水底の呼び声

丁度太陽が天に届くころ、とある漁村の入り口である小高い丘で、呆然と立ち尽くす二人組の人間がいた
二人とも大きな背嚢を背負い、腰には剣を携えているからして旅人である
その一人であるアンドレジーニョ・フェノン―――アンドレは、目の前の現状を頼れる相棒であるエイドリアナ・キース―――エイダに問うた

「……これはいったいぜんたい、どういうことだ?」
「私に聞かないでよ」

前の街から一週間以上かけて到着したこの漁村、話によれば新鮮で良質な海産物に恵まれているので美味い飯にありつける、とのことだったが……

「だってこれは、あまりにも――」
「みなまで言わないでよ、そんなの一目でわかるわ」

そこは正しく廃村―――いや、正確にはその一歩手前と言うべきだろうか
話に聞いていた、小さいながらも活気溢れる漁村ではない
そのくらいに、この村には生気と呼べるものが枯渇していたのである

村に人の気配が無いわけではない、海へと流れる川沿いに建っている水車小屋からは製粉機が動く音が響いているし、遠目からではあるが桟橋に係留された漁船もメンテナンスが行き届いているように見えた

「……取り合えず、宿を取ろう」
「そうね、人がいないわけじゃなさそう」

その言葉の通り、チラホラと村人らしい人影が見える
だが、入り口から村の中心部へ近づくにつれ、その異様な雰囲気は気配から実感へと変わり、肌で感じられるようになった
地図によれば村の中心部である、ささやかな噴水がある広場には露天が立ち並んでいるが、陳列されている筈の商品は無い
不漁だったのかと思ったが、雑貨までない
それどころか、中心部であるにもかかわらず人っ子一人歩いていないのである
まだ太陽は天高く輝いており、家に篭るには些か早い時間帯だ
更に言うならば、磯風の臭いに似た何かの臭い、それもかなり強烈な臭いが充満している
なんの臭いだろうか、判別は付かないが記憶が確かならば二年ほど前に二人が訪れた漁村では嗅いだことのない臭いであった

鼻が曲がるようなこの臭いは耐えられなくもないが、出来ることならば今すぐにでも引き返したいというのが二人の本音であった
だが、この先や周囲には暫く他の村は無い、どうやっても馬を借りなければ次の村まで一日以上掛かってしまう
更に運の悪いことに、この漁村―――リーンス・マースは街と街を繋ぐ街道からは離れたところに位置し、野宿などした途端に魔物か盗賊の餌食となってしまうだろう
大所帯のキャラバン等ではなく、荒事専門の傭兵のように腕が立つわけでもない、ある程度の場数や旅の経験こそあるものの、一介の旅人に過ぎない二人にとってそのような事態は極力―――いや、確実に避けたかった

「あそこが宿か」
「そうみたいね、取り合えず入りましょう……中に入れば幾らかマシなはずよ、壁があるもの」

中心部から1ブロック奥に入ったところにある一軒の宿
見た目こそ綺麗であり、海沿いの強い海風と嵐に耐えられるよう、頑丈なレンガで出来た三階建ての建物である
軽やかなドアベルの音と共に中に入ると、臭いこそ外よりはマシにはなったが、店内は外の状況と同様に閑散としていた

酒場兼飲食店であるというし、今は丁度昼時であるからしてある程度の人だかりを期待していたのだが、期待はずれもいいところである
カウンターにいる店主らしい女性も、どこか上の空というか、元気が無いように見えた
どうやら、この村は本格的に寂れているらしい、廃村も秒読みといったところだろうか

「すいません、なにか旅の者なんですけどね、一日泊まりたいんだ」
「……ッ、はい、一泊……食事つき、30ギル、です……」

そうしていやに歯切りの悪い口調で告げられた額は一般的な宿の料金よりも半分以上安いものだった
泊まっている客はいないから好きな部屋をとのことだったので、階段を上った先にある部屋を借りることにする
部屋はごくごく一般的に旅人向けとされる宿と大して変わらない簡素なもので、ベッドが一つ、机と椅子一式が鎮座している
唯一違うところといえば、強風による破損を避ける為であろう、頑丈な作りの小窓は嵌め殺しで開け放つ事はできない、それでも、適度に広く、清掃が行き届いていてシーツも真っ白で清潔感がある、上等な一室だ

