一年に一度しか会えないよりも、たとえその姿が見えずとも傍に居られる方がずっと良い

だいぶ見えなくなってきた…。
ゆっくりと、手で黒っぽい景色を覆う。元々、色のせいか、手のほとんどは黒い物体にしか見えない。鋭い爪との境目も曖昧だ。
その内…あいつのことも…。
そういえば、今日は七夕とかいう日だと、あいつが嬉しげに語っていたことを思い出した。そのためにわざわざ竹を切りに行くなんて、律儀というか、馬鹿真面目というか。
…そうだ、あいつが帰ってくるまでに、短冊とかいうのを書いてみるのも悪くないかもしれない。
願い事を書いた紙を竹に括り付けて、それで願いが叶えば誰も苦労はしないと、あの時は笑ったが、今はそんな物にだって縋りたいくらい叶えたい願いが、私にもあった。








「それで?どれを連れ帰っていいだ?」
差し出された酒を瓶のまま口をつけ、半分程一気に飲み干したヨネが尋ねると、中年の男は額の汗を拭き、おい、と襖の奥にいる者に声をかけた。
「ガルと言います…。今年で12歳になります…」
襖を閉めると、ガルという少年はヨネと向かい合うように正座し、深々と頭を下げた。
「…本当にこの子で良いんだな?」
空になった酒瓶を転がして返すと、ヨネはギロリと中年の男を睨みつける。中年の男は黙って頷いた。
「ふ〜ん…」
ヨネはその鋭い視線をガルへと向ける。
12歳、まだまだ幼い少年の目には静かに涙が浮かび、その肩はぶるぶると震えていた。
可愛い…。
そう思ったのは、何もヨネにサディスティックなものが多分にあったからではない。ガルの容姿が、男の子とは思えぬほど小さく、か細く、その涙で潤んだ目で震える姿は小動物を連想させ、ヨネの母性本能をくすぐったためだ。
ゆっくりとヨネはガルへと歩み寄り、その無駄な肉など付いていない頬を爪で触れた。ガルは嫌がる素振りこそしなかったが、手や体は自然と、触れられていない頬の側へと重心がずれていく。
「ふふっ…お前は本当に可愛いな」
ヨネはガルをひょいと抱き上げる。もはや成されるがままに、ガルはなんの抵抗もなく、ヨネの逞しい腕の中でふるふると震えているだけだった。
「約束通りこの子は貰っていく。そして、今後一切はお前たちの畑も荒らさない」
振り返り、それだけを告げると、ヨネからしたら小さめな戸口を、ガルをぶつけない様に注意しながらくぐり、家を出ていった。



「到着っと…。少しは落ち着いたか?」
ガルを腕から下ろして、その頭を撫でながらヨネは尋ねる。すると、ガルは涙目のまま頷いた。
雪に閉ざされた様な山を一時間ほど登ったところにある、ヨネが住処として使っている洞窟に到着する少し前のこと。
寒くないように、ガルをしっかりと抱きしめてヨネが住処へと進んでいると、今まで我慢していたものが少しずつ溢れ出す様に、ガルはしくしくと静かに泣き始めたのだ。
自分自身への恐怖もあるのだろうが、やはり一番辛いのは、家族と離れることなのだろうと、ヨネは予想した。
といっても、あの家族の元に戻る気など、ヨネにはさらさらなかった。
辛いのは家族のことを思い出す今だけ、そのうちに忘れてしまえる。口にこそ出さなかったが、ヨネはそんな気持ちを伝える様にガルの頭を撫で、より強く抱きしめながら、洞窟へと向かった。
「よし、じゃあ寝るぞ」
寝床、というにはあまりに簡素な、どこからか拾ってきた様な、ボロボロな布が敷かれただけのところを指さすヨネに、ガルは目を丸くした。
「なんだよ?贅沢なことは言わせないからな?」
「い、いえ、そんなことは…。ただ、すぐには食べないんだなって…」
「…ぷっ…はは…あはははは!」
言うに事を欠いて、わざわざそれを本人の前で言ってしまうガルの律儀さ、或いは馬鹿真面目さとも言える性格にヨネが気がついたのはこの頃だった。
突然笑い出すヨネに、自分は何か笑われる様なことを言ってしまったのかと、誤解したガルは顔を真っ赤に染め、また涙で目を潤ませ始めた。
「あぁ…こんなに笑ったのは久しぶりだ。ガル、って言ったよな?それはどっちの意味で言ってるんだ?」
「えっ…?ど、どっちって…?」
涙を拭きながら素直に尋ね返すガルに、ヨネは一瞬首をひねったが、ガルの年齢や、そのウブすぎる性格などから、ガルの言っている“食べる”という意味を察し、ニヤリといやらしい笑みを浮かべた。
「なぁ、ガル。私の大好物はなんだと思う?」
「…に、人間、ですよね…?」
「ば〜か、いつの時代の話だよ。あっ、でも、まぁ、当たらずとも遠からずか…」
態とらしいヨネの舌舐めずりに、ガルはぶるりと体を震わせる。そんなガルがやはり小動物の様で可愛らしく、ヨネはまた笑った。
「まぁ、とって食ったりしないから、安心しろよ。さぁ、寝るぞ」
震えるガルの手を引っ張り、強引に寝床へと倒すと、ヨネもすぐ横に身を横たえ、またガルを抱きしめた。
「寒くないか?」
胸の谷間に埋められたガルの頭がぎこちなく頷く。その耳は真っ赤に染まっていた。
本当は今夜の内にまぐわってしまっても良かった。だが、こうして抱くと、ほんの少しでも力を込めれば折れてしまいそうなほど、ガルは華奢な体つきをしていることを実感させられ、さすがのヨネも諦めざるを得なかった。
もっとも、ガルを傷つけるのは嫌だったが、どれだけ泣こうが、喘ごうが、ヨネにとって、そちらは大して重要なことではなかった。








どくん、どくん、どくん…。
どれくらいの時間が経っても、一向に胸の高鳴りは落ち着きを取り戻そうとはしてくれなかった。
村を荒らす化け物の生贄となれ、そう命じられ、はい、分かりましたと言えるほど、ガルは大人ではなかった。
なぜ自分なのか、他の子ではダメなのか、兄弟たちではダメなのか?
泣いて両親に尋ねると、両親はガルを何度も叩いた。それを兄弟たちが止める様なこともなかった。
ガルは今まで自分が両親に疎まれていると感じたことはなかった。しかし、両親は自分を他の兄弟たちと比較していたのかもしれない。体つきもよく、農作業もテキパキとこなせる長男。長男とは違い体つきは良くないが、勉学に長けた末弟。
そんな中で自分は、滑稽で愚かにも、なんの不安も抱かずに生きてきた。
…では、ここに連れて来られるまでの涙の意味はなんなのだろう?
自分を生贄にした両親や村人たちとの別れの悲しさか、或いは、その者たちへの悔しさからか、それともこの化け物への恐怖の念からか…。
分からない…。ただ…。
頭上から聞こえてくる規則正しい寝息が、時折髪を揺らしてむず痒い。背中に回されたクマよりも大きい手は、しっかりと自分を抱きしめて離さない。
この母の様な温かさが心地よく、そんなことを頭から消してくれる。だが、同時にそれはまだ幼いガルに感じたこともないような胸の高鳴りも与えていた。
もっとも、ガルにそれが具体的にどういうものなのか理解することは出来なかった。










「…狩りに行くんですか?」
備蓄していた食料で朝ごはんを済まし、外の様子を伺っていたヨネが小さく告げると、寒さに身を震わせながら聞き返した。
「ああ、さすがにその量じゃ心許ないからな」
ガルは洞窟の奥に置かれた食料に目をやる。そこには、ガルの村から奪ったであろう冬野菜や、何かの肉などが山積みにされていた。
元々は自分の村の物なのに、そんな風に思ったのはヨネに説明された一時だけで、朝食を食べる頃にはなんの抵抗もなかった。
「あれだけじゃ足りませんか?」
「まぁ、正直分からないっていうのが本音だ。私だけならどうとでもなるが、お前もいるからな…」
「…すみません」
村の生贄として差し出されたという経緯からか、自分の存在自体に懐疑的なガルは、取れてしまいそうな程で冷たい手で握り拳を作る。乾燥していたせいか、手の平からは爪が食い込み、血が流れる。
「謝るなよ」
俯くガルの手を取り、ヨネは優しくそこから流れる血を舐めとる。
「これでよし…!じゃあ、行くぞ!」
出血が止まると、ヨネは昨夜と同じ様にガルを抱きかかえ、真っ白に染まり、太陽の光を反射する銀の世界へと歩みだした。

「あっ、あっちにもいますよ!」
「いや、もう十分だ。これ以上は必要ない」
蜘蛛のお尻の様な部分に乗り、銀の世界に溶け込む兎を指さすガルにヨネは小さく首を振る。すでにヨネの両手には5羽の収穫があった。今のところはこれ以上は必要ない。
洞窟へ帰ろうと、兎に背を向けるとガルは口惜しげなため息を吐いた。
「ふふっ、人間は欲深いな…」
「…そうでしょうか?必要以上あっても、決して困らないはずですが?」
「そうだな、少なくとも私たちはな。でも、兎たちはどうだ?」
「…っ!」
ガルはヨネの手の中にある兎たちの亡骸を見つめ、口を噤んだ。
あっても困らないだけで、必要不可欠な訳ではない。あれば良い、その程度の軽い気持ちであの兎の命を奪おうと提案していた自分が恐ろしかった。
「ごめんなさい…」
「…まぁ、難しいことが言いたい訳じゃないんだ。ただ、私は必要な物さえあればそれで良いんだよ」
ヨネは背中越しにガルの顔を見つめようとしたが、彼は兎がいた方向を見つめていた。狩りをしていた最中はずっと首に回されていた手が、今は肩へと置かれ、ヨネは何となく首回りの肌寒さを感じた。

