読切小説
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閉ざされた世界を出て
 私は、生まれてからこの館から出たことは無い。正確に言うと、北の棟から出たことは無い。二階建ての棟には十室有り、この狭い領域から出たことは無いのだ。窓から見える北の森とその向こうに見える山脈を見ながら、私は外の世界について想像を巡らせて生きてきた。
 窓を開けると、風が吹いてくる。森林の前にある草地の匂いが吹き込んでくる。あの草地に横たわれば、どのような感触が得られるのだろうか?森の中を散策し、地を踏みしめた時の感触はどのようなものだろうか?窓越しではなく、直に日にあたりたい。
 だが、私には許されていないことだ。私が存在することを許される場所は、この北の棟だけだ。
 振り向けば、彼女がいる。彼女の赤い瞳は、私を見つめている。艶めかしい青い肌を晒しながら、黒髪を波打たせる。赤と黒の角は髪と共に揺れ動く。そして、背に広がる黒い翼は滑らかな動きを見せる。
 私の育て親にして監視者である悪魔は、艶麗な顔に笑みを浮かべながら、私を見守っていた。

 外を見ると、館の使用人が巡回していた。北の棟の一室には使用人が張り付いており、私が逃げ出さないように窓から監視している。森の前には監視小屋がある。こうして、この館の使用人は私を監視し、外部からの侵入者を見張るのだ。
 私は苦笑を抑えられない。そのような監視は必要無いのだ。私には、常に悪魔が張り付いて見張っている。彼女の手を逃れて逃げ出すことは不可能だ。
 だが、私は彼女に感謝すべきかもしれない。彼女のおかげで、部屋の窓に鉄格子は付けられない。彼女がいなければ、私は窓をふさがれた部屋に監禁されていたかもしれないのだ。
 前述したように、私は生まれてからこの館に監禁されている。理由は、私の顔が醜いからだ。いや、醜いなどという生易しいものではない。私は、鏡を見るたびに思案する。どのような法則によって、このような顔が出来るのだろうかと。
 私の顔を言い表すのならば、混沌という言葉が適切だ。目のあるべき場所に目は無い。鼻の有るべき場所に鼻は無い。口のあるべき場所に口は無い。いずれも本来無いはずの場所に有る。肉の付くはずの場所に肉は付かず、肉の付くはずの無い場所に肉は付いている。
 人は神によって作られたと言う。それが真実ならば、私を作った時に神は酔っぱらっていたのだろう。あるいは、おかしな薬を楽しんでいたのだろう。
 私は貴族の家に生まれた。私の家は私の存在を恥じ、私をこの館の中に監禁したのだ。表向きは、私は死産ということになっているそうだ。つまり私は、公的には存在しない人間だ。
 私を育ててきた者は、ファティマという名の悪魔だ。彼女は、私の母のような存在だ。私の衣食住は、彼女の手によって与えられた。彼女は私に言葉を教え、動作を教えた。私に学問を教え、武術を教え、礼儀作法を教えた。私という存在は、彼女によって形成された。
 もしかしたら、彼女を母と呼ぶことは不適切だろう。おそらく、世の中にいる母以上のことを彼女はしてくれた。それでは彼女は何かと聞かれれば、私にはうまく答えることは出来ない。
 私のような異常な顔をした者は、他人から迫害されるだろう。家族も迫害者となるだろう。現に、私の一族は私を監禁している。だが、ファティマは私を迫害しない。私を育てるために力を尽くしている。愛情という言葉は安易に使うことは出来ないが、ファティマは愛情をこめて私を育てているのだろう。そう私に思わせるような育て方をしているのだ。
 同時に、彼女は私の獄卒だ。ファティマは、私を育てながら私をこの館に捕らえている。彼女は、私がこの館から出ることを許さない。外へ出ようとする私の試みは、ことごとく彼女によって妨げられた。
