読切小説
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妻が僕よりイケメンな件。
 僕の朝は早い。
 彼女が起きる1時間くらい前に目を覚まして、こっそりとベッドを抜け出す。
 起こさないように気をつけつつ頬にキスしたら、やはり静かにキッチンへ。
 大きめのやかんでお湯を沸かしつつ、その間に顔を洗ったり歯を磨いたりを済ませる。
 沸騰したお湯が蓋をカタカタ揺らす頃には、ちょうど身支度も整っているという寸法だ。

「……よし!」

 気合とともにエプロンを着けて、お弁当作りの開始である。
 ――ここまではいつもの朝と変わらないのだが、今日に限っては少し違う。
 彼女が「大事なオーディションがある」というから、とっておきの献立を考えておいたのだ。大舞台に全力で臨んでもらうためにも、とびきり美味しく作らなくては。
 お米を主食とするジパング式のお弁当は、主菜(おかず)に自由度がある分だけ腕を問われる。それだけにやり甲斐もあるっていうものである。

 メインとなるおかずは、昨日のうちに下ごしらえをしておいた豚肉の生姜焼きだ。焼き方に気をつければ柔らかくできるし、しっかり味がついているから冷めても美味しい。
 その他にも甘い卵焼き、アスパラのベーコン巻き、かぼちゃの胡麻和えなどなど彼女の好物ばかりで隙なく構成してある。
 さらに、デザートにはレモンの蜂蜜漬けも用意した。これは喉にもいいし、疲労回復にも効果的なはずである。午前と午後に分かれての長いオーディションでも、これでしっかり回復できるはずだ。
 まあ、魔物……っていうかゴーストとかアンデッドにも同じなのかは今ひとつわからないが。

 ともあれ、僕は前日に決めた段取り通り次々に工程をこなしていく。
 包丁でアスパラガスの根本を切っていると、かちゃり、と寝室のドアの音が聞こえた。思ったよりも早い起床である。彼女も緊張しているのだろうか。
 何にせよ、寝起きの悪い彼女はそのまま洗面所に行ってだらだらと準備をするはずだ。
 なので、今のうちに熱い紅茶を淹れておく。朝は渋いくらい濃い目に、というのが彼女の好みである。
 ポットから芳しい香りが立ち上ってからややあって、キッチンの扉が静かに開いた。
 僕は気づかないふりをしながら、マグカップに琥珀色を注ぐ。
 愛しい気配は僕のすぐ後ろで止まると、そのままするりと抱きついてきた。

「おはよう、クリス」
「おはよ、エリ。今日は早起きだね」

 僕の言葉に彼女……エリは「んむ」とだけ答えて、首筋に唇を落としてくる。
 不意打ちに声が出そうになるが、なんとか耐えた。
 エリは僕よりも身長が高い。故に、こういう時どうしても包まれるような形になってしまう。
 こういう「料理している相手に後ろからちょっかいを出す」みたいなのは普通僕からするものなんじゃないかとも思うが、今更言うことでもない。
 平静を装おうとする所で、背中に柔らかいものが当たっているのに気づいた。
 こっちはいつまで経っても慣れないもので、布越しの感触に思わず心臓が跳ねる。
 エリはそんな僕には構わず、寝起きのややかすれた声で耳元をくすぐった。

「いい匂い……美味しそうだ」
「えへへ、そうでしょ? 今日はちょっと気合入れてみたんだ」
「ほうほう……おっ、これは――」

 後ろから素早く伸びてきた手が、巻きたてのアスパラベーコンをひとつ奪い去った。
 油断した――朝からべたべたしてくる時、エリは大体つまみ食いを狙っているのだ。

「あっ! こら!」
「ふふ、隙ありだな」

 たしなめる声も虚しく、僕が振り返る頃にはすでにエリは油のついた指先を舐めていた。
 いたずらっぽい笑みを浮かべて、エリは挑発するように片目をつぶってみせる。

「うん、さすがボクの旦那様。いい腕だ」
「もう……今食べたらお昼の楽しみがなくなっちゃうじゃん」

 ごく自然にウインクとかできてしまうエリにため息をつきつつも、実はしっかり射抜かれかけたのは内緒だ。
 いちいち反応していたら身が持たないとはいえ、こればかりは仕方がないのだ。舞台役者をやっているのもあってか、何をやっても無駄に絵になってしまうから始末が悪い。
 現に今だって、ただの寝起きのだらしない姿のはずなのに驚くほど色気があった。
 淫靡なのに甘いだけではなくて、瀟洒さを感じさせるけど刺々しいわけではない――いわゆるエロかっこいい、っていうやつだ。