狩りに奔走し、気がつけば生えていた木々が、竹へと変わっていることに、ヨネは今まで気がつかなかった。ついつい、ガルの声に合わせて、素早い兎たちを追うことが楽しくなってしまっていた。
しかし、また厄介な竹林とは…。
「ついてないな…」
「それはその収穫についてか?」
ガルにも聞こえない様にポツリと呟いた言葉に、まさか返答が返ってくるとは思わなかったヨネは驚きのあまり両手に抱えていた兎たちを全て投げてしまった。
「ひぃ、ふぅ、みぃ…ふむ、5羽か。十分ではないか?」
「タ、タイガ!いるのなら、その息を潜めるのをやめろよ!」
ヨネが落とした兎を拾い集める中、ガルが声の主を探そうと辺りを見渡す。声こそ聞こえたが、姿はまるで見えない。大きな声でもなかったので、遠くから話しかけている訳ではない。しかし、その声がどこから聞こえてくるのか、同じ様な風景の竹林では検討もつかなかった。
「まるで見込みのない子だな」
いきなり耳元で囁かれた声にガルは飛び上がり、冷たい雪の中へと落ちてしまった。
「おい、タイガ。あんまり驚かすなよ」
「驚かすつもりはない。ただ、あまりに無防備だったからな」
顔に付いた雪を払い、声のした方を向くと、ガルは驚いた、黄金色に黒い線を引いた様な独特の模様の両手足を持ち、ヨネに負けず劣らずの薄着の女性が立っていた。ガルもその独特な模様には身に覚えがあった。
「と、虎…!?」
「なんだ知ってるのか?こいつは人虎のタイガだ。ここら辺の竹林はこいつの縄張りだよ」
片手でひょいとガルを背中に戻すと、ヨネはタイガに向き直る。
「縄張りにしているつもりはない。あくまでここら辺に住んでいるだけだ。ただ、正直に言えば…」
タイガは腕を組み、ヨネの抱える兎を見つめる。
「ここには私以外の者たちも住んでいる。そんな者たちのためにも、あまり多くの獲物を狩られると困る」
言葉こそ落ち着いているが、タイガの目は確実に何匹か置いていけと言っていた。山の事情にも詳しくないガルにさえ、それを察することはできた。
「…全部ここら辺で獲った訳じゃないんだ。それに今はこいつの分も必要だしさ」
「ふむ…。まぁ、殺してしまったのでは取り返しも…」
「ハクション!」
タイガの言葉を遮り、ガルは大きなくしゃみをした。雪に落ちたためにその体は冷えてしまったらしい。ヨネは心配そうに声をかけるが、ガルのくしゃみはなかなか止まらなかった。
「山で生きる見込みがない上に体が貧弱とは、おかしな奴を攫ってきたものだな」
「うるせぇ!そもそも、お前が驚かさなきゃ、ガルだって落ちなかっただろ!」
「過保護だな…なら、温泉にでも行くか?」
「おんせん?」
鼻水をズルズルと啜りながら、ガルは首を傾げた。










恥ずかしさに顔を染めながらも、しっかりと背中に張り付くガルを背負い、タイガと共に山を登っていくと、次第に温泉独特な、硫黄の臭いが鼻につき始め、ヨネは顔をしかめる。温泉に入ってしまえば、そこまで気にすることもなくなるのだが、入るまでの間、この臭いは案外臭い。
「あら、珍しいお客様ですね。それに初めましての方も」
「よっ、ユキ」
「この前の冬ぶりだ。珍しくはないはずだろう」
周囲はそれなりに雪かきがされ、後ろからは大量の湯気を出す、旅館の様な建物に入ると、番台から青白い肌をした女性が顔を覗かせた。
建物の中は暖かく、ガルはゆっくりとヨネの背中を降り、にっこりと微笑む、ユキと呼ばれた女性に頭を下げた。
「あら、とても礼儀正しい方ですね。初めまして、ユキと申します。この温泉の管理をしています」
「ガ、ガルと言います。あの、人ではないんですか?」
ガルは失礼と承知の上で、おずおずと尋ねた。ヨネやタイガは見かけから人間ではないことはすぐにわかるのだが、目の前にいるユキは、多少肌の色が違うというだけで、あとは人間そっくりだった。
「ごめんなさい、私は雪女。残念ながら人ではないんです」
「そう、ですか…。失礼しました」
身を乗り出していたガルはゆっくりと身を引き、深いため息を吐いた。
「…ユキ、一匹調理を頼んでもいいか?一風呂浴びたらタイガの奴と食べたいからさ。他の奴は保管できる様にしておいてくれ」
「え、ええ、分かりました。他にお客様もいませんから、やっておきます」
兎たちをユキに手渡すと、俯くガルの手を引き、ヨネは先に行ってしまったタイガの後を追って暖簾をくぐる。
「ふぁ…!?」
顔に張り付いた、特に何も書かれていないピンク色の暖簾をどかしたガルの目に最初に入ったのは、一糸纏わぬ姿のタイガだった。元々露出度の高い、というよりもほとんど大事なところを隠すだけの衣装ではあったが、あるのとないのでは大違いだ。
「先に入っているからな」
そう言って脱衣所を出て行こうと歩くたびに、タイガの引き締まった体に付いた二つの豊満な胸が揺れ、ガルの顔を沸騰させていく。
「…ぼ、僕はあっちで待ってます…」
「はぁ?何言ってるんだよ。早く私たちも入るぞ」
両手で顔を隠しながらゆっくりと後ずさりするガルを捕まえると、ヨネは何の躊躇いもなくその衣服を剥がす。

「おぉ〜!久々に来たけど、やっぱりいいなぁ〜」
脱衣所を出ると、震え上がるほどの冷気がガルの体を包んだ。それもそのはず、そこは何個かの洗い場とゴツゴツした岩で囲われた温泉があるだけで、すぐ側では真っ白な雪が現在進行形で降り積もっている露天風呂だった。
「ぼ、僕、あっちで体を洗ってきます…」
真っ赤に染めた顔を俯かせ、大事な部分をタオルで隠しながら、ガルはゆっくりと離れようとするが、ヨネはそんなガルを抱き上げ、温泉へと飛び込む。
「あぁ〜。あったまる〜」
「少しは静かに入れないのか」
飛び散る水飛沫にタイガは不満げな顔を見せるも、ヨネはどこ吹く風と気にせず温泉に浸かる。ガルはヨネの手からそっと抜けると、タイガやヨネを視界に入れないよう、二人に背を向けて体育座りで温泉に浸かった。
温かい…。
冷えた体のせいか、温泉のお湯はとても温かく感じられた。お風呂には毎日入っていたが、温泉に入るのは初めてだった。もちろん、女性と一緒に入るのも。
温泉って、女の人と一緒に入るものなのかな…?
男湯、女湯、そして混浴という一般的なことを知らないガルが、間違った知識を覚えようとしていた時、急に腰に手が腰に回され、背中に柔らかいものが二つくっつけられた。
「ひゃっ…!?」
「こ、こら暴れるな…!」
急なことに手足をばたつかせるガルを背中から抱きしめたのはタイガだった。タイガはその強い力で強引にガルを大人しくさせる。
「どうだ〜?抱き心地良いだろ〜?」
温泉によって蕩けきった声で尋ねるヨネに、ガルをお姫様抱っこしたタイガが歩み寄る。
「細身で特に無駄な肉も付いていないが、かといって骨張っているというわけでもない…。ふむ、心地が良いな」
「ぁぅぅ…」
真っ赤になった顔を小さな手で目一杯覆い、ガルはタイガを見ないように注意するが、タイガが歩くたびに腕に柔らかいものがぶつかり、恥ずかしさが込み上げてくる。
「しかし、こうしていると…」
ヨネの側に座ると、タイガは不意に抱きかかえたガルの首元に顔を寄せた。
すん、すん…。
「ひゃぁぁ…!?」
突然首筋に吹きかけられる吐息にガルは女の子の様な悲鳴を上げる。
「なんだが、ムラムラしてくるな…」
「おい、タイガ、人のに手は出すなよ?」
「少なくとも、まだこいつからお前の匂いはしない。ということは猶予はあるはずだが?」
戯ける様に告げるタイガをヨネは鋭い目つきで睨みつける。目を閉じていても、肌でその殺気を感じたガルは、ぶるりと体を震わせる。
あまりに人間味溢れる言動で忘れがちではあるが、二人とも人間ではない。その姿は異形のものだ。一度争いなど起きれば、お互い無傷では済まない。
「…冗談だ」
またいつの間にか降り出した雪でお互い頭を真っ白に染めた頃、タイガはふっと肩の力を抜き、ガルをヨネに手渡した。
「笑えねぇ冗談だ」
ガルを引っ手繰るとヨネは庇うようにタイガから身を背ける。
「私だって人のものを奪うなんて下賎なことはしない。だが、抱き心地が良かったのは確かだ。悪いがもう一度抱かせてくれないか?」
「い・や・だ!」
「そうムキになるな。さっきのはほんの冗談だ」
だから、ほら、とタイガはガルの片手を掴んで引っ張る。
「ふざけんな!」
ヨネは吼えると、ガルの体ごと引っ張り、タイガの手を引き離すように試みる。しかし、タイガの手は獲物を離さない牙の様にガルの手を喰らいついている。
「あ、あの…」
「離せ!」
「もう一度抱かせてくれたら、すぐに返す」
ガルの悲痛な声は、睨み合う二人には聞こえない。両手を掴まれている上に、引っ張られては、大事なところを隠すどころか、もはや丸見えだった。もっとも、手を引く二人はそんなガルの様子には気づかない。それだけが気休め程度にはなっていたが…。
「みなさぁ〜ん!食事の準備が出来ましたよ〜!」
大きな声で呼びかけ、濡れないように裾を捲ったユキが出てきた。
「お二人とも何を取っ組み合って…あぁ…お邪魔しました」
ガルの、主に下半身の様子から察したのか、ユキはにっこりと微笑むと、ごゆっくりとだけ告げ、湯気の中に消えていった。






