ストックの花が咲くように

 人間だろうと魔物だろうと、妖精だろうと悪魔だろうと、『どんくさい奴』というのはどこにでもいるのだろう。

「お? どうしたんですか、ダーリン。お昼寝ですか?」

 ……言えない。
 ごく小さなぬかるみに足を取られ、豪快にすっ転び、受け身もままならぬまま背中から地面に叩きつけられ、確かな痛みと切なさと悲しさを噛み締めていたんだよ……なんて、絶対に言えない。


「すぅ……すぅ……」

 可愛い寝息を立てている彼女の顔を、そっと覗き込む。
 時折、湖から吹き抜けて来る風が、彼女の髪と耳をわずかに揺らす。

「ふ……んん……すぅ……すぅ……」
 それが少しくすぐったかったのか、彼女は自分の耳を両手で押さえながら、猫の寝相のようにきゅ〜っと体を丸めていく。

 その様子が何だかとても可愛くて、可笑しくて、僕はクスっと笑ってしまう。
 本当は、片付けなければいけない用事や仕事がたくさんあって、こんな風にのんびりと昼寝をしている場合ではないのだけれど。
 例えば、この湖に来た本来の目的である、染料になる草花の摘み取り作業。工房に戻ればその加工作業をしなければいけないし、今日中に仕上げてしまいたいデザインや縫製の仕事もある。
 ありがたいことに何件かのお得意様には恵まれたものの、個人経営の何でも屋系衣料服飾雑貨店は貧乏暇なしの状態なのだ。

「うぃ〜待てぇ、このぉ〜……悪いようには、しにゃいからさぁ〜……げへ、げへへ……」
……しかし、どうもこの子には、それが上手く伝わっていないのか、何なのか。

「……とうっ!」
「うぃ、うやぁああぁぁっ!?」
「……おはようございます」
「は、は、はい、おはようございますっ! ……って、そうじゃなくて! ダーリンっ!!」
「……何でしょう?」
「し、し、尻尾! 尻尾を引っ張って起こすのは反則だって、いつも言ってるじゃないですか! ここ、私の超敏感エリアなんですってば!」
「……ほぉ」
「『ほぉ』じゃないですって! あぁ〜もぅ、ビックリしすぎて心臓がドッキンバッコン言ってますよ……」

 そう、悲鳴のような大声と共に飛び起きた彼女には、尻尾がある。風に揺れていた耳も、頭に付いている。
 瞳に涙を浮かべながら一生懸命に抗議の言葉を並べているその姿は、美少女のそれと言って差し支えない。ぽっちゃりとしつつも、美しく豊満な肉体。少し赤みがかった髪と、ぱっちりとした大きな瞳。それら全ての特徴が、彼女の魅力をさらに引き立てている。
 けれど、彼女は人間ではない。
 彼女は、オーク。れっきとした獣人型の魔物。それも『凶暴かつ危険』とされている魔物である。

「……いやぁ、何かニヤけた顔で不審な寝言を発してたから、つい」
「そう! それもですよっ! せっかくダーリンを我が物に出来そうな所だったのにっ!」
「……ほぉ」
「可愛く怯えるダーリンを優しくキャッチ。そして、私の住処で目くるめく官能の時間スタート……えへっえへへへ……」
「……とうっ!」
「ふぃ、ふぇにゃあああぁぁぁぁっ!?」

 立ち上がって腰をくねらせつつ、何だかよろしくない妄想世界を語りだした彼女の腰に素早くタックル。そして、再びの尻尾引っ張り攻撃。
 彼女に対する《おしおき》は数々あれど、一番効くのはやっぱりこれのようだ……ちなみに、二番目は晩御飯抜きの刑ね。

「だっ、だからあぁぁぁ!!」
「……夢の中とは言え、人をさらうな。そして、犯すな」
「いやぁ〜ん、ダーリン何言ってるんですかぁ〜。これも、私のダーリンに対する愛の証のひ・と・つ♪」
「……ほぉ」
「それに、先にお昼寝し始めたのはダーリンの方でしょ? それなのに……酷いですぅ」
「……あ〜、それは確かに。うん。まぁね」

 それを指摘されると、確かに辛い。
 そもそも、勝手にすっ転んだ挙句「良いお昼寝ポイントを発見したぞ」とか、酷すぎる誤魔化し方をしたのはこちらなのだから。
 ……まぁ、その言葉を全く疑う事無く受け入れた彼女もすごいとは思うけど。

「……よし、とにかくパパっと用事を片づけて帰ろう。仕事も色々ある訳だし」
「うぅ〜、ダーリン、私の話し聞いてくれてませんねぇ〜?」
「聞いてるよ。ちゃんと聞いてる。家に戻ったら、まずはお茶の時間にしよう」
「……ほぉ」
「人の口癖を真似るな。で、ハンスさんの奥さんがくれたチーズケーキも食べよう」

 ムクれていた彼女の顔が、次第に明るさを取り戻し始める。
 『オークは雑食性の魔物である』という話は、半分本当で半分嘘だ。確かに彼女は何でも食べるけれど、悪食という訳じゃない。むしろちょっぴり、グルメですらある。
 だから、こんな風に美味しい食べ物を交換条件にすると……

「摘み取る草花は、いつもの五種類。頑張って集めてくれたら、今日の夕飯はメルルの好物のどれかに……」
「おっまかせでえぇぇぇすっ!!」

 僕の言葉を最後まで聞き取らぬうちに、彼女……メルルは土煙を上げながら、バスケットを片手に猛ダッシュで駆けて行った。
 ああいう様を、確か東方の国の言葉で何と表現しただろうか。

「まぁ、いいか。こっちも探そう」

 服に付いた草と土を軽く払い落としながら、僕は周囲を見渡す。
 湖は午後の光に照らされて美しく輝き、小鳥達は思い思いの詩を歌っている。

 その詩に耳を傾けているうちに、僕の記憶の小箱が少しずつ開いていく。

 そう……彼女と出会ったのは、三年前のこんな季節、こんな時間帯。
 新しい染料の素材を探し求めるあまり、欲を出して湖の西の森……魔物が出ると評判の森へと、深く入り込んでしまった時の事だった。


━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ 


「あぁ、これはすごい。もう、ここに住んでもいいかも」

 森の中は、貴重な素材に満ちあふれていた。
 自分の様な職業の者に限らず、自然の恵みと共に生活している人間ならば、誰もが我を忘れてしまいかねないほどの宝の山。
 それが、この『湖の西の森』だった。

