読切小説
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大江渡仙人捕物帖
 一目惚れなんてありえない。
 少し前まで顔はおろか、存在するかどうかさえ知らなかった相手と恋に落ちるなんて、あり得ない。
 人には優しいか、根性があるか、年相応の落ち着きがあるか。酒飲みではないか、賭博はやらないか、女癖は悪くないか。過去に不審な点は、やましいことをしていないか。
 それらを全て知りつくし、吟味した上で言うべきなのだ。この人が好きなのだと。
 だから勘違いしてはいけない。これはあくまで調査だ。
 あいつが、あの悪党がどんな男になったか。それを調べるための。
 そう、あいつは悪党。私はあいつを逃がさな…あ、金平糖食べてる!
 そんなもの食べたら虫歯になっちゃうよ!昨日も歯を磨かなかったんだから!
 でも…にこにこ顔の天ちゃんかわいいなぁ…。


――――――――――


 黄色い太陽を見たことがあるだろうか。伊井田天冶(いいだ てんじ)にはそれが見えた。
 春の頃である。現代ならば三月の終わり頃とでも言おうか。肌寒い日が続いていたが今日に限っては温かく、太陽に顔が付いていればにこにこ顔になっていたところだろう。
 その太陽が西の空半ばまで来た、午後であった。天冶はふらふらの身体で仕事をこなし、上司と同僚に挨拶をしてからこの長屋に来たところであった。
 ここに、仙人がいると聞いて。
 紹介してくれたのは彼の上司である。ここのところ彼を取り巻く怪異を何とかしてくれる、ということで。
「で、でも仙人様ですか?」
「うむ。本人は少し違うと言っていたが、まあそんなものだ」
 彼女は少し誇らしげにそう言った。あいつならその道の達人だから、とも。
 確かに、仙人となれば心強い。
 しかし、と思った。しかし、仙人はこんな寂れた九尺二間に住んでいるのだろうか。普通は霊峰や雲の上にいるのではないだろうか。しかも『貸本屋』と何とも達筆な看板が出ているではないか。ついに疲労が頭にまで回ったかと天冶は目をこすり、続いて頭を叩いてみた。
 看板は消えなかった。
「おいおい、若人。手前の身体は大切にしろよ」
 その声に天冶は思わずわっと飛びのいた。彼の真横、明らかに数瞬前まで何もなかった所に一人の青年が立っていた。
 男は紺の作務衣に身を包み、風呂敷に包まれた大きな箱を背負っていた。天冶の背丈ほどもあるだろう箱を、男は涼しげな顔をして背負っている。
 顔。涼しげ、というのはあくまで表情の事で、顔のつくりでいうと『暑苦しい』というか『むさい』方だった。子供が筆で一文字を描いたような眉。垂れても切れてもいない目からは、ぎらぎらとした活力のようなものを感じる。
 そうしてしげしげと男を観察している間、男の方も天冶の方を観察していた。
「俺は手が後ろに回るようなことはしていないんだが?」
「え?」
「奉行所の人間だろ?」
 不信と警戒を僅かに滲ませた声だった。初対面の人間にそういう口を利くのはどうかと思ったが、考えてみれば天冶は戸口の前で自分の頭を叩いていたのだった。無理もない。
「いえ、おれ、いや私は上司にここに来るよう言われて」
「ああ、君か。お瑞の言ってた『イダテン』ってのは」
「じゃあ、貴方が?!」
「ああ」
 よく来たな、と男が屈託のない笑みで言った。先に上司が話を通しておいてくれたことと、自分の不審者疑惑が晴れたことに天冶は安堵のため息をついた。と同時に、今度は天冶の中に不安が滲んだ。
「あの、吉田兼好殿。貴方は本当に」
「ちょっと待て」
「はい?」
「今なんつった?」
「貴方は本当に仙に」
「その前!」
 はっと天冶は息をのんだ。確かに上司から聞いていたのだ。仙人の名前は、吉田兼好(よしだ けんこう)だと。確かに聞いたと思っていたのだが、間違えたのだろうか。
「えっと…吉田、兼好、殿」
 急にがっくりとうな垂れた男は両手をぽんと天冶の肩に置いた。
「お瑞から聞いたか」
「は、はい」
「そうか…覚えておいてくれ。俺の名前は、吉・田・兼・好(きちだ かねよし)だっ!」
 顔をあげた兼好には、怒りを無理やり押さえつけたつくり笑いが張り付いていた。その恐ろしさにひたすら頷く天冶から手を離し、兼好は入口に手をかけた。
「あんのアマ……いつか三味線屋に卸す………」
 ぱーんと気持のいい音と共に戸が開けられた。そこから覗くのは、何てことのない長屋の一室。
 実は天冶は少しばかり期待していたのだ。もしかしたら、扉の向こうには無限に広がる大広間があるのではと。だがそれも打ち砕かれ、天冶は更に不安になった。
「おい、戸口で片付く話じゃないだろ。入んな」
 部屋の中から兼好が促す。
 古人曰く、溺れる河童は藁をもつかむ。ここまで来てしまったのだから仕方が無い。心の中でえいやっと掛け声をかけて、敷居をまたいだ。


 ここで、この伊井田天冶という男について少しばかり話しておこうと思う。
 彼は、いわゆる『岡っ引き』である。岡っ引きと聞くと警官のようなものと思うかもしれないが、実際の所は同心に雇われた軽犯罪者であったという。
 彼が犯した犯罪、それは食い逃げである。別にやろうと思ってやった事ではない。
 まだ彼が飛脚として働いていた頃。『二八』と看板が出ている蕎麦屋で腹を満たしていた時の事。「ひったくりだ」と誰かが叫び、次いで人相の悪い男が目の前を通り過ぎた。
 途中のくだりは省くとして、正義感溢れる天冶はひったくりを追いかけ、見事捕まえた。岡っ引きに礼を言われ、意気揚々と引き揚げようとした、その時だった。後から走ってきた蕎麦屋の店主が天冶を指さし、こう言ったのだ。
「食い逃げだ!!」
 ひったくりに気をとられるあまり、支払いをすっかり忘れていたのだ。
 凍りつく空気。見つめ合う天冶と岡っ引き。
 何故か「誤解だ」の一言が言えず、天冶は走り出してしまった。
 この男の凄みといえば、その脚力である。今日、最も足が速いと言われるのは誰もかれも物の怪であるが、この男も負けてはいない。追ってくる狗人や猫人のほとんどをふり切ったのだ。その足で。
 ついには屋根の上を走る影と一騎打ちとなった。
 町を駆ける天冶、それに並ぶ影。
 交わる事のない平行線かと思われたが悲しいかな、体力というものが多分に漏れず天冶にも存在した。力尽きた天冶はついにお縄を頂戴し、百叩きでもくらうかという時になって岡っ引きとして雇われたのだ。他でもない彼を捕まえた猫人に。
 それからは江渡にある二大奉行所の一つである北町奉行所で働くこととなった。件の猫人が束ねる『追組』に配属された彼はその脚力を遺憾なく発揮し、スリを行った兎人やひったくりをやらかした狗人を次々と捕まえた。それで彼の俊足を称え、名前をもじってついたあだ名が『イダテン』というワケだ。