「すっかり暗くなったな…。寒くないか?おい、ガル?」
冬は日が顔を隠すのが早い。昼食兼夕食になってしまったタイガとユキとの酒盛りがお開きになり、巣へと帰る最中、ヨネがふと腕の中を見つめると、調理されてかさばらなくなった兎肉を抱えながら、ガルがすぅすぅと寝息を立てていた。初めてだらけのことに疲れてしまったのだろう。
気持ちよさそうに眠るガルの頬をヨネは爪で撫でる。冷んやりした爪が嫌らしく、ガルは顔を背け、また安心したように寝息を立て始める。
可愛い奴…。
好きな子ほど虐めたくなってしまうとはよく言ったもので、ヨネはその後も何度か爪をガルに押し付けては、その反応を楽しんだ。そうしてよそ見をしながら歩いていると…。
「いっ…!?」
雪の中に潜んでいた何かが噛み付いたかの様な痛みが一本の足に響いた。
危うく投げそうになるガルを慌てて抱き寄せ、ヨネはゆっくり痛む足の方へと視線を落とした。雪の中から少し顔を出したそれは、月明かりに照らされ、その鋭い歯を光らせていた。トラバサミだった。
「くっそ…!誰がこんなところに…!?」
恐らくは雪が降り積もる前に人間が仕掛けたのだろう。それが雪に埋もれて見えず、不幸にもヨネが踏んでしまった。
「ちくしょう…!外れない…!」
眠っているガルを起こすのは偲びなく、ヨネは強引に足を引き抜こうとする。しかし、その鋭い歯はしっかりとヨネの足に喰らい付き、離そうとはしなかった。
「このっ…野郎…!」
ウシオニの特性上、痛みや傷には強い耐性を持つことが幸いし、ヨネは思い切り足を動かして、やっとの思いでトラバサミから脱した。だが、傷はかなり深かったのか、動かした時に飛び散った血が辺りの雪に化粧をさせていた。
はぁ、はぁ、と乱れた呼吸を整えつつ、ヨネは足に目をやる。さすがの治癒力というべきか、足に開いた穴はだいぶ塞がってきていた。
もう問題ないだろう、息が整い、歩き出そうとした時、一瞬、ヨネの視界が真っ暗になった。
咄嗟に体を木にもたれ掛からせ、ガル共々倒れこむを何とか防ぐ。しかし、木にぶつかった時に落ちた雪がガルの顔に少しかかってしまい、ガルは慌てた様子で飛び起きる。
「な、何ですか!?」
「あー、すまん。ちょっと、ぼーっとしてたら木にぶつかった。気にせずに寝てくれ」
ヨネはガルに付いた雪を払い、温かい手で頭を撫でる。完全には意識が覚醒していなかったのか、ガルは納得し、再び目を閉じた。
腕の中から規則正しい寝息が聞こえてくると、ヨネはほっと胸を撫で下ろし、自分の手を煌々と輝く月に向けた。
輝く月を真っ黒な手が隠す。手が月光を遮断し、目の前が暗くなる。だが、先ほどのような真っ暗闇ではない。
「…貧血か?」
辺りに再び目を向ける。確かに多いと言えば多い量の血が流れている。血を流すことなど最近はなかったから、恐らくそれが原因だろう。ヨネはそう結論付けると足早に巣へと戻った。





冬眠、と言っても、寝て過ごす訳ではなく。どちらかというと、天気の悪い日に人が家に引きこもって過ごすことに似ていた。
多少天気が良ければ、山の散策などしたが、ほとんどは巣穴で過ごしていた。
そんな退屈な冬眠季節が終わって、雪が地面を隠す割合が減り、山のほとんどが緑で覆われてきた頃、ガルとヨネは並んで山を歩いていた。
「あっ、あった!」
両手に抱えきれないほどの薬草や山菜などを抱えたガルは、それらを落とさないように気をつけながらしゃがみこみ、新しい薬草を摘み取った。
「…なぁ、ガル。そんなの何の腹の足しにもならないだろ?」
ヨネはため息混じりに尋ねる。
春になったので熊などを狩りに出かけようと誘ったはずが、こんなにも採集に熱が入ってしまうとは思っていなかった。今まで、肉食なヨネにとって山菜や薬草などほとんど眼中になかった。ガルの村から野菜を奪っていたのも、自分が食べたいからというよりも、他に別の目的のためだった。
もっとも、ガルが出会った頃のようにビクビクして、笑顔になることがほとんどなかった頃に比べて、今のように笑顔でいてくれることの方がヨネにとっても嬉しいことだった。
「よいしょっ…。食べても良いんですが、せっかくだから薬草などは街に売りに行きたいです」
「街ねぇ…」
持ち切れない山菜などを半分受け取ると、ヨネはどこか気乗りしない様子で呟いた。そんなヨネにガルは首を傾げる。
「駄目でしょうか…?」
「売りに行くのは良いんだが…。正直私はあんまり行きたくない…」
「どうしてですか?」
「そりゃあ…まぁ、うん…色々あるんだよ、色々…ははは…」
引きつった笑みで乾いた笑い声を上げるヨネから、明らかに何か誤魔化しているのはガルにも分かったが、特に深く尋ねる様なことはしなかった。
途中にあった大きな滝で軽くかいた汗を流すと、二人は巣穴へと戻った。

「あぁ、そうだ。タイガのところを訪ねてみればいいんだよ」
結局、熊を狩ることもなく、取り過ぎない程度に薬草や山菜などを持って巣穴に帰った二人が、昼食を食べ終わり、食後の休憩をしていた時、突然にヨネが声を上げた。
「タイガさん?あの虎の方ですか?」
「そうそう、雪も無くなったことだし、あいつもたぶん筍取りしてると思うからさ。一緒に街へ売りに行ってくれば良いんだよ」
「そうですか…」
我ながら中々の考えだと内心誇らしい気持ちになっていたヨネだったが、ガルの何とも気の無い返事を聞くと、肉体的には強固なヨネもさすがに傷ついた。
「おいおい、人がわざわざ考えてやったのに、その返事はないだろ?」
「ご、ごめんなさい…。でも、僕はヨネさんと一緒に行きたかったんです…」
「んなっ…!?」
あまりに突然なガルのアプローチに、ヨネは素っ頓狂な声を出す。
普段はヨネさん、ヨネさんと慕ってくれるガルを、ヨネは弟の様に感じ、慣れてしまっていたが、不意に顔を出す男のガルには中々耐性がついていなかった。もっとも、ほぼ不意打ちに近い形で出てくるために耐性も何もないのだが。
「…ヨネさんは、僕と一緒は嫌ですか?」
「い、いや!だから、お前と一緒が嫌とかじゃなくて…!その…!」
涙目で尋ねてくるガルにヨネは慌てふためく。
ガルと暮らして数ヶ月が過ぎたが、こうして涙を見たのはもう数え切れない程だった。
泣き虫というと、声を上げて泣くことをイメージしやすいが、涙を浮かべるだけでも泣き虫というなら、ガルは泣き虫だ。だが、そんなガルもヨネは嫌いではなかった。
思いや感情を伝えるのは何も声だけではない。
「はぁ…。ごめんな、ガル。お前はタイガと街へ行って来てくれ。その間に私は狩りに行ってくる。さすがに食料がなくちゃ生きていけないからな」
「…ごめなさい。僕がはしゃいでしまって…」
「気にすんなよ。私も長い間この山で暮らしてるけど、こんなにたくさんの山菜や薬草が生えてるなんて知らなかった。教えてくれて、ありがとうな」
肩を震わせるガルの頭をポンポンと叩くと、ヨネは優しく微笑んだ。

