読切小説
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魔女と男09






 眠るといつも同じ夢を見る。

 見知らぬ土地を延々と駆け続ける夢。
 野を越え山を登り谷を下り川を横切りただただ走り続ける。
 風を切り草木を踏み散らし岩から岩へと飛び移りそれでも息を切らせて走り続ける。
 そんな夢。

 走り続ける自分以外誰もいなくなった世界で、何かに追われているのか何かを追っているのかも判らない。
 ただ動き続ける足を駆動させて、人目を忍んでいるのは判った。
 どれだけ駆けても誰とも出会う事がないのは、誰もいない場所を選んで駆けているからだ。

 夢の中でも妙に息苦しさを感じる。
 胸がぱんぱんに張っている。
 ひぃひぃと咽喉が甲高く鳴っている。
 脚を止めればその時点で倒れ込み動けなくなる。
 限界など当の昔に超えている。
 気力体力など当に尽き果て、それでもなお何かを燃焼させて駆け続けた。

 脚を止めれば、何かとてつもなく怖いものに追いつかれる。
 追いつかれる?
 俺は何かから全力で逃げ続けていた。

 追われている事に気がつくのも、夢の内だ。

 理由が明白になるとますます足は速まった。
 くたびれた犬のように舌を出して空気を吸い込む。
 胸が膨張して今にも弾けそうなほど痛む。
 いつしか獣になったように両手を使って地を駆けていた。

 怖い。
 怖い。
 怖い。

 どくどくどくと心臓は早鐘を打ち続ける。

 怖い。
 怖い。
 怖い。

 頭の中が恐怖で埋め尽くされていく。

 怖い。
 怖い。
 怖い。

 目にする景色が真っ赤に染まっていく。

 怖い。
 怖い?
 何が怖い?

 何から逃げているのかを悟った時、俺は逃げ続けていたものになっていた。






 俺は知っている。
 これは荒唐無稽な夢の断片などではなく、過去の記憶なのだと知っていた。






 朝の始まりはいつも感謝の祈りからだった。

「大いなる神よ。今日も地上に恵みの慈悲を分け与えられる事を感謝いたします」
「おおいなるかみよ。きょうもちじょうにめぐみのじひをわけあたえられることをかんしゃいたします」

 物心がついたときからこの言葉を口にしている。
 初めはただ相手の言葉を真似ているだけだった。
 ただ繰り返し続けるだけの中身のない言葉に、日々を積み重ねた分だけ祈りになっていった。

「健やかに。穏やかに。正しくある事を誓います」
「すこやかに。おだやかに。ただしくあることをちかいます」

 朝昼晩と、一日に定められた食事の前はいつも祈りを捧げた。
 この祈りが無意味だとは思わなかった。

 パンを作るために必要な麦を作るのは人の手だが、もたらされる恵みは目に見えないものだ。
 スープの元となる水も中の具も、恵みが得られなければ作る事は出来ない。
 だから顔も知らない、会った事もない大いなる神という誰かに感謝を捧げた。

 生活をしていたのは、森の中にひっそりと佇む小さな村だ。
 暮らすに必要な家と、一〇〇名にも満たない村人を養うだけの畑。
 村人たちはみな顔見知りで、顔を合わせれば挨拶を交わしていたが、隣人を食事に招いたりするほど密接ではなかった。

 今になって思い出しても、隣人が普段何をしていたかなど思い出す事が出来ない。
 村という共同体ではなく、五〇組ほどの見知らぬ親子がそれぞれ暮らしているという方が正しいのかもしれない。
 少なくとも、同じ村の子供同士で遊んだりする経験はなかった。

「……頂きましょう」
「はい」

 『母』と呼ばれる女性に促されて、初めて食事に口をつける。
 『母』と呼んではいたが、今になって思うと実際に血の繋がりを持った母親なのかどうかは定かではない。
 愛情を疑ってはいない。
 後になって客観的に判断すると、違和感が残るのだ。

 『母』から教えられたのは戦い方だけだ。

 祈りは模倣する内に身に着けてしまったもので、厳格にこうせよと教えられた事はなかった。
 畑に鍬の入れ方一つ、パンの焼き具合スープの味加減一つ教わらず、日がな一日『母』と戦いの訓練ばかり行っていた。
 それは異常なのだと気がついたのは、物心がついてずっと後になってからだったが、当時はそんな疑問を差し挟む余地もないままに最も身近な女性が母親だった。

 特別恵まれているとは感じなかったが、貧しさに喘いでいた訳でもない。
 訓練は過酷で時に生死の境をさまようほどであったが、それは初めの頃だけだ。
 祈りを身に着けていったのと同じように、それを日々の日常として受け入れた。

 飲み込みが早いとは言えなかったが、それでも上達はあった。
 上達を実感出来る瞬間は、過酷なだけの訓練も楽しく感じられた。
 生きる楽しさは確かにあった。

 感謝の念を忘れず、嘘はつかず、争わず、平穏とともにあった。
 村での生活は正しさに満ち溢れていた。
 間違いなど何もなかった。

 だから、それが今も苦しい。
 誰もが正しかったのなら、俺は一体誰を恨めば良かったのか。
 凝った憎悪は、今も行き所を探している。




 何の疑問も持たずに、一〇年間その生き方を続けた。
 予兆も予感もなく、ある日唐突に今までの生き方があっさりと崩れ落ちてしまった。

 一日の訓練を終え、頭の中で反復するうちに眠気を覚えて朝を迎えるはずだった。
 寝入ってしばらく経ってからだろうか、朝まで眠り続けるはずだった俺は不意に目を覚ました。
 違和感を感じ取った。
 厳しい訓練の中でそれを肌で感じ取れるようになっていた。

