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第三話 後編 取り返神父
「さてさて、私が頑張っている間にあの子はデュラハンちゃんを足止めしてくれてたかしらん?」

城の内部より聞こえてきた声に最初に気付いたのはウルスラであった。

「んんー? 静かねー、足止めのつもりがやっつけちゃったかしら〜?」

その声を聞いてウルスラは全身が震えだすのを感じた。自分の魔物としての本能が相手の力量を、自分の体に流れる魔力の中に相手の一族の存在が染みついている。

「んー、旧魔王時代の将軍御付きの騎士の娘とは言ってもー、まだ若いみたいだったし? 経験の少なさはしょうがないのかなー。とりあえずこの子の育成が終わったら一応面倒見てあげようかしらねぇ。あの子も育てれば面白そうだしぃ……ってあら?」

他の人間が城の中から出てくる人影に気付いたのはほぼ同時だった。その声色に皆が耳を奪われ、心の奥底から『もっと聴いていたい』と感じてしまう。

「あらあら? あそこで寝てるのは私が連れてきた子だからー……って身体強化魔法までかけてあげたのに負けちゃってるじゃない、使えないわねぇ」

透き通るような銀髪に霧の隙間から漏れる陽光を反射させ現れたその姿は一言で表すなら白と黒のモノトーンで、女性の『美しさ』全ての体現となるような存在であった。その新しく現れた人物に対して場にいる全ての視線が集まる。
その中で唯一、王だけはその顔に見覚えがあった。

「その顔……あの時の女商人ではないか!」
「あらあら〜、王様お久しぶりです〜♥」

女が手をひらひらと手を振る。
しかし城で会ったときとは違いその背中には一対の白い翼、そして後ろに白い尾を生やしている。
女が一瞬王へと視線を留め、目の奥がほんのりと輝きを増すと王は意識が急に遠くに行くような感覚に襲われた。頭がぼーっとして思考が回らなくなり、ただ目の前の美しい女性をもっと見て居たいという感覚に支配されてそれ以外の周りが見えなくなる。

「うそ……そんな……どうして……ありえない……」

ニアは存在故に相手の正体を悟り、震える体を抱きかかえて蹲ってしまった。脂汗が滲み、目は焦点が定まっていない。パニックに陥る寸前だ。
ウルスラも額に滲む汗と圧倒的な実力の差を体中で感じていた。あれは神にも等しい力を持つのではないかと錯覚するほど魔力を秘めている。太刀打ちなど考えることすら現在の自分には無謀で、足が震えて動かない。
魔力を感じ取れないレトは目の前の女性が地面から浮いているのが気になった。椅子に腰かけているようだがその座っているものはまるで影が厚みを持ったかのような黒い球体で、何やら地面に着くと消える液体を下から滴らせている。
アデットは女性よりも横に浮いている黒球に乗せられたもう一人の気を失っている少女に目が行った。

「姫様!!」
「あらら? デュラハンちゃん元気みたいじゃない。あの子を倒すなんてなかなかやるわねぇー、でもこの子はちょっと借りていくわ。旧魔王時代の子でも私が立派にこの時代の魔物娘として教え込んできてあげる。上手く行ったら次はあなたにも色々教えて込んであげるから待っててね〜♥」
「姫様を返せ! そのお方が平和な世で生きることこそが御父上様の願いなのだ!」
「やぁねぇ、平和っていうのは自分の身と愛する旦那様を守れなくちゃ手に入らないのよぉ? この子は数代前の魔王軍最高幹部である宵闇将軍バーナードの娘なの、それはもう魔族としての潜在能力的には申し分なしでしょう」

女性はまだ見ぬこの少女の作り出す未来の魔界を想像して恍惚に頬を緩ませている。その仕草一つ一つが完成された美術品のように整っており、誰もが目を奪われた。そしてその一挙手一投足に集中してしまい、次第に他に思考が回らなくなりある種の催眠状態のようになっていく。

「そんなことのために姫様を利用しようというのか! ダメだ、そうはさせんッ!」

駆け出そうとしたアデットの膝が地面を踏み込むための力を入れたところで崩れ落ちる。

>先程まで激しい戦闘をしていたとはいえ、気絶する直前まではまだ動くことはできていた……どうやらあれは火事場の底力と言うやつだったのか? 体内の魔力がかなり少なくなっている……

「く、くそぅ……」
「あらあら? なんだ、あの子ちゃんとやることやってるじゃない。デュラハンのあなた、無理しない方が良いわよ〜。貴女の魔力今枯渇しかかっているんだからしばらくは動けないわ」

剣は先の戦いで落としたまま、盾は神父を名乗る男にひしゃげられ使い物にならず、魔力も尽きた。もはやアデットの体は立つ事すらままならない。しかし仮に立てたとしても自分の力量を理解している彼女には自分があの相手に太刀打ちできるだろうか。不可能だ、できない、相手にすらならないことがわかっていた。

「何でもいい……誰か、誰か助けてくれ……。姫様を、戦いに巻き込ませないでくれ……」
「無理よぉ。私が出てきているんだから男の子は言わずもがな、女の子までみーんなメロメロにしちゃうんだから〜♥」

事実、気が付くと周りの者達(エンジェルであるニアは恐怖に震えて蹲っているだけだが)は皆が焦点が定まらずに女性を見ており、アデットの声は届いていない。







かに思えた。






「おや、お困りですか?」

不意に、後ろから声を掛けられた。

「助けを、お求めですか?」

しかしアデットですら半分術にかかっており振り向くことすらままならない。

「な……」

何故? と訊くのは今は無粋だろう。今重要なのは、そう。

「……会ってまだ半刻すら経っていないあなたにこんなことを言うのが図々しいのはわかっている。それでも、今は他に頼れるものがないんだ……」

自分が何もできない悔しさに歯を食いしばり、目元には涙が溜まる。

「本当は自分でやらなくてはならないものほど誰かに頼るのは勇気がいることです。言って御覧なさい、私にできることならお手伝いしましょう」

頬を一筋の涙が伝う。

「どうか……」

声が震えるのを必死に抑えてやっと言葉にする。

「どうか姫様を取り戻してくれ……!!」

返事の言葉より早く肩に手が置かれた感触が伝わってきた。
それは優しく、そして暖かかった。

「ええ、やってみましょう」

イネスは大きく息を吸い込んでからゆっくりと女性に向かって歩を進め始めた。

「そこのお嬢さん、誘拐は、善くないことです。保護者……の、方(?)も悲しんでます。今なら私も怒りませんから、大人しくその子を返してくれませんか?」

両手を広げて語り掛けるイネス、女性は驚愕に目を見開いた。

「あら? 驚いたわ、あなた私を見ても誘惑の魔法が聞かないのね。枯れてるのかしら?」
「私は植物ではありません、神父です。どうでしょう、この私に免じてその子を返してくださいませんか?」
「あらあらあらっ、何かと思えばこの私に説得? それとも命令? あなた相手が誰かわかっているのかしら?」
「知りません! ……あっ、なるほどそういうことですか」
「?」

女が首を傾げる。

「お話する前に名乗っていませんでしたね、失礼しました。私の名前はイネスと言います、あなたのお名前教えてください。お友達になりましょう」

>>>違う、そういう事じゃない!