 彼女は、私の一族と契約を結んでいる。彼女は、私の一族を繫栄させる。その代わりに、私の一族は彼女の勢力拡大のために働く。それが契約の内容だ。高位の悪魔であるファティマは契約に従い、没落貴族である私の一族を盛り上げた。私を監禁し、育てることも契約の中に入っている。
 悪魔は、私の庇護者であると同時に獄卒なのだ。

 私の生活は、悪いものでは無い。それどころか贅沢なものだろう。館は古色蒼然とした趣であり、陰鬱な印象を与える。だが、歴史を経た石造りの壁や柱、床は、堅固な造りだ。
 室内の装飾も立派なものだ。壁には絹織りのタペストリーが飾られ、金で縁取られた鏡が掛かっている。床には毛皮が敷かれ、大理石造りの彫像が置かれている。昼はステンドグラスからさす光が照らし、夜は金銀の燭台が照らす。
 北側にあるために日当たりが悪い事が難点だ。春秋でも暖炉に火を入れ、毛皮をまとっている。ただ、暖炉が有り薪に困ることは無く、黒貂の毛皮をまとうことが出来る。これは恵まれた環境だと言えるだろう。
 私は、絹服をまとうことが出来る。宝石を身に付けることも出来る。これは、私が恵まれていることを十分に証明しているだろう。絹服の中には、金糸で刺繡がしてあり、紅玉や青玉が縫い込まれている物も有るのだ。
 食事も恵まれている。豚肉、牛肉、鶏肉、羊肉などを食べることが出来る。時には、鹿や猪、熊の肉を食べることが出来る。これらの肉を、東方から輸入している香辛料や趣向を凝らしたソースで調理しているのだ。魚貝料理も豊富であり、香辛料で味付けしたムール貝のスープや、ソースに漬けた鮭や鱒を食べることが出来る。蜂蜜に漬けたケーキや、柘榴のシャーベットを食後に味わう。
 私が成長すると、酒を飲むことも出来た。葡萄酒や麦酒、蒸留酒を飲むことが出来る。私が好む物は、白葡萄酒を蒸留させた酒だ。西の国に住む錬金術師が、研究の際に作り出したそうだ。この強いくせに甘い味わいの有る酒を、舌の上で転がしながら飲む。そうすると、自分の中から憂いが抜けていくような気がするのだ。
 この贅沢な生活は、私の一族の富を証明している。そしてファティマが、いかに私のために力を尽くしているかを証明している。監禁されているとはいえ、私は豊かな生活を楽しんでいるのだ。
 監禁されている私の楽しみは、本を読むことだ。私の本棚には、本がぎっしりと詰まっている。これも私のぜいたくな生活を証明している。この国では、そして大陸の多くの国では、本は羊皮紙で出来ている。印刷することは出来ず、手で書かなくてはいけない。写本は高価な物であり、富裕層でなければ手に入れることは難しい。それが本棚にぎっしり詰まっているのだ。
 南の大陸や霧の大陸、そして禁制品である魔界の本も有る。これらは、霧の大陸で作られたという紙で出来ている。紙は羊皮紙と違い印刷しやすく、本は大量に作ることが出来るそうだ。魔界や親魔物国では、私の国とは比べ物にならないほど本が出回っているそうだ。これらの紙製の本も、私は大量に所持している。読書を楽しむことが出来ることも、ファティマのおかげだ。
 私は、ファティマの力により閉ざされた世界で恵まれた生活をしていたのだ。

 私は、いつものように本を読んでいた。国の南部について解説している本を読んでいた。歴史に触れながら地理を解説している本だ。私は、外の世界について書いている本を読むことが多い。私の想像をかき立てるからだ。
 ただ、読んでいると空しくなることがある。私は、この館から出ることは出来ない。私にとって、外の世界は異世界なのだ。仮に外の世界に出ることが出来たとしても、私の顔では迫害を受ける。そして、外の世界で生きていく知識や技術を私は持っていない。外の世界のことを知ると空しくなるのだ。
