 自分で言った言葉に自分で凹むカオル。傍からみればひどくシュールな光景である。

「……今度は、もっと上手くやるもん」
「それは4日後の話だ」
「明日は私の番! 魔法は、明日には発動してる?」
「ええ。ありったけのを仕込んでおいたから、彼があの部屋で寝泊まりする限り間違いないかな」
「その魔法、今日にも出来たんじゃないの……?」
「んー。睡眠をトリガーにしてるのは記憶が曖昧になってることがポイントだから……起きちゃってると無理かも」
「効果の実証は明日の話だ。影響を把握しないことには無駄撃ちもできん」
「魔力はそのために絞って使うってことだよね。大丈夫! 私の失敗は私たちで埋めるから」
「ふくざつ。っていうか」

 寝返りをうちながら、カオルは電話を強く握りしめた。

「階段のアレで、私たちは我慢できたの?」
「無理だ」
「無理ね」
「私も無理。ま、運が悪かったってことで」
「……ずるい」

 ひとしきり会話を終え、カオルは携帯電話をしまった。天井をぼんやりと眺め、やがて目を瞑る。
 身体の奥に意識を沈めていくと、別の意識たちが、ゆっくりと寄り添ってくるのが分かった。
 彼女たちは、自分の感情を理解し、共感し、その上で諭してくれる存在だ。慰めも叱責も本来なら言葉は必要ない。身体も心も精神も、すべて同じに在るからだ。独り言は、自分たちの考えを整理する手段に過ぎなかった。
 意識だけで彼女たちと交わるときは、自分は孤独ではないのだと、いつも穏やかな気持ちになれる。それでも今だけは、心のどこかが欠けたように寒々しかった。
 それだけではない。
 欠けた箇所から吹いてくる隙間風に煽られて、ふつふつと劣情の種火が勢いづくのを感じる。ヘソの下あたりがキュンと疼き、奥底ではどんどんと熱が生まれてきた。熱はやがて全身を巡り出す。これまで経験してきた発情の比ではなかった。

「……ん……あっ♥」

 誰かから発された興奮はたちまち他の意識にも伝播する。4人分の欲求を抑えるには、1人の身体はあまりにも脆弱だ。
 普段は日単位で入れ替えている意識のバランスが崩れる。4人全員の「顔」が表層に現れ、我先にと欲求を満たそうと動き出した。こうなってはもう止められない。
 獅子の意識が、乱暴に首を捻って枕に顔を押し付けた。深く深く息を吸っては吐きを繰り返し、衣服に顔を押し付けた時の感触を反芻する。一番匂いに敏感な彼女は、さきほど嗅いだ雄の体臭を脳裏から引っ張り出しては涎を垂らした。
 山羊の意識が、巧みに両手を操って全身を愛撫する。4人の中で最も好色な彼女は、他の意識も巻き込んで彼の睦言を妄想した。誰がどの体位が状況が台詞が好みかを把握した卑猥な想像は、じわじわと他の意識の理性を蝕んでいった。
 その影響を顕著に受けたのは竜の意識だ。誇り高くプライドも強い彼女は、欲に流されて浅ましい行為に没頭することを激しく嫌う。発情はしていても、それを理由に身体を鎮めようとはしないのだ。だからこそ、山羊は彼女を追いこむべく執拗に手を動かす。竜の意識は足のつま先まで力を張って耐え切ろうとしたが、両乳首をかりかりと引っかかれて息を零したが最後、ギュッと捩じられた弾みに呆気なく絶頂する。自棄になった彼女は右手の操作を奪い取り、しゅりしゅりと乳首を擦り出した。
 そして、今日もっとも思い人に翻弄し翻弄された蛇の意識は、誰よりも強い彼への執念をもって、彼に関わるすべての事象をひたすら思い出していた。
 朝、眠る彼の寝床に潜り込んで肺いっぱいに彼の匂いを吸いこんだこと。身体の火照りを冷まそうと浴びたシャワーの後で全身を彼の視線に晒されたこと。この世界のファッションを勉強して選んだ服装で彼が頬を赤らめてくれたこと。朝食の時の彼の狼狽っぷり、帰ってきてベッドに腰掛けた自分を窺う目つき、菓子を食べようと口を開けた自分への欲情した視線、そして何より、服飾店での淫猥な眼差しと、男子トイレで嗅いだ芳しい精臭。
 あれから全てが狂ったのだ。必死に欲情を抑え込んで、せめて夜まではと堪えようとしたのに、背後からのねちっこい視線で期待に震える足が階段を踏み外した。そこで、記憶が桃色に染まる。あの高ぶりが、五感でもって回想される。
 それらの記憶に呼応して、他の意識が次々に野獣の本性を曝け出していった。1人の興奮が他の興奮を煽り、1人が意識を失えば他が昇天したショックで揺り起こす。もはや自分たちでも制御できないオルガズムのスパイラルに揉まれていった。

「……キタ、ガミ……♥」

 熱い吐息と共に呟いたのは、誰の意識か。
 それは誰にも知る由がない。




<土曜日 了>
16/07/16 00:06更新 / カイワレ大根
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■作者メッセージ
次の更新でタグを更新します。
多重人格エロは想像するだけでも心躍りますね。
それが伝わっていたら嬉しいです。

次回は月曜にはあげたいです。たぶん。

拍手はいつでも励みになります。ありがとうございます。

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