読切小説
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いい夫婦の日
出会った日を、付き合い始めた日を、お互いの誕生日を、そして、それ以外の何気ない日常をあなたと過ごせて私はとても幸せでした
あなたは憶えていますか?
あなたと出会った日、あなたはお弁当を家に忘れたことを。
付き合い始めた日、雨の中一緒に手を繋いで帰ったことを。
私の誕生日、あなたが私に黒く可愛らしいカチューシャをくれたことを。
あなたの誕生日、私があなたに白い腕時計をあげたことを。
きっと憶えていないのでしょうね。
こうして何度目になるのか忘れてしまうくらい、あなたと一緒に年の終わりを迎えますが、どうしても、この時期になると、こんなことを思い出してしまいます。
もうずいぶん長い間鏡を見ていませんが、こうしてあなたの手を見て、自分の顔もこれくらい皺くちゃなんだろうと思うとどこか可笑しいです。
心地良さそうに眠るあなたを見ていると、私まで眠くなってきてしまいます。
だから、早く目を開けてください。私が深い眠りに入る前に。


肌を撫でるように通り過ぎる微かな風の流れによって、ヴェルは目を覚ました。お世辞にも寝起きが良いとは言えない彼は、顔を険しくしながら、ぼやける視界に手をかざし、その手を握ったり、開いたりして意識の覚醒を促した。
ある程度視界が明瞭になってきても、気分は悪いままだったが、このままでは埒があかないと、ゆっくりと体を起こした時初めて、自身がベッドではなくソファで眠り、そして、今が午前中だということに気がついた。
鉛の様に重たい体の向きをなんとか変え、ソファに背を預けると、不意に目の前が真っ暗になった。何事かと、瞬時に体を動かすことが出来ないほど自分の体が寝ぼけていることをヴェルは一人恥じながら、ゆっくりと目の周りの温かい感触に手を伸ばした。
「どれくらい眠ってた?」
「一時間くらい。お皿洗いしてる私を放って寝ちゃうなんてひどい人ね」
後頭部のあたりから聞こえる、再び微睡みに導いてくれそうなハスキーな声の主にヴェルは素直に悪かったと謝罪し、手を退けるように頼んだ。声の主も素直にそれに応じた。
慣れてきたばかりの視界は急激な明るさの変化に追いついてこれず、世界を異常なまでに眩しいものと認識し、ヴェルの目を細めさせた。
寝起きの悪さと格闘する彼を、白というよりも銀色に近い光沢を放つ長髪に、対照的な黒いドレス、黒く少し傷ついたカチューシャをつけ、人と見間違うことのない様な青い肌をしたフゥが、その最も特徴的な、足のあたりにある、燃え盛る青白い炎を閉じ込めたシャンデリアの様な檻の端に付いた鈴を、チリンチリンと鳴らして、空中から可笑しいそうに見つめていた。
視界が良好になり、手足も違和感なく動くようになるとヴェルは無表情でフゥを見つめ返し、いつもの一言を言う。
「今日も綺麗だな」
「さっき言ってもらったばかりで新鮮味はないけど、まぁ、言われて悪い気はしないわね」
澄ました顔をしているがフゥの頬が自然と緩むのを見て、ヴェルはほっと胸を撫で下ろすとともに、どこか不器用で素直にならない彼女を純粋に可愛らしいと思った。
よし、そんなフゥを見てどこからか溢れてくる力に任せて立ち上がると、ヴェルは軽く腕を回すなどをして体の最終確認をしながらフゥに尋ねた。
「今日の予定は大掃除だけか?」
「そのつもりよ。まだ随分と要らない物や埃もあるでしょうからね」
「了解、手早く片付けよう」
ヴェルは小さく告げると、あらかじめ部屋の隅に固めてあった掃除道具を持って部屋を出て、まずは一番頻繁に通る長い廊下を掃除し始めた。
フゥもありとあらゆる部屋を行き来し、要らない物を外へ出し、ヴェルの手の届かないであろう場所の埃を取り除いていった。


