連載小説
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全ての始まり


 第一記 天崙山三獣拳士編



 ……霧の大陸、遥か果てまで広がると言われる大地と幽玄たる山岳を擁し、そしてそれらが常に霧に包まれているという謎多き大陸。
 長き歴史と同時に、多くの謎と伝承に包まれた広大な霧の大陸においてもその名を知らぬものはいないと目される地がいくつかある。

 そんな場所の一つ……その名は “天崙山”

 かつて天に居わす天尊がその地に降り立ち、人に教えを授けたと伝えられる伝説の山脈である。そのような伝承の地ゆえ……天仙を目指す導師や仙人、地位や人を問わず多くの修行者がこの地に集い、いずれは天へと昇りつめんと切磋琢磨していたのである。

 しかし、かような地ゆえ、多くの魔もまたこの地に惹かれ集うのであった。

 霧の大陸の長き歴史においても、人と魔の禍根は深く長く、恐れと脅威、そして時として戦い、滅ぼし滅ぼされ……そうして流転の如く廻るものであった。

 少なくとも……今夜までは……



 ……霧深い山脈にしては珍しく、激しい嵐が吹きすさび雷光が鳴り響く夜であった。そのような夜に、一人の人と、一体の魔が激しく己の武をもって戦いを繰り広げていた。

 人の名はティエン
 字はなく師は白澤のウーシュ、武は道拳、齢三十近くにして清廉剛直で天涯孤独

 魔の名はライフー
 種は人虎にして師はなし、武は雷爪拳、齢三百を超え冷酷無比にして天涯孤独

 ティエンは今、眼前の魔を討つべくこの地へと訪れていた。幼き日より、覚えがあるは師による厳しい鍛錬の記憶のみ。父母の顔は知らず、血縁もないティエンにとって己が全ては師の教えと、師が授けてくれたこの武のみ。

 師はおっしゃった、この武をもって地と太平へと導き、荒ぶる乱神を討てと。

 ティエンは師の教えの通り、自らの武をもって数多の敵を討ち破り、乱神を静めてきた。

 師はおっしゃった、魔に情けをかけるなと、時に無情としてもその命を絶つのだと。

 だが、ティエンは師の教えに背いた。唯一、ティエンが師の教えよりも信じるは不殺の道。
かつて、初陣の時……ティエンは魔に挑み、そして敗れた。死を覚悟したティエンに、魔は情けをかけたのである。

 魔は何もおっしゃらなかった……ただ黙って、ティエンのもとを去った。

 それは戯れか、それとも殺すまでもないと思ったのか。だが、ティエンは悩んだ。師は魔を殺せというが、己はその魔によって生かされてしまったと。ティエンは悩んだ。悩みは惑いとなり、惑いは枷となり、その拳は何も砕けぬようになってしまった。そんなティエンを、師はただ黙って見守っていた。それが、またティエンには苦しかった。

 ティエンは決心した、不殺の道を信ずると、その道を信じその道をもって太平を為すと。

 そして、その道が成るまで師の元には戻らぬと、そう心に誓いティエンは旅に出た。師は黙って、見送りなさった。

 そして今、ティエンは不殺の道を守り続けている。だが、そんなティエンの道に最大の危機が訪れていた。

 雷爪のライフー、岩流のバイヘイ、炎嵐のフオジン……三獣拳士との戦いである。

 その戦いは数度にわたり、その武はティエンが戦ったどの武人よりも強く、ぶつかるたびに激しい死闘となったのである。

 そして今……天崙山に潜む“三獣拳士”が一人、雷爪のライフー……全身を覆う白金の毛は鋼鉄の如く鋭く硬く、その体躯は頑強かつ柔軟、その爪は雷すらも切り裂き怪力無双。そして何より、その武は冷酷無比にして苛烈。数多の敵を屠り続けた無双の士……

