連載小説
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その出会いは堕落への誘い?
暗い森の中を少年が一人歩いていた。
見渡す限り木、木、木。
近くに開けた場所は見当たらず、出口など見つかる宛もない。
更にはすぐそこから何かが息を殺してこちらを見ている気配さえする。
立ち止まったらその時点で自分の命は無いと、本能的に感じとった少年──ドニはただひたすら脚を動かしていた。
「はぁ……ふぅ……」
ドニがこのような場所にいる経緯はさておいて、彼の体内時計が正しければ時刻はまだ日が落ちる前のはずである。
それが森の中は夜のように暗い。
木々が生い茂っていることも理由の一つであるが、この規模ならば上を見上げれば木々の間から青い空が見えるはずである。
しかし、その空もまた夜のように暗い色をしていた。
太陽は無く、そして月も出ていない。
だというのに動けくなるほど暗くはなく、不思議と歩みを進めるだけの視界は確保されている。
それが余計に不気味だった。
おまけにドニを囲む木々の形も奇妙なもので、奇妙にうねり紫に近い濃い桃色の葉をこれでもかと抱えている。
本能的に恐怖を覚えさせる森にただ独り、何も知らなければ発狂は免れないだろう。
ただひとつ行幸であったと思うのはドニがこの場所について心当たりがあることだった。
暗黒魔界。
高濃度の魔物の魔力に侵された土地が姿を変えるというその場所は常に暗く、それでいて妖しい光を帯び人間の領域には見られない危険な動植物が蔓延っているという。
しかし最も危険なのは魔物だ。
当たり前だが、土地が魔界になるということは魔物の侵攻を意味する。
魔界は魔物の領域なのだ。
何時何処で遭遇するかも分からず、ひとたび出会ってしまえば再び人の世に戻ることは叶わない。
と、行幸と言っても状況は絶望的だろう。
ここは既に魔物の巣、自分ひとりでは太刀打ちも儘ならず出口を見つけるにしても手掛かりさえ遠い。
頭の良くない自分にだって何時終えてもおかしくない命だということが理解出来てしまう。
その場に蹲り震えたい気持ちを抑えながらドニは歩き続けていた。
留まるよりは魔物に捕まりにくいだろうという拙い判断の上でだった。
だが、その強がりももう長くは持たないかもしれない。
ぐぅ、とドニの腹が鳴った。
動かし続けた脚は棒のようで足取りが覚束なくなりつつある。
彼の手と脚には申し訳程度の鎧が装着されていて、ベルトの金具など随所に十字があしらわれている。
腰には武骨なばかりの剣が下げられていたが、何時魔物に遭遇するか分からない今、その剣は鞘ごと彼の腕に抱えられていた。
普段は何でもない重量が重苦しくて仕方がない。
ふと気を抜けばふらりと倒れてしまいそうになる。
「くそっ……」
もう何度目かの目眩に耐えきれず、樹木に体重を預けるようにしてドニは座り込んだ。
空腹が過ぎて最早腹が減っている感覚さえ薄くなってきている。
再度立ち上がるとは困難だろう。
脚に力が入らない。手先を動かそうとすれば小刻みに震える。
森に食料は無い。
今目の前にあるのならば野菜くず、腐った肉さえご馳走になるだろう、そう思っていればとうとう瞼が重くなってきた。
ここで果てるのか。
どうせ魔物に食われるのならば意識のないうちに食われた方がいいのだろう。
それでも空き腹のまま眠るのは辛いなと、ドニの目が閉じた。
その時だった。
「おや」
何処から現れたのだろう。
すぐ目の前から声がした。
こんな場所で一体誰かと最後の力を振り絞り目を開ける。
そして、ドニは声を上げた。
「うわっ!」
最初に目に入ったのは銀色だった。
一本一本が細く、風もないのにふわりとなびくのは上質な糸を思わせる髪の毛。
その下に見えた血のような赤色が真っ直ぐにこちらを見つめている。
それが人だと気づいたのは幾らか遅れてのことだ。
「失礼、驚かせてしまったね」
目線からするにその人は姿勢を下ろし自分に向き合っているらしい。
視界が霞んで、先ほど以外の容姿はよく分からないが声からして女性であることは窺える。
ドニが知る女性の声質よりかは低く、ハスキーだけれど。
「先に名乗らせてもらおう。僕はユーリ・セイスプラン。この土地の領主をさせてもらっている」
ユーリ、と名乗った女性は片膝を立てて胸に手を当てているようだ。
瞬きを繰り返して捉えることが出来た服装はぴったりとしたズボンにベスト。白いシャツの袖を無造作に捲りあげて帽子を被っている姿は一見して狩りをする男貴族に見える。
振る舞いと領主という自称からして、貴族であるということには間違いないのだろう。
聞いたことのある名前の気もするが今は思い出せない。
気になったのは彼女の手だ。
黒と紫の、手袋だろうか。
何かやたらとげとげしているような……ああ、もう限界だ。
「君は……いや、先ずは僕のところへ来てもらおうか。しばらく目を閉じていてくれ」
相手もこちらの事情を察してくれたらしい。
ユーリはドニの身体をまるで何でもないように抱き上げる。一連の動作に乱暴なところはひとつもなく、どころか母親が赤ん坊を抱くように優しかった。
ドニの意識はそこで途切れた。



次に視界に映ったのは天井だ。
飾り気こそないが、雰囲気からして身分の高い者の邸宅だろうと思われる。
目玉だけをぐるりと動かせばその予想は次第に確信へと変わっていく。
背中に感じる包み込むような感触を伴って。
「気がついたかい」
「……あ」
またあの声が聞こえた。
顔を声の方へ向ける。
ユーリという、あの女性が椅子に腰かけてこちらを見ていた。
「少し眠っていたよ。お腹が空いているようだから夕飯を用意したけれど食べるかな」
「……食べる!」
低いながらも穏やかな声色で紡がれる「夕飯」の二文字にドニの腹がまた鳴った。
鼻から息を吸いこめば微かに美味しそうな匂いもする。それがまた食欲に拍車を掛ける。
腹の鳴る音にユーリはくすりと笑ったがドニに恥じらう余裕は残っていない。
とにかく飯が食えると起き上がった。
「では夕食にしよう。と、その前に。改めて名乗らせていただこうか」
差し出された手は黒い手袋に覆われているが、備える指のすらりと細長いことは見て取れる。
「ユーリ・セイスプラン。セントリクの地方領主にして……」
