読切小説
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夢を運ぶ風
 その村の近くには、小高い丘がある。
 何の変哲も無い、どこにでもあるような丘だが、そこを風が吹き下りる時は必ず不思議な音が聞こえた。
 ぴゅう、とか、ひゅおう、とか、言葉にすると人それぞれだが、誰が聞いても「不思議な音だ」と言うのには変わり無い。
 そして、「あの音は何?」と子ども達が聞くたびに、村の老人たちは同じ話を繰り返す。

「ここらに病がやってこないのは、あの丘に住む精霊様が風で払ってくださるからなんじゃよ。その精霊様が風を生む時の声が、わしらには不思議な音が聞こえるんだと」

 その言い伝えが何時からあるものなのかは、語り継ぐ老人自身も知らない。
 聞かされている子ども達も、精霊による風の恩恵などはよく分かっていなかったが、「丘には不思議なものがいる」というのだけは、分かっていた。
 しかし、その「不思議なもの」を、魔物や獣もいるという村の外に出て確かめる勇気は無かった。

 ただ、一人の少年だけは、その言い伝えに誰よりも強く興味を抱いた。
 珍しがられるほどに何度も言い伝えを聞きたがり、目を輝かせる。
 そして、大人しい振る舞いに隠した誰よりも強い好奇心から、ある日、少年は小さな旅へと出る決意をした。

 無論、旅と言っても、大したものではない。
 村を出て、広い草原を少し歩いて、遠くに見えている丘を登るだけ。
 大人からすれば、ちょっと行って帰ってくる程度の物。
 しかし子どもにとっては、そんなものでも心躍る冒険だった。

 真っ直ぐに丘へと向かいながら、時折頬を撫でる風に目を閉じる。
 勝手に家から持ち出した水筒で喉の渇きを癒し、ひゅう、と風が鳴くたびに耳を済ませる。
 草の匂いに包まれながら、傾斜の緩い面へと回り込み、丘を登る。
 背の低い草を踏みしめながら勾配を上がると、不意に、風に背中を押された気がした。
 そのまま、夢中で丘を登っていると、ひときわ激しい風が丘から草原へと吹き下ろす。
 思わず目を閉じてたたらを踏んだ少年の耳元で、ひゅう、と、風が鳴く。足下で、ざあ、と、草が叫ぶ。
 それらが静かになってから、目を開ける。

 確かに感動したはずなのに、言葉も出なかった。
 目の前に開けていた、丘の頂上から見える景色は、今までの自分はまったく知らないものだったから。
 綺麗とか、凄いとか、そんなものでは足りない。
 その景色を形容できる言葉を、少年はまだ知らなかった。

 広大な草原の中、遠くに小さく見えるのは、自分の暮らす村だ。
 その村の向こう、ずっと遠くに見えるのは、「危ないから近寄ってはいけない」と言われている森だ。
 再び、ひゅう、と風が通り過ぎた。
 地面を揺らしたように草原が波打つ。所々にある茂みが手を振るように揺れている。

 少年は、ただ見惚れていた。丘の上から見える景色に。

 だから、すぐ後ろに浮かんでいた少女の存在になど、気付いていなかった。

「わっ!」
「うわぁっ!?」

 大声で驚かされた少年はその場で飛び上がり、振り向こうとした拍子に足をもつれさせて草むらの上へと尻餅をつく。
 その芸術的なまでの驚き方に、少女はけらけらと笑いながら少年へと手を差し伸べた。

「えっへへ!ビックリした?ねぇ、ビックリしたでしょ?」

 少年はその手を取ることもせず、ぽかんと口を開けたまま、少女のきらきらと光る薄緑色の瞳を見上げていた。
 突然の事に驚き、差し伸べられた手の意図も掴めなかった。だがそれ以上に、その可愛らしくも不思議な姿に、目を奪われていた。

 若草色の小さな体も、気まぐれに揺れる深緑の髪も、ふわふわと浮かんでいる事も。
 丘から見えた景色と同じように、やはり少年の知っているものではない。
 それでも、少年の内に、警戒心や恐怖心と言った物が生じる事は無かった。
 ただ、薄布の下の細身が逆光で透けていて、それをじっと見ているのは何だか悪い事のように感じられてしまったので、つい目は逸らしてしまう。