「で、その韋駄天さんに何があったのかね?」
 兼好は白湯の入った湯呑を天冶に押しやった。だが天冶は礼を言っただけで手を付けない。
 ぐるりと部屋を見まわす。妖しげな文様が壁にあったり天井に龍が寝ていたりするわけでもなく、何の変哲もない部屋である。天冶は不安になって訊いた。
「あの、その前に。貴方は本当にその、仙人様なんですか?」
 それを聞いた兼好は少し困ったような顔をして何かを探し、火鉢の所で目をとめた。
 薬缶を手近な本の上にのせると、五徳の足元で赤々と燃える墨が姿を見せる。ふっと微笑んで躊躇いもなくそれに手を伸ばす兼好。天冶が警告の声を出す前に、その手が一番赤い墨に触れた。
「禁」
 兼好が呟くやいなや、ぼしゅっと音を立てて火が消えた。触れていた墨だけではない。火鉢にあった全ての墨から熱が消え、あたかも火など点いていなかったかのようにひんやりとなってしまった。
 唖然とする天冶を見て、兼好が満足気に笑った。
「まあ、仙術が使えるというだけで仙人とは少し違うんだがな。道士とでも言うべきか」
 もう一度道具で火鉢に火を入れ、薬缶を戻しながら兼好は先を促した。
「で、何があったんだ?」
「今ので話しづらくなりましてございまする」
「何故。というか何だその喋り方は」
「仙人様にお頼み申しさしあげてよろしいものかどうか」
 未知の力を見せつけられ、滅茶苦茶な言葉を並べてしまう天冶。
 兼好は「固くならなくていい」とうんざりしたように言った。
「自慢じゃないがな、『妻が男を囲っていないか調べて欲しい』と頼まれたこともあるんだ」
「せ、仙人様に?」
「あと、『子供が飼ってた鰌が逃げたから、一匹とってきてくれ』とも」
 切なげに笑う兼好。なんと図太い依頼主達なのだろう、と天冶は呆れたように溜息をついた。
「じゃあ、貸し本屋というのもやはり世をしのぶ…」
「いや…ホントは作家なんだけど……食えなくて……」
「あ、ああ………」
 兼好はがっくりとうなだれる直前で持ち直し、少しばかり顔を引き締めた。
「で?何があった?」
「あ、はい、あの……」
 促されるままに、天冶は話し始めた。


 初めにおかしいと思ったのは三週ほど前の事である。天冶はいつもの通り管轄の見周りを済ませた所だった。
 そこである我慢が限界に達してしまったのである。それは例え天子であろうとも耐えられないもので、百戦錬磨の将さえも打ち勝てないもの。
 すなわち尿意。
 やむなく近くの路地に入り、膀胱に拘束しているたっぷりのそれらを放出する事に決めた。下帯をゆるめ、珍宝を外に出して放出を開始したその時だった。人が来たのである。
 商人風の男は天冶の姿を見ると一瞬嫌そうに顔をゆがめたが、すぐに仕方ないという顔になって笑った。
「お兄さん。今度はきっちり厠でやってくんなせぇ」
 相手が男とはいえ、天冶にも人並みの羞恥心というものがある。恥ずかしそうに首をすくめ、早く終われと心の中で自身に毒づいた。商人風の男はやれやれと言わんばかりに嘆息すると、彼に背を向けて通り過ぎようとした。
「あ、そうだ」
 突然男が言った。何事かと天冶がそちらを見ると、男がにこにこ顔で近づいて来る。だが、異様に近い。近すぎる。鼻息が顔に当たる距離になった時、男が低い声で呟いた。
「天冶、見ておるぞ」
 そう言うと何事も無かったかのように踵を返し、行ってしまった。
 天冶はその男の事を知らなかった。だがもしかしたら以前に会った事があるのかもしれない。言葉の意味も気にせず、疲れてるのだろうと断じて下帯を締めた。


 それから三日ほど空いた頃であろうか。
 天冶はまた別の我慢が限界に来ていた。それは人間という種の存続に必要なもので、三大欲求の一角を担うもの。
 すなわち、性欲。
 とはいえ、天冶には吉原に行く金も暇もなければ恋人もいない。こういう場合に男がやることは決まっている。直接的に言えば、手すさび。
 隠していた春画を取り出し、励んでいた時だった。もう少し、というところで廊下に元気のよい声が響いた。
「天冶さーん?居ますかぁ、天冶さーん」
 彼と同じ『追組』の岡っ引き、兎人のお築(おつき)の声がした。あわただしい足音がこちらに近づいて来る。天冶は一気に萎えたイチモツを慌ててしまい、次いで素早く春画を隠した。正座をしたのと、障子が盛大な音を立てて開けられるのとはほぼ同時だった。
「あれ、天冶さん。何でそんなに改まってるんですかぁ?」
 くりくりとした目で不思議そうに天冶を見つめる。
「いやあ、なに。なんかこう、瞑想でもしたくなってな」
 と、お築が急に顔をしかめた。そのままひくひくと鼻を動かす。何かを探るように彼女の長い耳もぴくぴくと動く。
「…何か臭いませんかぁ?」
「何?!」
「イカ臭いというかぁ…栗の花というかぁ…」
「…お築、なんの用なんだ?」
 男の嗜みとはいえ、これがバレたら末代までの恥である。いささか無理があるとは思ったが、天冶は話をそらすことにした。上手くいったのには彼も驚いたが。
「あ、そうでしたぁ。お瑞姐さんが呼んでますよぉ。夜回りに行くってぇ」
「お、おお。そうか」
「あたしも準備するんで、天冶さんもぉ」
「うん。わかった」
 くるりと踵を返した宇崎の後ろ姿に安堵のため息を静かに漏らした、その時だった。
「あ、そうだ」
 天冶はびくりと肩を強張らせた。まさか「次からはちゃんと換気してやって下さいね」などとでも言われるのではなかろうか。そんな事があったら今すぐ首をくくろうと思っていたのだが、違った。
 にこにこ顔のお築は彼の耳に口を寄せ、無機質な声で言ったのだ。
「天冶、見ておるぞ」
 ぱたぱたとあわただしく宇崎が出ていく。
 天冶は気味の悪い寒さと居心地の悪さを抱え、呆然としていた。