 しかし、後々に考えてみれば、それはごく当たり前のこと。
 何せこの森には、様々な種類の魔物が出る。
 古くからの地元の人々や、情報収集を怠らない用心深い人間ならば、絶対に立ち入らない場所。昔と比べ、人間と魔物の関係が平和的なものなったとはいえ、こちらをさらう奴はさらうし、襲う奴は襲うのだ。
 宝の山が放置されることなど、ありえない。それがあるとするならば、それ相応の理由があるということ。
そんな当たり前のことに、当時この地へと引っ越して来たばかりの僕は、気付かなかったのだ。

「あ〜んもぅ〜。みんなぁ〜どこぉ〜。置いてかないでぇ〜。ねぇってばぁ〜」

 市場で買えば二か月分の食費が吹っ飛ぶ貴重な野草を摘んでいたその時、間延びしつつも妙に切迫した雰囲気の声が聞こえて来た。
(何だ? 女の子の声? こんな森の中で?)
 自分と同じ様に、何かの素材集めのために森へ入った人間だろうか。
 けれどもさすがに、安全な街道ならばともかく、こんな場所を女の子が一人で歩いているとは考えにくい。現に『みんな』と言っていたし。

「念のために確認しておくかな……あと、一応の用心に、と」
 森に深入りしすぎたことを後悔しつつ、鞄から閃光破裂玉を取り出す。
 掌サイズのそれを地面や魔物に投げ付ければ、目くらましの強烈な光と耳をつんざく様な破裂音が発せられるという、護身のアイテム。

「持っておいて良かった、のかな? 使わずに済むのなら、それが最高なんだけど」
 心を落ち着かせるためにそう小さく呟きながら、声がした方へそろりと動き出す。

 それと同時に、以前、隣街のバザールからの帰り道……まさにこのアイテムを異国の商人から買ったその日、ワーウルフに襲われたことを思い出す。
 ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、ベロリと舌なめずりをしつつこちらへ近づいてくる奴に、僕はこの閃光破裂玉を思い切り投げつけだのだ。
 そして、その効果は……抜群だった。いや、抜群どころか「作った人、張り切りすぎですよ?」と言いたくなるほどの威力だった。投擲と同時に一目散に逃げ出した背後で、とんでもないレベルの破裂音と「んぎゃ!」というワーウルフの悲鳴を聞いたくらいなのだから。

(お願いだから、人間であってくれ。魔物だったら、対処の仕様が無いぞ……)
 一度の襲撃ならば、これで何とか凌げるかも知れない。
 けれど、光や破裂音に気付いた他の魔物が、何だ何だと寄って来てしまったら……最悪だ。手持ちの護身アイテムは、この閃光破裂玉と煙幕玉が二つずつ。ただ、それだけなのだから。

 しかし、じっとりと掌が汗ばみ、ゴクリとつばを飲み込むような緊張感溢れる時間は……再びの声で唐突に終わりを告げた。

「おぉ〜い、誰か返事して……ふぎゃああぁぁっ!」

 聞こえてきたのは、不意の叫び声。そして、ドサっという何かが倒れこむような鈍い音。
 もしや、声の主が何者かの不意討ちを受けたのか!?
 移動の速度を二倍に速め、繁みを掻き分けた先に僕が見たものは……妙に大きな落とし穴だった。

「あ、あぁぁ……痛い……痛いよぅ……う……うぅ……グスっ……ううぅ……」

 声の主は、体のどこかに怪我を負ったらしい。悲しく切なげな泣き声が聞こえて来る。
 さて、この状況をどうすれば良いのだろうと一瞬悩んだものの……

「えっと……大丈夫、かな?」
 意を決して穴の中を覗き込み、声をかけてみる事にした。もちろん、閃光破裂玉は握ったままで。

「グスっ……えっ……ひいぃっ!?」

 不意に声をかけられて、先ほどからの声の主は酷く驚いてしまったようだ。
 けれども、その驚きも長くは続かなかった。

「だ、誰だ、人間か……っつ、痛い……足が……」

 その落とし穴は、深かった。優に大人の男性二人分はあるだろう。
 声の主はその底で土と泥まみれの姿で立ち上がり、しかしすぐに左の足首を押さえてしゃがみこんだ。

「……怪我、したの?」
「ん、くっ……う、うるさい! 人間風情が何を言うっ!」
「いや、怪我したのかどうかが心配だったから」
「ふ、ふん! 私達は、お前達のように弱くなどな……っつ、痛たたた……」

 こちらを見下しての高圧的な姿勢なのか、単に虚勢を張っているだけなのか。
 そのあたりは今ひとつ曖昧だったが、二つほど良くわかったことがある。

 まず、やはり相手は魔物だったということ。
 そしてもう一つは、自分の行動と心配は、ものすごく余計なものだったということ。
 相手が魔物とわかったならば……次に自分が取るべき行動は、これしかない。

「それじゃあ、大丈夫だね。では、僕はこれで……」
「あっ、ちょっ、ちょっと待て! 待ちなさい! 待てってば、この野郎!」
「……はぁ、何でしょう?」

 魔物と出会ってしまったなら、そしてその相手が動けないというのなら、これ幸いとばかりに逃げる。
 厄介ごとに巻き込まれるのはゴメンだなぁ……と、そう決めて立ち上がろうとした僕に、穴の中の魔物が訴えかけて来る。

「たっ、助けなさい。私を」
「……どうして?」
「ど、どうしてって、私一人じゃここから出られそうにないし、怪我もしちゃったし……」

 威勢の良かった言葉が徐々に小さくなり、最後の方はゴニョゴニョと聞き取りにくくなる。

「あの……君は、魔物だよね? 見た感じ、オーク、かな?」
「そうよ。私は、オークのメルル。人間風情が私の名乗りを聞けたのだから、か、感謝しなさいよ!」
「プッ……」
「な、なに笑ってますか、このばか野郎!」

 会話を通じてわかったことが、もう一つ増えた。
 少し前に暇潰しに読んだ、翻訳された異国の魔物図鑑。その中のオークの特徴には、確かこうあった。
 ≪ 非常に凶暴 ・ 狡賢い ・ 人間に対して高圧的 ・ 徒党を組んで行動する ・ 動きが鈍い ≫

「たぶん……不正解が四つと、正解が一つ。高圧的って感じてもないみたいだし。なんか可愛いな」
「何をわけわかんないことを! 私が可愛いのは、当然で……か、可愛いっ!? 私が?」

 「い、いきなりそんなこと言われても」とか何とか言って赤面している彼女を放置して、その姿をまじまじと観察する。
 彼女が身にまとっているものを表現しようとすれば、三言で充分……革・紐・木だ。
 戦闘や狩猟に適した軽装備ということなのだろうが、ブラとパンツと肩当て、腕当て、そして脛当てにサンダルだけとは、あまりに簡素すぎるような気もする。
 しかし、それが粗野か下品かと問われれば、これが不思議とそうでもない。
 彼女のむっちりとしつつも豊満な体つきに、その簡素極まりない品々は妙に似合っていた。何だか、健康的なお色気すら感じる。というか、ブラと肩当てが一体化している上に、パンツは、あれは……紐? お尻や股間、痛くないですか?