 私が本を机の上に放ると、ファティマは私の所に歩いてきた。赤い付け爪の付いた手袋を脱ぐと、彼女のしなやかな手が現れる。私の頬に手をそえ、ゆっくりと愛撫する。彼女は、私の頬から肩へ、腕へと愛撫していく。私の顔に頬をすり寄せ、耳に息を吹きかけてくる。彼女はジャスミンの香水をつけており、その甘い香りが私を慰撫する。
 彼女はひざまずくと、私の太ももをなでさすった。私のペニスは固くなり、服の上からでもわかるほど盛り上がる。彼女は上目遣いに微笑むと、私のズボンをゆっくりと脱がす。下履きの上からペニスを愛撫し、下履きを抜かしていく。むき出しになりそそり立っているペニスに口付け、愛おし気に頬ずりをする。
 フェティマは、私に対して性の奉仕もしている。私が精通するころになると、私に性の奉仕を始めた。彼女は様々な性技を駆使し、私に性の快楽を教え込んだ。怪物じみた私に対して、彼女は熱心に性の交わりを行うのだ。ファティマとの性の交わりは、私に最も喜びを与えてくれる。
 彼女のことを母と呼ぶことをためらう理由の一つは、この性の歓楽だ。母ならば、息子と性の交わりをしないだろう。それは禁忌だ。
 いや、もしかしたら彼女は母なのだろうか?禁忌を犯す母、それが彼女という存在なのだろうか?
 私は、悪魔たるファティマとの交わりに耽溺した。彼女は、私のペニスに丁寧に奉仕する。汚れを舐め取るように舌を這わせる。先端の溝を舌で愛撫し、くびれの所をこそぎ取るように舌を這わせる。竿を手で愛撫しながら、陰嚢に舌で唾液を塗り込む。唾液と先走り汁で濡れるペニスに、微笑みながら頬ずりをする。
 私はファティマを見つめた。彼女は、胸と下腹部をわずかに覆った皮の服を着ている。黒革は光沢を放ち、彼女の肢体を強調する。悪魔の青色の肌は人間離れしているが、人間とは違う艶があるのだ。私は、彼女の豊かな胸に目をひかれる。
 悪魔は微笑み、辛うじて胸を隠す服をずらした。豊かなふくらみが露わとなり、とがった先端が揺れる。胸は私に近づいてきて、たぎり立つペニスに押し当てられる。ペニスは谷間に飲み込まれていき、暖かく柔らかい感触に包まれた。悪魔は胸を手で押さえ、胸を動かしてペニスを愛撫する。
 私は胸から目が離せない。双丘は、ペニスを上下に揺らし、くすぐり、愛撫し、揉み解す。固い突起は、胸の動きと共に刺激を与える。裏筋をくすぐり、先端を突っつく。ペニスの先端からは透明な液があふれ続け、張りのある胸をぬめらす。悪魔は先端に口を付け、音を立てて液を吸い出す。
 私は、絶頂へと駆け上がっていく。悪魔は、私の顔を見上げながら胸と口による責めを続ける。彼女は、私のことを把握している。出そうだと私が言うと、亀頭を口に含んで裏筋を舌でくすぐる。
 私のペニスは弾けた。精液が彼女の口の中にほとばしる。ペニスから腰へ、背筋へ、頭頂へと快楽が走る。全身が震えて、体の奥から精液が放出する。悪魔は、喉を鳴らしながら子種汁を飲み込んでいく。口の中の物を飲み干すと、先端を吸い上げる。下品な音を立てながら、中に残っているものを一滴残らず吸い上げる。
 悪魔はペニスから口を離した。私の顔を見上げて笑いかける。濡れた唇を舌で舐め回す。
 私の体に震えが走る。彼女の奉仕には、何時まで経っても慣れない。私は、快楽と興奮の渦へと引きずり込まれてしまう。
 私のペニスを舌で清め終わると、ファティマは寝台へと私を誘った。私は、彼女の手に導かれるままに寝台に横たわる。彼女は、上半身の服も脱がしていき、私を裸にする。
 悪魔は、いたずらっぽい表情を浮かべた。私の下半身に覆いかぶさると、私の足の付け根を愛撫しながら揉みこんでいく。私の股に顔をうずめると、舌で陰嚢を持ち上げて裏側を舐め始める。舐めるたびに顔が動き、彼女の鼻はペニスをくすぐる。
