読切小説
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死の舞踏を描く者
 街は死臭に覆われていた。くちばしの長い鳥の仮面を着けた者たちは、男たちを指揮して街路に倒れている人々を運ばせている。仮面の者たちは建物の中にも入り、人を運び出している。彼らの仮面には薬草が仕込まれており、服にも薬草を入れた袋が吊るしてある。だが、薬草の香りも死臭にかき消されていた。
 倒れている者たちの肌は、みな黒ずんでいた。激しく苦しんだ跡が、歪んだ表情や体にはっきりと残っている。奇怪な形に歪んだまま硬直した死体を、非人間的な仮面を着けた者たちが運び出している。
 この死体処理を見つめている男がいた。地味な黒衣をまとった、平凡な顔立ちの男だ。だが、その男の表情と目つきは狂犬を思わせるものだ。熱病に浮かされた様な顔で血走った眼をして見つめている。目が座っているために異様さは増している。
 男は、身じろぎもせずに死の光景を見つめ続けた。

 ヨハンは、薄暗い自室で彫刻刀を動かし続けた。ロウソクの明かりを頼りに、木版画を彫り続けている。その表情は、真剣というよりは異常だ。薄暗い部屋の中で彫り続ける彼は、幽鬼のように見える。
 彼は、そうして昼から休みなく掘り続けていた。ロウソクを灯すために動いた以外は、版画を彫り続けている。何刻も無言で彫り続けたかと思うと、意味の分からないことをつぶやき続ける。
 ヨハンの様子も異様だが、彼の彫っている版画は常軌を逸していた。街の中で骸骨たちが踊り狂う姿を彫っているのだ。完全に骸骨になっている者もいれば、腐った肉片と蛆虫をまとわりつかせた骸骨もいる。上等の服を着て装身具を身に着けた骸骨もいれば、ぼろきれのような服をまとっている骸骨もいる。いずれの骸骨も踊り狂っていた。
 近所の人々は、ヨハンを気味悪がっている。元は普通の版画家だったが、黒死病が流行りだしてから不気味な版画ばかり彫るようになった。ヨハンの言動も異常になってきた。近所の人々は、彼を狂人呼ばわりしている。
 ヨハンは、人からどう見られようと気にしない。今の彼の頭にあることは、黒死病の蔓延から得た着想を版画にすることだ。黒死病による惨禍は、それまでの疫病や戦争による惨禍とは段違いだ。全ての者が死に絶えた町や村は続出している。正確な死者の統計はないが、ヨハンの国では何十万という死者が出ている。もはや死は、人々にとっては見慣れたものとなっている。
 惨禍は、黒死病によるものだけではない。国内で異端と見なされている人々や弱い立場の人々は虐殺されている。彼らが毒を井戸に投げ込み、呪いをかけているという噂が広まったためだ。それにより黒死病が蔓延しているというのだ。国中で虐殺が行われており、諸侯や将軍、市長が扇動し、兵士や警備隊の者たちが虐殺に参加することも多い。
 地獄と化した日常の中で、狂気がかった踊りに耽溺する人々が出ていていた。街の街路で、広場で何百という人々が踊り狂う。卑猥な言葉を喚きたて、意味の無い声を上げながら踊り狂う。酒を飲みながら半裸で踊る者もいる。黒死病の死者を埋葬する墓場で踊り狂うこともある。
 ヨハンは、この狂った踊りから版画の着想を得た。死がはびこる世界の中で踊り狂う人々。これこそ自分の彫る題材だと信じ込んだ。世界にあふれる死と狂気を描くことこそ自分の使命だと確信したのだ。
 彼は、黒死病の処理をしている医者たちの所へ出かけた。墓へ死者を埋葬するところも見に行った。冤罪で人々が虐殺される光景も盗み見た。そして、絶望から踊り狂う人々も観察した。そうして得た着想を版画として描いている。
 自分が狂ってしまっても構わない。もうすでに狂っているかもしれないが、それで結構だ。ヨハンはそう考え、死の舞踏を描いた版画創りにのめりこんでいる。