「おい、コラ! いつまでボンヤリしてるんだ! 返事しろ、この人間! ばか野郎!」
「……え? なにが?」
「私の言葉を聞いていないとは、この……っ! でも、そ、そりゃ、私に見とれる気持ちはわかるけども……うん」
「あぁ、違う違う。職業病みたいなもんでね。人の着てる物や身につけてる物が気になるんだよ。それだけ」
「へぇ、そうなのか……って、おいぃぃっ!! お前、無礼すぎるぞ、ばか野郎!」
「うん、だからゴメンな。それで、何か用?」

 こちらの言葉にモジモジと恥ずかしそうにしたり、顔を真っ赤にして怒ったりと、何だか忙しない彼女にそう訊き返す。

「だから、私を助けなさいってさっきから言ってるでしょう!」
「……助けたら、その後はどうするの?」
「もちろん、私達の棲家に連れ帰ったのち、みんなでその体を嬲るっ!」
「……さようなら」
「いや、ちょ、ちょっと待て! 今のは冗談だ! いや、冗談じゃないかもしれないけど! 私はまだそういう経験が無いけど!」
「……ほぉ、未経験ですか」
「うん、やっぱり最初は素敵なダーリンと……って、やかましいわ、この人間! 大ばか野郎っ!!」

 ばか野郎から大ばか野郎に昇格したところで、僕の心境に何となくの変化が生まれた。
 このオークの女の子は、たぶん悪い奴じゃない。
 本当に凶暴、凶悪な魔物なら、怪我を負ったとしてもこの程度の穴からは自力で脱出出来るだろう。けれど、彼女にはそれが出来ていない。それどころか、何とかこちらとの交渉をまとめようと奮闘したり、見事に自爆したりしている。
 ……うん、やっぱりこの子は、悪い奴ではないと思う。

「それじゃあ、交換条件だ。僕は、君の脱出を助ける。あと、その足の応急処置も引き受けよう」
「ほ、本当かっ!? 嘘をついたら、承知しないぞこの野郎!」
「……嬉しそうにこの野郎呼ばわりしない。ただし、助けた後で、君は僕を襲わないこと。さらわないこと。どうかな?」
「う、う〜ん……わ、わかった。それで良い。承知した」
「よし! じゃあ、脱出の準備にかかるから、少し待ってて」

 そういって僕は立ち上がり、閃光破裂玉をズボンの右ポケットに押し込んだ。
(……念には念を入れて、こっちも出しておこうかな。一応ね)
 次に、鞄から煙幕玉を取り出し、それを左のポケットに押し込む。
 そして、腰の鞘から短いナイフを引き抜いて、ふぅと一つ大きな息を吐く。
 木の枝や蔓を切るための道具が、今日は魔物を助けるために活躍することになりそうだ……。



「ん……これで、良し、と。しばらくは腫れと痛みがあるかもしれないけど、この薬草を患部に塗っておけば大丈夫だから」
「う、うむ、わかった。それにしても、人間……」
「何? 足、きつく固定しすぎたかな?」
「いや、それは丁度良い……どうしてお前は、こんなにも薬草に詳しくて、治療にも慣れているんだ?」

 何本かの蔓を束ねて即席のロープを作り、悪戦苦闘しながら彼女を穴から引き上げた後、僕は約束どおりの応急処置を行った。
 不思議なことに、穴の中であれほど威勢が良かった彼女は、治療の間中ずっと黙ったままだった。よくよく向き合ってみれば、足の怪我だけではなく、彼女の体にはあちこちに擦り傷や切り傷が出来ている。
 僕はその痛みが原因なのかと思い、水筒の水でそれぞれの場所を綺麗に洗い流し、再びナイフを抜いていくつかの薬草をかき集めに走った。
 そして、現在に至るわけなのだが……。

「う〜ん、不細工な話しなんだけどね。僕は昔から、何をやっても下手で、どんくさくてねぇ」
「へぇ……」
「友達と剣術ゴッコをすれば、ボコボコにされる。駆けっこをすれば、何も無い所で転ぶ。木に登れば、頭から落ちる。もう散々」
「クスっ……そうなのか」

 そう言って、彼女……メルルは笑った。初めて見る笑顔だった。正直、かなり可愛い。
 そんな自分の心の動きを悟られぬよう、僕は彼女から微妙に視線をそらしつつ言葉を続けた。

「で、体のあちこちに怪我をして、いつも泣いて家に帰ってたんだけど……それが、今の仕事につながるんだよね」
「お前の仕事は、何なんだ?」
「服や装飾品に関する色々なものを作ったり、修理したり、デザインしたり。まぁ、色々とね」

 ナイフについた薬草の汁を拭き取って鞘に収めながら、僕は肩をすくめる。

「で、泣いて帰って来た僕を祖母がなぐさめてくれるんだ。あちこちに出来た傷に、飛び切り沁みる薬草を塗りながらね」
「うん、すごく沁みる。この薬草」
「ふふ、ゴメンな。そして、時々天気の良い日に祖母が僕の手を引いて、近くの草原や安全な森に連れて行ってくれたんだけど……」
「何のために?」
「僕の怪我を治療するための薬草の補充に。その時に、一緒に色んな事を教えてくれたんだよ」

 そう言って僕は一息つき、今は亡き祖母の優しくてあたたかい笑顔を思い出す。

「例えば、『草原のこの草は、胃腸薬に。森のあの花は、傷薬に。川のあの苔は、火傷の治療に』ってね」
「なるほど、それで……」
「あとは、『この花は海の様な藍色の、あの草は翠玉の様な緑の、あの花びらは燃える様な赤の、それぞれ染料になるんだよ』とか」
「……」
「それで実際に染物ゴッコのようなことを始めてみたら……これが楽しくてね。あと、ほら、怪我をする心配も少ない遊びだったし」
「クスっ……」

 二度目の彼女の笑みを見ながら、僕も笑顔で言葉を続ける。

「何をやってもどんくさい僕だったけど、不思議と染物は上手に出来てね。親や祖母が誉めてくれるのが、嬉しくて嬉しくて」
「そして……それをずっと続けて、服を作ることを仕事にしたのか」
「そういうこと。まぁ、師匠の下から独立したばっかりで、まだまだ毎日のご飯代を稼ぐのに必死って感じだけどね」

