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第七十四話・凌辱の雨A
暖かな日差し。
やさしい風が天女の羽衣のように頬を撫でる。
ゆらゆらと揺り椅子に揺られて、ラピエは目が覚めた。
(私は…………、一体………。)
街道を馬で走っていたはずなのに、と彼はぼんやりとした頭であたりを見回した。
見渡す限りの薔薇。
丁寧に、そして愛情深く育てられた薔薇が花を咲かせ、その香りであたりを包み込んでいた。
(ああ……………、何て美しい……。)
まるで桃源郷。
帝国首都にある薔薇園とは比べ物にならない程、まるで人が入ってはいけないくらい美しい。
一切の喧騒もなく、鳥が歌い、ラピエはそこに神の領域を感じていた。
「目が覚めたみたいね。」
いつの間にかラピエの座る揺り椅子の傍らに、黒衣の女が立っていた。
(ここは……。)
声が出ない、そのことに驚いたラピエだったが、それ以上に頭の中がぼんやりしていて、まるでまだまどろみの中でいるような感覚だった。
「心配しなくても良い。ここは………、とあるお屋敷の庭とだけ言っておこうか。」
女の赤い瞳にラピエは魅入られていた。
(この方は……、人間ではない!?この瞳を見てはならない……!わかっているのに…、瞳を逸らせない!?吸い込まれて…、しまいそうだ…。)
ラピエの様子を見て、女は微笑む。
「ああ、なるほど。君はヴァンパイアに出会ったことがないようだね。」
(ヴァンパイア!?)
人間の血を喰らい、死者の奴隷を作り、強大な魔力と欲望で自らの領土を広げていく不死王。
ラピエが思い浮かべたのは、多くの神話や伝承に登場する魔王以上に身近な恐怖の王。
だが、今彼の目の前で微笑むのはやさしげな美女だった。
白い肌に白銀の髪が、そよ風に揺れる。
それはラピエにとって、薔薇園に舞い降りた天女そのものだった。
「君の目も覚めたことだし……。」
揺り椅子の肘掛に腰をかけ、女はその指でラピエの首の頚動脈周辺を撫でるように弄ぶ。
意地悪そうに目を細める彼女に、ラピエは恐怖を感じつつも、それがどこか官能的で背徳的で、ただその指で首を触られているだけなのに、彼はその心の奥底ですべてを彼女に捧げても良いという心地になっていた。
「……その身体に流れる、甘い魂でもいただくとしようか?」
彼女がそれを命令すればきっと彼は短く、はいと答えてしまうだろう。
すでにラピエはその瞳に、魅了されてしまっていた。
「…すまん、悪い冗談だ。未だまどろみの中にいる君に、悪ふざけが過ぎてしまったようだな。許されよ。」
(あなたは…。)
「私は、ノア。私が仮住まいする屋敷の主が名付けてくれた。」
ノアがラピエの手の平を指でなぞって『埜亞』と書いた。
「わからないだろう?正直な話をすれば、私にもよくわからないんだ。この屋敷の主は大層ジパング贔屓な方でね。多少なりともジパングの人間とも縁があるらしいのだが、いつも難解な言い回しと文字を使うものだからせめて大陸の者にも理解出来るようにしてほし…っと君に愚痴を言っても仕方がないな。」
すまない、と言って埜亞は腰のレイピアを抜くと、薔薇を一輪切り落としてその花をラピエの胸ポケットに挿した。
「詫びだ。受け取ってくれ。」
(私は……。)
「騎士ラピエ。君は失意のうちにいるのだね。」
ラピエは息を飲む。
名乗ってもいない。
事情を話してもいない。
それなのに埜亞は彼のすべてを見透かすような言葉で話しかけた。
「神聖ルオゥム帝国は滅びる。これは変えられない歴史の流れだよ。援軍は得られない。君たちがいくら嘆いたとて、君たちの敬愛する皇帝はその無能からではなく、圧倒的な暴力の前に命を落とし、人々にその死を心の底から惜しまれるだろう。」
(それでも……、例え私たちの思いが徒労に終わろうと、私は陛下のために…。味方を連れて帰ると約束した人々のために…、圧倒的な暴力に屈さぬ思いを示すために…。)
埜亞は溜息を吐く。
「人間というのは強情なものだね。滅びを理解して尚、足掻き続けるのだから…。いや、だからこそあの女も人間を見守っているのかもしれないな…。ならば、騎士ラピエよ。君たちの同盟国に味方はいない。だから、君はこのまま南へ下れ。南に下って最初に出会った人々こそが、この大陸で唯一滅亡へのカウントダウンが始まった帝国に力を貸してくれるだろう。ただし、毛嫌いするなよ。」
(あなたは一体!?)