 ヨハンの部屋の戸を叩く者がいた。応える者はいない。戸はゆっくりと開き、ヨハンの仕事部屋に人が入ってくる。
 赤毛と紫色の瞳が印象的な、小柄な女だ。明るいオレンジ色の服を着ており、活動的な印象を与える。小柄なために少女に見える。彼女は、ヨハンがいないかと部屋を見回す。
 ヨハンは床に倒れていた。彼女はすぐに駆け寄り、ヨハンの様子を見る。寝ているだけだと分かると、ヨハンをそのまま床に眠らせる。部屋から一旦出て、ヨハンの寝台から毛布を持ってきた。彼を起こさないようにそっとかける。
 ヨハンは、夜通し版木を彫っていた。睡眠を忘れ、食事を忘れて版画を創っていた。日が昇ってからも彫り続け、ついに倒れるように床に寝込んだ。寝込んで間もなくして、女が入ってきたのだ。
 彼女は、部屋の中を見てため息をつく。埃だらけになっており、彼女が前回掃除をしてから清めた形跡はない。床一面に、木の削りかすが散らばっている。食器は汚れたまま積んでおり、汚れかすは腐っている。
 ヨハンからはきつい臭いが立ち上っている。何日前に体を洗ったのか分からない。着ている服は黒色であるために目立たないが、汗と垢で汚れきっているだろう。彼の顔には無精ひげが目立つ。
 ミーナは、ヨハンの木版画の版木を買い取っている商人の使いだ。彼女は、生活を顧みなくなったヨハンの面倒を見ている。食事の用意、部屋の掃除、服や寝具の洗濯などをしている。彼女がいなければ、ヨハンの体はとっくに壊れているだろう。
 ミーナは、部屋の目立つところを片付け始めた。ヨハンが目を覚ましてからきちんと掃除をする。その前に、食器と洗濯物を洗うつもりだ。彼女には、ヨハンの狂気がかった行動を止めることは出来ない。だから、彼の面倒をみて創作の手伝いをしている。
 ミーナは、ヨハンの彫っていた版木を見つめた。骨だけとなった街の人々が街路で踊っている。骨のくせに躍動的であり、みだらな様子をしている者もいる。その版木からは異様な熱を感じ取れた。
 ミーナの表情が変わる。明るい顔つきは、異様なほど研ぎ澄まされたものと変わる。その目つきは、ヨハン同様に仄暗い炎を思わせるものだ。普通の少女の顔つき、目つきではない。
 狂気がかった顔をした女は、版木を見つめ続けた。

