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第八十六話・夜明け前
俺、紅龍雅にとって、ここが自陣だろうと敵陣だろうと変えられないことがある。
本来、味方とは言え間借りさせてもらっている身なのだから、自粛するべきだとは重々承知しているのだが、俺は恋人であるアルフォンスの温もりがなければ夜も眠れない。
いつも夢を見る。
それは決まって悪夢だ。
どんな夢なのかは、ほとんど覚えていない。
断片的に覚えているのは、酷く悲しいということ。
冷たい雨の記憶。
泥の中に横たわる俺。
同じように泥の中で横たわる顔のない人々。
たぶん、あの日の夢だ。
丸蝶が滅んで、俺たちが名を惜しんで沢木という憧れを裏切り、綾乃を永遠にこの手に抱き締めることが出来なくなったあの頃の夢。
きっと…、そうだ。
だから俺は眠れない。
俺のしてきたことに、俺は自分自身に怨まれ、俺は自分自身に責められている。
良い歳して、戦場で大将にまでなったというのに、幼い童(わらべ)のように俺はアルフォンスの胸に縋り付いて、短い眠りに落ちる。
アルフォンスも……、俺と同じなのだ。
砂漠という過酷な世界で種族の誇りを捨てて、今俺たちが敵として戦う者たちの顔色を伺って、凛とした強さを持つ彼女はいつの間にか小さく卑屈に、沢木の町に逃げるまではそうやって生きてきたのだという。
ああ、俺たちは本当によく似ている。
だからこそ……、惹かれてしまったのだろうな…。
「……龍雅。目が覚めたのですね?」
「お前もか。」
皇帝殿に宛がわれた大将用の幕舎の中で、俺たちが一つの毛布に包まって眠る。
お互いに生まれたままの姿。
短い眠りに就く前まで、お互いが生きていることを確かめ合うように身体を重ねていた。
そのせいか、少しだけ気だるい。
アルフォンスの褐色の柔肌は少しだけしっとりと汗ばんでいた。
少しだけ信じられなくなる。
これ程、美しく柔らかな肌をした彼女が、戦場でいくつもの首を挙げているなど…。
汗ばんだ柔肌に指が食い込む。
食い込んだ指先がアルフォンスの敏感な箇所に触れ、軽い快感から身体がピクリと奮えたかと思うと、彼女は俺を抱き締める力を少しだけ強めた。
ただそれだけで、俺は彼女の中にまた入りたいという衝動に駆られてしまった。
「…アルフォンス、また、良いか?」
日が昇れば、一騎討ちだ。
俺は沢木と違って、無謀とか勇猛とか無縁の人間だと思っている。
だから勝算のない喧嘩はやらない主義だ。
今回も策があるから、安心してはいる。
それでも二人のうち、一人とは確実にやり合わなければいけない。
そいつは、たぶん敵軍の中でも筆頭に上がる程の男。
勝算は五分五分と言ったところ。
だが、もしもこの温もりを二度と感じられなくなることがあるとしたら…。
そうなってしまうのが怖いと思った。
可笑しな話。
俺は女々しいと馬鹿にされても仕方がないくらい、アルフォンスのすべてが欲しかった。
「……………はい。」
少しだけ長い沈黙の後、彼女は俯いて俺を抱き締める腕をさらにきつくした。
アルフォンスに、感謝している。
俺を理解し、俺を受け止め、俺を支えてくれる彼女は、最早何者にも代え難い存在だ。
ただ傍にいてくれるだけで、俺は満ち足りている。
君のために、俺はまた戦える。
そういえば、絶世の美女と名高い唐土の楊貴妃というのも褐色の肌をしていたと聞く。
なるほど。
唐土の皇帝は、こんな気持ちで彼女を愛したのだな。
彼女と同じ褐色の肌をした女神を抱き、羽化登仙の心地を味わっていたのだろう。
「……ははっ。」
「龍雅、どうしたのですか?何か、可笑しかったのですか?」
「いやいや、すまん。思い出し笑いだから気にしないでくれ。」
知るまいよ。
俺の世界、君の知る世界とよく似た隣り合う世界の昔話なのだから。
唐土の皇帝と同じ女を抱いているとは、何とも贅沢。
「大丈夫、お前のおかげで今日も生きている実感が持てると思えただけだよ。」
「……それは私の身体だけが目当てだと言っているのですか?」
「…阿呆。」
誰が、身体程度で生きている実感など持つものか。
お前の温もりが、心地良い愛情があるからこそ、俺はお前に縋るのだ。
口には出さないまま、お互いに口付けを交わす。
互いの舌で粘液を、火傷しそうなくらいに熱い吐息を感じ合う。
色々な思いを飲み込んで、今はただお前だけを感じていたい。
また、生きてお前に抱かれていたいから…。