ガタン


「うわ!?」
大きな揺れを感じて、ラピエがハッとすると、美しい薔薇園は消え失せ、目の前には薄汚れた幌が広がっていた。
耳に聞こえてくるのは荷馬車の車輪がガタガタと鳴る音。
積み上げられた荷が小刻みに揺れる中でラピエは目を覚ました。
「おっと、起きたかい。」
荷物のリストと伝票を持って確認を行っていたヘンリー=ガルドが目を覚ましたラピエに気が付き声をかけた。
「あなたは…。」
「俺はしがない商人よ。別に名を名乗る程でもねえが……。あんた、危なかったぜ。街道沿いであんたを見付けた時、あんたは死に掛けていたんだ。あのあたりは日中は温暖な土地なんだけど、日が暮れると凍て付くような寒さに襲われる。あんな軽装じゃ…、あそこで倒れていようがいまいが間違いなくお亡くなりさ。良かったな、俺が通り掛ってよ。」
「それは…、かたじけない。私の馬がいたはずなんだが…、見かけなかったでしょうか。」
「いや、俺が見付けた時にはあんた一人だったぜ。逃げたか、盗人に盗られたかだろうな。あのあたりは治安が悪いし。俺たちもあんたが目覚めてどこに行くか聞くよりも先に出立しなきゃ、ちょっと危なかったんだ。」
「そうでしたか……はっ!?」
死の淵にいたという事実から抜け出したという安堵に胸を撫で下ろそうとしたラピスは、胸ポケットに納まった淡い色の薔薇に目を見開いて驚いた。
(あ、あれは夢ではなかったのか!?)
「ああ、それ。良い趣味の花だな。お国の女からの、贈り物かい?」
「え、あ、ええ、そんなところです。」
「悪いがあんたの荷物を改めさせてもらった。まさか神聖ルオゥムの親書とは思わなかったが…。その様子だと援軍は無理だったな。」
「………その通りです。」
ラピスは心が重くなった。
自分の帰りを信じて、きっと援軍を数多くの使者の中から連れて帰ってくれると、危機に瀕した国で戦い続けているであろう仲間たちの信頼を裏切ってしまった、そんな自責の念が彼を支配する。
「もう、反魔物勢力から出てしまったから、あんたが望む場所には引き返せない。俺もこれから寄らなきゃいけない町があるから、そこまでだったらあんたを送ることぐらい出来るが……、どうするかね?」
ラピスはヘンリーの言葉に、夢の中の美女に教えられた忠告を思い出した。
(南に下って……、最初に出会う人々が…、我らの唯一の味方。)
「この馬車は……、何処に向かっているのですか?」
「ああ、お得意さんの町なんだが……。困ったことに紹介しようにも紹介しようがない。あの町のジジイ、町の政権を手中に収めたってのに未だに支配者になりたくないと駄々捏ねて、町の名前すら付けようとしねえ。」
「もしや…、その町とは!?」
「ああ、フウムやヴァルハリアの連中の本来の敵で………って見えたぜ。辺境最大最悪、あんたら反魔の言う悪の巣窟だ。あのジジイが住み着くまではただの犯罪者の流刑地、お尋ね者が住み着く所だった町だぜ。」
偏屈なジジイだから覚悟しろよ、とヘンリーはニヤリと笑う。
ラピスは身を乗り出すように、荷車の縁(へり)から見える町の影を目に焼き付けた。
建造中の砦がその町の未完成さを物語っているものの、ラピスはヘンリーの導きによって名もなき町の門を潜ったのである。