穏やかな声が自らの名前を口にする。
先程の勢いから一転して一転して、ドニは起き上がったまま動けなくなった。
ユーリの言葉と共にその名前と自らの記憶が一致していくこと、そして記憶と違えた目の前の事実に頭の処理能力が追いつけないでいた。
目の前の女性は微笑み、そのまま彼の手を掬う。
彼女のような者に触れられるような身ではないというのに当の身体は言うことを聞かない。
そうしている間にもユーリの自己紹介は続いていく。
「この国の勇者をさせてもらっている」
きゅう、という潰れたような音がドニの喉から響いた。
「勇者の……ユーリ……」
どれほど時間が経ったのだろうか。
実際には数分だろうが、この沈黙が永遠にさえ感じられた。
沈黙を破いたのはドニだった。
掠れた小さな声が目の前の人物の名前を呼ぶ。
危険だとか安全だとか、判断する以前の問題だ。
これは自分が置かれる状況なのかという疑問と戸惑いばかりが浮かんでは消える。消えては浮かぶ。
思い出した。
だって「ユーリ・セイスプラン」とは。
彼女に嘘偽りがないのであれば、その人物は言葉通りセントリク聖王国で一番の……不幸にも邪竜の侵攻に倒れた勇者であるはずなのだから。
「おれみたいな下級兵が会っていい人じゃない」
ポツリと出た言葉は確かに疑問であるが、当人に聞かせるには的外れな内容だった。
「僕の所有する森で倒れていた。こうして助けるのは当然のことだよ」
「一年前のあの事件の後ぱったりと見えなくなったから亡くなったと思われていた……」
「こうして田舎に隠遁していたんだ。そっか、外では死んだものだと思われているんだね」
ユーリを名乗るその人は手持ち無沙汰にもみあげを指に絡め、耳に引っ掛けては他人事のように言う。
些細な動作にも目がいってしまうのはやはり勇者の威光というものなのだろうか。
勇者ユーリの出身地。
知る人は知りうる情報なのだろうが、少なくともドニの頭の中にはなかった。
だがこうして触れて会話をしているということは彼女は邪竜の牙から落ち延び、以前と変わらない生活を送っているということだろう。
隠遁ということは何処かに大きな傷でも負ったのかもしれない。
「……ユーリ様は、そ、その」
「様は要らないよ。敬語も。君の言葉で何でも聞いていい。特に隠し立てはしないから」
上手く言い表せないが、やりにくい。
亡くなったと思っていた勇者が生きていたのもそうだし、自分を助けてくれたことだってそうだ。
しどろもどろに、とにかく情報を得なければという一心のままドニは言葉を紡ぐ。
「失礼だけど、男だと思ってた」
「ああ」
ユーリの声色はひたすら穏やかで別段気を悪くした様子は無い。
「取り立てて隠すようなことはしていなかったけれど、公の場ではいつも男の装いだったからね」
「女の人……だった。いや、すみません。おれまだ混乱していて。あんたが勇者で、おれを助けてくれたことも、何もかも」
「構わないよ。落ち着くまでこうしていようか」
もう片方の手も差し出され、両の黒い手袋がドニの両手を包む。
顔を上げた瞬間、ドニの胸が高鳴った。
布の下に感じる感触は僅かにふしくれだっていて、確かに剣を握っていればこんな感じになると彼はどこか遠くで納得したけれど、そんな思考を意識の主軸に置くことは出来ない。
女性、それも顔立ちの整ったとても魅力的な人が自分に快い反応を向けた。
いけないと知りつつ自分が覚えた高揚は下心を含むものであると認めざるを得ない。
視線すら離すことが出来ないからユーリの容姿は嫌でも目に入る。
嫌、というのも相応しくない表現だ。
短く切り揃えられ、後ろで軽く結ばれた銀色の髪。
宝石のような深紅の瞳にすっと通る鼻筋。
色の薄い唇はしかしながら色めいた艶を帯びている。
何時までも眺めていたくなる美貌にはどこか気怠げな妖艶さがあり退廃の気配すらも感じさせた。
人聞きが悪いが、もう少し髪を伸ばし衣装も女性らしい露出の高いものにすれば人を誑かしかねない妖女にもなれるはずだ。
一つ一つの要素を抜き出せばむしろ儚げであるはずなのだが、何故だろう。
地に足をつけた雰囲気と勇者という肩書きがそう思わせるのだろうか。
出で立ちと振る舞いからして、現時点ではまだ妖女などと呼べないしそもそも呼ぶべきでは無いのだが。
服装は質素ながら上質であると分かるシャツにウエストコート。
出会った時に着ていた狩り装束とは異なるが受ける印象は変わらない。
首元と肘の手前が赤いジャボで飾られ、シャツが無造作に捲りあげられているのも同様だ。
服の上からでも分かる膨らみと短いズボンから伸びる脚は女性らしい曲線を描いているが、彼女の格好はどちらかと言えば男貴族のそれだと言える。
加えて、ドニのようなみすぼらしい下級兵にさえ言葉使いを崩させる気さくな態度に「僕」という物腰柔らかい男口調。
その気になれば若い娘を拐かす優男にもなれるだろうが、先の妖女も含め、何故だか彼女はそういう振る舞いを好まないだろうという確信もあった。
勇者という肩書きに、こうしてドニを助けてくれたこと、赤い瞳の奥に面倒みの良さを感じたからだろうか。
印象が二転三転するがそれだけは確かだとドニは思った。
これ程整った容姿の女性をドニはあと一人くらいしか知らない。
ひょっとしたらユーリの美貌がその一人さえ上回るかもしれない、それほど彼女は魅力的だった。
「さて、僕のことはひと通り話したよ。これ以上の質問がないなら次は君だ。先ずは名前を教えてくれるかい」
「ドニ。苗字はない、ただのドニだ」
「そう、ドニか。見たところネオルラの兵士みたいだけれどどうしてうちの森なんかにいたのかな」
「それは……」
記憶を呼び起こそうとする。
そこでふつりと集中力が途切れた。
どうやら緊張で抑えられていた空腹の限界が来たらしい。
「おっと」
ドニはユーリに起こした上半身を向けたままの姿勢で前方に倒れ込んだ。
そのままユーリに抱き抱えられる。
布越しの柔い感触を顔面に覚えた瞬間、彼女のものらしい匂いが鼻をくすぐった。
普通、貴族の女なんてきつい香水による芳香を漂わせているのが常である。
それがユーリからは一切しない。
彼女本来のものらしい人の匂い。
