ワーウルフになった妹を世話する兄(図鑑)
それはアッサ村一と言われたマラー姉さんの頭から、獣の耳が生えていたことから始まった。
僕の腹違いの姉さん。歳は二十二。いつも街に行っては色んなおいしいものを買ってきてくれる、マイペースでほわほわした、優しい姉さん。
そんな姉さんが笑顔で帰ってきて、僕が出迎えると、姉さんの頭には獣の耳が、姉さんの腰からは獣の尻尾が生えていた。
「えへへ。ルー君ごめんねー。お姉ちゃん、ワーウルフになっちゃった」
僕は生涯出したことがないようなものすごい叫び声を上げた。
姉さんがすごく焦っていることも気付かずに。
それがきっかけで、姉さんはどこかへ消えてしまった。
どこへ消えたかは知らない。僕がその次に目を覚ましたのは翌日の朝だったからだ。
母さんにも父さんにも、姉さんのことは言っちゃダメとすごく怖い顔で言われた。
たまにやってくる教団のシスターの人が言ってる。魔物の中には、人間を魔物に変えてしまう魔物もいるって。
魔物になった人間は魔物のように動き、魔物と同じ考えで人間を襲って食べてしまうって。
だから僕は、母さんや父さん、村のみんなにも黙っている。
僕の妹テスラが、ワーウルフになったことを。
テスラは病弱で、お医者さんでも治せない病気だった。原因不明の病気は、魔物の証だって考えた人も多くて、生まれたときは『禍子』(まがご)とか陰口を叩かれるたびにお父さんは怒って、村長さんまで出てきて、なんとかおさまった。
テスラはずうっと外を見ていた。体がうまく動かなくて、外に出られないテスラ。
僕はお父さんと違って狩りもまだ出来ないし、お母さんみたいに料理も出来ないから、離れにあるテスラの部屋によく行っていた。
どうしてテスラはこんな離れた場所に一人いるのだろう。お父さんに訊くと、僕に病気を移さないためだって言われた。
でも僕は、テスラの部屋に通い続けて、毎日色んな本を読んであげた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
白い顔で笑うテスラの笑顔が可愛くて。
それが今は。
「わうぅ、お兄ちゃん、今日もきてくれた」
ベッドから半身を起こして、ぱたぱた耳を動かしながらテスラが言った。
僕は毎日寝る前にテスラの部屋へ行って、テスラが寝付くまで本を読んであげる。
テスラがワーウルフになったことに気付いたのは、お姉ちゃんがいなくなった次の日の夜。
魔物、ワーウルフになってから、なんだかよく笑うようになったし、寝たきりではなくて、たまにベッドに腰掛けていることもあった。テスラの真っ白な足がまぶしかった。
僕はテスラにいなくなってほしくない。
いつものベッドの横の椅子に座ると、テスラはぐっと僕の顔に近づいてきた。ツンとした草木のような香りがする。
「わぅ、お兄ちゃん、カレー食べた?」
「う、うん。よくわかったね」
ちゃんと歯も磨いたんだけどなぁ。
「わたし、わかるもん。狼だから、ばっちり鼻がきくの」
「……そっかぁ」
テスラは自分のことを狼だとよく言う。シスターさんの言ったとおり、魔物みたいなことを言う。
でも僕を食べようとしたことはない。
よくわからないな。どういうことなんだろう。
「お兄ちゃん、本読んで。きょうはどんな本なの?」
「今日はね、ずっとずっと山の向こうにある、希望の国の話だよ」
レスカティエという国のおはなし。たくさんの強い強い勇者さまと、神の子どもの聖騎士さまがいて、わるい魔物を倒すため、毎日訓練をしてる。
そこには綺麗なお城や、色んな外国の船があって、まだ若い王女さまが毎日賛美歌を歌っている。王女さまも勇者さまも聖騎士さまも、そこで神の愛を受けて、幸せに暮らしてた。
とってもわるい魔物が襲ってきたけど、勇敢な勇者さまと王女さまは剣と歌でたたかった。
「――聖騎士さまにはどんなじゃあくな魔法もききませんでした。聖騎士さまの剣が、白い羽の生えた悪魔にささりました。悪魔は人間をうらむ言葉をはきながら消えていきました。
こうしてまた、魔物は消えて世界に平和が戻りました。レスカティエには今日も、王女さまの美しい歌がながれていました。めでたしめでたし」
ぱちぱちぱち、とテスラが拍手をした。
あれ、テスラの爪、もう伸びてる。ちょっとまえ切ったはずなんだけどなぁ。
「わううう……わたしも行ってみたいなぁ」
テスラが最近ちょっと黄色っぽくなった目をほそめて言った。
「うん。そうだね」
馬車で何十日かかるのかわからないけど、いつか連れて行ってあげたい。テスラの病気が治れば。
「お兄ちゃん、わたし、外に出たい。あの山をおもいっきり走りたい」
テスラは両足をばたばたさせた。足、動くの……?
「だめだよテスラ。病気が悪くなるから」
わぅぅ、と不満げに鳴くように言って、くるりと丸くなるように寝た。しっぽがちょうどテスラの顔の前まで来てる。
「病気、神さまも王女さまも、治してくれないのかな」
「きっと治るよ。だいじょうぶ」
「魔物だから、だめなのかなぁ」
僕はいつものように大丈夫とすぐにいえなかったけど、「だいじょうぶだよ」としぼりだすように言った。
「お兄ちゃんは、わたしがワーウルフでも、はなれないよね?」
まるで犬のように寝たまま、耳をぺたんと伏せて僕を見上げてくる。
「うん。はなれないよ。テスラは妹だもん」
「わぅっ! お兄ちゃんだいすきっ!」
ばさっと布団をはいで僕に抱きついてきた。「うわわっ」と僕があわててるのにテスラはぎゅーっと抱きついてくる。そのまま僕は椅子ごと倒れてしまった。
「わふっ、ごめんなさいお兄ちゃん。わぅぅ……」
謝るのはいいからどいてほしい。テスラは僕のおなかの上に乗って、僕の胸に両手をつけて、じいっと僕を見ている。
よく見たら、しっぽをぱたぱた振っている。
「お、お兄ちゃん、あのね」
「なに? テスラ」
テスラはきょろきょろした後、
「お、お兄ちゃん、なめていい?」
「えっ?」
テスラの口の周りが少し湿っている。舌で唇をなめて湿らせていた。
僕をなめる? え? どういうこと……
テスラの顔が一気に近づいてきて、すうっと頬に冷たい感触がした。思わずびくんと腰がはねてしまうと、「ひゃんっ」と僕がきいたことないほどか弱くて高い声をテスラがあげた。
「わふぅ……お兄ちゃん、ごめんなさい、でも、我慢できないのっ」
肩を気のせいかすごい力でつかんで、テスラは僕の頬を何度もなめてきた。黄色っぽい目がきらきら光って見える気がする。顔がよだれでべたべた。
「わわっ、テスラ、なにしてるの!? おちついて!」
体全体でおおいかぶさってきたテスラを、僕はなんとか離した。「テスラ!」と怒ったように呼ぶと、テスラの体がはねて、よだれが垂れる舌が口の中に戻る。
「わぅ、ごめんなさい。でもお兄ちゃん、ありがとう」
「あ、ああ、うん」
テスラはベッドの中に戻って、いつもの薄い笑顔をした。何がありがとうなんだろう。わからないけど、さっきのテスラはちょっと怖かったから、きかないことにした。
「あしたもぜったいきてね。お兄ちゃん。だいすき」
「うん。わかったよ。おやすみテスラ」
「おやすみなさい」
僕は部屋のランプを消して、テスラの部屋を出た。
