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後篇

 チュン、チュン
――アルダーさん」

 まどろむ意識が、鳥の囀りと少女の声を捉える。アルダーは自分が寝てしまっていたことに気付き、そっと目を開く。
 そこには朝靄に溶けていってしまいそうな白髪を靡かせる、ひ弱そうな少女の顔があった。

「はぁっ、はぁっ。ゴ、ゴメン……待っててくれたの……?」
「………」
 アルダーは目を擦る。しっかりとペトロシカを見定めると首を振る。
「……。……今、着いた所……」
 不器用な気遣いの言葉を連ねても酷く眠たそうにしているアルダー。ペトロシカは息を切らしながらも笑顔になってしまう。
「えへへ。アルダーさん、優しいね」
「……そうか……?」
 無口で取っ付き辛い雰囲気をかもし出しているアルダーをそんな風に評価した者は初めてだった。アルダーは気恥ずかしそうに頬を掻く。
「ところで……朝食でも……どう……」
「え?」
「……え」
 ペトロシカのきょとんとした表情。だがアルダーの方は眉を吊り上げて驚いてしまっていた。自分の口から女性を食事に誘うことなど、今まであっただろうか、と。
 だがペトロシカは嬉しくてたまらない……癖に、困ったように眉を下げると、名残惜しそうに翼の先を遊ばせるのだった。
「あ、ああああの! お、お誘いはすっごく嬉しいんだけど……!?」
「……?」
「え、えと。ボク、まだ処女だから、フェロモン出しっぱなしで……。町なんて歩いたらっ、た、大変なことになっちゃうよぅ……っ!?」
 頬を染めるペトロシカ。説明を受けたアルダーの頭に、無数の男達が一匹のコカトリスを道端で蹂躙する図が浮かぶ。彼は自らの軽率な発言を恥じることになった。
「……そうか……だが……」
「え? うん。アルダーさんは平気だね?」
 アルダーの発言を先取りしてそう言ったペトロシカ。アルダーは頷く。
「なんでだろ?」
「………」

 アルダーは考えた。一時的にでもペトロシカのフェロモンが利いたのは憶えている。だがその後、彼女を目の前にしてもフェロモンに惑わされることはなかった。
 その前後に何が起こったのか。――その答えは、アルダーの石化を解いたあの東洋人にある。
「……このゴーグル……」
 朝靄に包まれる風景を薄暗く映し出す、このゴーグルの存在。あの東洋人が“石化防止”の為にアルダーに渡したものである。
 ペトロシカは軽く羽撃きながら首を傾げた。
「そういえばそのゴーグル、最初はなかったよね。あの人からもらったの? あの“きんのはり”の人」
「……ああ」
――その“きんのはり”の人について、詳しく教えてもらおうか」

 アルダーが頷いた瞬間、突然辺りに若い青年の声が響く。飛び上がって驚くペトロシカ。長身のアルダーの後ろにささっと回り込む。朝靄が不気味に動く。二人の前に、二つの影が浮かび上がった。
 二人の目の前に現れたのは一人の魔術師風の男と、純白の衣を羽織る少女だった。靄から生まれ出でてきたかのような気配の薄さで忍び寄り、その蒼いマントのはためく音で存在を知らしめる。彼らの登場に際し、例によってペトロシカの驚きようは凄まじかった。 
「ひゃぐうぅっ!!? な、なななんですか……っ!? きゅきゅ、急にぃぃっ!?」
「………」
 アルダーがカバンを振り上げて軽い一撃を与える。お蔭でペトロシカは泣き止んだ。現われた眼鏡の青年は彼女を「五月蠅いコカトリスだ」と評価する。アルダーの着けるゴーグルを近くでまじまじと見詰めると、ちっと舌打ちした。
「……奴の魔力の残滓。矢張り貴様、ヴァーチャーに会ったな」
 突然現われてそう言われても、アルダーには何のことか判らない。優男のように見えた筈の青年の異様な剣幕に押され、ペトロシカはブルブルと大袈裟に震えていた。