身動きの取れないレトと女性陣の心境は一致しているが現在誰もそのことを触れられる者はいない。ある意味その思考ができる時点で魔法の支配から意識が戻せているのかもしれないが、体は動かずその間にもイネスの歩みは止まらない。

「……馬鹿にしているのかしらん?」
「そんな、滅相もない! 私は神父として間違ったことをしてしまおうとしているあなたが道を踏み外さないよう、説得させていただいているにすぎません」

イネスは顔に慈しみの笑みを浮かべて近づいていく。その手は大きく広げられているが左手は掌の皮膚が無く骨が見えているところもある。

「ああ、どうしようかしら。この人間すっごくイラつく上に、きれい事ばかりでとっても気持ち悪いわ……。とりあえずそれ以上近づかないでくれる?」

女性がイネスの少し前の地面を指で差し、滑らかにスライドさせる。その部分にイネスが到達して次の歩を進めようとして瞬間、見えない壁に頭をぶつけた。

「あたっ、あれれ? 壁がありますね」
「ああ、横に回って避けようとしてもそれはあなたに合わせて動くから無駄……」
「壁があったらあなたにこれ以上近づけませんね。そんなものは……ふむ、よいしょお!」

イネスが懐から聖典を取り出して勢いよく振り下ろす。だが鈍い音と共に弾かれた。

「うふふっ。ちょっと私の支配から逃れただけの人間なんかの、しかも勇者でもないあなたにそれを壊すことはできないわよ」

二度目、再び鈍い音と共に弾かれた。

「さて、それじゃ私は帰るから。そこのデュラハン、この子はしばらくしたら返してあげるから。その時にはとぉーっても淫らで可愛い子になってるから楽しみにしてなさいっ♥ 終わったらあなたの相手もしてあげるわぁ〜」

女性がアデットに向けて言葉の終わり際にウインクした時、三度目に振り下ろしたイネスの聖典が甲高い音ともに障壁を砕いた。

「……は?」

キリキリキリとゆっくり首を向ける。その光景を目にした瞬間の女性の顔は美しいながら確かに引きつっていた、と後にレトは語っている。

「よし、これで私達の間に壁はありませんね。さて、まだ帰るのは早いですよ? お話し合いの続きです」

>なるほどね〜、あのデュラハンではなくて倒したのはこっちの気持ち悪い人間な訳ね。そりゃ私の障壁壊せるほどの人間ならあの子みたいなちょっと強いくらいの人間じゃ勝つことはできないわよねぇ

「ふぅん、魔力で干渉するわけでもなく叩いて壊すなんてあなたなかなかやるじゃない。いいわ、興味が湧いた。丁度拾って使ってた人形が使えなくなっているからあなた私の新しい奴隷にしてあげる」
「いえ、お断りします」
「拒否権なんかないわよ?」

一瞬、女性の姿が消えて見えなくなった。あとに残るのは座っていた黒い球体と誘拐されようとしている少女のみである。イネスが気配を感じたのか振り向くがそこには誰もいない、女性はそんなイネスの後ろから頭を両手でつかんだ。

「さぁて、あなたの頭の中はどうなっているのかしらん? おねーさんに見せてごらんなさい……かわりに素敵な夢を見せてあげるわぁ……」

>そうか、あの人間もそうやって操られて……このままではあの男までっ……!

アデットは自分に何かできないかと周りを探す。大分離れたところに落とした剣が見えたが自分の体には思うように力が入らない。

「く、くぅ……」

アデットにとっては動かない体とは逆に回転する思考の中でとてつもない時間が流れているように感じたが、実際それはほんの十秒にも満たない出来事だった。

「うっ」

唐突にイネスの頭を掴んでいた女性がイネスから飛び退いた。その顔は蒼白で額には脂汗を滲ませている。

「あなた……本当に人間なのかしら? 本能的な欲も願望もない……考えているのは信仰の言葉ばかり……。それだけなら、ただの信仰心の強いだけの歯ごたえのある人間だったけど、あなた『理性で本能を塗りつぶした上で押し潰している』わね? おまけに侵入した私の精神までその『主神の教え』ってやつで塗りつぶそうと……こんな精神構成の人間なんて初めてだわ。精神に近づくだけで他の精神が汚染を受けちゃうなんて……ハッ、気持ち悪いッたらないわね!」

彼の精神の中で何を見たのかやや震え気味の声を出す女性には先程までの余裕がそこには無い。
女性が睨めつけられているが振り向いたイネスは変わらずに優しく微笑んでいた。

「あなた、狂っているわよ」

「狂っていません、神父です」

やれやれ、と一呼吸おいてからイネスが語りだす。

「まったく何を言いますか。主神の教えこそこの世界で全ての生物がより良く生きるために、そして善く生きることには主神の教えが必要なのです。主神は全ての生きとし生けるものを導いてくださいます。それはもちろんあなたとて例外ではないのですよ?」

柔和な表情を浮かべ、両手を広げて歩み寄る。その全てを包み込むような包容力に溢れた彼の態度は彼女にどのように映ったのか。その薄く開いていた目と視線が交わされた時、彼女は自分が今対峙している人間が何なのか理解できなかった。肌が泡立ち、背筋を冷気が走る。

「ごめんなさいね〜、その言葉、私には受け入れ難いわ」

彼女は今は考えるのを止めた。これ以上、この自分の力の及ばない人間に関わりたくなかった。
しかし所詮は一人の人間、たかが知れていると思考を切り替えることで元の魔力的な実力差が彼女の心に余裕を産んだ。