 そこまで話した所で不意にメルルがうつむき、それまでとは少し違う低いトーンで言った。

「人間……お前は、自分の不器用さに負けずに戦っているんだな。毎日、毎日」
「ん〜、まぁそんな大袈裟なもんじゃないけど、自分が好きで始めたことだから。愚痴りながらも、ちゃんと努力しないとね」
「そうか……いや、やっぱりお前は……立派だと、思う」
「そ、そうかな? いや、まぁ、そう言ってもらえると嬉しいけど、そんな立派なもんでもないと思うよ? うん」

 そうしてメルルは黙り込み、何かを深く考え始めた。
 何か良くないことを言ってしまっただろうか? どこかで言葉の選び方を間違えてしまっただろうか?
 そんな彼女の姿に驚き、内心焦り始めた僕の思考は……何処からともなく聞こえて来た第三の声に、かき消されることになった。


「はいはい、ご立派ご立派。っていうか、もう待ちくたびれちゃったから、ちょっと黙って」


「え……?」
 ヒュンと、空気を切り裂く空ろな音が聞こえるのと同時に、僕の右足に激痛が走った。

「あ……うわ……」
 自分の目に飛び込んできた現実を受け入れられず、間抜けな声を漏らしてしまう。
 僕の右足のふくらはぎに、槍が、一本の槍が、突き刺さっている。

「ホーネット……っ!」
「はいは〜い、ホーネットさんですよぉ〜。っていうか、邪魔だよオーク。どけよ」
「ぐぅっ!?」

 宙に浮かぶ襲撃者を苦々しげに見上げ、その名をつぶやいたメルルが、何者かに吹き飛ばされて地面に転がり、動かなくなる。

「あ……そんな……」
 メルルを吹き飛ばした、いや、加速をつけて無慈悲に蹴り飛ばしたのは、もう一頭のホーネットだった。

「ふふ〜ん。そんな悲しそうな顔しなさんなって。大丈夫、大丈夫。悪いようにはしないからさ」
 新たに現れたホーネットは不敵に笑いながらそう告げ、僕を羽交い絞めにして無理やり立たせた。

「ほらほら、足の痛みももうないでしょ? 深く刺さり過ぎないように加減してあげたし、何よりその槍には、私達自慢の麻痺毒が仕込んであるからさ。痛いのは、最初だけ」
「良い感じの男がいるから一人になったら連れて帰ろうと思ったのに……ず〜っとオークとお喋りしてるんだもんねぇ。もう待てないのよ」

 確かに、右足の痛みは消えていた。槍を引き抜かれたのにも関わらず、その痛みもない。
 いや、それどころか、右足の感覚そのものが完全に消えている。まるで初めから、自分に足など付いていなかったとでも言うように。

「ねぇねぇ、こいつを巣に連れて帰る前にさ……ちょっと私達だけで味見してみない?」
 僕を羽交い絞めにしているホーネットが、妙に熱っぽい口調で言う。

「あぁ……それも良いかもねぇ。駄目だったら、その穴に放り込んで捨てちゃえばいいんだし」
 ブーンと羽音を立てて空中にいたホーネットが、滑らかに降下して来て笑う。

「は〜い、それじゃあ、もう一度お注射ねぇ。今度は、天国行きの素敵で甘〜いお・注・射」
 背後のホーネットが、僕の首筋をゾロリと舐める。
 眼前に下りてきたホーネットが、腹部の針をこちらに向ける。
 確かあの針には、正気を保っていられなくなるほどの、強烈な淫毒が……。

 あぁ、畜生。
 調子に乗って森に入って、お人よしに行動した挙句、こいつらの慰み者になって殺されるのか。
 何て不細工な人生。何てどんくさい展開。何てあっけない最期。
 両親と師匠は、こんな自分をどう思うのだろう。そして、先に天国へ旅立った祖母は、こんな自分を受け入れてくれるのだろうか。

 ……そうして心が折れ、諦めと絶望とともにまぶたを閉じた僕に、誰かが言った。

「あきらめるなよ、大ばか野郎っ!!」
「うげぇ……っ!?」

 ドン、という鈍くて強い音が聞こえたような気がした。
 まぶたを再び開き、見えたものは、革・紐・木と、傷ついているけれど柔らかそうな背中。
 僕の眼前に迫っていたはずのホーネットは、意識を取り戻したメルルの全力タックルを受け、数メートル先の大木に叩きつけられていた。

「……メルル!」
「テメェ、この死にぞこないのオークがぁっ!」

 僕を羽交い絞めにしていたホーネットが、逆上して叫ぶ。そして鬱陶しげに僕を振り払い、メルルの無防備な背中目掛けて手にしていた槍を振り下ろす。

「メルル、耳を塞げ!」
 こちらに振り向こうとしていたメルルに向かって、声の限りに僕が叫ぶ。
 そして左手で左の耳を塞ぎつつ、ズボンのポケット……閃光破裂玉を押し込んでいた右のポケットを、拳で思い切り叩く!

【 バアァァァァァァァン……っ!!! 】

「ひぃっ!?」
 不意の大音響に怯んだホーネットが、怯えた声をあげて静止する。

「……っ!?」
 耳を塞いだメルルが、驚きの表情とともに振り返る。

「今だ、メルルっ!!」
 閃光用の火薬があっという間にズボンを焦がし、足の皮膚と肉を焼く。しかし、痛みも熱さも感じない。
 僕の右足はホーネットの麻痺毒によって、その感覚を遮断されているのだから……一か八かの賭けも、怖くなんかない!

「でえぇぇぇぇぇぇぇぇぇいっ!!」
 メルルの全力の右フックが、ホーネットの顔面を捉える。
 人間であれば持ち上げる事すら叶わない岩石のハンマーを軽々と使いこなすオーク。
 踏み込みの左足を痛めているとはいえ、その破壊力は僕の、そしてホーネットの理解を超えていた。

「う、わ……」
 大音響の名残の耳鳴りに苦しみつつも、僕は思わず驚嘆の声をあげた。
 ホーネットが、飛んでいく。
 自分の羽根を使って、ではなく、メルルの拳によってもたらされた力で。まっすぐ直線に、ではなく、殴られ、力を加えられた方向へコマのように、ネジのように、グルグルと回転しながら。

 そして、ドサっとホーネットが地面に転がる。ピクピクと痙攣しているところを見ると、死んではいないようだ。
 続いて近くに誰かが倒れたような気配を感じ、視線を戻す。
 そこには、苦悶の表情を浮かべ、うつぶせに倒れ伏しているメルルがいた。