アルフォンスの押し殺した喘ぎ声が幕舎の中から聞こえ始めた頃、彼の幕舎に寄りかかっていた影が、小さな溜息を吐き、前髪を掻き揚げゆったりと歩き始める。
その影は神聖ルオゥム帝国皇帝、ノエル=ルオゥム。
「…………まったく、余は何をしているというのか。」
こんなことをしている場合ではない。
そう彼女の頭は理解していたのだが、行動はそうではなかった。
陣中では決して脱ぐことがなかった軍服をノエル帝は脱ぎ捨て、東方産の最上級の絹で作られたフォーマルドレスに身を包み、龍雅の寝所の前まで来ていたのである。
彼女自身、初めて袖を通したドレス。
龍雅の寝所にアルフォンスが共にいることを理解していたはずなのに、ノエル帝は自分の心が出し続けていた命令に逆らうことが出来なかった。
自軍の命運を本来なら無関係であったはずの龍雅に預ける。
だからせめて精一杯の激励を。
そう自分に言い聞かせて、彼女は龍雅やアルフォンスが気を遣わぬようにと正装ではなくフォーマルドレスを選び、派手にならないように丁寧に薄く化粧を施し、彼女は自分でらしくないと自嘲気味に笑いながら準備をしていたのだった。
心の奥底に、龍雅に見てもらいたいと彼女も気が付かなかった想いを秘めて。
ノエル帝はまた目を閉じて、深く息を吐く。
「…まったく、余としたことが。戦場で女を晒してしまうとは情けない。」
そう吐き捨ててみた彼女ではあったが、心の中のざわめきは消えなかった。
本心だろうか。
いや、そうではない。
彼女にとって、龍雅にはアルフォンスがいても良いのだ。
ただ自らの権利を求めず、ただ義務を欲する異国の戦人に、彼女は恋していた。
彼女の知る男は、帝国貴族。
誰もが義務ではなく利権を求め、彼女に近付く者も、ノエル帝個人を愛した訳ではなく、皇帝の寵愛を受けることで貴族としての地位と、中身のないプライドを満たしたい者たちばかりであった。
彼女はそれを嘆いていた。
騎士として身を起こしたはずの彼らの先祖が、彼らを見ればどれ程嘆くだろう。
彼女自身、29歳になって尚、色恋沙汰の話がなかったのはそういう事情があった。
彼女は、亡くなった祖父の話してくれた騎士物語に強い憧れを抱いていた。
強く、何者にも屈さぬ精神力を持つ戦士に。
年齢を重ねるごとに憧れは強くなり、現実には存在せぬ者たちに彼女は悩まされていた。
だが、彼女たちの敵だと信じた魔物たちを率いて現れた男は違っていた。
少々皇帝に対する敬意に欠けるが、手下のために率先して先頭を征き、蛮勇と知略を巡らせ敵陣を切り裂き、窮地に陥った帝国を救った英雄。
それは彼女が追いかけ続けた偶像、そのものであった。
「酷い、男。余の……、いや、私の気持ちなど知りもせず、最愛の人と想いと身体を交わし続けるなんて。だが、許してつかわす。夜が明ければ、また修羅場なのだから…。だが信じているよ。そなたは私の心配など、杞憂だと笑い飛ばしてしまうのだろうから。だから………、どうか…。」
御武運を、と彼女は呟いた。
その声は誰の耳にも届かぬもの。
小さな独り言。