「かあさん」

 ベッドから身体を起こし、暗闇の奥に佇む朧な人影に呼びかけた。

 姿は見えなかったが、相手が誰なのかは疑う余地がない。
 家で暮らすのは『母』と自分の二人きりで、別の誰かが入り込んで来る事など一度としてなかった。
 だから戸惑っていたのは、森に住む獣も寝静まる時刻に訪れた『母』の行動についてだ。

 一〇年間生きてきてそんな事例は一度もなかった。
 訓練の過酷さに身体が悲鳴を上げ、熱を出した時も『母』は部屋に訪れなかった。
 手当てを施したあとは部屋を離れて、次の日には当たり前のようにいつもの日常が始まった。

 殆ど『母』としか人との接点を持たなかったため、誰よりも厳格であった『母』が自ら律を乱すような真似に激しい疑問を抱いた。
 呼びかけたものの返事はなく、『母』はよろめきながらも近づいてきた。

 剣、槍、メイスから弓まで、様々な武器に精通しその扱い方を一から教えてもらった。
 武器だけでなく鎧の利点、欠点、対処法、徒手での戦い方まで、およそ全てと言っても差し支えない戦い方を学んだ。
 『母』は憧れの対象だったが、窓辺から差し込む月明かりを浴びたその姿を美しいと思ったのは、その時が初めてだった。

 服を身に着けていなかったが、服のようなものが身体を覆っている。
 輝くようなピンクの体毛に、背後から覗いているのは小さな翼。
 飛ぶのにはどう見ても適さないその翼は、羽化したてのひな鳥ようにどろっとした液体で濡れている。
 足元でたまに痙攣するように震えているのは、体毛や翼と同じ色をした奇妙な尻尾。
 そのどれもが、『母』にはついていなかったものだ。
  
「どうしたの?」

 解答はいつも『母』から貰っていた。
 だからこの時も当然に、答えを求めて『母』を見上げた。

 この時もしも俺の世界が広かったなら、別の形で結末を迎えていたのだろう。
 だがサキュバス化など、サキュバスの習性も恐ろしさも知らなかった俺は、屠殺場に並ぶ家畜そのものだった。

「逃げなさい……はやく」

 『母』は今まで聞いたことがない甘い声音で呻いた。
 髪を振り乱すその頭に、二本の短い角が生えている。
 滴る粘液の飛沫を顔に浴びて、口元についた数滴を反射的に舐め取った。

 それは蜂蜜よりも甘い、名も知らない液体だった。

 解答は確かに受け取っていた。
 早くこの場から逃げろという言葉に、従わなかったのは何故なのか。
 普段なら『母』の言葉に疑問を抱くなどあり得なかったはずだ。

「でも、苦しそうだよ?」

 口答えと取られても仕方がない言葉を返していた。
 逃げろと口にする『母』の表情に見覚えがあった。

 もっと幼い頃、一人で眠る寂しさに寝床に潜り込もうとした事があった。
 だが、『母』はそれを許さなかった。
 そっと忍び込もうとした俺を見つけ出し、すぐに部屋から追い出した。
 その時の表情と同じだった。

 幼い頃の俺にはそれがどういった感情なのか理解出来ず、怒りなのだと誤解した。
 締め出されたドアの前で泣き喚いて謝る事しか出来なかったが、今ならそれが苦しい時に見せる表情なのだと理解出来る。
 『母』は警戒心の欠片もない呑気な獲物を前に、必死で耐えていたのだ。

「どこか痛いの?」

 ベッドから抜け出して、『母』に一歩近づいた。
 見た事もない翼の所為かもしれない。
 角や尻尾が生えてくるのは、ひょっとしたら『母』であっても我慢出来ない痛みを伴うのかもしれない。
 訓練で打ち身や怪我を負い、治療を受けた後は優しく擦られたように、『母』の身体を擦ろうと思った。
 痛みを少しでも減らそうとした。

 思えば、自発的に何かを考えて行動しようとしたのは、その時が初めてだったのかもしれない。

 次に『母』が発した声は言葉だったのか悲鳴だったのか、理解する猶予もなく襲われた。
 襲われた俺は襲われたと理解も出来ず、ただ訳が判らなかった。

 決して触れることのなかった『母』の身体に直接触れて、体温を浴びた。
 風呂に入るでもないのに衣服を脱がされ、今まで何の為にあるのか不可解だった器官が、男女の交わりに用いる性器なのだと直接教わった。
 襲われている自覚というものはなかった。
 今までの価値観とはまったく異質なことを立て続けに教えられて、混乱してばかりいた。

 ただ、『母』の姿も様子も変わってしまっていたが、彼女が『母』である事に何の変わりもなかった。
 だから受け入れた。
 受け入れられた。
 サキュバスと化しても『母』は憧れの対象のまま、ただ一人の愛する家族だった。

 初めて味わう官能の味に翻弄され、未熟ながらも俺は男としての機能を必死に果たそうとした。
 ベッドに押し倒した俺に跨り、淫靡に腰をうねらせる『母』にむしゃぶりついた。
 あの甘い液体が絡んだ乳房に吸い付き、成長と訓練で身についた力に任せて押し倒し返した。
 単調に激しく腰を打ちつけて、見るのも触れるのも初めてだった女性器の中で射精した。