「……うん、ビックリした」

 尻餅の跡が残る地面を見つめながら、少女の手を掴んで立ち上がる。その手には、不思議な紋様が入っていた。

 地面から浮かんでいるから向こうの方がちょっとだけ目線は上だけど、背丈は多分、そんなに変わらない。
 他に計る基準も知らない少年は、そんな理由から少女が自分と同じくらいの歳だと決め付けると、少しだけ悩むような仕草を見せてから、尋ねた。

「キミが、精霊様?」

 その質問に、少女は首を傾げる。
 適切な答えは、彼女自身も知らないといった様子であった。
 だが、だからと言って、その事に何らかの葛藤を覚えたような振る舞いは無かった。

 少年の手を軽く引っ張ってから放し、くるりと回りながら距離を取って、無邪気に笑う。

「ね、ね!追いかけっこしよ!」
「え?いや、待って……」
「よーい、どん!」

 小さなつむじ風と共に中空を滑るように遠ざかってゆく少女を、頭の上に疑問符を並べたままの少年はとりあえず追いかけた。
 丘を駆け下りるだけで転んでしまうほどに運動が苦手な少年では、空中を自由に飛び回る不思議な少女を捕まえる事など到底叶わない。
 しかし、少女は時々止まっては、少年が近づいてくるのを待った。
 そして、後少しで掴まるという所で紙一重に少年の手を避けて、からかうように手招きをする。

 風と共に草原を飛び回り、木立に隠れ、丘を上がって、あの手この手で逃れ続ける少女を、少年は必死になって追いかけ続けた。
 だが、やがて走る事もままならない程に疲れきってしまうと、両手を上げて降参の意を示した。
 そのまま、丘のてっぺんで仰向けに倒れこみ、荒い呼吸を繰り返す。

「えー、もうおしまい?」
「だって、飛ぶのは……ずるいよ……」

 ふわふわと寄ってきて不満そうな顔をする少女に、少年は息も絶え絶えに不平を返した。

「じゃあ、じゃあ、お話しよ!」
「それなら、いいけど……」

 そっちの方が、追いかけっこよりもずっといい。
 草の香りをいっぱいに吸い込んで、少年は体を起こした。
 追いかけっこを始めた時に置き去りにしていた水筒から水を飲み、走り回って乾いた体を癒す。
 その少年の隣に座って、少女は遠くに見える村を指差した。

「あそこから、来たんだよね?」
「うん」
「ね、ね、あそこには、何があるの?」
「何って……お家とか、畑とか……」
「知ってる!畑って、お野菜が取れるんだよね?」
「うん、じゃがいもとか、にんじんとか……」
「おいしいの?」
「じゃがいもは、スープに入れるとおいしいよ。にんじんは……僕は、あんまり好きじゃない」

 言葉一つ一つに大袈裟なほどの反応を示す少女に、気付けば、少年も釣られるように饒舌になっていた。
 あるいは、追いかけっこでは敵わなかった相手が自分の知識に驚いてくれる事に、些細な優越感を抱いたためかもしれない。
 ご飯の事や、自分の両親の事、村で暮らす他の子ども達の事。
 些細な事でも、少女は気になったら少年に質問をし、少年もまた、答えられる限りでは答えた。
 そして、少年が村の老人から聞いた伝承をそっくりそのまま語り始めると、少女は特に強く興味を示した。

「じゃあ、私がセイレイサマなのかな?」
「多分、そうじゃないかな」
「でも、わたしは変な声出したりしないよ?」
「そう言われても……」

 少女は腕を組み、うーん、と悩んでから、おもむろに立ち上がった。
 そして、くるくると回りながら少年の頭よりも高く浮かび上がると、「えいっ」というかけ声と共に、その細い両腕を前方へと振るう。

 その動きに呼応したように、たちまち風が巻き起こった。
 それは、ひゅう、と鳴きながら丘を駆け下り、草原を吹き抜ける。
 草が、木立が、森が、彼女の起こした風に揺れる。