 そのライフーとティエンが今、己が武と武をもって此度六度目となる決闘をしていたのである。



 雷光とともに、ライフーの鋭い爪がティエンの胸元を掠める。駆け抜けるように飛び掛かるライフーの爪をティエンは同じく後ろに飛び駆けながら掌底で払いのける。
 場所は天崙山の中腹にある、岩と竹林が連なる山中であった。嵐により足場は極めて悪く、鳴り響く稲光は視覚、聴覚を遮り僅かな隙が命取りとなる状況である。しかし、そのような場所であってもライフーは軽々とその身を翻し、駆け抜け、容易くティエンを発見せしめた。だがティエンもまた、そのような状況にあってもライフーの猛攻を凌ぎ、飛び回るライフーを捕らえ、反撃を撃ち込む。
 一閃、鋭い爪の一撃を躱したティエンは素早く大地を掴みその身をねじると、強烈な踵の一撃をライフーの顎めがけて放つ。風よりも早く、大鎚の一撃よりも重いその踵蹴りを受け、ライフーは跳ね飛ぶ。しかし、すぐに空中で身をひねりティエンと同じく大地に受け身を取る。

 瞬閃、雷光が走る。

 ライフーの両目が火花を散らすかのようにその光を受け光る。雨に濡れた白金色の毛皮は帯電するかのように輝き、その虎頭は唸り牙を剥く。ライフー、ティエン共に再び構えをとると、互いに相手を砕かんとその身を打ち当てていく。
 ライフーの両爪を両手で押さえるティエンに、ライフーの剛脚による蹴りが放たれるもそれを読んでいたティエンは飛び跳ねライフーを飛び越えると、その身をねじり背に両足蹴りを放つ。一瞬、ライフーはその身を曲げるも、即座に自らの尾をティエンの両足に絡みつかせねじり上げると素早く大地を蹴り、身を回転させ尾ごとティエンを近くにある岩に叩きつける。
 岩に叩きつけられたティエンをさらに追い打つように拳を撃ち込むが、叩きつけられた衝撃を利用し素早く身を起こしたティエンはその拳を避ける。雷音の如き響きとともに岩が砕けライフーの拳がめり込む。ティエンは飛び跳ね、そのまま距離を取り構える。その体からは血が流れていたものの、岩に叩きつけられながらもその骨は砕けることはおろかヒビ一つ入ることなく、いたって頑強なままであった。

 雷下、相対し再び構えを取ったその時であった。

 一際大きな雷が天より地に下る。
 火花を散らし、周囲の竹林をなぎ倒すほどの衝撃。だが、拳士たちはまるで怯むことなく互いに示し合わせたかが如く相手を撃つべく再度突撃する。

 一瞬、互いの拳と体が交差し、すれ違うように燃え盛る雷口の対岸へと着地する。
 ティエンの肩は爪によって深く抉られ、血を流していた。

 確かな感触に、その虎頭に微かな笑みが漏れた時であった。ライフーの腹に深く響くような衝撃とともに痛みが走る。
 口の端から、一筋の血が流れ落ちていた。

 おもしろい

 より深く、険しくライフーは嗤う。
 ティエンもまた、より激しく闘志を燃やすかのようにライフーを見ると、まだ終わらぬとばかりに再び構える。

 虎は、傷を負ってからが全力よ

 ライフーは立ち上がり、高らかに吼える。
 やはり、戦いとはこうでなくては。そう全身から叫ぶように、血が沸き立ち尽きることのない闘志がライフーの心を燃やす。

 来るがいい! 人間よ!

 再び構えた、その時であった。

 どくん

 心臓が跳ねる。

 どくん

 全身が熱く、ざわつくような感覚。

 どくん

 何かが変わるような、奇妙な予感。

 どうした!

 構えたまま、ティエンが叫ぶ。ライフーの奇妙な静寂に、ティエンもまた気づいたのであった。

 ……

 ライフーは、構えを解く。
 その不可解な行動に、ティエンは警戒するように身構える。

 ……今宵は時が悪い

 ……

 我と決着をつけんと求めるならば、ここよりさらに上……仙石楼まで来るがよい

 ライフーよ、どうしたのだ!

 ……ふん、さらばだ!