テスラも、寂しいからかな。今度、お人形さんを買ってあげてってお父さんに頼もうかな。
寂しいから、僕に抱きついたりするんだ。僕も昔はテスラを抱っこしてあげたりしたし。
お父さんもお母さんも、お姉ちゃんがいなくなった日から夜は村の周りをまわって魔物を探しているみたい。朝ごはんが遅くなったりしたけど、僕は文句は言わない。
僕の村には学校がないから、昼の間僕は村はずれのおじさんの家で勉強をする。村の僕と同じぐらいの歳の子や、お姉ちゃんと同じぐらいの歳の人までいる。
狩りの仕方、本に出てくるむずかしい言葉の勉強、危ない場所や村の外にあるもの。
そして、教団と魔物のこと。
でも、お姉ちゃんがいなくなってからは、魔物のことはあんまり言わなくなった。おじさんとお姉ちゃんはずっと仲が良かったし、おじさんは何度も僕のところにきて励ましてくれる。
「ルーク、本当にすまないね。おじさんがワーウルフのはぐれを見逃したばかりに」
おじさんはしわのある顔をくしゃっとゆがめて、僕に言った。
「ううん、いいんです。だいじょうぶ」
おじさんは村の狩人で、近くに来たワーウルフの群れを追い払った。そのあとはぐれた一匹にお姉ちゃんが襲われて、お姉ちゃんもワーウルフになった。
「近いうち、教団の兵士さんが来ることになってるから、もう少しで村のみんなも安心できるからね。このあたりにいるわるい魔物をみんなやっつけるために、町のシスターさんが頼んでくれたんだ」
「えっ……」
僕はきゅうっと心臓が痛くなった。
教団の人に、もしテスラが見つかったら……。
僕はおじさんに礼をして、走って家を目指した。
村のみんなは緊張してる。村長さんの娘のマーシャさんが、この村に魔物が来るなんて初めてだって言ってた。マーシャさんは確か、村のはずれのほこらでお祈りをしてる。
みんなみんな、魔物がいなくなることをお祈りしてる。
でも僕は。
「……神さまお願い。テスラを助けて」
僕の妹を、助けて。お願い。神さま。
その日の夜も、僕はテスラの部屋に行った。お父さんもお母さんも、疲れて寝ちゃった後に。
「わぅぅ、お兄ちゃん、遅いよ。でも来てくれた。わうぅ」
テスラは狼の耳をぴんと立てて、にこっと笑った。
僕はテスラの横に座って、手を握った。なんだかふわふわする。まるで毛布みたいなふわふわした青い毛がテスラの手に生えていた。ほんとに狼の手みたいだ。
「お兄ちゃん、本読んで。今日はどんな本?」
「……ごめんね、テスラ。いまは新しい本がないんだ」
こんな時間になったのも、僕の本棚から読んでない本を探してたから。シスターさんも商人さんも、何日も何日も来ないときがあるから、本を読めない日がある。
いつものテスラはしょぼんとして、でも必死で笑って「ううん、いいよ」って言うけど、今日のテスラはちがう。
「そっか。じゃあお兄ちゃん、なめていい?」
「えっ……」
僕が答える前に、テスラは僕に抱きついてくる。最初から僕をなめることが目的だったみたいに、僕を押し倒してよだれにまみれた舌で僕のほっぺたや口をなめる。
体があつくなってきた。
「わうっ、お兄ちゃんいいにおい……」
僕の寝巻きの襟をつかんで、ほとんど破るように開いていく。首筋に顔を近づけて首をなめはじめた。熱っぽいよだれが首のまわりを伝う。なんだかおかしなきぶん。
「だっ、だめっ。テスラ! 落ち着いて!」
すごくいけないことをしてる気がして、僕はテスラの肩を持ってひきはがした。わうっわうっとしっぽをばたばた振りながら不満げに鳴いている。
「テスラっ!」
「わっ。な、なに、お兄ちゃん」
舌をひっこめて、昔みたいな顔で僕を見てくる。ベッドに座らせて、よだれでべたべたなのをがまんしながら僕はなるべく怒った顔で言った。
「テスラ、甘えたい気持ちはわかるけど、甘えすぎだよ。最近とくにそう」
「うぅ……だって、お兄ちゃんがいいにおいするから」
いいにおいってどういうことなんだろう?
「でもっ、なめたりするのはだめっ。テスラは魔物じゃなくて人間なんだから、そんなのはよくないよ」
魔物っぽいことをすると、とっても危ないから。そう思って言ったけど、
「……わたしは、ワーウルフになってよかったっておもってるよ?」
テスラが首をかたむけて、意外なことを言った。
「ワーウルフになったら、病気も楽になったし、体も動くようになった。いつもぼーっとしてたけど、なんだか最近、お兄ちゃんの言葉もはっきりきこえるようになったし、ええっと……とにかく、うれしいの。わたし」
テスラは牙のある口でにぱっと笑った。
ワーウルフになって、嬉しいの……? そういえば、お姉ちゃんも笑ってた。お姉ちゃんは特に病気だってきいたことないけど、嬉しかったのかな?
「人間だから」って言うのは、よくないことなのかな。
僕はふうっと深呼吸して、テスラの頭をなでてあげた。「わふう」と気持ち良さそうに鳴いて、狼の耳がぺたんと寝る。
「うん、わかった。でもなめるのは少なくしてね」
おかしなきぶんになっちゃうから。
「わうう……それじゃあ、お外につれてって。はしりたい」
「外に?」
テスラが笑顔でうなづいた。開くようにつくられていない窓の向こうに、青っぽい月と星空が見える。丘の上の草がさらさらそよぐ姿も。
「ねっ、お願いお兄ちゃん。お外につれてって」
「……う、うん。じゃあ明日ね」
そう答えると、またテスラにおしたおされてなめられた。
僕はお父さんやお母さんに、テスラを外に連れ出すことは話せなかった。おじさんやマーシャさんの話ではなかなかはぐれたワーウルフやほかの魔物が見つからなくて、教団の人たちも『精霊のいたずら』でうまく進めないらしい。だから不安そうで、言い出せなかった。
神さまが味方してくれたのかな、と考えるとおかしかった。
魔物にも神さまって、いるのかな? 僕がお願いしたのを魔物の神さまが聞いてくれたのかな?
「……ありがとう。神さま」
僕が学校からの帰りにつぶやくと、向かいのおばさんから「えらいね」ってほめられた。ちょっともうしわけない気分になった。
今日しようとしてることを考えると、本を探す必要はないと気付いて、僕は部屋の中でぼーっとしてたら寝ていた。
昨日、あんまり眠れなかったのかな。テスラのよだれを洗ったりして、ずっと体がどきどきしてたからかな。
お父さんお母さんが寝てしまってから、僕はまたテスラの部屋へ行った。外からしか開かない鍵を開けると、「わうっ!」とテスラが飛び出してきた。
「テスラしずかにっ。あんまりおおきい声出さないでっ」
「あ、ごめんなさい……。でも、がまんできなくて」
そう言う間にも倒れた僕の上に乗って僕のほっぺたをなめている。とてもとても嬉しそうで、笑顔がまぶしくて、僕はしばらく草の上でじっとしていた。
ガタンッと家のほうから物音がして、僕はあわててテスラを抱いて草むらに隠れた。誰も出てこないし、窓の明かりも消えてる。気のせいみたい。
村のはずれの山には蛍が飛んでいて、僕がテスラを降ろすと、わんわんっと鳴いて走り始めた。
病気、治ったのかな……どうして? 魔物になると治るの?
それにどうしてテスラは、手も使って走ってるの?