 やがて自身が熱くなっているのに勝手に気付いた魔術師風の男は、髪を掻き上げて自分を宥め、話し出す。
「いや、すまない。そのゴーグルは誰に貰ったのか、聞かせてもらいたい」
「……人」
「いや、人なのは判っている。特徴とかを教えてもらいたい」
「……男」
「他には?」
「……きんのはり……持った、男」
「………」
 蒼マントの男、ゲーテは何も言えずに黙ってしまう。だがアルダーの方はこの無礼な男に誠実な回答を示したつもりだ。胸を張って男を見下ろす。
 すると彼の後ろに控えていた、真っ白な少女が口を開くのだった。
「マスター。そのゴーグルは、確かにあの方の魔力によって作られたものです」
「そうか。だからこのおぼこ臭いコカトリスはフェロモンを放てないのか」
 それを聞いたペトロシカはビクンと撥ね、精一杯の勇気を全身に漲らせて尋ねる。
「あ、ああああの……?」
「ん?」
「ひゃうっ。……あれ、石化しない」
 咄嗟に目が合ってしまったのに驚いて目を瞑るペトロシカだが、直ぐに瞳を開いたそこに居る青年に石化の徴候はない。ゲーテはそんなペトロシカを嘲笑するように言う。
「この私が処女コカトリスの魔力程度で石化するものか」
「うぅ……」
 ここで凹んでしまったペトロシカに変わって口を開くのはアルダーだ。
「……フェロモン……効かないって……?」
「? なんだ、何が言いたい」

 ゲーテが言葉に拙いアルダーの考えを捉えそこね、首を傾げる。その後ろで白きゴーレム、ソニアがゲーテに耳打ちするのだ。
「恐らく、このコカトリスのフェロモンが打ち消される理由を尋ねられているのかと」
「そうか。だがこの近くに奴が居るかも知れんと思うと、急ぎたいのだが。……まぁいいだろう」
 内輪でそう話すと、ゲーテは改めて二人の前に向く。
「貴様の会った東洋人はヴァーチャーと言ってな。旧時代の残痕だ。私達は奴を追っている身で、名をゲーテ。そして後ろでゆらゆらしているのがソニアだ。まぁ、自己紹介はこのぐらいでいいだろう。それで、奴の魔力はどうやらサキュバス的な力を一時的に封じ込める力があるらしい。だから、奴の魔力が篭ったそのゴーグルは周囲のサキュバス的な力をある程度、弱めることが出来るのだ。判ったか?」

 すらすらと、一度も詰まらずに自己紹介と問いに対する返答をするゲーテ。アルダーとペトロシカは判ったような、判っていないような、微妙な表情を向ける。
「……微妙な反応だな。まぁいい。兎も角そのゴーグルをなぜ貴様らに渡したのかは知らんが、それは現魔王の魔力をある程度抑え込む力がある。だからコカトリスのフェロモンも止まり、男を魅了する力は薄まる」
 アルダーはゆっくりと頷く。「しかし、本当になぜ奴はこれを」とゲーテは考える素振りを見せる。ソニアはゲーテのことを意に介さぬ風に、アルダーに尋ねる。
「ところで、そのお方とは何処で会いましたか?」
「……隣の国」
「そうですか。マスター、行きましょう」
「……ああ、そうだな」
 一通り尋問が終わり、ゲーテ達はアルダー達を置いて町から遠ざかっていく。アルダー達の不思議そうな視線が向く中、朝靄に姿を隠す。その途端、嘘のように靄は消え去る。まるで彼らが引き連れてきたかのように。
「うぅ……。なんだったんだろぉ……? あの人達……」
「……ばーちゃー?」
 ペトロシカが目から零れ落ちる雫を羽で掬う。アルダーが何かを思い出したかのように、自身の郵便カバンに手を突っ込んだ。
 あの青年が口にした、“ヴァーチャー”という、他に居そうにはない名前。アルダーには心当たりがあった。