ヴェルとフゥが暮らしているのは、いつの時代のものとも知れぬ、廃墟と言って差し支えない様な風体のボロボロの城だった。
長時間の同じ体勢が響いたのか、腰の疼きを感じたヴェルが曲がった腰を正しく直した時、ふと窓の外へと目を向けると、城の城門あたりに、古ぼけた時計や、タンス、イスなどが、大量に現在進行形で積まれていくのが見えた。
はぁ、自然とため息が出そうになるのを勢いよく息を吸い込んで食い止める。なぜそんなことをしなくてはいけないのか、ヴェル自身にもよく分からなかったが、フゥがひどくため息をつくことを嫌っているらしい素振りがあるのを、何となく体が覚えていたゆえにヴェルは無意識のうちにため息を吸い込む様になっていた。
いつか、そんな約束をしただろうか、掃除を再開しながらヴェルは頭の中で考えた。だが、いくらか考えたところで結局はいつもの疑問に行き着くのだった。
俺はいつからフゥと共にいるのだろう…?
ヴェル自身には、自分がどこで生まれ、なぜこんなところにいるのかさえ分からなかった。
気がつくと、フゥが目の前にいて、自分のことをヴェルと呼んでいた。もちろん、この得体の知れないものを拒絶することも出来た。だが、そうしなかったのは、自身の経緯を彼女から聞きたいと思ったからでも、無理矢理ながらも交わったことによる責任感からでもなかった。
ただ、彼女の側に居てあげたい。そんな気持ちが彼女を見ているとふつふつと湧いてくるからだった。

ある程度の掃除が終わる頃には空に昇る太陽が頂点まで達し、これから下ろうとしていた。
何度取り替えたか分からないバケツの水を外に捨てていると、ふわりふわりとどこか疲れた様子のフゥがやって来た。
お疲れ様、彼女にしては珍しく優しい言葉を掛けてくることに人知れず驚きつつも、ヴェルは同じ様にフゥに返した。
「さすがに疲れたわ。どうかしら、そろそろ昼食にするっているのは?」
「ああ、もうそんな時間か。分かった、俺は軽くあのゴミの分別だけしてくる」
「へー、愛しい妻の料理の手伝いはしてくれないんだ?」
「手伝うか?」
自身の料理の不器用さが壊滅的なことを知っているヴェルはニヤリと笑みを浮かべた。わざとらしく手を差し出した。そんなヴェルの生意気な返しが気に入らなかったらしく、フゥはふんと鼻を鳴らし飛んでいった。
やり過ぎたか、少し後悔しつつ、フゥの姿が城の中に消えていくのを見届けると、ヴェルは掃除道具をそこに置いておき、無造作に積まれたゴミの山へと向かった。
あの華奢な体のどこにこれだけの大きな荷物を運ぶ力があるのか、不思議に思うよりも、もはや感動に近いものをフゥに覚える。既に捲られている服をもう一度捲り直し、軽い物から順に可燃、不燃、そして、街で売れそうな物へと分けていく。
そんな中、古びた一つの机の中から数冊のノートが出てきた。触れれば壊れてしまいそうなほど劣化しているそれらを慎重に取り出し、一冊のノートを適当に開く。
5月26日晴れ、左端に書かれたそれだけを読んだだけで、これが誰かの日記であることが分かった。この城で暮らしていた者の持ち物だろうか。
「ん?」
ペラペラとページをめくっていると、ヴェルは不意に自分の名前が書かれている部分を見つけた。不思議に思い、その周辺の文書に目を通していく。
“今日は、私ヴェルとあなたの八回目の結婚記念日です。といっても、あなたにその自覚はないでしょう?静かに眠るだけの今のあなたにそれだけのことを認識することはきっと出来ない。でも、それでも、私はあなたと結婚できたことが嬉しいです。ずっと、あなたのそばであなたを見守ります。あなたが目を覚ます、その日まで。”
これは本当に俺のことなのだろうか、ヴェルは首を傾げた。確かに過去の記憶はあまりないが、こんな日記を書き、結婚まで自分はしていたのだろうか。それに、もしこれが自身だとしたら、眠っている相手とは…。
だが、それ以上にヴェルの頭を悩ませたのはこの日記の記載日だった。
その記載日は今から八十年以上も前のものだったからだ。