わからないことだらけだけど、嬉しそうに鳴きながら草原を走り回るテスラを見ていると、まあいっかと思った。
「お兄ちゃんっ。いっしょにはしろっ。わうう」
僕はぱたぱたしっぽを振るテスラに近づいて、頭をなでてから一気に走った。でもテスラもすごく早くて、あっという間に追いつかれて押し倒されてしまう。
ここ最近青っぽくなったテスラの髪が、星空の上で綺麗に光っている。
「わうぅ、お兄ちゃんだいすき。わたし、ずっと夢だったの。お外で走りたかった」
「そっか。それはよかったよ」
僕はもうほっぺたをなめつづけるテスラを怒ったりしなかった。体はもやもやするし夜風の冷たさが気持ちいい。意外とふっくらしてるテスラの首を掴んでなでてあげると、くぅぅと喉を鳴らして気持ちよさそうだった。
気のせいかもしれないけど、テスラのほっぺたも赤い。
「お兄ちゃん、その……く、口も、なめていい?」
なんだろう、すごく僕もへんなきもちになってきたけど、迷いなくうなずいた。テスラは黄色く光る目を細めて、僕の口まで自分の口を近づけた。
すごくやわらかい。少しだけ湿ったような、なめられるというより、くっついているような感触。僕は気付くと口を開けて、テスラの舌を中に入れていた。
くちゅり、と舌がからまってよだれがはじける音がする。
「ふわぁっ……わうっ、お兄ちゃん、だいすき……わううっ」
僕も、すきだよ、テスラ。
今僕がどこにいるのかとか、どうしてテスラとこんなことをしているのかとか、そんなことはどうでもよくて、ただ、ふわふわときもちよかった。
いつの間にか汗ばんだテスラを抱いていた。鋭い爪の生えたテスラの両手が僕の頭を後ろから掴んで離してくれなかったけど、それも気にならなくて。
テスラが少しだけ顔を引いて、僕の鼻や唇のまわりをなめはじめた。
「テスラ、唇じゃだめなの?」
僕がちょっと怒って言うと、
「わうぅ……くらべてみたけど、わたし、ワーウルフだから、こっちのほうが、好きかも」
テスラのしっぽはぱたぱた振られているし、体全体で僕をなめるようにぎゅうっと押し付けられてるから、まあいいかな、と僕も思った。とってもいいにおいがした。
こすりつけてくる体を僕が抱いてあげると、テスラは笑顔で僕の顔をなめてくる。ほんとに犬みたいだけど、ずっとずっとかわいい僕の妹。ぺたんと垂れた耳をなでると「きゃうぅ」と鳴いて、僕はなんだか楽しくなった。
テスラが「わぉん!」と吠えてまた走り出したから僕も追いかけると、いきなり僕にとびかかってきてまた押し倒された。すぐにテスラの頭をなでてあげると、僕のほっぺたをなめてくれる。
「テスラ……」
「くぅぅん……お兄ちゃん……」
テスラは僕の肩に頭をのせた。背中をなでてあげると、ぱたぱたっとしっぽが動く。わかりやすくて、おもしろかった。
もうテスラはこのままでいいんだ。僕はそう信じた。
「わうううぅ……お兄ちゃん、わたし、お母さんに会いたい。会って、おはなししたいの」
テスラは僕が家に戻る前に、ちょっと寂しそうにそう言った。
だから僕は寝て、夕方に起きて、夕ご飯のときに話をしてみた。
「お母さん、テスラと会ってほしいの」
「……ルーくん、どうしてそんなことを言うのかしら?」
お母さんはちょっと怒ったような顔。お父さんも食べる手を止めて僕を見ていた。怖い。
「えっ、いや、テスラが、お母さんと会いたいって言ってたから……テスラ、寂しそうなんだよ」
「……そう。じゃあ、お父さんとお母さん、今日は疲れてるから、明日でいいかしら? 明日は教団の人が来るからちょっと忙しいけど、まあ、大丈夫でしょう」
「そうだな。ルーク、今日はもう寝なさい。本もないし、テスラのとこへは今日はいい」
お父さんがこんなことを言うのは初めてだ。
「えっ。でも」
「テスラもそろそろ十歳になるし、兄ちゃんに甘えっぱなしっていうのはよくないからな。今日ぐらいはいい」
お父さんの顔はちょっときびしい感じだった。
僕は神さまに感謝する言葉をお父さんとお母さんと言って、部屋に戻った。でもなんだか気になって、下に降りて、ご飯の片づけをしているお母さんたちの部屋に近づいた。
ちょっと見るだけ、と思ったら。
「……あんなこと言ってよかったのか? テスラだってマラーみたいに」
「やめて。そんなこと言わないで。わからないじゃない」
……お姉ちゃんみたいにって、どういうこと?
僕は足音を立てないように、近くの物陰に隠れた。
「もうだいぶ怪しまれてる。ワーウルフの呪いの一家なんて陰口まで」
「……マラーはテスラに近づかせなかったわ。だから大丈夫。きっとそうよ。後は教団の人をごまかせばいい。教団の医者が言ったんだから、テスラは心配ないでしょうけどね」
お母さんの声は震えていた。
「あなたがそもそも隔離するなんて言い出したのが悪いのよ。魔力なんて人間の女性は誰でも持ってるって本を読んだことがあるわ」
「でもテスラの病気はなんだ。町の医者でも治せない病気なんて魔力の異常蓄積しか考えられん」
「それでも、だからこそ普通に育ててあげるべきだったのよ! ルークに全部押し付けるなんて」
「奔放にさせてああなったマラーのことがあるだろう!」
お父さんがこんな大きな声を出したのは初めてで僕は思わず悲鳴を上げそうになった。
「それは最近のことでしょ!? 話を逸らさないで」
「…………こんな小さな村では、体面が大事だ。俺だって娘が魔力もちなんて認めたくはないし、教団なんて迷信が半分だ。それでも、見た目だけでもこの家と遠ざけることは必要だったんだ」
「それでも親なの!? あなたはいつも」
「じゃあおまえは、近づけるか? 今のテスラに」
お母さんもお父さんも何も言わなかった。
「……マラーだけでも辛いんだ。もうやめてくれ……ただでさえ教団を誤魔化す口実で胃が痛いんだ。久々に見た娘が魔物になっていたなんて、二度起こったら……」
こんな弱い声も、初めてだ。
「……ルークになんて言おうかしら」
「……俺も、明日中に考えておくよ」
僕は部屋に戻って、布団をかぶった。
僕にはまだ難しい話はよくわからないけど、なんとなく、どうしてテスラが僕以外と会わないのかわかった気がした。
わかりたくなかった。
僕は夜中に起きて、テスラの部屋に行った。お母さんたちがもしかして起きてるかもしれない、ぎりぎりの時間。
お父さんの言ったことも覚えてたし、明日教団の人が来るって聞いたら、もう、待ってられなかった。
僕はお母さんたちの言ったことすべてはわからないけど、テスラのことは気付いてないってことだけわかった。
気付いていないけど、テスラのことを疑ってるってことも。
そして、僕がやるべきことも。
テスラは布団の中で、荒く息をしていた。
「はーっ……はーっ……お兄ちゃん、お兄ちゃん……っ」
「テスラ?」
僕が近づくとテスラはとてもびっくりして、「ちょっとまって!」と言って追い出された。少しだけ見えたまっしろな首筋と、青い毛に覆われた腕が綺麗だった。
しばらくして部屋に入ると、いつものように僕を押し倒してなめてきたから、僕も安心した。なんだかかいだことのないにおいがするけど。
「わうわうっ。お兄ちゃん、遅かったね。さびしかった」
「ごめんテスラ。ちょっとお母さんたちと話をしてきた」
はなし? と首をかしげてきいてくるテスラがかわいかった。
「どんなはなし?」
「お母さん、テスラと会ってくれるって」
わあっ、と人間のときのような声をだした。ぱたぱたっとしっぽがふられて、とても嬉しそう。
「会いたいっ。今すぐ会いたい。わうわうっ」
「うん。今、今じゃなきゃだめだから。だからテスラ、ついてきて」
僕がそう言うと、また押し倒されて顔をなめられた。いつもより激しくて、僕もついテスラの首を抱いてしまう。わうわうっと鳴くテスラがかわいい。
しばらくじゃれあって、テスラが満足したら僕は家の前に行った。もう一階の電気が消えてる。
テスラの部屋と家を結ぶ道にある扉は、ふしぎな模様が書いてて、きらきら光る鍵でしか開けられない。テスラは僕の後ろに隠れて「くぅぅん」と悲しそうに鳴いていた。
「どうしたの? 大丈夫。今ならお母さんを起こせるから」
扉を開けて、テスラを家の中に入れる。テスラにとってたぶん初めての、僕らの家。
ちゃきっちゃきっとテスラの爪の足音がするけど、僕は気にしなかった。
お母さんを起こして、テスラの姿を見せて、説得する。
お父さんには見せたくないけど、お母さんならわかってくれる気がする。そう思ったから。
テスラのことをお母さんは知らない。テスラは危なくなんかない。それを知ってくれれば、きっと大丈夫。
お母さんとお父さんの部屋の扉を開ける。お父さんのいびきが聞こえる。声をかけられなかったから、たぶんお母さんも寝てる。
僕はテスラに「ここで待ってて」と言ってお母さんの横まで行く。
「お母さん、いるの? そこにいるの? わうわう」
「うん、いるよ。いるから、そこで待って――」
「お母さんっ!」
テスラがすごい勢いでお母さんに近寄って、首に噛み付いた。
「――っ!!」
お母さんが見たこともないような顔をする。ばたばた動く手をテスラは体で押さえつけて、しっぽを振りながらお母さんの首を噛む。
「わうっ! わうっ! お母さんも、なろっ! ワーウルフっ。わうっ!」
えっ……?