「ほら、わたしの声じゃないでしょ?」

 残響の中、少女は首を傾げた。

 風が生まれる瞬間の音。それは、村まで届くものよりもずっと大きく、澄んでいた。
 言い伝えに残るほどの、綺麗で不思議な音。
 だが、少年はその音よりも、目の前の少女の行動に驚いていた。

「……今の、どうやったの?」
「今のって?」
「なんか、手をひゅってやったら、風がびゅうって……」
「うん、ひゅってやって、びゅうってしたの」

 少女は「えいやっ」と、今度は逆方向に腕を振るう。
 たちまち風は向かい風となり、丘へと帰ってきて少年と少女に吹き付けた。
 仰け反るほどの強風で少女と少年の髪はくしゃくしゃになったが、少年は意に介さない。

「すごい……」

 思い通りに風を操る。気ままに吹くだけだと思っていたものが、意のままになる。
 その力は、風の音を聞いて育ってきた少年が憧れを抱くには十分だった。

「ねぇ!僕にもできる!?」
「えっ、どうだろ……」

 大人しかった少年が突如興奮し始めた事に若干驚きながら、少女は曖昧に答えた。
 しかし、そんな事はお構い無しに少年は飛び起きると、目を閉じて唸り声を上げ始めた。
 少女の生んだ風が去り、静けさが戻る。
 その瞬間を見計らって、「えいやっ!」と、少女の真似をして腕を振った。

 ただ、静かに。
 草木も揺れない、静寂が満ちる。
 その気まずさを察したのか、遥か頭上を飛ぶ鳥の鳴き声が申し訳程度に間を埋めた。

「……うん、まあ、そうだよね」

 少年は呟き、恥ずかしさを誤魔化すように座りなおした。
 頭上から聞こえる、押し殺したようなくすくすという笑い声に、更に頬を紅潮させて縮こまる。

「……笑わないでよ」
「だって、おもしろいんだもん!」

 沈んでいる少年に見せ付けるように、少女は中空へと飛び出すと、くるりと手首を返して、草原につむじ風を起こした。
 草が巻き上げられ、丘よりもずっと高い場所でぐるぐると回る。
 ぐっと手を握ると、つむじ風は消えて、草もひらひらと舞い落ちる。
 軽々と人間離れした技を披露し終えた少女は、くるり回って振り返り、ふふん、と自慢げに笑った。

「ね、ね、すごい?」
「……うん、すごい」
「じゃあ、じゃあ、あのね……」
「……あ」

 何かを言おうとした少女を遮って、少年は少女の後方、空の彼方を見た。
 空の青に微かに朱が差している。
 ゆっくりと、森の向こうに太陽が沈もうとしている。

「もう、帰らないと」
「えーっ、帰っちゃうの?」
「うん。暗くなったら、母さんと父さんに怒られちゃう」
「むーっ……じゃあ、また来てね!ぜったいだからね!」
「……うん、また、遊ぼうね」
「うん!」

 空っぽになった水筒を手に、少年は立ち上がった。
 新しい友だちとの別れに名残惜しさはあったが、「また会いに来ればいい」と自分に言い聞かせる事にした。

 追いかけっこでの疲れがまだ残る足で、転ばないように慎重に丘を下る。
 途中、一度だけ振り向けば、少女はやはり宙に浮かんだままで、ぶんぶんと大きく手を振っていた。
 それに大きく手を振り返し、めいっぱいの声で叫ぶ。

「ばいばい、またね!」
「うん、またね!」

 その後も、互いの姿が見えなくなるまで。
 少年は時折振り向いては、ずっと手を振り続けている少女へと手を振り返した。




 結局、少年が帰宅した頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。
 当然の事ながら少年の母親はその事を叱り、「どこへ行っていたのか」と問い詰めた。
 日頃、精霊の話以外にも、村の外には魔物や獣が出る事も聞かされている。
 それなのに、まさか正直に「村の外に出ていた」などとは言えず、少年は答えに窮した。
 そこに助け舟を出したのは、ちょうど畑仕事を終えて戻った父親だった。