「遅かったのね?分別するのに困るようなゴミでもあったかしら?」
「いや、ただ量が多かっただけだ」
嘘は言っていない、実際あの量を分けるのは時間が掛かった。たとえ十分近くあの日記を読み耽っていたとしても、些細な程度に。
ふ〜んと特に気する様子もなくフゥは頷き、料理を作る手を止めることはなかった。
食欲唆る匂いを放つ料理が出来上がるのを待ちながら、ヴェルは先ほど見た日記のことを考えていた。
日記の持ち主はヴェルと呼ばれる誰か。そして、その者が少なくとも八十年前に誰かと結婚し、三十年前のものを最後に日記は消えていたことから、およそそれくらいに亡くなったのだろうと推定することは出来た。だが、分かったことはそれくらいだった。
ヴェルはそっとイスから立ち上がり、フゥが時々使う鏡台の前に立った。
あり得ないな、頬や額など触り、口の中まで見ても、自分の体はまだせいぜい成長期が終わった位の十八、九歳くらい。もしこの日記の持ち主が自分だとしたら、既に歳は百を超えていることになる。過去に何があったかは憶えていないが、そんな長い時間生きることは、少なくとも人間である自分には不可能だ。
では、あの日記の持ち主はやはり自分ではない誰かなのか、ヴェルが鏡台に手をついて考えていると、ふと両肩に温かいものが乗った。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「何でもないのに、そんなまじまじと自分の顔を見つめていたら、私が嫉妬するわよ?」
「…俺たちはここで暮らしてどれくらいなんだ?」
遠回しに過去のことを尋ねると、ヴェルは肩に鈍い痛みを感じた。フゥの手に肩が食い込むほど力が込められていた。
「…どうしてそんなこと聞くの?」
「…」
さらに手が肩に食い込む。
「答えて」
「…何となくだ」
絞り出すようにヴェルが答えると、鏡に映った、見たこともないほど鋭い目つきになっていたフゥの顔からすっと険が無くなり、手の力も緩んだ。無言でヴェルはフゥの右手に左手を重ねた。
「…さぁ?何年かなんか分からないわ」
「それくらい長いということか?」
「さぁね」
「…そうか。変な質問をして悪かった。昼にしよう」
腑に落ちないがこれ以上詮索するのはやめた方がいい、ヴェルは本能的に直感した。これ以上は彼女の逆鱗に触れることになる。
フゥはそうねと静かに返事をするとふわりと浮き上がり、ヴェルよりも先にイスに腰掛けた。ヴェルも急いでイスに座り、フゥと料理に一言礼を言うと、無言で食べ始めた。

鏡台前での会話を最後に、ヴェルとフゥはそれ以降会話をすることはなかった。もともと、自分から話しかけることをしないヴェルだが、それでも毎日、一時間に一言二言はフゥから話しかけられていた。しかし、今日はそれ以降フゥが話しかけてくることはなかった。話しかけるべきか、とも考えたが、結局は何を聞いてもはぐらかされてしまうだろうと思うと、余計に話しかけづらかった。
ベッドに腰掛け、遠くの方で光る街の灯りを見つめていると、フゥが買ってきた名前も知らないシャンプーの香りが、風呂上がりの火照った体に心地よい、窓から入ってくる微風によって鼻腔をくすぐった。合わないな、ヴェルは一人苦笑いを浮かべた。
そっとベッドから立ち上がり、扉に鍵が掛かっていることを確かめる。もっとも、そんなことをしても、壁を通り抜けられるフゥにはほぼ意味を成さないことだ。要は気休めだった。
可愛らしいほど小さい電球のついた電気スタンドを点けると、ボロボロだが、それでもしっかりと機能を果たすイスに座って、5冊の例の日記を並べた。表紙にはそれぞれ何年何月何日からのものか書かれていたので、順に並べることは難しくはなかった。
長い年月のせいなのか、傷んでいるそれらの日記を、ヴェルはゆっくりと慎重に読み進めていった。


「…ちょっと、聞いてるかしら?ヴェル?」
「…あ、ああ…すまん、ぼーっとしていた。何だって?」
日記を夜通し読んでいたヴェルの意識は朝食を食べ終わっても、覚醒しきっているとは言い難かった。そんなヴェルにフゥは口を尖らせた。
「他の女ことでも考えてたのかしら?まぁ、いいわ。今日、私も街に行くから」
「そうか…分かった。じゃあ、いつ出掛ける?」
「この洗い物が終わって、出掛ける準備が出来たら、すぐよ」
了解した、ヴェルがそんな意味を込めて気だるげに片手を挙げると、フゥは拗ねたように体を背け、皿洗いに専念した。フゥが背を背けるのを確認すると、ヴェルはソファの手すりに頭を乗せ、ほんの二十分ほどの眠りについた。