 ヨハンは、過去のことを夢で見ていた。まだ、黒死病の蔓延する前のことだ。
 ヨハンは、客の望むものは何か、それを版画という形にするためにはどうすればよいか、そのことばかりを考えていた。客の望む物を創り出すことこそ、職人のすべきことだ。そうすることで職人の存在価値は認められ、収入を得て生活できる。そう考えて版画を創り続けた。
 彼の創る版画は、明るく、やや泥臭いユーモアがあり、辛辣にならない程度の機知が込められていた。客をある時は笑わせ、ある時は慰撫した。彼の版画は、客たちから好意的に迎えられていた。
 ヨハンは、ある程度人気があり生活できる収入を得られる版画家だった。厳しいうえに理不尽な親方の下で修業した日々が報われる生活を送れた。自分の創作活動を価値あるものだと信じることができ、自分の創作に疑念を持たずに済む生活を送れたのだ。
 ヨハンの全ては、黒死病によって変わった。瞬く間に広まった黒死病は、未曽有の被害を国中にもたらした。おびただしい人々がもがき苦しみながら死んでいく。対策は後手に回り、しかも効果は無い。顔見知りが次々と死んでいくのを目の当たりにしなくてはならない。ヨハンの両親も黒死病により冥府に送られた。その苦しみに満ちた旅立ちを、ヨハンは目の当たりにしたのだ。
 ヨハンは殺されかけたこともあった。彼は、自分の創作を支援してくれた商人の所に出かけたことがある。別の街に住むその商人の家に近づいた時、家の近所の者から襲われた。斧を持って襲い掛かってくる男から必死に逃げる。街の警備隊に救いを求めたら、警備隊は槍を持って襲い掛かってきた。
 ヨハンは、街中をドブネズミのように走り回り、這いずり回りながら逃げた。ゴミ捨て場に潜み、用水路に飛び込み、崩れた空き家の床に這いつくばる。街から逃げ出した時は、ゴミと泥に汚れて浮浪者のようなありさまとなった。
 後で知ったが、支援してくれた商人は流浪の民と呼ばれる人々の血を引いていた。そのために井戸に毒を投げ込んで黒死病を広めたと疑われ、近所の者たちに斧で叩き殺されたのだ。その虐殺には街の警備隊もかかわっている。ヨハンは、虐殺された商人と同じ民だと思われて襲われたのだ。
 黒死病は猖獗を極め、収まる様子はない。薬を飲もうが塗ろうが、一旦かかった者は死んでいく。ヨハンもいつ死ぬか分からない。黒死病で死ぬかもしれないし、斧で叩き殺されるかもしれない。焼き殺されるかもしれない。
 そんな日々の中で、ヨハンは版画を彫れなくなっていた。何を彫ろうと白々しく、意味がないように思えるのだ。明るさだの、ユーモアだの、機知だのは、この地獄と化した世界で何の意味があるのか?金のために彫ろうとしても、意欲が湧かないためどうにもならないのだ。
 いつしかヨハンは、死の舞踏に参加するようになっていた。絶望故に狂った人々は、街路や広場で、あるいは墓場で踊り狂う。酒を飲みながら、怪しげな薬草を噛みながら、半裸になって踊り狂う。ヨハンは、踊り狂わなくては押しつぶされそうになっていた。
 踊り狂う内に、彼の中に何かが下りてきた。それが何なのか、ヨハンには分からない。だが、踊り続けるうちに形をとっていく。そしていくつかの像が浮かび上がり、それは版画の形を取り始める。その版画の像は、彼の中に意味を持たせていく。
 ヨハンの全身がけいれんする。自分のなすべきことが分かった気がした。意味を失ったはずの創作は、かつてないほど彼に意味を与えた。自分の使命が分かったとさえ思った。
 ヨハンは踊りの行列から飛び出し、工房を兼ねる自室へと駆け出す。早く彫らなくてはならない。なすべきことをなさなければならない。人々が彼の彫る物を嫌おうとかまわない。客の好みを探ることは、すでに意味を失ったのだ。ただ、自分の彫るべき物を彫らなくてはならない。
 ヨハンの覚悟した通り、ヨハンは狂人呼ばわりされるようになった。常軌を逸した生活をしながら、不気味な版画を次々と彫る版画家。まともに扱われるわけがなかった。彼を尊重し、支えてくれる者はミーナだけだ。

 ホルガーは、ヨハンが部屋から出ていくことを確認した。今日は、黒死病により死んだ者が三十人以上埋葬される。ホルガーは、ヨハンがそれを見に行くと予想していた。それが当たったのだ。
 ホルガーは、ヨハンの近所に住む肉屋だ。もともとヨハンのことを気にくわなかったが、ヨハンが不気味な版画を彫るようになってからは、陥れようとたくらんでいた。版画を使って呪いをかけ、黒死病を広めていると噂をばらまいていた。証拠さえつかめば、近所の者や警備隊を扇動して、ヨハンをなぶり殺しに出来る。それで、ヨハンの部屋に侵入しようとしているのだ。
 部屋に侵入することは簡単だ。ヨハンの部屋の家主に肉を安く売り、ヨハンの情報を得ていた。ヨハンの部屋の窓の一つは壊れており、たやすく外すことができるそうだ。そこから部屋の中に侵入すればよい。
 ミーナは三日ごとに来る。昨日来たから、今日は来ないはずだ。近所の者たちはヨハンを嫌っており、ヨハンの部屋への侵入を邪魔しないだろう。たとえ見つかっても、ヨハンを恐れる必要は無い。ホルガーは肉屋だけあって屈強な男であり、肉切り用の大型の刃物も持ってきた。痩せて不健康な版画家を恐れる必要はない。
 ホルガーは、ヨハンの工房となっている部屋へと侵入する。換気をしていないために、部屋の中にはヨハンの体臭がこもっていた。ホルガーは顔をしかめながら鼻をふさぐ。彼は、注意深く部屋の中を見回す。呪いの証拠が何かあるはずだ。それらしい物があれば、少し加工してでっち上げればよい。
 彼は、ヨハンが版木を彫る机の上を見る。そこには創りかけの版木が置いてある。骸骨たちが踊る姿を描いており、奇怪さにあふれ迫力ある物だ。ホルガーは、その中の一つの骸骨を注視する。その骸骨は供の者をつれ、死の舞踏を見物している。服は他の者よりも上等だ。
 ホルガーは食い入るように見つめ、笑みを浮かべる。こいつは市長を描いているんだ。市長でなくても、市長だと言うことができる。こいつを持って警備隊の詰め所に訴えればいい。市長が黒死病で死ぬように呪っていると、訴えてやろう。
 ホルガーは、腰につるした袋に版木を入れようとする。その瞬間、右の首筋に痛みが走った。振り返ると、ヨハンが立っていた。ヨハンは、刃物をホルガーの首に突き立てている。ホルガーは、うめきながら手に持った刃物でヨハンを刺そうとする。ヨハンの右手がひねられる。鮮血が肉屋の首筋から噴き出す。
 ホルガーは、刃物を突き出すがヨハンに避けられる。同時にヨハンの刃物が引き抜かれ、赤い噴水がさらに噴き出す。ホルガーは再び刃物を突き出すが、うまく動けずに避けられる。体に力が入らず、足がもつれる。再び、ホルガーの右首筋に刃物が突き立てられた。刃物でえぐられ引き抜かれる。ヨハンの顔は、返り血で染まっている。
 ヨハンの刃物は、繰り返し侵入者の首に叩き込まれる。屈強な肉屋は床に倒れた。首からは、留まることなく血が流れだしている。ホルガーの体は冷たくなっていき、彼の意識は薄れていく。
 狂った版画家は、赤く汚れた肉屋を見下ろしていた。