「なあに、大丈夫。私が初めての方でもじっくり主神の教えについて教えて差し上げますので、気の済むまで語り合いましょう。そうすればあなたにも主神の素晴らしさがわかりますから」
「生憎、私にはその主神の教えとやらを学ぶつもりもないし、欲深い人間らしさがなくて気持ち悪いあなたにこれ以上付き合っているのは嫌なので、さっさと帰らせてもらうわぁ……」

女性が元の位置に瞬間移動すると高く浮かび始めた。

「そうですか。ではお話はまたの機会にでも……あっ、お待ちください! せめてその子は……!」

イネスが何とか少女だけでも取り戻そうと駆け出すと、女性は座っていた黒い球をイネスに向けて飛ばしてきた。それはイネスの近くに来ると形を変えて大きく広がるとイネスを包み込もうとする。

「ええい!」

イネスはそれを大きく横に飛び退ることで強引に方向転換して躱したが勢いは落ちてしまい既に女性らは城の屋根の高さよりも高く上がっていた。

「まだまだっ!」

イネスは城の崩れた壁をそのまま駆け上がり、屋根から飛び出した。

「ぐぬっ、まだ届かない……!」
「うふふ、残念でしたぁ〜。そんじゃあね〜」

女性はその場で手を前にかざすとその先の空間が撓みだしてヒビが入った。そのヒビは見る見るうちに広がっていき掌を中心に人が一人入れるほどの裂け目となりゆっくりと口を開く。その向こうは歪んだよくわからない空間が広がっており、唯一ニアだけはそれが空間転移魔法だということがわかった。

「ばいば〜い♥」

足場はないのに女性はその開いた割れ目に歩いてゆく。

「こうなったら……ウルスラさーーーん!!!!」

イネスがウルスラに向かって叫ぶ。その声に突如として目の前に現れた強大な存在に対して萎縮していた意識が呼び戻される。

「主様が、呼んでいる。我を、呼んでいる……主様が……我を呼んでいる!? 主様が我を求めている!!」

ウルスラは高速で回転する思考の中でそれまでの恐怖など全てを跳ね除け、高揚感が込み上がってくる。チョーカーの人化の魔法を強引に解き放ち元のドラゴンの姿に戻るとそのまま足の筋力をフルに活用しイネスめがけて飛び立った。

「ぁぁぁぁぁぁあああああああああるじさまァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! ついに、ついに我を求めてくださるのだなっ!!」

その速度はもはや軽く通常のドラゴンの出せる飛行速度を軽く超えているほどであるが、もちろん本人は気付いていないしそんなことは今は重要ではない。愛はすごいのだ。

「え、なに? ドラゴンが紛れ込んでたの?」

急に現れたドラゴンの魔力を感じ取り、それを確認しようと女性は半分空間の歪みに踏み入れていた足を止めてしまった。その数秒にも満たない間のうちに、女性がウルスラの姿を確認した時には既にイネスの元にウルスラは到達していた。

「よくぞ来ました! それでこそ我らが主神信徒!」
「うむっ! 主様が求めるなら我が身体はいつでも……いや既に我のすべては主様のものであるぞぉっ!」

ウルスラが勢いそのまま抱き着こうと手を伸ばす。イネスは伸ばす手をすり抜けウルスラの肩に手をつく。
ウルスラは眼前に迫るイネスの顔に思わず目を閉じた。
イネスがその肩に足を掛ける。
イネスはそのまま足に力を入れ、女性に向かって跳躍した。

「わ、我を踏み台にしただとぉう!?」
「……えっ?」

イネスの想像外の跳躍で体が一瞬硬直する女性。誰があの場からもう一度登ってくると予想できたであろうか。
イネスの右手には既に聖典が握られている。

「ふんっ」

聖典を横薙ぎに当てると黒球を弾け飛んだ。支えを失って少女が落下しようとする。
すかさずイネスが左腕で抱えるようにしてキャッチした。

「しまっ!」
「とりあえずあなたとはまた今度、ゆっくりお話をさせてください。ではまた。あ、先に謝っておきますが、痛かったらごめんなさい」

慌てて伸ばす女性の手の先の空間から赤黒い触手が伸びる、しかしそれが届くより早くイネスの右手から放たれた聖典が女性の眉間に命中した。

「ふにゃうっ!?」

伸ばそうとしていた触手が霧散し、女性がそのまま空間の向こうに放り込まれる。
女性が向こう側に落ちると同時に開かれていた空間の歪みは支えを失ったかのように閉じ、何の痕跡もなくなっていた。

そして、下に踏みしめるものが無ければ落ちるのがこの世界である。上昇する勢いを失ったイネスもその例外ではない。
一瞬の無重力感を味わった後に来るのは急激な加速。
しかしすぐにその加速は止まった。

「ああ、助かりましたよウルスラさん」

イネスを後ろから抱きかかえているのはウルスラであった。しかしその表情はやや不満気味である。

「主様、我は主様の為ならなんだってする覚悟はあるがさすがに今回のは……」
「いやぁ、すみませんね。頼める人が他にいなかったのですよ」
「しかし我とて主様の妻としてだな」
「ああ、ごめんなさい。ちょっと、良く、聞こえません……」
「なっ! 流石にここまでいいようにされるとと我もドラゴンとしてのプライドと言うか魔物娘として正式にそろそろ主様に襲いかかっ」
「……」
「? 主様?」

イネスの会話の合わなさには慣れていたが、今回の様子は何か不自然である。
様子に違和感を感じたウルスラはふとその爪先と指先から何かが垂れているのに気が付いた。そしてイネスの手から少女がずるりと落ちる。

「あぶなっ、せっかく助けたのに手を滑らすなど主様らしくな……主様? ええと、これは背中の傷からずっと垂れて……まずい、早く止血をせねば。おい、エンジェル!」

慌てて落ちかけた少女を尻尾で掴み、ウルスラが大声でニアに呼びかけるがニアは蹲って震えたままだ。

「ちっ」

ウルスラが口からイネスに当たらないように小さな火球を吐いた。
するとニアの傍に着弾して弾ける。

「ほあちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃ!?」
「おいエンジェル、もうリリムは去ったから正気に戻れ。主様が死んでしまう」
「へっ!? もう帰った? ふ、ふっ、知ってましたよ。ああ、私みたいな神の使いがいると知って恐れをなして逃げ出したのですかね。まぁ、無駄な争いを防ぐためにも」
「黙れビビリ」