「ああ、その水筒。どこかで落としてしまって困っていたんだ。探してきてくれたんだな。ありがとう」

 父親はそう言って、少年が持っていた水筒を取り上げると、頭をぽんぽんと撫でて苦笑した。
 咄嗟に、少年も頷いて肯定する。
 こうなると、母親もそれ以上は何も言えず、ただ「今度からは、暗くなる前に帰ってきなさい」とだけやんわりと注意しただけだった。
 まだ納得はしていない様子の母親が夕食の準備に戻ったのを見てから、父親はこっそりと少年を咎める。

「外に行くのもいいが、心配をかけるのは駄目だぞ」
「……ごめんなさい」
「私よりも、母さんに謝りなさい。お前が村の外で獣にでも襲われたんじゃないかと、探しに行こうとしていたんだぞ」
「うん……」

 俯いてしょんぼりとしてしまった少年に、父親は再び苦笑した。
 自分の幼少期にも、好奇心から一人で外へ飛び出して叱られた事があった。
 我が子ながら大人しい良い子だと思っていたが、もしかしたら、息子は自分に似てしまったのかもしれない。
 そんな事を思いながら、水筒を振って中身が空である事を確かめる。
 そして、棚から取った一本の紐と共に、それを少年に渡した。

「その水筒は、お前にあげよう。大事に使いなさい。紐を付けておけば、落とす心配も無いだろう」
「……いいの?」
「また、外へ行くんだろう?」
「……うん。友だちが、できたんだ」

 村の周囲には、森や丘はあれど、他の町村は無い。
 となれば、精霊に興味を持っていた子どもに「友だち」などが出来るのは、一箇所しか思い当たらない。

「その友だちは、丘にいるのか?」
「…………うん」

 風の生まれる丘。そこにいるもの。
 それが、どういった存在であるのか。
 村で暮らす他の者たちと同様に言い伝えを聞いて育った父親は、十分に知っていた。
 自分も、小さい頃にあそこへ行った。そして、日が暮れるまであちらこちらを探し回ったのに何も見つからず、肩を落として帰って来た。
 だから。
 どこか誇らしげに、息子の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でて笑った。

「いつか、父さんと母さんにも紹介してくれよ?」
「……うん!」

 ささやかな秘密の共有と男同士の約束に、少年は無邪気に笑った。
 ひとり食事の用意をしていた母親は、キッチンから戻ってみれば夫と息子がやけに楽しげにしている事に、首を傾げるばかりだった。




「それで、怒られちゃったの?」
「ううん。でも、その後にサラダのにんじん残したら怒られた……」
「『スキキライはダメ!』って?」
「うん……今の、母さんに似てたかも」
「ほんと?」

 昼下がりの暖かな陽射しの中、丘の上で少年は昨夜の事を語っていた。
 何も面白い事など無いような話でも、不思議な少女は全てが楽しい事のように笑う。
 そのあどけない笑顔を見るたびに、少年はまだ知らない、奇妙な何かを感じていた。

「……ね、あの向こうって、何があるの?」

 不意に、少女が立ち上がって、森を指差しながら言った。
 少年は答えようとして、しかし、自分もまたその答えを知らない事に気付いた。

「……分かんない。僕も、行った事無いんだ」
「そっかぁ」

 座りなおした少女の声には、僅かに落胆の色が滲んでいた。
 答えが得られなかった事への、本当に些細な落胆。
 しかし、少年はその声を聞いて、自分でも理由が分からないほどの不安に苛まれた。
 この友だちをがっかりさせたくない。もっと楽しそうにしていてほしい。悲しそうな顔は、してほしくない。
 なんとかして、笑ってほしいと思い、

「いつか、一緒に森の向こうに行ってみようよ」

 咄嗟に口を突いて出た言葉に驚いたのは、他ならぬ少年自身だった。

 村の外に出るのはもちろん、子どもだけで遠くまで行くなんて、怒られないはずが無い。
 それでも、少女のぱあっと花の咲いたような笑顔を見ると、「怒られるくらい、どうって事ない」などと思えて、つられて笑っていた。

「ほんとに!?連れてってくれるの!?」
「うん。僕も、森の向こうの事……ううん、他にも、色んな事を知りたいから」
「じゃあ、じゃあ、あっちにある道の、ずーっと向こうにも行きたい!」
「うん、行こう。あとね、ずっと遠い場所には、海って言うのがあるって父さんから聞いたんだ。しょっぱい水がいっぱいある、大きな水溜りなんだって。だから、海も見に行こうよ」

