■タイトル:仲介録 ■作者:さかまたオルカ -------------------------------------本文------------------------------------- 最も近い人里から、それでもひとつ山を越えた場所にある、年中冠雪の大きな山。
麓に広がる緑色は鬱蒼として深く、猟奇的な山鴉の声よりも大きな音は、基本無い。
そんな閑散とした深い場所の中にある、綺麗に澄んだ泉に私は住んでいる。
泉の近くには一軒の見窄らしい木屋があった。
私の家ではない。
そもそも私はわざわざ家を建築によって構えることを良しとしない。
現存する洞穴などに手を加えて住まう事が、最良の選択だと思っている。
多くの大木を倒し、削り、家を築き、果ては風水を乱す。
利便性一辺倒の小さな制限された空間ではないか。
このようなものを作ることなど、見栄っ張りで浅はかなる人間だけの特徴だろう。
とにかく、そのような苦言を散らかすことのできる程度には汚い家なのである。
私はあのような場所に住まう人間に興味があった。
そこに突如出現した時から、かようにひどい有様である。
自然と一体化し掛かっている脆弱な家の主は、何を思ってそこに住んでいるのか。
何を思ってそこに居を構えたのか。
何を思って人里離れたこの場所に。

幸いあるいは不幸にして、私の住む場所から家は観察出来た。
視界の邪魔だと少しながらに思いつつも、家主が現れる事を待ってみた。
主人はなかなか姿を見せず、とうとう季節が過ぎて秋になった。
その頃には既に家の近くまで行って中を覗く、ちょっとした趣味ができていた。
しかし家主は一向に現れず、建てるだけ建てて依然として消えたままだ。
剰りに不自然で、剰りに興味を注がれる事態である。
私はこの冬の頃には、家は魔法使いの仕業なのかも知れないと思い始めていた。
一夜で城を築き、一晩泊ってからその地を後にする旅の魔法使い。
そのような話について、幼いときの小耳に挟んだことがあったためである。
私は築かれた意味を思いつつ、中を覗いては塒に戻る。
連日連夜、それは既に日課とすら言える。
どんな人間が家を建てたのか。
また帰ってくることはあるのか。
夢想しながら、私は確かに壁の隙間から見える屋内をも諦観していた。

「...おい、お前」

だから、最初の出逢いはもの凄く驚いた。

「お前、起きろ」

いつもの洞穴に、見知らぬ存在がいる。
私は目を見開いた。
存在感知については一家言自信ありと内心常々に思っていた事だったのだ。
飛び起きてそのものを見るや、成程その存在は人間の男だった。
その男は薄布を何枚も重ね着させた全身黒尽くめの風貌をしている。
顔もまともには見えない。
判る事と言えば、細めの身体から押し殺した声が投げかけられている事だけだった。

「お前水神の巫女だろ」
「な、なんですか。どうかしましたのでしょうか」
「用が在る」

男は低い声で言う。

「水を呉れないかと思って自ら遣って来た」
「みずですか」
「そう、水」

寝耳に水の話をされても、それこそ理解が追いつかない。
私は顔を見せない男を睨み付けるが、恐らく威圧など出来ていないのだろう。
如何せん涙目である事ぐらいは自覚している。
声の震えも瞼の熱さも、きっと寝起きのせいだと思うことにした。
仕方がない事なのだ。

「蛇女、しかも白いときたら、高位の水妖だろう。ちょっと使いたいのでな」
「龍神様に捧げる水です。そんな理由で水を貰えるなどとお思いでしたか」
「きっとリュウジンサマとやらだって、結果的には喜んでくれるだろうよ」
「...寝込みを襲う様な人間なんかにはあげたくないです」
「襲ってねえし、そもそも寝込み襲うなんてことすんのは、妖怪の方だろうよ」
「私はしません」
「散々俺の家覗きまくってた癖にか」
「え」

私は上体を起こしている。
男は塒の境界段差としている大岩の上でしゃがんでいる。
男を見上げるかたちに成っているまま、私は身体を硬直させてしまった。
やはり、仕方がない事なのだ。