 寝癖でややうねっている銀髪すら「ゆる感のあるナチュラルパーマ」って感じになってるのも本当にずるいと思うし、多分眠いだけなのだろう半開きの目だって「けだるげでセクシーな目つき」に収まっているのだから参ってしまう。
 パジャマ代わりのよれたTシャツなんか、本来なら色気もへったくれもないはずのものだ。しかし、布一枚隔てて主張する胸元のせいでそう単純にはいかなくなる。布地にできる皺と陰影が、知っているはずの身体を妖しく隠しているようにも思えた。
 視線を下に逃せば、裾から覗く太股の青白さに目が眩んだ。裾に隠れているが、下にはショーツを一枚引っ掛けただけだろう。本当に目とか股間とかに悪すぎる。

 結婚してしばらく経つとはいえ、平然と受け流すにはまだまだ難儀しそうである。いっそ、普段はもっと霊体寄りになってもらったほうがいいかもしれない。いや、それはそれで魅力的なんだよな……。
 そういった思考が極力態度に出ないように気をつけつつ、僕は距離を取るようにマグカップを押し付けた。

「ほ、ほら紅茶。それ飲んで目覚ましたら準備してきなよ。朝ごはん作っとくから」
「ああ、うん……」

 カップを受け取りつつ、エリはじっとこちらを見つめてきた。
 黄金の瞳からはさっきまで滞留していた眠気も消え去っていて、僕は鋭さを帯びた視線に射すくめられる。

「……な、なに? どうしたの?」
「いや、エプロン。似合ってるなって。かわいい」

 からかったつもりなのだろう。小さく笑みを浮かべてからエリはカップに口をつけた。
 僕は金縛りを解かれたように、慌ててダイニングからエリを追い立てる。

「毎朝見てるでしょ! ほらとっとと着替えてくる!」
「ふふっ、はいはい」

 愉快げに去るエリを見送りながら、僕は深くため息をつく。
 ――ああもう、なんで顔が熱いんだ。こういうのも普通逆だろう!





「それじゃあ、行ってくるよ」

 お気に入りの黒いコートに身を包むと、エリは玄関口で振り返った。何の変哲もない、たったそれだけの動作にも華がある。
 顔にはいつものように涼しげな微笑みが浮かんではいるが、ほんの少しだけぎこちなく見えるのは、やはり緊張しているからだろうか。

「いってらっしゃい、頑張って」

 僕は革の鞄を渡しながら、触れるだけの口づけをした。これも日課だ。
 身長差があるから、少し背伸びをしなくてはならないのが恥ずかしい。だが、身をかがめてもらうよりはまだマシな気がするのも確かである。

「オーディション……上手くいくように、祈ってるから。いつもみたいに頑張って」
「ああ、吉報を待っていてくれ。ボクの大事な人」

 不敵に笑うと、エリは僕の前髪を優しくかきあげて額にキスを落とす。
 完全な奇襲である。
 唇の感触に気づいたときには、エリは踵を返して扉を開けている。
 顔が熱くなるのを感じながら、僕は慌ててその背中を追った。サンダルをつっかけて、玄関先に出る。
 口と口のキスをしたばかりだというのに、なぜこれだけでこんなに鼓動が激しくなるのだろう。魔力でも流し込まれたのだろうかなどと疑いたくなるが、もしそんなことされてたらこんなもんじゃ済まないはずだ。

「いってらっしゃーい!」

 颯爽と歩いていく背中に声を掛けると、エリは振り返らずに片手を上げて応えた。
 晴れ空の下、道の先の角を曲がって見えなくなるまで僕は見送る。
 きびきびと歩く後ろ姿は、遠くからでもすらりとしていてしなやかだった。
 あの長身――大きな劇場でも十分に映えるシルエットに、一番後ろの席まで届く朗々と伸びやかな歌声。
 それはエリケイシア・フォン・ガイステンベルグ――つまりエリが持つ、舞台役者としての強力な武器である。

 それまで「顔も声もスタイルもいいが、何かが一つ足りない」と批評家に言われていたエリだったが、ようやく時代が追いついたのだろう。ここ一年で立て続けに主演に抜擢され、いまや人気急上昇中の注目株となっていた。
 一年前といえば、ちょうど僕と付き合いはじめた頃ではあるが――まあ、偶然だろう。この結果が彼女の実力であることは疑いない。
 ……とは言いつつ、それなりに――具体的にはひとつまみの隠し味ぐらいはエリの成功と関係があったら、とても嬉しいのは間違いないんだけど。