 ヨハンは、埋葬を見に行く途中で着想が下りてきた。様々な死の舞踏を描きながら、本質に触れられない気がしていた。薄皮一枚で触れられそうなのに、それを突き破ることができない。その突き破るための一手が下りて来たような気がしたのだ。
 彼は自分の工房へと戻る。そこに近所の肉屋がいた。ヨハンは懐から彫刻刀を取り出し、音をたてないように近づく。肉屋は、ヨハンの彫った版木に夢中になっていて気が付かない。侵入者は、版木を腰の袋に入れようとする。
 ヨハンの全身が憎悪で満たされる。ヨハンは無言のまま、肉屋の首筋に彫刻刀を突き刺す。自分の作品を盗もうとする者に対する憎悪にかられ、繰り返し彫刻刀を突き刺す。
 彼は血で汚れた男を見下ろした。自分の手を見ると、同様に赤く染まっている。彼はしゃがみ込み、版木を取り戻す。版木もまた血で染まっている。
 ヨハンの頭の中で、いくつものものが合わさっていく。黒死病の死者、冤罪により虐殺される人々、踊り狂う人々、両親の死を見つめるしかできなかった自分、冤罪により殺されそうになった自分、踊り狂う自分。新たなものも加わっていく。自分の創作物を盗もうとする者、その者を殺した自分。いくつもの事実が、像として、観念として混ざり合っていく。それは一つのものへと変貌していく。
 ヨハンの全身は小刻みに震え、次第に激しいけいれんとなっていく。突き抜けることができた気がした。自分が手につかもうとしていたものを握りしめた気がした。
 ヨハンは、血で染まった彫刻刀と版木を手に持ち、作業机の前に座る。そのまま版木を彫り始める。血が飛び散るが、構わずに彫刻刀を振るう。血で汚れた自分の体を洗うことも、殺した男を片付けることもしない。狂熱を放つ目を版木に据え、彫り続ける。
 その様は踊っているようだ。血で汚れた部屋で、血に染まった体で、血染めの彫刻刀を振るい、血塗られた版木を彫る。彫っているのは死者たちの踊りだ。屍が、骸骨が踊っている。貴賤に関係なく、逃れられない死の中で踊っている。彼らを蛆虫が祝福している。彼らは蛆虫と共に踊るのだ。
 踊りは繰り広げられる。黒ずんだ肌をして死んだ者たち、暴徒に斧で殴り殺された者たち、彫刻刀で首を刺されて死んだ者。彼らと共に、版画家は死の舞踏を踊る。
 これは夢なのか、現実なのか分からない。ヨハンの想念の中で踊りが繰り広げられているのか、版木の中で踊りがなされているのか、ヨハンの工房で踊っているのか分からない。ただ、ヨハンは死者と共に踊り続ける。彼には、すでに正気と狂気の境目が分からない。
 死の舞踏は、いつ果てるか分からないまま続いた。