ウルスラはまたしても火を噴いた。

「あちゃちゃちゃちゃっ! ちょっ、やめてくださいって! 羽が燃えたらどうするんですか!?」
「歩け。そんなことより早く主様に回復魔法を掛けろ」
「え、なん……はっ!? よく見たら彼の背中と左手がすごいことに!」
「むしろ、この程度の傷だけでリリムに強化された人間とリリムを退けられていた方が賞賛に値すると我は思うがな」
「とにかく、傷を見せてください。本当は観察者である私が彼に何かするのはいけないんですが今回は特別に……」
「早くしろ」
「あちっ、だから! 火は! やめて! あれっ、これ羽先焦げてませ」
「グルルルル……」
「ちょっ、わかった、わかりましたからドラゴンの本性見せないで!」

少女を地面に寝かせてイネスを前から抱きかかえるウルスラ。ニアが背中の傷に回復魔法をかけている間、イネスの手が地面について汚れないように前から抱えて立たせるように支えている。

>……ふむ、さっきまでは少々不満な点もいくつかあったがこうしていると本当に主様と抱き合っているような気分に……むふふ。すぅ〜〜はぁ〜。ああ、主様の匂いと感触が……こんな傍で! こんな近くに! この姿のままで! 味わえるとはな……うむ、至福だ

>あーあー、こんなに大傷つくって。と言うかこれホントに治るんですかね? まぁ、瘡蓋が速くできるようにして止血だけでもしておけば……

ニアが背中の傷の止血を終えて次に手の傷に取り掛かろうとした時、何やら上の方で不可解な音がしているのに気が付いた。

「ピチャピチャピチャ……」
「ん? なんでこんなところで湿った音が……あっ! ちょっ、ウルスラさん何してるんですか!?」
「れろれろ……はむ、ちゅっ。何って、主様の汗を舐めているだけだが?」
「いや、何で舐めてるんです?」
「あー、何というかその主様の汗から香しい匂いがしてな。つい舐めてしまったのだ。はむはむ、はふぅ」
「ついって……(ん? ってそういえば魔物の栄養源とされる精って汗にも含まれているんでしたっけ?)」
「はむはむ……ピチャピチャ……それが一度味わうと病みつきでな、もっと舐めたくなってしまうのだ。それに何やら体に少しずつだが力が漲る」
「顔つきキリリとしていてもやっていることは『誇り高き地上の王ドラゴン』にあるまじき最早犬っぽい行為ですからね?」

一瞬硬直するウルスラ。
しかしイネスの流れる汗の匂いを嗅いでいると、堪え難い衝動が湧き上がり汗を舐めだしてしまう。
するとだんだんとウルスラの表情が熱っぽくなってきていた。

>こ、このままではせっかくイネス君の存在により抑えられていた彼女の魔物としての本能が盛り返してしまう……下手したら発情した彼女はそのままイネス君を攫って彼が動けないうちに性行為に励んでしまうかも知れない

しかしこの状況にニアは一筋の光明を得た。
どうしようどうしようと周りを見渡したニアの視界に先程イネスの元へと向かうウルスラが外して投げ捨てたチョーカーが入ったのである。
ニアは止血をとりあえず終えると静かに立ち上がり、落ちていたチョーカーの元へと向かう。
ウルスラはその間夢中にイネスの首筋に流れる汗や匂いを嗅ぎ、舐め、傷の無い背中をさわさわし続けている為ニアの動きに気付いていない。そして表情は恍惚である!

「(はぁー至福だ……主様の匂いをこんなに体中に擦り付けてしまった。ああ、もうこれでは主様のものであるとマーキングされたかのような……はっ、そんな主様の『モノ』なんて……たまらんではないか! ふふ、ふふふ……すぅ〜むはぁ〜〜)」
「ウルスラさん」
「(ああ、何だか体が熱いな……)」
「落し物ですよー。ああ、今両手が塞がってますね。なら私がつけて差し上げます」
「(それにちょっと股がムズムッ!?)」

急激にウルスラの体の力が抜けていく。一瞬の眩い光と共にウルスラは先程までより二回り以上小さい、ニアと同じくらいの身長の少女になっていた。もちろん、人化の魔法の発動中の現在魔物としての力はない上、体格差等の問題により

「はがっ、まさかこの感じ……エンジェうきゅう」

ウルスラはイネスに押しつぶされてしまった。

「あっ、ちょっ、主様っ。そんないきなり……ああ、もちろん我は主様の為ならこの身のすべては捧げる所存であるがその、できれば最初は魔物の姿で……などと言っている場合ではない! 死ぬ! 主様重い我死ぬ! おいエンジェルっ!」
「止血は終わりましたよー」
「何っ、いつの間に……そうか、ならよかった。ではない! 人化してしまったらいかに我とてただの人間の体、こんな女子の筋力では支えられん。主様が地面に……何とかしてくれ!」

「あー、はいはい。ちょっと待ってくださいね、今他の方々の気付けしますので」

ウルスラの抗議空しく、ニアはてくてくと急いでなさそうな歩き方で他のリリムの術にかかった者達を起こしてまわる。
その中にはリリムがいるうちに気絶から覚めてそのまま術にかかってしまった兵士たちまでいたのでニアは想定よりも多そうだなと感じた。
その間ウルスラはせめてイネスの顔が地面につかまいと頭を抱えつつ、自分の呼吸を行うためのスペースの確保に必死である。

五分後。

「ぐぐぐ……エンジェル早く……」

十分後。

「まだか、まだなのか……そろそろ本当に……」

十五分後。

「あ、もう……だめだ……くぅ」

二十分後。

「はーい、おまたせ。ちょっと時間が掛かりましたが戻りましたよー。なんだか幸か不幸か一番力持ちそうなデュラハンの方が当てにできないので王様とレト君、それから動けそうな兵士の方々で運びますよー」
「……」
「ありゃりゃ、ウルスラさんイネス君の頭抱えて寝ちゃってますよ。しかも不思議なことに顔が青い」

さっきまでの仕返しとばかりに青ざめたウルスラの頬を指でつついて遊ぶニアにレトが声をかける。

「天使様、とりあえず今回はこれでお開きと言う事でどうでしょう。王様には帰ってもらって、デュラハンさんにはまた後日神父様が目を覚ましてからというのは?」
「そうですねぇー。イネス君とウルスラさんがあれな今、判断は君がしていいと思いますよ」

ニアのやや投げやりな回答の結果、レトがとりあえずこの場を取り仕切ることになった。

「はーい、王様ー。神父様をとりあえずお城まで、神父様が助けたお姫様はお城の中に、運んでちゃんとした傷の手当お願いできますか?」

>……あれぇ? それって暗に私の治療がちゃんとしていないってことになるんじゃー……?