テスラが口を離すと、「はぁっ……」と熱い息を吐いて、お母さんの頭から狼の耳が生えた。目が黒から黄色に変わって、にやっと笑う。
「うふふ……」
立ち上がったお母さんは楽しそうに笑っていた。僕の頭をなでて、その後テスラの頭をなでる。テスラはとっても嬉しそうだった。それだけでいいかな、と僕は思った。
「もう、テスラ。悪い子ね。お母さんまでワーウルフにしちゃうなんて」
「わうわうっ。だって、お兄ちゃんのお母さんだもん」
「グルルル……まあ、それもそうね」
お母さんの青いしっぽがふらふらと揺れている。
「……ごめんね、マラー。お母さんが間違ってた。そうよ。ワーウルフこそが正しいの」
お母さんは寂しそうな顔で言って、横で寝ているお父さんに抱きついた。テスラが昨日僕にしたみたいに、口を塞いでなめた。
「ぐっ、あ、なっ、おまえっ……!」
「ねえ、もう終わりにしましょ? 何にもわかっちゃいない村の人も、テスラをマラーみたいに殺そうとする教団もなんとかする方法があるでしょう?」
お母さんはお父さんを爪で押さえつけて、首筋をなめた。それだけでお父さんの手から力が抜けた。
「あなただって疲れてる。わたしだってもううんざりよ。娘を疑わなきゃいけない母親の気持ちがわかる? 心臓が張り裂けそうよ。何が体面。何にもわかっちゃいないわ。グルル……今がちょうどいい」
お父さんの怒った顔が少し揺らいだ。そこでお母さんは僕とテスラを見て、牙のある口でにやっと笑った。
「テスラ、ルーくん。部屋に戻って、明日の朝早く起きなさい。大丈夫、お父さんとお母さんを信じて、ゆっくり寝ていいわ」
いいのかな。教団の人が来るのに。こんなことになったら、ワーウルフになったから、お母さんまで消えちゃうかもしれないのに。
お母さんは爪のある手で僕の頭をやさしくなでてくれた。それで不安はきえた。
「さあ、その前にちょっといいかしら。あなた。栄養補給、させてくれる?」
僕とテスラが階段を上る前に、そんな声が聞こえた。
その日、僕とテスラは抱き合って寝た。僕の小さなベッドで、お互いに暖まりながら寝た。夏なのに体がすごく冷たくて、怖かったけど、でも、テスラといると、落ち着いた。
「わうっ。嬉しいっ。お母さんもワーウルフ。お母さんと同じっ。しあわせ。わうわう」
テスラはお母さんと違うことが寂しかったのかな? わからない。マーシャさんなら、おじさんなら教えてくれるのかな。
でも明日、おじさんやマーシャさんに、会えるのかな?
そう考えると胸がきゅうっと痛くなったから、僕はテスラになめてもらった。テスラは途中で服を脱ごうとしたけど、「風邪ひくよ」って言うと顔をちょっと赤くして、僕の口をなめた。僕もテスラの口に自分の口を重ねて、体を暖めた。
もやもやするきもちがいつのまにかきもちよくなっていて、僕もテスラも嬉しかった。
「お兄ちゃん、ありがとう……」
「……どういたしまして」
いつの間にかテスラも僕も、寝てしまっていた。
朝、一階にテスラと降りると、お父さんとお母さんが待っていた。お父さんが僕の頭を笑顔でなでてくれた。「よくやったなルーク」って、難しい本が読めた時みたいにほめてくれた。
「テスラ……。テスラも、こっちに来てくれ」
「わうわうっ。お父さんっ、嬉しい」
テスラがしっぽをふって、お父さんがテスラの背中をなでる。ちょっとだけ胸がちくっとした。
「うふふ。あなた、そろそろ始めない? 狩りを」
「……ああ、そうだな。よしルーク、お母さんのおにぎりを食べたら、テスラの部屋の前に来るんだ」
お父さんとお母さんはとても楽しそうで、よかったと思った。みんなみんな楽しくなった。
ご飯をたくさん食べて、僕はテスラの部屋の前に行った。お父さんは大きな弓と矢を持って、お母さんはひじやひざを革の防具でおおっていた。
「よく聞くんだルーク、テスラ。お父さんはまず、村の入り口に行って教団の人と村長を止める。その間にお母さんはお隣さんから順に『じゃれて』いくから、ルークとテスラはマーシャさんのところへいくんだ。わかった?」
お母さんは楽しそうに隣の家を見ている。隣の家のお姉さんもおばさんも、まだ寝てる時間かな。
「あなた。気をつけてね」
お母さんがお父さんのほっぺたをなめる。お父さんはお母さんのほっぺたに口をつけた。テスラが僕の服の袖をひっぱったから、僕たちも同じことをした。
「ふふっ。あなたたちも、きっと立派なお父さんとお母さんになるわ。お母さん、嬉しい。グルル」
「わうわうっ。お兄ちゃん、きいたっ?」
うん。僕も嬉しいよ。
お父さんが「じゃあ、後でな」と言って向こうのほうにある村の門へ歩いていく。お母さんは嬉しそうに笑って、「じゃあね」と言って隣の家の窓から入った。なんだか悲鳴が聞こえたけど、すぐになくなってお母さんの嬉しそうな鳴き声がした。
僕とテスラは、マーシャさんがいつもお祈りしているほこらまで行った。長い髪のお姉さん、マーシャさんは僕を見て、テスラを見て、「えっ……」と驚いた顔をした。
「わうわうっ。おねえさんもワーウルフっ。わうっ!」
マーシャさんの首にテスラが噛み付いて、マーシャさんが倒れる。しばらくばたばた手を動かしていたけど、止まって、頭から狼の耳が生えたら、また楽しそうに笑った。
「わふぅ……すっごく気持ちいいわ。ルークくん、ありがとう。テスラちゃんも。はじめまして、かな? わふっ」
よかった。マーシャさんも楽しそう。
「これで魔物に怯えることもないわ。あら、今はわたしが魔物、だったかしら。わふっ」
「うん。えっと、お父さんが村で村長さんを止めてるみたいなんだけど……」
「そっかー。じゃあわたしはお母様を狙おっと。お母様もワーウルフ、わたしもワーウルフ、素晴らしいわ」
マーシャさんは手と足を使って、すごい速さで村長さんの家に入っていった。
隣のお姉さんが綺麗なワーウルフになって、おじさんの家の、隣の席の女の子もワーウルフになって、みんなでおじさんにじゃれついた。
おじさんは最初は怖がってたけど、すぐにみんなをなでてくれた。僕と同じだ。
