どうして欲しいの?

「ふざけないで」
「ふざけてない」
「ふざけてる。その質問自体が」
「ふざけてない。真剣に聞いてる」
「馬鹿」
「重々承知してる」
朝から居間で繰り広げられる夫婦の静かなる舌戦。それを朝食の準備など忘れ、固唾を飲んで見守っていたコカトリスが隣に立つ少年の袖を小さく引っ張る。
「だ、旦那さま…と、止めた方が良いのでは…?」
「な、何を言ってるのだ…!?ぼ、僕に死にに行けと言うのか…!」
「でも、止めないとさすがに…!」
心優しいコカトリスの瞳には涙が溢れ、小心者の少年の額には冷や汗が溢れ出す。
妻の言い分も分かる。これ以上いけば一日冷戦の再来になってしまう気さえする。しかし、少年の口はガチガチと歯をぶつけるばかりで、二人を静止させる様な一声はなかなか出てこなかった。
「…帰る」
「家はここじゃないの?」
「あたしの本当の家は…」
怪訝そうな表情を浮かべる男にスキュラはおもむろに立ち上がると、玄関の扉を勢いよく開けた。
外には石畳の緩やかな坂道がなり、その左右にはカラフルな住宅が立ち並んでいる。そして、奥には数多くの帆船が停まる港町と朝日に照らされて輝く海が広がっていた。
「海よ」
「…広いシェアハウスだね」
嫌味っぽさなく告げる男に、誇らしげに胸を張っていたスキュラは盛大な舌打ちを放って出て行った。







「おい、兄ちゃん!どうするんだよ!?義姉ちゃん出て行っちゃったよ!?」
扉が閉じると同時に、綺麗な金髪を揺らし、濃い緑の双眸と、十五歳しては幼さの抜け切らない少年顔を近づけたのは弟のツァックだった。
「キュラの家は海らしい。むしろ、帰ったというべきだ、ツァック」
「ん?…そうか、義姉ちゃんは家に帰ったのか!…ん?じゃあ、この家はなんなんだ?」
ツァックと同じ金色の髪に赤い瞳を持ち、弟とは対照的に大人びた雰囲気の兄、ヨシュカが静かに間違いを訂正すると、ツァックは顎に手を当て、本気で悩み始める。
「だ、旦那さま…そうじゃないです…」
そんな兄の訂正を間に受け、本気で考えこむ、どこか抜けている夫を見てため息を吐いたのは、コカトリスのコトだった。
兄に上手いこと話を逸らされてしまった夫の代わりに今度はコトがヨシュカに恐る恐る尋ねた。
「キュラお義姉さんのこと、追わなくて良いんですか…?」
「…ごめん、もう少し寝てくる」
「ヨシュカお義兄さん…」
すたすたとキュラを追うこともなく自室へと帰っていく義理の兄を、コトは呆然と見つめることしか出来なかった。
今まで二人が喧嘩することは何度もあった。今回のようにキュラが海に出て行ってしまったこともあるし、ヨシュカが自室から出て来ないこともあった。
いくら毎度仲直りをするといっても、それでも二人が喧嘩している姿を優しいコトは見ていたくなかった。ましてや、今回のように将来についてのことなら尚更だった。
「う〜ん、分からない…義姉ちゃんにとってこの家は…?あれ?兄ちゃんは?」
「部屋に戻ってしまいました…」
「兄ちゃんめ!もう六時なのに、二度寝する気か!?」
「五時起きの旦那さまと私が早すぎる気もするですが…。でも、キュラお義姉さんのことはどうしましょう…?」
「えっ、義姉ちゃんは家に帰ったんだろ?」
「まだ言ってるんですか…」
呆れてため息を吐くコトをツァックは不思議そうに見つめる。今まではそんな素直さが可愛いとも思っていたが、素直過ぎるというのもやはり毒な気がしてきた。
そもそも兄弟の筈なのに何故こうも対照的な性格をしているのだろう。片や天然で素直な天真爛漫なのに対して、片や冷静沈着かつ無口で無愛想。
「お互いに爪の垢を煎じて飲めば良いん感じになりそうですが…」
「えっ?何を飲めば体に良いんだ?」
「な、何でも無いです…!」
目を輝かせて尋ねてくるツァックに慌ててコトは首を振った。この人ならば本気でやりかねない。
「そっか。でも、う〜ん、義姉ちゃんと会えないのはやっぱり寂しいな…。よし!海からこっちの家に引っ越し出来るように引っ越しの手伝いをしてくる!」
「えっ、ええっ!?」
なははは、と独特な笑い声をあげて、外へと飛び出していくツァックを、コトはあまりの驚きと呆れによって止めることも出来なかった。追いかけようかとも思ったが、コカトリスである自分自身に追いついてしまうような、俊足の彼には到底追いつけないことは結婚する前から知っている。
「どうかキュラお義姉さんがまだ道を歩いていますように…!」
コトにはただ彼が水の中に飛び込まないのを祈ることしか出来なかった。