 それだけではなかった。ここしばらくはあらゆる者が彼に『忠告』してきた。町の商人、道端の浮浪者、やくざ、果ては彼の同僚までもが言うのだ。「天冶、見ておるぞ」と。更に奇妙なのは、誰一人としてその言葉を覚えていないということだ。一度お築を問い詰めてみたのだが、彼女は首をかしげるばかりだった。
 そう語る天冶の顔からは、疲れがにじみ出ていた。当然だと兼好は思った。毎日毎日、あらゆる者から「お前を監視しているぞ」と囁かれるのである。休まる時もあったものでは無いだろう。仙術の修業を何百年もした兼好でさえ遠慮したいと思った。
 しかし、同時に兼好は不思議でしかたがなかった。果たしてこのやつれた青年を監視して得るものは、一体全体何なのであろうか。聞く限りでは本当に『見ているだけ』だ。嫌がらせも何もしない。
「天冶。お前さん、生まれは何処だね」
「信濃の猟師の家です。ずっと昔は武家だったそうですが」
「ふむん」
 別段高貴な身分でも生まれでもなし。
 兼好は悩ましげに唸った。
 そんな彼を見た天冶は大きなため息をついた。やはりだめなのかという失望感が疲労を加速させた。
 兼好はしかめっ面のまま天冶の前にあった手つかずの湯呑をいったん下げ、立ち上がって箪笥の中から小さな薬包紙の包みを取り出した。包みの中の白い粉を新しい白湯に耳かき一杯ばかり溶かして、天冶に差し出した。
「飲みな。少し温かいものを腹に入れるといい」
 差し出された物をつき返すなどという無礼なことは、天冶にはできない。かたじけない、とそれを両手で受け取った。
 湯気に乗ってふわりと水菓子のような甘い香りがする。ふうふうと冷ましながらすすると、仄かな甘みが口の中に広がる。美味い。飲み込むとじんわりと身体が温かくなって、少しばかり元気が出てきた。
「…美味いですね」
「だろう?」
「ええ。何なんですか、こいつは」
「実は四つ目屋の…」
 げほげほと天冶がむせ返った。危うく湯呑を落としそうになる。
 四つ目屋、というのはいわゆる『大人の玩具屋』だ。十八歳未満お断わりなその店には、張り型から媚薬までいかがわしい物が山とある。そこから手に入れた粉など、多分に漏れずいかがわしいものだろう。
「嘘だよ」
「兼好殿!」
 悪戯っぽく兼好が笑った。何だかおかしくなって天冶もつられて、ここに来て初めて笑った。
「さて、続けよう。ここ最近、変わりは無いかね?」
「変わり、ですか?」
「ん。何でもいいぞ。家の畳の下に人が埋まってたとか、天井裏に奇妙なお札があったとか」
「それ全然些細じゃないですよ」
「んん、まぁ、どうだい」
 ううむ、と天冶は顎に手をやった。が、実際のところ考えるほども無いのだ。精々、ここ最近は捕物で前より忙しいくらい。彼はそれを正直に言った。
 兼好は僅かに目を細め、ふうん、と言っただけだった。
「それで、俺はどうすればいいですか」
「はっきり言おう。皆目見当がつかん」
 あっさりと言い放った兼好は天冶に背を向けて文机につき、筆を執った。そんな、と抗議をしかけた天冶を片手で制して大きく深呼吸をする。
 突如張り詰めた空気に、天冶の背筋が自然に伸びた。
 世界から音が消えたのではないかと思うほどの静寂が訪れる。
 一瞬か、はたまた永遠か、不思議な緊張感が部屋を支配していた。
 やがて筆を置いた兼好は一枚の符を差し出した。
「これは?」
「念のため、お前さんを護るものだ。持っているだけでいい」
「はぁ」
 天冶が符を見たのは初めての事であった。短冊状の紙には、見たこともないような文字が乱舞して模様のようになっている。果たしてこんな紙切れ一枚に、自分を怪異から守る力があるのだろうか。訝しげな表情からそれを読み取った兼好は、不敵に笑った。
「雷法が込めてある。悪意を持った者がお前に触れようものなら、天帝の雷が放っておかない」
 ううん、と天冶が唸る。雷法や天帝と言われたところで良くわからないのだが、兼好の自信を見る限り安心はしてよさそうだ。少し心強さを覚えながら、それを懐にしまった。
 だが、と兼好は苦々しげな表情で続ける。
「あくまで対処療法だ。原因がわからなきゃ、お前の監視は続く」
 兼好は先程の粉末を別の薬包紙少し分け、天冶に差し出した。
「桃花源の妙薬だ。しんどい時に飲むと良い」
「え。いいんですか」
「余ったら返してもらう。それに劇薬だから量に気をつけろよ」
 天冶は礼を言ってそれを受け取った。


 しばらく雑談をしていると、静かに入口の戸が開いた。
 紋付の羽織に二本差しの女が立っていた。頭の上にある三角の耳と特徴的な手足、そして背中でゆれる虎縞の尻尾。それらが彼女は猫人であることを物語っていた。
「話は済んだか」
 女にしては少し低い声で彼女は言った。
「あ、お瑞姐さん」
「よお、お瑞」
 思い思いの挨拶に戸口の猫人、北町奉行所の同心である苗野瑞(びょうの たま)は頷いて答えた。彼女が件の『天冶を捕まえた猫人』である。
「今来たのか?」
「いや。実はわりと初めの方から話を聞いていた」
「……ホントか?」
「ああ。やはりかわいい部下の事は気になるものだ。イダテン、私は兼好と話があるから、先に帰っていてくれるか」
「あ、はい。わかりました」
 天冶は兼好に向かって深々と頭を下げてから立ち上がり、草履に足をつっかけた。
 一方、お瑞を見つめる兼好はどこか腑に落ちなさそうな顔をしていた。
 天冶と話していた時間は少なくとも一時間。その間ずっと戸口に立っていたのならわかりそうなものだが、彼女の気配を一切感じなかった。そもそも、別にやましい話でもないのだから入ってくればよかったのに。
 兼好の知るお瑞らしからぬ行動。ということは。
「おい、天冶」
「はい?」
「できるだけ早く手を打つ。お前さんも一日ぐらい仕事を休んで付き合う覚悟でいてくれ」
「は、はい」
 妙薬の効果で疲れが抜けたこともあってか、天冶の心は物事を前向きにとらえられるようになっていた。この人ならきっと何とかしてくれるだろう、と兼好の言葉に頼もしさを覚えた。
 失礼します、と来た時よりも元気な声で天冶が言った。その時だった。
「あ、そうだ」
 お瑞が唐突に出した抑揚のない無機質な声を聞いて、二人の男は息をのんだ。天冶は恐れを、兼好は忌々しさを込めた視線をそれぞれ彼女に向け、次の言葉を待った。
 にやっとお瑞の顔が歪み、天冶に近づく。
「天冶、見ておるぞ」
 さらにそれだけではなく、天冶の懐に手を突っ込んだ。兼好が先程渡した符が、ゆっくりと引きずり出される。お瑞が一層不敵に笑った。
「このような物、無駄な足掻きと知れ」
 くしゃりと握りつぶされた符が、土間に転がった。