―――――――――――――――――――――――


ハインケル=ゼファーは不機嫌だった。
彼専用の幕舎のベッドの上で不貞寝をしていた。
苛々で夜も眠れない。
その怒りの矛先は、ヴァルハリア・旧フウム王国連合軍大貴族と高僧たちに向けられていた。
原因は先日の軍議の内容であった。
『……マスター。』
彼の愛剣、聖剣シンカが遠慮がちに声をかけた。
普段なら彼を茶化すように喋るシンカではあったものの、この時ばかりはただならないハインケルの雰囲気に呑まれ、いつもの明るさが影を潜めていた。
「…悪い。お前にまで心配させた。お前もわかっているとは思うが、時々何であんなやつらのために、俺が下に付かなきゃならねえのかわからなくなる時がある。あのクソ女の命令だからこそ大人しくしているけどな……、そろそろ俺の堪忍袋の方が限界に近い。」
『うわわわわ!?マ、マスター!早まらないで!!』
大慌てでハインケルをなだめようとするシンカ。
そんな声の様子にハインケルの表情が少しだけ和らいだ。
「安心しろ、シンカ。俺はそう簡単に暴発はしない。だが時々思うんだ。俺はもう少し頭の回転が鈍かった方が幸せだったんじゃないかってさ。鈍かった方が、何も知らないまま、与えられた幸せを甘受して生きていられたら、俺の人生は全く違った方向に進んでいたんじゃないかってな。今、暴発出来ないのもまだ頭の回転は鋭いからなんだ。ここで暴発すれば……、おそらく魔王軍と教会、それもヴァルハリアだけではなく様々な宗派の神の軍団を名乗る教会勢力との全面戦争は避けられない。連中を滅ぼすのに大した苦労はいらない。俺はあの女に付けられたリミッターを強制解除し、怠け者のあの女も重い腰を上げざるを得ないだろう。だが、その後はどうなる。」
『…………自称神の軍団ではなく、本物の神の軍団との全面戦争…。』
「そうだ。それこそあの女の望むところじゃない。俺も、あいつも、この緩やかに腐り堕ちそうな停滞した世界を変えたいと望むが故に微力を尽くす。俺とあいつは思惑こそ違うが、そう言った意味では同志だ。だが、その結果で世界が滅ぶのは、俺も望んでいない。」
ハインケルはベッドから起き上がると、テーブルの上に置きっ放しになっている一冊のスケッチブックのページを開いた。
それはクロコのスケッチブック。
言葉で伝えることが苦手なクロコが、絵で伝えようと用意しているもの。
そこに描かれていたのは、先日発見した大砲。
そして、彼女が書くことも出来ずに恐怖で逃げ出した何かの断片。
「連中が何を作り出したのかは、想像に難くない。元々、俺が連中に近付いたのも、あの女の命令だったからな。探れ、隠された事実とあいつが仕入れた情報が真実であるかを。……偶然だったが、中東教会も俺たちと同じ目的でフウム王国に潜入していたおかげで、俺は知ることが出来た。連中が何を作り、そのために何をしてきたのかを……。」
『それが…、クロコが逃げ出した…?』
ハインケルは静かに頷く。
「本来なら俺の任務はこれで終わりだ。だが、事態はそれを許してくれない。連中は不完全とは言え、完成させてしまったのだからな。俺の任務は探索から破壊、そして殲滅へと以降した。だが………。」
破壊は無理だと彼は悟っている。
ならば殲滅する以外にはないのだが、ヒロ=ハイルが台頭したためにゆっくりとした自滅へ導いていくという彼の描いた道筋は、やや停滞気味なのである。
それも連合軍のほとんどが無能、ましてや教会騎士団のように教会に忠誠を誓う者たちなどいくらの価値もない、という風に決め付けていたハインケルの若さ故の過ちによるものであったために、彼は自分が許せなかったのである。
『何なの、あいつらが造ったものって…?』
「…………………神だ。」
だが、あれが果たしてそう呼ぶに値するものなのか。
ハインケル=ゼファーの頭脳を以ってしても、その答えが出ることはなかった。