村長さんもマーシャさんと村長さんのおばさんに押し倒されて、嬉しそうな顔をしてた。
そうそう。教団の真っ白い鎧を着た人たちが来たけど、お母さんやマーシャさん、ワーウルフのみんなが後ろから襲い掛かって、いつものシスターさんや鎧を着た人もワーウルフになって、笑いながら教団の男の人を押し倒していた。
こうして、テスラとお母さん、お父さんにせまった危機は終わった。
テスラは、いなくならない。
よかった。
僕は、この小さなアッサ村でワーウルフのテスラと、ワーウルフのお母さんと、優しいお父さんと暮らしてる。
みんなみんな笑顔で、時々みんなで狩りに行って。村にいる人もたくさん増えたし、ほかの村のワーウルフの女の人も遊びに来てくれたり。
しあわせだ。
時が経って。
テスラは青い髪のとても綺麗な女性になった。僕はまあ、わからないけど、狩りの腕と教団を撒く力、村を守る力だけは父さんに負けないと思っている。今は狩りも出来るし、剣術だってリザードマンから習った。
テスラにふさわしい男になれただろう。
そろそろ母さんに、子作りと旅の許可をもらう頃だ。
姉さんの敵討ちとか、そんなどろどろした感情じゃない。ワーウルフは旅が好きなんだ。それがこの村に幸せを運んだ発端でもあったのだろう。
そして僕はテスラやマーシャさんと一緒に、幸せを運びに行く。
この草原の向こうの、果てしない村へと。
愛するテスラと、共に。
僕の腹違いの姉さん。歳は二十二。いつも街に行っては色んなおいしいものを買ってきてくれる、マイペースでほわほわした、優しい姉さん。
そんな姉さんが笑顔で帰ってきて、僕が出迎えると、姉さんの頭には獣の耳が、姉さんの腰からは獣の尻尾が生えていた。
「えへへ。ルー君ごめんねー。お姉ちゃん、ワーウルフになっちゃった」
僕は生涯出したことがないようなものすごい叫び声を上げた。
姉さんがすごく焦っていることも気付かずに。
それがきっかけで、姉さんはどこかへ消えてしまった。
どこへ消えたかは知らない。僕がその次に目を覚ましたのは翌日の朝だったからだ。
母さんにも父さんにも、姉さんのことは言っちゃダメとすごく怖い顔で言われた。
たまにやってくる教団のシスターの人が言ってる。魔物の中には、人間を魔物に変えてしまう魔物もいるって。
魔物になった人間は魔物のように動き、魔物と同じ考えで人間を襲って食べてしまうって。
だから僕は、母さんや父さん、村のみんなにも黙っている。
僕の妹テスラが、ワーウルフになったことを。
テスラは病弱で、お医者さんでも治せない病気だった。原因不明の病気は、魔物の証だって考えた人も多くて、生まれたときは『禍子』(まがご)とか陰口を叩かれるたびにお父さんは怒って、村長さんまで出てきて、なんとかおさまった。
テスラはずうっと外を見ていた。体がうまく動かなくて、外に出られないテスラ。
僕はお父さんと違って狩りもまだ出来ないし、お母さんみたいに料理も出来ないから、離れにあるテスラの部屋によく行っていた。
どうしてテスラはこんな離れた場所に一人いるのだろう。お父さんに訊くと、僕に病気を移さないためだって言われた。
でも僕は、テスラの部屋に通い続けて、毎日色んな本を読んであげた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
白い顔で笑うテスラの笑顔が可愛くて。
それが今は。
「わうぅ、お兄ちゃん、今日もきてくれた」
ベッドから半身を起こして、ぱたぱた耳を動かしながらテスラが言った。
僕は毎日寝る前にテスラの部屋へ行って、テスラが寝付くまで本を読んであげる。
テスラがワーウルフになったことに気付いたのは、お姉ちゃんがいなくなった次の日の夜。
魔物、ワーウルフになってから、なんだかよく笑うようになったし、寝たきりではなくて、たまにベッドに腰掛けていることもあった。テスラの真っ白な足がまぶしかった。
僕はテスラにいなくなってほしくない。
いつものベッドの横の椅子に座ると、テスラはぐっと僕の顔に近づいてきた。ツンとした草木のような香りがする。
「わぅ、お兄ちゃん、カレー食べた?」
「う、うん。よくわかったね」
ちゃんと歯も磨いたんだけどなぁ。
「わたし、わかるもん。狼だから、ばっちり鼻がきくの」
「……そっかぁ」
テスラは自分のことを狼だとよく言う。シスターさんの言ったとおり、魔物みたいなことを言う。
でも僕を食べようとしたことはない。
よくわからないな。どういうことなんだろう。
「お兄ちゃん、本読んで。きょうはどんな本なの?」
「今日はね、ずっとずっと山の向こうにある、希望の国の話だよ」
レスカティエという国のおはなし。たくさんの強い強い勇者さまと、神の子どもの聖騎士さまがいて、わるい魔物を倒すため、毎日訓練をしてる。
そこには綺麗なお城や、色んな外国の船があって、まだ若い王女さまが毎日賛美歌を歌っている。王女さまも勇者さまも聖騎士さまも、そこで神の愛を受けて、幸せに暮らしてた。
とってもわるい魔物が襲ってきたけど、勇敢な勇者さまと王女さまは剣と歌でたたかった。
「――聖騎士さまにはどんなじゃあくな魔法もききませんでした。聖騎士さまの剣が、白い羽の生えた悪魔にささりました。悪魔は人間をうらむ言葉をはきながら消えていきました。
こうしてまた、魔物は消えて世界に平和が戻りました。レスカティエには今日も、王女さまの美しい歌がながれていました。めでたしめでたし」
ぱちぱちぱち、とテスラが拍手をした。
あれ、テスラの爪、もう伸びてる。ちょっとまえ切ったはずなんだけどなぁ。
「わううう……わたしも行ってみたいなぁ」
テスラが最近ちょっと黄色っぽくなった目をほそめて言った。
「うん。そうだね」
馬車で何十日かかるのかわからないけど、いつか連れて行ってあげたい。テスラの病気が治れば。
「お兄ちゃん、わたし、外に出たい。あの山をおもいっきり走りたい」
テスラは両足をばたばたさせた。足、動くの……?
