読切小説
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涙の海と恋心
 白波を蹴立てて、私−小月七海の乗るミサイル艇は海原を進む。空を見上げると、どこまでも青い空が続いている。海沿いの町に生まれ、海を守る職業に憧れた私にとって、海上自衛官という職業は天職だ。
 腕時計を見るともうすぐ任務が終わり、基地へ帰投する時間だった。私は潮風を胸一杯に吸い込み、艇内へ戻った。

「小月、そこいいか?」
 基地に帰り、私が昼食を食べていると同期で、恋人の美佐島君が声をかけてきた。彼は入隊した時から、私によく話しかけてきてくれた。そして、私につき合ってほしいと言ってくれた。自分の気持ちを伝えることが下手で、素直になれなかった私にとって、そんな風に言ってくれる男性がいたことは本当に嬉しく、告白された日は嬉しくて眠れなかった。彼との時間と、誕生日に彼がプレゼントしてくれた腕時計は、私の宝物だ。
 そして、彼は基地内でも隠すこと無く、私に好意を向けて話しかける。それはなんだか嬉しいと同時に気恥ずかしく、こうして二人でいるところを他の人に見られることもどこか恥ずかしい。
「ええ、美佐島二士。どうぞ」
 その恥ずかしさを隠すために、声をかけてくれた嬉しさをできるだけ表に出さないように、素っ気なく言った私に、彼は苦笑する。
「おいおい、階級なんかより蓮太郎って名前で呼んでくれよ」
「ここは基地の中よ」
 睨んで言う私に、彼はくすくすと笑う。
「わかったよ。じゃあ、今日勤務がはねたら、どっか飲みに行かないか? そこでならいいだろ?」
「どうかしらね」
 言いながら、自分の頬が赤くなるのを感じる。こんなに胸がどきどきして、頭が熱くなるのは、きっと人前だからだけではないのだろう。
 考え込み、食事をする手が遅くなる私と違い、彼はさっさと食事を済ませてしまう。それに気がつき、私も慌てて食事を食べ始める。彼はそれも、にやにやと笑いながら見ている。
「……何よ」
「別に? 小月はかわいいなって思っただけだよ」
「だから、そういうことは基地の外でやってよ」
 私はますます赤くなるのを感じながら、そう言った。周りもなんだかくすくす笑ってるし、ますます恥ずかしくなる。そして、素直に好意を表せる(表しすぎているとも言えるが)彼が少しうらやましくなった。
* * *
「七海、あのレストランのパスタ、うまかったな」
「うん。また食べに行こう」
 私と蓮太郎君は夕食の後、町を散歩している。バーも兼ねたレストランで食事をして、お酒を飲んだせいか、なんだか気分がいい。私たちは体の火照りをさますように、ぶらぶらと歩く。気がつくと私たちは大通りを離れて、寂れた公園に来ていた。
「少し休んでいく?」
 そう尋ねた私に、彼は頷いた。私たちはブランコに座り、しばらくそのまま黙っていた。
「なあ、七海。明日さ、非番だったよな?」
「うん」
 私が頷くと、彼は一つ息を吐く。
「……あのさ。この後、俺の部屋に来ないか?」
「ん? いいけど、どうして?」
 彼は、何度か手をこまねかせ、深く深く息を吐いた。
「そのさ、俺たち、まだキスしかしたこと無いよな」
 どくん、と胸が跳ねる。