 ミーナは、ヨハンを見つめていた。ヨハンは、血で汚れた姿で床に倒れている。その血はすでに乾いており、血で染まった服は肌に張り付いている。そのかたわらには、床とヨハンを己の血で染めた男が倒れている。
 ミーナは、机の上の版木を見つめる。版木は完成していた。その版木は、おぞましさに満ちた迫力がある。血で染まっているためだけではなく、死の舞踏を描き切っているからだ。彼女には、その作品がヨハンの最高傑作だと分かった。
 彼女は、創作物を司る妖精であるリャナンシーだ。人間を装うことで、人間の創作物を掘り出していた。彼女は、版画や絵画を扱う商人の下で働きながら、職人や画家を支えていた。
 ヨハンを見出した時、ミーナは自分の体が震えることを止められなかった。その当時ヨハンは、明るくユーモラスな作品を創ることを止め、不気味な死の舞踏を描き始めていた。平凡な版画家は、狂気の力に満ちた版画家へと変貌していた。彼が描く死の舞踏は、いま世界を蹂躙している暴虐を描き切る可能性のあるものだ。リャナンシーとして、ヨハンの創る物に引き付けられた。
 ミーナはひざまずき、ヨハンの頭をなでる。彼女の顔は、苦痛に耐えるように歪んでいた。彼女は、ヨハンが壊れることを止めることができなかった。ヨハンの生活を支えることしかできなかった。
 ミーナは首を振る。例え止めることができたとしても、彼女は止めなかっただろう。ミーナは、ヨハンの彫る死の舞踏が見たかった。彼の創作は、彼の心身を消耗すると分かっていても見たかったのだ。人を愛する妖精として、彼女はヨハンの創作を無理やりでも止めるべきだったかもしれない。だが、できなかった。それほどヨハンの彫る物は力があった。
 創作を愛する妖精は、沈んだ表情をしながら壊れた版画家を愛撫し続けた。

 版画家ヨハンの部屋から這い出る蛆虫により、肉屋であるホルガーの死体は発見された。その時には、ヨハンの姿はどこにもなかった。部屋の中の物はそのままであり、ただ版木だけが全てなくなっていた。
 街の警備隊は、ホルガー殺害の容疑者としてヨハンを追った。だが、ヨハンの形跡は見つけられない。捜査はすぐに打ち切られた。黒死病の蔓延のため、殺人の捜査どころではなかったのだ。
 数年後、隣国である親魔物国で「死の舞踏」と題する版画シリーズが出回った。その鬼気迫る版画は、賛否両論の激しい反応を引き起こした。特に、シリーズ最後の作品は人々に驚嘆を引き起こした。「死の舞踏」は、魔界や他の親魔物国にも広まり、反魔物国にも出回っていた。
 版画の作者であるヨハン・マイヤーについて知りたがる人々も多かった。だが、作者については不明な部分が多い。隣国で失踪した版画家と同一人物かどうか分からない。ヨハン・マイヤーという名が本当の名であるかも分からない。死の舞踏シリーズを出した商人の話によると、彼はヨハンと会ったことは無いそうだ。彼の代理人と称するリャナンシーと交渉し、シリーズを出したのだ。現在、ヨハンと代理人のリャナンシーがどこへいるのか、彼にも分からないそうだ。
 作者のことは不明のまま、版画は広く出回っていた。

 草地に風が吹いていた。男は、草の上に座りながら風に吹かれている。遠くには青い山並みが見える。
 彼はどこか遠くを見ているが、草地や山並みを見ているか分からない。彼が見ているものは、目に映っているものではないかもしれない。
 草を踏みしめる音が聞こえてきた。足音の主は彼の隣に座る。赤い髪と紫色の瞳が印象的な女だ。小柄なために少女に見える。彼女は男に寄り添う。男は、黙って遠くを見つめている。
 女は、うつむきながら彼の腕をなでる。その腕は、かつては版画を彫った腕だ。今の彼は、彫刻刀を握ることは無い。男は、愛撫に反応することは無い。ただ、どこかを見つめている。
 二人は、風に吹かれながら寄り添っていた。

16/10/16 21:26更新 / 鬼畜軍曹

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