「なんだか今日一日でえらく王としての威厳落ちたなぁ……儂」

王が目尻にうっすら光る何かを湛えて天を見上げている頃、レトの服に隠れていたノノが出てきた。

「ありがとねー、お姫様達を助けてくれて。そこの神父のでかいにいちゃんにもお礼言っておいてね〜」
「うん……あれ? 自分で言えばいいんじゃない?」
「ほら、私もこの土地のノームだからさ、一応お姫様達の側なわけで。君のことはとても気に入っているけど、今回の領主様の約束は果たしたし帰らなくちゃ」
「そっか。うん、わかった。ばいばい」
「気が向いたら会いに来てよ。君が呼んだらすぐに出てきてあげるよ。この世界、大地はどこにでもあるんだからさ」

どぷんっとノームは土に沈んで消えた。


 割と出血量的には大怪我であったのだが、驚くべきことに城に運ばれたイネスの意識は次の日の朝にはいつものように戻り、目覚めたのである。

「ああ、今日も私は生きている。主神よ、感謝します……」
「いやー、ほんと人間ってすごいですねぇ。私達エンジェルだったら即座に天界戻って治療に専念してしばらく戻ってこないのに」

来客用のベッドの上で祈りを捧げていたイネスに上から声が掛かる。

「ああ、天使様いたのですか」
「いましたよ、ええずっと。レト君はあなたが目覚めたのを王様に伝えに行ってますから」
「そうでしたか。ふむ、ではウルスラさんは?」
「私が来た時にはいませんでしたよ? あの子がそう簡単にイネス君の傍を離れるわけ……まさかっ!」

ニアが思い切りイネスの上に掛けてある毛布を剥がすと、そこにはイネスの体にピッタリくっついて丸くなっているウルスラの姿が。

「何をするエンジェル、主様が寒いだろう。はやくもどせ」
「……ナニヲシテイルンデス?」
「? 一応今はドラゴンではないので主様を体で温めようと」
「……ナゼアナタノカオハ、ジョウキシテイルンデス?」
「な、何を言うか。そんな我はただ主様を心配してだな」
「毛布の中はどうでした?」
「そりゃもう主様の匂いとぬくもりで天国とはこのことだな」
「ほらやっぱりー!」
「はっ! しっ、しまった。しかし過去に眉唾物の噂で聞いた『ドラゴンの体液を塗り込んだ傷は早く治り易い』ということで一晩中しゃぶっていた主様の手の傷は塞がろうとしているぞ。どうだすごいだろう!」
「自分で眉唾物のとか言ったらダメでしょう!?」

ほれみろ、とウルスラがイネスの左手を持って持ち上げる。
するとどうしたことか、彼の手は唾液でふやけているものの、既にうっすら皮ができているではないか。特に指先中心で。

「……さすがに抉れて骨の見えてたところの肉は戻らないんですね」
「……まぁ、眉唾物の情報だから眉唾物の効力なのだろう」

>ここまで治っているだけでも本当は驚異的と言っても過言ではないと思うんですけどね……まぁここは調子に乗られてもムカつきますし黙っておきますか

「そうだ、ウルスラさん、あの時は助かりましたよ。ありがとうございます」
「な、何を言う主様。我は主様の僕として妻としてやるべきことをしたまでであるぞ」
「しかしあの時私一人ではあの子を取り返すことはできませんでした。あなたがいてくれてよかったです」

そう言ってウルスラの頭を撫でるイネス。
ドラゴンであってもやはり褒められるのは嬉しいのか頭を撫でられる行為がすっかりお気に入りのようである。

「そ、その、主様」
「ん? なんです?」
「わ、我は主様に認められているのだろうか?」
「何をいまさら、私はとっくにあなたを認めていますよ」
「ほ、本当か! ならば」
「あなたは大切な我が同胞、共に主神を崇める信徒ではありませんか」
「……ま、そうであろうな」
「何か問題でも?」
「だが認めてくれたならならば今こそ我と子作りを……!」
「それはいけません。我々にはまだまだ困っている人々のために主神の教えを広めなくてはならない使命があります。あなたも私と信徒として活動するのですからそれは、ナシです」
「ああ、わかっていたぞ、わかっていたとも。その言葉が来ることは。もちろんそれならいつまでも我は主様と共にいるつもりだがな!」

やや半泣きでやけくそ気味にウルスラが宣言する。だがその頭に再びイネスの手が置かれ、イネスが微笑みかけた。

「それに私としては魔物である貴女にもっと世界を回っていただいて主神の教えの素晴らしさを感じてもらいたいのですよ」
「う、うむ……」

なんということか、イネスの微笑みに逆に魔物であるウルスラの方が顔を赤くしてうつむいてしまった。

>しかも微妙に良い雰囲気になっている!?

「おお、神父殿! ようやくお目覚めになったか!」

そこへ勢いよく扉を開いて現れたのはこの国の王、ラバウル王であった。
彼の登場によりとりあえずこの空気に流れが変わったことに少しホッとするニア。
だがその安堵は主神の僕として魔物による誘惑が止められたことについてなのか他に理由があるのかはたして。

「あぁ……この度はわざわざ私を運んでくださり傷の手当までしてくださったとは、どうもありがとうございます」

イネスが深々と頭を下げる。

「あああ、よしてくだされ。もともと儂の弱い心が起こしたこと、神父殿がいなかったらきっともっと大変なことになっていたでしょう。思い返してみればあの女に会った時から既にあやつの術中に落ちていたのかもしれませんな」
「王ともあろう人間が情けないですよね。心持ちが足りないのではないですか?」
「ううむ。少年よ、確かにその通りかもしれないな……」
「でもレトくんもアレ相手に惚けていた一人ですからねー?」

王と会ってから若干意地が悪いことを言い出すようになったレトにちゃんと釘を挿しておくことをニアは忘れない。そこにふとイネスの頭にこの場にいない今回の被害者のことが過った。