 ともあれ、そうしたエリの評判は近所でも噂になっているらしい。
 それ自体は夫としても鼻が高いところではあるのだが、その内容を詳しく聞いてみると、「嫁が旦那よりかっこいい」だの、「旦那がむしろ新妻って感じ」だの、「あそこ(の旦那さんは、背が)ちっちゃいし(肌が)柔らかそう」だの、「そのうち夫のほうが妊娠するんじゃないか?」だの、極めつけは「むしろもう産んだんじゃないか?」だの、非常に遺憾なものばかりだった。

 いや、僕だってもちろんエリのかっこいい所は大好きである。
 だけど同じくらいかわいい所も好きだし、できれば「僕の奥さんはこんなにかわいいんだぞ!」とばかりに宣伝して回りたいほどだ。
 しかしそうもいかないの確かで、僕にできることといえばせいぜい美味しいものを作って待っててあげることぐらいである。
 ――美味しいものといえば、今日は夕ご飯なに作ろう。疲れて帰ってくるだろうし、魚より肉だろうか。それならお祝いも兼ねてお酒でも……いや、ちょっとそれは気が早いかも……。
 と、そこまで考えてはたと気づいた。
 ……確かにこれじゃ、完全に新妻である。



 18時。
 ご飯の支度はほぼできているし、お祝いのために秘蔵のお酒も開ける準備をしてある。お酒に合うおつまみだってこっそり用意済みだ。
 僕はほとんど1分おきに時計に目をやり、当たり前ながら1分しか経過していないのを確認してため息をつく。
 いつもの感じのオーディションなら、まだしばらくは帰ってこないだろう。
 そうとは分かっていても、結果が心配で落ち着かなかった。
 愛する人の帰りはいつだって待ち遠しいものだが、今日はそれもひとしおである。

 今回、エリが受けた作品は、「主人公である人間の男性歌手が魔物の女性の歌声に惚れ込み、色々な困難を乗り越えて最終的に一緒になる」という内容のミュージカルだ。
 その主人公役――人間の男性歌手の役をかけてのオーディションなのだそうだが、大人気作曲家の作品ということもあって倍率が非常に高いらしい。エリもやる気らしく、いつにも増して気合が入っているようだった。

 魔物のみで演じる劇であるため、性別としては女性のみではあるものの、その種族は様々である。ファントムの他、今回男役に応募しているのはダンピールとかヘルハウンドとかの役者たちらしい。確かにいずれもかっこいい感じのイメージがある人達だ。
 いや、とは言ってもうちのエリが一番かっこいいんだけど。
 衣装に身を包んだエリの姿を思い浮かべながら、僕は焦がれるようにため息をついた。

 ――がちゃり。

 吐き出す息の尻尾に被さるように、玄関から鍵の音が聞こえてくる。
 僕は反射的に顔を上げ、時計を見た。
 まだ18時15分過ぎ――いつもより、少し早い。
 暗い予感がちらりとよぎるが、僕は振り切るようにぱたぱたと玄関へ走った。

「おかえり! どうだった?」

 愛する人の姿を認めて、僕は努めて明るく問う。
 鍵を締めて振り返ったエリは、曖昧な笑みとともに肩をすくめた。

「――次回に期待、ってところかな」

 ――予感が的中した。
 落選だ。

「……そ、そっか! 鞄、もらうね」
「ああ、ありがとう」

 僕は鞄を受け取り、エリがブーツを脱いでいる間にリビングへ置きに行く。
 半ば逃げ出すようにドアに飛び込むと、僕はソファの上にエリの鞄を置き、頭を抱えた。

 どうしよう。どうするべきだろう。

 きっと、何も言わなければエリは気にしていないように振る舞うだろう。しかし、本当になんともないはずがないのは考えるまでもない。今日のオーディションに向けていろいろ練習していたのは知ってるし、なにより最近は受かってばかりだったのだから、余計にショックなんじゃないだろうか。
 ていうか僕だって悔しい。エリを落とすなんて、審査員どもの目は節穴なんじゃないか?