「よかったのか、丸腰で行かせて」
「ああ。こうなっちゃあ、もうどうしようもないだろ」
 羽織を脱いで寝転がったお瑞の視線の先では、文机に向かっている兼好が握りつぶされた符をまじまじと見つめていた。
 あの後、別の者がお瑞に化けているのではと疑った兼好だが、今こうして畳を転げまわっているお瑞はまぎれもない本人であった。術者の『気』を探ってもみたが、お江渡じゅうに撒かれていて特定もできなかった。できる事といえば、お瑞に呪除の符を渡して、それでおしまい。
 うつ伏せになったお瑞が心配そうな顔で頬づえをついた。
「相手は手強そうだな」
「そうか?」
「お前の符が効かないじゃないか」
「……はてさて、効かなかったのか」
 符の皺を伸ばした兼好は、そこに書かれた文字とも図形ともつかないものを指でなぞった。
「それとも、それ以前の問題なのか」
 お瑞はすぐに思案顔になり、癖っ毛をばりばりと掻き毟る。それでも答えを見つけられずに体を起こして胡坐をかいた。
「どういうことだ」
「監視してるヤツに悪意なんてそもそも無い、とか」
「まさか」
「木に立って見る、と書いて親と読むぞ」
「物事には限度というものがあるだろう」
 ううむ、と兼好は首をひねった。
「化けているという可能性は?」
「それ出来るモンが近くにいたら、天冶の『気』にも変化があるはずだ。それも無かった」
「ふうむ」
「…あいつがイカレちまってるって線もあったんだが」
「イダテンが狂ってるとでも言うのか」
「最近忙しいらしいじゃないか。初めに会った商人がたまたま変人で、疲れた心がそういう幻覚を見せたんじゃないかと思ったんだ」
「お築の件もか」
「身近な人間ほど頭の中で形作りやすい。だが、そうでない事を実際に俺も見ちまったからなあ」
「あたいは覚えてないけどなァ」
 お瑞は四肢を畳の上に投げだす。それと同時に兼好が微笑を含んだ唇で振り向いた。
「戻ってきたな」
「何のことだ」
「口調」
「あ?ああ、そうだな。うん」
 目をつぶって大きく深呼吸をするお瑞。ゆっくりと瞼をあげた彼女の表情は、先程の引き締まった表情が嘘のような明るい顔になっていた。
「やー、あまりの忙しさにがっちがちになっちまってるんだよう」
 ぐるぐると肩を回して疲れを訴えるお瑞。その声もどこか楽しげなものに変わっている。
 お瑞という女はこういう輩だった。
 『猫を被る』という言葉は『獰猛さを隠し、大人しく見せること』であるが、この女の場合は違った。外では頼れる同心として八面六臂の働きを見せるが、兼好の家に来るとこういった半ば退行にも似た状態になる。
 兼良の呼び方も外では「兼好(かねよし)」だが、一歩彼の家に足を踏み入れると「ケンコー」だ。
「やっぱよー、ケンコーの家は休まるねぇ。おいそこの仙人、お茶」
 畳の感触を確かめるようにゴロゴロと転げまわる彼女の額に、兼好の手刀が振り下ろされた。

 三十路の自覚を持てだの、よそ様にケンコーと吹き込むのはやめろだの叱った後。
 なんだかんだで白湯を入れてやってしまうのは甘いんだろうな、と兼好は思う。自分専用の湯呑を受け取ったお瑞は、一生懸命その中身を冷ましにかかった。
「しかしよ、天冶に限らず何でそんなに忙しいんだ?」
「いやさあ、ふー。新しいお奉行がさ、ふー。やり手でさ、ふー」
「喋るか冷ますかどちらかにしなさい」
「やーん。ケンコーが入れてくれたのに、そんなことできなーい。はっ!入れるって何か卑猥な響き!」
「流すぞー。新しい奉行って?」
 むう、と口をへの字に曲げてお瑞は湯呑を置く。
「二・三週間ぐらい前に来たんだよ、前の『赤鬼奉行』の代わりが」
 『赤鬼奉行』というのは勿論あだ名である。本名、佐羽木朱根(さばき あかね)。彼女はアカオニでこそあるものの、えらく涙もろい奉行として有名だった。
「病気でもしたのか、佐羽木さん」
「いんや。おめでただよ」
「へー。あの人がねぇ。で、新しい奉行ってのはどんなヤツなんだ?」
 その言葉を聞くやいなや、お瑞の目が輝いた。まるでよくぞ聞いてくれましたとでも言わんばかりに。
「それがよ、わからないんだ」
「わからないってのは何なんだよ」
「変装の達人でさ、会う度に顔が変わるんだ。ある時は旗本、ある時は遊郭の化け猫遊女ってカンジにさ。声もだぜ?誰一人として本当の姿を見た者はいないんだ」
「…それって変装なのか?」
「うん。本人が言ってた」
 むむむ、と兼好の太い眉が今にも一本に繋がらんばかりに寄せられた。
「で、やり手ってのは何なんだ?」
「いやさ、毎日毎日ここに行けって命令がくるんだよ」
「で、そこに行ってみると?」
「犯罪が起こっている」
 はあ、と感心したように兼好が嘆息した。
 預言者というわけではなさそうだが、とにかくすごい。一体どういうタネがあるというのだろう。透明になって町にまぎれているとか?それとも千里眼でもあるのだろうか。もしくは安倍清明よろしく式神でも使っているか。
 そういえば、と思った。彼の師匠は『天耳通』や『他心通』といった力を持っていた。
 天耳通というのは聴覚を研ぎ澄ます能力で、他心通というのは心を見抜く力である。はっきりとは言えないのだが、式神とこれらを組み合わせれば犯罪の発生場所を言い当てることぐらいできるのではないだろうか。
 試しに自分もやってみようか。
「お奉行、出身が大陸ってことは?俺の同門かも」
「ないなぁ。京から来たって、上の方から聞いてる」
「京……」
 兼好の脳裏にある場所が浮かんだ。仙人ではなく物の怪が仙術の修業をしているという場所。
 物の怪。
 ふと思い出した、「天冶、見ておるぞ」という忠告。
 …いや、まさか。
「お奉行、いつ頃来たって?」
「二・三週間前」
 まさか、とまた思った。天冶に監視が付いたのも三週間ほど前だと言っていた。
 出来過ぎているとも兼好は思ったが、疑わしきは調べよと師も言っていた。
「でもなあ、仕事の鬼ってのはヤだよなぁ」
「何のことだよ」
「いやさ、今日の為に天冶を早引きさせたいっつったら、お奉行はダメだの一点張りだぜ?こうしている間にも悪事は行われている。それを食い止めるのが我らの役目だってな。ああ、ヤダヤダ」
 ゴロゴロとお瑞が畳の上を転がりまわる。
 兼好の眉間に出来ていた皺が消えた。
「お瑞、明日天冶を借りたいんだが」
「え…」
「ついでに、あいつの髪の毛も…」
「そんな!ケンコーがそんな趣味だったなんて!」
「なに?」
「そんなにヤローのケツが良いのか!?あたいにだって一応後ろの穴はあるぞ!」
 威勢よく立ちあがったお瑞は袴の紐に手をかけた。すとんと紺色のそれが畳の上に落ち、続いて白襦袢が脱ぎ捨てられ、胸に巻いたサラシと女下帯があらわになる。この間、およそ二秒。
「ちっげーよバカたれ!脱ぐな!」
 さらにお瑞が素っ裸になり、仁王立ちするまで丁度一秒。
「いいから!あたいなら一日と言わず、死ぬまで借りててもいいから!むしろずっと突っ込んだまま」
「やぁめんかぁー!」