 『母』は手で、口で、翼で、尻尾で。
 それこそ全身を使って俺に射精の仕方を実践した。
 俺は新しい訓練に貪欲までにのめりこんだ。
 ピンク色だった『母』が男性器から吹き出る精液で白く濁るまで、それほど時間は要さなかった。

 何度目か、何十度目かの射精で、俺は息を切らせてベッドで倒れ込んだ。
 戦いの訓練とはどこか違った疲労感だった。
 隣で横たわった『母』はひどく満足げな表情で、俺は『母』を苦しめていた痛みを取り除く事が出来たと思い安心した。

「……ごめんね」

 だから、『母』が謝った理由は判らなかった。
 腕に抱かれる体温が嬉しくてすぐに忘れ去ってしまった。
 『母』の身体はとても温かくて、心地良かった。

 その温もりが、肌をひりひりと焼く熱さに変わった。
 月夜は赤く焦がされていた。
 俺の世界のほぼ全てだった家は、火に巻かれて燃え上がっていた。

 状況が理解出来ない俺に、『母』は俺を撫でた。
 窓の向こうでは赤々と炎が踊っているというのに、慌てる素振り一つ見せずに、決断を下した眼差しで俺を見つめていた。

「貴方を、絶対に死なせはしない」

 『母』の尻尾がするすると胸元を這い、尖った先端が俺の胸にずぶりと刺さった。



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 燃え上がった火は、くべられた家を一つ丸ごと焼き終え、夜明けとともに鎮まった。
 一〇年間という時間は、それまで世界の全てだった。
 それがたった一晩足らずで灰燼に帰してしまった。

 炎は収まったが場は騒然としている。
 村の大人たちが一抱えはある火掻き棒を使い、焼け跡を穿り返している。
 俺はそれを無感動に眺めていた。

 生き残った俺は助け出された訳ではない。
 それは見つけられ次第すぐ荒縄で全身を縛られて理解した。
 家に閉じ込め火を放ったのが誰だったなのかも、おぼろげに理解していた。
 サキュバス化した『母』を、村は否とした。
 逃げられないよう結界を編み、その上で過ごした家ごと火を灯した。

 感謝の念を忘れず、嘘はつかず、争わず、平穏とともにあった。
 村は正しさに満ち溢れていた。
 間違いなど何もなかった。

 だから、彼らは間違ってなどいなかった。
 サキュバス化した『母』を焼き殺し、火傷一つ負わずに焼け跡から見つかった俺を拘束し、どうやって殺すのかを相談する彼らに間違いは存在しなかった。
 村の正しさから外れてしまった『母』と俺は、すでに村の一員ではなくなってしまっていたのだから。

「村からサキュバスを出してしまうとは」
「やはり女を入れるべきではなかったのだ」
「大司教様になんと申し開きすればよいか」
「忌々しい淫魔め」

 口々に不安を募らせる村人たちの言葉が、今は耳障りに聞こえる。
 正しさに満ち溢れていた人々が、何故こうまで口汚い悪態がつけるのか。

「今後の心配よりも、まずはあれをどう処分すべきか」
「火でも焼けぬとは」
「刻印の所為か。助からぬと悟りあれに全ての魔力を注いだか」
「死んだ後も手を焼かせてくれる」

 俺の処遇を決める言葉にも、関心が湧かない。
 じっと一点だけを見つめていた。

 俺が『母』と呼んだ女性。
 ただ一人の家族。
 今は見る影もなく、黒く縮んだ炭となって、焼け跡に横たわっている。

 かつて人であったもの。
 今はもう死んでしまったもの。
 初めて目にした遺体は、愛する家族のものだった。

 何故、こんな事が出来るのか。
 何故、誰も死を悼まないのか。
 何故、『母』は死なねばならなかったのか。
 何故、俺だけまだ生きているのか。
 何故、俺の胸には見た事もない刻印が浮かんでいるのか。
 ああ、それから――

「焼けぬなら、斬って捨てるしかあるまいよ」
「首を刎ねて死なぬなら死ぬまで刻めば良い」
「我らの作品が魔物を殺す機会を得たとしよう」
「村は残せぬが、せめて我らの作品だけでも世に残さねば」

 何故、そこまで無慈悲になれるのか。

 俺をどうするのかを他人事のように聞きながら、『母』の亡骸をじっと凝視していた。
 『母』を焼いた事が正しかったのなら、何を間違ってしまったのか。
 嵐のような快楽と、通り過ぎた後に訪れる静謐な静けさ。
 人肌の温もり。
 あの温かさが、間違いだったのか。
 
「立て、魔物め」

 座り込んでいた俺は、傍らに立っていた大人に引きずるように乱暴に起こされ思考を中断させられた。 
 それに苛立ちを覚えた。
 乱暴な扱いを受けるのは、村の一員ではなくなった為だからと理解出来たが、答えのない問いかけを続けていたので苛々していた。

 一〇年で成長はしたが、それでも村の大人たちから比べればまだ俺は子供だった。
 苛立ち紛れに少し抵抗した所で難なく押さえ込まれ、暴れても実力で大人しくなるまで取り押さえられるだけだろう。

 だから思いもしなかった。
 少し腕を振って、その手が大人の身体に触れた直後に死んでしまうなど。

 ほんの一瞬前まで確かに生きて喋っていたはずなのに、俺の手が触れた瞬間、全身の穴という穴から黒いどろどろとしたものを噴き出した。
 倒れ込んだ拍子に、人間の形ですらなくなり黒い泥が地面にべちゃっと汚らしく広がった。
 その場に立ち込める焼け焦げた臭いに、腐った果実のような甘い香りが漂った。