 しかし――だからこそ、僕は迷っていた。
 例えば「大丈夫! 次があるよ!」とか言うのは簡単だ。だけど、そんなこと僕が言うのは何か違う気がしてしまう。
 それに態度に出していない以上、エリだって触れてほしくないのかもしれない。だったら何も言わず、普通に夕食にしてしまったほうがいいだろうか。
 だけど――だけど、もし、エリが僕の言葉を待っていたら? 頑張って、それでもだめで、家に帰ってきて――僕なら、相手に何を求めるだろう。

「……よし!」

 心を決めると、僕は廊下に戻る。
 考えたってしょうがないんだから、したいようにしよう。
 見れば、ちょうどブーツを脱ぎ終えたエリがこちらへ向かってくるところだった。
 僕はリビングの扉の前に立つと、通せんぼするように両手を広げる。

「……クリス?」
「来て」

 訝しむエリに、僕は両手を突き出した。

「頑張ったエリに、ぎゅってしたい」
「……ふふ、なんだよそれ」

 エリは相好を崩すと、素直に僕に従った。
 僕はちょっと背伸びして、その背中を抱きしめる。
 腕の中に身体をあずけるようにして、エリも僕の背に手を回してきた。

「……よく頑張ったね。お疲れ様」

 口をついて出た言葉とともに、気づけば僕はエリの頭を撫でていた。
 触れた瞬間、ぴくり、とエリが反応する。ややあって、静かに口を開いた。

「……キミにはなんでもお見通しだな、それなりに上手く隠してたつもりなんだけど」

 その声は、震えていた。
 もちろん、エリの言うようにお見通しってわけでは全然ない。だけど、僕には一つだけ自信があった。
 いったん身体を離して、僕はじっとエリを見つめる。目と頬が赤くなっているのは、外が寒かったというだけではないだろう。
 その縋るような瞳に、僕は語りかける。

「当たり前だよ。エリのこと、誰よりも見てるんだから。だから――隠したり、しないで」

 僕は言ってから、背伸びをしてエリの頬に口づけする。
 珍しく不意を突けたのだろうか。数瞬、エリは目を丸くしていた。
 しかし直後、くすり、と笑う。

「キミのそういうところ、かっこいいと思うんだけどな」
「もー、茶化さないで」

 僕の抗議に、エリは抱き寄せてくることで応じた。
 抵抗せず、僕はされるがままに腕の中に包まれる。

「ボクは本気だよ。本当に、そういうところに惚れたんだから」
「……ありがと」

 驚くほど優しい声で「惚れた」なんて言われたせいで、一気に顔が熱くなる。
 思わず抱きしめ返すと、エリは陶然とした吐息を漏らした。

「……好き」

 吐息に紛れたその言葉に、背筋をぞくぞくと撫であげられてしまう。
 僕も、と言いたいところだが息が詰まってとっさに声が出ない。
 付き合いたての頃のようにいっぱいいっぱいになってしまって、僕はエリからするりと離れる。
 見れば、エリの顔にはいつも通りのいたずらっぽい笑顔が浮かんでいた。

「ふふ。キミのかっこいいところを知ってるのは、お嫁さんであるボクの特権というわけだ」
「あぅっ、な、なんだよもー! ほら、早く手洗って来て! ご飯にするから!」

 言いながら指先で頬をつついてくるエリに、僕はたまらず逃げ出した。なんでこう、いつもやり返されちゃうんだろうか。
 ぱたぱたとキッチンへ向かう僕の顔は、多分すごく赤かっただろう。





 夕食を終えて洗い物をしながら、僕は思わず笑みをこぼしていることに気づいた。きれいに平らげられた皿が愛おしい。元気になってくれたことも嬉しいし、たくさん食べてくれたことが嬉しいのだ。
 普段から健啖家なのもあるとはいえ、今日のエリはひときわよく食べていた。
 やけ食いというより、ここ数日の緊張が解けたのだろう。開けた酒も、ほとんどエリが飲んでしまった。
 お酒といえば、ジパングのレシピは不思議なものである。美味しいおつまみは、結構な確率でお米にも合うらしい。
 この辺りは、きっとお米からお酒を作っているというのも関係しているのだろう。
 週末にでもがっつりジパング風のメニューに挑戦してみるのも悪くないな――そう思ったのと同時に、僕は背後にエリの気配を感じた。

「エリ? もうちょっとで終わるから待っててね。そしたらお茶を――」
「……クリス」

 僕の言葉を遮って、エリは名前を呼ぶ。その濡れた響きに、僕は思わず固まってしまった。
 その隙をエリは逃さず、するりと腰に手を回して緩やかに密着してくる。背中に感じる柔らかさに、僕はエリがすでに部屋着になっていたことを思い出した。もちろんブラはつけていない。

「ん……ふふ」
「っ、な、なに? どうしたの?」

 吐息混じりの微笑みに耳元をくすぐられるが、僕は必死に平静を装う。しかし気づけば、さっきすすいだお皿をもう一度洗ってしまっていた。
 抵抗がないと見てか、エリは僕の肩口に顔を埋めて深く息を吸い込む。