 悪魔は、私の足とペニスの間を揉んでいく。そして足と尻の間に手を滑らせ、そこも揉み解す。私の下半身にゆったりとした快楽が広がる。そのマッサージの最中でも、彼女は陰嚢の裏を舌で愛撫し続け、ペニスを鼻でくすぐり続ける。
 私の尻が持ち上げられた。股の間に笑う悪魔の顔が見える。彼女は、私の尻に顔を押し付ける。私の体に鮮烈な刺激が走った。ぬめる物が私の尻の穴を愛撫している。悪魔は、私の不浄の穴を舐め回しているのだ。彼女はねっとりと舌を動かしたかと思うと、小刻みに動かして刺激を与える。その度に下半身が快楽に震える。穴の入り口をたっぷりとぬめらすと、なめらかな舌を奥へと潜り込ませてくる。私の体で一番汚い部分に舌を入れているのだ。
 大量に精液をぶちまけたペニスは回復しており、震えながら透明な液を溢れさせていた。悪魔は奥へと舌を伸ばし、尻穴に音を立てて口付けをする。ゆっくりと彼女が舌を抜くと、私の体にけいれんが走った。震える私に悪魔は微笑みかける。
 悪魔は、私の前に立ち上がった。下腹部を辛うじて隠す皮の服を脱ぎ、陰毛に覆われた肉の泉を見せつける。陰毛はすでに濡れそぼち、窓からさす光により鈍く輝いている。甘酸っぱい匂いが私の鼻をくすぐる。彼女は、私の下腹部に腰を下ろしてくる。悪魔のヴァギナは、私のペニスを飲み込んでいく。
 締め付ける肉の渦は、私のペニスをたちまち快楽の虜にした。ペニスから全身へ快楽が放たれる。悪魔の体は素晴らしく、その手、口、胸は私に悦楽を与える。だが、この肉の泉はそれらをしのぐ快楽を与えてくれるのだ。私のペニスは、そして私の存在は、肉と蜜の渦中に引き込まれていく。
 たちまち絶頂へ押し上げられそうになる。私は自分の体に爪を立て、弾けることを防ぐ。歯を食いしばりながら腰を動かし、彼女を突き上げる。
 柔らかい手が私の胸を愛撫した。彼女はうるんだ瞳で私を見つめ、私を撫で回す。私の頬に手を当てると、私に覆いかぶさる。彼女の口が私の口をふさぐ。私たちは舌を絡め、唾液を混ざり合わせる。その最中にも、私たちは相手に合わせて腰を揺すり動かす。悪魔は、私のペニスを締め付け、精をほとばしらせようと促す。
 私のペニスは弾けた。体の奥から精液がわき上がり、彼女の子宮へと放出する。震えながら悪魔の子袋を打ち抜く。私たちは抱き合い、震えあいながら、獣じみた声を上げる。私の目の前は明滅し、意識は拡散する。ただ、快楽だけが私の体に、私の存在に叩きつけられる。
 気が付くと、私は寝台の上で彼女に抱きしめられながら横たわっていた。ファティマは、汗で濡れた頬をすり寄せている。そして私の頭をゆっくりと撫でている。
 私は、ただ快楽の名残に支配されながら、ファティマに抱かれるままになっていた。

 私は幸せなのだろう。こうして閉ざされた世界の中で守られ、安楽な生活が出来る。開かれた世界は、必ずしも幸せではない。私は、この小世界で幸福を楽しめばよいのだろう。豊かさと快楽に耽溺し、庇護者の胸の中でまどろんでいれば良いのだろう。
 だが、その安寧はいつまでも続くものでは無かった。

 その日は、不自然に静まり返っていた。普段は使用人たちが働く物音が聞こえてくるが、その日に限っては無い。ファティマも私の側にいなかった。少し用があると言って、昨夜出ていった。具体的に何の用があるのかは、話さなかった。いつもはファティマが食事の用意をするが、その日は使用人が食事を持ってきた。彼の顔は無表情だが、どこか不自然な所がある。
 私は不信の念を抑えられない。このようなことは、今までに無かった。少なくとも、私に伝わるような形では無かった。私は監禁されている身であり、探ることは難しい。せいぜい北の棟を歩き回ることくらいだ。北の棟いる使用人は、監視部屋にいる者だけだ。巡回の使用人は、いつも通り庭を歩き回っている。