「メルルっ!」
既に右足だけではなく、下半身全体の感覚が無くなっていた。
だから、上半身だけの力で、歯を食いしばって、うつぶせに倒れたメルルのもとへと這って行く。

「メルル! しっかりしろ、メルル!」
「あ……ほ、ホーネットは?」

 最初にタックルで吹き飛ばされたホーネットは、その時のままの姿で転がっていた。
 もう一頭のホーネットは、もう確認する必要すらないだろう。

「大丈夫だ。両方ともやっつけたよ。メルルが、やっつけてくれたんだ」
「うぅん、違うよ……」

 お互いにうつぶせに伏した状態で、吐息が顔にかかる距離で、僕らは言葉を交わし合う。

「あなたが、助けてくれたから、勝てたんだよ。あなたが、勇気をくれたから、私……」
「僕は……僕は何もしてないよ。メルルのおかげだ」
「うぅん……私は……私もね、あなたと同じなんだよ」
「え……?」

 とても優しく、可憐な笑顔で、メルルが僕に微笑みかける。

「私も、何をやってもどんくさくて、不細工で、勇気が無くて……」
「メルル……」
「狩りをやってもドジ、大切な儀式の最中にも大失敗、勇気が無くて、誰かが捕まえてきた男にも触れられずじまい……」
「そんな、でも、メルル、きみは……」
「今日だって、みんなと果実の収穫に出たのに、一人だけはぐれちゃって……落とし穴にも落ちちゃって」
「れも、この落とし穴はられかが掘ったもので、きみのせいひゃ……」

 するとメルルは、クスっと小さく小さく笑って言った。

「違うよ。この穴は……オークの……私の仲間が、狩りのために掘ったものだから」
「え……ウソ、れも、それれも……あ、ひゃ……?」

 その時、自分の体の異変に気が付いた。
 口が痺れる。舌が回らない。頭がぼんやりして、視界がゆがむ。

「あぁ……ホーネットの麻痺の、毒……。私も、体が痛くて、動けなくて……ごめんなさい。私が、私が……」
「いいんら。めるる。らいひょうぶ、だ、から」

 痺れ、震える左手で、ズボンのポケットをまさぐる。
 そして転がり出て来た煙幕玉を、最後の力を振り絞ってぶっ叩く。

 シューという静かな音と共に、もうもうと煙が立ち上る。
 それが、この日僕が最後に見た光景だった。

「あなたは、強い人間。私よりも、ずっと、ずっと……」

 暗闇に包まれた世界の向こうで、メルルがそんな風に言ったような気がした。


━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ 


「ダアァァリイィィィィンっ!!」

 必要な草花がぎっしり詰まったバスケットをブンブンと振りながら、メルルが僕に向かって駆けて来る。

「おぉ〜うっ! いっぱい摘めたかぁ〜?」
「はぁ〜〜いっ! こんなにいっぷぅあっ!?」

 そして、豪快にすっ転ぶ。
 藍色のワンピースの裾を翻し、こちらに向けてパンツ全開の豪快な転びっぷり。

「きゅう……」
「お〜い、大丈夫かぁ〜?」

 あたり一面に草花を撒き散らし、目を回して倒れている彼女の元へ歩み寄りながら、その顔を覗き込む。

「だ、駄目です。ダーリン。私は、あなたのメルルは、もう駄目なのです」
「……そうか。けど、心配するな。メルルの分のご飯は、僕が責任を持って残さず食べるから」
「ぐっ……だ、駄目なんです。それでも、私は、あなたの最愛のメルルは、もう駄目なのです」
「……なるほど、そうなのか。けど、心配するな。メルルの分も、新しく出会った女の子といちゃいちゃするから」
「ぐっぬぅぅぅぅ……ダアァァリイィィィンっ!?」

 チュ♪

 少なからぬ怒りで頬をひくひくさせながら起き上がろうとした彼女の唇に、不意のキスを仕掛ける。
 さらに、「あ……」と頬を染めている隙を見逃さず、もう一度、二度、三度。
 メルルの『甘えたいですのサイン』を見逃すほど、僕はぼんやりとはしていないつもりだ。

「いつかの時みたいに、『ばか野郎』呼ばわりされる前に、な」
「いやん、ダーリン。素敵すぎです♪」

 そして彼女はガバっと起き上がり、あっという間に僕を組み伏せて馬乗りの状態へ。
 あぁ……昔を思い出して暖かい気持ちになりすぎたかな。どうも余計なことをしてしまったような気配が……。

「あのぉ〜……メルルさん?」
「はい、何でしょうか、ダーリン?」
「どうしてあなたは、右手でワンピースのボタンを外し、左手で僕のベルトを外しているのですか?」
「そ・れ・は……最愛の人と、ここで愛を確かめ合うためなのです♪」
「……誰か来ちゃいませんかね、ここ」
「大丈夫。いざとなったら、見せ付けてやれば良いのです。あぁ……それはそれで、刺激的♪」

 彼女の耳がパタパタ。尻尾がピクピク。
 頬が愛らしいピンク色に染まり、豊満な胸の谷間にうっすらと汗が浮かぶ。
 ちなみに、今日の彼女の服装は、藍色のワンピースから黒地に緑のアクセントが効いたブラとパンツに至るまで、全て僕の手作りです……うん、我ながら、良い仕事してるなぁ。
 ちなみにちなみに、彼女は僕が着て欲しいと言った衣装は何でも着てくれます。文句一つ言いません……先月、図鑑で見た異国の扇情的な衣装を作って着せた時は、燃えたなぁ。

 とか何とか思っているうちに、僕は見事に全裸になっていた。

「それではダーリン、最低四回は、いただきま〜す♪♪♪」
「えっ、四回っ!?」

 そ、それはさすがに失神するんじゃないかなぁ。
 あの日と同じ様に、なかなか目覚めないくらいの勢いで、あ、あ、あぁぁぁぁぁぁ……。


━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ 


 目覚めの気分は、あまり良いものではなかった。
 喉がカラカラで、頭が痛くて、どうしようもなく体が重かった。

「おぉ……目覚めたようだな。うむ、良かった。これで大丈夫だ」

 枕元から、そんな声がする。
 そして視界の中に、ひょいと見知らぬ女性の顔が入ってくる。

「もう大丈夫だぞ、メルルの夫殿よ」
「あ……え……?」

 ここは何処だろう。この人は誰だろう。メルルって、一体……メルル。そう、メルル。オークの女の子。あの子と自分は、一体どうなった!?