「別に構わないぞ」
何処かで拾ったのか、たくさんの筍を入れた網かごを背負ったタイガがこちらに目もくれず、作業を続けながら告げた。
「そうか、良かったな、ガル。じゃあ、私は…」
「…待て」
そそくさと帰ろうとするヨネをタイガは鋭く止めた。体を一瞬びくつかせたヨネは振り返らず、わざとらしく肩を竦めた。
「な、なんだよ?まだ何か用かよ?」
「こちらを向け」
「背中を向けてだって、話くらい…」
「向け」
有無を言わせぬタイガの物言いに、ヨネは仕方なしに振り向いた。目を、その何と書かれているかも分からぬお札の様な布で隠しながら。
「…そんなに私と顔を合わせたくないか?」
「べ、別にそういう訳じゃない。ただ、こうしてると…」
「こうしてる、何だ?」
「こ、こうしてると、ほら!ガルを食べたくなる気持ちが治るんだよ!」
昼下がりの気持ち良い風が三人の間を吹き抜ける。
風で前髪が揺れ、俯いたガルの真っ赤な顔がちらちらと垣間見える。
「…まぁ、それ相応の節度を持ってそういうことはしろよ?」
見せられても困ると、永遠にも思える様な沈黙の時を、特に表情も変えずにタイガは破ると、荷物を取ってくると言い残し、去って行った。
「…あの、ヨネさん…。本当はどうしたんですか…?」
タイガがいなくると、ガルはいまだに赤い顔を上げずにヨネに尋ねた。水浴びをした後から、ヨネがずっと目隠しでもするかの様に布を巻いていることにガルも違和感を感じていた。
「…別に特に意味なんかないさ」
「そう、ですか…」
こうも軽く遇らわれては、ガルにそれ以上聞く勇気はなかった。





一緒に来てくれなかったヨネを心配しつつも、ガルはタイガの先導の元、街へと下って行った。
時刻は昼下がり、遅い昼食を食べる人もいれば、昼食を食べ終わり、既にもう一仕事と威勢良く声を張り上げている人もいる。おそらく午前中よりは人通りも少なくなったのだろうが、それでも、まだ多くの人が歩いていた。
「こっちだ、逸れるなよ」
差し出されたタイガの手を掴むと、ガルは可能な限りタイガに身を寄せた。何度か父親と野菜を売り来たことはあったが、その時には感じなかった人の多さにガルは身を縮ませた。少なからず、その時は人は皆優しいと思い込んでいた。
繋いだ手に引かれ、背中に背負った籠だけを見つめながら歩いていると、不意に止まったタイガのお尻にガルは突っ込んでしまった。慌てて離れるガルにタイガは何事もなかったかのように、目の前の店を指さした。
「この料理屋だ」
赤くなった顔をタイガに見せないよう、ガルは上目遣いで店を見上げる。
何と読むかも分からない文字で書かれた看板が掛けられたその店は、昼にも関わらず店内は薄暗く、曇りガラスの向こうに見えるのは、ぼんやりとした明かりが点々と見えるだけだった。薄気味悪いというよりは、何となく落ち着いた佇まいのお店だった。
ドアを開けると、チリンチリンと綺麗なベル音が店内に鳴り響く。外から見えた明かりは蝋燭だったようで、その仄かな光に照らされたお客たちはガルたちの方など見向きもせずに、静かに会話を楽しんでいた。
入り口付近でほんの少し待っていると、暗い奥から頭に山羊の角の様な物が生えた、いかにも品の良さそう女性がやって来た。
「やぁ、タイガ。久しぶりだね。また君の美味しい筍を食べられると思うと、それだけでお酒が進むよ」
「別に私が育ててる訳じゃない。勝手に育っている物を拝借しているだけだ」
「いかにも君らしい答えだね。それで、この可愛い少年はどちら様かな?」
女性はしゃがみこみ、ガルと目線を同じにする。たったそれだけでガルの心臓はどきりと高鳴る。
紫色よりは紅色と言った方が近い髪で少し隠れた黄色の目が、薄暗い店内ではより一層輝いて見えた。その輝きはガルの思考をぼんやりさせ、瞳に吸い込まれる様な錯覚に陥られせた。心臓はどくん、どくんと高鳴り、頬を熱くしているのに、思考はまとまらず、もはやくらくらと立っていることさえ覚束なかった。
「…早く取引を終わらせよう。こいつが淫気に当てられる前にな」
「ははは、さすがに若すぎたね。ごめんね、えっと…」
「ガルだ。ガル、こっちはサテュロスのプローストだ」
よろしくね、質感の良い純白の手袋をはめた手で優しく頭を撫でてくれるプローストにガルはふらふらしながら何とか頭を下げた。
「ふ〜ん、ガル君か…。つかぬ事を聞くが、君のお嫁さんはウシオニかな?」
「えっ…!?は、はい…」
頭がふらついていても、初対面の者に言い当てられては驚く他なかった。返事をした後、徐々にガルの顔が熱くなっていく。
お嫁さん…。
プローストの何気ない言葉が頭の中をぐるぐると回り、それは次第にヨネの姿へと変わっていく。連れ去られはしたが、両親、兄弟たちよりもヨネが自分のことを気にかけ、面倒を見てくれているのは確かだった。それに、指の数程ではあるが、“そういう”こともしたことがある。だが、改めてお嫁さんなどと言われてしまうと、変に意識しまう。幸いなのはここにヨネがいないことだった。
「可愛らしい旦那さんがいてお嫁さんも幸せだね。それでタイガ、どうして彼を連れて来たんだい?」
「ああ、今日はこいつの採った山菜や薬草も売りたい」
熱くなった頬に手を当てて俯くガルの頭をぽんぽんと叩いてから立ち上がったプローストに、タイガは背負っていた籠を軽々と手渡した。
「重っ…!」
タイガの手が離れた瞬間、がくんと落ちそうになる籠を何とか落とさない様に、着地させると、プローストは籠の中を覗き込み、感嘆の声を上げた。
「おおっ!これはまた立派だね!それに…」
混ざらない様に仕切られた籠から山菜をいくつか手に取り、プローストはそれらの匂いを嗅ぐと、少しだけちぎって口に入れた。
「どうだ?」
「すごく美味しいよ。是非とも買わしてもらいたいね。ただ…」
山菜を籠に戻すと、プローストは薬草へと手を伸ばし、それらを鼻に近づける。そして、苦笑いを浮かべた。
「残念だけど、薬草の方は買ってあげられないかな…。匂いがちょっと強過ぎる」
昔から採っていたガルにとっては特に気にならないのだが、馴染みもない上に嗅覚の鋭いプローストやタイガにはかなりきつい匂いらしい。
はぁ、自然と出てしまったため息を誤魔化すように咳払いするガルに、プローストは再び目線を合わせた。
「ごめんね、でも、この薬草、きっと彼なら買ってくれるはずだよ」




「…そこまで良い草じゃねぇなぁ。山にはこんなもんしか生えてないのか?」
口に含んだ薬草をぺっぺっと吐き出し、ぼさぼさの髪の毛をくるくると巻きつけながら、気だるげに尋ねてくる金髪の少年にガルは申し訳なさそうに頷いた。
プローストに紹介された、こじんまりした一軒家の診療所に向かうと、ガルとそう年齢の変わらない金髪の少年が出て来た。
事前にプローストから金髪の男であることは伝えられていたために、ガルは金髪というだけで高貴な男を勝手に想像していたのだが、こんなにも幼く、こんなにも品の無いとは毛ほども思っていなかった。
「…なら、いらないんだな?」
金髪の少年の太々しい態度が気に入らないのか、タイガは突き放すように告げ、籠を持ち上げようする。しかし、金髪の少年は体全体で籠に蓋をし、それを拒む。
「良いものじゃないとは言っても、別にいらないなんて言ってないだろ?早合点すんなよ」
タイガが渋々手を離すと、金髪の少年はやれやれとばかりに乱れた白衣を着直した。もっとも、元々身長に合わず、ほとんどを引きずっていたために、よれよれであることは変わらない。
「ちょっと待っててくれ、今金を…」
金髪の少年は言いかけたところでふと足を止め、ガルたちの方を視線をやる。怪訝そうに見つめる金髪の少年の目が自分たちを見ていないことに気がつくと、タイガとガルも同時に振り向いた。
その瞬間、ガルはびくりと体を震わせた。ガラス戸の外には二人の見知った茶髪の少年と女性が立っていたからだ。
「ガル…!?」
ガルに気がついた二人は慌てて診療所へと入ると、ガルへと近づこうとする。しかし、タイガがそれを仁王立ちで遮った。
「そこを退いてください!」
女性は自分よりも大きいタイガに叫ぶ。しかし、タイガは退かず、じっと二人を見つめた。
「…急に入ってきて不躾な奴だなぁ〜。あんたら誰よ?」
何も発しないタイガの代わりに金髪の少年が尋ねると、これまた女性の代わりに顔色の悪い茶髪の少年が咳をしながら答えた。
「僕たちは家族です。冬に魔物に連れ去られてしまったので、死んでしまったとばかり思っていたのですが…」
「ふ〜ん、まっ、興味ねぇけどさ、とりあえず出てってくれよ。俺、人間なんか診ないし」
二人に金髪の少年は手をひらひらさせた。それに驚いたのは今までずっとタイガを睨んでいた女性だった。
「そんな!?この子はこんなに顔色が悪いんですよ!?」
「ふ〜ん、だから?」
茶髪の少年の顔を心配そうに手をやり、女性はまた甲高い声を出す。しかし、そんな声が鬱陶しいらしく、金髪の少年は耳を抑えながら椅子へと座り、くるくると回る。
「だからって…ここは良いお医者様だと聞いたから来たんですよ!」
「へ〜、そうかい。御足労ありがとさん、お帰りはそちら」
あくまで診療するつもりがない金髪の少年の態度に女性はさらに腹を立て、罵声を飛ばすだけ飛ばすと、タイガの後ろに隠れていたガルの手を強引に掴んだ。
「ガル、帰るよ!」
「ひっ…」
鬼の様な形相の女性にガルは怯える。そして、そのまま強引に連れて行こうと手を引くが、ある程度タイガと離れるとそれ以上動くことが出来なかった。
「その手を離せ」
女性が振り返ると、ガルの手をしっかりと握ったタイガの姿があった。女性に怯えたガルが無意識の内に掴んでしまった手を、タイガはずっと離さずにいてくれたのだ。
「そっちこそ、その手を離しなさいよ!だいたい何様のつもりよ!私たちはこの子の家族よ!」
「この子の家族はヨネだ。お前たちではない」
「何を訳のわからないことを…!」
女性がより強い力でガルを引くがまるで動かない。むしろ、これ以上引っ張ればガルの手が抜けてしまう可能性もある。しかし、女性にそんな心配は浮かんでいない。
「家族どうこうはどうでも良いんだけどよ、悪いが出て行くのはあんたらだけだよ。こいつらとはまだ商談が成立してないんでね」
くるくると椅子を回しながら、金髪の少年は近くにあったメスを一本少年の首筋目掛けて投げつける。どすっ、という鈍い音共に、メスは木の柱へと突き刺さる。当たりこそしなかったが、そのメスは確実に茶髪の少年の首の表皮を切り裂き、すぐに血が出始める。
「なんてことするの!?」
女性はガルの手を離すと、すぐに茶髪の少年の首へと手を当てて止血する。元々顔色の悪かった茶髪の少年は出血に気がつくと、へなへなと崩れてしまう。
「この子にもしもことがあればただじゃおかないわよ!?」
「おおっ、怖い怖い。じゃあ、今の内に二人共口封じしておかなくちゃな」
けらけらと笑いながら再びメスを構える金髪の少年を女性は鋭い目つきで睨みつけると、その視線を次にガルへと向けた。
「ガル、帰るわよ!」
「…」
恐ろしい顔の女性から目を逸らし、ガルはそっと顔を上げ、タイガを見つめた。タイガもその視線に気がついたのか、静かにガルを見下ろすと、握っていた手を離した。
「自分で決めろ」
冷たくも強く、凛とした声で告げるタイガに、ガルは少し悩んだ後、しっかりと頷いた。