――――――――――


 翌日。
 所変わってある茶屋の座敷。
 午後の日差しの元、表では人々がせわしなく行き交っている。
 女の笑い声が遠くに聞こえ、子供の元気な声が路地裏に入っていった。
「はーいー。団子三つー、おまちどうさまー」
 蛞蝓人ののんびりとした声がして、団子の乗った皿が座卓の上に置かれた。ヨモギを使った草団子を四つ串に刺し、その上からつぶ餡をかけた代物である。
 兼好の奢りであるのをいいことに、向かいのお瑞があんみつを追加しようとする。それは手前で払えよ、と兼好が言うと彼女は眉をひそめた。当然だ、と言わんばかりに兼好が団子に食い付き、お瑞がそれに続く。餡の甘みに続いて青草の香りが口いっぱいに広がった。
「あ、そうだ」
 蛞蝓人が、先ほどとは違う声色で言った。表情のないまま兼好に近づく。
「天冶は、どこだ」
 そちらを見ることなく、にやりと兼好が不気味に笑った。
「さあね。自分で探したらどうだ?」
 蛞蝓人は舌打ちをすると、踵を返して店の奥に戻っていった。一方の兼好は茶を啜りながらそれを横目に見送る。
「やっぱり、彼女も自覚はないんだろうな」
「おい兼好。どういう事か説明してくれ」
 お瑞が団子に食い付きながら、不思議そうな顔をした。
「相手が化けているって可能性も捨てきれなかったが、他人の身体に便乗してるってのが今の俺の考えだ」
「うん。しかも、操られた方は記憶が無い」
「で、だ。例えば、今俺がお前の身体に便乗すると、俺には何が見えると思う?」
 ふうむ、とお瑞は食べるのを止めた。兼好と団子との間で視線が往復する。
「変わらず、この団子が見えるんじゃないのか?」
「半分正解。おれに見えるのは、『お前の見る』団子だ」
「『私の』という点は重要か?」
「ああ。俺の目は生き物の気や地脈を見る事が出来るが、お前に便乗するとそれが見えなくなるんだ」
「成程、つまり本当に私の視界を借りる事になるんだな。便乗、か」
 納得顔のお瑞を見て兼好は満足そうに頷き、声をひそめて言った。
「さて問題だ。相手は凡人にできない事ができる術者」
 串に刺さった団子の最後の一つを口に入れてから、兼好は串でお瑞を指した。
「ヤツが俺の術、凡人には見えぬものを見破るには、どうすれば良いか」
 同じく最後の団子を咀嚼していたお瑞がごくんと喉を鳴らし、彼と同じように串で指した。
「…実際に、自分の目で見るしかない」
 にやっと笑った兼好は女給を呼び、あんみつを追加注文した。
「そこで計画通りにやるというわけさ。御褒美のあんみつを進呈しよう」
「ふふふ。すまんな。おい君、ついでに皿を下げてくれ」
 はあい、と間延びした声を出して、蛞蝓人が団子の消えた三枚の皿を片づけた。

――――――――――

 おかしい。天ちゃんがいない。何処にも。
 おかしい。こんなの変だ。
 仙人の所に行った時に何かされたんだろうか。昨日のお札、は違う。あの粉薬も、変な感じはしなかった。
 天ちゃんはお瑞と今日も仙人の所に行って、それから姿を消した。仙人とお瑞が長屋から出てきた時、中には誰も居なかった。どうして?
 お瑞を借りようにも、天ちゃん本人を借りようにも上手くいかない。何かが私の侵入を阻んでいる。おそらく仙人の符だ。
 そしてあいつは不敵に笑って団子を食べている…。
 団子。
 なんであいつは三つ団子を注文したんだろう?
 確かに仙人が食べたのは一本、お瑞も一本。なのにいつの間にかもう一本、皿の上から消えていた。
 …まさか。
 それを確かめるには私が行くしかない。罠かと思った。けどそうじゃなくて、本当に天ちゃんがあいつに何かされていたら。
 私は変化を解いてから障子を開け放ち、閻魔帳もほっぽり出してお江渡の大空に飛び出した。あいつらの居た所まで、全速力で飛ばす。

「む」
「どうした?」
「来るぞ。案の定、奉行所からだ。準備しろ」

 仙人の方も気が付いたらしい。のぞむところだ。
 姿を消して雲にとどかんばかりの高さから下を見ると、団子屋の店先にあいつらが見えた。仙人とお瑞と…天ちゃん。やっぱり、あいつの術、隠形術で姿を消していたんだ。
 隠形術は私達も習う術だ。人の目から姿を隠すだけのものから物をすり抜けられるようになってしまうものまで段階が様々だが、今回は初歩中の初歩。ただ人の目から見えなくするだけのものだったらしい。
 なんだ、と思って帰ろうとした時だった。
 仙人の懐から、何かがぎらりと光を放った。それが匕首だと理解する前に、
 
 仙人はそれを天ちゃんに突き刺した。

 天ちゃんがゆっくり、ゆっくりと崩れ落ちる。
 何をやっているんだ?
 お瑞も何故止めない。
 天ちゃんも何で逃げなかった。
 頭が真っ白になって、力が抜けて、気が付いたら吼えながら憎き敵目がけて急降下していた。