「俺、七海のいろんなところが好きだよ。自分を律して、立派な自衛官してるところとか。すぐ真っ赤になってもじもじしてるところとか、すごくかわいくてさ。海のことを話す時の綺麗な目も、さらさらの髪も、君の内も外も、すごく魅力的なんだ。だから俺、君のことをもっと知りたいんだ。その、話すだけじゃなくて、その……」
 彼は言葉を濁し、口ごもり、また開こうとする。いつもの彼らしくない姿と、きっとこれから彼が言うだろうことに、私の心はざわめく。気がつくと、私はブランコから立ち上がっていた。
「七海……」
 不安げに言う彼に目を合わせられないまま、私も口を開く。
「……ごめん、蓮太郎君。まだ、そんな気になれないの」
「どうして?」
 私をじっと見つめたまま、彼は私に尋ねる。その目に私を非難するような色は無く、私に拒否されたという悲しみと、疑問だけがあった。それが、私の胸を締め付ける。
「ごめん。怖いの」
 それだけ言うと、私はたまらなくなって歩き出す。彼はブランコに座り込んだまま、動こうとしない。公園の出口で、一度だけ振り向くとまだ彼は私の方を見ていた。胸を締め付ける、あの目を向けたまま。
「ごめんなさい……」
 私は小さくつぶやいて、公園を後にした。
                * * *
 ――ごめんなさい、怖いの。あなたと寝たら、もうこれまで通りの私たちじゃいられなくなりそうなの。
 どうして、きちんとそう言わなかったのだろう。どうして、彼にもっと自分のことを伝えようと、思えなかったのだろう。
 胸が痛い。頭が痛い。思考はぐるぐると回る。
 ――ごめんなさい、ごめんなさい。どうか、私のことを嫌いにならないで。これまで通りでいたかっただけなの。私のことをさらけ出すのが怖いの。もう少しだけ、待ってほしかったの……。
 都合のいい言い訳ばかりが浮かぶ。吐き気がする。思考は、ただぐるぐると回るばかりだった。
                * * *
 気がつくと私は、町はずれのあまり人が来ない砂浜に来ていた。ここも、彼と何度も来た思い出の場所。目の前に広がる海は、私の心のように黒くどんよりと濁っているように見えた。私は腰を下ろし、膝に額を押しつけて丸くなる。
 ――こんな時にも、私は海に来るんだなあ……。
 思い返すと、私は悩んだり心が曇ったりした時には、こうして海によく来ていた。私の臆病さも、消えてしまいたくなるような恥ずかしさも、不安も、悲しみも、何もかもを海は溶かしてくれるような気がした。泣きたくなった時には海に飛び込んで、自分の心の良くない物を全て海に溶かしてしまうのだ。故郷の海は、私の苦しみや悲しみ、不安を溶かした、涙の海だった。その故郷の海とつながっているこの海も、きっと私の涙が混じっているのだろう。
 ――泳ぎたいな……。
 私は立ち上がると、服を脱ぎ始める。上着も、スカートも、下着も全て。どうせ人が来ない場所だ。脱いだ服は岩陰に放り込んでおけば、盗られることは無いだろう。腕時計に気づき、外そうかとも思ったが、私はそれをしなかった。それをしては、本当に何かを失うような気がした。
 そして私は海へと飛び込み、波をかき分けて泳ぐ。私の耳に入るのは波の音だけ。私はただただ泳ぐ。ぼろぼろと涙をこぼしながら。こうして、また海は塩辛くなるのだ。私の涙を溶かして。悲しみを溶かして。
 心の中の濁りが、海水に溶けて広がっていく。いっそのこと、私自身もこのまま溶かして、消してほしかった。