「散々放置しておいて、何が俺の家ですか」
「誰も住んでなど居まい。ならば今日からあそこは俺の家だ」

誰も住んでなど居まい。
つまり、あの襤褸屋の主は一夜にして築いて、去ったのだろう。
確かにあの家の雰囲気は無人だ。
実際に無人である。
しかし、戻らないと決まったわけでは無いだろう。
私は今まで何を夢想してきたのだ。
諦めていた節の有無については口を噤まざるを得ないが、それでも期待もしていた。
いきなり現れた男の言葉には裏が見えない。
信じるに値しない。

「どうしていつも私があの家を見ていると知っているのですか」
「跡が残ってる。獣道ができてるし、窓の一部に埃無いし」
「...それでも、あの家主が戻る事だって、有り得ましょう」
「無いな」
「理由などないのでしょう」
「この俺が仕事を全うしたからだ」
「...意味が判りません」

私は今度こそ男を睨み付けた。
決して強い気迫で迫ることが出来た訳では無いが、主張は通ったらしい。
男は大岩の上で立ち上がり、両手を脇腹に当てて前傾姿勢をとる。
初めて男の目が見えた。
今まで見た生物の中で、最も深刻に真黒な目をしていた。
目だけを見ても、笑っているのか、怒っているのかが判らなかった。

「俺の仕事を見てみるかい」

しかしながら声のトーンを幾らか上げて、軽く私を誘っていた。



男は塒から山4つを越えた先にある城下町に私を連れ立った。
そこでまず最初に判った事は、男が有名人である事だ。
昼間の黒、などと言うよく判らない名前で通っているらしい。
庄屋やら呉服屋やら、飛脚から羅宇屋にまで声を掛けられている。
また、何本も脇差しを構えた武士や、幼い童女にまで話し掛けられる始末である。
男は私と初めて会話したときの威嚇的な声を一切出さず、常に陽気に応えていた。

「くろすけ、その別嬪さんどうしたんさ」
「黒坊が白子連れてるたぁ、これどうしたんよ」
「黒の兄さん、どうだい休んでいかないかい。お嬢さんもご一緒に」

「いやあ、ちょいと預かっとってねえ、大人しい子だあさ」

男は、至って普通に嘘を吐いていた。
私が怪訝な視線を送っていると、直ぐさま怪しまれる事は辞める様に言われた。
この国は妖怪に排他的である。
そもそも排他的で非ずという国は人の世に在らず、ということらしい。
稚児に読み聞かせる昔話では、往々にして妖怪退治や訓戒の話ばかりだ。
鬼は邪として排除しろ。
天狗の鼻など折ってしまえ。
水底人には関わり合いを持つな。
河童のいる淵には馬を連れて行くな。
いかにも弱きものの武器らしく、このような話を教訓として語り伝えているのだ。
それゆえに、妖怪と呼ばれる私達は元の姿の侭で街を徘徊しない。
今の私には、人間の脚があった。
魔具と呼ばれる道具の効果である。
擬態して人間に紛れる事で、妖怪は普段から街に居たりする。
葉を隠すなら森の中、であったか。
案外ばれる事のない話なので、街に住む事を好む者も多くいるのだ。

「お姉さん綺麗ねえ」
「お嬢さんお茶飲んでいきなよ、おいしいよ」
「ちょっとこっちいらっしゃいな、良い服仕立てて上げるわよ」

身体の特徴を人間に寄せるだけで、人間は寄ってくる。
甘いものに集る蟻と、それはとてもよく似ている様に思えた。
自分自身を魅力的と表現するには少々自信がないが、人は妖怪に寄り向かう。
そして、都合が悪くなると、切り捨てるのだ。
私は男の後ろにぴったりとくっついて歩き、俯いて人間達を視界から追いやった。
このような者どもと会話する事など、恐ろしくて敵わない。
ゆっくりと道を闊歩する男は、きっとそんな私をいじめていたのだろう。
非常に意地の悪い人間なのだと思う。
いや、私は決して怯えていたのではない。
剰りに多勢に無勢だった故に、最も良いと思われた対処法を実行したまでだ。