―――――――――――――――――――――――


ヴァルハリア教会領・旧フウム王国連合軍本陣のさらに後方に存在する幕舎。
一部の者にしか知らされていないその幕舎には、必ず2人の見張りが幕舎の前に交代で誰も入らぬようにと立ち続けていた。
「なぁ、おい。」
「ああ?何だよ。」
この2人だけではない。
この見張り番のために何人も戦場に出ることが出来ず、兵士として出世レースを何馬身も大きく離されて出遅れてしまったのである。
運がないと言えばそれまでの話。
「暇じゃね?」
「……気持ちはわかるよ。」
「敵なんかこねーよ!大体俺たち何を守らにゃいけねえんだよ!!」
「俺が知る訳ねえだろ!!俺なんか本当は最前線で敵兵を千切っては投げ、千切っては投げの活躍で、フィリップ王の娘婿に納まって行く行くは国を背負って立つ超絶英雄伝説サーガを確立するっていう人生設計を8歳と9歳と10歳と12歳の時に考えていたんだぞ!!」
中にはこんな兵士もいるのである。
狂信者の群れの中にもふざけた人種は存在するのである。
「……それ、超残念だったっすね。」
「そんな壮大で堅実な計画を立てていたってのにフィリップ王は国を奪われるわ、成長した王女様はままならない顔だわ、教会の目が付いてるからこの軍に慰安婦はねぇわ、ジャン王子に付いていた方が絶対にお得だったって最近気が付くわ、本当についてねぇよ…!」
見張りの一人は男泣きに滝のような涙を流す。
釣られてもう一人もそんな彼の言葉にそっと涙を拭った。
「…………なぁ、やっぱさ。敵さんもここの中身って気になるとこだよな。」
「……そうだよなぁ。」
自分たちも知らない幕舎の隙間から見える中身を男はチラリと見る。
真っ暗な闇だけが幕舎の中に広がっていた。
ハインケルの部下、クロコがすでに探ろうとしていたのだが、彼女が生きて残っていく上で必要だった第六感がその探索をやめさせた、濃厚な闇。
「……どうせなら、何を守っているかくらい知っておかねえ?」
「マジで!?」
「見ちゃおうぜ。あわよくば寝返る時に良い手土産にもならあな。」
「天才現る!?」
頭の良い話ではない。
だが、人間は時に好奇心と保身のために衝動的に動いてしまうのである。
クロコが逃げ出した恐怖も彼らには感じることが出来なかった。
彼らは幕舎の幕を少しだけ開く。
やはり中は真っ暗。
夜だから当然なのだが、濃密な闇が広がっていた。
「……そういやさ、王様や大司教様ってここ来ないよな。」
「その代わり、教会の魔術師が定期的に来るよな。俺3回会ったぜ。」
「つーかここ3日は俺らだけじゃん。今夜やっと交代だけどよ。」
「……そういや、前のやつらって会ったことないよな?」
突然、幕舎の中から生暖かい風が吹いた。
それは風というよりも、まるで獣のような臭いを放つ息吹だった。
「……逃げよう。ここは不味…!?」
見張りの一人が言葉を詰まらせる。
彼の目の前に土気色をした肉の壁が彼の視界を塞いでいた。
「こんなの……、あった…?」

ベギン、ブジン、グチュッ…

叫ぶ暇などない。
肉の壁が降り注ぐ雪崩のように彼を掴むと、もう一人の見張りの目の前で何事もなかったかのように濃厚な闇の中へと引き摺り込んでしまった。
闇の中からはグチャグチャという音と何かが圧し折れる音だけが不気味に響く。
「だ、大丈夫か!!待ってろ、今助けてやるから!!!」
闇の中にもう一人の男も武器を構えて入っていく。
そのまま男は帰って来ない。
何も物音がない、静寂があたりを包んだ。

ゴリゴリゴリゴリグチャグチャ…、ベチャベチャベチャ……

不意に幕舎の入り口が閉まり、中から鎖がかけられるような金属のジャラ、という音が響く。
「おーい、交代だぞ……っていねえや?」
「しょーがねーな。ま、俺たちゃ俺たちの仕事をするとしようか。」
交代の見張りが再び自らの待遇の悪さをぼやきながら幕舎の前に立つ。
そして彼らも次の交代と顔を合わせることなく消えていくのである。
また誰も気が付かぬうちに少しずつ、入り口を覆う幕が人の興味をそそるような隙間を開け、鎖を解き放ち、好奇心という麻薬を彼らに打ち込んで闇の中に引き摺り込む。
その繰り返しを兵士たちは知らないうちに繰り返させられていた。
もちろん、フィリップも大司教もそのことを知っている。

ベチャ……

ゴリッ…

ニ………

ク……

イ…




11/01/30 21:45更新 / 宿利京祐
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■作者メッセージ
ついに秘密兵器の片鱗ですね。
正解は………、ナマモノです。
という訳でグリンデルバルド様やhima様が予想通りだったという訳です。
ナマモノ以外の答えを出した方、残念ながら没シュート……
という訳ではありません。
とりあえずナマモノという答えだけを掲示しておきますね^^。
ちなみにただのナマモノではないので
賞味期限はそこそこ長くなっています。
尚これの正体は……、まだ言いませんのであれこれモヤモヤ妄想していてください^^。
本日のゲストは紅葉様よりいただいた埜亞さんでした。
彼女がいる場所はもちろん、あそこですw。

では最後になりましたが
本日もここまで読んでいただき、ありがとうございました!

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