「だめだよテスラ。病気が悪くなるから」
わぅぅ、と不満げに鳴くように言って、くるりと丸くなるように寝た。しっぽがちょうどテスラの顔の前まで来てる。
「病気、神さまも王女さまも、治してくれないのかな」
「きっと治るよ。だいじょうぶ」
「魔物だから、だめなのかなぁ」
僕はいつものように大丈夫とすぐにいえなかったけど、「だいじょうぶだよ」としぼりだすように言った。
「お兄ちゃんは、わたしがワーウルフでも、はなれないよね?」
まるで犬のように寝たまま、耳をぺたんと伏せて僕を見上げてくる。
「うん。はなれないよ。テスラは妹だもん」
「わぅっ! お兄ちゃんだいすきっ!」
ばさっと布団をはいで僕に抱きついてきた。「うわわっ」と僕があわててるのにテスラはぎゅーっと抱きついてくる。そのまま僕は椅子ごと倒れてしまった。
「わふっ、ごめんなさいお兄ちゃん。わぅぅ……」
謝るのはいいからどいてほしい。テスラは僕のおなかの上に乗って、僕の胸に両手をつけて、じいっと僕を見ている。
よく見たら、しっぽをぱたぱた振っている。
「お、お兄ちゃん、あのね」
「なに? テスラ」
テスラはきょろきょろした後、
「お、お兄ちゃん、なめていい?」
「えっ?」
テスラの口の周りが少し湿っている。舌で唇をなめて湿らせていた。
僕をなめる? え? どういうこと……
テスラの顔が一気に近づいてきて、すうっと頬に冷たい感触がした。思わずびくんと腰がはねてしまうと、「ひゃんっ」と僕がきいたことないほどか弱くて高い声をテスラがあげた。
「わふぅ……お兄ちゃん、ごめんなさい、でも、我慢できないのっ」
肩を気のせいかすごい力でつかんで、テスラは僕の頬を何度もなめてきた。黄色っぽい目がきらきら光って見える気がする。顔がよだれでべたべた。
「わわっ、テスラ、なにしてるの!? おちついて!」
体全体でおおいかぶさってきたテスラを、僕はなんとか離した。「テスラ!」と怒ったように呼ぶと、テスラの体がはねて、よだれが垂れる舌が口の中に戻る。
「わぅ、ごめんなさい。でもお兄ちゃん、ありがとう」
「あ、ああ、うん」
テスラはベッドの中に戻って、いつもの薄い笑顔をした。何がありがとうなんだろう。わからないけど、さっきのテスラはちょっと怖かったから、きかないことにした。
「あしたもぜったいきてね。お兄ちゃん。だいすき」
「うん。わかったよ。おやすみテスラ」
「おやすみなさい」
僕は部屋のランプを消して、テスラの部屋を出た。
テスラも、寂しいからかな。今度、お人形さんを買ってあげてってお父さんに頼もうかな。
寂しいから、僕に抱きついたりするんだ。僕も昔はテスラを抱っこしてあげたりしたし。
お父さんもお母さんも、お姉ちゃんがいなくなった日から夜は村の周りをまわって魔物を探しているみたい。朝ごはんが遅くなったりしたけど、僕は文句は言わない。
僕の村には学校がないから、昼の間僕は村はずれのおじさんの家で勉強をする。村の僕と同じぐらいの歳の子や、お姉ちゃんと同じぐらいの歳の人までいる。
狩りの仕方、本に出てくるむずかしい言葉の勉強、危ない場所や村の外にあるもの。
そして、教団と魔物のこと。
でも、お姉ちゃんがいなくなってからは、魔物のことはあんまり言わなくなった。おじさんとお姉ちゃんはずっと仲が良かったし、おじさんは何度も僕のところにきて励ましてくれる。
「ルーク、本当にすまないね。おじさんがワーウルフのはぐれを見逃したばかりに」
おじさんはしわのある顔をくしゃっとゆがめて、僕に言った。
「ううん、いいんです。だいじょうぶ」
おじさんは村の狩人で、近くに来たワーウルフの群れを追い払った。そのあとはぐれた一匹にお姉ちゃんが襲われて、お姉ちゃんもワーウルフになった。
「近いうち、教団の兵士さんが来ることになってるから、もう少しで村のみんなも安心できるからね。このあたりにいるわるい魔物をみんなやっつけるために、町のシスターさんが頼んでくれたんだ」
「えっ……」
僕はきゅうっと心臓が痛くなった。
教団の人に、もしテスラが見つかったら……。
僕はおじさんに礼をして、走って家を目指した。
村のみんなは緊張してる。村長さんの娘のマーシャさんが、この村に魔物が来るなんて初めてだって言ってた。マーシャさんは確か、村のはずれのほこらでお祈りをしてる。
みんなみんな、魔物がいなくなることをお祈りしてる。
でも僕は。
「……神さまお願い。テスラを助けて」
僕の妹を、助けて。お願い。神さま。
その日の夜も、僕はテスラの部屋に行った。お父さんもお母さんも、疲れて寝ちゃった後に。
「わぅぅ、お兄ちゃん、遅いよ。でも来てくれた。わうぅ」
テスラは狼の耳をぴんと立てて、にこっと笑った。
僕はテスラの横に座って、手を握った。なんだかふわふわする。まるで毛布みたいなふわふわした青い毛がテスラの手に生えていた。ほんとに狼の手みたいだ。
「お兄ちゃん、本読んで。今日はどんな本?」
「……ごめんね、テスラ。いまは新しい本がないんだ」
こんな時間になったのも、僕の本棚から読んでない本を探してたから。シスターさんも商人さんも、何日も何日も来ないときがあるから、本を読めない日がある。
いつものテスラはしょぼんとして、でも必死で笑って「ううん、いいよ」って言うけど、今日のテスラはちがう。
「そっか。じゃあお兄ちゃん、なめていい?」
「えっ……」
僕が答える前に、テスラは僕に抱きついてくる。最初から僕をなめることが目的だったみたいに、僕を押し倒してよだれにまみれた舌で僕のほっぺたや口をなめる。
体があつくなってきた。
「わうっ、お兄ちゃんいいにおい……」
僕の寝巻きの襟をつかんで、ほとんど破るように開いていく。首筋に顔を近づけて首をなめはじめた。熱っぽいよだれが首のまわりを伝う。なんだかおかしなきぶん。
「だっ、だめっ。テスラ! 落ち着いて!」
すごくいけないことをしてる気がして、僕はテスラの肩を持ってひきはがした。わうっわうっとしっぽをばたばた振りながら不満げに鳴いている。
「テスラっ!」
「わっ。な、なに、お兄ちゃん」
舌をひっこめて、昔みたいな顔で僕を見てくる。ベッドに座らせて、よだれでべたべたなのをがまんしながら僕はなるべく怒った顔で言った。
「テスラ、甘えたい気持ちはわかるけど、甘えすぎだよ。最近とくにそう」
「うぅ……だって、お兄ちゃんがいいにおいするから」
いいにおいってどういうことなんだろう?
「でもっ、なめたりするのはだめっ。テスラは魔物じゃなくて人間なんだから、そんなのはよくないよ」
魔物っぽいことをすると、とっても危ないから。そう思って言ったけど、
「……わたしは、ワーウルフになってよかったっておもってるよ?」
テスラが首をかたむけて、意外なことを言った。
「ワーウルフになったら、病気も楽になったし、体も動くようになった。いつもぼーっとしてたけど、なんだか最近、お兄ちゃんの言葉もはっきりきこえるようになったし、ええっと……とにかく、うれしいの。わたし」
テスラは牙のある口でにぱっと笑った。
ワーウルフになって、嬉しいの……? そういえば、お姉ちゃんも笑ってた。お姉ちゃんは特に病気だってきいたことないけど、嬉しかったのかな?