それも男の体臭などではなく女性特有の優しげな香しさがある。そこに果実の甘酸っぱい香りが微かに混じっていて、どうしようもなく懐かしくなるような匂いだった。
「ごめん。無理をさせてしまったね、早く夕飯にしよう」
「あっ……」
ドニが顔を埋めたその場所が丁度ユーリの胸の間であることに気づくのと、彼女が少年の身体を軽々抱え上げたのは殆ど同時だった。
体勢も変えて、傍から見ればふたりはまるで物語の王子か勇者が姫君を抱く様だろう。
勇者という点で片方は合っている。いや、片方と呼んで良いのだろうか。
彼女は勇者とはいえ確かに女性であるし、もう片方の抱えられた自分は下級とはいえ男の兵士であるのだから。
この頭が栄養不足でなかったのなら顔から火が出るほど赤くなっていたかもしれない。
幾許かの恥と釈然としない気持ちが綯い交ぜになったまま、動くことも出来ないドニはしばらく女勇者の穏やかな足取りに揺られていた。
食欲を唆る匂いが次第に強くなっていくのを感じながら。
少年ひとりの体重を預かりながら、ユーリは扉の開閉も階段を下ることも容易にこなす。
しばらくしてひとつの部屋にたどり着いた。
「お疲れ様。ここが君の席だけど、座れるかな」
ここで平衡感覚が元に戻る。
ドニの身体を降ろしたユーリは続けて彼のものらしい椅子を引いて示した。
言われるがまま腰を下ろしながら辺りを見回す。
ベッドの部屋よりも広く、開放感のある部屋だ。
奥に長い部屋に沿うようにしてやはり縦長のテーブルが設けられていて、上は食器が綺麗に並び申し訳程度の燭台などで装飾されている。
如何にもお屋敷らしいダイニングルームだが、設えられた椅子が自分が座ったものと向かい合うもう一つのみであることが気になった。
「他は誰もいないのか?」
「生憎……生憎かな? 家族は出掛けているんだ」
「その、使用人とかは」
「お恥ずかしながらあまり余裕がないものでね。うちで雇っている使用人は掃除をしてくれるメイドさんが一人だけだよ」
その人ももう自分の家に帰ってしまったし、と続けるに住み込みでもないらしい。
ドニの知る貴族の屋敷は多数の使用人が住み込みであくせくと働いていてえらい違いだった。
地方領主、とは先程彼女が名乗っていたが国一番の勇者を産んだ割にセイスプラン家というのは随分と質素なものである。
「そういうわけで、これから出す夕食も僕の手作りだよ。料理人の手によるものではないし、期待するほど豪華でもないけれど……ふふ、今夜は少し奮発したから」
「いや、食わせてもらうのに豪華も何も言わないよ。ない……けど」
「けど?」
そもそも領主に助けてもらえるというのが幸運である。
いいベッドに寝かせてもらえてその上食事まで振舞ってくれるのだ。
それでなくとも相手のもてなしにけちをつけるのは紛れもない失礼だろう。
しかしながら。
「助けてもらって悪いけれど、何が入っているのか分からないものを迂闊に口するべきじゃない」
「そうか。そうだろうね。むしろ一介の兵士としては当たり前のことだよ」
彼女は腕を組む。
さり気ない動作も服の下の胸を強調する艶かしい仕草のように見えて、ドニは咄嗟に目を逸らした。
「君は当たり前の対応をしたまでだ。悪く思う必要はないからね」
「そう言われると悪い気がしてくるからよしてくれよ。これでも疑ってるわけじゃないんだ、勇者の厚意なんだから」
ドニはよろよろと首を横に振る。
彼女と話しているうちに幾らか調子が戻ってきたのか、言葉の数が増えてきた。
許しのままに砕けた口調で話しているけれどこれで良いのだろうか。
ちらりとでも反応を伺いたいところだがさっき覚えた下心で中々その顔を見ることが出来ない。
そうしてドニが悶々としている最中だ。
ユーリの目にこれは好機という勇者らしからぬ色が浮かぶが、視線を逸らしていた彼には分からなかった。
「安心してくれ。毒を盛るつもりはないけれど、そういった証明はこちらがすべきものだからね。そうだ、いいことを思いついたからすこし待っていてくれ」
何かを思いついたらしいユーリの背中が奥の部屋へと消えた。
どうやらそこが台所らしく、扉を開けた一瞬、美味そうな料理の匂いが強くなる。
「お待たせ。こうすればいくらか安心出来るだろう?」
彼女が持ってきたのは、というか押してきたのは鍋と大皿に乗った肉、それにパンの塊を乗せたカートだった。
未だに意図の読めないドニの目の前で彼女はスープ皿に鍋の中身を取り分け、肉とパンを切りそれぞれの皿に用意していく。
ここでやっと理解した。
同じ鍋、同じ塊からなら毒を盛ることは出来ないだろう。
目を離していたならその限りでは無いが、今この場ではドニが一連の流れをしっかりと見ている。
「どうぞ」
「……どうも」
料理を取り分けられ戻ってきた皿は先程と寸分も違わない位置にぴたりと並べられている。
主人というより熟練のバトラーのようだ、とユーリに対して思うのは失礼だろうか。
そのような疑問も夕食の前には軽く吹き飛んでしまったが。
「わあ……」
スープ皿に注がれたのはどうやらシチューらしい。
何のものかは分からないが一口大に切られた肉まで入っている。
野菜については少なくともドニの知るものと同じだ。
メインの肉料理も脂と引き締まった赤身が程よく、中心まで火の通るしっかりとした焼き加減である。
半端に生の部分を残すよりこちらの方がドニは美味しいと思う。
ユーリがナイフを入れた時に滴った肉汁は、それでも尽きている様子はなく歯を突き立てればじゅわりと溢れてくることだろう。
ぴりりとしたキレのある匂いは香辛料でも使っているのだろうか。
パンは小麦に混ぜ物をして焼いてある。
少し黒めの色だが、それでもドニのような身分からすれば中々口に出来ないものであることには間違いない。
期待する程でもない、とユーリは言っていたがドニにとっては一生に一度もないご馳走である。
これで不味いなどということもないだろう。
正直な話、他者の出してくる食べ物を迂闊に口にするなという軍の教えは彼の中ですっかり存在感を失っていた。
ドニの価値観としてはむしろもてなしは最後まで受けろ、善意で提供されたものを口にしないのは失礼だといった方に傾いている。
結論としてドニは彼女の厚意に甘えることにした。
主神教式の簡易的な祈りとして手を合わせ感謝の言葉を述べる。