十分後、キュラがびしょびしょに濡れたツァックを担いで帰って来た。
彼はカナヅチなのだ。







ずぶ濡れのツァックを風呂に入れた後、別のパジャマに着替えさせ、ソファに寝かせると、コトとキュラは二人だけで朝食を食べ始めた。
「ヨシュカは?」
「ヨシュカお義兄さんはまた一眠りしてくるそうです。…あの、旦那さまを助けていただきありがとうございました」
「別にお礼を言う必要もないわよ。家族なんだもん、当然でしょ?」
「そう、ですね」
あんな喧嘩をした後でも、キュラが自分たちのことを家族と言ってくれることにコトは安心した。また、絶縁まではしないまでも、当分は口を聞いてくれないかもしれないと不安に思っていた、そんなキュラの心の広さを疑った自分を恥じた。
「ん、ご馳走様でした。じゃあ、あたしはこれで…」
「…本当に出て行っちゃうんですか?」
食器を運んでいたコトが不安げな顔を向けると、キュラは苦笑いを浮かべ、その白銀の髪を優しく撫でた。
「まさか。夜くらいには帰るわよ。お互い、今は少し頭を冷やした方が良いから」
「でも…」
「大丈夫よ、コトちゃん。あなたとツァックが首を突っ込まなくても、何とかなるから、ね?」
「…はい」
浮かない表情ながらも、しっかりと頷いてくれる可愛い義妹を優しく抱きしめると、あの馬鹿二人をお願いね、とだけ告げ、キュラはまた出て行ってしまった。
「旦那さまはどう思ってるのかな…?」
コトは閉まった扉から、ソファですやすやと眠る夫に視線を動かした。
ヨシュカとキュラの喧嘩の原因、それは決して他人事ではなかった。当たり前といえば当たり前のことだが、何故かと聞かれれば、何と答えて良いものか、酷く悩む必要がある事柄だ。
性格はまるで似ていないとはいえ、それでも兄弟。ツァックもまたヨシュカ同様に理由を求めるのだろうか。
そんな不安がコトのお腹を痛ませた。








二十分ほど浅い眠りについても気分は優れなかった。そもそも自覚的に気分が良かった事などないし、弟の言う絶好調というものがどんなものなのか理解する気もなかった。
ヨシュカは体を起こし、カーテンを少し開ける。
朝日はまだ東の空で眩しく輝いている。夏が終わり、涼しくなるにつれて、日の出もだいぶ遅くなってきている。できれば、その日差しも和らげてくれるとありがたいのだが。
充分に太陽の光を浴びると、カーテンを全開にし、ヨシュカは眠気などまるでない顔で居間へと降りていった。
「あっ、おはようございます」
「遅いぞ、兄ちゃん!僕がせっかく待っていたのに、兄ちゃんが遅いから食べ始めちゃったぞ!」
「あぁ、悪かった。だから、黙って食べろ」
ポロポロと口から物を零しながら喋るツァックを注意し、気を利かせてご飯を盛り付けてくれたコトに礼を言うと、ヨシュカも二人と向かい合うように座った。
「兄ちゃん、兄ちゃん!今日は仕事もお休みだろ?じゃあさ、一緒に義姉ちゃんの引越しの手伝いをするぞ!」
「あぁ、そうだな…」
ツァックの無意識的ボケへ気の無い返事を返しつつ、ヨシュカはちらりと横の席を見つめた。
最初に起きた時は用意されていた箸やお椀がないことから、キュラが朝ごはんを食べていったことが分かった。ほんの少し気持ちが楽になるが、根本的な解決にはなっていない。
それに、今回はキュラを連れ戻せば解決するという訳でもなかった。
きっとそれが分かっているのだろう。コトもまた不安げにヨシュカとツァックの顔を交互に見つめていた。

「…少し出てくる」
「ん?引越しの手伝いか?なら僕も一緒に…」
ソファで幸せそうにコトの膝枕を堪能していたツァックが慌てて頭を起こそうとするが、上着を羽織ったヨシュカは指一本でそれを制止した。
「いや、僕だけで良い。お前はコトと一緒にいろ。たまの休みだ、少しはコトを甘えさせてやれ」
「分かった!さぁ、コト、どんどん甘えて良いぞ!」
膝枕されたまま両手を伸ばし、ツァックはコトの両頬を包み込む。
「ヨシュカお義兄さん…!」
顔を真っ赤にして嬉しそうな悲鳴をあげるコトに軽く手を振り、ヨシュカは涼しい風が吹く外へと出掛けた。