「そういえばアデットさん……ええと、騎士の方はその後?」
「うむ、あの誘拐されそうになった少女を連れて城に帰ったきりだ。私達はあの後近づいていないから詳しいことは知らないのだよ」
「いえ、何も起きていないのならいいのです。あの方々にも是非主神の教えを学んでいただきたいので、また怒らせてしまっていなければ問題ありません」
「イネス君……まさか彼女らにも主神の教えを?」
「はい! この素晴らしい主神の教えを知らないなんていけません。是非主神の素晴らしい教えを学んでいただきたいと思いますので後でまた尋ねさせていただこうかと思っていました」

イネスは目を輝かせながらずいとニアに顔を近づけた。
また魔物相手に布教をしようとしているこの男に顔を引きつらせながら同意の首肯をし、布教した前例の結果であるウルスラをチラリと見る。
ウルスラはそれでこそ我が主だと話の趣旨をよくわかっていないのか終始頷いている。
ニアは天使として閣下のある過去があるもののエンジェルとして見過ごしていいものか考えるうちに頭が痛くなってきた。

「……やはりあの城に住むのだろうかあの者らは」

王が複雑そうな表情をする。

「しかし地下で眠っていたということは、元々あの城は彼女らのものであったのでしょう? 察するに使っていなかったのではそのまま住んでいても問題ないのでは?」
「神父殿、あの城を過去数十代にわたって私の一族は管理してきていました。管理のみが王家の役割で使ってはいません。ですが、その、魔物が住んでいるというのは……」

確かに教会勢力のド真ん中。しかも前回の大森林の件とは違い、普通の少し開拓すれば利用できる土地であるので教会側も魔物討伐への部隊を派遣するかもしれない。
そんな場所をこれまで『魔物が存在していたのは知らなかった』状態で、ただの『近づくことのできない霧に包まれた城』として保有していた。
これからは知っていて保有するというのでは教会側にも見過ごすことはないだろう。

「というかなんでそもそも魔物がいるのに魔力が教会側には探知されなかったのでしょうか?」
「ああ、それについてはあの土地にある霧には中に魔力を留めておく……と言うよりは外に漏らさない機能があると王家の文献にある」

ニアの疑問にラバウル王が答えた。

「なるほど、あの霧の結界自体は魔力を放出していない様ですし……中に入れないとなれば調査もできませんからね」

よく考えたものです、とニアが感心している。

「ではなんで今回は入れたんです?」
「実は王家の人間も長い時の間にあの城に向かう方法を忘れてしまった。今回のそれについてはあの魔物の女にもらった指針機に従って……」

一応美女からもらった物ということで王としては密かに取っておいて記念にしようとでもしていたのか布に丁寧に包んでいたにもかかわらず、懐から取り出した指針機は砕けていた。

「ふおお! 壊れてしまっておるではないか!?」
「これで事実上あの城へ向かうには土地の精霊であるノームの助けがないと行けなくなったわけですね」
「? 天使様、あの綺麗な魔物の女の方はどうなんですか?」

話に半分置いてかれていたレトがニアに質問を挟んだ。

「帰りにちょっと確認したのですが、あの城の方の結界はどうやら『魔物』自体を寄せ付けない働きがあるみたいですね、よほど中に魔族を近づけたくなかったのでしょう。また扉が閉まると自動で結界が発動して、さらに外界との遮断の役割も果たすようですね。再び入るには管理人である王様連れて来て結界解除してもらうか、内からあのデュラハン達に開けてもらう必要があります」
「だからあの魔物は先に儂らを入らせたのか。霧の結界を抜けることはできても、城の結界を解くことはできなかったわけだな。無事入れることを確認した上で、我らが騎士にやられるのはわかっていたからあの黒い奴を派遣したわけか」
「そうですね。彼を紛れ込ませてあの騎士の相手をさせると同時に、彼に空間転移魔法のポイントとなるようなものでも持たせて侵入させた。もしくは彼自身を転移先の目印にしてあの城に入ったということでしょう」

空間転移をするには移動先の場所には何か目標物になるようなものが無いと行き先がイメージできずに上手く魔法が発動できない。
つまりあのリリムは再びあの地に直接空間転移することは現在できないのだとニアは推測していた。

>まぁ、空間転移なんて高位な魔法な上に扱いが難しいのでそうぽんぽん使いたがるものでもないでしょうが……今回の一件でしばらくは何もしてこないでしょう、多分。

「今回の私達は『ノノさん』が許可証の役割をしてくれたお陰で迷わずに行けただけで、魔除けは既に解除してあったということですか」
「ええ、イネス君の想像通りです。多分解除されてなかったら地上の生物ではない私も、本質は魔物であるウルスラさんも魔除けに引っかかって入れなかった。霧の結界を迷わず進むことができて、かつ魔物ではない人間以外の存在は踏み込むことはできなかったでしょう」

ふぅ、と軽く息をついてからニアがこれから起こるであろうことを告げる。

「でも、今回の件でおそらく何か事件があったことは教会側に察知されたでしょうし、少なくとも調査に誰かが派遣されるでしょうね。そしてラバウル王、あなたは教会の指示で調査に協力しなければならない。魔物ではないので結界の中に入れる勇者が来たら、今の彼女たちは確実に『粛清』されてしまうでしょうね。いずれこの世界のサキュバスの魔力を取り込んで今の魔物と大差無くなるとはいえ、あんな旧時代の魔物の生き残りなんて見つかれば神の敵認定待ったなしですよ」

それを聞いたラバウル王が沈痛な面持ちで項垂れる。

「儂らがあの女にまんまと乗せられなければあの者らは無害なまま眠り続けていたのだろうに、申し訳ないことをしたな……事実騎士は我が兵士の一人も殺していない。あの娘たちは本当は無実なのだろうにな……」
「ならばラバウル王、あなたは調査を拒否しますか? 拒否すれば教会に疑われてしまいますし、下手すれば親魔物派と断定されて処罰……いえ、最悪教会の騎士団に国ごと制圧されるかもしれません」

ニアの言葉は厳しいものの、この国でどうやっても避けようがない死者の発生を先に示していた。それでも神の直接の僕であるエンジェル自身が直に教会ないし天界へ報告をしないのは、人間自身に神に使える者としてこの非情な選択をさせようとしている試練なのか。それとも操られたとは言え、ある種今回の件の被害者である少女たちを守ろうとする人道的な選択肢を選ぶ権利を与えた慈悲なのか。