 村人は何が起こったのか理解出来ない様子だった。
 それは黒い泥を浴びた俺も同様だった。
 何が起こったのか理解出来なかったが、何が失われたのかは理解出来た。

 人が死んだ。
 人を殺した。
 何の自覚もないまま、気づかぬうちに虫を踏み潰してしまうように殺してしまった。

 殺人者になった恐怖に怯えて身震いした。
 たったそれだけで荒縄はぶちぶちと千切れた。
 村人たちは一斉に色めきたった。
 全身に剥き出しの敵意と殺意を浴びせられた。
 下腹を握り込まれるような緊張と同時に、胸元が急に熱くなった。
 火掻き棒だったものは直ちに槍となり、村人たちはその矛先を俺に向けた。
 俺は混乱と恐怖のまま叫んだ。

 OGYAAAAAAAAAAAAAAAA!

 口から迸ったのは、自分のものとは思えない咆哮だった。
 村人たちがばたばたと倒れだす中、俺は一目散にその場から逃げ出していた。



 怖い。
 怖い。
 怖い。

 身体を衝き動かしているのは恐怖だった。

 怖い。
 怖い。
 怖い。

 憎しみはあった。
 間違いがあったにせよ、慈悲の感じられない仕打ちに村人たちを憎んでいた。
 『母』を殺した正しさは到底許容出来なかった。

 怖い。
 怖い。
 こわい。

 黒い泥へと姿を変えたあの村人も、家に火を放った者の一人かもしれない。
 『母』の命が奪われ、ささやかながらもその復讐を果たしたのかもしれない。
 だとしても、そこに喜びなど欠片もなかった。

 こわい。
 こわい。
 こわい。

 殺すほど憎いとまでは思わなかった。
 殺人は最大の禁忌として学び、それに疑問はなかった。
 戦いの訓練こそしていたものの、敵意を向け合って殺し合いをしたことは一度もなかった。

 こわい。
 こわい。
 こわい。

 あったのは恐怖だけだ。
 人が一瞬で人でなくなってしまう恐ろしさ。
 全身に浴びたべたべたとした、元は人だった黒い泥。
 それは気持ちが悪いだけだった。

 こわい。
 コワイ。
 コワイヨ。

 怯えに怯えてどれだけ逃げ続けたのか、気がついた時、俺は光も差し込まない深い森の奥底で佇んでいた。
 逃げるのをやめたのは、単純にもう足が動かなくなってしまったからだ。
 走れなくなったのでその場にうずくまった。
 ひどく身体の感覚が歪で、視界にちらつく何かおぞましいものが怖くて目を閉じた。
 硬く硬く目を閉じた。
 暗く、闇の濃い森の中は静かだった。

 かあさん。

 声を上げずに泣いた。 
 声を出すとまたあの不気味で気持ちの悪い声になるのではないかと怖かった。

 かあさん。
 かあさん。
 かあさん。

 厳しかった姿。
 美しかった姿。
 焼けてしまった姿。

 静寂の訪れで、俺はようやく悲しみに浸ることが出来た。
 たった一人の家族を喪った悲しみに暮れた。



 生き物の気配すら感じない深い森の奥で、俺は来る日も来る日も泣き続けた。
 『母』を思って枯れるまで泣き続けようと思った。
 『母』以外の誰かと出会いたいとは思わず、何よりも怖くてその場に留まり続けた。
 飲まず食わずで過ごせばいつしか枯れ木のように土に返ると思った。
 
 だが、その時は一向に訪れなかった。
 どれだけ食べずにいても空腹がやってくることはなく、それどころか咽喉の渇きすら覚えなかった。
 自分の身体の変化を訝しく思いながら、確かめるのも怖くて出来なかった。

 一度、硬く閉じていた目を開いて、村を出てから初めて自らの両手を目にした。
 それは人のものとは思えない、歪でねじくれた不気味な手だった。
 すぐに目を閉じて再びうずくまり続けた。

 野垂れ死ぬ事もないまま、何かをしようという気力も湧き起こらなかった。
 ただ、誰とも出会いたくなかった。
 今の姿を誰かに見られたくはなかったし、誰も見たくもない。
 何も考えたくない。
 そうして一人で思い出だけに浸った。
 
 元々、俺の世界は『母』がいるだけで完結していた。
 思い出の中の我が家で『母』は生き続け、共に過ごし、厳しく指導し、時にあの美しい姿で快楽へと誘った。
 幸福ではあったが、最後はいつも炎に巻かれて締めくくられる。
 そのたびに声を上げて泣いた。
 奇妙に変わってしまった声を聞き慣れてしまうほど泣き続けた。

 時間は刻々と流れ続けた。

 飢えも乾きもなく、暑さ寒さも感じなくなり、話す者がいないので言葉の喋り方も忘れ、そもそも自分がなんだったのかも忘れてしまおうとしていた。

「ふむ」

 いつものような幸福で悲しい思い出に浸っていた俺は、何かを聞き取った。
 閉じていた目を開けて、音が聞こえた方向を探った。
 音を発しているものは探るまでもなく目の前にいた。
 ちょっと身じろぎすれば何かの間違いで潰してしまいそうなほど小さなものがいた。
 赤い瞳がこちらを見上げていた。

「お目覚めか。おはよう」

 赤い色は燃え盛る火のようで、怖い。



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 それは死の森の最奥にいた。

 土や石すら腐らせ、留まるだけで生き物を殺す瘴気をむんむんと漂わせている。
 いつからこの場に住み着いたのか知らぬが、森はとうに立ち枯れている。
 命という命を全てこやつが吸い上げてしまった。