 素早く跳ね、大地を蹴る。もとより、魔のものの力は人よりも遥かに優れている。魔の中でも特に力に秀で、修練を積んだものであれば猶更である。瞬く間のうちに天崙山を登り行き、ライフーは雷雨の中に消えていく。
 暫し、取り残されたティエンは構えを解くと自らの服を破り肩の傷口を縛り、静かに上を見据え、同じように駆ける。

 仙石楼……昔仙人が修行の場としていたが、今は打ち捨てられていたはず……そこがねぐらということか……

 ティエンは駆ける。ライフーの指定した場まで、そう遠くはない。夜通し駆ければ明日の朝にはつくだろう。ならば、駈けるのみ。そう心に決めるとティエンは嵐の中、険しい山道を登っていくのであった。



 ……時は変わり仙石楼、かつては仙人の修行場として栄えていたが一人の仙人の堕落を端に発する騒乱の後、打ち捨てられた曰くのある場所であった。今となっては過去の栄華は消え失せ、朽ちた家屋に施された精巧かつ美麗な装飾の中に仄かに香るだけである。騒乱の後、魔物の巣となっていたが、ライフーがここら一帯の魔物を打ち倒し主となってからは、ライフーがここの君主であり、ただ一人の民でもあった。
 そんな仙石楼の門をくぐると同時に、ライフーは己の口の端から垂れた血をぬぐう。今宵の戦いもまた、血が滾る良い勝負であったと回顧する。

 どくん

 だが、どうにも体の様子がおかしい。先ほどからやたらと心の臓が高鳴り、体が火照る。生まれてこの方病にかかったことなどはない。傷を負ったのも若き日を除けば、あのティエンという人間に会ってから久方ぶりのことであった。
 決着はまだついていなかったが、戦うたびにティエンは強く、より強くなっていく。それがたまらなく面白かった。恐怖を感じるほど、成長していく好敵手を前にライフーは二百年ぶりの血の滾りを感じていたのだ。

 どくん

 仙石楼の奥、寝床としている一角でライフーは横になる。

 どくん、どくん

 やはり、おかしい。心臓が苦しい、体が熱い。

 このままでは……

 一瞬、死が脳裏を掠る。別段、死ぬのは怖くなかった。長く生き、数多くの命を奪い、己が命を賭けるような死闘も幾度となく味わってきた。だが、それらを乗り越えてきたし、戦いの中で果てるならそれも本望だった。戦いに勝つたびに、敵を殺すたびに己の強さの証明を得られたようで、最初のうちは嬉しかった。だが、長く果てなく続く戦いと勝利の日々は徐々にライフーの心を凍てつかせ、最後は何一つの喜びさえも感じることがなくなっていった。あの人間に出会うまでは……

 どくん、どくん、どくん

 心臓が跳ねる、飛び出しそうに、跳ねる。体は灼熱の如き、熱を持っている。

 口惜しい、ライフーはそう感じていた。今宵、恐らく己は死ぬのだと、強くそう感じていた。だから、それだけにあの人間、ティエンと決着をつけられなかったことがたまらなく悔しく感じていた。二百年ぶり、二百年ぶりに巡り合えた好敵手。不殺の道を説く愚か者。だが、その愚か者との一月ばかりの戦いは……二百年の月日にわたる戦い全てを合わせても霞むほどの熱を、滾りをライフーに与えていた。齢三百にして、唯一ライフーが感じた後悔であった。

 どくん

 これもまた、定めか……そうライフーは呟き、目を閉じる。
 戦いの中で果てるのではなく、何よりも欲した決着を前に寿命が尽きるという定めに、ライフーは今の今まで信じることのなかった天を思うのであった。



 ここより遥か遠方……魔界の最奥の魔王城にて……一つの戦いが終わった
 その戦いにおいて今世の魔王は敗れ、新たな魔王が魔界に誕生した
 幾度となく繰り返される、輪廻の業