ガルと別れ、一人洞窟へと戻らず、汗を流した滝へとやって来たヨネは、その目を覆っていた布を取った。
滝と言っても、別段流れの激しいものではない。水飛沫の飛び上がる場所から離れれば、水たちは勢いを抑えて、美しい水面になってくれる。そんなに水面に顔を投影させ、ヨネは深くため息を吐いた。
夜には煌びやかに光るはずの黄色の目玉が、白く濁っていた。
自覚がなかった訳ではない。時々視界がぼやけたり、黒く濁ったりしていたのは確かだった。ただその時は、長期間洞窟で過ごしているせいだろうと、思っていた。しっかり休めば治るだろうとも。
しかし、春になって洞窟を出て、ヨネは愕然とした。今は本当に朝なのかと聞きたくなるほど視界が暗かったのだ。
本来なら錯乱するほどの恐怖や不安であろうが、ウシオニとしての生まれの強さか、ヨネ自身の精神的強さか、或いはガルという大切な人がいるからか、ヨネはそれを必死に押さえ込むことが出来た。
熊狩りに出かけようと誘ったのも、この視界がどれほど生活に影響を与えるのかを試してみるつもりだったからだ。そして、その結果はガルの山菜採りを止めなかったことから察せられる。
「バチ、当たったかな…」
自身の投影を掻き消す様に、乱暴に水を掬い上げ、顔を洗う。しかし、水面にはすぐにまた自分が映る。
もはや不安や恐怖はあまり感じない。あるとしたら、後悔と自責の念くらいだろう。下らない方法で愛すべき人を奪って来た愚かな自身への。
「ははは…。馬鹿な癖に頭なんか使うべきじゃなかったんだな…。あいつがそうした様に、力づくでやるべきだった…。あいつの気持ちなんか考えなきゃ良かった…」
遣る瀬無い気持ちがヨネの中に積もる。その気持ちを洗い流す様に、ヨネは顔を水の中へと押しやった。
これは罰なのだ、そう言い聞かせ、涙を流す自身を許さずに、何度も何度も。




いつの間にか降っていた雨に気がついたヨネが洞窟へと帰ってから、そう時間が経たない内に、服はびしょびしょに濡れ、ぺたりとくっついた前髪のせいで表情の伺えぬガルが一人帰って来た。
「あぁ、お帰り。どうしたんだよ?びしょ濡れじゃないか?ちょっと待ってろ、今は火をつけてやるから」
布で隠した、今なら白に赤も混じっているかもしれない目をガルに見られない様にちらりちらりと出しながら、ヨネは火を起こす準備をする。雨で濡れたのは自分も同じだったのでちょうど良かった。
「よ〜し、火がついた。早くこっちへこいよ。風邪引くぞ?」
洞窟の入り口付近で立ったままのガルに声をかける。しかし、いつまで経ってもガルが歩いてくる音は聞こえない。不審に思ったヨネが布をずらして振り向くと、そこには外を見つめて立ち尽くすガルの姿があった。ヨネは布を再び巻くと、ゆっくりとガルに近づいた。
「何かあったのか?」
「…」
ヨネの問いにガルは答えなかった。
「こっち来いよ。そこじゃ、寒いだろ?」
肩を引き寄せるとガルはそのままヨネに抱きついた。
濡れた服も冷たいが、背中に回されたガルの手もそれに負けないほど冷たい。雨音が激しく、音こそ聞こえないが肩を震わせていることから、ガルが泣いていることにヨネは気がついた。
今まで涙を浮かべることは何度もあったが、こうして本気で泣き、自身に甘えてくるガルは初めてだった。心配すべきことではあるが、それ以上に嬉しさもあった。ガルにとって自分が信じられる、甘えられる存在になれたのだという自身が湧いた。
「急にどうしたんだよ?もしかしてしたくなったのか?」
「街で…」
「えっ?」
「街で、母さんたちに会いました…」
「…っ!」
嬉しさで喜んでいたガルの心が後悔で一色になる。
浅はかだった。思えば、どんなに山奥にある村とはいえ、街まで下れないはずはない。そもそもガルが街のことを知っていた時点で気がつくべきだった。それなのに、自分の目のことばかり気にして、そんなことまで気を回すことが出来なかった。
「…そっか、それでどうしたんだ?」
「…お母さんに一緒に帰るように言われました。でも、僕はそれを拒みました…」
「…どうして?」
攫っておいて何故と聞くのもおかしいな話ではあるが、それ以上にガルが自ら元の家族を拒んだ理由をヨネは知りたかった。
「元々僕はいらない子だと思っていました…。兄は働き者で、弟は勉学が優秀で…でも、僕には取り柄がなくて…だから、父と母は僕をあなたの供物として差し出したのだと…」
そんなことはない、そんなことは決してない、喉元まで出かかった言葉を必死で呑み込み、ヨネは黙ってガルの頭を優しく撫でた。
自分を責める人間には二種類の者がいる。
一つは、傷ついたことを心配して欲しくて、そんなことないよと言って欲しくて、自分を責める者。
もう一つは、優し過ぎるあまり、他人を傷つけることを忌避し、そのやり場のない怒りを自身への向ける者。
ガルは間違いなく後者だ。
「だから…今更帰ろうと言われても…信じることが出来ませんでした…。それで、僕は幸せに暮らしている、あの人は化け物なんかじゃない、って母に伝えたら…」
「…お前はもう家の子じゃない…ってか?」
当たらずとも遠からずだったのだろう、ガルは小さく頷いた。ガルの髪にくっついた雨粒がやけにヨネには冷たく感じられた。
やり場ない怒り、それは自分を供物として差し出した家族たちへのものではないだろう。恐らくは、一度は手放した自分を拾い上げようとしてくれた家族たちを信じられなかった、心弱き自分自身への怒りなのだろう。
…でも、だからこそ私はお前を選んだ。他人も責められず、自らへの怒りにも対処出来ない、そんな優しいお前を。
雨音にも負けそうな程小さく泣くガルの頭を撫でながら、ヨネは悩んでいた。
そもそも自分がガルを攫わなければ、ガルが家族に疎まれていることに気がつくこともなかった。しかし、だからといって、今更ガルを家族の元に帰したところで、ガルが今まで通りに振舞うことなど不可能だろう。逆に余計に気詰まりし、また自分のことを責めてしまうかもしれない。
では、今の自分に何が出来るのだろうか…?
ガルを手に入れるまでの汚い行いについてはもはや弁明のしようがない。しかし、それでもヨネのガルを愛する気持ちに嘘偽りはない。ガルのためならなんだって出来る。
だが、そんな想いこそガルを傷つけてしまっている根本的なものなのではないだろうか。
幸せに暮らしている、ガルの言葉に嘘はないと信じるなら、ガルはこの生活に幸福を見出していることになる。それは嬉しいことだが、今回に限ってはそれが裏目に出た。
本当の家族と暮らすためにヨネを責める、或いは、ヨネと暮らすために本当の家族を責める。そんな子供らしく、当たり前な身勝手さがあれば、ガルはもちろん、ヨネもこんなに悩むことはなかっただろう。