 なんとまあ懐かしい。
 ここだけ先代魔王の時代へ逆戻りしたようだな。

 それは有体に言って、怪物と称するものであった。
 吸い取った命を糧とし、今も尚着々と死の土地を広げ続けている。
 人間、魔物の区別なく危険な代物だ。

 怪物の存在に勘づいた教団から討伐隊が組まれたようだが、戦うまでもなく敗退したと聞き及んでいる。
 さもありなん。
 何せ土地に足を踏み込むだけで生き物は害され生存すら許されぬ。
 討伐隊なぞ海に撒き餌をばら撒いておるようなものだ。
 怪物はますます肥え太り、手がつけられなくなってゆく。
 ここまでになると生き物というよりもはや自然現象に近く、長い時間の中においてこういったものが稀に発生した。

 わしは珍しいものを見た気分で怪物を見上げた。
 怪物も身じろぎ一つせずにわしをじっと見下ろしておる。
 全体的には人型を成しておるが、黒い肉は爛れ瘴気を立ち昇らせ、所々から骨を覗かせておる。
 瞼の奥から覗く瞳に白目はなく、緑色に濁っており、見た目はどろどろぐちゃぐちゃの死体に近い。
 なんとまあ不恰好な怪物だ。

「わしの言葉が判るか?」

 怪物はちょっとした小山ほど育っておるため、見上げておると少々首にくる。
 首をとんとん長物で叩き、ぐるりと肩を回す。
 怪物はぞろぞろと肉の爛れた両腕を下ろし、唇のない剥き出しの歯列を覗かせた。

 OGYAAAAAAAAAAAAAAAA!

 怪物が吠えた。
 ただそれだけで、わしが編み込んだ魔術障壁をたやすく突破してきた。
 瘴気を完全に遮断し通さぬ魔術障壁だというに、まるで紙のように破ってくれた。
 わしの自尊心を少しばかり傷つけてくれたぞ。

「恐怖を謳う死の怪物か」

 障壁とは別に、身につけた装束に護符をごまんと貼り付けてある故、声に含まれた瘴気もわしの柔肌までには届かぬ。
 怪物の声は、それ自体が魔法のようなものだ。
 聞く者の精神を魔力で直接打ちのめす。
 並の人間や魔物なら一声耳にするだけで恐慌をきたすそれは、竜の咆哮に近い。

「その死の怪物が産声とな? 皮肉が利いておる」

 怪物はそげた頬からどろどろと爛れた肉を――ダークマターをこぼし続けている。
 今風の欲望を元としたものなどではなく、怪物の特性のままに、一滴でも触れればそれだけで即死する特濃の黒水。
 瘴気の正体はこれだ。
 腐れた土が定期的に吹き出す腐臭に、微細なダークマターが混じっておる。
 故にそれと知らぬうちに病み、衰え、見る見るうちに死が訪れる。
 爛れた肉のように見えるのも凝縮されたダークマターであり、頭骨に見える部分はさらに密度が濃いのだろうよ。

 だが、どうだ。
 これだけ濃密な死の香りを漂わせておれば、その気になれば大陸をまるごと死の土地に変える事も出来よう。
 何せ存在そのものが死の塊ならば、歩くだけで生き物は足音を耳にする事なく悉く死に追いやられる。
 陸は腐り、海は毒水と化し、怪物は命を吸い上げさらに勢いを増し、未曾有の厄災を運ぶであろう。

 神々とてたじろくほどの怪物でありながら、森一つ枯らせただけとはどうにも納得出来ん。
 それどころか、凝った死はこの怪物そのものを蝕んでおる。
 放っておけば遠からず、自らの魔力に押し潰されて死ぬであろう。

 わしがこうして出張ってきたのは、勿論人にとっても魔物にとっても害にしかならぬこの怪物を始末する事だが、この怪物は自然発生したにしてはいささか不安定に過ぎる。

 本来の怪物とは何の感情もない――いや、怪物にしか理解出来ない感情を持った殺戮機能。
 生きる為ではなく、殺す為だけにその機能を余す事無く発揮する。
 己に疑問を抱かず、悲しみもなく、喜びをもって殺す。
 理由は様々であろうが、魔物に課せられた宿命を突き詰めていけばこのような効率重視の不恰好なものとなる。
 名もなく、種を定める分類もなく、単一のまま次代に続く事もない、世界の間引き回路。

 されど、配慮の行き届いた台風など聞いた事がない。
 これだけ育てば侵食速度は夜の帳が落ちるがごとく進むであろう。
 それが、たったこれっぽっちの森一つ?
 そもそも、異常に気づいた王国が討伐隊を組んでおる時点でおかしい。
 異常に気がついた時点で、街の一つ二つは飲み込んでいるのが怪物というものだ。

 わしが怪物の目の前で、こうして思索にふけっている事自体異常だ。
 怪物はわしに襲い掛かるでもなく、腐った大地に両手を置いて、それだけだ。
 ダークマターを振り撒くだけ、吠えるだけなら、存在自体が害である怪物にしてみれば攻撃の内にも入るまい。
 濁った緑色の目に知性の輝きは感じられぬが、わしを見ている事は確かに判った。