 新たな魔王は宣言する

 新たな世の訪れを



 今宵、世界は変わる それは嵐の如く、全ての魔を塗り替え 新たな命を吹き込む



 こうして廻るのだ、人と魔の戦いは……
























 否、廻るはずだった






 ……死なずにすんだか

 柄にもない、安堵の吐息。朝、目覚めたライフーが感じたのは喜びであった。
 少しばかり体は熱っぽく、奇妙な感覚が全身を痺れさせていたが活力は漲り、戦う分には問題なかった。だが、どうにも落ち着かない。
 何かが足りない、もしくは己が己でないような、不可思議な心地。そんな奇妙な気分のままライフーは寝床から跳ね起きる。
 (……体が軽い)
 熱に浮かされて感じるものとは別に、妙に体が軽く感じる。だが悪い気分ではなかった。己の手から爪を出し、その鋭さを確認する。既に嵐は過ぎ去り、風は心地よく、空にはわずかな雲が伸びるだけで燦々と太陽が輝き今日という一日を祝っているかのようであった。
 (全てを決するのに……良き日だ)

 とくん

 心臓が高鳴る。
 (……これほどまでに奴の到来が待ち遠しいとはな)
 この奇妙な火照りは不可解であったが、おおよそ二百……二百五十年ぶりに感じる胸の高鳴りは悪い気分ではなかった。それと同時に、寂しさもあった。
 (奴を、この手で)
 葬る。不殺の道を信ずるものはわかっていない。敵対者を生かしておけば、いずれ寝首を掻かれるのは己なのだと。尤も、ライフー自身はたとえ負けようとも、そのような不意打ちなどせずに再び己を鍛えてティエンを正面から打ち破り、その首を捩じ切ってやる腹積もりではあった。どちらにせよ殺さずというのは敵に打つ手と時間を与える悪手でしかないと、ライフーは信じていた。
 (……久方ぶりの、人肉というのも悪くない)
 きゅうっと、切なげに腹が動く。ライフーは、己が勝った暁にはティエンの肉をもって今宵の晩餐としようと思い至る。奴も強者の血肉となるなら本望だろうと……何なら、その骨もとっておこう、寝床に飾れば奴を忘れることもない……

 ライフーが物思いに耽り始めた時、仙石楼の扉が押し開かれる音が響く。

 (来たか!)
 ライフーは仙石楼の中を跳ね駆ける。床を、柱を蹴り、天井を掴んで最も早い道で仙石楼の庭、かつて扉を入ってすぐに広がるかつての試合場を目指す。ティエンはそこにいると、気配で察していた。



 「ライフー! 約定通り、仙石楼に来たぞ! どこにいるか!」



 ティエンが、庭の中心にある試合場で叫ぶ。
 だがわかっていた、ライフーは恐るべき速さで仙石楼の中を駆け回りこちらへと向かっていると。あの白金の毛が朝日を受けて輝くのが、仙石楼の崩れ落ちた箇所や窓から見えたからである。
 そして、激しい音とともに天井が突き破られ、飛び散る破片と埃とともに虎頭の拳士が飛び出す……そうティエンは思っていた。

 「待っていたぞ! ティエン!」

 歓喜に満ちた高らかな叫び。だが、どうにもおかしい。
 破片と埃で見えなかったが、この気配はライフーのもので間違いないはずであった。


 しかし……試合場に降り立ち、悠々とこちらへと近づいてくるのは……絶世の女人であった。



 ライフーの毛皮と同じ輝く白金色の長髪に時折混じる黒髪を流し、その顔つきは美麗端正かつ意志の強さに溢れた黄金の瞳が眩しい。そして上半身は何一つ衣服を纏うことなく鍛え抜かれながらも完璧に整った肉体美……女性美を満ち溢れさせており、そのつんと麗しく実った二つの果実は陽光を浴びふるんと瑞々しく揺れている。下半身もぼろ布を纏っているだけであり、そのぼろも穴があちこち空き、たくましい両足を覆った白銀の毛と同時にちらちらと……慎ましやかな秘貝が……ティエンの視界に入る。その両足は腿のところまで白金と黒の虎柄の毛に覆われ、両腕もまた二の腕から肩にかかるかというところまで同じく毛が覆っていた。
 あまりに美しい。その装いから魔の者だということは分かったが、とてもではないがティエンには直視できなかった。瞬間、反射的にティエンは目をつむり背を向けてしまう。