――――――――――


 通りには、円形に人だかりができていた。
 人々が目を向ける円の中心には兼好とお瑞ともう一人。漆黒の翼を広げた女が、自身の巻き上げた土埃の中で荒い息を吐きながら兼好を睨みつけていた。
 鶯色の装束に紅の頭巾、短い髪は後ろを二つに分けて結んでいる。歳の頃は天冶と同じ位か、少し上か。
「兼好、彼女が?」
「ああ。噂のやり手奉行、かな」
「烏天狗だったのか…」
 修験者の装束をひるがえし、深紅の瞳が兼好を刺す。
 兼好は手にした匕首をお瑞に放り、その視線を正面から受け止めた。
「…何で天ちゃんを刺した」
 整った顔を憤怒に歪めて女が言う。腹の底、否、地の底から響くような低い声だった。それに怯むことなく兼好は冷たい声で言った。
「むしろ聞きたいことがあるのは俺の方さ。何故そこまで執拗に天冶を監視する」
「だまれ悪漢!私の問いに答えろ!」
「変質者に言われたくないね」
 ぎり、と歯を噛みしめると、今度はお瑞にその視線を移した。
 お瑞は驚いたような顔を作り、わざとらしく肩をすくめる。
「お瑞!そいつをひっ捕らえろ!」
「何故です?」
「天冶はそいつに刺されたんだぞ?!」
「天冶?ああ」
 苦笑いをしながら、お瑞は足元に転がる天冶に手を伸ばした。ぐったりとした男を、重さなど感じないかのようにつまみあげた。
「これの事ですか?」
 お瑞がかかげるのに合わせて、兼好が術を解く。すると天冶の姿が陽炎のように歪み、お瑞の手には人の髪の毛だけが残った。唖然としたのはカラステングの方である。
「な…な……」
 ははは、と乾いた笑い声をだす兼好。
「身外身も見抜けないとは、未熟なのかモグリなのか」
 身外身とは仙術の一つで、いわゆる身代わりの術である。髪の毛や服の切れ端から実体ある分身を作り出す術の事で、本来は自身の分身を作るものである。今回、兼好はそれを天冶の髪の毛で行ったのだ。隠形術で隠していたのは天冶の偽物だったのである。
 そして、『木に立って見ると書いて親』。
 監視者に敵意が無いとふんだ兼好は一計を案じた。もしも監視対象の身に何かがあれば監視者は木から下りてくる、つまり何らかの動きがあるのではないかと。
 かなり荒い作戦だ、とお瑞は評していたが存外うまくいった。
「さ、答えてもらう。手前の狙いは」
「き、貴様……」
 ぎりりと歯を噛みしめ、カラステングが身構える。帯に差した羽団扇に『気』が漲り、全身を戦闘態勢に移行させる。兼好は口の端を吊り上げながら、片手を出してそれを制した。
「勘違いすんな。天冶は死んじゃいないし、あいつの居場所は教えてやる。俺達がここで争う必要はない。……だが」
 兼好の顔から表情が消えると、ごろり、と低い音がして、空にもくもくと雲がわいた。それはあっと言う間に太陽を隠し、空を覆い尽くす。
 お瑞が「はいはい離れて」と野次馬を遠ざける。
「もしも、引っ込みがつかなくて…」
 不規則な明滅が、時おり闇の中に兼好を浮かび上がらせる。
 全身の毛が残らず逆立つような感覚。上空の雲からは獣の唸り声のような音がする。
「俺と一丁やり合おうってんなら…」
 兼好が天に手をかざした次の瞬間、
 閃光。

 ずがぁん

 遅れて轟音。
 悲鳴。
 闇を切り裂いたそれは雷であった。
 がらがら、と天が崩れたような音が尾を引く。
 周囲に建物があるにも関わらず、極太の雷は狙ったように兼好とカラステングの間に落ちた。地面が抉れ、しゅうしゅうと煙が立っている。
 カラステングは地面にへたり込んだ。
「どうする?やめるか?」
 引きつった表情で頷く彼女を見て、兼好は満足そうに鼻を鳴らした。
「天冶は俺の長屋で待ってる。さ、行こうか」
 たちまち暗雲が消え、空には先程と同じように太陽が輝いていた。


――――――――――


 この世は悪人ばかり。
 幼い頃、母上の閻魔帳を見た私はそう思っていた。白い紙にびっしりと墨で書きこまれた人々の悪事。毎日母上は呆れかえっていた。
 まあ、人間である父上もそうであるかといったら、そんなことはないと思うのだが。
 とにかく、私はそう考えていた。だから、父上が紹介した男の足元にいる子供もそうなのだと、腹の中は真っ黒なのだと思った。
「ほうら、秋葉。この人が父さんの友達、伊井田龍冶さんとその息子の天冶君だ」
「やぁ、初めまして秋葉ちゃん」
「はじめましてっ!」
 穏やかに言う男の顔には大きな傷がある。きっと悪者同士で喧嘩して、刀で斬られたんだ。
 男の子の方もにこにこしてるけど、何か悪い事を考えているに違いない。きっと影では自分より年下の子をいじめているんだ。
 父上の陰に隠れながら、私はそんな事を考えていた。


 私は外で遊ばない方だった。それ以前に、烏天狗に友達などいる筈もない。
 書庫に籠って本を読み、母上に倣って神通力の訓練をする。そんな毎日だった。
 陰気だと思うだろうか。でも私はそんな暮らしが嫌いではなかった。むしろ悪人達と関わり合いにならなくて済むのだからと、自ら進んで一人になった。
 その日も一人、書庫に籠っていたのだが。
「あーきーはちゃーん!あーそーぼー!!」
「うるさい!へやの中でさけばないで!」
 私は本から顔をあげた。彼はぷくっと頬を膨らませる。
「だって、あきはちゃんぜんぜんきいてないんだもの」
「わたしは…!…いいの。家の中がいいの」
「むー」
 唸る彼を無視して、私は本に戻った。彼は諦めきれずに私の身体を揺すったり、頬をつついたりする。そんな事で私は屈しない。
 第一、なぜ私を誘いに来るのか。父上に「よろしく」と言われたから?悪人のくせに律義なヤツ。
 その時だった。彼が頭巾の顎紐をするりと解いた。あっと言う間もなく頭巾は彼の手の中に。
「何するの!」
「へっへーん。かえしてほしけりゃ、つかまえてみろー!」
 彼は廊下を駆け、家を飛び出し、山の中に消えていく。速い。まるで狼か何かのように木々をすり抜け、岩を飛び越える。
 一方の私はそんな器用なことができず、みるみる彼との距離は離れていく。だが一定の距離で彼は立ち止り、「やーいやーい」と私をはやし立てるのだ。
 私は怒った。翼を広げて大きく羽ばたき、飛び上がる。木漏れ日を切り裂き、木々の枝をかいくぐりながら彼の背中を追った。

「つかまえた!」
「うーん。くっそー」
 どれほど追いかけていたのだろう。彼を茂みの中に押さえつけた私は、その手から頭巾をむしり取った。彼の身体は滅茶苦茶に汚れているのに、頭巾には泥一つ付いていない。大切に持っていたのだろうか。腹立たしい。
 しかもこの泥棒は捕まっても全然悔しそうじゃない。
「へへへ。あきはちゃんはやいなー」
「ふざけるな!このどろぼうめ!」
「へへへ。ごめんね」
 やっぱりだ。やっぱり人間は悪人ばかり。
「あ、ほら!来て!」
 突然彼が駆け出した。茂みの向こうに行ってしまう。
 無視しても良かった。だがもし彼が崖から落ちたりなんかしたら私のせいだ。
 そんな理由を付けて湧き上がる好奇心を押さえつけ、跡を追った。
 草をかき分け、木の間を潜り抜けた先には、まん丸の夕日と真っ赤な空がいっぱいに広がっていた。
 息をのんだ。
 家に籠ってばかりだった私は、こんな光景を見たことが無かった。
「すごいねぇ。きれいだねぇ」
 彼の声に答えるのを忘れるほど、私は感動していた。
 二人並んで、大きな大きな夕日を眺める。
 真上の空を見ると、青から紅への色の移り変わりがすごく綺麗。
 何処からか家路を急ぐカラスたちの声が聞こえた。
 足元に見える家々からは飯炊きの煙が細く上がっている。畑仕事から帰った大人達がぱらぱらと家に入り、あぜ道を子供たちが駆けてゆく。
 そうして夕日が半分ほど沈んだ時、帰ろうと彼が言った。
「あきはちゃん」
「…なに?」
「あしたも、いっしょにあそぼうね!」
 夕日を背に、彼がにっこりと笑った。
 頷いてしまった私は一体、どんな顔をしていたのだろう。
 その夜、私は母上から一冊目の閻魔帳をもらった。私はすぐにそれを開き、彼の名前を書き込んだ。