さて、何処へ行ったものか…。
啖呵を切って出てきたは良いが、特に行く当てはなかった。
あの時は海でヨシュカの悪口でもひとりごちて、頭を冷やそうかとも思ったが、ツァックを助けた時に入った海の冷たさが沁み、すでに頭は十分に冷えていた。
プライドは高いのは自覚しているが、喧嘩の時は互いに頭を下げなかったことはない。片意地張って、本当に大切なものを失くしたくはない。
キュラは、朝早くにも関わらず楽しそうに前を歩く人間と魔物娘の家族であろう三人を、微笑みを浮かべて見つめた。
あたしたちもあんな風になれたらな…。
ふと、前を歩く家族が自分とヨシュカ、そしてまだ見ぬ我が子に置き換わった。三人で仲良く手を繋いで一緒に出かけて、買い物をして、そして、そして…。
でも、そのイメージはすぐに消え去った。
「難しい、かな…」
「何が難しいの?」
足を止め、お腹を摩るキュラの肩が不意に叩かれた。
「クラ…!」
「はぁ〜い、キュラちゃん。こんな時間に珍しいのね?」
キュラが振り返ると、そこには柔和な表情を浮かべたクラーケンのクラが両手はもちろん、複数の足に荷物を持ちながら立っていた。
「またヨシュカちゃんと喧嘩でもしたの?」
「べ、別に、関係ないでしょ…」
「それも、そうね…。ねぇ、キュラちゃん。もし暇なら、お店に来ない?ちょっと新しい料理の味見をして欲しいんだけど…」
「…それって毒味って言うんじゃないの?」
ため息混じりに尋ねるキュラの背中を、そんなことないわよ〜、と屈託のない笑顔でクラは押して行く。
しょうがない、とは口で言いつつも、キュラはクラに感謝していた。
何となくまた喧嘩したとは言いづらい自分に、何かを咎めたり、根掘り葉掘り聞いたりせず、彼女はいつも居場所を作ってくれる。
ありがとう、とも言いづらいキュラはクラから荷物を強引に引っ手繰った。







そもそもキュラを探すつもりはなかった、と言うと語弊があるかもしれないが、キュラがいるであろう場所は大方察しがついていた。そのため躍起になって探そうという気はなかった。
それ故だろう、こんな街はずれの浜にやって来たのは。
涼しいとはいえ、まだ寒くはないためか、浜には何組かの子連れの家族やカップルが来ていた。そんな彼らをぼんやりと見つめていると、一人の男が近づいて来た。
「よっ、ヨシュカ。どうしたんだ、一人でこんな場所に?」
「…特に用事はない」
素っ気ない返事を返すとヨシュカの同僚は苦笑いを浮かべた。
「そうかい…。だが、キュラが居ないところを見ると、また喧嘩でもしたな?」
「…僕たちはそんなに仲が悪そうか?」
「まさか、逆だよ。いつも仲良く手を繋いでるところを見るからだよ。だから、一人で歩いてれば、喧嘩かなって思うわけ」
「…」
誤解しないでくれよ、と同僚は微笑む。
仲が悪そうと笑われるよりはマシだが、それでも、一緒にいないだけで第一に喧嘩が疑われるのは何とも言えない気分だ。
ヨシュカは視線を男から外し、波打ち際付近で遊ぶ男の家族たちに視線を移した。
「仲良く手を繋いでいるのは弟たちだ」
「ツァックとコトちゃんか?あれは夫婦っていうより、親子に見えるな。ツァックが迷子にならないようにコトちゃんがしっかり手を繋いでるように見えるよ」
「そうか…」
「…何かあったのか?」
「いや…。一つ聞いてもいいか?」
「答えられることなら何でも」
戯けるように両手を広げる男にヨシュカは再び鋭い目つきを向けた。
「何故子を育てる?」








ヨシュカの放った一言は忘れられない。
不思議そうな顔で尋ねるのなら、まだ冗談交じりに返せたかもしれない。だが、隠しても隠しきれぬ嫌悪感の浮かぶ彼の顔に無性に腹が立ち、売り言葉に買い言葉の応酬が始まった。
「どうしてあんなことを聞いたのかな…?」
約束通り出された試作段階の料理を食べながら、クラに喧嘩の全貌を明らかにした最後、キュラは遠い目をしつつポツリと呟いた。
「どうして子供を育てるのか…。難しい質問ね…」
「子供を産むことだって、育てる理由だって、考えたこともなかった…」
「そうねぇ…。私も考えたことなんかなかったわ。結婚して、その内に子供が出来て、温かい家庭を持てれば良いな、って思ってたけど…」
「ヨシュカは違うのかな…?」
キュラの脳裏にヨシュカの顔が浮かぶ。しかし、その顔はいつもの無愛想なものではなく、今朝、喧嘩の発端となった一言を発した時の顔だった。
あの時は無性に腹が立ったが、今は無性に切なかった。
ヨシュカは子供を望んでいない。なら、自分のことはどう思っているのだろうか?
魔物娘がパートナーとの子作りを望むのは本能からだ。その本能を拒まれては、自分に立つ瀬は無い。
急にキュラの背筋に悪寒が走る。
あれは遠回しなヨシュカの拒絶だったのではないか…。
「…そっか、ヨシュカはあたしのこと、嫌いになったんだ…」
「キュラちゃん…。そんなことは…」
「あるよ…きっとそうだよ…。だって、あたし…」
「はぁ…。先に謝るわ、ヨシュカちゃん。ごめんなさい」
本来の臆病で小心者のキュラが表に出てくると、クラはヨシュカへの謝罪を述べてから、頭を抱える友人を優しく抱きしめた。
「クラ…?」
「キュラちゃん、よく聞いてね。ヨシュカちゃんがあんなことを聞いた理由はきっとね…」