次にスプーンを手に取り、シチューの皿を手繰り寄せた。
「……美味い!」
「それはよかった」
見た目通り、というのもおかしな話だろうがユーリの手料理はどれも美味だった。
良く煮えたシチューは野菜も肉もとろりとしていて旨味がよく染み込んでいる。
肉はやはり香辛料で味や香り付けがされているのだろう。
歯を突き立てるごとに獣肉特有の濃い味が染み出してくるが香辛料のおかげでしつこくはなく、食べる傍からより一層に食欲を誘ってくる。
固めのパンには少しの酸味があり、こちらはドニにとっても馴染み深い味であるがこうしてシチューや肉料理に併せてみれば信じられないほどの絶品のように思えた。
総じて豪奢ではないが堅実な贅沢品であり、平民である彼には祝い事の席であっても中々手が出せない食事にドニは夢中でかぶりつく。
正面に座ったユーリは自身も食事に手をつけつつ、その様子を優しい眼差しで眺めていた。
こうも見つめられると普段なら食べにくいことこの上ないが、腹を空かせたドニの手は止まらない。
大方食べ終えた頃だ。
「何と言うか」
ユーリがふと声を発し、それでようやく彼の面が前を向いた。
「どうした?」
「うん、気を悪くしないでいただきたいのだけど、君の作法は綺麗だね。そのまま貴族の食事に呼ばれても申し分ないよ」
普通、こういうのは平民の割になんて一言が隠されていて嫌味混じりのリップサービスくらいに捉えておいた方がいい。
しかしユーリは真っ直ぐに自分を評価しているようだった。
確証はない。ただ言葉の端々からそう感じるのみだけれど、悪い気はしないどころか嬉しささえ覚える。
「あー……まあな。結構乱暴に食い散らかしてたつもりなんだけど褒められるとは思わなかった」
「乱暴じゃないって。いい食べっぷりだとは思ったけどね。ご両親か教師……教団兵なら教官辺りの教えの賜物かな」
「大体、そんなところ」
両親、の単語にドニの胸の内が僅かにざわつくが、ユーリがそれ以上詮索してこないことにはむしろ安心した。
本当のところ彼に上流階級の作法を教えてくれたのはユーリの挙げたどれでもない。
尋ねられたところでどうということもないのだが、知られなくて良かったと胸を撫で下ろす自分もいる。
「それで、もうそろそろ聞いてもいいかい。君がどうして森にいたのか」
「ああ、うん。勇者様に飯を貰ったんだ、おれの知ってる限りで話すよ」
話題が切り替わったことで安堵はより強くなった。
彼女の気が変わらないうちにと急いで最後の一口を飲み込み、食器を置いてドニは話し始める。
無論兵士としての守秘義務はあるので、そちらにはなるべく触れず言葉を選びながら。
「ホスロー大森林、あるだろ。ネオルラとセントリクの間にある原生林。そこの近くで軍事演習があったんだよ。あ、ネオルラ側の土地の中でだぞ」
「両国の取り決めでどちらのものでもなく、行き来や林業のみで利用を認められたあの、ね。……えっ? 随分離れたところから来たじゃないか」
「遠いのか?」
「遠いも何も、うちはセントリクの端っこだよ。北の海沿いにある火山を背にした一帯がセイスプランの領地だ」
「……嘘だろ!?」
「嘘じゃないさ。地図でも持ってこようか」
「いや、いい」
この一帯の地理くらいは記憶している。
セントリクは大陸の西に突き出た半島の国、だった。大陸の縁をなぞるようにして縦に長く、上は北東、下は南西に伸びている。
南側は細く短い陸地で大陸と繋がっていて、そのすぐ傍、あるいは北海からの湾を挟んだ隣の国がドニの住まうネオルラなのだ。
先に述べたホスロー大森林はちょうど半島と大陸を結ぶ陸地に位置している。
ユーリの言った北の火山とはスチノ山だろう。
火山とはいえここ千年は噴火することもなく、麓に広がる平野では果物の栽培が盛んだという。
彼女の領地、自分の今いる場所がそこなら確かに随分と遠くまで来てしまったものだ。
「はぁ……まじか」
いっそ呆れてしまうくらいの驚きに溜め息を吐くことしか出来ない。
ドニの両肩が落ちた。
「僕も驚いたよ。ネオルラの下級兵士が単身ここにいるだなんてとてもじゃないけど考えられない。ひょっとしたら向こうがセントリクに対して何か仕掛けているんじゃないかとも考えたけど……本当に君ひとりだったものだから」
会話の雰囲気からここからが本題だとドニは身構えた。
少しばかり目を伏せて記憶を呼び起こす。
思い出すのは勿論、ここへ来る直前のことだ。
ホスローの森、開けた場所、隊長と同年代の仲間たちが多数。
突然、空に巨大な影が現れた。
反応する暇もなく、鉤爪の付いた暗い色の鱗を持つ手が自分の目の前まで伸びてきて……。
「……ドラゴン。でかいドラゴンが上から来ておれを掴んでいったんだ。これから昼飯にするって時に」
「国境近くとはいえドラゴンが、ね。それは穏やかじゃないな」
「情けないけどそこで意識が途絶えた。気がついたら変な森の中にいて、あとはあんたに拾ってもらって、それだけだからあんまり話すことはないぞ」
「待って、そのドラゴンとやらの特徴が知りたいな。知っている限りでいいから。ひょっとしたら……」
ユーリが言葉を切るが、ドニはそれに納得していた。
セントリク、ドラゴン。
この二つの単語は容易に結びつけることが出来る。
かの国の周辺に住んでいる者ならば誰でも知っているはずだろう。
ドニたちの軍事演習もそれらに関係したものだった。
「紫がかった黒、っていうのか? 鱗はそんな感じだった。翼と前脚は分かれていたから飛竜じゃなくてドラゴンだったと思う。でも、一般に出回ってるドラゴンの姿絵よりも角が捻くれてた」
「わかったよ」
ありがとう、と吐き出すように礼を述べて彼女は目を閉じた。
髪と同じく銀色をした睫毛は長く艶々としていて顔立ちの美しさを際立たせている。
そんなことを考えている場合じゃないのに、とは思うのだがどうにもドニの思考はそちら側に吸い寄せられていた。
ユーリはしばらく思案していた様子だったけれど、ふとぱちりと目を開いた。
当然のように視線が交わる。
射抜くような赤い眼差しにどきりとして、誤魔化すようにドニは言った。
「やっぱり……邪竜なのかな」
「ああそうだ。セントリクでドラゴンといえば邪竜しかいないだろうからね。そうか、君を攫ったのは」
邪竜、もしくはマレフドラゴン。