城にいると、鳥や虫たちの綺麗な声だけが耳に入るのだが、こうして四方八方から人間の声だけが聞こえる街というのも、時には悪くない。質屋へ持っていく物を乗せた荷車を引きながらヴェルはそう思った。そんなヴェルの横に、そのままどこかへふわふわと飛んでいってしまいそうなほど、力なく浮かない表情をしたフゥがいた。
「おっ、いらっしゃいだぜ。今回も随分といっぱい持ってきたんだな」
店の中からヴェルの引いて来た荷車が見えたのか、いつも世話になっている質屋の主人である刑部狸が店から出て来た。
「じゃあ、私はお店を見てくるから、終わったら探しに来てね」
それだけ言うと、ヴェルの返事を聞くことなくフゥはどこかへふわふわと飛んでいってしまった。そんなフゥの様子を見て、刑部狸は苦笑いを浮かべた。
「喧嘩でもしたのか?」
「…さぁな。したつもりはないが」
「まぁ、早く鑑定してやるから、さっさと追いかけて、一緒にいてやれよ」
刑部狸はにっこりと微笑んだが、ヴェルは小さく頷くだけで、フゥの飛んでいった方を見つめていた。

「今回は、出せてもこれくらいだなぁ…」
着ける意味があるのか、と疑問に思うほどレンズの小さな眼鏡を掛けた刑部狸は、おずおずとヴェルにそろばんを見せた。言い方から察するに、彼女的には多くは出せていないようだが、そういった知識がないヴェルからすると、あんなガラクタにそんな価値があるのか、といつも驚かされてしまう。
特に跳ね除ける理由もなく、他の質屋を回るつもりもないヴェルは別に構わないと告げ、商談を成立させた。
店を出ると、いつの間に帰って来たのか、腕を組んだフゥが店の前に浮いていた。
「用事はもういいのか?」
「…それはこっちのセリフよ。あなたこそ、この街でしたいことがあるんじゃないの?」
「…」
全てお見通しよ、そう言わんばかりにフゥは目を細め、口の端を歪めてる。ヴェルは黙ってフゥを見つめたが、その荷車の取っ手を持つ手には自然と力が入った。
そんなヴェルの様子をフゥは小さく笑うと、人差し指を一本立てた。
「ねぇ、一つゲームをしない?」
「ゲーム?」
唐突な提案にヴェルは素っ頓狂な声で聞き返した。
「そう、日が暮れる前に、この街のどこかにいる私を見つけ出す、それだけの簡単なゲーム。ルールもない。嫌になったら先に帰ってもいい」
「…俺はもちろん、お前に何の得が?」
訝しむ様に尋ねるヴェルにフゥは近づくと、耳元に口を寄せた。
「もし私を見つけられたら、全てを教えてあげる。あなたの知りたがっていること、全てを」
ヴェルは振り払う様に勢いよくフゥの方を振り向くと、すでにフゥの姿は無くなっていた。
全く、ため息をつきそうになるのを、ヴェルは寸でのところで飲み込み、刑部狸に荷車を一日置かしてもえないかを聞くついでに、フゥが付いて来なければ本来聞くつもりだったことを聞くために、再び質屋へと入った。