普段ならば宿代を節約して相部屋だが、その宿代が安いという事もあって別々の部屋である
荷物を置いて一階で昼食をとった後、村の散策に乗り出した

「美味かったな、料理」
「そうね、こんな雰囲気だからどんなものかと不安だったけど」

噂に違わぬ新鮮な魚介類をふんだんに使った料理は絶品の一言に尽きるもので、貝類で出汁を取ったというスープに始まり、茹でた白身魚と野菜のサラダ、メインディッシュのアクアパッツアを二人は夢中で口に運び、舌鼓を打った
暫くの休憩の後、店を出た今でもその味わいを思い出せば涎が出てきそうである

そうしていつしか、村を覆う異様な磯臭さも慣れたからか気にならなくなっていた
寧ろ、久しぶりに大海原の雰囲気を体一杯に感じられて心地よいかもしれない、深呼吸をしたいくらいだ
先の不快感も、慣れない海風に酔ってしまっていたのだろうと、二人は結論付けた

そうやって雑談を交わしながら暫く歩いていると、もとより広くは無いこの村の散策も終わってしまった
太陽は沈んできたものの、まだ夕暮れという時間でもない、宿に戻って休むというのも嫌ではあるが、どうしたものかと悩んでいたときだった

「工芸品店かしら、アレ」
「あんなのあったっけ?」

エイダの視線の先にあったモノは一階建ての平屋、看板には工芸品の文字が見える
ショーウインドゥを除くと、魚の骨や流木を使用した工芸品の数々が並んでいた

「丁度いいわ、あんたアクセサリーが欲しいとか言ってたじゃない」

そう言って、エイダが扉を開く
先の宿が使っていたベルの金属音とは違う、骨と骨が打ち合う軽い音がカラカラと鳴った

「……いらっ、しゃいっ」

カウンターの奥に座る店主の女性は宿のマスターと同様、どうにも歯切れが悪いというか、言葉を一々区切る癖か訛りでもあるのだろうか

挨拶もそこそこに、工芸品の物色を始める
ショーウインドゥに並んでいたものと同様に、大きな魚の骨や流木を削って形作ったものが殆どのようで、どれも見事なものだった

「これは、あなたが?」
「はい……っ、全部私が、掘りました……ッッ」
「?」

アンドレはあることに気が付いた
先の店主もそうだが、言葉を一々区切るというよりも何かに耐えているように見える
更に言うならば、この店にしても宿にしても、中が少々薄暗くて分かりにくかったが生気が感じられないといっても病人の土気色というわけではなく、紅潮しているように見えた

「……」
「なにしてんのアンドレ」
「ん!?ああ、いや、なんでもない」
「んで、なにかいいのはあった?」
「あ、ああ……これをな」

アンドレが手にしたのは木彫りのアンクレットだった
波の模様が象られたシンプルなもので、街で流行っているという男女両用の装飾品―――ユニセックスといっただろうか、そういった雰囲気のものである

「よーし、あたしが買ったげる」
「えっ、いいのか?」
「色々世話になってるしね」

そうして会計を済ませ、店を出る
小一時間程物色していた結果、いつの間にか日暮れ時になっている
輝かしい橙色の太陽が広大な海原に沈む様はまさしく感動的であるが、生憎この二人はその光景を楽しむロマンを持ち合わせていなかったので、探索を切り上げて宿に戻る事にした

そしてその後の夕食も昼食と同様に非常に美味なものであったが、アンドレは宿のマスターと工芸品店の店主の様子、その共通点に感じた違和感を拭いきれずにいた
いつもならば聡明で察しが良いエイダが気が付きそうなものだが、本人は気にしていないようである