「可哀想だが国と民を守るためには避けようがない……か」
「ええ。それが人々を束ねる者として、国の長として正しい判断だと思いますよ」

王が苦渋の表情を浮かべるのは後ろめたさの表れか。レトもこれには口を出さなかった。

そこへイネスの手をポンと叩く音と共に言葉が届いた。

「なるほど。ではこうしましょう。私があの城を買います」

「「「ハァ!?」」」

明らかに流れにそぐわない、脈絡のない発言に対して王、ニア、レトの三人の素っ頓狂な声を上げる。それを聴きながらもイネスは良いこと思いついた!の表情を崩さない。

「神父殿? それはありがたいが……いやいや、いくら神父殿と言えども城一つ買うような大金など持ってはいないと言うか無理であろう」
「それ以前にあなた自分の立場が何なのかわかっているのですか!? し・ん・ぷ! あなた神父なのですよ! なんで神の敵である魔物を擁護するようなこと言っているんですか!?」
「さ、流石に神父様でもこれにはどうしようもないと思うけどなぁ」

三者三様に否定の言葉を口にするがイネスの涼しい表情は変わらない。

「レト君、私の荷物からこの土地の価格表を……そう、それです。ありがとう。あと紙とペン、それとインクを……そう、それです。ありがとう。ええと……この土地の元々の地価がこのくらいだとして、土地の広さがこのくらい。でも使われていなかった土地である上、霧が濃くて深部には基本的に近づくことも容易ではない。開拓すれば使えるにしても開拓は現在されていない、町からも離れていて、土地は湖に囲まれていて使用できることには限りがある……。うーん、このくらいじゃないですか?」

イネスが地価格表を広げながら紙で計算をし、結果を王に見せた。

「ふむ、あの広いだけの土地なら普通はそのくらいか。今から開墾するとなるとその労力が必要になるしな。……しかしそれでもかなりの大金だぞ?」

>はー、あの土地ちょっと魔法のわかる人間からしてみれば魔界化していないのに極めて特殊な地形……欲しがる人間は数多でしょうに……。ですが確かに利用法を知らなければ価値はないのは確かな道理ですね

いやいやしかしですね。と言いながらイネスがペンをインクに付けて紙面にもう一度走らせる。

「今回のことを引き起こした張本人はあの綺麗な女性でしたが、王様があの城のものを売ろうとして探索した結果アデットさん……騎士の方を起こしてしまわれたのですよね?」
「う、うむ」
「しかも私達が来なければ、正確には土地の精霊であるノノさんが助けを呼ばなければあの城にいた少女が誘拐されるのをみすみす見逃していた。これはよくないことですね」
「さ、流石に操られていた間はどうにもならな」
「信仰心が足りませんな!」
「えっ」

イネスがビシリとラバウル王に恐れ多くも指を突き立てる。

「信仰心が足りません! だからあのような目先の出来事にうつつを抜かすのです!」

>あー、そう言えば、彼には何故か聞いていなかったんですよね。誘惑の魔法……しかもサキュバス最上位のリリムのものが。すごいと言うかそもそも勇者でも無効化はあり得ないんですよねぇ、この世界の生物として欲には勝てないから神も手を焼いているんですし。……流石にそれを信仰心で片付けた上で普通の人間に求めるのは苦ではないですかねぇ。……まぁ面倒くさいので私は言いませんが。

「王様、あなたには是非もう一度主神教義を一から学びなおしていただきたい!」
「あの、神父殿。あれは魔物の力で……」
「だまらっしゃい!」
「はい……」
「ということでその代金を私は請求します」
「なに!? 金をとるのか!?」
「当たり前です! 一国の王であるにもかかわらず主神の教義を理解できていないとは情けない事ですよ! そんなことでは民は不安になってしまいます!」
「いや、流石にこの国では……」
「なってしまいます!」
「はい……」
「と言うことでその分差し引きしまして、王様にはこれからも城の管理をお願いしたいのでその分王様を雇うということで代金に上乗せ……」

イネスの口からまたも唐突に、恐れ多くも『王を雇う』と言う言葉が飛び出した。

「ちょ、ちょっと待て。神父殿が? 儂を? 雇う?」
「ええ、だって王家の人間しかあの結界は解除できないのでしょう? でしたら私には管理しきれませんし」

何をあたりまえなことを訊いていらっしゃるんですか、と言わんばかりに不思議そうな顔で首を傾げる。

「そして皆の笑顔がプライスレス……さて、こんなものでしょうか」

サラサラリとペンを走らせて契約書を完成させるとラバウル王に見せた。そこに書いてあったのは

「『私ラバウル現国王は、この霧の森の敷地の権利を教会の神父であるイネスに譲渡するものとし、今後管理のみを行うものとする。なお、今後は立ち入り、管理者としての役割の変更、譲渡に関しては持ち主である神父イネスの許可を得た後に行うものとする。その対価に金貨……』ってこれ小さな村や町の大規模事業程度なら一つ丸々買い取れる金額だぞ!?」
「はい、それ位が妥当ではないかと。レト君、私の背負いの中の大きな麻袋をお願いできますか?」

レトがやっとの思いでイネスの傍まで持ってくると、イネスがひょいと持ち上げてから一度下ろし、今度は中から金貨を一枚取り出して軽く手で重さを量るような仕草をした。

「んー……これくらいでしょうか」

中からさらに金貨を数枚抜き取り王に麻袋を渡した。

「いや、は? え」
「はい、これが今回の代金です」

王は中を確認して目を向いたのは言うまでもないが、金額を確認してそれが正確に紙面で書いてあった金額相当であったことにさらに驚いた。

「い、い、い、イネス君!? それどこから手に入れたのですか!?」
「これは(善意あるとある方よりお譲りいただいたのですが)内緒です」

イネス君が私に内緒って言った……とショックを受けているニアを気にせずイネスは言葉を続ける。

「王様、あとは王様がこちらに同意していただければ私の方で教会には申請しておきますし、もし調査に誰か来たら私有地ということにしてお断りできますね?」
「た、確かに紙面通りの金額である上、神父殿の言う通りにはできるだろうが……なぜこのようなことを? 神父殿には利点が無いように思われるが」

全くをもってその通りである。これでは彼にとってメリットがまるでない。
仮にあったとしてもそれ以上にリスクが高すぎる。少なくともこれは王こそ罪を逃れてもイネスが疑われるのは避けられないだろう。