「ぐっ……!?」
「無理をするな。まだしばらくは安静にしていろ。心配しなくても、大切な仲間の夫を襲ったりはせんよ」

 体を起こそうとした瞬間、様々な部位に鈍い痛みが走る。
 女性は、思わず呻き声をあげた僕をそっと支え、木製のカップから水を二口飲ませてくれた。

「ホーネットの麻痺毒という奴は、なかなかに厄介なものでな。毒を受けた者の体質によっては、解毒に時間がかかるものなのだよ」
「あの……あなたは……?」
「うむ。私は、シリシュ。メルルを含む、このオークの一団の長だ。治療の心得もあるから、心配するな。まぁ、オーク流の治療術、だがな」
「あぁ……それと、ここは……?」
「ここは、我々の住処。その中の客人をもてなすための部屋だ。まぁ、仲間の誰かが男を捕まえて来ることはあっても、本当の客人が訪れることは稀だがな」

 そう言って、再び僕の体を横たえつつ、シリシュと名乗ったオークの女性は微笑んだ。
 緩くウェーブしたブラウンの髪と、同じ色の瞳。威厳がありながらも心地良く優しい、落ち着いた口調。そして、メルルに勝るとも劣らない豊満で美しい肉体は、そこにただ座っているだけで一枚の絵画のように神秘的だった。

「それにしても……無茶をしたものだな、メルルの夫殿。ホーネットを止めるために、自分の足を犠牲にする覚悟で火薬を爆発させるとは」

 感心したような、呆れたような、色々な種類の感情が混ざった声でシリシュさんが言った。

「メルルの夫殿の足には、先祖代々より伝わる火傷用の治療を施してある。だが、少々その程度が酷い。それなりの痕が残るだろうが、構わないかね?」
「えぇ……構いません。あの時の僕には、ああするしかなかったんです。メルルを助けるためには……」
「うむ。その心意気は大したものだ。実際、あの音とその後に漂って来た煙を頼りに、我々は夫殿とメルルを発見できたのだからな」
「それで……あの……メルルは?」

 すぐにでも訊きたかった、けれど確かめるのが怖かった……彼女の安否を問う。

「うむ……それなのだが……」
「え……どう……なったんですか? まさかっ!?」

 軋む体とその痛みに構わず、大きな声をあげる。

「メルル、ただ今戻りましたぁ〜っ!!」

 そんな僕の声の数倍のボリュームで、およそ場違いなはしゃぎっぷりで、両手いっぱいに果物を抱えて飛び込んで来るオークの女の子。

「……メルル」
「……あぁ、メルルだ。ご覧の通り、無駄に元気だよ」

 先ほどまでの威厳に満ちた雰囲気が消え、こめかみを押さえながらシリシュさんがつぶやいた。
「仲間随一の回復力の持ち主だからなぁ、この子は」

 そんな長の姿に頓着する事無く、枕元まで飛んで来たメルルが僕の顔を覗き込む。

「あぁっ! ダーリン、目が覚めたんですね! 良かったぁっ! 二日も眠ったままだったんですよ! 本当に良かった!」
「……メルル。怪我人の前だぞ。もう少し静かに出来ないのか」
「だってだって、ダーリンが目覚めたんですよ! シリシュ様、結婚式の日取りはどうしましょう!」
「……メルル。少し落ち着け。今は、夫殿の治療と体力の回復が優先だ。物事には、順序というものがあるだろう」
「でもでも、シリシュ様もロビン様と巡り逢われた時は、『一日も早く結婚式を挙げたかったものだ』と仰ってたじゃないですか!」
「……メルル。私の話を聞きなさい、」
「あ、ちなみにダーリン、ロビン様というのはシリシュ様の人間の旦那様で、私達と共に生活されているんですよ! すごく強い騎士だったそうです!」
「……メルル。今は我が夫のことを説明している時では、」
「あぁ、けどけど、ダーリンの勇敢さはきっとロビン様にも負けてないと思います! 本当、素敵で……痛っ、イタタタタタ!」

 ゆらりと音もなく立ち上がったシリシュさんが、大暴走状態で喋り続けていたメルルの耳をギュ〜っと強烈につねりあげる。
 そして、耳をかばうために離されたメルルの手の中から、大量の果物が僕の顔を目掛けてボトボトと落ちて来る。

「メルル……? 私は、落ち着きなさいと。話を聞きなさいと。そう言ったな?」
「痛、痛い、は、は、ハイ! そう仰いました! イタタタ……っ!!」

 その姿は、おしおきされる問題児とその先生のようであり、どこかの母と娘のようであり、仲の良い姉と妹のようでもあった。
 だが、今重要なことは、そこではない。もちろん、顔に果物が当たりまくって痛かったことでもない。

「あの……一つ、いいかな?」

 寝床に体を横たえたまま、静かに二人へ問いかける。

「ん? 何かな、メルルの夫殿」
「い、痛い〜……耳がビリビリしますよぉ〜……で、何ですか、ダーリン?」
「その、『メルルの夫殿』と『ダーリン』っていうのは……どういうことなのかな?」

 すると、二人はキョトンとした表情で僕を見つめ、次に互いに顔を見合わせ、頷き合ってから、こう言った。

「極限の戦いの中で己の身を投げ出し、自分自身とオークの女を守った強き男」
「そんなダーリンの心の在り様に、私は圧倒されちゃいました」
「我らオークの女は、自分を打ち倒した男に己の全てを捧げたいと願う。そして『打ち倒す』とは、何も剣や拳によるものとは限らない」
「ダーリンは困っている私を助け、手当てをして、襲撃者ともしっかり戦ってくれました」
「メルルから話は聞いた。あなたがいなければ、彼女は間違いなく死んでいただろう」
「私の心はダーリンによって目覚め、私の命はダーリンによって助けられたんです」

 そしてメルルは両膝をつき、両の掌でそっと僕の顔を包み込む。
 その心地良さに、あたたかさに、思わず涙がこぼれそうになる。
 あぁ……僕もきっと、彼女のことが……。

「ダーリン……私の命は、私の心は、私の存在と魂の全ては、あなたのものです。私と共に、生きてくださいますか?」
「……可愛いオークの奥さんと店を切り盛りするっていうのも……悪くないね」
「ふふ……はい。何をやってもどんくさい私ですけど、ダーリンに負けないよう、一生懸命頑張ります」

 もう、それ以上の言葉は必要なかった。
 僕は、メルルの唇を静かに受け入れた。

「うむ。長たるこのシリシュが、二人の婚姻の誓い、しかと見届けた。幸せになれ、メルルよ」


 後々に、シリシュさんから聞いたこと。

 明るく振舞ってはいたが、僕が意識を取り戻すまでの間、メルルは一人になる度泣いていたそうだ。
 しかし、シリシュさんをはじめ、心配した仲間達が声をかけると、
 「大丈夫。大丈夫です。私も、彼のようにどんくさくても強く強く頑張るんです。私は、彼の回復を信じます!」
 ……と、確かな意志の宿った瞳でそう宣言したという。