 そこまで言って、少年は一つの疑問を抱いた。

「……ねぇ、キミは精霊様なんだよね?」
「うん?うーん……どうなのかな。たぶん、そうなのかな」
「精霊様は、ずっとここにいたの?飛べるんだから、どこにでも行けるんじゃないの?」
「……他のところにも行こうとしたんだけど、ダメだったの」
「どうして?」
「わかんない……なんか、ここからあんまり離れようとすると、すごい疲れちゃって、動けなくなるの。あっ、でも、あっちの大きな木の所までは行けたんだよ!」

 少年は、精霊の力に元素が関わる事や、土地によってその元素の量も違う事など知らない。
 ただ、精霊は遥か昔からここにいるという言い伝えと、彼女言葉の言葉からは「この子はここから離れられない」としか取れず、それに気付くと、「それじゃあ」と一転して悲しげな顔をした。

「……一緒には、行けない?」

 しかし、少女はその言葉には首を横に振った。

「……あのね、好きな人と『ケーヤク』って言う約束をすれば、わたしたちの風の力をあげられて、ずっと一緒にいられるようになるんだって」

 その説明は、精霊としての本能に宿っていたものだった。
 そんな中で何気なく言われた、「好きな人」という言葉。
 たった一言に胸がどきりと跳ねたのを誤魔化すように、少年は首を傾げた。

「じゃあ、ケーヤクすれば一緒に行けるんだね。その、ケーヤク?をするには、どうすればいいの?」
「……えっとね、コイビトごっこをするの」
「こっ……」

 コイビト。
 恋人。
 好きな人と好きな人が一緒になったのが、恋人。
 性知識などほとんど無い少年でも、それは知っていた。
 しかし、恋人とは何をするものなのか。
 好きな人と好きな人の間には子どもが生まれるのは知っているが、どうやったら生まれるのか。
 それは、知らない。

「わかっ、分かったよ……コイビトごっこ……だね?」

 裏返った声で分かったとは言ったものの、はっきり言って何も分かっていなかった。
 とりあえず、少年は自分が見た限りでの恋人たちの記憶から、少女と向かい合い、指を絡めて両手を繋いだ。

 目の前で、少女の薄緑の瞳が潤んでいる。
 その目を見ていると、胸が痛くなるような、不思議な感覚が起こる。

「こ、この後は、どうすればいいんだろう」

 照れ隠しのように笑った少年の目を、少女は対照的に真剣な表情でじっと見つめ続ける。
 繋いだ手にぎゅっと力が入り、少しだけ頬が赤く染まる。
 そして、静かに尋ねた。

「わたしの事、好き?」

 照れ隠しなんて事はしない真っ直ぐな問いかけに、少年の曖昧な笑みも消えた。
 答えはすぐに心に浮かんだ。しかし、それを言葉にするまで、何度か深呼吸を繰り返さなければならなかった。
 どこか不安そうな薄緑色の瞳を見据えて、はっきりと答える。

「……うん。好きだよ」

 幼く、拙く。
 しかし純粋に、気持ちを伝え合う。

「ずっと、一緒にいてくれる?」
「ずっと、一緒にいるよ」
「わたしと、どこまでも一緒に行ってくれる?」
「キミと、どこまでも一緒に行くよ」
「……わたしと、契約してくれる?」
「……キミと、契約するよ」

 頷き合い、微笑み合い。
 両手を繋いだまま、少女はゆっくりと、少年と口付けをした。
 唇を触れ合わせるだけのキス。それでも、無垢な二人の心を溶かし、夢中にさせるには十分だった。

 短いキスを終えて唇を離した頃には、二人の目には、澄んだ欲望が満ちていた。
 その欲望に戸惑う事しかできない少年を、本能に従って少女が押し倒す。
 少年に跨ったまま、少女は再び、貪るようなキスをした。
 入り込んできた舌の感触に目を白黒させながらも、おずおずとそれに応えた少年は、とくん、と、体の奥底に何かが入ってくるのを感じていた。
 少女の手足に刻まれた紋様がぼんやりと光り、少年の腕にも、同じ紋様が薄っすらと浮かび上がる。

