■タイトル:『いろはにほへと』 ■作者:じゃっくりー -------------------------------------本文-------------------------------------



「……ここも来週で閉鎖、か」
本来、娼妓達が住まう楼閣の二階。昼間と言えども静かすぎる一つの遊郭のその場所に梁に肘突きたてて黒髪をさららと流す女が溜息交じりで佇んでいた。長いというより長すぎる髪は床に止まることを知らず、あまりあまった濡羽烏の暖簾の如く一階の中ほどまで垂れており宛ら大陸の童話の姫のようだ。

「いた。黒(くろ)様、まだここにいらしたんですか? 」
「……あら、鈴歌(すずか)さん」
そんな彼女の元目掛けからっかららっ、と向かいの楼閣の瓦屋根が揺れる音と一緒に彼女の目先を何が掠めた。否、目と鼻の先を通過してすぐそばに舞い降りた。常人なら驚き悲鳴を上げるようなこの出来事も彼女にとってはどうでも良い事だったようで、下がり眉の双眸は瞬きすらもしていなかった。
そんな憂鬱な彼女の背後には先ほどの塊、柔らかそうな正三角形の耳をつけた二尾の猫が背を向けて座っていた。しかし、彼女へ向き直ったところ猫に異変が起こる。それは霞がかったように輪郭がぼやけた瞬間の事、まさに瞬間。猫は軽装ながらも品格を滲みだしているネコマタの女性へと変わったのだ。

「もう順次長屋および楼閣の解体が始まっています。あらかじめ遊郭から出てください、と花魁である梨花(りか)様からお達しがあったのではないですか? 」
「えぇ、梨花からあったわ。でももうちょっとだけ、もうちょっとだけ、ね? 」
「……いつまで待たれるのですか? 」
ネコマタはそっと彼女から半歩離れた畳の上に音も立てずに正座をすれば即座に浮かぶは不満な顔であった。それもそのはず、ここの遊郭はジパングの新たな時代の転換期という荒波にのまれ閉鎖される運びになったからだ。ここら地方の中でも特に大きかった『宵ヶ淵(よいがぶち)』と呼ばれたこの遊郭も新たに制定された現市長である禮前(らいぜん)および市議会からの願書に従わざるを得なかった。遊女達は途方に暮れた。しかし、かの地最後の花魁である梨花は最後までちゃんと花魁然として遊女達の生活と新たな職、者によっては旦那まで紹介し誰一人として路頭に迷うようなことはさせなかった。
今、ネコマタの前で着物を着崩している彼女もまた例外なく。

「大丈夫よ鈴歌。梨花にはちゃんと職も衣も住居も貰ったわ。後は…… 」
「後は? 」
「彼を待つだけよ」
何気なしにさぁっと自分の髪を手漉きした彼女。その瞬間、髪が風が凪いでいるにも関わらずぶわっと蠢きだした。いや、動いて当然である。

「毛娼妓(けじょうろう)の髪にかけて誓うわ。今、彼がこの遊郭跡地に向かって走っている。徐々に。決して飛脚のように早くはない、けれど亀のように遅くはない。心音(こころね)の太鼓を激しく打ち鳴らして、一目散に、真っ直ぐに、一切の迷いなく。もうちょっと、あと少し」
「なるほど。黒様がそこまでご執心されているということは……床屋のあの方ですか? 」
「ふふ、流石よ鈴歌。その通り、全く以てその通りよ」

毛娼妓。髪を吸精器官として持つジパングのサキュバス。外見は全く変わらないが見ての通り、髪の毛を自在に操ることができるのだ。勿論先ほどの話は彼女がただ当てずっぽうに言っていたわけではない。

「私はね鈴歌。梨花の一つ下であったけどもこうして太夫(だゆう)として最後を迎えられる。これほど遊女として誇りある、名誉ある終わり方なんてないと思うわ。でもね……おんぶに抱っこされても、これだけは自分の手でしたかったの」
「……はい」
「梨花には悪いけど住居の事は心配いらないわ。私はこれから――― 」