 その言葉は、これまでの彼女を知る一団のみんなにとって、驚きのものであったらしい。
 何をやってもどんくさくて頼りなかったメルルが、折れそうになる心を自ら奮い立たせて信じると言っている。頑張ると言っている。
 その姿に心打たれた仲間達は、「いざとなったら、街から人間の医者をさらって来よう」という相談までしていたらしく……本当に、色んな意味で目覚めることが出来て良かったと思う。

 そして、彼女との未来へ向けた第一歩を踏み出せて、良かったと思う。


 シリシュさんの言う、「オーク流治療術」の効果は、抜群だった。
 誓いの言葉を交し合った一週間後。
 シリシュさんの夫、ロビンさん手作りの杖を使って何とか歩けるようになった僕は、メルルと共に一団のみんなの護衛と祝福を受け、家へと戻った。

 引っ越して来たばかりの新参者とは言え、九日間も行方不明になっていた僕のことを、村の人達は心から心配してくれていた。
 「隣街の自警団にも協力を要請して、捜索隊を編成しよう」という、具体的な話しも出ていたそうだ。
 そんな僕がオークの女の子と共に戻ったことで、さらにみんなを混乱させてしまったけれど……一連の出来事の説明が終わる頃には、全員が笑顔で納得してくれた。

「何だ何だ。頼りない兄ちゃんかと思ってたら、あんたなかなかやるじゃないか」
 僕の店のお客さん第一号になってくれた大工のハンスさんが、ガハハと愉快そうに笑う。

「メルルちゃん、何も心配はいらないのよ。わからないことや困ったことがあったら、何でも相談してね」
 メルルの肩に手を置いて、まるで自分の娘に呼びかけるようにハンスさんの奥さんが言う。

「人間か、魔物か。そんな違いなど、大したことではない。最も大切なことは、互いの心の在り様じゃよ」
 自慢だと言う長いあごひげを撫でながら、長老さんはうむうむとうなずいている。

 メルルの仲間達にも、村のみんなにも、僕は心配をかけ続けていた。
 それが本当に申し訳なくて、辛くて、けれど身を案じ、笑顔で「おかえり」と言ってくれたことがとてもとても嬉しくて……。
 みんなの喜びと祝福の言葉に頭を下げるたび、僕は涙がこぼれそうになるのを一生懸命に堪えていた。

 ……ちなみにその間、メルルは「みなさん、ありがとうございます! 私達、幸せになりますっ!」と絶好調だった。
 シリシュさんとロビンさんから「夫以外の人間に対しても、誠実かつ元気いっぱいな態度で接するように」との教えを受けていたらしい。
 ある意味、無事と共に、僕達二人の中身と方向性もみんなに理解してもらえたような気がする……そんなひと時だった。


━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ 


「あぁ〜、何か頭がクラクラする。あと、下半身が重いような、軽いような、複雑な感じに……」

 結局あの後、予告どおりメルルに四回搾られた。
 何か「奪われちゃったよぅ」という思いを抱いてしまうのは、気のせいというものなのだろうか?
 お肌がツヤツヤになったメルルに手を引かれ、小さな店舗兼工房兼住居に戻った後も、僕はなんだか複雑な気持ちで……まぁ、こんな時間も幸せなんだけれども。

 そして現在、我が最愛の妻は台所で夕飯を作っている。
 曰く、「ダーリンがしっかり頑張ってくれたから、やっぱり今日のお夕飯は私が作りますね!」だそうで。
 かつては料理中に謎の爆発事故を起こしていた彼女も、今では色々なものを作れるようになった。
 以前に台所で交わされていた会話の中身を思い出す。

「いい、メルルちゃん。男なんてもんはね、胃袋を押さえてしまえばこっちのモンなのよ」
「そうそう。あと、あんた達は若いんだから、下の方についてる袋もしっかり押さえときなさいよ!」
「やだあんた、若い子の前で何て下ネタ言ってんのよ! アハハハハっ!」
「はい、みなさん! ダーリンの心も体も、しっかり押さえて離しません!」
「あらあら、これはこれはごちそうさまだわぁ! アハハハハハっ!!」

 明るく素直な性格の彼女は、ハンスさんの奥さんをはじめ、村の奥様方からとても愛される存在になっていった。
 そんな肝っ玉の大きい先生方の手ほどきを受け、彼女の家事全般に関する能力はめきめきと向上していったのだが……扉越しに聞こえて来る会話の中身は、なかなかに強烈で。当時は数々のご教授に感謝しつつも、メルルが『素敵な奥様』を通り越し、一気に『肝っ玉母ちゃん化』するのではないかと密かに胆を冷やしたものだ。


「ふぅ……ごちそうさまでした。美味しかったよ、ありがとう」
「はい、どういたしまして。お粗末さまでした」

 食後の挨拶と感謝の言葉を伝えると、メルルはにっこりと嬉しそうに笑った。
 季節の野菜と茸を使った今日のメニューは、素朴ながらも素材の味をしっかりと引き出した素晴らしい一品だった。

「よし、それじゃあ皿洗いは僕が引き受けるよ。メルルは、ゆっくりしてなさいな」
「あ、はい……っと、ダーリン。その前に、あの……ちょっと、いいですか?」

 テーブルの上の皿を片付けようとした僕に、少し焦った感じでメルルが言う。

「え? あぁ、うん……どうしたの? 何か、あった?」
 いつもの甘える感じではなく、やらかしてしまった失敗を告白する時の悲しそうな雰囲気でもなく。
 その聞き慣れないトーンに、僕は思わず低い声で応えてしまう。

「えっと、あの……ですね。一昨日、私はダーリンが作った服やアクセサリーを持って、みんなの所へ行きましたよね?」
「うん……シリシュさんの妹さん用のウエディングドレスとか色々……あ、何か不具合があったって連絡が?」
「いや、違います! そうじゃないんです!」

 あの日命を助けてもらったお礼にと、僕は森の奥で暮らすメルルの仲間達へ服や靴、アクセサリーなどを定期的にプレゼントしている。
 その贈り物は好評を得て、メルルと僕は荷物を抱えて彼女たちの住処へと向かう度に、熱烈な歓迎を受けていた。
 しかし、一昨日は別のお客さんの依頼を受け、僕は店に残り、メルルは森へ向かいと、別行動をとっていたのだ。

「あぁ、良かった。シリシュさんの妹さんからの依頼だったからね。失礼があっては申し訳ないから」
「はい。シリシュ様もリリシュ様も、大変喜ばれてましたよ」
「うん、それを聞いて安心した……けど、話はそれじゃないんだよね?」
「はい……」