 怪物がわしを覗き込んでいる間に、わしは怪物の正体を覗き込んでいた。
 この怪物が何故発生したのか、その理由を知った。

 なるほど。
 道理で。

 色々な事に合点がいったが、それなりの覚悟を持ってここにきたというにこれでは拍子抜けだ。

「……はあ、全く。ややこしい事は全てわしに丸投げしおってからに。それでいて頼んだ当人は今頃寝室に恋人を招いてにゃんにゃん三昧か。腹が立ってくるな」

 にゃんにゃんなどワーキャットだけで充分だ。
 大概にせい。
 いっそ寝室まで直通の転移陣を編んでこの怪物を送り届けてくれようか。
 それはそれでありだ。

 が、わしは今の世界が気に入っておるのも事実。
 だからこそあやつに肩入れすると決めたのだし、今回の要請にも応じた。

 時代の変わり目には必ず取りこぼされる者が出てくる。
 そういった、誰もが必要最低限と断じて目を瞑る犠牲を、あやつは拒んだ。
 大きな転換ともなればその犠牲も大きくなるのが世の常で、そういった者を見つけ出し犠牲とならぬようにと、それこそ子供が駄々をこねるように願った。
 その甘ったるくも我侭な願いにわしは首を縦に振った。

 その結果がこの有様だ。
 せいぜい高い貸しとして吹っかけてくれよう。

 それはともかく、この怪物だが。 

「怪物よ。理解出来るなら聞け。本来なら手の込んだ手回し根回しを施し封印やら何やら色々試みるのだろうが、その辺りは割愛して今からぶん殴る」

 ぼたぼたとダークマターをこぼし続ける怪物の前で、わしは手にした得物を地面に突きたて肩をぐるんぐるんと回した。

「わしはこう見えて世界で五本の指に数えられるそれはもう凄い美少女魔法使いなのだが、言葉よりも拳での説得の方が得意でな。何、気にするな。半分くらいは八つ当たりで、半分くらいは面倒なだけだ」

 よって割愛。
 とりあえずぶん殴ってしまえば序列も決まり、わしの憂さも晴れて一挙両得である。

「悔い改めよだのややこしい事は言わんから、せいぜい殴り返してこい。でなくば一方的にボコる故な」

 怪物の爛れた瞼が一度開閉した。
 人が瞬きをする仕草と同じだ。

 全く、神も魔王も厄介な事をしでかす割りには他人に尻を拭かせたがるから困る。
 いっそ尻にちんこでも挿れて栓をしてしまえばよいのだ。

「さあ、覚悟は良いか? わしは良い。待てと言っても待たぬ――あぁのバカップルどもがあああああああっ!」

 わしは怒りを気勢に変えて、宣言通り怪物をグーでぶん殴った。



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 混乱があった。
 混乱しかなかった。
 喋り方を忘れてしまっても、言葉そのものまで失ってはいなかった。
 見上げて喋る少女の言葉を半分程度は理解する事が出来た。

 言葉が判るのかという問いに、叫び返したのは悲鳴だった。

 来ないで。
 帰って。
 もう放っておいて!

 見慣れない他人というだけで恐怖の対象だった。
 何より、触れただけであの村の大人のように泥と化してしまうのではないかという、殺人の恐怖が呼び起こされていた。
 拒絶の悲鳴を上げて、少女は眉一つ動かそうとしなかった。
 だから睨みつけていた。
 怖い顔をしていれば、怯えて立ち去ってくれるものだと思い込んでいた。

 それが殴られた。

 いきなり、いや、殴ると口で言っていたものの、まさか本当に殴りかかってくるなど思いもしなかった。
 何気なく跳び上がった少女は、そのまま枯れた木々の頂上にも届こうかという高さにまで達して、同じくらいの位置にあった俺の顔を殴りつけた。

 グーで。

 激しい痛みと衝撃に目が眩み、成す術なく倒れ込んだ。

 痛み?
 痛みだ。
 暑さ寒さも感じなくなって久しい身体に、強烈な痛みが走って悲鳴を上げた。
 長らく立つ事も歩く事もなくうずくまっていたので、身体を起こすのもままならず滅茶苦茶に悶えた。

 殴り倒された。
 指の先ほどもない少女が繰り出した、たった一発の拳で。

「泣いても謝っても、わしは容赦せん!」

 根ごと枯れてしまった木々をなぎ倒して暴れる俺の側で、その声が聞こえた。
 恐怖に凝った視線の先には、俺の顔に乗って拳を振り上げている少女の姿。

「そぉらいくぞ! いくぞ!? マジカァルパンチ!」

 反射的に目を閉じて、殆ど同時に衝撃が走った。
 ごつんと、確かに殴られている。
 ぶん殴られている。
 繰り返す思い出の中でも、訓練で『母』から殴られた事はあった。
 しかしこれは訓練とは言いがたい、剥き出しにされた余りにも単純な暴力だった。

 悲鳴を上げてのた打ち回る。
 泥濘を掻いて圧倒的な暴力から逃げ出そうともがく。

 その視線の先に、忽然とあの少女が現れる。

「これではまるで弱い者苛めだな! だがわしは一向に構わん! 追撃のマジカルパンチ!」

 混乱の極みの中で、ガツンと一発あの拳が飛んできた。
 顔がへこんだのではないのかと思うくらいの衝撃に、両手で押さえると実際に顔面が陥没していた。

「殴ると言ったが足も出る! 何故ならわしは美少女だからだ! マジカルキック!」

 意味が判らないまま胴を蹴り倒された。
 拳も効くが蹴りも同程度に効く。
 痛みと衝撃に怯え戸惑い、俺は必死に身体を縮めて丸くなった。

「受けに回れば即ち負けである! 何故ならわしのあらゆる魔法攻撃がガード不能である為だ! マジカル目突き!」
 
 指の隙間から差し込まれた一撃で、片目が潰れた。
 一発一発が金槌でぶん殴られるような衝撃でありながら、蜂の一刺しのように鋭い。
 大きいばかりの身体も、この少女が相手ではむしろ不利でしかなかった。