魔物の中でも強大な力を持つドラゴン、その中でも取り分け邪悪な者どもがそう称されている。
普通、ドラゴンとは人前に姿を現すことはあまりない。
遥か昔であれば人を襲い、時に腕の経つ人間に討伐されるといった話がどこの土地でも聞かれたものだという。
だが少なくとも今のドラゴンはその強大さに見合った気高さも備えているのか、一生に一度出会えるかも分からない魔物というのが共通認識になっていた。
しかし邪竜は異なる。
奴らは積極的に人間を、それも国ごと襲うのだ。
落とされた国家は邪竜の王国と呼ばれ特に危険な魔界として恐れられることになる。
邪竜の王国にひとたび足を踏み入れてしまえば二度と人の世に帰ることは敵わない。
これまで幾つもの国が邪竜の侵攻を受け、その姿を魔界へと変えたという。
しかしながらそれは御伽噺に変わりない遥か昔の話であったり、遠く離れた土地での話だった筈だ。
話が変わったのは一年前、ドニが兵士となる直前の出来事だった。
「あのセントリクが邪竜の侵攻を受けた。最初はその話が信じられなかったけど」
ネオルラとセントリクは主神教団の勢力下において高い国力を持つ二国として並び立っていた。
互いに勇者を擁立した聖騎士団を抱え、主神の名のもとに統一された広大な国土を持つネオルラ、国土は限られるが海運業と工業で発展したセントリク。
更なる繁栄を求めて鎬を削ることはあれど、同盟を結び商人や技術者の往来といった交流が盛んに行われていた両者の関係は良好であったといえるだろう。
その片割れが一夜にして魔物の手に落ちた。
ネオルラや両国を取り巻く周辺の小国への影響は計り知れず、しばらく城下街が騒がしかった記憶がある。
とはいえこの目で見たことなく、未だに信じ難い出来事ではあったが。
「本当のことだよ。王都は陥落し周囲一帯が魔力濃度の高い魔界になっている。未だに王城では時折空を飛ぶ邪竜の姿が見られるのだそうだ」
「ユーリはそこにいたんだよな」
すがるようにユーリの顔を見やる。
すると彼女の顔は苦々しく歪み、唇の両端が何かを皮肉るかのように持ち上がった。
「……止められなかった。あっという間に全てが邪竜の手に落ちていく様を見ているしかなかったんだ。僕はこうして田舎に落ち延びたけれど、もう勇者とは呼べないね」
「そんなことないだろ」
自らを嘲笑するようにそう言い放つユーリに対し、考えるより先に声が出た。
「おれはそこにいた訳じゃないけど、あんたが最後まで戦ったことは何となくわかるよ。おれみたいなのに飯をくれるような人が国を見捨てるわけないって」
「……ドニ」
「悪い。言い過ぎた。でも理由はあったんだろ、怪我をして撤退するしかなかったとか」
「……うん、ありがとう 」
彼女の表情が元の柔らかい笑みを浮かべた穏やかなものに戻る。
それでいい、とドニは思った。
ユーリにはこの優しい表情が似合う。
「それにしても、何故その邪竜はいきなり現れて君を攫ったのだろう。しかもこんな辺鄙なところまで運んできて」
「おれの方が知りたいよ。こんなの食うにしたって美味くないだろ。勇者がいるならまだしも、あの時は隊長以外俺と同じくらいの歳の兵士ばっかだったし」
「美味くないか。ふふ、そうだね。まあ、夜に考えてもいい案は浮かばないさ。今日はもう眠って、これからどうするかは明日から話し合おう」
「そうだな……食ったあとで眠くなってきた、し」
ドニはそのまま椅子の背に体重を預けた。
食後の眠気に瞼が緩みつつある。
このまま眠ってしまえばさぞ気持ちのいいことだろう。
ユーリに迷惑がかからなければそうしていたところだが、流石に彼女に手間を掛けさせる訳にもいかない。
空っぽになった皿と鍋とをユーリが片付けていく間、ドニは必死になって襲ってくる眠気を堪えていた。
「こら。こんなところで寝ない」
ふと、こつりと額を小突かれて意識が浮び上がる。
目が覚めたかと思えばそれもほんの僅かな時間だった。すぐに水が満ちるようにして微睡みの中に沈もうとしてしまう。
主人の前でいけないとは思いつつ、どうにも動けない状態だった。
「仕方がないな」
言葉の割にその調子はどこまでも優しく、そしてまた身体が浮いた。
二度も女性に介抱されて情けないという気持ちも今は薄い。
どころか、勇者に抱きかかえられているのが貴重な経験にも思えてくる。
何故かは知らないが彼女を前にすると無条件に甘えたくなるような、そんなひたすらな安心感を覚えずにいられなかった。
「ありがと」
「どうも、お安い御用さ」
身体が横たえられたのは手触りのいい布地だ。
程よく沈み込むような感覚に清涼な匂いが鼻をくすぐってくる。
さっきまで寝ていたベッドだろう。
ドニは大人しく目を閉じそのまま眠ろうとして、そして目を見開いた。
「……?」
何時眠りに落ちてもおかしくない気分だというのに身体の何処かが忙しない。
正体を探ろうにも眠気に阻まれ、気づいた時には心の臓まで酷く昂っていた。
同時に、霧が晴れたように視界が鮮明になる。
ぐるりと目玉を動かしながら自分のすぐ隣に重みのある影を認めたその時。
「信用のならない相手から差し出されたものは口にしない。ドニ、君は正しかったよ」
「な……」
「けれど」
照明を落とされ、薄暗くなった部屋でそれは無闇なほどはっきりと見えてしまう。
緩く曲線を描くのは女の背。
肩より下から何かが生えていて、息遣いと共に動き血が通っていることを示していた。
結んでいた銀の髪は解けて、長い襟足が左右に割れて項が露出している。その、何と艶かしいことか。
ぐっと唾を飲み込んだドニに向けて、言葉と共に貌が現れる。
「正しい行いを全うするには、君は少し優しすぎるようだ」
振り向いた笑顔は確かにユーリのものだった。
何も変わらない、穏やかな微笑み。
しかしながら、それは今こちらの足元をすくってくるような危険な雰囲気を醸し出している。
何かを理解するよりも先ず逃げられない、と本能が言った。
ドニはベッドにうずくまったまま、ユーリの接近を許し、そして。
彼女の手が頬に触れる。
差し出す手に纏っていたのは手袋ではなかった。
黒と紫の、闇の色と表すに相応しい鱗に覆われた手。
それを認めた瞬間、彼女の異様さを次々と気づくことが出来た。
人の耳のあるべきところには皮膜の張られた棘。