 何故かそこから、メルルの百面相が始まった。
 あらぬ方向を見てポリポリと頬をかいたり、僕の顔を見つめて赤面したり、「あ〜」とか「う〜」 とか言いながら泣き笑いの表情を浮かべたり……。

「……今、言いにくいことだったら、明日になってからでも良いよ?」
 助け舟を出すつもりでそう提案した僕に、メルルは「いいえ、今じゃなきゃ駄目なんです!」と大きな声で言い、「ふぅ」と一つ息をついた。

「あの……シリシュ様は、長として色々な物を管理されているんです」
「うん」
「食べ物や水はもちろん、色々な儀式で使う大切な魔石や宝石を管理なさるのも、シリシュ様なんです」

 ようやく落ち着きを取り戻したメルルの言葉に、僕は静かに頷く。

「そんな魔石の中に、『喜びの石』と呼ばれるものがあるんです」
「喜びの石……それは、特別な何かが宿った石なの?」
「はい。私達オークの先祖代々より伝わる、たった一つしかない、とてもとても大切なものなんです」
「へぇ……」

 初めて聞く興味深い話に、僕は自然と引き込まれていた。

「それで、その石がどうしたの?」
「はい……喜びの石は、普通のオークが持つとただの石なのですが、ある状態のオークが持つと、ものすごく重くなるんです」
「重くなる……それは、メルルでも耐えられないくらい?」
「はい。私より力持ちのオークでも、持っていられなくなってしまうくらいに」

 女の子に向かって使う言葉ではないけれど、メルルは力持ちだ。
 時々、ハンスさんから頼まれて、建築用の木材や石材運びを手伝うくらいなのだから、相当なものといえるだろう。彼女がオークであることを考えれば当然なのかも知れないが、建築資材を軽々と抱えて歩くその姿は、なかなかに不思議な味わいのあるものだった。

「じゃあ、その『ある状態』っていうのは、一体どんな状態のことを言うの?」
「はい、あの、それは……」

 一瞬、百面相を再開しかけ、しかしそれをぐっと堪えて、メルルが口を開く。

「あの……そのオークが……妊娠、していると……その……ものすごく、重くなるんです」
「へぇ……え?」
「えっと……あの……私、先月くらいから何となく、その……予感があって……それで、シリシュ様にそれを話して……」
「う、うん」

 メルルが僕に何を伝えようとしているのか。
 何か、何かとんでもないことが、最高に嬉しいことが、判明しそうな。
 その予感が心臓に早鐘を打たせ、口の中をからからに乾燥させていく。

「それで、シリシュ様が喜びの石を持たせてくださったんですけど……あの……ものすごく、重たくて……落としちゃいました」
「……と、言うことは?」
「わ、私のお腹に、私とダーリンの……赤ちゃんが……赤ちゃんが、います!」

 食卓で向かい合っていた状態から椅子を蹴って立ち上がり、メルルの傍らへと飛ぶように移動する。(あぁ、自分はこんなにも素早く動けたんだ)なんてことを、頭の片隅で考える。

「ここに、僕達の赤ちゃんが?」
「はい……ここに、私達の赤ちゃんが」

 お腹にそっと添えられている、メルルの両手。
 その両手に、僕の両手をさらにそっと重ねる。

「あぁ……すごい……あぁ……」
「ダーリン……」

 両手に伝わる、メルルのぬくもり。
 そして、その向こう……メルルの中に存在する、確かな命。
 その喜びが、そのぬくもりが、僕に涙を流させる。

「ダーリン……今までも、これからも、ずっとずっと一緒にいましょうね。この子を、とてもとても、幸せにしてあげましょうね」

 そんな僕の頭を、メルルが静かに撫でる。
 その顔には、いつか見た聖母を描いた絵画と同じ、どこまでも深く、どこまでも美しい微笑が浮かんでいた。

「あぁ……誓うよ。必ず、メルルを、この子を、幸せにしてみせる。絶対に……絶対に……」
「はい……私も、誓います。ダーリンと、この子と、幸せに生きていくことを」

 そうして、僕らはキスをする。
 今、この時を迎えられた喜びと共に。
 今、この時から始まる幸せと共に。

「あ、でも、お腹に赤ちゃんがいるのに、今日は転んだり、その……四回も……しちゃったり。だ、大丈夫なの!?」
 歓喜にとろけていた頭が急に冷静さを取り戻し、今日の出来事を思い起こさせる。
 何と言うか、その……大丈夫だったのだろうか、あれは。
 しかし、母となる強さを得たメルルは、余裕たっぷりの笑顔で言った。

「はい、平気です。私は、頑丈で安産なオークの女ですから。それに、ダーリンの愛は、今までもこれからも、たっぷりいただいていきますからね♪」
「あぁ〜……うん。わかった。ち、誓ったもんね。今、ここで。それもまた、幸せの一つだよね。うん」

 ホっとするのと同時に何だか嫌な予感を胸に抱きつつ、僕は頷いた。
 そして案の定、メルルがワンピースのボタンを開きだす。

「あ、あの〜……メルルさん? 胸が見えちゃってますけど?」
「ふふふふふ……いいえ、ダーリン。見えちゃっているのではなく、見せているのです」
「あ〜、なるほど。あの……もしかして、ここで、ですか?」
「はい♪ 寝室まで……待・て・ま・せ・ん」

 ガバっ、とメルルが僕の頭を胸に抱く。
 暖かさと柔らかさ満点のクッションに包まれた僕は、その中で目を白黒させる。

「明日は安息日で、お店もお休みですし……今日は朝まで、愛してくださいね。ダーリンが望むなら、私、何でもしちゃいますから♪」
「うん、あの、えっと、あ、ちょ、いきなりそんな、あ、あらら、あ、あアァァァァァ……」


 ……そして、夜が更けていく。
 どんくさい人間とオークの夫婦に、たくさんの喜びをもたらしながら。

 どんくさくても、きっと大丈夫。
 そこにお互いの心があるのなら、きっとそこから道が生まれ、愛が生まれるだろうから。

 だから、僕らは生きていく。
 今までも、これからも、一生懸命幸せに。


初の魔物娘SSです。
SSを書くこと自体、六年ぶりだったのですが……
きちんと形になっておりますでしょうか。少し心配です。

なお、作中に登場するシリシュとロビンについては、
意図的に深く掘り下げず、サラっとそのまま流しました。

別の物語として自分自身の手で描くか、
あるいは他の方が描いて下さるのをワクワクしながら待つか。

六年ぶりのSSのくせに、そんなスピンオフポイントを仕込んでおります。

09/10/19 09:43 蓮華

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