 私は自室に戻る。落ち着くことが出来ない。ファティマから話を聞きたいが、彼女は朝からいない。日が暮れても彼女は現れない。
 夕食はいつまで待っても来なかった。業を煮やして、使用人を見つけようと北の棟を探し回ったが、誰もいない。監視部屋の使用人もいなくなっている。
 私は、北の棟から出ようとする。だが、足が張り付いたように動かない。私は、物心ついた時からこの北の棟にいたのだ。一度も外へ出たことは無い。未知の領域に対する恐怖が、私の足を震わせる。
 羽ばたきの音がして、黒い影が舞い降りた。私は声を上げてしまう。後ろへ逃げようとしたが、うまく動けずふらついてしまう。私は、辛うじて足を踏ん張る。黒い影は手を伸ばし、私を抑える。
 黒い影はファティマだ。私は、思わず安堵の息をつく。だが、彼女の顔は強張っている。私は彼女に問いただそうとしたが、彼女は先に口を開く。
「逃げましょう。危険が迫っているわ」
 私は、彼女の顔を注視する。緊張した顔であり、冗談を言っている様子は無い。
「場所は私に任せて。あなたのことは、私が守るから。急を要することなの。急ぎましょう」
 ファティマは、私を落ち着かせようと微笑みを浮かべる。だが、強張った笑みだ。
 私は質問をしようとするが、彼女はそれを遮る。私の手を引いて逃げ出そうとする。私は、質問を抑えて彼女に従う。わけの分からないことになっている。だが私は、常に彼女の言う通りにしてきた。
 私たちは北の棟から出ようとした。何も用意せずに、着の身着のまま出ていこうとする。
 出口に駆けだそうとすると、ファティマは手を引く。彼女は私の前に出る。叩きつけるような音がして扉が開く。出口から男たちが駆け込んできた。手には剣や槍を持っている。彼らは無言のまま、剣と槍を突き出してくる。
 赤と紫の光が弾けた。武器を持った男たちが吹き飛ぶ。だが、新手が押し寄せ、剣と槍を突き出す。悪魔は光の玉を放ち、敵を飛ばす。床や壁に叩きつけられた男たちは、うめき声を上げてうずくまっている。
 ファティマは私の手を引き、男たちを越えた。出口から駆け出そうとする。突如、ファティマは後ろに下がり、私ごと床に倒れる。弾けるような音があたりに響く。
 彼女は、私にけがが無いことを確認する。そして、今まで自分が立っていた場所を観察する。床に二つ穴が開いていた。すぐそばの壁にも、一つ穴が開いている。
「銃を用意していたのね。私があなたを助けることを予想していたわけだ」
 ファティマは、唇を噛みしめる。
 彼女は、私の手を引いて二階に駆け上がり、北側の一室に飛び込む。手を前にかざし、手から黒い影を出し始める。影は、翼を持つ者と人型の者の形となる。ファティマは窓を開け、二体の影を窓から出す。翼を持つ影は、人型の影を抱いて飛んでいく。
 乾いた音が複数響く。ファティマは、銃が撃たれた場所を窓から観察している。彼女は、赤と紫の光が放つ。閃光が弾け、轟音と悲鳴が交差する。
「さあ、行きましょう。私が抱えて飛ぶからね。心配しなくていいのよ」
 私は、翼を持つ悪魔に抱かれて窓から飛び立った。吹き付けてくる風と足元に何もない感触は、私の体を震わせる。彼女は、羽ばたきながら私をしっかりと抱きしめている。そして愛撫する。彼女の柔らかい感触が私の中に染み渡る。私は、恐慌に陥らずに済む。
 月は雲に隠れ、私たちの姿は見えにくいだろう。優しい悪魔は私にささやき、愛撫してくれる。私は、次第に安堵していく。
 風を切る音が響いた。ファティマは、急に体をひねる。彼女の口からうめき声が漏れる。飛行が急に不安定になり、私は空中で揺さぶられる。私は、声を抑えられない。
 悪魔の手から光が放たれる。左斜め前の地面に光が弾け、轟音と悲鳴が合わさる。彼女は羽ばたきを繰り返し、空中で体勢を立て直そうとする。私の左肩に濡れた感触が広がる。彼女は負傷したのか?