鱗は頬にまで及び、頭には冠を連想させる捻くれた角が生えている。
捻じ曲がった角に刺々しい鱗。
端正な顔立ちに妖しい闇色が加われば、一転して退廃と堕落を連想させる容貌へと変化する。
あの時感じつつ、失礼だと押し込めた印象は全くもって真実だったらしい。
「おまえ……まさか」
「そう」
そのままぴたりと何も纏わぬ女の肌が触れてくる。
悲鳴を上げる間も無かった。
「領主も勇者も変わらないけれど、ただ一つ変わったことを挙げるとするならば……邪竜になってしまった、かな」
「だ、騙したな!?」
「騙したなんて人聞きの悪い。行き倒れている者がいるならば助けるのは道理だろう。それは人も魔物も関係ないよ」
鱗と爪を備えた大きな手がドニの後頭部に周り、そのまま抱き寄せた。
途端、顔いっぱいにむにっとした柔らかな感触。
それが彼女の胸だと理解するのに幾許か時間をかけてしまったかもしれない。
「まあ、お礼はしてもらうけれどね。君の身体と生命を頂戴しようか」
君はもう僕の獲物だ、と囁く声がくすぐったい。
じわりじわりと身体を駆け巡る熱が性感とそれに伴う欲望だったのは元からだろうか、それとも、今この状況だからだろうか。
答えは見つけられなかった。
宣言とともにドニの着ているものが剥ぎ取られ、剥き出しになった裸体の上をユーリの指が、唇が這う。
「ひいっ!」
強く、もどかしい快楽が脳天に届いた。
人間の皮膚など容易に貫けるだろう爪が、対して繊細な手つきで彼の背をすぅとなぞり上げる。
鋭い牙の覗く口元は、しかしながら何処も食いちぎることはなくドニのそこかしこを甘く食んだ。
次から次へと与えられる快楽をやり過ごす術など彼は持っていない。
ただ甲高い悲鳴を上げたり身を捩って逃れようとするだけだ。
「ふふ、随分とかわいい反応をくれるけどこういうのは初めてかな」
「そ、な……ッッ!」
指摘されてドニの顔つきが歪む。
暗に女のようだと言われるのは閨の経験のないドニでもいただけない。
咄嗟にそんなことはないと反抗しかけたが、長く温かい舌に乳首を舐められ最後まで口にすることは出来なかった。
「嬉しいなあ。でなければ妬いてしまうところだったから」
この邪竜には何もかも見透かされている。
けれど、どうやら自分はそれで助かるらしいとドニは受け取った。
ユーリは先程、君の身体と生命と確かに言った。
加えて自分が純潔でなければ「焼いてしまう」とも。
ドラゴンとは総じて炎の息を吐く魔物であると聞く。
どういう訳かユーリは竜と人の間の子のような姿をしているが、やがては竜としての姿を現すだろう。しかし少なくとも今この場で焼き殺されてしまうことは無いらしい。
じくじくと肉体を蝕んでくる快楽に飲まれそうにななりながらもとにかく、彼は安堵した。
その安堵も長くは続かなかったが。
「なんだか違う受け取り方をされたみたいだけれど、うん、いいか。本題に入ろう」
「ん……ああっ!」
当然ながら下着も既に取り払われている。
露出したドニの男そのものはとっくに硬く天井を向いていた。
熱く、微かに震える性器にユーリの竜の手が触れる。
厳しい鱗に覆われた手は、見た目とは裏腹に羽毛の触れるような感触を与えてきた。
掌を裏筋に添わせて柔く握り込み上下させる。
たったそれだけの動作でも簡単に肉欲を燃え上がらせてしまう。
ドニは女を抱いたことなどないが、かといってこの快楽に覚えがないほど初心でもない。
だからこそ理解させられるのだ。
この快楽は自分でも、他人でも、人が人である限り決して味わうことが出来ないものであるということに。
「気持ちいい? いいんだね。……どうしよう、あまりに嬉しくてどうにかなりそうだ」
邪竜に翻弄され、生娘のそれと変わりない反応を返すことしか出来ないドニに対してユーリは目を細める。
朦朧とした頭でも理解出来る心からの微笑みだった。
そこにドニを食らおうとしたり、あるいは害をなそうとする意思は欠片も感じられない。
どころかその目に浮かび、一挙手一投足にも現れるのはドニに対するただひたすらの慈愛ばかりに見えた。
これでは、邪竜であることは間違いないのに人の世にある勇者とまるで変わらないじゃないか。
もう訳が分からなかった。
気持ちがいいのと、邪悪な魔物が自分にこのような施しを与えること、そしてそれが国一番の勇者であること。
ユーリの与える快楽が皮肉にも一筋の光のように彼を現実に留めていた。
「……けれど」
不意に、ユーリの手が止まる。
ひっきりなしに与えられていた快感が途切れた。
もう限界まで幾許もなかった性器から手が離れる。
代わりにユーリの身体がぴったりとくっついてきて、すぐ隣に彼女の顔がやってきた。
その素肌さえ触れ合うごとに快感を生み出すが直接的なものには及ばない。
つまり、自分はお預けを食らったのだ。
答えに至ると同時にユーリの表情は一転、意地悪く、そしていやらしく歪んだ。
「悪い子にこれ以上はあげられないよ?」
とても勇者だったとは思えないはずなのに、それもまた彼女の魅力であると心が認めてしまう。
この邪竜に屈服するのは時間の問題だ。
心を強く持たなければあっという間に折れてしまうというのに、焦らされる快楽が精神を端から蝕んでくる。
引き絞るような声がドニの喉奥から響く。
ユーリから与えられていた焦げ付くような甘い痺れが恋しくて堪らない。
そんな様子を楽しむように彼女は歪んだ笑顔のまま尋ねた。
「ドニ、君は嘘をついていたね?」
「うそ、って」
「ホスロー大森林での軍事演習だ。行われていたのはネオルラ側じゃなくこちら側でなんだろう 」
「っ!」
「図星かな。さて、あの森はどちらの領土でもないとはいえ行われることに制限はつく。ネオルラ側ならまだしもこちら側に兵をうろつかせていたなら……挑発と取られても仕方がない」
合点がいった。
どうやらユーリはネオルラ兵である自分を疑い、こうして色仕掛けでもって口を割らせようとしているらしい。
行倒れた自分を介抱したのも飯をくれたのも作戦のうちということか。
勿論口にする訳にはいかない。
そうなれば、魔物に食われずとも国に帰れなくなってしまう。
しかしユーリの手練手管は流石だった。
男を昂らせる手つきもながら先にも述べたとおり、彼女の肌は触れ合うだけで快楽を産む。