―――――――――――――――――――――――


「義父…、いえ団長!我々は断固抗議するべきです!!」
沈黙の天使騎士団長、ファラ=アロンダイト、リトル=アロンダイト義親子の幕舎の中には、騎士団の主だった隊長たちが集い、先の軍議に対する不満を声を大にして叫んでいた。
特にリトルの悔しさは大きかった。
彼は沈黙の天使騎士団内においては、将来の団長候補の一人として一目置かれる存在ではあったが、連合軍内においては無位無官の一兵卒という立場であったために軍議に出席出来ず、今回の押し付けられた一騎討ちに何の反論も出来なかった自分に腹が立っていた。
主だった隊長たちも同じ思いである。
「団長、すでにフィリップ王は我らを冷遇しています。報いるべき恩恵も、報いるに足る人徳もない男に忠義立てする必要もありません。」
それはリトルによる反旗を翻すべきだという進言。
ヴァルハリア暦807年当時の世相から考えれば、リトルの主張はひどくもっともなことではあるものの、当然のように許し難いことであり、騎士団を名乗る者は如何なる事由があろうと主君を見限ることは許されなかった時代であった。
主君が死ねと言えば、喜んで死ななければならない。
そんな狂気染みた理想を押し付けてくる時代であったのだが、それから考えると沈黙の天使騎士団は異端の集団であったと、後世の歴史研究家は口を揃える。
ファラ=アロンダイトの度重なる命令違反や、リトルの主張。
他の団員も後ろ暗い過去があったことがわかっており、当時の人々から見れば鼻摘み者の集団で、理想的な騎士像を目指す風潮の強かった時代であったことから、時に彼らは本当にこの時代に実在したのだろうかという疑問が投げられることもある。
「団長!」
「………リトル、…事を……、急くな…。」
ファラは語った。
今更抗議したところで覆りはしない。
大貴族や高僧は自分の欲や願望を叶えたい人間の集団であり、フィリップ王に逆らい、反目し合う自分を体良く処分すれば、大司教や王の覚えも良く、この戦争の後の世界で恩賞を優先的にもらえるのではないかという打算があるのだと。
だから自分は適当に戦えば、退くつもりだと彼は言った。
それに今反旗を翻せば、台頭したヒロ=ハイルによって滅ぼされる危険性も語った。
彼個人は望まぬとしても、有無を言わせずに彼らはヒロを動かすだろう。
「………わかりました。団長がそこまで言うのでしたら、僕も何も言いません。ですから、その代わりに僕は一騎討ちに出させていただきます。」
「…リトル!」
珍しくファラは動揺していた。
彼が守るべきは、その胸にしまい込んだ失われた女神への信仰。
そして彼女が愛し、彼がこの身に代えてでも守ろうと決意したリトル。
そのリトルが、彼に代わって危険に身を晒すと言い出したのである。
「大丈夫です。初めから逃げるつもりで戦えば、生き残れます。団長は刻限までの間にどこか怪我でもしていてください。それを派手に治療したように見せかけておけば、父上の面目も貴族たちの面目も立ちます。僕たちはお互いに死んではいけません。僕たちは約束し合ったじゃないですか。義母さんが生きていると信じて、絶対に見付け出して、またあの頃のように幸せに暮らそうって。だから義父上に万が一のことがあってはならないのです。」
リトルの言葉にファラは頭を下げた。
すまん、彼の声が消えそうなくらいに小さく聞こえてくる。
集まった隊長たちもファラに頭を下げた。
ファラの胸に秘めた彼らへの気遣いに。
そしてリトルの勇気に。
「…………みんな…、もしもの時は………、その命…、俺にくれ……。」
それはいつか反旗を揚げるという決意表明。
誰もが黙って彼に頭を下げた。
ファラ=アロンダイトはこの頃に内心、連合軍とは袂を分かったという。
だが、彼らが連合軍を離れるのは、これから随分と後のことになり、ルオゥム戦役が終わり、ロウガたちと連合軍が直接対決することとなる、数ヵ月後に勃発したセラエノ戦役の最中まで時間を要するのであった。


そして夜が明ける。

誰のために日が昇るのではなく、

静かに、

神々しい光を引き連れて太陽は地平を照らしていく。

帝国・セラエノ軍の陣中も

連合軍の陣中も慌しく、

両軍の命運を握る戦士を送り出すべく準備に追われる。

一人は信仰と迷いに揺れ動きながら。

一人は誓いと失った愛のために。

一人は愛されなければ眠れないという人間らしさを抱いて。

ヴァルハリア暦807年、

文治2年、

帝国暦15年1月8日。

記録通りであるならば、午前10時03分。

英雄たちは激突する。



11/03/22 23:23更新 / 宿利京祐
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■作者メッセージ
お久し振りです。
ガーベラの日常を放り出してこっちかよ!
というツッコミが怖い宿利です。
ガーベラの日常も現在構想中。
ですので、アッチはアッチでお待ちください^^。
今回はゲストばかりですねw
龍雅、ハインケル、アロンダイト親子でお送りしました。
次回はやっと一騎討ちです。
どんな結果になるかは……、ニヤリと笑ってお待ちください。

では最後になりましたが
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回もお楽しみに^^。

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