 「……貴様、我に背を向けるとはどういうことだ!」

 おかしい。叫び唸りを上げ、己の声を聴いてライフーは再び違和感を覚える。それにティエンに対しても違和感があった。ライフーが知るティエンは決して敵を相手に背を向けるような無礼者ではなかった。
 「し、失礼した! ここにライフー殿がいると、訪ねて参った!」
 ティエンが、どうにもおかしいことを口走る。
 「はぁ⁉ 何を言っている! 前を向かんか!」
 苛立ち混じりにティエンの体を掴み、無理やりねじる様に前を向かせる。
 (ん? こいつ……ここまで、でかかったか?)
 背はライフーの方が高かったが、それでも昨日までは頭二つ三つは差があったはずのティエンがやけに大きく感じる。具体的には頭一つ……頭半分程度にしか背丈が変わらぬように感じてしまう。
 「おっおやめください! は、早くライフー殿をお呼びいただきたい!」
 ごねるティエンを無理やり前を向かせるも、ティエンは目をつぶり手で目を隠すようにしてライフーを払いのけるように手を振る。そのとち狂ったかのような言動にいよいよ苛立ちが頂点に達したライフーはティエンの手を払いのけ“ライフーならここにいるぞ!”と叫ばんと息を吸う。しかしティエンは頑なに手で顔を覆うと、ライフーが叫ぶよりも早く声を上げる。

 「女人がそう容易く、男の前に肌を晒してはなりません!」

 息が詰まる。

 女人? 肌を晒す? どこの何を?

 「だから、どうかお願いです! せめて衣服を!」

 こやつは何を言っている?

 きらりと、足元にある水たまりが光る。その水面は日の光を浴び、鏡面の如く澄み渡って世界を映していた。そこには、ライフーにとって信じられぬものが映りこんでいた。
 変わることのないティエンと……それに掴みかかる見知らぬ女人。それがライフーを水面から……否、女人と化したライフーを驚愕の面持ちで見つめていたのである。

 「何が! どうして!」
 「ふぉっぐ!」

 ティエンを突き飛ばし、水たまりの前にしゃがみ込む。そこには虎頭男体の獣人ではなく、人面女体の……辛うじて獣人といえる魔物がしっかりと映りこんでいた。人間の美醜などはわからなかったが、それでも輝く毛と、変わることのない手足だけは前のままだと少しばかり安堵するも、その手で恐る恐る触れた顔と体はすべすべと触り慣れぬ感触であり、嫌でも己の姿が何らかの理由によって変異してしまっているという事実を突きつける。
 この瞬間、ライフーの中で今朝感じた異変の全てが繋がる。妙に体が軽く感じ、ティエンの背丈が大きく感じたのは実際に自身の背が縮んでいるから。声の調子が妙に甲高いと感じたのは、実際に“女”の声になってしまっていたから。
 その事実に慄くライフーの肩に、ふぁさりと何か……衣服がかけられる。振り向くと、そこには変わらず目をつむった……顔を手で覆ってはなかったが……ティエンが顔を紅くしながらライフーの半身に己の着ていた衣服をかけていた。
 見事に鍛え抜かれた、ティエンの肉体。それに対し不釣り合いな優しい面持ち。それが目に入ると同時にふわりと、ティエンの薫りがライフーの鼻に燻る。

 とくん

 心臓が高鳴り……しゅっと、体が熱くなる。

 「その……汚くて申し訳ないのですが……どうかこれを羽織りください 貴女は魔性故平気なのかもしれませんが……人の身としては、断りもなく女人の体を見るのは失礼に当たります故……どうか」
 そう言って努めて丁寧に、嫌でもわかるほど優しくティエンは……ぎりぎりライフーの肌に触れるか触れないかというところで手を止めて己が衣服を差し出していた。

 (まさか ありえん!)