「……どうしたのよ?」
「いや、なんでもないよ」
「そう?ずっと何かを気にしているようだけど」

その後、誤魔化しても問い詰めてきたので全部を吐き出した
要は村人の様子がおかしくないか、ということである

「否定はしないわよ、でもここは魔界だとは思えないわ」
「だよなぁ」

魔界の瘴気というものはとても強力で、特別な力を持つか教会に属する高司祭や騎士、それこそ主神の祝福を受けて常人では考えられないほどの力を持った勇者と呼ばれる者でもない限りは正気を保っていられないだろう
魔界独特の植物なども見られないし、今は慣れたものだが空気も臭い以外は清浄なものだ
よしんば此処が魔界―――それも見た目が通常となんの変わりも無い明緑魔界であったとしても、
漂う瘴気から気が付く筈である

しかし、この村にそういった雰囲気は見られないし、事実として彼らもそういった実感は皆無であった

「かといって、黒死病みたいな流行り病な雰囲気もなし……単に村の気風とか、そういうのじゃないかしら?」
「……だといいんだがな」

魔物と交わりたいとか魔物になるとかどうだとなるとまた話は別であるが、世の中悪い魔物ばかりではない、良い魔物―――これが人間にとって都合の良い表現であることは言うまでもないが―――も勿論存在する
数こそ全体の幾らもいるかも分からないが、人間と共生する魔物がいないわけではないし、それを前提とした国すら存在しているほどだ
事実として、彼らは以前ゴブリンやドワーフと共生する村落を訪れ、そこで交流をした結果として魔物への認識を改めている
いくら魔物とはいえ、対話ができない相手ではない

一般的にレスカティエ教国を中心としたこの周辺地域では、主神に仇なす者達であるからして死を以ってして罰するべきである、といったような過激な主張が平然とまかり通る程度に魔物への嫌悪感情は強いものだ
最近でも、勇者を旗印とした「最高の祝福を受けた大いなる軍隊」なるものを作り上げ、大規模な反攻作戦を企てていると専らの噂だ

「ま、どうであれ明日の朝には出発するんだし、今日はもう寝ましょう?寝坊なんてしたら許さないんだから」
「寝坊するのはいつもお前だろうに、二つ前の街でだって―――」
「あーうっさいうっさいうっさい!喋るな!」

そんな会話へ聞き耳を立てている者がいた

「ふふ、ふふふ……」

カウンターの奥に佇む女店主は、震える手でコップを磨きつつ静かに微笑を漏らす
そんな女店主の蠱惑的な表情に、その表情が獲物を狙う狩人のそれであることに、その足元から響く微かな水音に、終ぞ彼らが気が付く事はなかった


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



―――ここは何処だろうか


穏やかな水面にゆったりと浮かんでいるような、そんな心地よさを覚えながら、思う

いったいどこまで続いているのかも分からない暗闇の中で、どこに灯っているとも知れない薄っすらとした月明かりに似た光だけが、闇に浮かぶ己を照らしていた


―――やはり水に浮かんでいるのか、これは海か


チャプチャプと体を打ち付ける優しい穏やかな波と、仄かに潮の香りを含んだ風が優しく肌を撫でる感覚から、そう確信した

己の呼吸音も、心臓の鼓動さえも喧しいとさえ感じるほどに、この暗闇は静かだ

そして段々と、海面に浮かぶ体が沈んでいるのが分かる


―――ああ、沈む


溺れてしまう、そんな時であるのに、脳裏に浮かんだ言葉はその程度のものだった

不思議と焦りは生まれない、声を上げて助けを求める事すら煩わしい、それどころか沈みゆく感覚を心地よいと、気持ちよいとさえ感じていた

海の中というものは思いのほか穏やかであったが、体を包み込む水流は海面の心地よさとは比べるべくも無いもので、それだけで達してしまうのではないかと、そう錯覚してしまう程、いや、断続的な波に晒されて続けて麻痺してしまい、既に達しているかもしれなかった