「人間だから」って言うのは、よくないことなのかな。
僕はふうっと深呼吸して、テスラの頭をなでてあげた。「わふう」と気持ち良さそうに鳴いて、狼の耳がぺたんと寝る。
「うん、わかった。でもなめるのは少なくしてね」
おかしなきぶんになっちゃうから。
「わうう……それじゃあ、お外につれてって。はしりたい」
「外に?」
テスラが笑顔でうなづいた。開くようにつくられていない窓の向こうに、青っぽい月と星空が見える。丘の上の草がさらさらそよぐ姿も。
「ねっ、お願いお兄ちゃん。お外につれてって」
「……う、うん。じゃあ明日ね」
そう答えると、またテスラにおしたおされてなめられた。
僕はお父さんやお母さんに、テスラを外に連れ出すことは話せなかった。おじさんやマーシャさんの話ではなかなかはぐれたワーウルフやほかの魔物が見つからなくて、教団の人たちも『精霊のいたずら』でうまく進めないらしい。だから不安そうで、言い出せなかった。
神さまが味方してくれたのかな、と考えるとおかしかった。
魔物にも神さまって、いるのかな? 僕がお願いしたのを魔物の神さまが聞いてくれたのかな?
「……ありがとう。神さま」
僕が学校からの帰りにつぶやくと、向かいのおばさんから「えらいね」ってほめられた。ちょっともうしわけない気分になった。
今日しようとしてることを考えると、本を探す必要はないと気付いて、僕は部屋の中でぼーっとしてたら寝ていた。
昨日、あんまり眠れなかったのかな。テスラのよだれを洗ったりして、ずっと体がどきどきしてたからかな。
お父さんお母さんが寝てしまってから、僕はまたテスラの部屋へ行った。外からしか開かない鍵を開けると、「わうっ!」とテスラが飛び出してきた。
「テスラしずかにっ。あんまりおおきい声出さないでっ」
「あ、ごめんなさい……。でも、がまんできなくて」
そう言う間にも倒れた僕の上に乗って僕のほっぺたをなめている。とてもとても嬉しそうで、笑顔がまぶしくて、僕はしばらく草の上でじっとしていた。
ガタンッと家のほうから物音がして、僕はあわててテスラを抱いて草むらに隠れた。誰も出てこないし、窓の明かりも消えてる。気のせいみたい。
村のはずれの山には蛍が飛んでいて、僕がテスラを降ろすと、わんわんっと鳴いて走り始めた。
病気、治ったのかな……どうして? 魔物になると治るの?
それにどうしてテスラは、手も使って走ってるの?
わからないことだらけだけど、嬉しそうに鳴きながら草原を走り回るテスラを見ていると、まあいっかと思った。
「お兄ちゃんっ。いっしょにはしろっ。わうう」
僕はぱたぱたしっぽを振るテスラに近づいて、頭をなでてから一気に走った。でもテスラもすごく早くて、あっという間に追いつかれて押し倒されてしまう。
ここ最近青っぽくなったテスラの髪が、星空の上で綺麗に光っている。
「わうぅ、お兄ちゃんだいすき。わたし、ずっと夢だったの。お外で走りたかった」
「そっか。それはよかったよ」
僕はもうほっぺたをなめつづけるテスラを怒ったりしなかった。体はもやもやするし夜風の冷たさが気持ちいい。意外とふっくらしてるテスラの首を掴んでなでてあげると、くぅぅと喉を鳴らして気持ちよさそうだった。
気のせいかもしれないけど、テスラのほっぺたも赤い。
「お兄ちゃん、その……く、口も、なめていい?」
なんだろう、すごく僕もへんなきもちになってきたけど、迷いなくうなずいた。テスラは黄色く光る目を細めて、僕の口まで自分の口を近づけた。
すごくやわらかい。少しだけ湿ったような、なめられるというより、くっついているような感触。僕は気付くと口を開けて、テスラの舌を中に入れていた。
くちゅり、と舌がからまってよだれがはじける音がする。
「ふわぁっ……わうっ、お兄ちゃん、だいすき……わううっ」
僕も、すきだよ、テスラ。
今僕がどこにいるのかとか、どうしてテスラとこんなことをしているのかとか、そんなことはどうでもよくて、ただ、ふわふわときもちよかった。
いつの間にか汗ばんだテスラを抱いていた。鋭い爪の生えたテスラの両手が僕の頭を後ろから掴んで離してくれなかったけど、それも気にならなくて。
テスラが少しだけ顔を引いて、僕の鼻や唇のまわりをなめはじめた。
「テスラ、唇じゃだめなの?」
僕がちょっと怒って言うと、
「わうぅ……くらべてみたけど、わたし、ワーウルフだから、こっちのほうが、好きかも」
テスラのしっぽはぱたぱた振られているし、体全体で僕をなめるようにぎゅうっと押し付けられてるから、まあいいかな、と僕も思った。とってもいいにおいがした。
こすりつけてくる体を僕が抱いてあげると、テスラは笑顔で僕の顔をなめてくる。ほんとに犬みたいだけど、ずっとずっとかわいい僕の妹。ぺたんと垂れた耳をなでると「きゃうぅ」と鳴いて、僕はなんだか楽しくなった。
テスラが「わぉん!」と吠えてまた走り出したから僕も追いかけると、いきなり僕にとびかかってきてまた押し倒された。すぐにテスラの頭をなでてあげると、僕のほっぺたをなめてくれる。
「テスラ……」
「くぅぅん……お兄ちゃん……」
テスラは僕の肩に頭をのせた。背中をなでてあげると、ぱたぱたっとしっぽが動く。わかりやすくて、おもしろかった。
もうテスラはこのままでいいんだ。僕はそう信じた。
「わうううぅ……お兄ちゃん、わたし、お母さんに会いたい。会って、おはなししたいの」
テスラは僕が家に戻る前に、ちょっと寂しそうにそう言った。
だから僕は寝て、夕方に起きて、夕ご飯のときに話をしてみた。
「お母さん、テスラと会ってほしいの」
「……ルーくん、どうしてそんなことを言うのかしら?」
お母さんはちょっと怒ったような顔。お父さんも食べる手を止めて僕を見ていた。怖い。
「えっ、いや、テスラが、お母さんと会いたいって言ってたから……テスラ、寂しそうなんだよ」
「……そう。じゃあ、お父さんとお母さん、今日は疲れてるから、明日でいいかしら? 明日は教団の人が来るからちょっと忙しいけど、まあ、大丈夫でしょう」
「そうだな。ルーク、今日はもう寝なさい。本もないし、テスラのとこへは今日はいい」
お父さんがこんなことを言うのは初めてだ。
「えっ。でも」
「テスラもそろそろ十歳になるし、兄ちゃんに甘えっぱなしっていうのはよくないからな。今日ぐらいはいい」
お父さんの顔はちょっときびしい感じだった。
僕は神さまに感謝する言葉をお父さんとお母さんと言って、部屋に戻った。でもなんだか気になって、下に降りて、ご飯の片づけをしているお母さんたちの部屋に近づいた。
ちょっと見るだけ、と思ったら。
「……あんなこと言ってよかったのか? テスラだってマラーみたいに」
「やめて。そんなこと言わないで。わからないじゃない」
……お姉ちゃんみたいにって、どういうこと?