 己が胸の高鳴り、火照りの理由。自らの武を高めることに今生を捧げてきたライフーとて、それ以外のことに対し無知ではない。若き日は似たような気持ちを他者に対し抱いた事も当然あった。しかし、よりにもよって幾百年ぶりの相手が……ライフーは心の中で頭を振り払い、何かの気の迷いだと言い聞かせる。いくら体が女に変じてしまったとしても、心までは変じていないはずだと、ライフーは高らかに心で吼える。
 (しかし、どうする……)
 ライフーにとって、このような事態は生まれて初めてのことであった。また、この体……魔と人が混じったような奇妙な姿で果たしてどこまでの力が出せるのか、それもわからなかった。
 (……不味い、今はまだこやつは気づいてないが……このような……姿に変じたなど……し、知られるわけには、いかん!)
 もしも、目の前の女人がライフーだとわかれば、ティエンは約定の履行を求めるだろうとライフーは考えていた。しかし、このような全力が出せるかどうかわからぬ紛い物の体での決着はライフーにとって望むべくものではなく、あれほど口惜しいと欲したものとは程遠い。
 また、ライフーは認めてなかったが、無意識的に“恥ずかしい”とさえ思っていた。自身は強者である、誇り高く孤高の拳士であると。そのような自分がこのような状況に置かれ、うろたえるなどあってはならないと、故に隠し通さねばならぬと感じていた。
そして、気づかれぬように事の問題を探り、なんとしてでも元の体に戻らねばと心に決める。
 「あの……失礼を承知でお尋ねしますが 貴女はライフー殿の縁者でしょうか」
 ライフーが衣服を肩にかけたのを確認し、おずおずといった様子で目を開いたティエンは、遠慮がちに自身が感じる疑問を目の前の女人に対し問いかける。少なくとも、ティエンは目の前の女人がライフー本人であるとは、微塵にも思っていなかった。
 しかし、その当然の疑問に対しライフーは声を詰まらせる。
 (どうする! どうする!)
 ぐっと唇を噛みしめ、何かを思案する様子の女人に少し怪訝に思うも、あることに得心し手を組み頭を下げると声をかける。
 「申し訳ない、私の方が無礼でした 我が名はティエン、字はありません 武道の道を志し師は白澤のウーシュと申します 縁あって人虎のライフー殿と拳を交え、この地で決着をつけるとの約定を得ました その約定を果たすべくこの地、仙石楼へと参った次第でございます」
 恭しく、貴人に礼をするように挨拶をする。ここまでされて、黙っているというのは流石に怪しさがますばかりとライフーは焦る。
 慌てて周囲を見渡し、何かこの状況を打開できるものはないかと探すも、藁の中の一針を見抜く目をもってしても見つけることは叶わなかった。そうこうしているうちに、ティエンが顔を上げようとしていた。
 その時であった、仙石楼の門の脇にぽっと満開に咲く桃の花が目に入る。
 (ええいっ! くそっ!)
 意を決し、ライフーはティエンと同じように手を組み頭を下げて告げる。

 「わ……我が名、は……たお、たおふー(桃虎)……と申します ら、らいふー(雷虎)は……我の、兄でございます」

 (なんという! なんという……!)
 屈辱と羞恥に顔を歪めるも、顔を下げていたおかげでティエンには気づかれずに済む。
 「なんと! ライフー殿に……かような妹君が!」
 本気で信じているのか、ティエンは驚愕の表情を顔に出す。
 「しかし、人虎といえば虎頭の魔物 そ、その タオフー殿は……」
 人の顔である。耳は虎耳のままであったが、顔は紛うことなき人の顔であった。
 「……その、ひ、人の血が……入ってございます 故に……一族、からは疎まれてございます」
 「そうか……それでライフー殿の下に…… やはり、ライフー殿は厳しくも公正な方だ」
 苦し紛れの嘘だったが、ティエンは都合の良い方に解釈し勝手に納得する。
 己は何をやっているのだと、ライフー改めタオフーは思うも、このような無様な姿になってしまったことを知られるわけにはいかなかった。

 しかし、嘘というものは新たな嘘を呼ぶものである。

 「それでタオフー殿、兄上のライフー殿はどこに?」
 (しまった)
 当面の問題は何一つ解決していないことを告げるティエンの問いかけ。当然の疑問であると同時に、答えようがなくなってしまったその問いにタオフーはどう答えるべくか必死に考えを巡らせ、ある結論に達する。