蝉の合唱が毎日の様に聞こえ始め、毎日夕方頃から降り始める大雨のせいで山の中がぐちゃぐちゃになる季節。
ガルの始めた山菜や薬草売りで得たお金を使い、小さな家具に料理道具を買ったりと、ヨネたちの暮らしはより充実したものになって行った。
だが、そんな少しずつ豊かになっていく生活の中で、ガルはヨネの目に対する一抹の不安を抱えていた。
住み慣れた洞窟の中ではまるで見えているか様に、自然に振舞うヨネなのだが、ほとんど洞窟の外に出ようとしなかった。何度か外に出ようと誘っても、雨が降りそうだから、土がぬかるんでいて危ないからと、何かにつけて洞窟を出ることを拒んだ。そもそも、料理道具や家具を買おうと提案したのもヨネだった。
「そうだ、今日って七夕ですよ」
「七夕?なんだ、それ?」
飲みかけていた味噌汁のお椀を置き、ヨネはカレンダーを眺めるガルを怪訝そうに見つめた。
「えっと、確か…織姫っていう機織りの女の人と、彦星っていう牛飼いの男の人が一年に一度会える日、だったと思います」
「織姫?彦星?誰だよ、そいつら?」
「星の話ですよ。それに本当にいた人じゃなくて、おとぎ話だと思います」
「ふ〜ん、うん?なんでそんな悲しい話が人間中で広まってるんだ?一年に一度しか会えないなんて、悲しいだけの話じゃないか?」
「う〜ん、僕にもそこらへんはよく分かりませんが、悲しいおとぎ話は幾つかありますよ。それに、たぶん逆に一年に一度しか会えないからこそだと思います」
「どういう意味だ?」
「七夕には短冊といって、紙に願い事を書くんです。そして、それを竹に括り付けることで、一年に一度しか会えない彦星と織姫がその願いを叶えてくれる。そんな風習というか、行事の様なものがあるんです」
「…結局は他力本願だろ。大層な御身分だな、人間は」
吐き捨てる様に告げるヨネにガルは肩を落とし、後悔した。
時々、ヨネは人を軽蔑、或いは嫌悪するかのようなことを口にする。個人的に言われているのではないことは理解しているのだが、それでも人間という大きな括りではガルも同じだ。
気まずい空気と一緒に食べるからか、次第にガルの食欲は無くなっていく中、ヨネは不意に軽い口ぶりで呟いた。
「それにしても一年に一度かぁ…。私じゃ、とても耐えられないなぁ…」
「そう、ですね…」
「おっ、ガルもそう思うだろ?やっぱり毎日子作りしなくちゃ、生きていけないもんなぁ…」
「ぁぅぅ…」
あくまで一年に一度しか顔を合わせられないのは辛いという意味で、決してそういう意味で言った訳ではないのだが、勝手にそうだろう、そうだろうと頷いて腕を回してくるヨネにガルは顔を赤くして俯くしなかった。

朝ごはんを食べ終わると、ガルは街へ行く準備を始めた。毎日行くわけではないが、今日はせっかくの七夕なのだから、どうしても繰り出してみたかった。ヨネも誘ってはみたが、相変わらず断られてしまった。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけてな。恐らく夕方頃からまた雨が降るだろうから、降る前に帰ってこいよ?」
「はい、分かりました」
「ん、よろしい」
肩に提げたカバンの紐を合わせ、ガルはしっかりと返事をする。そんなヨネはガルに軽く口づける。
毎度のことながら、まるで慣れることがないガルは真っ赤な顔のまま、洞窟を出た。





七夕だからか、街の中は大賑わいだった。浴衣を着た人々が、街の外観にはあまり似合わない屋台を一緒懸命組み立てている。
「すみません、ちょっとだけお時間いいですか?」
別段何か目的があって街へ来た訳ではなく、七夕だからという理由で繰り出したガルが、夕方には開かれるでだろう屋台などを見て回っていると、ふと声をかけられた。
振り向くと、普段よりはずっと露出度の低い浴衣姿にも関わらず、頭がぼんやりしてしまうほどの色気を放つサキュバスが立っていた。
「な、なんでしょうか?」
「今ちょっとしたキャンペーンのようなものをやっているのですが、お時間ありますか?」
「は、はい、大丈夫です…」
目を合わせるのが恥ずかしく、ガルはサキュバスの目を見ないように頷いた。すると、サキュバスはにっこりと微笑み、ペンと一枚の細長い紙を差し出した。
「短冊というのはご存知ですか?」
「はい、お願いごとを書いて竹に括り付けるもの…ですよね?」
「その通りです。街の広場に設置された竹はご覧になりましたか?」
そういえばまだ広場に行っていない。街の入り口付近をうろうろしていただけだ。ガルが首を振るとサキュバスは手を差し出し、広場に行きましょうと誘った。
広場には大きな竹が設置され、その周りには浴衣姿のたくさんの人と魔物娘たちがいた。ガルと同じ様に短冊を書き、それを竹に括り付けているようだった。
「あの大きな竹です。皆さんに書いて頂いた短冊をあの竹にぶら下げるんです」
「へ〜、でも…どうしてここに住所を書く欄があるんですか?」
受け取った短冊を見直してガルは首を傾げた。淡いピンク色の短冊の端には住所と年齢を書く欄が小さく設けられていた。本来ならこんなものは必要ないはずなのものだ。
首を傾げるガルにサキュバスはにっこりと、しかし、その目はまだ見ぬ極上の獲物を追い求める獣の様な鋭さで微笑み、ペロリと舌舐めずりした。
「まぁ、七夕ですから、“そういうこと”をお願いする方々も少なくありませんので。そんな貪欲な…いえ、素敵なお願いを叶えやすくするものだ、と思って頂ければ十分です。もっとも、あなたには素敵な方が既にいらっしゃるのでしょう?」
「えっ、ああ、はい…」
言っていることがいまいち理解出来なかったガルは愛想笑いを浮かべて微笑んだ。“そういうこと”とは一体どういうお願いなのだろうか…?
しかし、そんなことを尋ねる前にサキュバスが再び口を開いた。
「でしたら、住所などは書く必要ありませんよ。お願いごとをだけを書いてください」
「お願いごと…」
渡された短冊を見つめる。日頃、願い事を浮かべることは幾度もあるが、いざ書けと言われると中々出て来ない。
お金持ちになりたい?美味しいものを食べたい?幸せになりたい?
いろいろな質問を自分自身にぶつけてみても、少し悩んだ挙句に首を横に振ってしまう。
「結構考えてしまいますよね」
う〜ん、と絞り出す様に考えるガルにサキュバスは苦笑いで相づちを打った。
「改めて聞かれると、これ、っていうお願いが見つからなくて…」
「そうなんですよ。いつもは素敵な男性が欲しいって思ってても、こういうのを書くときになると、まるで思い浮かんでこないんですよね…。あっ、そうだ!お相手のことを書いてみてはいかがでしょう?」
「相手のこと…」
「はい!例えば、こんなプレ…いえ、行為をしてみたいとか!もう少し胸が大きくなってほしいとか!あと四人くらい子供が欲しいとか!」
そんなことを彦星や織姫に頼んでいいのかな…。素朴な疑問を浮かべつつも、相手のことを書くのは案外良いアイデアだった。
「ヨネさんとの…。あ、あの、この短冊って持って帰っても良いですか?」
「えっ、ええ、もちろん構いませんけど」
「ありがとうございます!あの、あともう一枚短冊を貰えませんか?」







昼頃に帰ってきたガルが、すぐさままた出て行く音を、寝ぼけた耳で聞いていたヨネはゆったりと体を起こした。そして、からからに乾いた喉を潤すために、ベッド横に設置した小さなテーブルに置いたはずの湯呑みを手探りで探す。しかし、中々湯呑みを探り当てることが出来ない。
仕方なしに、布を取ると、相変わらず澱んだ薄暗い世界の中で、湯呑みの輪郭のみが薄っすらと見えてきた。洞窟の外を見ても、あまり変わらない薄暗い光が差し込んでいる。
しかし、ヨネは特に慌てる様子もなく、すっかり冷めて、美味しくなくなったお茶を啜った。
「だいぶ、見えなくなってきたな…」
湯呑みを持つ手を見つめる。動かしているはずなのだが、周囲に溶け込んだ黒い手はまるで動いている様には見えなかった。
日の差し込まない洞窟内ではやはりこんなものだろう。ヨネは空になった湯呑みを戻すと、再び目に布を巻いた。恐れがないと言えば嘘になる。しかし、どうしようもないことだと諦め切っていた。唯一の後悔といえば、ガルの姿が見えなくなることくらいだった。
眠気がある程度取れると、ヨネはベッドから降り、いつもガルと一緒にご飯を食べるちゃぶ台へと慎重に歩みを進めた。
ガルがいる時は目のことを知られない為に可能な限り動かないようにするか、動いても、わざとらしく壁などにぶつかって動いていた。もっとも、頭の良いガルが何にも気づかないはずはないと、ヨネ自身理解していた。それでもあくまで知られないようにするのは、ガルに弱い自分を見せたくなかったからだ。それは自分の自尊心もあったが、それ以上にガルに不安を与えたくないという気持ちの方が強かった。
ちゃぶ台の足がコツンと当たると、ヨネはゆっくりとちゃぶ台に乗っているものを手探りで確認した。
「人がせっかく作ったのに…」
ガルがいつも身につけているカバンの横には、ヨネがガルの為に作って置いた昼食が、まだ温かい熱気を放っていた。昼食を食べないことに腹を立たせるよりも、食べずに何処に行ったのかが心配だった。
利口なガルが食事まで忘れて、夢中で何かをするとは考えにくかった。恐らくは何らかの考えがあってのことなのだろうが、生憎とヨネにガルの考えを全て読み取る力はない。仕方なく、ヨネは昼食をそのままに、洞窟を出た。寝ている間にかいた汗が気持ち悪く、それを洗い流したかった。