「何探してるの?」
 ペトロシカが覗き込む。そして抜き出されたのは、色褪せた便箋。
「……お手紙。なんだか古い紙だけど」
「ばーちゃー……。ヴァーチャー……!」
 口で準えながら、アルダーは自身の記憶力が確かなのを認めた。
 その便箋に書かれている宛先こそ、あの東洋人――ヴァーチャー宛だったのだ。
「あっ。それって、さっきの怖い人達が言ってた」
「………」
 アルダーは差出人の名前を確認しようと、便箋を裏返す。其処には稚拙な字で『ど り す より』と書かれてあり、その後で『ご 主じん さま へ』と書かれてあった。
 ペトロシカはこの奇妙な手紙とアルダーを見比べる。
「……これ、は」
「? アルダーさん、この手紙、何?」
「……宛先不明便……だ……」
 アルダーは昨晩、駆け抜けてきた道を見返す。
「……こんなご時勢……住所を書いて、あっても……家、焼かれれば……。だから……持っている」

 アルダーが言うには、何らかの事情で宛先を見付けられなかった場合、特に指定日などがなければそのまま郵便物を所持しておき、自然の成り行きに任せて本人、及びその情報が舞い込むのを待つというのだ。
 そして、その自然の成り行きこそが、このときの数奇な運命の結び付けであるのだった。

 だがアルダーは不思議がっていた。あの時の東洋人の素振りから、きっと彼はこの手紙を見たに違いない。なのになぜ受け取らなかったのだろう。どちらにせよ、アルダーは送り主の想いを届けなければならない。
 ペトロシカは、アルダーが来た道をじっと見返しているのを見て全てを察した。翼を後ろに畳み、俯き加減に言う。
「ん。まぁ、なんとなく言いたいことは判ったよ。じゃあ、そのお手紙、あの人に渡さなきゃいけないね」
「………」
「……どうしたの?」
「……なんで……」
 キョトンとした表情でそう口に出したアルダー。ペトロシカは予想外の台詞に驚いてしまう。
「なんで? なんで、て……アルダーさんは郵便屋さんでしょっ。誇り持ってるって言ってたじゃない」
「違う……」
「ち、違くないでしょっ」
「いや……その違う、じゃない……」
「?」
 噛み合わない会話。だがそこでアルダーはそっと手を差し伸べて、ペトロシカの目から零れ落ちそうな雫を指の腹で掬う。

――え」
「……泣かないで……」
 言われて初めて気付いた、といわんばかりにペトロシカは目を大きく見開く。顔を赤くしてアルダーから離れ、慌てて翼で顔を隠しては羽で雫を拭う。
「ひゃうっ。……うぅ。な、なんで泣いてんのかなぁ? あはは、おかしいね……」
「……ペトロ、シカ……?」
「……うん。大丈夫だよ」
 ペトロシカは眉毛を下げる。まさかこれだけ別れが早いとは思わなかった。
 今やっと、恋い慕う相手に追いついたところ。なのに、もう彼は走り去らなければならない。そして、自分はそれを追い駆けられない。
 アルダーが走っている最中に彼女のことを考えていたように、ペトロシカもアルダーのことを考えていた。だがその心の内は惨めな思いで一杯だった。彼女は必死に追い付こうとした。だけどその先で、彼女は待たれていたのだ。
 このまま一緒に居るのは、アルダーにとって良くはない。一緒に居れば、彼は自分にペースを合わせる。そして、郵便屋としての職務は果たせなくなるかもしれない。突き付けられたジレンマ。それは、少女の初恋を無残に破るには、余りにも理不尽だった。
 