そう自分に言い聞かせていると、男が木の門を潜った。
玄関の脇を曲って庭から裏に周ってゆく。
自然と表現するには貧相だが、人間的によく整えられている庭だった。
男は庭の様子に脇目も振らない様子で、しかしのんびりと軒下に腰を置く。
私も男に倣って、その隣に座った。
男は石像の如く微動だにせず、瞑想紛いに目を閉じた。
それから、しばらくは何も無かった。

「これを」

男が突然口を開く。
威嚇的とも陽気とも違う、重々しい雰囲気の声だった。
私は人間的で貧相な庭を見遣る事などとうに飽きていたので、状況の変化を喜んだ。
ゆっくりとした動作で、男は懐から木の棒を抜く。
桜色に塗られた鞘に漆の点が散らされている脇差しであった。
それを、屋根の上に放り投げる。
私は脇差しを目で追おうとしたが、男は私の脚を軽く蹴って上を見させなかった。
睨目で見遣るが、男は一向に視線を結ぼうとしなかった。
心許ないというか、手持ち無沙汰であるというのか。
私は暇を持て余す。

「ふむ」

屋根の上で、女の声がした。

「確かに、あいつの大事にしていた刀だ」
「あんな人間などの命よりも大切な刀である。手放すことなど考えられない」

屋根の上から、また別の女の声が聞こえる。

「抜けてから既に4年、あいつもよく逃げていた方か」
「しかし刀だけで手打ちになどできるものか」
「真昼の黒は我らとは違う。抜かりがでかいのは寧ろ後に甘んじた我らにある」
「...お館さまも人が悪い。このような者と競って見つけ出せ、などと」
「...これで手打ちにするしかあるまい」
「んん...しかし」

女達はふたりで協議をしているらしく、またしばらく時間を要する様だった。
内容としては、私には事前に出来たものではないかと思われるものだ。
非効率的なことになっているのは、恐らく予定外に事が進んだからだろう。
その話を聞いている内に、男が何をしているのかが判った。
男は賞金稼ぎである。
特定の人物に請われることもなく、罪人の情報や本人を炙り出す仕事だ。
基本は葬った証拠からの賞金授与になるのだが、今回はまた話がややこしい。
何でも、城下町の権力者の顔に泥を塗った男を捕まえ、最悪葬れといった内容だ。
所謂その罪人とは御庭番衆らしく、可能な限り早く見つける必要があった。
しかし、隠遁術に長けている分手強く、手練れを増やしての早急な対策を取った。
その増やされた手練れというのが、どうやら真昼の黒らしい。
そして、手練れを加えたものの、実際に成果を上げる期待はしていなかったらしい。
御庭番衆では無い男が目的を果した場合についての報酬が吟味されていないのだ。
屋根の上で、ふたりの女が後半語っていたのは、報酬の内容についてだった。

「確と受け取った。報酬を出そう」

協議終了の即後、屋根の上の女は瓦の上から厚く大きい麻袋を落としてきた。

「鉱石だ。持って帰れ」



報酬を貰った時には既に日が暮れていた。
そのため、私と男は一晩を酒屋で明かすことにした。
飲み屋では、男から様々な話を聞いた。
今までの体験談。探検、怪奇憚とその独自解説。
与太話と賞金稼ぎの自由気ままな生活についての主張。
遙か彼方海の向こうにある西国での酒の作り方から、その場所の言葉。
そして、今回の捕り物である抜忍について。
一夜が明けてから、私達は塒へと戻った。
立ち位置は最初にあった時と変わらない。
男には2本の脚があって、私には長い尻尾がある。
大きな岩の上に男がしゃがみこんで、私はそんな男を見上げている。
ただし、より近くで。