洞窟から滝まで来るのはそこまで苦労しなかった。これくらい眩しいくらいの日光に照らされていれば、布を取ればヨネにも充分世界が見えた。しかし、それでも何度かよろめくことはあった。
水の中に手を入れると、ひんやりとしていてとても心地良く、手を入れたまま体を沈めていく。べたついた肌から汗が流れ、不快だった気分がほんの少し軽くなる。この体になってから、病気はもちろん、暑さ、寒さにだって強いはずなのに、こんなにも体が怠いのは初めてだった。
体を充分に冷やしたヨネは、何本かの足を水の中に入れながら、流れが穏やかな場所で腰を落ち着けると、目から濡れてしまった布を取った。山の中でも、より鬱蒼と木々が生い茂るこの辺りでは、林床まで日光はあまり届いおらず、そのため、ヨネの目にもほとんどが真っ暗に見えてしまっていた。
はぁ、自然と深いため息が出る。諦め切っているとはいえ、出来ていたことが出来なくなることの切なさはこの上ない。ましてや、それが当たり前のことで、それが出来ることになんの不安も抱いたことがなければなおさらだ。
もはやガラス玉と言っても過言ではない目を閉じると、ヨネは目以外の五感を集中させた。
滝の流れる力強い音が聞こえる。毎夕に降る雨を啜った、山の土臭い匂いが鼻につく。その他にもいろいろなことが感じられる。意識を集中させていると、チャポンと違和感のある音が聞こえた。そして、穏やかな川の流れに微かな波紋が生じたことに足を通して感じた。
「…石を落とすなんて、お前らしくないな、タイガ」
「腑抜けたお前なら気づかないと思っていたが…」
ヨネが顔を上げずに呟くと、いつの間にか対岸まで近付いていたタイガは息を殺すのを止め、ひとっ飛びで川を飛び越える。
「先ほどガルが竹林まで来た」
「何しに?」
「七夕用の竹が欲しいとのことだ。好きなものを持って行けと言っておいた」
「そっか…」
七夕用の竹、そんな物を取りにわざわざお昼も食べずに行く必要があったのだろうかと、疑問も浮かぶが、行き先だけでも分かれば少しは安心できた。
タイガはヨネの横に腰を下ろすと、同様に足を川へと浸けた。
「…目の方はどうなんだ?」
「…あんまり良くない」
タイガに目のことを言った覚えはない。春に会ったのを最後に顔を合わせることもなかった。ガルから聞いたのか、いや、きっとあの時には薄々感づいていたのだろう。そもそも感の良すぎるタイガにあの程度の嘘が見破れないはずはないと、ヨネ自身分かり切っていた。
「医者には行かないのか?」
「たぶん、もう遅いと思うし、行く気もあんまりない」
「別に無理に行けとは言わんが…ガルには説明したのか?」
痛いところをつくタイガの質問に、ヨネは小さく首を横に振った。
「ガルには、まだ言ってない…。言える訳ないだろ…」
「何故だ?」
「何故って…お前だって見たはずだろ?ガルはまだ家族ことで悩んでる…」
「家族?お前とのことか?」
「違う…。本当の家族ことだ…」
「本当の家族?だからそれはお前ことだろ?」
「…っ!」
ヨネは目隠しの布を取ると、タイガの胸ぐらを掴んだ。タイガの顔はよく見えないが、何の抵抗もないことから、恐らくは澄ました顔をしているのだろう。
「からかってんのか…!?」
「むしろ、ふざけているのはお前たちの方だろう?」
「何だと…!?」
「そうだろう?お前はあいつを攫っておきながら、今頃になって怖気づき、本当家族だ、何だと訳の分からない言い訳をし、あいつはお前を選んでおきながら、未だに元家族のことを未練たらしく引きずっている」
「それは…」
唇を噛んで、言い淀むヨネの肩を、今度はタイガが力強く掴む。
「いいか、ヨネ。本能的だろうと、理性的だろうと、結果的に家族を持つなら、そいつらを絶対に幸せにしなければならない!自分には出来ず、別の奴なら出来るなんて言い訳は通用しないんだ!」
「でも…」
「でもじゃない!あいつは、ガルは、お前を選んだんだ!自分の意思で!それをお前が無下にしてどうするだ!?」
「…!」
ガルの幸せを考えるあまり、忘れてしまっていたことがあった。それは自分のことだった。タイガの言うように言い訳をしていたつもりはないが、恐らくはこの目についての不安が、自分にはガルを幸せにする能力がないと思い込ませてしまったのだろう。
言われてみればそうだ、ガルはここでの暮らしが幸せだと言ってくれた。それでも、あの家族のことが気掛かりならば、家族を拒んでしまった自分を許せないならば、そんなガルの不安や怒り、哀しみさえも包み込んであげればいい。愛してあげればいい。
「…ふ、ふふ、ははは…。ははははは!」
「どうした?気でも触れたか?」
「はぁ…。いや、なんか、悩んでたのが馬鹿らしくなってきた…」
「能天気なお前がそこまで悩んでいるとは知らなかった」
「うるせぇ!…ありがとう、タイガ」
「礼は言葉ではなく、行動で示せ」
軽くヨネの肩を叩くと、今度は飛び越えず、川で足を濡らしてタイガは去っていった。




予想の一部は外れなかった。ヨネが洞窟へと帰り、少しした頃、勢いの激しい夕立が降り始めた。逆に外れた予想、というよりは、破られた約束は、ガルがその前に帰って来ていないことだった。
「ガル…」
最後にガルに触れた唇に手を当てる。嫌な予感がいや増していく。
ヨネが洞窟の出入りから顔を出すと冷たい大粒の水滴が真っ暗な闇からぶつかってくる。太陽が隠された曇り空では、ヨネの視界は全くきかなかった。
しかし、ヨネは恐れずに豪雨の中へと飛び出した。

どれくらい木々にぶつかり、何度転んだだろうか、全身の切り傷からは血が流れ、それを洗い流す様な勢いの雨が少し滲みる。だが、それでもヨネは走るのを止めなかった。
「ガルー!」
何度も、何度も、愛する人の名前を闇の中で叫ぶ。しかし、そんな声を掻き消す様に雨は一段と勢いを増し、ヨネの口の中に入ってくる。
何処だ、何処にいるんだ…!?
広大な竹林を無我夢中で駆け回る。それも、手足の感触だけを頼りに。雨のせいで匂いは消されて鼻は役に立たず、耳も雨音以外の音をほとんど拾うこと出来なかった。
「ガルー!ガルー!ガ…うわっ!?」
もはや自分自身、竹林の何処にいるか定かではなくなってきた時、ヨネの足元から不意に地面が消えた。崖だ、頭ではすぐに理解出来たのだが、勢いのついた自分の足は急には止まってくれなかった。
ごろごろ、ごろごろ、十秒近くかかって地面へと叩きつけられると、さすがのウシオニであるヨネもすぐには立ち上がれなかった。
「くっそ…!が、る…。ガル…!」
闇が恐ろしいとは思わなかった。それよりも、ガルを失うことの方が何倍も恐ろしかった。
痛む身体に鞭を打ち、何とか立ち上がったガルがゆっくりと歩み出すと、ふと、何かにぶつかった。柔らかいそれは、軽く蹴るとごろりと転がった。
「ガル…?ガルか!?」
ヨネは素早くそれに近づき、輪郭をなぞる様に触れていくと、それは微かに動いた。
「ぅ…」
少なくともそれが人間だと判断したヨネはぎゅっと抱きしめ、鼻を近づける。
ガルの匂いだ。しかし、それに上塗りするように鉄臭い匂いも漂う。
「ガル!?どうしたんだ!?怪我してるのか!?」
抱きかかえたまま、その体を揺するがガルは何の反応も示さない。ただ、苦しげな声を漏らすだけだった。
「おい!ガル!どうしたん…」
何も見えない中、ガルを揺すっていたヨネは、ガルの体が少し離れた瞬間、お腹あたりに雨とはまるで異なる、生温かい液体のようなものが付着していることに気がついた。
ゆっくりとガルを横にすると、それに触れ、匂いを嗅ぐ。それはガルの匂いを覆う鉄臭い匂いと同じだった。
「血…おい、ガル…しっかりしろよ…」
優しくガルの頬に触れる。先ほどよりも冷たくなってきている気がする。
「ガル…!」
早く治療しなければならない。しかし、今ここが何処なのか判然としない状態で、無事に洞窟へと帰れるのだろうか。ましてや、無事に帰れたとしても、何も見えない自分にガルを治療出来るのだろうか。可能性はあったとしても、無謀だ。
ならば、確実に今の自分に出来ることは…。
「タイガーーー!!!」






「うわぁぁ!?」
午後の診断を終えた金髪の少年がすっかり冷めてしまったコーヒーを飲んでいると、出入り横の窓からタイガが飛び込んで来た。
「ダイナミック入店」
「お前はどっかの恐怖新聞か!?ちゃんとした入り口が一歩先にあるだろうが!?」
「黙れ、さっさとこいつを治療しろ」
「なんだこいつ…。いや、まぁいいや。さっさと始めよう、こっちに寝かしてくれ」
脇に抱えられたガルの様子から怪我の具合を察した少年は首でタイガに合図した。タイガもそれに従う。