西の方で夕日が燃えている。その赤い光に目を眩ませられながらも、フゥは目を細め、目の前の墓を見下ろしていた。誰も掃除する人間などいなかったのだろう。墓は泥などで汚れ、所々ひび割れていた。しかし、それでも墓石に記された名前は読めた。
「ヴェル…。久しぶり、変わらないわね。あなたは…」
フゥは愛おしげに墓石に触れ、誰も埋まっていない墓に話しかける。
さすがにここまで街の外れまで来ると、人の声など微かにしか聞こえない。とても静かな中、コツ、コツ、コツ、とゆっくりとした足取りでこちらへ向かって来る足音がフゥの耳に入った。
「ここにいたのか…」
息こそ上がっていないが、街中を歩き回ったのだろう、声を聞くだけでヴェルがとても疲れているのが分かった。
フゥは振り向かずに小さく頷いた。ヴェルはフゥの隣に立つと、同じように墓を見下ろした。
「…知り合いか?」
「うん、誰よりもよく知ってる人…」
「そうか…」
ヴェルはしゃがみこみ、墓石名に手を這わせる。
「よくここが分かったわね」
「ああ、これを頼りにな」
ヴェルは胸のポケットにしまい込んでいた小さな紙切れをフゥに渡した。紙にはこの街の番地や住所、店の名前などが書いてあった。
「何これ?」
「昨日、日記を見つけてな。そこに書いてあった場所を全て書き出した」
「そう…。それで、ここを回って、何か分かったかしら?」
やんわりと尋ねるフゥに、いや、とヴェルは力なく首を振って立ち上がった。
「だからこそ、教えてくれ。全てを」
一歩歩み寄ると、フゥはくすくすと笑い出した。だが、その笑いはいつものような意地悪い感じのものではなかった。
「分かりました。全て教えます。あなたが誰で、私とどういう関係か」


昔の話だ。
ある場所に住む、ある男と女のありふれた話。いつか結婚しようと誓い合った彼らは、何の障害も挫折もなく結婚した。そして、後は子を作り、幸せに暮らす。誰もがそう思っていた。
だが、そうはならなかった。小さな事故、本当に小さな事故だった。夫が馬車に轢かれたのだ。
その時、すぐに医者に見せるべきだった。妻は後悔した。だが、大丈夫だよ、そう告げた夫の優しい笑顔に負けてしまった。それがいけなかった。
とある日を境に夫は目を覚まさなくなった。どんな医者に見せても、夫が眠り続ける理由は分からなかった。妻もいろいろな呪い師や魔術師の元を尋ねたが、結局は変わらなかった。
それでも、妻は諦めなかった。なぜなら、夫は生きていたから。小さいながらもしっかりと呼吸をして、心臓をとめどなく動かし続けていたから。
妻の両親も夫の両親も、妻の将来を気にし、離れることを勧めた。だが、妻は離れようとはしなかった。ただ、心配してくれてありがとう、そう小さく微笑むだけだった。
夫が眠りについて、一週間が経ち、一ヶ月が経ち、一年が経った。それでも、夫は目を覚ますことはなく、静かに眠り続けていた。
その頃になると、妻も夫を無理に起こそうとすることをやめた。
毎日、おはようの挨拶から始まり、大の男の世話をし、行ってきますと仕事に出かける。そして、仕事で疲れ切った体を横たえて、一緒に眠る。
そんな毎日を送っていた。
気がつくと、自分のことを心配していてくれた両親が亡くなっていた。
そして、自分も夫もいつの間にか白髪と皺が目立つ様になってきていた。妻はその頃になると、もう夫が目を覚ますことはないのだろうと、薄々感じていた。
なら、このまま一緒に…。
そう考えていた妻が先に死んだ。理由は多々あるのだろうが、やはり、若い頃から無理をし過ぎたのが一番の要因だろう。
働き者で人当たりも良かった妻の死を悼み、葬儀は街の人々が取り行った。
数歳しか離れていない夫の妹は娘たちに夫の世話をしてくれと頼み込んだ。
しかし、恩もない叔父を受け入れられるほど、妹の娘たちも金に余裕があるわけではなかった。そのため、日に日に夫は忌み嫌われていく存在になっていった。
そんな、妻が死んで数日が経った、ある日のことだ。
夫が寝ていた部屋が火事になった。だが、その部屋を見たものは、それが普通の火事ではないことを一瞬で理解した。
部屋を飲み込む赤とは程遠い蒼白い炎、そして、白というよりも銀色に近い光沢を放つ長髪に、対照的な黒いドレス、黒く少し傷ついたカチューシャをつけ、人と見間違うことのない様な青い肌をした女性が部屋の真ん中あたりに浮いていた。その視線は鋭く夫を睨みつけていた。
あまりの光景に逃げることも出来ず、腰を抜かしていると、不意に蒼白い炎は消え、夫の姿も消えていた。だが、あれだけ炎が燃え盛っていたにも関わらず、家具やベッドは燃えるどころか、焦げ目すら付いていなかった。
夫のことを疎ましく思っていた妹の娘たちは、いなくなった夫を探そうとはしなかった。それきり、夫の行方を知る者も、夫の姿を見た者もいなかった。