 「兄上……兄上は……その、問題が……起きたと、今朝方……急に旅立ちました……」

 いないことにするかしない。それしかなかった。

 「なんと! 戻りは何時頃に?」
 「そ、その 近く戻るかと……焦ってはおりましたが……」
 尤も、すぐに“戻れるか”はタオフー自身にもわからなかった。だが、この姿のままでいるつもりは毛頭なかった。何としてでも元に戻る手段を見つけ、早急にライフーに戻らねばと考えていた。その手段を探しに行くためにもいったんティエンには引き上げて貰わねばならなかったが……
 「なので……申し訳ないとは思うが、ティエン、殿はいったん……」
 帰られた方が、帰ってくれ、そう言おうとした時であった。
 「ならば、待とう」
 それは困る。タオフーは慌ててティエンに釈明する。
 「そ、そこまでせずとも いつ戻るかわかりませんし、いったん麓まで……戻りましたら知らせる、知らせますので」
 「いや、ライフーほどの武人がすぐに戻ると言ったのだ、すぐに戻られるだろう それにライフー殿はここ、仙石楼で会うことを約束なさった 同じ武人として一目相見えるまでは、私も約束を違えるわけにはいかないのです」
 (ああああああ!)
 失敗した。タオフーは心の中で絶叫する。
 「ご安心を、仙石楼の中に入るつもりはございません 私はここ、外で待ちます 心配なさらずとも、野で過ごすのは慣れております」
 (ああああああ!)
 そうじゃない、出ていけ。そう心の中で叫ぶも、ここで無理に追い返そうとすれば変に勘繰りかねないと、タオフーは逡巡する。しかし、ここに居られてはいざライフーに戻れる手段が見つかったとしても、タオフーとなってしまった自分をどう消すかが問題となってしまっていた。ティエンの中ではすでにタオフーはライフーの世話になっている妹なのだ、いきなり消えれば不審に思うことは間違いない。
 (こうなたら、ちからづくにでも……)
 焦りといら立ちのあまり、思考が壊れ始めるタオフー。
 その時であった。仙石楼の西、竹林が広がる方から何かが迫る。鉄棒よりもしなやかで、強靭な天崙山名物“銀竹”をただの棒きれの如くへし折りながら何かが仙石楼に向かっていた。

 (! この気配は……バイヘイ!)

 いくら広大な天崙山といえども銀竹を容易くへし折れる者はそうそう多くはない。それも移動の際に邪魔だからとべきべき折りながら移動できる者となれば、なおさらである。だが、そうでなくともタオフーはその気配から相手が三獣拳士の一人、岩流のバイヘイであることを見抜く。

 岩流のバイヘイ……レンシュンマオ……熊猫の獣人であり、齢五百にして老練巧智なだけでなく、その武は柔よく剛を制すを現すが如し。
 しかし、それでありながらもさらなる脅威となるは、ライフーをしのぐ巨体を持ち、さらにあらゆる攻撃を跳ね返す岩術を極めると同時に、鋼鉄すらも容易く砕く剛力無双に在った。

 雷爪のライフーの武をもってしても互角かそれ以上と言わしめた武を持つもの。当然、それはティエンにとってもライフーと同じく強大な壁となって立ちはだかっており、決着は未だついていなかった。

 (くそっ! 間の悪い! 奴にもこの姿を知られるわけには……!)

 「ライフー! ライフーはおるか!」
 (……ん?)
 構えるティエンとタオフーの耳に届く、獣の咆哮。しかし、その叫びはどこか嫋やかであり、しっとりとした色気が滲んでいた。
 (まさか……)
 竹林から、熊猫のような両腕が突き出し、そのまま銀竹を開き戸の如く押し開き……へし折りながら気配の主が姿を現す。