「ふふ……いい匂い。キミの匂いだ」
「せっ……、洗剤の、匂いだと思うよ……? レモンっぽい感じの……っ!?」

 かり、と首筋を甘噛みされて、思わず声が裏返ってしまう。
 エリは「いい匂い」といったが、それを言うならエリ自身から漂う香りのほうである。酒精と混ざった甘い匂い――濃厚な魔物のフェロモンが、嗅覚を通じて僕の脳を直接愛撫してくる。
 腰に回っていたはずのエリの手は、気づけばエプロンの下に滑り込んでいた。
 服の上から下腹部をさすり、腰骨の浮き出たところをなぞって、太股へと降りていく。
 先程よりも湿ったエリの囁き声が、熱っぽい息とともに僕の耳朶をくすぐった。

「はぁ……ボクの自慢の旦那様……ふふっ」
「も、もう、どうしたの――ひぅっ!?」

 ズボンの上から股間をなで上げられ、僕は情けない声を上げてしまう。
 その弾みに危うくお皿を落としそうになるが、それはなんとか避けられた。
 しかしこれ以上続けられては、何か失敗するのも時間の問題だ。僕は慌てて水を止め、エリの動きを制止しようと振り向いた。

「エ、エリ、ちょっと待ってよ。今洗い物――」

 そこまで言って、僕は思わず硬直する。
 ――すぐ眼の前で、潤んだ瞳が僕を写していた。
 その表情にいつもの不敵さや精悍さは影もなく、ただ艶然とした眼差しがあるだけだ。

「……帰ってきて、ぎゅってされた時から今まで我慢してたんだ」
「え、え……?」
「ずるいよ、キミは……人のことそういうモードにさせといて、自覚ないんだから」
「あ……エ、エリ……んむっ!?」

 要領を得ない言葉に狼狽えた僕は意味もなく名前を呼ぶが、返答はないままに唇を奪われる。
 口唇が重なると、待ちわびていたように舌が滑り込んで来た。
 熱を帯びた粘膜が、僕の口内を蹂躙する。人のそれより少しだけ長くて器用な魔物の舌は、巧みに僕の舌先を誘い出した。

「ん……ふっ、ぅ……っ」
「ふはっ……はっ、んんっ……」

 互いの唾液が絡み合い、どちらともない吐息が口の端から漏れ出す。
 陶然とした行為の中、いつの間にかエプロンの結び目を解かれていたらしい。布がするりと床に落ちると共に、エリはいっそう身体を密着させてきた。
 前から抱きつかれると、背中ごしよりもよりはっきり二つのふくらみを感じてしまう。
 人化しているとはいえエリはそもそも霊体であり、人と比べればかなり体温は低い。それなのに、僕は熱を奪われるどころか余計に身体が熱くなっていくのを感じた。

「んっ……クリス……っ、おっきくなってる……ふ、ふふ……っ」

 口づけを続けながら、エリは下半身を愛おしげにグリグリと押し付けてきた。
 勃起した僕のそれを下腹部で感じようとするような動きに、獣欲が余計に焚き付けられていく。
 唇が離れると、唾液がとろりと橋を作った。
 エリは僕の顔を覗き込むようにして、上目遣いで見つめてくる。
 それは何かを期待するような、或いは媚びるような――言うならば、雌の顔だった。
 ここで僕は、先程のエリの言葉を思い出す。

 ――『ずるいよ、キミは……人のことそういうモードにさせといて、自覚ないんだから』

 僕はここで気がついた。これが「そういうモード」の顔なのだ。
 つまり「そういうモード」とは言い換えれば……雌、モード……?

 なんにしてもこのまま誘いに乗ってしまえば、きっと最後まで止まることはできないだろうことは明白だ。
 なにより、一度や二度の行為では満足しないはずだ。
 ……お互いに。
 それならせめて、洗い物だけでも終わらせてからにしなくては。僕は必死に自分を抑えて、エリにそう告げようとする。
 しかしそれよりも早く、エリは僕の理性にとどめを刺した。

「……かわいがって、くれるかい? 僕の、旦那様」
「っ……!」

 瞬時に誘惑に負けた僕は、返事もできないままエリをソファへ押し倒す。
 情欲に突き動かされる僕を、エリは期待に蕩けたような笑みを浮かべて見つめていた。
 確かに彼女の言ってたとおりだ、と僕は思った。
 ……エリのこんなところを見られるのは、夫の特権なのだ。
19/01/19 12:06更新 / 平河

■作者メッセージ
かっこいい系女子が自分にだけ雌顔を見せてくれるのとかに弱いです。

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