街灯がまるで息継ぎでもするかのように、時々消えては、点いたりを繰り返していた。日が暮れると、場所のせいもあるのか、肌寒く感じた。だが、目の前で燃える、フゥの蒼白い炎が温かそうだとは、ヴェルはこれっぽっちも思わなかった。
「ヴェル、それがお前の本当の名前なのか?」
「正しくは人間の時はそうだった、です。今の私はフゥですから」
「…」
フゥの言っていることを、ヴェルが不思議と信じることができたのは、数年フゥと暮らしたことの賜物なのか、あるいは、妻の言うことだからなのか。ヴェル自身分からなかった。
黙り込むヴェルを見て、フゥは小さく吐息を吐き、また話し始めた。
「私がこんな姿になってしまったのは、きっとあなたを心の底から愛していたからではないと思います。私はきっと、あなたのことを憎んでいたのだと思います。いつまでも目を覚まさず、私のことを一人ぼっちのまま死なせたあなたを」
だから、フゥはそっとヴェルの頬に触れ、思い切り爪を立てた。ピクリと、ヴェルの顔が痛みで歪む。
「だから、私はあなたの老いた体を、この憎しみの炎で焼き、若い頃の肉体に戻し、自分の名前を与えました。私に縛り付けるため、新しい命としてあなたを認めないために」
「これは俺への報復だと?」
「そうですね。きっと、そう。私はあなたを憎んでいる。誰よりも、あなたが憎い…!」
やんわりとした雰囲気は無くなり、いつものフゥに戻ると、より一層ヴェルの頬に爪が食い込み、真っ赤な血が頬を伝って地面に滴り落ちる。だが、それでもヴェルはフゥの手を振り払うことはなかった。
「そんな憎い人間と暮らしていて、お前は幸せなのか?」
「幸せなんてものに興味はないわ。あるのは、あなたが苦しむ姿を見ること。昨日までのあなたはとても面白かったわ。自分が何者なのか、私が誰なのか、分からないことだらけの中で、不安や恐怖の中で、暮らしているあなたを見るのは!」
フゥはさも面白そうに口の端を歪めて笑ったが、唐突に伸びてきたヴェルの手に身を強張らせた。
自分がしたのと同じように爪を立てられる、そう思ったフゥは、頬を撫でるヴェルの手に恐怖を感じ、目を瞑った。しかし、ヴェルの手は優しく頬を撫で、そのまま頭へと登っていった。
硬く閉じていた目を開けると、悲痛な面持ちのヴェルが目に入った。
「確かに自分が何者なのか知りたいとは思った。だが、お前との生活で不安や恐怖を感じたことは一度もない」
「う、嘘よ…」
「お前は、記憶のない俺にとって、唯一無二の存在だった。そうでなくても、俺はお前に惹かれていた。当然と言えば、当然だ。お前は俺と、八十年以上も一緒にいてくれた、大切な人なんだから」
ヴェルは不器用に微笑んだ。その微笑みによって、フゥの憎しみ、いや、憎しみだと錯覚していた、寂しさが溶け出した。
目から溢れ出る涙を、心の奥底から溢れてくる寂しさを、フゥは隠すことなくヴェルへとぶつけた。ヴェルはそれをしっかりと抱きとめ、強く抱きしめる。二度と離してしまはないように。


私は、あなたのことを憎んでいたのではなかったのですね。私は、あなたのことが恋しかったのですね。ただ、それを認めたくなかったから、あなたを憎んでいるなんて、嘘をついてしまったのだと思います。
でも、あなたもあなたで悪いんですよ?こんな可愛らしいお嫁さんをずっと放っておくなんて。信じられません、考えられません。
だから、これからはいっぱい愛してください。
どんなに時が経っても、どんな姿形になろうとも、あなたのことを愛しています。
16/11/26 02:08更新 / フーリーレェーヴ

■作者メッセージ
読んでいただきありがとうございました。

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