 ――こちらへ……

「え?」
 不意にした声に、私は思わず声を上げた。
 ――こちらへおいで、私のかわいい娘……。
 その声は、海の中から聞こえていた。
 ――怖れないで、私の中へいらっしゃい……。
 いや、正確には海の底から聞こえていた。海の中を覗き込むと、暖かい光が深いところで輝いている。
 ――さあ、おいで……。
 行きたい、という抗いがたい欲求が沸き起こる。私の心の、一番深いところに響いてくる優しい声。私は深く、深く息を吸い込んで、その光へと潜り始める。
 光は私が思ったよりも深いところにあり、私の肺からはどんどん酸素が奪われていく。
 ――もう少し、もう少しよ!
 私はどんどん息を吐き出しながら、深く深く潜る。
 ――さあ、がんばって! あと少し!
 声はだんだんと大きくなって、私を導く。そして、ぼこっと音を立てて私の最後の息が吐き出された途端、私の視界は真っ白な光に包まれた。


 ――おかえりなさい、かわいいかわいい私の娘……。
「あなたは……?」
 私は聖母のように優しく微笑む女性に話しかけた。
 ――私は海神ポセイドン……。あなたを、人の心と人の理の苦しみから解き放ってあげましょう。さあ、私に身を委ねて……。
 神様の手が私を包んだ途端、私の体は火がついたように熱くなった。
「あ、あああ、ああぁぁぁぁっ!?」
 そして、荒波のような快感が私の体を駆け抜けていく。私の蜜壺からはこぽこぽと蜜があふれ出し、涙と唾液がこぼれる。
 ――怖れないで、何もかもその波に流してしまいなさい……。
「ふあ、ぅあ……! んあぁぁん……」
 神様の声が響く。私の心の脆いところが荒波に打ち砕かれ、波にさらわれて無くなっていく。
 ――さあ、あなたの一番大切な人のことだけを残して、全て溶かしてしまいなさい……。私はあなたの全てを受け入れます……。
「あうぅん! あぁ、あぁぁぁぁ……!」
 私の一番大事な人。私の愛しい人。私の、私の……。
「ああ、蓮太郎、蓮太郎! 愛してる! 私、あなたを愛してるの! 世界の誰より、大好き!」
 私が嫌いな私を受け入れ、誰よりも私を求めてくれた人。その人に、どうして私は自分の全てをさらけ出すことを恐れてしまったのだろう。軍人だから? 任務中は恋人同士ではいられないと、心に決めていたから? そうじゃない。私が臆病だったからだ。自分自身の誇るべきところを見つけられない、自分自身を認められない弱さが、彼を苦しめたんだ……。
 ――大丈夫。あなたは人の心から、解き放たれました。もう、あなたの心があなた自身を苦しめることも、彼を苦しめることはありません。あなたに必要なのは、あなたの全てを彼にさらけ出し、彼の全てを受け入れること……。
 そう。もう私は恐れない。私の全てを、彼に知ってもらおう。私の内も外も、彼に見せよう。
 そう思った私に神様は微笑んで、私の体を一撫でする。すると、もう一度快感の荒波が私の中で起こる。
「うはぁぁぁっ!」
 どくん、どくんと心臓が跳ねる。私の肌は見る見る間に青く変わって、耳がぐっと伸び、尖った形になる。両脚と両腕、下腹部と胸の一部を魚のうろこのような物が包み、足は魚のひれのように変わり、体全体が魚のようにゆるゆるとしだした。太ももと下腹部、に不思議な文様が表れ、おっぱいの下には錨の、左頬にはハート形の文様が表れる。ずるんという感触とともに、腰には肉付きのいい、魚のうろことひれを持つ尻尾が生えた。そして最後に、私の頭から6本の尖った角が生えた。
「あー、うぁぁ……。あぁん……」
 快感に蕩ける私に、神様は優しく微笑んだ。
 ――さあ、お行きなさい、私のかわいい娘……。あなたの愛しい人を連れて、この海に帰っておいでなさい……。
「はい、お母様……」
 私がお母様に微笑むと、私の視界はまた白い光に包まれた。


 気がつくと、私は朝の海に浮かんでいた。きらきらと輝く海の上、私がふと左腕を見ると、そこには愛しいあの人からのプレゼント。海をイメージした青い筐体と、白蝶貝で作られた文字盤。海の神様の名を持つ腕時計。
 ――ああ、蓮太郎。蓮太郎、会いたいよ。
 そう思った途端、私の体を激しい乾きが襲う。私は蜜壺に指を伸ばし、ぐにぐにといじる。
「ん、んは、うふふふふっ!」
 片方の手で胸も乱暴にもみしだき、愛液をどくどくと流す。そして、愛液にぬらぬらと輝く指をくわえる。
「んちゅ、ちゅ……。ん、ぷぁ……」
 唾の糸を引き、口から指を離す。
 私の心は、もう凪のように落ち着いていた。静かに、静かに広がる美しい海。それはもう、涙の海などではなかった。
 さあ、陸へ行こう。そして蓮太郎と一緒に、この海へ帰ろう。命の始まり。全てを受け入れるこの海の底で、永久に愛し合おう。
 この海こそ、私の住処。私たちの、終の住処。私たちの愛し合う場所。私は愛するこの海を守り、彼を守る。今度こそ、彼の伸ばした手を拒んだりしない。
 私はそう誓うと、彼が待っているだろう町へ向い、力強く腕と、足と尻尾のひれを動かし泳ぎ始めた。
  fin.
11/06/09 23:24更新 / ハルアタマ

■作者メッセージ
はじめまして。

なんかもう、自衛隊の方々、申し訳ありません。

こんな拙文ですが、少しでも楽しんでいただければとても幸いです。

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