「怯えるがいい! 恐れおののくがいい! その度にわしはパワーアップしてゆくのだ! マジカル震脚!」

 蹄の生えた足で大地を踏みしだけば、地震が襲ったように森が縦に揺れた。

 目の前にいる少女は、俺が生まれてきた中で間違いなく最大の理不尽だった。
 正しいとか間違いとか、その理由すら存在していない。
 殴りたいから殴るなどおよそ考えつかない理不尽だ。

「どうした、それでも男か!? 金玉の一つ二つもついておらんのか!」

 それと、少女は俺が出会った誰よりも下品で言葉遣いも悪かった。

「わしのような美少女に殴られて喜ぶ性癖でもあるのか! おぎゃあおぎゃあといつまで赤ん坊のつもりだ!? 全く、そのなりでこれとは同じ女として母親も恥ずかしかろう!」

 下品で凶暴で何よりも理不尽の塊であった少女のその言葉に、俺は悲鳴を飲み込んだ。

 『母』が恥ずかしい。
 そうだ。
 この状況を『母』が目にすればどう思う?
 来る日も来る日も戦いの訓練に明け暮れ、打ちのめされ、這いつくばってそれでもかじりついた。
 上達を自覚する楽しみもあったが、何よりも楽しみにしていた事。
 『母』に褒めて貰える事だ。

 俺は教わった事を何一つ発揮しようとせずに、ただ怯えてうずくまってばかりいる。
 
 その瞬間、俺は恐怖を忘れていた。
 人を殺してしまった恐怖も、痛みへの恐怖も忘れ去って、少女の全身を覆って生き埋めに出来る手を思い切り叩きつけていた。
 腐った黒い泥が激しく飛び散り、手の平の下で少女は潰れてぺちゃんこになる。

「などと思っているなら大間違いだづぇい! マジカル対空パンチ!」

 下敷きにしたはずの少女の拳で手が弾けた。
 千切れた指がどちゃどちゃと泥より派手に飛び散った。

 痛い。
 すごく痛い。
 けれど――

「どうした弱虫毛虫。もう終いか? 泣きながら家に帰ってママのおっぱいにでも吸い付くか?!」

 ...Ahhhhhhhhh!

 悲鳴の代わりに気勢を上げて、指が残った手を握り締めた。
 もう恐怖などなく、手が吹き飛んだ痛みもすぐ気にならなくなり、ただ衝動に駆られるまま目の前の少女を殴りつけた。
 ささやかだったが、確かに何かを殴った手ごたえを感じた。

「なあああああぁぁぁぁ――」

 少女の身体は小石のように吹き飛んで、木々にぶつかりながら枯れた森の奥へと消えた。
 俺は慣れない身体に苦労し、何度もよろめきながら立ち上がり、腰ほどの高さの森の奥を残った片目で見つめた。

 殴った。
 他人を、初めて自分の意志で殴った。

 あったのは倦怠感と罪悪感。
 まともに殴ったのだからあの少女の命はないだろう。
 だというのに、不思議と晴れやかな感触が手に残っ

「……ぁぁぁぁぁぁああ甘いわぁ!」

 浸る前に、飛んでいった勢いで戻ってきた少女の頭突きがみぞおちを襲っていた。

 効いた。
 今のは効いた。
 ぐらっと身体が傾き、踏ん張りが利かずにそのままもんどり打って仰向けに倒れた。

「ふはははは! わしのマジカルミサイルの味はどうだ!? 星降りの秘儀にも負けず劣らずの威力であろ! 頭の角は伊達ではないわぁ!」

 水溜りのようにぬかるんだ泥の中に倒れ込み、どろどろに汚れた少女の勝ち誇った言葉をただ聞いていた。
 痛みで全身が痺れる。
 少女は身動きが取れない俺の胸元で、これ見よがしに仁王立ちになっている。
 生意気で腹が立った。

「美少女を一撃で倒せるなどと笑止千万ハリセンボン! 脳を揺さぶってその浅はかな考えを修正してくれる! マジカル裏けえええん!」

 少女の身体がその場で竜巻のように回転し、握り込まれた手の甲が俺の顎先をとらえた。
 下顎が吹き飛んだ。



 体力と根気と、後は意地だけで少女と殴り合った。
 殴っても殴っても少女は起き上がり、口汚い罵声と痛烈な一撃を浴びせてきた。
 負けじと殴り返した。

 手を吹き飛ばされればすぐに新しい手を用意し、潰れた目を、下顎を復元した。
 それを繰り返すうちに虫のように小さかった少女はどんどんと大きくなっていった。

 いや、俺が縮んでいった。
 不可解な事が立て続けに起こっても、それに勝る理不尽がいたので気にならなかった。

 三日三晩、眠りもせずに俺は息を切らせて殴り続けた。
 少女は栗色の髪も白い顔もあるかないかの際どい衣装も余すところなくどろどろになりながら、殴り合いに応じ続けた。

「どうした腰抜け。膝が笑っておるぞ。ぶへへへへへ」

 少女は笑った拍子に口から大量の泥を吐き出した。
 さっき殴り倒した時、泥の中に顔から盛大に突っ込んだ為だ。
 俺はぜいぜいと肩を揺すりながら、開いていた手を握り締めた。