 彼女の体勢は直り、飛行は安定する。彼女は、そのまま私を抱えて飛び続ける。銃声も風を切る音も追ってこない。私たちは、逃げることが出来たのだ。
 雲に隠れていた月が姿を現した。青白い月光が私たちを照らす。私は、彼女の左肩を見る。黒っぽい液体で濡れていた。
「銃だけではなく、弩弓も用意していたらしいわね。避けたけれども左肩を掠めたわ。人間だったら危なかったけれども、私は悪魔だから大丈夫よ」
 そう、彼女は微笑む。
 私は、何と言ったら良いか分からない。私は、無言のままうつむいた。
 彼女は、手傷を負ったまま飛び続ける。森林の中に、少し開けた草地を見つける。彼女は、そこに降り立つ。
 ファティマは、まず私に怪我が無いか確認した。それから自分の負傷部分の手当てを始める。時折顔を歪めるが、すぐに表情を元通りにする。そして私に微笑みかける。
「ありがとう」
 やっと、私は言った。これ以上は言えなかった。
 私を庇護する悪魔は、私を安堵させるように微笑んだ。

 私たちを襲ったものは、私の一族の者だ。一族は権力と財産をめぐり、内紛を起こしたのだ。その混乱の最中に、私を邪魔だと考える者が襲撃をかけて来たのだ。
 ファティマはその時に、襲撃者とは別の者から依頼を受けていた。内紛を収めることを手助けして欲しいと頼まれていたのだ。彼は契約を結んだ中心人物であり、彼女との契約を忠実に守っていた。だから彼女は、彼の依頼を引き受けた。そのために、私への襲撃に気付くことが遅れたのだ。
 辛うじて彼女は間に合い、私は彼女に助けられた。あの後で、彼女の一派が活動している拠点の一つに、私はかくまわれた。ファティマたちは、私の住む国で魔物の勢力を拡大するために活動しているのだ。私の国は反魔物国であり、魔物は排撃の対象だ。ただ時折、自分の勢力を拡大するために魔物と手を組もうとする者がいる。ファティマたちは、その者たちを利用しているのだ。
 私の一族は、結局は崩壊した。内紛は収まらず、契約の中心人物は暗殺された。悪魔と契約したことは国に露見し、家は取り潰しを受けたのだ。ファティマは、これらの失態と私への襲撃を契約違反と見なした。彼女は、私の一族との契約を破棄した。ただ、私への襲撃に加担していない者たちは、国に捕らわれないように保護した。
 保護された者の中には、私の生母はいない。彼女は官吏に追われ、現在行方をくらましている。

 私は、住んでいた国の南にある親魔物国に移住した。ファティマは、私を保護することを優先し、工作員の一線から退いたのだ。彼女は、現在では私の面倒を見ながら後方での支援活動に従事している。
 私は、この地で魔物の医者による手術を受けた。人間の医術で私の顔を変えることは不可能だが、魔物の医術では可能なのだ。技術と魔術を駆使した手術により、私の顔は変わった。混沌を体現していた顔は、秩序だった物となった。私の顔を見ても、誰も嫌悪を露わにすることは無い。
 顔が変わっても、ファティマの態度は変わらない。彼女は、以前と同じように保護者として接してくる。彼女にとっては、私の顔は大して問題ではないらしい。人間ならば有り得ないことだが、魔物ならば有り得るらしい。
 閉ざされた世界で生きてきた私は、外の世界のことをほとんど知らない。本とファティマを通じて知ったことだけだ。外の世界で生きるすべを、ファティマは丁寧に教えてくれた。