 ペトロシカは惨めに溢れる涙を拭うのは諦め、アルダーの瞳を見詰める。ゴーグルの力でアルダーは石化しないが、彼は一歩も動けなかった。
「アルダーさん。ボクはアルダーさんが、やっぱり好き」
「………」
 すると突然アルダーは目を閉じて、ゴーグルをペトロシカに渡す。彼女は驚いて目を逸らすが、アルダーはニコリと不器用に笑って見せる。
「……あげる」
「え? そ、そんな……悪いよ」
「……これ、あれば……もう、襲われない」
 サキュバスの力を薄めるゴーグル。確かにそれがあればペトロシカはもう無意識の内に男を魅了することはなくなる。
「え、えと。それは、魔物としてはどうかと思うんだけど」
「……嫌々……すること、ない」
――あ」
 例外的に足が遅いペトロシカにとって、相手を選ぶなんてことは出来た立場ではない。今までは石化が間に合ったが、後ろから襲われれば視線も合わせられないでそのまま相手に身を委ねることになる。アルダーはそこまで考えていたのだ。
「あ、ありがとぅ……っ」
 半ば押し付けられながらも、顔を真っ赤にして喜ぶペトロシカ。アルダーは満足げに笑んで見せて、踵を返す。

「……じゃあ……」
 ――人に別れを告げたのは何年振りだろうか。かつて別れの一つの意味を理解させるのに出立が遅れたこともあった筈。
「うん」
 ペトロシカはゴーグルを胸に抱きながら微笑む。
「………」
 アルダーは深く伸びをし、いつもより丹念に体を解す。片足を前に出し、構える。そして大きく息を吸うと、一気に踏み込んだ。
 風の様に駆けて行くアルダー。もうペトロシカの目にその姿は映ってはいなかった。
 


――――――――――



――さぁて、またいつもと同じように、生きていけばいいよね……」
 締め付けられる思いがしながらも、自分にそう言い聞かせるしかなかった。ボクは、アルダーさんから受け取ったこのゴーグルに顔を近付ける。
「アルダーさんの匂い……♪」
 快い、男の人の香りが鼻をくすぐる。思わず、表情が緩んでしまった。
 さっそくアルダーさんの真似をして自分もゴーグルを嵌めてみるけれど、前が見えなかった。おかしいな、と思って、一旦外して燈色のレンズを確かめてみる。
 そこにはなんだか愛らしい、クマのキャラクターの描かれた紙が挟み込まれていた。
「……アルダーさん?」
 思わずその場に居ないあの人を呼んでしまう。便箋に収められているわけでもなく、ただそのまま挟まれていた紙。一目見た時はアルダーさんの郵便物が挟まっていたのかと思ったけど、その紙は『ペトロシカ へ』と書かれていた。

「ボク宛て」
 わけもわからず、レンズからぺらりと取り剥がす。そこにはとても丁寧とはいえない、崩せるところまで崩したような字がのたまっていた。
『くぁwせdrftgyふじこlp ――アルダー』
「………」
 アルダーさん。字、崩し過ぎ。寧ろ、なんで名前だけ普通に書いたの?
 でもその無意味らしい形の集合にはぼんやりと、何かしら、アルダーさんの伝えたい言葉の法則性を見出せそうに思えた。ボクは目を細め、この線の大乱舞に浮かび上がる意味を探す。
「え、と」
 一文字一文字がボクの目の前に浮き出て来て、自己主張を始める。これは、只の文字の羅列じゃない。強いて言うならば……アルダーさんの心をそのまま映したかのようなものだった。
 
 ボクは走り出す。追い付けるわけない。でも今なら奇跡を信じられた。
 




 ……その二分後。
「うわーんっ。絶対追い着かないってばー!」
 ぽてぽてぽて
 無理。ダメ。オワタ。ネガティブな言葉が頭の中に浮かぶ。振り返って見ても、まだ町が間近にある。
 アルダーさんだったらものの二秒で町なんて見えなくなるのに。
「うわーん……アルダぁさぁん……」
 ぽてぽてぽて