―――変わる


なんのことだか分からない、そもそも右も左も、天地すらも危うい今の私には何も分からないものであった
だが何かが変わる、それだけはハッキリと理解できた


―――作り変わる


指の先から、髪の毛に至るまで、己を形作る全てのものが別のものに変わっていく
それが、とても気持ちがいい


―――違う、作り変わるのではない


変わるのではない、そう、これは元あるべき所へと帰るため、元あるべき形へと返るため


「おかえりなさい、歓迎するわ、あなたの帰還を」


―――誰かの声が、聞いた事もない、誰かの声が、懐かしい、あの声が―――


―――そう、これは―――――――――大いなる母の―――


「―――!」

まだ日が昇る前、エイドリアナ・キースは途轍もない快感とも似た違和感で目を覚ます
起き上がり、ぐしゃぐしゃに乱れた髪の毛を手櫛で直すと、尋常ではない汗をかいていることに気が付いた
何気なしに視線を下げれば、下着も上から下まで汗でビッチリと張り付いている


―――ああ当然だ、なにせあそこまで乱れたのだから


そんな言葉が、頭に浮かぶ
はて、乱れたとは何のことだろうか、私はアンドレと軽く酒を飲み交わした後、お湯で体を清めて直ぐに寝たはずだ、と昨日の行動を思い出した

「―――ックシュン!」

ああ、このままでは風邪を引いてしまう
旅先で病気など、旅人にとって一番あってはならないことの一つだ
お湯で汗を流して着替えよう、しっかり寝ておかなければアンドレにまた笑われてしまう、そう思ってベッドから降りる

「あ……霧……」

そんな時、不意に小窓が目に入る、外は先日の晴天とは打って変わり、深い霧が街灯に照らされていた
夜明けまで三刻半といったところだろうが、この濃霧が明日晴れるとは思えない
というよりも、晴れないという確信があった

こんな濃霧では、村を出る事は至難の技だろう、なにせ私達は土地勘が無いのだから、私達はか弱い旅人にすぎないのだから

「……ふふっ」

何故だろう、芳しくない状況であるのに嬉しい、喜びの余り笑いが込み上げてくる

「ふふふっ」

腹の奥がカッと熱くなったと思うと、体温とも、寝苦しさから来る熱とも、病でもない熱が身体を覆い、吐息が自然と荒くなる

わけも分からないまま、本能的に欲求を満たそうと、湿り気を帯びたシャツとショーツを脱ぎ捨てる間もなく、己の恥部と胸を激しくまさぐった

ああそうだ、私はこの村でまだやり残している事がある
この村を離れるわけには行かないのだ

「おはよう……それともまだ、こんばんは、かしら?」

ギィ、と音を立てて扉が開き、背後から声がする
あの懐かしい声、どこまでも狂おしく媚びていたくなる声色、“あのお方”の声だ

「まあ、どちらでもいいし、どうでもいいことね、今やるべきは一つでしょう?……“いらっしゃい”」

その声だけで、大きな染みを浮き上がらせていたショーツは意味を成さないほどに水気を帯び、指を動かす激しさは増す
私は振り返り、寝起きの覚束ない足取りで、扉の方向へ、足元に大きな水溜りを作りながら、“あのお方”の元へと歩む
吐息がかかるほど眼前に立つと、“あのお方”あろうことか、触手の粘液に濡れてぬらぬらと光る手の平で頬をゆっくりと、舐めるように撫でてくださった

もう耐えられないと、倒れこむように、私は押し寄せる快楽に身を任せるべく、全てを差し出した


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


エイダと酒を飲み交わした翌日、次の街へと進むべく鍛えられた体内時計で意識を覚醒させたアンドレであったが、窓の外を覆い尽くす乳白色の気色が悪い濃霧を見ると落胆し、目尻を垂れて大きく溜息をついた
この濃霧が海岸線沿いだけならば良い、街道へと続く田舎道は一本道であるからして、苦では無いだろう