「ん、んん…」
ゆっくりと目を開けると、そこはいつもの洞窟内はではなかった。ここは何処だろう?何をしていたんだろう?いろいろな疑問が湧いてくるが、目覚め切れていない頭では、何一つ答えを出すこと出来なかった。
「起きたか」
聞き覚えのある声にガルがそちらを見やると、タイガと金髪の少年がトランプ片手にこちらを見ていた。
「調子はどうだ?…って言っても、腹に穴が開いてたんだから、良い訳ないよな」
苦笑いを浮かべる金髪の少年。しかし、タイガはトランプを置くとガルの元へとやって来て、その体を抱きかかえた。
「帰るぞ」
「お、おい、いくらなんでも早すぎるぞ!せめて一晩くらい…」
慌てて止めにかかる金髪の少年にタイガは手刀を食らわせる。一撃で意識を刈り取られた金髪の少年をガルとは逆の脇に抱きかかえ、タイガはヨネの元へと走った。

「ガル!」
今まで雨を降らしていたのが嘘だったように、空に雲はなく、綺麗な天の川と月が輝いていた。そんな光に照らされながら、洞窟の入り口近くで立っていたヨネがガルに気がつくと、駆け寄って痛いくらいに抱きしめる。
「あぁ…ガル…。良かった、本当に良かった…!」
「ヨ、ヨネさん…。い、痛いです…」
「あっ、すまん、すまん…」
ヨネは力を緩め、いつも通りにガルを抱きかかえる。ヨネにとって肌で感じられるガルの温もりが何よりも安心できた。
「ヨネ、医者も連れて来た。さっさとその目を見てもらえ」
タイガの提案に、何度かガルと顔を合わせてから、ヨネはおずおずと頷き、ガルを下ろした。

「ごめん…。少なくとも、俺には治せそうにない…」
「そっか…」
「ただ、良い医者なら知ってる。でも、きっとそいつらでも…」
「治せそうにない、ですか?」
ガルが問いに金髪の少年は深く頷いた。
「僕が、僕がもっと早く気づいていれば…!」
ガルはぐっと奥歯を噛み締める。
気づいていないはずがなかった。ただ、ヨネの態度に怯え、聞くことが出来なかった。誰にだって尋ねられたくないことはある、そんな風に自分に都合良く聞かせて、ヨネに嫌われることを怖がっていた、そんな自分が情けなかった。
「ガルのせいじゃないよ」
「でも、でも…!」
「…ありがとう、そんな風に心配してくれて。それだけで私は嬉しいよ」
ヨネは目を閉じたままガルの頬に触れ、そのままゆっくりと目尻に溜まった涙を拭った。
「なぁ、ガル。少し目を閉じてくれないか?」
「…分かりました」
自分でも軽く涙を拭い、ガルは言われた通りに瞼を閉じた。
月明かりで照らされていた景色が闇に飲まれ、目の前にいたはずのヨネも消えてしまったかのように感じられる。
怖い、視覚を失うだけで、立っていることさえ難しくなり、すぐにでも手を伸ばして、ヨネに触れていたい衝動に駆られる。
そんな時、ガルの手が何か温かいもので包まれた。
「…私はここにいるよ、ガル」
「ヨネさん…?」
手を包んでいるのが、ヨネの手だと確信すると、今までの恐怖感は一気に消えていった。ヨネが近くにいる、ヨネが手を繋いでいてくれる、たったそれだけで、ガルは安心した。
「ガル、怖いか?」
「…怖くありません」
「ふふ、私もそうだよ。私も全然怖くなんかない。ガルが居てくれるだけで、目なんか見えなくても、私は生きていける」
「ヨネさん…」
ガルは目を開けると、横に立つヨネの顔に背伸びして顔を近づける。そして、初めて自ら唇を当てがった。
何故キスをしたのか、ガル自身よく分からなかった。ただ、何となくヨネと触れ合いたかった。触れ合っていれば、恐怖感は消え、安心へと変わっていくから。
いつも激しいキスではなく、お互いの舌先だけを突きあったり、唇を軽く吸ったりする甘く、甘く、優しい、優しい温もりを与え合うキス。
ガルとヨネが口を離した頃には、すでにタイガたちの姿はなかった。礼はまた今度言えば良い、それよりも今は…。二人は同じことを考え、何も言わずに手を繋いだままゆっくりとベッドへと向かった。

荒れた息も落ち着き、かいた汗も気にならなった頃、ガルはヨネの胸に顔を埋め、その母性を感じ、ヨネはそんなガルの頭を撫でながら、ガルの温もりを確かに感じていた。
「ヨネさんって抱きしめるの好きですよね…」
「それ、胸に顔を埋めたお前が言う台詞じゃないだろ」
「いえ、嫌とかじゃなくて…。ただ、出会った日もこうして抱きしめてもらっていたなと思って…」
「そうだったか…?まぁ、たぶん無意識の内に抱きしめたい欲求でもあるんだろ。人間の時には全然してもらえなかったからな…」
「人間だった時…?えっ、ヨネさん、元々は人間だったんですか…!?」
急に顔を上げたガルの柔らかい髪の毛がくすぐったく、ヨネは軽く微笑みながら、昔のことを話し始めた。
「そうだよ、私は元々人間だった。狩人ってやつかな?そんな男の付き人をしててね。ある時そいつが今の私と全く同じ姿をして魔物に襲われた」
「魔物ってやっぱり人を襲うんですか…!?」
ヨネやタイガから魔物娘が人間を殺したりすることはないと聞かされていたために、ガルは飛び上がらんばかりに驚いた。そんなガルの背中をヨネは落ち着かせるように優しく撫でた。
「襲うって言ったって、別に殺しに来た訳じゃない。あっちからしたら、単に交わりたかっただけさ。でも、まぁ、こんなのがいきなり向かってくれば、誰だって怖いよな…」
「そんなこと…」
自嘲気味に笑うヨネの言葉を否定しようしたが、ガルは自身もまた、最初はこの腕の中で石のように硬くなるほかなかったことを思い出し、口を噤んだ。しかし、今は違う、そんな意味を込めて、ヨネの背中へと手を回し、再び顔を胸に埋めた。
「それで、そいつは無理やり狩人を犯したんだけど、狩人もただでは黙ってなくてね。持ってた武器でそいつを斬りつけた。そして、その返り血を、どうしようもなく立ち竦んでいた私が浴びて、気がついたらこんな姿になってた」
「魔物になってしまった…」
「そう…。なんだよ?か弱い人間の乙女の方が良かったか?」
揶揄うようにヨネが尋ねるとガルは首を横に振った。
「…僕は今のヨネさんしか知りません。だから、今のヨネさんだけが全てなんです。そして、僕はそんなヨネさんのことを愛してるんです」
「ガル…っ、お前って時々恥ずかしげもなく、恥ずかしいことを言うよな…!」
「そ、そうでしょうか…?」
「そうだよ…。でも、そういう時々見せる男らしいガルに、私の子宮はきゅんきゅんしちゃうんだけどな」
「きゅんきゅん…?」
意味が分からず、顔を上げるガルの耳元に顔を寄せると、ヨネは小さく囁いた。
「赤ちゃん、欲しくなるんだよ…」
「っ…!」
恥ずかしさに顔が熱くなる。しかし、その熱は顔だけに止まらなかった。
「ん?ふふ〜ん、ガル、固くなってるぞ?」
「ぁぅぅ…ヨネさんが恥ずかしいこと言うからですよ…!」
「さっきのお返しだ。んっ…」
ヨネは悪戯っ子のじみた笑顔を浮かべると、ガルに優しく口づけた。ガルもまたそれを拒まず、むしろやり返さんばかりに、積極的に舌を絡めた。






ヨネと抱き合うようにして眠っていたガルだったが、梅雨とはいえ早朝の肌寒さに目が覚めた。横で眠るヨネを起こさないようにその腕から抜け、散らかった衣類を身につける。そして洞窟から出ると、日の登る少し前、薄明かり景色を見つめた。
もうこんな景色もヨネには見えない。確かにそれは悲しいことだ。でも、なら、自分がヨネの目になってあげればいい。あの暗闇の恐怖を取り除いてあげればいい。そして、必ずヨネを幸せにしてあげよう、そうガルは自分自身と固く約束を交わした。
「ガル〜!ガル〜!?」
ガルがいないことに気がついたのか、ヨネが洞窟内から大声を上げ始めた。慌てて振り返り、洞窟へと戻ろうとした時、ガルは入り口すぐ横に刺さった竹を見つけた。それは昨日自分が、タイガの住む竹林から切り取ってきたものだった。あの後竹がどうなったか知らなかったが、ヨネが持ち帰っていたのだろう。また、その竹には一枚の短冊がすでに括り付けられていた。
「ガル〜!?」
「は、は〜い!すぐに行きます!」
ガルはポケットに入ったままだった自分の短冊をそれの横に括り付け、急いでヨネの元へと戻った。




“ヨネさんと幸せに暮らせますように”
“ガルと幸せに暮らせますように”
図らずも二人の願いは同じだった。そして、その願いはすでに叶っているのかもしれない。
















数年後、天の川が見たのは、洞窟横に四枚の短冊が括り付けられた竹だった。











読んでいただきありがとうございました。
突貫工事につぐ突貫工事の甲斐なく、七夕の日に投稿することが出来ませんでした。そして、ウシオニらしくないウシオニになってしまった気がします。
それでも、ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
[エロ魔物娘図鑑・SS投稿所]
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33