 少女の頭に生えた角を足せば、身長はさほど変わらない。
 殴られ身体の一部を削ぎ落とされていくうちに、ここまで縮んでしまった。

「その貧相な顔もそろそろ殴り飽きた。この馬鹿げた喧嘩も次で終いにしてくれよう。このわしが放つ必殺美少女ぐるぐるマジカルパンチで泥の中に沈むが良い!」

 ぐふぐふと気味悪く笑う少女は、毛並みや鈎爪のついた手を握り込むと、これ見よがしに腕をぐるぐると回し出した。
 身体はすっかり縮んでしまったが、腕は俺の方が長い。
 どれだけ拳が強かろうと、来ると判っていれば先に殴った者勝ちだ。

 少女の拳が届く前に、あの生意気で憎たらしい顔をぶん殴る。
 今までしたように/されたようにグーでぶん殴る。

 目元に垂れ下がっていた邪魔な泥を拭い取り、目測で距離を測る。

 三歩踏み込んで右からぶん殴る。
 三歩踏み込んで右からぶん殴る。

「うははは! 死ねぇい! 今解き放たれる、我が渾身のマジカルパァンチ!」

 一歩、二歩、さ

   んっ

 ぐるぐると腕を振り回しながら、べちゃどちゃと慌しく向かってきた少女の姿を不意に見失った。
 見失ったと同時に顎に衝撃。
 泥に足を取られて転ぶ最中、地面に倒れる前に俺が目にした光景は、つま先の蹄から全身を投げ出すようにして跳び上がった少女の姿。

 騙された。

 パンチと言いながら飛び蹴りをしてきた少女に、俺は悪態をつく間もなく、頭の奥で何かがぷつんと切れた。



xxx  xxx



「こ、こぉの。馬鹿のように魔力を溜め込みおってからにぃ……」

 はひはひと息を切らし、裏必殺騙まし討ちによって公言通り泥に沈めた怪物を忌々しく見下ろした。
 わしのチャーミーでプリティな角も尻尾も毛並みもどろどろの泥まみれ。
 しかもこやつ、わしが美少女だというに本気でぶん殴り返してきたので痣やら何やら散々である。
 なにが悲しゅうて、稀代の大魔法使いたるこのわしがどつきあいなんぞせねばいかんのか。

 人も魔物も騒がす怪物を見つけたまでは良かったが、むしゃくしゃしているのもあって直接の解呪で挑んだ。
 即ち純粋な魔力を毒の身体に撃ち込んだ。
 魔法に造詣が深い分、解呪というのは実に割に合わないしち面倒くさい部類だと心得ている。
 編み物で例えるなら、織り機も使わず両手だけで城の絨毯を編み上げるようなものだ。

 なので手っ取り早く、怪物がその身に帯びた魔力を失うまでこちらの魔力を直接ぶつけて相殺していった。
 が、はっきり言って儀式と手順を踏んで解呪していった方が手間も労力も少なくて済んだかもしらん。
 常人なら数一〇人掛かりでも一年がかりの仕事であろうが、そこはわし。
 稀代の美少女大魔法使いたるわしにかかれば、三日三晩に縮めて見せる。

 なんだ。
 どっちも変わらんではないか。

 すきっと爽やかとははるかに遠く、魔法で解決するよりもはるかに疲れただけだ。
 一晩越した辺りでよもやそうではないかと思っていたが、全くもってその通りだった。

「好き勝手殴ってくれおって。こっちは殴るのにも防御に魔力を割かねばならぬというに……」

 何せ存在自体猛毒であるのだから、全力で攻撃すればこちらが毒にやられる。
 常に身を守りつつ、余剰魔力を攻撃に回してやりくりするしかない。
 さらに怪物の地形効果を無効にする為、得物すら使えん。
 たっぷりと魔力を溜め込んだ愛用の武器を、真っ先に手放さねばならなかった。
 おかげで随分時間を食ってしまった。

 わしは顎を押して首をごきごきと鳴らし、地面に突き立てておった素敵に邪悪なマジカルサイズを引っこ抜いた。

「……すっからかんになっておるではないか」

 魔力の輝きを失い、ただの鉄の鎌である。
 死の土地は魔力で打ち消し泥のぬかるみに変わったが、これでは麦刈りに使う農具と変わらんではないか。
 農夫と混じって収穫祭でも祝えというのか。

「どうしてくれようこの怪物め」

 私は大の字になってのびる怪物を見下ろした。
 怪物は気を失っておるようだが、それでも尚猛毒のダークマターを滲ませておる。
 幾ら表層の毒を剥ぎ取ったところで、源泉が駄々漏れならば時間をかけて元通り。
 死ぬまで成長を続けるであろう。

 魔力で相殺したのは、その源泉に直接蓋をするためだ。

「がばがばのゆるゆるとは全く……処女のごとくきゅっと締めておけというのだ」

 ぶつぶつと文句を独りごち、わしは意識を失った怪物の傍らで膝を曲げる。
 深き井戸の底に沈んでいた源泉も、今なら浅い水溜りだ。
 猛毒の泥を通して鈍く輝く刻印に、わしは魔力の障壁を何重にも重ねた手を突き入れた。

「げに恐ろしきは怪物を生む母の執念か。それとも幼子を怪物に仕立て上げる人の心か」

 神や魔王など可愛いものではないか。
 なぁ?





11/01/25 22:55更新 / 紺菜

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