 いいだ てんじ            頭きんをぬすんで、わたしにおにごっこをさせた。
                      いっしょにすっごくきれいな夕日を見させられた。
                      あしたもいっしょにあそぼう、といわれた。
                      ゆるせない。

 それを見たかあさまは可笑しそうに笑った。
「秋葉。それは日記帳ではないぞ?」
「そのとおりです、ははうえ。これは人のつみをしるす『えんまちょう』です」
「いやぁ、ははは。そうか。うむ、まあいい」
 その時は何故そんなに笑うのかわからなかったけれど、今の私にはよくわかる。


 その日から、私の平穏な毎日は終わりを告げた。
 彼が私を誘いに来て、一緒に家を飛び出していく。彼の友達とも友達になって、村の女の子たちとも友達になって。時には皆で鬼ごっこをしたり、度胸試しで川に飛び込んだりと賑やかに遊ぶようになった。
 閻魔帳の代わりに釣竿や凧を手に出かけて行き、両親が呆れるほど汚れて帰ってくる毎日。
 何とも烏天狗らしくない日々だったけど、すごく楽しかった。
 やがて私が十になる頃、鞍馬の山に本格的な修業に行くことになった。それはつまり皆との、彼との別れを意味していた。
「そっか……」
 彼は、天ちゃんはその話を聞くと、すごく悲しそうな顔をした。
 不思議な事に天ちゃんが笑うと私も嬉しくて、天ちゃんが泣くと私も悲しくなった。それが彼への好意があってこそなせる技だと気付くのは、もう少し後の事だった。
 私は何とかして涙ぐむ天ちゃんを安心させようと、頭をひねった。
「…てんちゃん」
「なに?あーちゃん」
「からすてんぐはね、『ジンツウリキ』で遠くからみんなを見てるんだよ」
 彼は言いたい事がよくわからない、というようにキョトンとしていた。それでも私は続ける。
「どんなに遠くはなれても、わたしはてんちゃんを見てるから。だから、だから、わるいことしちゃだめだよ」
「…あーちゃん」
「みんなとなかよくしなきゃだめだよ。おじさんとおばさん、こまらせちゃだめだよ」
「うん」
「川に入るときはちゃんと体そうすること。すききらいは、しないこと」
「うん…ぐす……うん」
「わ、わたしの…えくっ……わたしのこと、わすれちゃ、だめだよ?」
「うん…ぐす…わすれないから…ひっく…あー、ちゃん。だから、なかないでよぉ!」
「てんちゃんこそぉ…うっく…おとこのこが、ないちゃ、だめなんだからぁ!」
 私達は抱き合ってわんわん泣いた。
 彼と初めて遊んだ時のような真っ赤な夕日が、私達を見ていた。


――――――――――


 はあ、と呆れたように天冶が溜息をついた。
 ここは八町堀にあるお瑞の屋敷。その中の一角が天冶の部屋である。
 その畳の上では北町奉行、烏天狗の白部秋葉(しらべ あきは)が正座をして縮こまっていた。
 兼好やお瑞は大まかな理由を聞いただけで、あとは二人だけで話を付けるよう言って席を外してしまった。
「だからって、ああいう見方をするこたあねえだろう。予想だにしなかったぞ」
「だって、だって…天ちゃん、全然昔と違うから。だから、なんか会い辛くて」
 もじもじと体を揺する秋葉。天冶はその顔をじっと見つめる。
 再開した幼馴染からは幼さが消え、精悍でありながらどこか愛嬌ある顔になっていた。

 天冶と別れてからの約十年、秋葉は熱心に修行に取り組んだ。
 彼女は決して天才ではなかったが人一倍、いや天狗一倍の努力をした。
 それこそ、お江渡の奉行になれるほどの努力を。
 全ては天冶の『監視』の為。
 自分を広い世界に、あの夕焼けの元に連れ出してくれた、大好きな悪党を逃がさないため。