しかし、これが街道を含むこの周囲一帯を覆っているとなれば話は違ってくる
窓から見渡した限りでは、視界をほとんど確保出来ないほどにこの霧は濃いものであり、街道までの林道をうっかり外れてしまえば大きな樹海が待ち受けているからして、遭難は必須だ
魔物と遭遇できればまた話は変わってくるかもしれないが、盗賊に遭遇すれば命の保障など皆無なのである
エイダとの相談次第だが、道に自信がなければ宿代で浮いた分を使って案内人でも立てればいいが、この濃霧ではそれも難しいだろう

それよりはマシだと考えるほかに無いが、それでもリーン・スマースにもう一度宿泊しなければいけないかもしれないのだ
街道を一日進んだ先にあるエール・カムからレスカティエの首都まで行くという大規模キャラバンの雑務、この仕事の切符をツテで掴んでいたのだ
レスカティエまでの馬車移動と三食の食事が保障された上、一ヶ月は楽に旅を出来るだけの報酬が入ってくるというのだから、これを逃す手は無いと歩みを進めていたというのに完全に予定が狂ってしまった
その仕事を請けられなければ、ギリギリまで節約した上で己とエイダの財布を足しても路銀に余裕は無い
考えたくも無いが、暫く街に滞在して労働者まがいの生活を強いられかねないのだ

アンドレはリーン・スマースなど放っておいてエール・カムへ急ぐべきであったと、唇を噛む
たった二人の雑用のためにキャラバンは待ってはくれない、急な入用だとそこらの人間を拾って行ってしまうだろう
しかし、“後悔先に立たず”“覆水盆に返らず”とジパングの諺にもあるように、今更これを悔いても仕方が無い
そう考え、兎にも角にもリーン・スマースの住人達と交渉し、なんとか地理に詳しい案内人を立てねばなるまいと心機一転奮起し、ベッドから降りる

顔を洗い、服を着替え、鞄から取り出したお守りを身に付ける
そうした一連の身支度を済ませると、一階の食堂へ降りた
そこでは既にエイダが朝食を取っている

「おはよう、今日は早いな?」
「あなたがっ、遅いんじゃない?……ッ!」
「そんなことない、今日のお前が特別早いんだ…………?」
「どうした、の?」

アンドレが始めに感じた違和感はエイダの喋り方だ
いつも通りの、鋭い目つきと対照的な笑顔も変わりは無い
しかし、その喋り方は昨日のものとは一変していたのである
それはまるで、ここの住民のようではないか

「なんだ、喉の調子でも悪いのか?」
「……ッ、そうね、少し、お酒が残っているの、かも」
「……?」

次に感じた違和感はエイダの服装だ
彼女は生粋の自由人であり、服装の趣味もそれに応じて若干露出があるものを好んで身に纏っている
なんでも、ある程度の露出がないと服に拘束されている感じがするのだそうだ
今では慣れたものだが、昔は目のやり場に困ったものである

しかしそれがどういうことだろう、今の彼女は旅の修道女かと思うほどに清楚な露出を控えたもので、それも一番嫌っていた筈のローブを纏っていて、その隙間から覗く服も長袖とロングスカートである
似合っていないというわけではない、もとより素材が優秀なので何を着ても似合うだろう

「なんだ、今更主神に仕える気にでもなったのか?というかそんな服を持ってたのかよ」

“神様がいるなら、今頃世の中は公平で平和そのものだ”とは彼女の談である
元は大商人の娘であるエイダは己の環境と一般の格差やら、そして貧乏人から金を巻き上げる親を嫌って旅に出たのだと言っていた

「そんなこと、ないわ、よ……ッ、こんな霧だから、ちょっと、ね」
「……まあ、そういう時もあるか」

誤魔化されたような気もするが、服装とおかしな喋り方以外は普段のエイダそのものであったので、アンドレは深く考えるのをやめることにした
頭脳労働は苦手で、それは他ならぬ彼女の専門であるからだ

「さて、分かってるとは思うが今日の―――」

そんな時だった

「……ん?」
「あっ……」

アンドレは胸に着けたネックレスが輝いていることに気が付いた
以前依頼を受けた魔装具師に追加の依頼料だと譲ってもらったもので、ネックレスというよりも首にかけられるペンデュラムである