―――『黒さんっ!! お待たせしましたっっ!! 』



「―――あとは分かるわね? 」
「えぇ、勿論です。そのお顔を見れば言葉は不要かと」
言いかけた彼女の軒下から元気な青年の声が聞こえる。息も絶え絶えに額へと珠玉の汗を浮かばせ、しかし心待ちにしていたのがわかるくらいに声を弾ませて手まで振るその様はなんとも無邪気なことか。
そんな彼に応えるべく、彼女はそっと立ち上がる。ネコマタもそっと道を開ける。流れるような動作で彼女たちは動くもきっとこれが最後である事はお互いにわかっていた。階下に向かうべく摺り足で襖を静かに開けた彼女のその顔はネコマタの彼女だけしか見えず、逸る足を落ち着かせようとするも自然にとっとっとと嬉しそうに階段を下ってしまう。

開けたままの二階の襖を覗けばそこにはもう鈴が一度ちりんと嬉しそうに鳴った以外、誰もいなかった。

「お待たせしました、黒さん。やっと婚儀の準備が整ったのでお迎えに上がりました。さ―――」
「我が楼閣、『黒曜石(こくようせき)』へとお越しいただきありがとうございます」
「―――へ? 」
外に出た彼女はほんのりと薄化粧をしていた。どうやら先ほどのネコマタが来るよりも先に施していたようで。
彼は感嘆の声を喉奥に呑み込み彼女を呼んで手を差し出した。しかし、彼女はと言えば頓稚気な言葉を述べてその場で一礼をしてしまったのだ。これには彼も面喰い、呆けた声を出してしまうのも仕方ないことだ。

「しかしながら今日只今、この時を以てこの店は終いとなってしまいます。この身一つ、どこ行く宛てもなく、北から南の旅烏になってしまうやもしれません。私を繋ぎ止める様なものは果たしてございますでしょうか」
「……ふ、ふふふ、あははは! なるほど、なるほど」
「はて、何か可笑しな事でもございましたか? ふふふっ」
あいも変わらず垂れ目の彼女は眉も瞳も動いていないが微笑んでいた。そして頑なに彼の目をじぃっと見ているではないか。あからさまな彼女に彼ははたと気付き、なるほど此れはしてやられたりと笑い出した。彼女もまた彼の反応が楽しかったようでつられて笑い出すが、笑うというより微笑んだが正しいだろう。

「黒さん、私は貴女を繋ぎ止めることが出来ますよ。この左手の薬指一つで、ね」
「おや、それはなんとも面白い事を言いなさる」
「私の薬指は貴方の黒曜石の如く黒く深く慈しみのある頭髪でできたこの黒い指輪が嵌っています。貴女に私が操を立てたように、私も貴女に操を立てるべく―――」

彼は彼女の左手へとそっと左手を重ね、右手で彼女の髪と一緒に左手を覆った。彼女は何も言わず彼からの何かを心待ちにしている眼差しで手をじっと見つめる。ふとかさなった途端、彼女の左手に何かがはめ込まれる感覚があったが彼の手で隠れて見る事ができない。しかしほんの数分、数秒かもしれない時間覆っていた彼の左手が静かに外されると同時。彼女は静かに涙を流した。

「―――この指輪を以て私は貴女を捕まえます。私は決して貴女から離れないし離しません。」
「……はい」
「どうか今日から―――」
彼女の手を優しく握った彼は指を絡ませては解し、しかし小指だけ残して優しくふっと彼女と彼の胸の前まで手をずらした。それはまるで指切り、のように。

『―――私だけの黒太夫、いいえ! 私だけの黒さんになっていただけますか? 』

「っ、はい、もち、ろんっ」
彼の言葉を受けた彼女は彼に倒れ込むように抱き着くとそのままの勢いで彼の全身にまで髪の毛を絡ませてしまった。流石の彼も驚きはしたものの肩を小刻みに上下する彼女には苦笑い一つを優しい髪漉きとともにする事で落としどころが見つかったようだった。
今日はどうやら雨のようだ。不思議なものである、空あんなにも晴れているのに……

泣き止んだ彼女に彼は再び小指を絡ませ、指切りのようにして彼女を遊郭から連れて行ったとさ。

―――色は匂へど 散りぬるを(花は咲いても散ってしまう)
―――我が世誰そ 常ならむ(世の中にずっと変わらぬものものなんてありゃしない)
―――有為の奥山 今日越えて(先の見えない険しい山道を今日もまた1つ越えて)
―――浅き夢見じ 酔ひもせず(夢を見ずに、酔いもせずに)

【完】



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