所々が捻くれ尖った竜の鱗もこちらを傷つけるどころか、女の肌と変わらず不思議な安心感と高揚を与えてくるのだ。
ドニが考えを巡らせる中だ。彼の顎の下、骨を越えた喉元の柔らかいところを彼女の鉤爪が捉えた。
そのまま皮膚を突き破ることも出来るだろうに竜の爪はただ優しくそこをくすぐるばかりだ。
ユーリは自分を傷つけるつもりはない、それは変わらないらしい。
今のところはだろうけれど。
それに、彼女は命を奪うよりももっと効果的な手段を持ち合わせている。
「……ひ、あっ!」
「教えてくれたらもっと気持ちよくしてあげるんだけどな。君たちの目的と、ネオルラが何をしようとしているのか」
顎に触れるものとは別の手が再び彼の肉棒を撫でた。
一瞬の愛撫はするりと通り抜けていったが、既に熱く敏感になっていたドニの身体は至上の快楽を受け取ってしまう。
加えてユーリは性器の先端に指先を残していった。
身動ぐたびに、呼吸のたびに微かに擦れるそこが小さな刺激を与えてくる。
彼女の誘いに乗る訳にいかないというのにもどかしくて仕方がない。
どうにかしてあの甘美な感覚を得られないかと本能的に腰を動かし始めたものの、そんな無様な抵抗もユーリに見咎められてしまう。
「こら、そんなことしたらダメ」
「うぅぅ……」
「よしよし、いい子にしてたらイかせてあげるから」
それだけはだめだと、ドニは身体を捩りシーツに擦り付けるがユーリから与えられる快楽を知った今となってはそんなものは刺激にもならない。
見知った絶頂はもう少しなのに決定打は無く、腰を振ろうとすれば彼女は指先に含ませる力を抜いてしまう。
「ぐぅ……」
「強情だね。でも可愛い。色々話してくれたらもっと可愛いんだけどなー……」
「だめ、だろ。こんなひとときの誘惑に屈して……!」
「おや、ひと時だなんて誰が言ったのかな」
「え…?」
ユーリは少年の耳を軽く食み、ちゅるりと肉厚の舌で舐め上げた。
生暖かい粘膜の感触が身体を震わせる。
熱を吐き出すに至らないほど小さな快感は積み重なり、ドニの心を確かに堕とそうとしていた。
「僕は言ったよ、君の身体と生命を頂くと。それは君の人生を引き受けることを意味する。案ずることはないさ。君の一生、そばにいて、毎日尽きることのない快楽と幸せを与えてあげる」
赤い眼と目が合う。
黒い角に銀色の髪。
自らの肉体と快楽にものをいわせるその姿は堕落へ導く悪女そのものだというのに。
ドニはそこに、男を慕う女への愛おしさを見出してしまった。
心に生じた一瞬の隙が彼に道を踏み外させる。
「……ネオルラはこの国を狙ってる。主神教勢力の中でも有数だったセントリクの奪還は神の思し召しだ、って」
「なるほど。これはまた命知らずだね」
「勿論みんな出来ると思ってやしないさ。国内の勢力争いが国をこんな無茶に向かわせようとしている。そもそもうちは主神派と世俗派が……」
言い終えるよりも先に口が塞がれた。
言葉を止めたそれがユーリの唇であると気づいた時には、再び彼女の独壇場へと切り替わっていた。
「ありがとう、もう大丈夫だよ。それ以上は後で聞こう。今は愛し合う時間なんだから」
今一度、唇が重なる。
親愛を示す頬への口付けなら家族といくらでもしたことはある。
けれどこれは正真正銘の初めて。経験のないことだ。
男女の情愛を交わすための口付けは甘くて、切なくなるほど気持ちがいい。
「はぁ……ああっ……」
やがて舌さえも絡め合い、ねっとりとふたりで溶けていくような口付けを交わす中。
ドニはユーリの手で体験したことの無い絶頂まで導かれた。
自分ひとりで行うそれとは違う。
どくどくと脈打つのがわかるほどに射精の感覚は強く、長く続いた。
ここで終わりかと思えばユーリのキスが更なる快楽を呼び更なる絶頂を促す。
それは極まるような鋭い快楽でもあったし、同時に包み込まれるような安らぎもあった。
永遠に続くかとさえ思えた射精が終わった時だ。
いつの間にやらドニは肩で息をしていて、掲げられたユーリの手をぼんやりと眺めていた。
「ふふ……ふふふっ。こんなにいっぱい出して気持ちが良かったんだね。ああ……これで僕も」
その手にはドニの出した夥しい量の精液が溢れている。
ユーリは嬉しそうにそれを眺め、うわ言のように何か呟く。そして手の中にある精液を舐めすすった。
精液なんて生臭くてとても口に含めたものではないだろうにユーリの表情は極上の美味を味わったかのようなそれだ。
疑問は尽きないが、彼女が喜んでいるのだしいいか。
気だるい快楽の名残りと疲労で今度こそドニの意識は眠りへと落ちた。



一日前。
闇色の空を背景に建つ黒曜の如き城。
その、一際高い塔のバルコニーにふたつの人影があった。
紅茶と山ほどの菓子が載ったテーブルに並んで座ったひとつは青年、もうひとつは邪悪な竜女である。
「はい、あーん」
「え、んむっ」
「うふふ、美味しいですか?」
「うん。勿論」
楽しげに言葉を交わすふたりは仲睦まじい男女に変わりない。
隣に座る男の腰に自身の尾を巻き付けながら竜女はティーカップに口をつけた、その時だった。
音もなく現れた黒い影がふたりの頭上を覆い隠す。
瞬間、突風が巻き起こりテーブルの上の品々がかたかたと鳴るが、ふたりは気にした様子もなく互いに肩を寄せ合いながらゆったりと空を見上げた。
「あら」
巨大な影はこちらもやがてふたつの人影へと変わる。
かん、と軽い音を立てて片方がバルコニーの縁の上に着地した。
「遅れてしまい申し訳ございません。ただ今戻りました」
「おう、帰還したぜ。両陛下」
竜女と男。その組み合わせはささやかな茶会を楽しんでいたふたりと同様だが、その姿と雰囲気はまた別のものをしている。
両陛下と呼ばれたふたりは豪奢な衣装を纏い、空から現れたもう一組は魔導師のものにも近いローブを着用していた。
竜女たちは捻くれた闇色の角と鱗を持っているが、前者の竜は鱗に覆われた腕と背中から生じた翼を備え、後者は翼と腕が一体化していて、髪の色も金髪と黒みがかった青と異なっている。
それは男たちも同じで、ふたりの容姿は線の細い黒髪の青年に白髪の大男と対称的だった。
「ご苦労様です。ハロルド、クラウス。レスカティエからの帰還早々新たな仕事を任せてしまいごめんなさいね」