ツァックとコトは二人の仲直りの為にご馳走を用意していた。
美味しい物を食べればきっと機嫌も良くなるはずだ。そう提案したのはコトなのだが、張り切りを見せたのはむしろツァックの方だった。
兄ちゃんも義姉ちゃんも…、と頬を膨らませ、なかなか帰ってこない二人にぶつぶつと文句を言いながらも、気づけば鼻歌を歌って料理を手伝ってくれていた。
ただ、張り切り過ぎたせいだろう。
「…痛みますか?」
「うん…」
包丁で切ってしまった左手の人差し指を消毒し、絆創膏を貼る。傷は浅くはないが、コトの適切な処置のおかげか出血はそこまで酷くはない。
「すみません…」
「ん?どうしてコトが謝るんだ?コトは全然悪く…」
“ごめんね、全部僕が悪いんだ…。ツァックは悪くなんかないよ”
そこまで言いかけて、ツァックは口を噤んだ。
「…?どうかしましたか?」
消毒液などを片付け、ソファに戻ってきたコトが不思議そうに首を傾げた。
「…昔、兄ちゃんも、今のコトみたいにずっと謝ってたような気がして…」
「何かあったんですか?喧嘩…とか?」
ツァックは首を横に振る。だが、それは否定の意味ではなかった。
「分からない…。よく憶えてなくて、ただ兄ちゃんの口癖がそんなだった気がしただけ…」
「ヨシュカお義兄さんが…」
コトにはいまいち信じられなかった。ヨシュカが謝罪も出来ない頑固者だと言うわけではないが、それでも無愛想ながら堂々としていて、自分の様に意見などすぐさま翻して、事勿れな道を選ぶような臆病者には見えなかった。
「そういえば、旦那様とヨシュカお義兄さんは小さい頃、どんな感じだったのですか?」
ヨシュカのちょっと意外な過去を知ったついでに、コトが何気なく尋ねると、ツァックは遠い目をして、切った指に巻かれた絆創膏を見つめた。
「よく分からない…。気がついたら、兄ちゃんと二人だけここに暮らしてた」
「親御さんとかは…?」
「知らない…。十年以上前から兄ちゃんと二人っきり…」
「…」
何気なくこの話題を振ってしまったことにコトは深く後悔した。こんな夫の寂しそうな顔は見たことがなかった。
なんと答えて良いか分からず、言葉を探していると、ツァックはゆっくりと立ち上がり、キッチンへと戻って行く。黙ってコトもそれに続いた。

「でも、不思議だね…」
料理もあらかた作り終わり、最後にケーキへのデコレーションをしていた時、ツァックはぽつりと呟いた。
「…何がですか?」
先ほどのことを未だに後悔していたコトは、話を可能な限り膨らませぬよう気をつけながら、おずおずと尋ねる。
「兄ちゃんが口癖みたいに謝ってた気はするのに、兄ちゃんが本当に謝ってるところを見たのは数回なんだよ」
「…?」
ツァックが言わんとするところが、いまいち分からなかった。前から多少、つい首を傾げたくなるような言動をとることはあったが、今回もそうだった。
口癖だった気がするのに、実際に謝っているところを見たのは数回程度。
夫の記憶違いか、あるいは夢で見たことなのか。嘘である可能性は低かった。彼が嘘をつけない性分であることは妻であるコトがよく知っていた。
「…それは確かに不思議、ですね」
本当は適当な返事を返したくはなかったが、先ほどの寂しげな夫の顔を見たくはなかったコトは、無理やり作った笑顔で無難な返事を返した。
そんな笑顔につられたのか、ツァックもいつもの明るげな優しい微笑みを浮かべた。
「でしょ?だって今の兄ちゃんは謝るどころか、話もあんまりしてくれないし。弟の僕がせっかく笑わせようと思っても、いっつも全然笑わないし。じゃあ、僕のあのイメージは何なんだって話だよ…!」
「ははは…」
ぷんぷんといつもの調子で文句を言うツァックを横顔を見て、コトは苦笑いを浮かべた。
やはり、この人とあの人は兄弟だ。
先ほどまで漂っていた、隣に立つのが嫌になるほどの威圧感というか圧迫感は、ヨシュカが苛立っている時のものによく似ている。雰囲気だけならば、下手をすれば間違えてしまうかもしれない。
だが、決して同一人物ではない。
この明るさや快活さはヨシュカにはない。
…いや、本当はヨシュカも素直で明るい性格だったのかもしれない。ツァックが言っていたイメージ、それはもしかしたら、ツァックさえも憶えていないほど小さい頃のヨシュカの本当の姿なのかもしれない。
コトはちらりとツァックの表情を伺った。
小さい子の様に目をキラキラと輝かせ、楽しそうな雰囲気を微塵も隠すことはない。きっと、ヨシュカも本当こんな顔を出来るのかもしれない。








自然と出来た、欲しかったから、本能から、きっとどれも正しい。だが、同時にそれら全て親のエゴだ。
そのことを告げると、男は苦笑しながら、今度は子供の良さを語った。
子供のこんなところが可愛い、居てくれるだけで元気が出る、自分の命よりも大切な存在だ、と。
挙げ句の果てに、出来れば分かると肩を叩いて帰って行った。