 そんなとき、霞む目が前方から歩いてくる人影を見付ける。アルダーさんが戻ってきたのかと一瞬期待するが、世の中そんなに甘くはない。そんな都合よく奇跡なんて起こらないのだ。例えば、この一瞬だけでもボクの足がアルダーさんに追い付けるようになるとか、一気にアルダーさんの元へワープするとか。
 だけど、別の奇跡……特に予想外とも言うべき事態に遭遇するのだった。

 ぽてっ どすんっ
「痛いっ」
 すれ違いかけた男の人の顔が一瞬見えて驚いてしまう。その拍子にあろうことか、けっ躓いてしまったのだ。顔面から土に突っ込む。痛む顔を土から抜いて座り込む。
 すると、今しがたすれ違った筈の男の人がボクに近付いて来るのだった。
「っ!? ひゃうぅっ」
 この状態では犯されてしまう。そう思って透かさず体を翻し、後退りする。そして強めに睨むが、相手は石化せず、かといって正気を失うべくもなくピンピンしている。そうか、ゴーグルがあったんだっけ。
「……大丈夫か?」
 男の人は渋い声で気遣ってくれる。何度見ても見間違いではない。この男の人、いや、東洋人こそ、アルダーさんが追い掛けた人物――ヴァーチャーさん、なのだ。

「あぁーっ!!?」
 手羽先を差して叫ぶ。
「うおっ!? 吃驚したっ、なんやねんっ」
「なんでこっち(ステベック)に居るの!?」
「……? そ、そんなん(他人には)関係なくない? ていうか、誰やったっけ」
「あっちに居ないと、アルダーさんが届けられないじゃないかっ」
「え、無視。何の話」
 ピンとこない顔をしているこの人に、ボクはイライラしてきてしまう。
――アルダーさんが君に届け物するの! だから君は向こうに居なきゃなのっ」
「はてなおんぱれぇど」
「むむぅ。だぁかぁらぁ――っ!」



 暫く無意味な押し問答が続く。するとヴァーチャーさんは僕の目を覆っているゴーグルの存在に気付くと、にやりとほくそ笑んだのだった。
「……ああ、君、あの郵便屋のストーカーのコカトリスか」
「人聞きの悪いこと言うなッ。ボクは只アルダーさんのことを誰よりも想ってるだけだよ!」
「冗談や。でも行き成りわけ判らんこと言われて、正直頭の中がアルテマウェポンやったで」
 その表現の方が意味判らないけど、無難にスルーしよう。
「と、兎に角! アルダーさんが向こうに行っちゃったから、急いで戻って!」
「……若干、無茶言いよんな。なんで俺が郵便屋に合わせないとあかん訳?」
「アルダーさんが、困るっ!」
「君にとってはその理屈こそが全てやろうけど、同じように俺が動くと思うのか?」
 呆れ気味にそう言い放たれる。
 この人、性格悪い。アルダーさんを困らせる奴は、皆悪い奴だ。けれど、今はこの人に行ってもらわなければならない。ボクは必死に頼み込む。

「お願いっ。アルダーさんは、キチンと君に思いが届けられるのを願って走ってるのっ。だから、アルダーさんから手紙を受け取って!」
「………」
 するとヴァーチャーさんは溜息を一つ漏らした。
「知るか。そんなことより、君がアルダーの所に行って、俺がこっちに居ることを教えてやればいいやろ」
「むぅ。……そんなの……無理だよぅ……」
 無理。そう、無理なのだ。今からアルダーさんに追い付くことは絶対に不可能。特に、ボクの足が速くならない限り、向こうに行っても走り続けて必死に人を探しているであろうアルダーさんに追い着くことは出来ない。
 だけども、目の前に居るこの男の人は、僕のことを何でも知っているかのような深い色の瞳で、ボクを見下ろすのだった。
――無理? 違うな。それは諦める言い訳や」
「……え」
「追い掛けられない、追い着けない。それは、諦める良い言い訳。特に、自分の愛に対しては、最低の裏切りやな」
「そ、そんなことっ」
「否定するか。今この一時彼に追い着けたとしても、これ以降一緒に居られるわけじゃない。この一瞬だけ、神様の気まぐれで足が速くなったとしても、それ以降彼と一緒に居られるかどうかは判らない。だから――この一瞬ですら愛に忠実ではない」
 淡々とそう語りながら、ボクの周りを歩く。なんだか自分が何処まで行ってもダメなコカトリスに思えて来てしまう。悔しい。涙が溢れて来た。