「さて、ご苦労だった」
「お疲れ様でした」
「これで大体俺の仕事が判っただろう」
「はい」
「何故家を築いた人間がもう戻る事がないか、も」
「...はい」
「水が欲しい理由も判ったか」
「ええ。まさか、逃亡者を私の知る女郎蜘蛛に"斡旋して"しまうなんて」
「海外逃亡のルートには最適なんだ。でも今は何も所望物の持ち合わせが無くて」
「ただでさえ彼女は珍しい物が好きですから」
「だから、その内の一つであるお前の水が欲しかったんだよ」

男は私を見据えて言った。
人の命を救う為。
たしかにこれなら渡しても全く問題がない。
そしてそれ以上に、私がこの胡散臭い男を気に入った。
水を渡すのには充分理由が揃っていると思える。
私は男に暫く待つよう言って、塒の奥の大きな祭壇で祈祷を行い、身を清めた。
そして、男にも身を清める様にと、奥へ案内する。
祭壇脇にあるのは、澄んだ泉から水を引いて溜めている禊ぎ場である。
男は黒装束のまま水に入り、念仏の様なものを唱え、一枚一枚薄布をとっていく。
すると、次第に黒い刺青にまみれた男の身体が見えてきた。
飲み屋の時点で頬に黒い刺青がある事は知っていた。
しかし、全身にある様子を実際に見ると、異様さが際立っている。
刺青の理由を男は語ろうとしなかったが、私には男の姿が凛々しく見えた。
私も水の中に再び足を入れ、男の正面に向かって言った。

「まず、あなたの言う水というものは、私の魔力です。つまり、私の水です」
「ああ」
「そして、私は蛇です」
「ラミアと教えたろ」
「そうですね。ラミア、です」
「魔力は交わる事で、私の体外に生成されます」
「ああ」

私は男の鎖骨に右手を触れる。
そのまま喉仏をなぞり、顎先から耳までゆっくりと撫でる。
徐々に顔を近づけて、唇を合わせた。
ただ合わせるだけを三度繰り返し、顔を離す。

「そして、巫女です」
「ん」
「巫女が巫女を捨てる時は、夫を得る時です」
「...それは知らん」
「人間もそうではありませんか」
「いやちょっと違う」

再び口を合わせる。
今度はかぶりつく様に。
そして、着物をはだけさせながら、男を祭壇の上へと引いていく。
裸の男を祭壇に仰向けに寝かせて、私は胸の前で両手の指を絡ませる。

「あなたが生涯、私の夫として私とだけ共にあることをここに誓います」
「...ん、んん? 何だその言葉」
「誓うって言って」

私は男と手を繋いだまま男の口に指を入れ、舌に触れた。
同じように私も顔を近づけて、その指を口に含んだ。
そして再び口づけをして、舌を絡ませた。
着物の藤色の紐を解く。
男は、綺麗だ、と、私の身体を見た感想を述べた。
私は黒に覆い被さる様にして見下ろす。
白い髪が男の顔に掛かっていた。

「誓いますって言って」
「...誓う」

私はまた口付ける。
今後は舌を深く絡ませた。
顔を離すと、少々困惑しているらしい顔が見える。
その表情たるやなんて愛らしい顔であろうか。

「...片手はずっと繋いでいて下さい。もう片方の手は、どうしてもいいですよ」

出来るだけ優しくそう言うと、真昼の黒は私の口に親指を入れた。
私が親指をしゃぶると、口元から指は離れて、髪を経由して徐々に下がっていく。
そして、胸で止まった。
思わず笑みが零れる。

「構いません。私の全てはあなたの自由です」
「ん、ああ」

真昼の黒の切っ先を、自分の場所に宛がう。
一度だけそれはびくりと脈打った。
私はそれが愛おしく、また彼に口づけをした。
何度も飽きずに繰り返し、口だけで真昼の黒を味わい尽くそうかとさえ思った。
しかし、それ以上の事をしたい衝動に駆られ、私は腰を落とす。

「ただし、あなたの全ては私だけのものです」

ゆっくりと、私は真昼の黒に沈む。
後は叫声と反響音が、私達をより狂わせてくれる。 ------------------------------------------------------------------------------