魔物が近くにいると発光し、魔物がいる方向へ先端部が向くという便利なものだ
光の色によってこちらに対して害意の有無を知らせる効果もあり、赤く光れば害意があり、青く光れば害意はない
そして、そのペンデュラムはカウンターの中にいる女店主とエイダの間を行ったり来たりしているのであった―――色は、赤だ

「なっ!?」

馬鹿な、いつ、どこで、何故エイダが、そんな思いが頭を駆け回る

女性は魔物に襲われれば、魔物になる
それは何度も聞いてきた話だ、商売先の村が、故郷が、友達の妻が、娘が、そんな話は何度でも聞いてきた
しかし、己の相棒がそうなろうとは、アンドレは予想だにしていなかったのである

「バレちゃった、かあ……そういえ、ば、そんなものも、持ってた、わね」
「なぜだ!?いつのまに、そんな!」
「昨日の、晩よ……とっても気持ちが良かったし、あなたも、ねえ?」

そう言って、エイダは己のローブとスカートを捲る
そこには毒々しい触手がうねうねと、幾重にも巻きついた彼女の下腹部があった

「……ッッ!」
「ねえ、あなたも―――」
「だぁっ、りゃア!」

服を一瞬で脱ぎ捨て、此方へ疾駆したエイダであったが、一寸アンドレのほうが早かった
階段にある嵌め殺しの窓を無理矢理突き破り、路地へと着地する

「ぐっ……クソッ!」

ガラスと木片で身体が傷つくが、気にしている余裕は無い
どれほど距離を取れたのだろうかと、後ろを振り向いている暇も無い、一瞬でも立ち止まれば捕まってしまうのは分かりきっているからだ
痛みを押し殺して、様々な感情がまぜこぜになった思考を振り切って路地を駆け抜け、大通りに出ると別の路地へ入り、身を隠す

「ハァッ―――ハァッ―――ハァッ―――ええい、クソッタレ!」

直ぐに息を整え、また走り出す
目指すは北、村の外への門がある丘だ

「ハァッ―――ハァッ―――!」

濃霧の中、記憶を頼りに走る
しかし、幾ら走っても門はおろか、村の中心部にさえたどり着くことはなかった
ふと立ち止まり、ペンデュラムを見る
ペンデュラムは赤く発光し、時計の様にグルグルと矛先を回していた

「……なんて、そんな……」

村に入ったときには外していたので気が付かなかった
まさか、この村が魔界だったとでもいうのだろうか
そんな筈は無い、通常の魔界にしろ明緑魔界にしろ、大なり小なり瘴気が存在していて、それに気が付く筈―――

「……まさか、あの臭いで?いや、あの臭いそのものが―――」
「御明察、というべきかしら?」
「!」

突然の声に驚き、振り向く
そこにいたのは間違うことなき魔物であった
紫の肌と髪、タコやイカを思わせる触手を全身に纏った魔物だ

今までに出会った、遭遇した魔物とは全く違う
全身から発せられる妖しい色気、その雰囲気は他のものと一線を画しているように見える

「あの臭いは魔界の瘴気を隠す為のカムフラージュであり、それ自体が瘴気でもある
ここはまだ明緑魔界だから、気が付きにくいのも当然なんだけどねぇ
……そんなことより、紹介が遅れたわね、私はマインドフレイアの……まあ、名前なんてどうでもいいのよ」

そう言うが早いか、マインドフレイアと名乗った魔物の後方、濃霧の中からエイダが姿を現す
先ほどは気が付かなかったが、纏わり付いていた触手はどうやら彼女自身から生えているらしく、昨日までは短いブロンドヘアーだったが今は長髪に変化しており、その色もどことなく紫色へ変わりつつある
それは肌も同様で、うっすらと紫色を帯びているように見えた