海に日が沈みかけた頃、心地良かった風は次第に骨身に沁みるような寒風へと変わり、誰かしらの声が響いていた浜には、波の打ちつける音だけが静かに木霊していた。
そんな中、ぽつんと一人、ヨシュカは波打ち際に腰を下ろしていた。
「ヨシュカ…」
名を呼んでも振り返ることはなかった。怒っている訳ではないのは雰囲気で分かったが、近づくのは何となく躊躇われた。
それは今朝の喧嘩のこともあったが、何よりも、弟にさえ打ち明けられずにいるような辛い夫の過去を知った今、どんな顔で向き合って良いかキュラには分からなかった。
「…朝は、ごめんね。無理言ったりして…。正直、あたしの我儘だった。そろそろ子供が欲しい、なんて…」
「…」
ヨシュカは何も答えなかった。身動ぎ一つせず、キュラの言葉をしっかりと聞いている。
誠意があるかは分からない。だが、ヨシュカには自分の意見を言うよりも他者の意見を先に聞くことが大事だと考える節があった。そして、そのことはキュラも重々承知してくれている。
「でも、いつかは欲しいって思ってる。どうして欲しいかは…今は…ううん、たぶん生まれてからも上手く言えないと思うけど…」
それではあいつと何も違わない。反射的に喉元まで一気に這い上がってきた言葉を、ぐっとヨシュカは呑み込んだ。
違う。キュラはあいつとは絶対に違う。
むしろ、あいつと同じなのは…。
「だから、一緒に考えよう…?ヨシュカも納得できる理由。…それが見つかるまでは、あたしももう絶対…子供が欲しいなんて言わないから…」
その後の言葉は上手く聞き取ることが出来なかった。涙ぐみ、嗚咽交じりの声で言われても分かろうはずもない。もっとも、伝えたかったことはおそらくもうないだろうし、キュラの想いは十分に伝わった。
「ヨシュカ…!?」
不意に近づいてきたヨシュカの意外な行動にキュラは狼狽えた。だが、そんな妻の様子など気にすることなく、ヨシュカは羽織らせた自身の上着ごとキュラを抱きしめる。
「寒くない?」
「う、うん…。大丈夫…」
「そっか…。朝はごめん。考える必要もない質問を浴びせて、不愉快な思いさせて…。本当にごめん…」
「ううん、大丈夫…。ねぇ、ヨシュカ…。ヨシュカは子供が嫌い…?」
「いや、そんなことはないと思うが…」
「そう…。なら、親が嫌いなの…?」
背中に回らされた温かい腕がぶるりと震えるのを感じた。
これ以上追求することはヨシュカの決して癒えることのない古傷を抉ることとなる。だが、キュラはそれを承知の上で、次第に息が荒くなるヨシュカを逃すまいと強く抱きしめた。
「ごめんね、ヨシュカ…。クラからあなたの過去のことを聞いたの。あなたがツァックを連れてこの街に来た時のことを…。…どうして、お父さんの元から逃げ出したの?」
「…!」
その瞬間、全身から力が抜けた。
「ヨシュカ!?」
操り人形から糸がプツリと切れるように脱力するヨシュカを、キュラはなんとか踏ん張り、膝立ちの様な格好で抱きとめた。
大丈夫か、そう聞こうと、体を少し離したキュラの目に映ったのは、歯をがちがちと言わせ、何もないはずの虚空を涙一杯に溜めた虚ろな瞳で見つめるヨシュカだった。
「ヨ、ヨシュカ…?」
「ひっ…!ごめなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!全部僕が悪いんです!僕は出来損ないです!僕は屑です!僕はゴミです!だから、何度も殴ってください!傷つけてください!」
ヨシュカは懇願すると、再び、ごめんなさい、ごめんなさいと叫びながら、両頬に爪を立てる。
苦悶の表情を浮かべつつも欠かさずに謝り続けるヨシュカの頬から血が流れ始めると、あまりの豹変ぶりに度肝を抜かれていたキュラも気を取り直し、慌ててその手首を掴んで引き離した。
「ヨシュカ!落ち着いて!」
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」
両手の爪は真っ赤に染まり、頬からは鮮血がだらだらと流れる。それでもヨシュカはひたすらに謝り続けた。
まるで何かに怯える子犬の様だった。
クラは十年以上前のヨシュカのことをそう言い表している。
しきりに周囲を見渡し、時に牙を向けども、それは恐怖心からの自衛、自分と唯一の家族である弟を守るため。決して人を害そうという意思は感じられなかったという。
全く、相変わらず何でも知っていて、見通しているクラにキュラは小さく苦笑した。
ただ、そんなクラでさえヨシュカの心の傷を癒すことは出来なかった。だからこそ、未だこんな幼いヨシュカが存在している。
「ヨシュカ」
血に塗れた頬を優しく包みこみ、キュラは優しく呼びかける。一瞬、目を合わせたヨシュカだったが、すぐに顔を伏せ、途切れ途切れに謝り続けた。
「大丈夫だよ。あたしはヨシュカを傷つけたりなんかしないよ」
「…」
信じられないとばかりに、ヨシュカは小さく首を横に振るが、キュラは気にせず、頬から頭へと片手を移し、優しく撫でる。
「本当だよ。絶対にひどいことなんかしない。愛してるんだもの、当然でしょ?」
「キュラァ…!」
ぷるぷると小刻みに唇を震わせながら、ヨシュカはキュラに抱きついた。そして、堪えていたもの、耐え続けていたもの全てを吐き出す様に声を上げて泣き出した。
十八歳、まだまだ大人とは言えず、本来だったら両親と共に暮らしていても、さして違和感のない様な歳だ。
そうでなくとも、彼は人一倍の責任感と恐怖心に心を縛られ、幾度となく子供らしい感情を押し殺してきたはずだ。
「お疲れ様、よく頑張ったね…。偉いよ、ヨシュカ…」
そんなヨシュカをキュラは全身で優しく包み込んだ。