「いいやあ、レスカティエへの交換留学か? ありゃだいたい新婚旅行みてえなもんだったから謝らねえでくれや、女王陛下」
「ボクたちふたりとも存分に楽しませていただきましたからね。ああ勿論、魔界の軍師として学ぶことも多々ありましたから、早々に活かすという意味でも偵察任務は有難いお仕事でしたよ」
ハロルドと呼ばれた大男はがしがしと頭を掻き、竜女のクラウスも縁から降りてハロルドに寄り添うように近づいた。
ハロルドも女王に視線をやりつつ、示し合わせていたかのようにごく自然とクラウスの背を抱く。
「俺独りじゃあ偵察なんてとても出来ねえ。本来軍師の仕事じゃねえってのはそうだが、こいつがいてやれることが増えた。有難いもんだぜ」
「ええ、女王陛下のおかげで未だ軍師として至らぬボクでもハロルドさんの役に立てるんです。貴女様の与えてくれた邪竜の血で」
クラウスは己の右手を持ち上げ双方に見せるように表、裏へと動かした。
翼と一体化し、紫色の皮膜が張られた腕は華奢ながらも竜としての力強さを感じさせる。
ハロルドもまた、頼もしい右腕を眺めていたがふと苦笑して言った。
「何言ってやがる。お前さんはそこに居るだけで助かってんだよ」
「……ハロルドさん」
彼の言葉にクラウスの頬が染まる。
その様子に女王とその王配は顔を見合せこちらも微笑んだ。
「うふふ、まあまあ。仲睦まじいこと。ナオ、私たちも負けていられませんね」
「そうだね。けれど無理はいけないよ? ここ一年エレミアはずっと働き詰めなんだから」
「無理などしていませんよ? 貴方が隣にいてくれますから」
女王は青年の頬を撫で、そして彼の唇をそっと舐める。
一連の光景を目の当たりにした軍師ふたり、特にクラウスはほぅと感嘆の声を上げ、対抗するようにハロルドの逞しい腕に抱き着いた。
女王もまたその様子を満足げに見つめる。
再び紅茶を一口、すると彼女の声色が変わった。
「さて。お惚気はこのくらいにして本題に入りましょうか。お二人とも、ネオルラ軍の動きはどうでしたか」
凛とした声色には先ほどまでの甘い響きは抑えられている。
ハロルドとクラウスも腕に抱き着く恰好は変わらないながら雰囲気を改めた。
「ではボクから報告を。目立った動きは未だ見せていませんが、ホスロー大森林のセントリク側にネオルラ兵を複数部隊、確認しました。しかし」
「ええ」
「隊長こそ年長者でしたが下にいたのは若手の少年兵ばかりで五、六人で構成された組が三つ程度。こちら側とはいえ完全な領域侵犯ではありませんし、攻め込む意思はなくあくまでも対魔物を想定した訓練というところでしょうか」
「確かネオルラは齢十三から兵役が課せられるのでしたか。それはぜひ若い子たちの婿に……いえ、しかし訓練でわざわざ挑発ととられかねない場所を選びますかね?」
「斥候、とも考えられるがそれなら何でまた経験も無いような若いのをってとこだな。風の噂でネオルラ国内が荒れ始めているとは聞いたが、若いのを表に出すほど余裕がない国でもないだろうに」
「付け加えて一つ。上空から偵察していた際、部隊の拠点に魔力機構を用いた機械の反応がありました」
「おおそうだな。クラウスは魔力の計測をする機械って検討つけてたが、それならこっちの魔力の規模を測るためか、それとも単に国の境の魔力浸食の度合いを把握するためか……っけねえな。今はまだ情報が足りなすぎるぜ」
呆れた様子で豊かな白髪を掻き上げた大男にクラウスも頷いた。
引き続き監視を続けます、という彼女の締めの言葉に女王も慰労をねぎらう。
「相手の出方を窺うのも大切ですが、ふたりの時間を減らしてはなりませんよ。民たる邪竜の快楽と安寧の日々を守るのが私たちの務めですが、そうして一組の番としての役目を放棄するようでは元も子もありませんから」
「御心配なく。ハロルドさんは毎晩元気で……ふふ。ボクのことを可愛がってくれますから」
「よせや、照れるじゃねえか。と、こうもきな臭くなってくるとやっぱりアイツを呼び戻した方が」
頭を掻いた手を項まで下ろしながらハロルドは遠くを見やった。
王城から遠く離れたその先には火山と、その麓に広がる村。
その視線を追いかけるように女王と夫も同じようにして目を細めた。
流石に魔物の眼でも捉えることの難しい距離ではあるが、その双眸は確かにただひとりを見つめている。
「私もそう思うのですが……ユーリはあれ以来姿を見せてくれません。結ばれて間もない私たちを気遣い、そして彼女自身が未だ夫を見つけていないことを恥じてのことなのでしょう。けれど」
「まだ慣れねえな、姫さんの傍にアイツがいねーってのは。おっと、隣にいるのは王配殿下だけどな」
「ハロルドさん、今はもう女王ですよ。まあ、国一番の勇者ともなれば男を見る目もそれなりに厳しくはなるでしょう。ボクも気持ちは分かりますし、ここは気長に待っていただいては」
女王は頷く。
そうして夫の顔を見て、少しだけ椅子の背もたれに身体を預けた。
「そうですね、相手を定めているのならばともかく、そうでない竜に対し急かしても仕方がありませんから。気を長くして彼女の夫が現れるのを待ちましょう。そう、優しく孤独な勇者の心を射止めるような……そんな男を」
私のように、と彼女は隣の夫へと身体を傾け目を閉じ、開いた。
「長く付き合わせてしまいました。ふたりとも、もう下がってよろしいですよ」
その言葉にふたりは頷き、再び飛竜の姿へと変じたクラウスにハロルドが乗ってその場を去った。
国を担う番の姿を遠く見送りながら邪竜の女王エレミアはティーカップを空にする。
次に目を向けたのは夫のナオ。
彼女は夫の顔を見てははにかむと、何かを決めた様子でゆっくりと立ち上がった。
「どうかしたの?」
「そうですね。ナオ、少し散歩にでも参りましょうか」
妻であるエレミアの誘いにナオも快く応える。
間もなくして、王城の塔から青年を乗せた邪竜が飛び立った。
23/10/18 22:29更新 / へびねおじむ
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■作者メッセージ
続きは次の魔物娘さんが正式に公開されてからになりそうです。

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