「おかげでこっちはクタクタだ。仙人様には頼る事になっちまうし」
「ご、ごめんなさい。まさか、そんなに辛いとは思わなくて…」
「おいおい……」
 なかなか奇妙な絵柄である。奉行が岡っ引きに謝っている。
 それに秋葉も気が付いたのだろうか。きっと天冶を見据えて言った。
「で、でも天ちゃんも大概だよ!こっちに帰ってきたら岡っ引きなんかになってるし!立小便なんて下品なことはするし!私の事なんか忘れたみたいに女の子と話はするし、こっそり手すさびはするし!」
「いらんことまで言うな!というか怒られる筋合いもない!」
「なんでよ?!」
 その言葉に天冶は詰まった。そして互いの息がかかる距離で言い合いをしていた事に気が付き、恥ずかしそうに顔をそむけ、秋葉からすこし離れた。
「確かに、『見ておるぞ』じゃわからなかったが…お、俺は…秋葉を忘れてなんかなかったぜ」
「え…?」
 もうここまできたら言うしかない。天冶はそう心に決め、ぎゅっと拳を握りしめて声を絞り出した。
「だってよ…初恋で、しかも一目惚れした女の子の事なんか、忘れられるわけねぇだろ!」
 ぼん、と秋葉が真っ赤になる。目をむいて、口をへの字に曲げて、まるで何かに耐えるように震えた。
 それが拒絶でない事を悟った天冶は、柔らかく微笑んだ。
「約束したから、な」
「…天ちゃん」
 黒い羽で目じりをぬぐう秋葉。
「ごめんね…ごめんねぇ」
 だが量を増す涙にそれも追いつかなくなり、天冶に飛びついてその胸に顔を押し当てた。
 生憎これまでこういった経験のない天冶は、おそるおそる彼女の背に腕を回して優しく撫でた。
「泣くなって。ほら、明日も仕事があるんだ。この話はもう終わりだ!」
「…天ちゃん」
「あん?」
「胸板、大きくなったね」
「…ああ」
「…いいにおい」
「あ?」
 すんすんと秋葉が鼻を鳴らす。
「…天ちゃんの、ホントの天ちゃんのにおい…」
「…おい?」
 彼女の声に艶がかかり、天冶はあくまで優しく彼女を引き剥がす。
 泣いた後の潤んだ瞳で、秋葉が天冶を上目づかいに見た。
「…天ちゃあん」
「秋葉さん?」
「……ね?」
「いや。ね?と言われても」
「むー。天ちゃん、鈍いんだから」
 秋葉が黒い羽の先で天冶を指すと、途端に彼の身体がぎくりと凍りついた。そのまま畳の上にごろりと仰向けに転がる。
 点断術と呼ばれる、金縛りの術であった。
「あ…あれ?」
 唯一自由になる首を動かして秋葉に目をやると、真っ赤な顔で内股を擦り合わせていた。
「私…もう我慢のできなぁい」
「お、おいおい!」
 更に両の羽をぱんと打つと天冶の着物が消え、彼は素っ裸になってしまった。
 天冶は驚きの声をあげて前を隠そうとするが、もちろんできない。一方の秋葉は彼の頭からゆっくりと視線を下に移し、彼の『そこ』に釘付けになった。
「これが…天ちゃんのおち、おちおちおち」
「だあ!見るな!」
 天冶の制止も無視して秋葉は顔を近づけ、『それ』をまじまじと見る。
 生温かい彼女の息がかかり、くすぐったい。疲れていたこともあって見る見るうちに下半身に血が集まってきた。
「わ…おっきくなった」
「だ、ちょっとま」
 天冶の鼓動に合わせてぴくぴくと震える『それ』に、秋葉は恐る恐る羽を伸ばした。
「わ、わかってるよ?天ちゃん、二十三日も手すさびしてないもんね?」
「何だその具体的な数字は!」
「しょ、しょうがないよね?まずは一回…」
「まず?!まずって?!」
 何のことだ、と天冶が訊く前に秋葉の両羽がやんわりと魔羅を包んだ。
 なめらかな感触と仄かな温かさが心地いい。何より、初恋の相手が恍惚とした表情で魔羅に触れている、という状況が劣情を煽りたてた。
 天冶の呻きと共に、鈴口から先走りが漏れる。
「あ…これ……」
「う…そ、その……」
「う、うん。わかってるよ!…動かした方が…いいんだよね…」
 しゅるしゅると羽が動き始めた。
 ゆっくりとした単調な上下運動だが、毛の一本一本が凄まじい快感をもたらす。
 ざわざわと竿を這い回り、優しく裏筋をなぞり、先走りを絡めながら鈴口をくすぐる。ふぐりや尻の穴にも時おり羽が触れる。濡れて張り付いた羽が亀頭からはがされるときや、乾いた羽が傘の下を擦るときなど堪らない。
 拘束されている為に体をよじることもできず、電撃が真っ直ぐ脊髄を駆けあがってくる。眼を逸らしても、先走りの絡んだ羽の出すくちゅくちゅという音が耳を犯す。
 あっという間に限界が近づく。
「あ…すごいびくびくしてきた」
「あき、は…もう」
「え、出るの?」
 のけ反りそうな快楽に抗って天冶が頷くまでにも、秋葉はゆっくりと、だが容赦なく魔羅をしごいていた。昇ってくる溶岩を抑えることもできず、獣のような呻きと共に天冶は白い飛沫をあげた。
「あ、わ!わわわ!」
 驚きの声をあげる秋葉の黒い羽に、装束に、そして近づけていた顔にかかる。
 とっさに羽で亀頭を覆うが、その感触がより一層の快感をもたらし、射精を長引かせる。羽で精液を受け止めるたび、びちゃびちゃといやらしい音がした。
「すごい…いっぱい」
 やがて音が止み、秋葉は亀頭から手を離す。精液がどろりと秋葉の手から白い糸を引いて畳に落ちた。
「あ…垂れちゃう」
 竿をつたう白い滴を羽で拭き取り、傘の下から亀頭にかけてが優しくぬぐわれる。
 そのざわざわとした感覚に、萎えるよりも早く天冶の下半身に再び血が集まる。
 それを見た秋葉が、精液のかかった顔で妖しく微笑んだ。
「天ちゃん、早すぎだよう」
「う……うるさいなぁ!早く自由にしてくれよ!」
「へへへへ。だぁーめ」
 いそいそと秋葉が装束を脱ぎ始める。ぱさりと法衣が音を立て、輝くばかりの真っ白な裸体が天冶の目にさらされる。
 小ぶりな胸の先端はつんと頭をもたげており、内股には垂れた愛蜜が一筋。
 ごくり、と天冶がつばを飲み込んだ。
「早漏の岡っ引きには…お奉行自ら罰を与えてしんぜよう。むふふふ」
「待て、秋葉!ここはお瑞姐さんの」
「だぁいじょうぶ。誰か来たらすぐわかるから」
「そういう問題じゃ」
「ええい、神妙にお縄を頂戴しろぉ!」
「ホントに待て!冷静になれ!」
「ええい、よいではないか、よいではないか」 
 事は解決したと思っていたのだが、天冶の受難(女難)はこれからのようだった。


――――――――――


 数日後。
「で、結局あのお奉行はお咎め無しか」
 文机に向かう兼好はぼんやりとした調子で言う。その肩には疲れた表情のお瑞が顎をのせていた。
「んー。べーつに一般人に迷惑かけたってワケでもないし、あの時イダテンも休みをくれれば別にいいって言ったしなー」
「お前はいいのか?」
「ん?まあ、大切な誰かの為に頑張るってのは理解できないモンじゃないし」
 お瑞の声が少しだけ悲しげに沈んだ。兼好ははっとした顔をしてから、大きくため息をついた。
「ところで、重いから離れてくれ。原稿が書けん」
「ごろ……ごろごろ」
「喉を鳴らすな」
「うにゃーん」
 兼好の言葉を無視してお瑞が抱きつき、ぐりぐりと顔を背中に擦り付ける。
「おら、三十路猫。じゃれつくな」
「うっせー仙人。こちとら疲れてんだ」
「なんで」
「だって、天冶がいないからしわ寄せが来てるんだよ。まったく、出歯亀奉行にも困ったもんだ」
「出歯亀奉行?」
 大きく間違っているとは言えないが、またあの娘も酷いあだ名をつけられたものだ。兼好は呆れたように首を振った。
 あれから天冶は姿を見せなかった。
 配属が変わり、今は奉行の御側役ということになっている。
 居場所もわかっている。変装している秋葉の顔が妙につやつやした晴れやかなものになっているのが、何より雄弁に彼の居場所を物語っている。
「しっかし天冶が奉行に囲われたなんて。部下にどう説明すればいいんだよ、まったく」
 悩ましげなお瑞に、兼好は笑って言った。
「天狗の仕業、とでも言っとけよ」



10/06/15 02:05更新 / 八木

■作者メッセージ
 ジャンルに迷ったんですが、エロはカラステングなので。後半まで出てこないけどねっ。
 筆者は時代小説を殆ど読まないので、どうかご容赦を…。
 誤字脱字等ありましたら感想欄にお願いします。

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