 息継ぎの為に唇が離されると、少年は自分の腕の紋様を見て、上手く回らない舌で尋ねた。

「……これで、けいやくはおしまい?」

 そう思った理由は分からなかったが、確かに、自分の中に今まで無かったものがあるのを感じていた。
 だから、これで契約はできたのだと思ったのだが、少女はふるふると首を横に振った。

「ううん、まだ……ここからが、けーやく、なんだよ」

 そうなんだ、と、少年は呟いた。

「……どうすればいいの?」
「だいじょぶ。わたしにまかせて?」

 少女の薄緑色の瞳を見つめたまま、少年は頷いた。
 そして言われるがまま、精霊の少女に、魔物に、身を委ねた。

…………


 一人の精霊使いの誕生は、平和な村の数少ない大事件となった。
 丘から帰って来た少年のそばに寄り添う小さな精霊は、信心深い老人たちが崇める一方で、子どもたちは自分たちとあまり変わらないものとして無邪気に遊びに誘っていた。
 精霊自身も、特別扱いされるよりも遊び相手が増えた方が嬉しいようで、少年が子ども達と遊ぶ時には決まって混ざるようになった。

 そんな、ちょっと変わった住人が増えただけの日々はしばらく続いた、ある晩。
 若き精霊使いと精霊は意を決して、二人の夢を人々に語った。
 契約のもとにもなった、遠く知らない地を共に旅するという、夢を。


「生水は飲むんじゃないぞ。お腹が空いても、茸は絶対食べちゃ駄目だ。あとは……」
「ちゃんと覚えてるから大丈夫だよ。手帳だってあるんだし」
「そうか。それならいいが……」

 よく晴れた日の朝。
 父親の用意してくれた背負い袋一つ分の旅荷と、旅のための知識を綴った手帳を手に、少年は笑った。
 その拍子に、たすきがけにした水筒の中身がちゃぽんと音を立てる。

「時々でいいから、手紙を送りなさいね?それと、いつでも、帰ってきなさい。ここは、あなたの故郷なのだから」
「うん。ありがとう、母さん」

 「旅に出たい」と聞いた時は猛烈に反対した母親も、息子と精霊による二人がかりでの根気強い説得には、折れざるを得なかった。
 泣き腫らして赤くなった母の目に、少しだけ、少年の胸が痛む。
 それでも、決意は揺るがない。

 何日も何日もかけて、既に、十分に言葉は交わした。
 だから、少年の両親は最後に今一度、祈った。

「精霊様。どうか、この子をお守りください……」
「もちろん守ったげるよ!わたしのコイビトだもん!」

 少女は――精霊は少年の背中に抱きついたまま、その願いに無邪気に答えた。
 恋人、と高らかに叫ばれた少年は恥ずかしそうに顔を伏せたが、決して否定はしなかった。
 そんな初心な様子に、見送りに来ていた村の皆が和やかな笑いを見せる。

「……じゃあ、行ってくるね」
「行ってきまーす!」

 少しだけ顔を赤らめた少年が、両親に、そして、村の皆に手を振った。
 様々な声援を背に浴びながら、今度は丘だけでは終わらない旅へと足を踏み出す。

 広大な草原に、長い街道、深い森。
 目に見える範囲だけでも、行った事が無い場所に溢れている。

「ね、ね、最初はどこに行こっか」
「どうしようか。どこに行きたい?」
「やっぱり、森の向こうかなあ。でも、お父さんの言ってた街にも行ってみたいな!村よりもいっぱい人がいるんでしょ?」
「じゃあ、木の棒でも倒して決めようか」

 そう言いながら、少年は落ちていた木の枝を放り投げた。
 ひゅう、と、中空で二つの風が混ざり合い、それに巻き込まれた枝が一度、二度、くるりと回って地に落ちて、進むべき方向を指した。

「あっち!」
「うん、じゃああっちに行こう」
「何があるかな?」
「何があるんだろうね」

 無邪気に、楽しげに。
 旅の始まりを祝福するように、風が二人の背中を押していた。
16/07/18 14:09更新 / みなと

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