どうしてこんなことも出来ないんだ!?
父の口癖だ。だが、口癖にしてしまったのは自分に原因がある。
裕福な家庭ではなかったが、決して貧乏というわけでもなかった。母親がいないということだけを除けば、極めて普通な家庭だったと思う。
いや、思っていた。学校に通うまでは。
学校に通う歳になってからのことは良く覚えている。毎日帰って来ては、父に殴られ、罵声を浴びせられていたのが要因だろう。
父はとにかく完璧主義だった。自分が出来ているかどうかは別にして、他者にも完璧さを求める。その上、右に倣えな気質があり、どこどこの家の子はこんなことをしているらしい、だからお前もやれ。そう言って、毎日のように仕事を増やされていった。
そして、たとえそれが初めてやることであっても、完璧に出来なければ拳が飛んできた。
最初の内はそれで泣いていたような気もする。しかし、心や頭は次第に学習していき、泣いても止めてもらえないなら、泣く意味はないと、自然と泣くようなことは無くなっていった。
代わりに、ただただ無心で謝り続け、父の機嫌が収まるのを待つようになっていた。
だが、時々そんな反応の面白くない自分にさらに苛立つのだろう、弟に手を出すことがあった。
それだけは許せなかった。
必死でその手にしがみつき、自分を殴られ、自分を傷つけろ、と叫び続け、言った通りに何度も殴られた。
その頃からだろうか…。逃げようと思い始めたのは。

「それでツァックを連れて、ここまで逃げてきた…?」
「うん…」
ありったけの涙を流し、心の中が少しだけすっきりしたヨシュカは、普段の落ち着きを取り戻しつつも、キュラの胸に顔を埋めたまま、自身の生い立ちを事細かに語った。
クラから聞いた話は、ヨシュカがこの街に来た後の話だ。少年心を殺し、多くの人間には狼のように心を許さずに生きてきた切ない時。
そんな時を過ごさなくてはならなくなった原因が、今少しづつ分かり始めてきた。
「でも、父の暴力が一番嫌だった訳じゃない…」
「えっ…?じゃあ、どうして…?」
てっきり父親からの虐待が原因だと思っていたキュラは驚きで目を丸くした。
「…一番嫌だったのは、父の希望通りに、完璧に物事をこなせない自分自身。それが一番嫌だった」
「…何でも完璧にこなせる人なんか、きっといないよ…」
「分かってる…。でも、せめて父が期待したことくらいは、完璧にこなしたかった…」
背中に回された腕の力が少し強まった気がした。
歪んでいる。こんなもの誰が見ても、歪んだ愛情だ。だが、息子であるヨシュカにとっては、そんな歪んだものでさえ、愛に変わりはなかったのかもしれない。
歪んだ愛情に必死で応えようとする彼の姿は滑稽だろうか。逃げ出してさえも、父を悪鬼の如く恨めない彼は愚かだろうか。
少なくとも、キュラには彼を嗤うことは出来なかった。
「ヨシュカは偉いよ。すごく偉いと思う。たとえ無理でも、何でも完璧にこなそうとする、その心意気がすごいよ」
「そう、かな…?」
「うん。ヨシュカは偉いよ」
「…ありがとう、キュラ」
険が取れ、冷たい雰囲気がほんのり温まった、柔らかな表情を浮かべるヨシュカにキュラの胸も少し高鳴る。
出来ることなら、このまま二人で手を繋いで家に帰りたい。しかし、まだ聞かなくてはならないことがある。
「…ヨシュカが子供を欲しがらないのは、そういう過去が原因?」
「…うん。子供が出来たら、僕も父の様になるんじゃないかって思うと、すごく怖い…」
やはりそうか…。悲しくもキュラの中で合点がいく。
優しい彼が最も危惧していたのは彼自身だったのだ。小さい頃から刷り込まれた虐待という日常。それが異常であることは頭で分かっていても、心と体は延々と刷り込まれた事実を覚えてしまっている。
そんな異常な日常を再び繰り返してしまうではないかと、自分自身を疑い、憎んでいるのではないだろうか。頬に爪を立てたのも、もしかしたら、強い自己否定の表れだったかもしれない。
「僕は卑怯者だ…。子供を欲しくない自分を正当化するために、答えなんかない子供を育てる理由を探させて…。せっかく答えてくれても親のエゴだって馬鹿にして…」
「…ねぇ、ヨシュカ」
項垂れるヨシュカの顔をキュラは少し無理矢理持ち上げる。綺麗な赤い瞳を潤ませながら、見つめ返してくる。
「何が一番怖い?」
「えっ…?」
何を聞かれているのか分からなかったらしく、ヨシュカは瞬きの回数を増やす。
「子供が出来ちゃうこと?それとも、子供に暴力を振るうかもしれないこと?」
「…ううん、多分僕が一番怖いのは、期待をかけること」
「…どうして?」
キュラはあえてその答えを聞く。想像出来ないことではないが、ヨシュカ自身に言わせることが重要だった。そして、それを否定することも。
「…父が暴力を振るう理由はいつも、僕が期待に応えられなかったから。だから、僕もきっと変な期待をかけて…」
「そんなことないよ」
泣きそうに顔を歪めるヨシュカにキュラはきっぱりと首を横に振り、優しく微笑んだ。
虐待を受けた子は我が子を虐待してしまう、そんな話を聞いたことがある。悲しいことではあるが、恐らくそれは事実だろう。だが、必ず全員がそうとは限らない。
中には、ヨシュカの様に自分自身を怖れ、そして、憎みながらも、温かな笑みを浮かべてくれる子だっているはずだ。
それに、もしも繰り返してしまっても、それを止めるのは家族や周囲者たちの役目ではないだろうか。
だって、彼らに元々罪などないのだから。
「そんなことない。ヨシュカは絶対そんなことしない。もし、しようとしたら、あたしが止める。こうやって今みたいに抱きしめて」
「…」
頬を包んでくれるキュラの手にヨシュカは手を伸ばす。
温かい…。
感じたことのない安心感に、また涙が溢れてくる。
「…信用出来ない?」
「ううん…。ありがとう、キュラ…」
「もう、泣かないでよ。あたしまで泣いちゃいそうだよ…」
瞳を潤ませながらキュラはヨシュカの涙を拭う。しかし、涙は止めどなく溢れ、キュラの手を伝い、地面へと落ちていく。
もう…。
キュラはヨシュカを引き寄せ、強く抱きしめた。
「キ、キュラ…!?」
「ん、苦しい…?」
「…ううん、すごく温かい…。キュラ?」
「何?」
「ありがとう…!」
「…夫婦なんだもん。当然でしょ?」
さらさらの金髪を撫でながら、キュラはさも当然そうに告げた。