 それは……極上の色気を放つ女人であった。

 ふわりと、薫るかのような白髪は仄かに紫が混じり、肩までかかるかどうか、というところで振り乱されていたが、それが妙な色気を醸し出していた。その肌は妖艶なまでに白く、どこかふっくらと丸みが帯びた体つきは気をしっかり持っていなければ、無意識のうちに触れ揉みしだいてしまいたくなるほどであり、まろび出された上半身にはずっしりと重く実った果実がぶるんと揺れる。それだけでも目の毒であったが、腰に巻いたぼろ布では隠し切れない、豊かな臀部に、どこか気だるげな表情もまたよからぬことを連想するには十分すぎる妖しさを放っていた。そして、その顔つきは余りにも美しい、否、妖艶な美女そのものであった。

 その極上の、あまりにも妖艶な肉体が今、惜しげもなく陽光の下に晒されていた。

 突然の美女の襲来、しかも半裸。あまりの衝撃に、ティエンの思考は瞬時に停止寸前にまでその動きを乱す。
 だが、タオフーにはわかっていた。その身にまとう気配は紛うことなきバイヘイそのものであり、その狡猾な目つきもまたバイヘイの目そのものであった。そして、それは当然バイヘイ……と思わしき女人も、タオフーを見て瞬時にライフーであると見抜いたようであった。だが、それはバイヘイにとっては不測の事態だったらしく。タオフーと同じように驚愕に顔を歪ませる。

 だが、不測の事態はこれで終わりではなかった。仙石楼の東側、切り立った崖の方向からぽっと明るい火柱が、凄まじい速度でこちらに向かってきていた。断崖絶壁をものともせず、突き進んでくるそれは、どうやら壁の如き場所を驚異的な瞬発力と脚力によって跳ね駆けているようであった。その動きに、タオフーは即座に誰が向かってきているのかを見抜く。

 (この動き、フオジンのガキか!)

 炎嵐のフオジン……火鼠の魔物であり、獣の身でありながら武道に通じ、その武の才は齢百年の若輩ながらライフーも舌を巻くほどのものを見せていた。フオジンの最大の武器は速さと、それを制御しきる巧みさであり、ライフー、バイヘイと比べ遥かに劣る力の差を圧倒的な速さと手数、そして技巧をもって互角に渡り合っていた。そして、フオジンの本領はその炎にあった。燃え盛る炎は容易く鋼鉄を焼き切り、また迂闊に触れれば魔物といえどもただではすまぬ炎は身を守るうえでも大いに役に立っていた。凄まじい速さと手数、そして恐るべき炎をもってフオジンは三獣拳士として天崙山に名を轟かせていたのである。当然、ティエンとも何度か戦っており、決着も未だついていなかった。

 「ライフー! いるかー!」

 (嗚呼……)
 甲高い、少女のような鈴声の叫び。タオフーは眩暈を覚えるようであった。
 全身に炎を纏い、火球と化したフオジンが崖から仙石楼に向けて降り立つ。激しい熱風を巻き起こした後、そこに立っていたのは……
 (フオジン……お前もか……)

 一糸まとわぬ姿の、可憐な少女であった。

 さっと、燃え上がるような紅髪は短く、溌剌とした印象を放ち。その健康的な肌は日の光を浴びて、否、肌そのものが光り輝いているかのように眩しく目を焼く。そして未成熟ながらもすでに“女”の部分を見せた妙齢の体つきは蠱惑的な魅力を醸し出し、その両胸には大きく主張する果実がぷるんと揺れていた。すらりとした体の中で、胸と同じく尻もまた大きく主張しており、張りのある肌と相まって見ているだけでも血が廻るようであった。そして、その顔つきはあどけなさが残るもしっかりと芯のある、太陽の如き美少女であった。その美少女が、己の、女の最も大切な、秘して守らねばならぬ場所を惜しげもなく大股開き……といっても良いような立ち方で全てをさらけ出していた。

 網膜に焼けつくような、その強烈な輝きはティエンの脳を焼き切り、その思考の全てを業火の中に葬り去る。一目見ればその心を焼く天女の如き美を、短時間で三度目撃したティエンの意識は今、天に召されたのである。
22/07/09 08:20更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
一話完結で話を投稿したいと考えていますが、一話丸ごとだと長くなりそうなので何分割かして投稿したいと思います。

よろしくお願いします。

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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33