「エイダ、なんで……」
「なんでもなにも、こうなって……いや、本来あるべき姿なのよ、この姿は」

これが人のあるべき姿だというのか、その魔物然とした姿が、身に纏う空気が、本来のエイダだというのか

「どういうことだ!まったくわけが」
「そんなこと、どうでもいいじゃない、頭脳労働はらしくないわよ?だから―――」
「!」
「一緒に、返りましょう?」


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


――全ては順調だ

同族へと返った住民たちが交わる姿を眺めながら、この村の特産品であったと言う海藻を主原料とする酒を飲む魔物、この状況全ての元凶である一人のマインドフレイアは充実感に浸りながら思った

手始めにと、この村の住民たちを同族に返し、人間に紛れて商人の真似事をしている知り合いと結託して、適当に人間を呼び込み、ここを一時の拠点として全ての人間を水底へ返そうと考えている彼女にとって、初仕事を完遂したこの感覚は何事にも代えがたいものであった

――ああ、なんと美しい光景だろうか

この村にいた男も女も、子供も老人も、誰もかれもが幸せそうに交じりあっている
ある程度返した段階で現れたあの二人も、男に限って言えばまるでお化けを見た子供のように逃げ惑っていたが、今では身体の上で腰を振っている彼女へ釘付けのようだ

当然だろう、かの勇者と呼ばれる祝福を受けた者達でさえ、こちらの領域へ一度足を踏み込んでしまえば抗うことなどできはしない、それを一介の人間が抵抗するなど不可能だ

ショットグラスに注がれた酒を一気に飲み干すと、腰かけていた長椅子から立ち上がる
まずは、彼女たちを完全に同族へ返さなければ

「さあみなさん、水底の祝福を」

そうしてマインドフレイアは、それぞれ思い思いに愛し合う同族に向け、触手を伸ばす

――まだ計画の先は長い、今はこの場を楽しむとしよう

村を嬌声が包み込み、よりいっそう激しく交じり合う光景を、マインドフレイアはただただ見つめ、己の腰に巻き付く愛しい夫を優しく撫で、微笑んだ

15/06/29 17:48 せいばー


◆後書き◆

はじめまして、せいばーと申します
ここに通い詰める友人の話含め、モンスター娘百覧の頃からこういったジャンルや出版物の事は認知していましたが、我ながら性的趣向の業が深いこともあって股間にティンときたものが「墜落する乙女達」だけでしたので殆どスルーしてきました、が!マインドフレイアのビジュアルと性質で股間が元気になったので一筆認めさせていただきました
クトゥルフ神話体系の世界観までエロくするとか健康クロス氏は流石だと思います、ラヴクラフト最大の誤算に新たな1ページが加わりましたね

執筆開始はマインドフレイア投稿初日でしたが、既にウェンディゴまで登場していますね
イタクァがあんな風になるとは予想外でした
ニトロプラスの「斬魔大聖デモンベイン」にしろ逢空万太氏の「這いよれ!ニャル子さん」にしてもそうですが、イタクァも旧支配者から美少女にクラスチェンジするとは思いもよらなかったでしょう

他に出てきそうなのといえば、漁船で体当たりされたり核で燃やされたり散々目に遭っている大いなるクトゥルフ、ウルトラマンティガでおなじみガタノソア、ラーヴァゴーレムとキャラ被りしそうですがクトゥグア……語ればレポート一つ書けそうなのでやめておきましょう



話を小説に戻しますと、稚拙ながら小説を書く心得は一応あるものと思っているのですが、如何でしたでしょうか?
なんとなく“深きものども”と関係ありそうな雰囲気があったので「インスマウスの影」を参考に、というか殆どそのままプロットとして活用しました……かなり短縮していので急ぎ足な感が否めませんし、一部雰囲気付けの為に独自の表現がありますし、エロい表現が殆どありませんが、楽しめていただけたならば幸いです

R-18 向けの表現含め、世界観そのものや魔物娘に対する造詣の浅い新参者ですので、至らない表現や設定の間違いなど多々あるものと思います
ですが今の私にはこれが限界です、もっと勉強します

これを機に他の魔物娘でも小説を投稿していこうと考えているので、今後ともご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願いします
[エロ魔物娘図鑑・SS投稿所]
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33