 彼女は、常に私に付き添った。街を歩くときなど、私に寄り添っていた。街は、私に恐怖を与える物だ。見たことが無いほどおびただしい数の人々が行きかっている。それらの人々は、何の秩序もなく騒いでいるように見える。だが、街には決まりがあり、その決まりを守ることが強要される。それは明確なものも有れば、不明確なものも有る。不明確なものは、「常識」などと言って守ることを強要される。
 このような所では、私は何をしていいのか分からなかった。パンを買うことすら出来なかったのだ。恐怖に耐えられず、街中で吐いてしまったことすらある。子供よりもひどい状態の私に、ファティマは噛んで含めるように教えてくれた。ファティマがいなければ、私は部屋の中に引きこもっていただろう。彼女の丁寧な指導により、私の恐怖は薄らいできた。そして、次第に街を楽しむようになった。

 私とファティマは、住んでいる街の近くに有る小高い丘に登った。そこには古代の遺跡がある。石柱が並ぶ中で、私と彼女は街を見下ろす。そして街の向こう側に広がる川と草地、はるか先に見える山脈を眺めた。過去の歴史が存在し、受け継がれてきた広大な空間が広がっていた。
 日差しが私を照らし、風が私に吹き付けてくる。地を踏みしめると、草の感触が足に伝わってくる。かつては体験出来なかったことだ。風を受けながら、私は目の前に広がる光景を見渡す。私の前には、光に照らされた世界が広がっている。最早、閉ざされた生活は終わったのだ。
 突如、私に恐怖がわき上がってきた。体の底から震えが走る。巨大な、ものすごく狭い檻に入れられた意識と感覚が私を襲ったのだ。矛盾した表現だが、そんな檻に入れられた気がするのだ。
 私は自由だ。私は自由に考え、行動することが出来る。私は、数多くのものから選択できる。私は、世界を自由に歩けるのだ。私の前に広大な自由の世界が広がっている。くまなく光で照らされた、影の無い世界が広がっている。
 これは幸福なことなのだろうか?この広大な世界で自分を守るものは有るのだろうか?自由は幸福なものなのか?自由は恐ろしいものでは無いのか?私は、「自由の牢獄」に入れられてしまったのではないか?
 私は、震えながらしゃがみ込む。私の中に、あの館の一棟で暮らした日々がよみがえる。閉ざされた決まりきった生活をしなくてはいけない日々。選択することが許されない日々。不自由な、だが守られた日々。その日々の思い出は、恐怖に震える私を落ち着かせる。
 私は、あの閉ざされた世界で幸福だったのではないか?だが、その世界は失われた。私の前には、恐るべき自由な世界が広がっている。私は、裸で放り出されているのだ。
 暖かいものが私を抱きしめた。ファティマは震える私を愛撫し、低く落ち着く声でささやく。私は、彼女に抱きすくめられている。彼女の存在が私に染み渡り、私の心の平安を取り戻させる。
 そうだ、彼女がいる。悪魔は、私を捕らえていてくれるのだ。捕らえることで守ってくれる。彼女がいれば、私は自由の恐怖に耐えることが出来る。
 私はファティマの方を向き、彼女を抱きしめた。彼女の柔らかい感触、暖かさ、嗅ぎなれた香りは、私の心を落ち着させる。彼女は、私が生まれたころから守ってくれたのだ。彼女は、私にとって最も大きな存在なのだ。
 私は、果てしなく広がる世界の中で彼女を抱きしめ続けた。
16/10/31 23:38更新 / 鬼畜軍曹

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