「兄ちゃん、義姉ちゃん!遅いぞ!ご飯がとっくに冷めちゃったぞ!」
「お昼前からご飯炊いちゃえばそうもなりますよ…。旦那様…」
すっかり暗くなってしまった浜から手を繋いで帰った二人を、お腹を空かせたツァックとコトが出迎えた。
「あ、あぁ、ごめん…」
「ん?兄ちゃん…?」
素直に遅れたことを謝ったヨシュカにツァックはこれでもかと訝しげな顔を近づける。
「な、なんだよ…」
「兄ちゃん、ちょっと若返った?」
「は…?」
怪訝そうな顔をする兄をよそに、ツァックは何を閃いたのか、手の平を叩き、パッと明るい顔をする。
「そうか!兄ちゃんは若返りの温泉でも探してきたんだな!だから、そんなに目の周りを赤く腫らしてるんだな!」
「…っ!」
まさか疲れる程泣いたとは口が裂けても言えず、ヨシュカは手で目を覆いながら、洗面所へと駆けて行った。
「あっ、今頃隠したって無駄だぞ!待て〜兄ちゃん!」
「はぁ、旦那様…」
嫌味のつもりなのか、本当に気がついていないのか、ヨシュカの後を追いかけていくツァックにコトはため息を吐いた。普通はあれが涙の跡だと気づかないはずはないのだが。
「ふふ、相変わらずツァックは元気ね」
「すみません、ヨシュカお義兄さんの心中も察せなくて…」
「いいわよ。ヨシュカだって別に嫌って訳じゃないだろうし。泣いた後はそれを忘れるくらい笑えばいいのよ」
「…こんなこと、お二人にとって部外者である私が聞くべきことじゃないかもしれないんですが、朝の件は解決しましたか?」
コトが不安げな表情で尋ねると、キュラは真剣な表情で首を横に振った。
「完全に解決は、まだしてない…。たぶん、一生解決しないと思う…」
「そんな…!」
声を荒げてから、ハッとしたようにコトは口を覆った。
これはキュラとヨシュカの問題なのだ。二人がどんな話し合いをしようと、どんな結果に話がまとまろうと、それが二人の出した結論なら、部外者である自分が口を出すことではない。
「すみません…。私、関係ないのに…」
「…コトちゃん、ツァックとのことで心配してる?」
「…っ!」
驚きのあまりコトの小さな体がぶるりと震えた。
「ごめんなさい…!お二人とも御兄弟ですから、旦那様もそういう考えをお持ちかと思って…!本当にごめんなさい!」
「もぉ、あいつみたいに何度も謝らないの。でも、う〜ん…。こればっかりはお互いに腹を割って話してみるしかないと思うわ」
「話し合いですか…」
「…何か不安なことでもある?」
「もし、旦那様に子供はいらないって言われたら…。私、何て言えば良いか分からなくて…」
「あぁ、そっか…」
心底不安そうで、今にも倒れてしまいそうな程顔色の悪いコトを見て、キュラは妙に納得してしまった。
確かに、心優しいコトが朝の自分の様に、何も知らないとはいえ、夫に噛み付いて、喧嘩の末の話し合いまで持っていけるとは考えにくい。
もしも、ツァックもヨシュカ同様の悩みや不安を抱えていた場合、コトは何も聞かずに、夫の言うことだから、と自身の願いを殺して鵜呑みにしてしまうかもしれない。
それは恐らくコトにはもちろん、ツァックにも良いことではない。
「しょうがない、ここはお義姉さんが一肌脱ぎますか…!」
「えっ…?」
キュラは泣きそうな顔を向けるコトの頭を撫でながら、洗面所へと続くドアをノックし続けるツァックを呼んだ。
「ちょっと、ツァック!」
「ん〜?何、義姉ちゃん?」
「あんた、子供って欲しい?」
ボン、という音が聞こえてきそうな程、一瞬で顔が真っ赤になり、恥ずかしさからか、ぽかぽかと力なく叩いてくるコトを片手で抱きしめつつ、キュラは明日の天気でも聞くかの如く、気楽に尋ねる。
「子供?欲しい!欲しい!コトとの子なら何人でも欲しい!」
「ふふっ、そう。良かったわね。ちょうど、コトちゃんも子供が欲しいってさ」
「キュラさん…!」
少々ふざけ過ぎたか、キッと涙を溜めた瞳で睨んでくるコトにキュラは小さく舌を出した。そして、そんなコトをツァックに任せ、二人が作ってくれた夕飯を温め直した。