「君は魔物やろう。本能のままに、我を通してみたいとは思わんのか」
「……おもう」
「アルダーが、好き?」
「……うん」
「……アルダーと、一緒にいたい?」
「……うん――っ」
 催眠術に掛ったかのようにボクは頷く。けれど、間違いなくそれはボクの本心。それを自己満足みたいに引き出したヴァーチャーさんは、ほくそ笑んだ。
「なら、送って行ってやろう」
 その瞬間、ボクの足元に紋章陣が浮かぶ。
 まさか、詠唱もなしにボクを転送するつもりなのだろうか。
「ま、待ってっ。ボク、アルダーさんに会って、どうすればいいの!?」
「そこまで面倒みきれんわ」
 ヴァーチャーさんは最後の最後までボクを小馬鹿にするように言う。そしてその後、意地の悪い表情をしてみせた。
「やけど、魔物なら魔物らしく、と謂う事だけ」
 唇に指を添えてそう言った言葉を、ボクは最後にしっかりと聞いた。目の前が白くなり、視界が全て光に包み込まれたのだった。
 


――――――――――



 ペトロシカは今頃アルダーがヴァーチャーを見付けるべくして走り回っていると推測していたが、実際彼は呆然と立ち尽くしているのみだった。彼の前では、ペトロシカに教えてもらった坑道が崩れ落ちて煙を吐いている。確かに、行きしなに危険な香りはしていたのだが。
「……はぁ」
 余りのタイミングの悪さ。国境を越えるには手続きが必要だ。これでは宛先が他の国に移ってしまっていてもおかしくはない。今更走っていても仕方ない。だからアルダーは呆然と、土埃の舞う坑道の前に立ち尽くしているのだ。腰に手を当てて時間を潰してみれども、坑道の中の灰色の土は吐き出され続けている。土埃を吸い込むのを嫌がって、少し距離をとった。
 彼が呆然と脱力していた、そんなところへ、ここには居ない筈の声が響く。

「アルダーさん」
 名を呼ばれた彼は、一瞬空耳でも聞いたかというようなリアクションを取る。視線を向けた先には、確かに彼女が――ゴーグルを着けたペトロシカの姿があるのを認め、驚きの表情を見せる。
「ペトロ、シカ」
「あー。折角の近道、崩れちゃっていたんだね……げふんげふんっ」
 翼を後ろに組んで崩れた坑道の中を見遣り、灰色の埃で咽た。アルダーは露骨に心配する素振りを見せる。
「大丈夫、か?」
「けほっ。へ、へーき」
 そう答えながらも、ペトロシカは内心ヴァーチャーの言葉の意味を悟った。彼は本当に全て判って口にしていた、のかもしれない。あの言葉は全て盲目的な偽善ではなかったと。なぜならアルダーが此処で立ち止まっているからだ。
 ペトロシカが諦めずに走っていれば、追い着けていたのだ。足が速くなるだとか、ワープだとか、そんな大袈裟な奇跡は必要なかった。ただ諦めずに走れば、必ず追い着いてはいたのだと、この瞬間に思い知る。
 奇跡とは呼ぶには稚拙だが、それでも。
「……ありがと、ヴァーチャーさん」
「?」
 ペトロシカは幸せだった。もう、追い着けさえすれば迷うことはない。
 魔物は、魔物らしくあれ。その台詞をもう一度、自身の頭の中に響かせる。そして行ったことといえば、徐にゴーグルを外し、茂みの中に蹴り飛ばすことだった。