「彼女らは今回の件では被害者の側でしょう。なのにこのままではどちらにせよ命の失われてしまう可能性の高い、こんな無益な殺生を主神はお許しにはなりません。もちろん、教会側の人間にも言い分と理由があるのでしょうので一概に攻めることはできないでしょう。ならばここはなるべく穏便に済ませるのが吉というもの。彼女たちには私から話しておきます、彼女たち自身が外に影響を及ぼしさえしなければ粛清対象にはならないでしょうからね。あとは外を我々がうまく纏めておけばいいのです」

>普通の今の時代の神父なら、むしろ報告して発見を自分の手柄とした上で自分は安全な場所に逃げて討伐を誰かにやらせる。なのにあなたは全てが逆ですね、イネス君。あなたは主神の信徒としてその選択肢を選ぶわけですね……。ある意味予想できたことかもしれませんが、それは本部にばれれば反逆者としてあなた自身が粛清対象になりかねない行為なのですよ。……いえ、それは承知の上なのでしょう

ある意味あなたは教会が腐る前の主神信徒の心を持っているのでしょうね……

「何か言いましたか、天使様? ……やっぱりまずいですかね、天使様としては見過ごせませんか?」
「いいえ、今の私はあなたの観察と記録が目的なので私は何もしませんよ」
「それは良かったです」

しかしニアのその笑顔を浮かべるイネスを見つめる目はどこか悲しげであった。

「では改めまして、王様。この話、受けてくれますか?」
「ああ、そちらさせ良ければこちらには問題はない。むしろありがたいくらいだ」

ラバウル王はにこやかにサインと拇印をした。イネスは公式な効力を持つそれを受け取り懐にしまう。

「では早速なのですが王様、どこか広い部屋は借りれますか? それと机と椅子」
「それなら会議室がある。だが何に使うのだ?」
「そんなの、主神教義の講義に決まっているではないですか」
「そ、そんなすぐに行うのか? 神父殿の体調を考えても後日にした方が……」
「いえ、お気になさらずに。ああ、準備に時間が掛かるなら明日にしますか?」

他の人間が止めないところを見ると本当に大丈夫らしそうだ。

「(延びても明日かよ……うっ)ではそれで」

ラバウル王のどう断ろうか思案しようとした素振りを察知したイネスは懐から先程の書類をチラチラさせる。王は承諾した。

「さて、では明日まで余裕がありますね。今のうちにアデットさんたちに事の次第を報告させていただかないと……」

と寝台から下りて踏み出そうとしたところでイネスがよろめいた。慌ててウルスラが駆け寄り、支えようとする。

「ああ、すみません。ちょっと血を流し過ぎたのかもしれません」
「やはり主様、直接主様が動くのは後日に日を改めて……あの城の者らのところには小僧を向かわせようぞ。おそらくだがあの精霊は、呼べば出てくる」

ウルスラは再びイネスを寝台に座らせ、心配そうに言った。

「ふむ、ではそうしましょうか。レト君、あとで書状を書くのでアデットさんたちに届けてください。ウルスラさんが言うにはきっとノノさんは呼べば出てきてくれるらしいです」
「わ、わかりました」

自分の現状を理解したイネスが助言に従い、レトに行動を指示する。

「では王様、すみませんがもう少しだけお休みさせてください」
「何を言うか、神父殿にしてもらった恩を考えれば怪我の治った後でも好きなだけいてくだされ」
「ありがとう、ございます……」

イネスはそのまま眠りについた。体力の回復に専念するためだろう。力が抜けたイネスの体をウルスラが何とかベッドに戻した。




 この世界のどことも知れない屋敷の部屋にて。
窓に映る空はどんよりと暗く、窓の向こうはどことなく紫がかった霧が漂っている。

「ああっ、もう! 何なのアイツは! イライラするわねッ!!」

美しい女は頭をガシガシと掻き、不満の言葉を吐くがその部屋には誰もいない。

「神父は禁欲的で、だからこそムッツリしているか内にゲスい顔を隠し持っているかのどちらかでしょう、普通! あいつはギャップもタブーを犯す背徳的行為の理解も無いのかしら。そもそも私が直接出向いているのに誘惑に掛からないなんて屈辱的すぎるわ。あんな人間いっそのことこの世から消して……」
「自分がオトせなかったら殺すとは随分と怖い話をしておるではないか」

不意に自分以外誰もいない部屋で声が響いてきた。とは言え仮にほかの人間がいたとして部屋自体が薄暗く、燭台の僅かな火で照らされているだけので部屋の隅々までは見渡せないだろう。

「盗み聞きとは言い趣味してるじゃない?」
「そもそもこの屋敷は儂のものなのじゃが……まぁよいわ。そんなことよりリリムであるお前の手にかからなかった人間がこの世界にいるとはな」

部屋の隅の暗がりから現れたのはまだ年端もいか凡そ幼女と言っても過言でもない少女であった。
だがその頭にはヤギのように曲がった角が生え、明らかに人間ではないことがわかる。

「あんな奴私は『人間』とは認めたくないわね」
「ほう、中々興味深そうな話じゃないか」
「フン、誰があんたなんかに話してやるものですか。そんなことよりわざわざ来たのはこれをアンタに見てもらいたかったの」

そう言って手を横に伸ばすと手首から先の空間が歪み、ぽっかりと空間に穴が現れた。現れた虚空に空いた穴から手を引き抜くと手には分厚い本を持っており、それを幼女に差し出す。

「なんだ、ただの人間が持っている聖典ではないか」
「これ、私の張った障壁を叩いて割った人間が持っていた聖典なの。私が空間転移魔法を開いたときに中に紛れ込んでいたわ」

幼女は受け取った本とリリムの表情を見てから中をペラペラとめくりだす。

「つまりその額のこぶを作ったのはこの本と言うわけか」
「なっ!」

リリムの顔が赤くなり、何か言葉を言い返そうとして、やめた。幼女の顔が明らかに変わったからだ。

「……おい、これはどこで手に入れた?」
「気付いたのね? そう、これの存在はなかなかに面白いでしょう?」
15/10/14 19:23更新 / もけけ
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■作者メッセージ
お待ちしてくださった方もしていなかった方も……
どうも、もけけです。

なんやかんやあって後編です。今回はリリム様に事件の黒幕してもらっていました。
え? 見え見えの表現だから黒幕になってない? あ、あえてですよやだなぁ(汗)

一応期待には沿えるようにやってみたんですがどうでしょうか。
何分もけけは表現の仕方を研究中でして唐突に「なんだこれ」な表現が出るかもしれませんがそこは温かく見守ってやってください。

そして見てくださった方々に最大の感謝を!

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