「寝れない…」
「焚きつけたのはキュラでしょ…?」
向かい部屋から聞こえてくる、いつもより数倍は激しい嬌声にヨシュカもキュラも苦笑した。
外は真っ暗だが時刻は既に三時、いくら日の出が遅くなったとはいえ、もう数時間もすれば東の空が白んでくる頃だろう。
今夜は一晩中かな、義弟夫婦の性生活に何の問題もないことを確認し、キュラは少しホッとする。
ツァックがどれくらい過去のことを覚えているかは分からないが、少なくとも子を持つことを気にしている様子はない。二つ返事で子供が欲しいと言った彼の言葉に嘘はないはずだ。
ただ、そんな素直なツァックがいるのも、身を呈して彼を守ったヨシュカが傍にいたおかげなのかもしれない。そう思うと、今日は抱き合っているが、毎日胎児の様に体を縮こめて眠っていたヨシュカが不憫だった。
「ねぇ、ヨシュカ…?」
「ん?」
胸に顔を埋めたままヨシュカは少し眠たげに返事をする。
「子供のこと、なんだけど…。無理しなくて良いからね?あたしならずっと待てるし…。それに、いざとなったら…」
子供を諦める覚悟がある。たったその一言を言うだけで、どれだけヨシュカの気持ちが楽になることか。
だが、言えなかった。
自分はどうしてこんなにも利己的で頑固なのだろう…。愛する人を想う様なことを言いつつも、本当は自分の望みを捨てきれない。
自分自身の情けなさに涙が出てきた。
「キュラ…?」
下唇を思い切り噛み、唇の震えは止められても、体の震えまでは止めることは出来なかった。それを不審に思ったのか、ヨシュカが上体を起こす。
「ごめん…。ごめんね、ヨシュカ…」
「…大丈夫だよ、キュラ。僕は大丈夫だから…」
キュラは恥ずかしさと情けなさから、顔を手で覆い隠す。そんなキュラの頭をヨシュカは優しく撫でた。少し小さくもとても温かい手だった。
「今すぐは、正直無理だけど、キュラの気持ちは十分伝わったから…。必ず、その想いに応えてみせるから」
「無理、しなくて良いんだよ…?」
顔を隠したまま、キュラは心配気に告げる。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。本当の愛を教えてくれるキュラの期待には絶対に応えるから…!」
「ヨシュカ…」
顔を覆っていた手を退けると、そこには照れ臭そうに頬を赤らめながらも、優しげに微笑むヨシュカがいた。

出来てしまった傷をなかったことにすることは出来ない。いくらないと思い込んでも、何かしらの拍子にその傷が疼く。
忘れないで、思い出して、置いていかないで、と過去の傷ついた自分が呼び止める。
どれほど長い時が過ぎようと、振り返る過去の幻影は、いつまでも生々しい。過去は、そうやって人を縛る。
だからこそ、傷を隠すのではなく、あえて傷を曝け出す。
嫌悪感や忌避感を感じる者たちもいるだろう。でも、受け入れてくれる者たちも必ずいる。
そんな者たちと共に、この傷を癒していきたい。
僕は、そう思っている。























とある早朝の浜辺。
顔を出し始めた太陽が見つけたのは、仲良く手を繋ぎながら波打ち際を歩く、六人の家族の影だった。自身が明る過ぎて、顔はよく見えない。
しばらくその家族の影を見つめていると、二つの小さな影がかけっこするように急に駆け出した。四人もそのあとを追いかけながら、二人の名を呼ぶ。
カトリ、ラキ。
名を呼ばれた小さな影たちは踵を返すと、それぞれの二つの影に抱きついた。



読んでいただきありがとうございました。
そのうちに、弟夫婦の話も書ければ良いなと思っています。
[エロ魔物娘図鑑・SS投稿所]
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33