「……ペトロ、シカ……?」
 アルダーは最初わけがわからなかった。そのゴーグルがなければ、ペトロシカはコカトリスとしての力を取り戻し、フェロモンを放出しはじめる。
 アルダーはそこで気付いた。ペトロシカの目が、昨晩自分に向けたもの以上に本気だと。そして昨晩歯止めをかけた彼女自身の臆病さや迷いが、今になって消え去っていることを。
 気付けば、周囲には甘い匂いが立ちこめ、自身の陰茎に血が溜まり始めていた。だが、理性を失って襲い掛かる前に、ペトロシカの方からアルダーの体を抱き締めたのだった。
「アルダーさん。ボク、気付いたよ」
「……?」
「ボクはすっごく臆病な子なんだけどね? 好きな人を手に入れる為だったら……その人の誇りとかを奪えるぐらいに、悪い子になれるの……」
 ちゅ――と、文字通り奪うようなキス。
「……ペトロ……シカ?」
「ボクはアルダーさんのモノだけど……アルダーさんはボクだけのモノなんだから、ねっ?」
 アルダーは、その吸い込まれていきそうな空色の瞳に、最早抗うことなど出来なくなる。
「それにねぇ、そもそもボクが追い掛けるんじゃないんだよ? アルダーさんが、ボクを追い掛けなくちゃいけないの。……わかった……?」
 石化の息苦しさの中、アルダーの頭になにかが崩れる音が響いた。



――――――――――



 アルダー達の居る場所の向こう側では、ゲーテとソニアが崩れ果てた坑道を前にして、呆然と立ち尽くしているのだった。
「……崩れたな」
「……崩れましたね」
「……。因みに、奴の魔力はどちらの方向にある?」
「……ステベック側ですね」
「………」
「………」
 沈黙を破る、ゲーテの深い溜息。
「はぁぁ……。結局、国境を伝わねばならんか」
「……ところで、途中で出会った郵便屋ですが」
 ゲーテは自分達に情報を与えたあのカップルのことを思い出して、眉間に皺を寄せる。殆どこの状況を彼らの所為にするように、ぶっきらぼうに返す。
「なんだっ」
「礼の一つでも言っておかなくて宜しいのですか?」
「なぜ」
「あの郵便屋は彼女からの手紙を捨てずにずっと持っています。でも、あの方はそれを受け取りはしないからです」
「ならなおさら、俺が礼を言う必要はない。然るべき人物がキチンと礼を支払っていたではないか」
「……あのゴーグルはそういう意味で」
「ああ。……まだそこに居るか? ――ヴァーチャー」



――――――――――



「ああ」
 町の出入り口を象徴する門の上で一人、ステベックに上る朝日を見詰めて、恍惚とした表情を浮かべる男。
「……ここ、どこだっけ?」
 周囲を見回す。彼の手にはナイフが光り、それを自身の首へと宛がい、すっと腕を引く。傷がつくことのないぎりぎりの力加減で、刃が肌を滑る。男は愉悦に浸る。
「愛はかくも儚き。命もまた、軽いもの」
 そう呟くと、男は朝の光に変わるように消え去った。



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【メモ-人物】
“ペトロシカ”-1

足が遅めのボクっ娘コカトリス。今はゴーグルと黄色いスカーフがトレードマーク。
なんやかんやあったが、結局アルダーは郵便屋を続け、彼女は彼に肩車してもらいながらスピードの向こう側を体感している。

臆病だが嫉妬深く、独占欲が強い。配達先が美女だった場合、アルダーは暫く石化監禁され、みっちり誰が誰のものかをそのあどけない肢体で教え込まれる。
ヤンデレ疑惑。

唐揚げが好物だが、何の肉かは誰も教えてくれない優しさの中で幸せに過ごしている。

09/12/25 23:57 Vutur

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