僕は足音を立てないように、近くの物陰に隠れた。
「もうだいぶ怪しまれてる。ワーウルフの呪いの一家なんて陰口まで」
「……マラーはテスラに近づかせなかったわ。だから大丈夫。きっとそうよ。後は教団の人をごまかせばいい。教団の医者が言ったんだから、テスラは心配ないでしょうけどね」
お母さんの声は震えていた。
「あなたがそもそも隔離するなんて言い出したのが悪いのよ。魔力なんて人間の女性は誰でも持ってるって本を読んだことがあるわ」
「でもテスラの病気はなんだ。町の医者でも治せない病気なんて魔力の異常蓄積しか考えられん」
「それでも、だからこそ普通に育ててあげるべきだったのよ! ルークに全部押し付けるなんて」
「奔放にさせてああなったマラーのことがあるだろう!」
お父さんがこんな大きな声を出したのは初めてで僕は思わず悲鳴を上げそうになった。
「それは最近のことでしょ!? 話を逸らさないで」
「…………こんな小さな村では、体面が大事だ。俺だって娘が魔力もちなんて認めたくはないし、教団なんて迷信が半分だ。それでも、見た目だけでもこの家と遠ざけることは必要だったんだ」
「それでも親なの!? あなたはいつも」
「じゃあおまえは、近づけるか? 今のテスラに」
お母さんもお父さんも何も言わなかった。
「……マラーだけでも辛いんだ。もうやめてくれ……ただでさえ教団を誤魔化す口実で胃が痛いんだ。久々に見た娘が魔物になっていたなんて、二度起こったら……」
こんな弱い声も、初めてだ。
「……ルークになんて言おうかしら」
「……俺も、明日中に考えておくよ」
僕は部屋に戻って、布団をかぶった。
僕にはまだ難しい話はよくわからないけど、なんとなく、どうしてテスラが僕以外と会わないのかわかった気がした。
わかりたくなかった。
僕は夜中に起きて、テスラの部屋に行った。お母さんたちがもしかして起きてるかもしれない、ぎりぎりの時間。
お父さんの言ったことも覚えてたし、明日教団の人が来るって聞いたら、もう、待ってられなかった。
僕はお母さんたちの言ったことすべてはわからないけど、テスラのことは気付いてないってことだけわかった。
気付いていないけど、テスラのことを疑ってるってことも。
そして、僕がやるべきことも。
テスラは布団の中で、荒く息をしていた。
「はーっ……はーっ……お兄ちゃん、お兄ちゃん……っ」
「テスラ?」
僕が近づくとテスラはとてもびっくりして、「ちょっとまって!」と言って追い出された。少しだけ見えたまっしろな首筋と、青い毛に覆われた腕が綺麗だった。
しばらくして部屋に入ると、いつものように僕を押し倒してなめてきたから、僕も安心した。なんだかかいだことのないにおいがするけど。
「わうわうっ。お兄ちゃん、遅かったね。さびしかった」
「ごめんテスラ。ちょっとお母さんたちと話をしてきた」
はなし? と首をかしげてきいてくるテスラがかわいかった。
「どんなはなし?」
「お母さん、テスラと会ってくれるって」
わあっ、と人間のときのような声をだした。ぱたぱたっとしっぽがふられて、とても嬉しそう。
「会いたいっ。今すぐ会いたい。わうわうっ」
「うん。今、今じゃなきゃだめだから。だからテスラ、ついてきて」
僕がそう言うと、また押し倒されて顔をなめられた。いつもより激しくて、僕もついテスラの首を抱いてしまう。わうわうっと鳴くテスラがかわいい。
しばらくじゃれあって、テスラが満足したら僕は家の前に行った。もう一階の電気が消えてる。
テスラの部屋と家を結ぶ道にある扉は、ふしぎな模様が書いてて、きらきら光る鍵でしか開けられない。テスラは僕の後ろに隠れて「くぅぅん」と悲しそうに鳴いていた。
「どうしたの? 大丈夫。今ならお母さんを起こせるから」
扉を開けて、テスラを家の中に入れる。テスラにとってたぶん初めての、僕らの家。
ちゃきっちゃきっとテスラの爪の足音がするけど、僕は気にしなかった。
お母さんを起こして、テスラの姿を見せて、説得する。
お父さんには見せたくないけど、お母さんならわかってくれる気がする。そう思ったから。
テスラのことをお母さんは知らない。テスラは危なくなんかない。それを知ってくれれば、きっと大丈夫。
お母さんとお父さんの部屋の扉を開ける。お父さんのいびきが聞こえる。声をかけられなかったから、たぶんお母さんも寝てる。
僕はテスラに「ここで待ってて」と言ってお母さんの横まで行く。
「お母さん、いるの? そこにいるの? わうわう」
「うん、いるよ。いるから、そこで待って――」
「お母さんっ!」
テスラがすごい勢いでお母さんに近寄って、首に噛み付いた。
「――っ!!」
お母さんが見たこともないような顔をする。ばたばた動く手をテスラは体で押さえつけて、しっぽを振りながらお母さんの首を噛む。
「わうっ! わうっ! お母さんも、なろっ! ワーウルフっ。わうっ!」
えっ……?
テスラが口を離すと、「はぁっ……」と熱い息を吐いて、お母さんの頭から狼の耳が生えた。目が黒から黄色に変わって、にやっと笑う。
「うふふ……」
立ち上がったお母さんは楽しそうに笑っていた。僕の頭をなでて、その後テスラの頭をなでる。テスラはとっても嬉しそうだった。それだけでいいかな、と僕は思った。
「もう、テスラ。悪い子ね。お母さんまでワーウルフにしちゃうなんて」
「わうわうっ。だって、お兄ちゃんのお母さんだもん」
「グルルル……まあ、それもそうね」
お母さんの青いしっぽがふらふらと揺れている。
「……ごめんね、マラー。お母さんが間違ってた。そうよ。ワーウルフこそが正しいの」
お母さんは寂しそうな顔で言って、横で寝ているお父さんに抱きついた。テスラが昨日僕にしたみたいに、口を塞いでなめた。
「ぐっ、あ、なっ、おまえっ……!」
「ねえ、もう終わりにしましょ? 何にもわかっちゃいない村の人も、テスラをマラーみたいに殺そうとする教団もなんとかする方法があるでしょう?」
お母さんはお父さんを爪で押さえつけて、首筋をなめた。それだけでお父さんの手から力が抜けた。
「あなただって疲れてる。わたしだってもううんざりよ。娘を疑わなきゃいけない母親の気持ちがわかる? 心臓が張り裂けそうよ。何が体面。何にもわかっちゃいないわ。グルル……今がちょうどいい」
お父さんの怒った顔が少し揺らいだ。そこでお母さんは僕とテスラを見て、牙のある口でにやっと笑った。
「テスラ、ルーくん。部屋に戻って、明日の朝早く起きなさい。大丈夫、お父さんとお母さんを信じて、ゆっくり寝ていいわ」
いいのかな。教団の人が来るのに。こんなことになったら、ワーウルフになったから、お母さんまで消えちゃうかもしれないのに。
お母さんは爪のある手で僕の頭をやさしくなでてくれた。それで不安はきえた。
「さあ、その前にちょっといいかしら。あなた。栄養補給、させてくれる?」
僕とテスラが階段を上る前に、そんな声が聞こえた。
その日、僕とテスラは抱き合って寝た。僕の小さなベッドで、お互いに暖まりながら寝た。夏なのに体がすごく冷たくて、怖かったけど、でも、テスラといると、落ち着いた。
「わうっ。嬉しいっ。お母さんもワーウルフ。お母さんと同じっ。しあわせ。わうわう」
テスラはお母さんと違うことが寂しかったのかな? わからない。マーシャさんなら、おじさんなら教えてくれるのかな。
でも明日、おじさんやマーシャさんに、会えるのかな?
そう考えると胸がきゅうっと痛くなったから、僕はテスラになめてもらった。テスラは途中で服を脱ごうとしたけど、「風邪ひくよ」って言うと顔をちょっと赤くして、僕の口をなめた。僕もテスラの口に自分の口を重ねて、体を暖めた。
もやもやするきもちがいつのまにかきもちよくなっていて、僕もテスラも嬉しかった。
「お兄ちゃん、ありがとう……」
「……どういたしまして」
いつの間にかテスラも僕も、寝てしまっていた。
朝、一階にテスラと降りると、お父さんとお母さんが待っていた。お父さんが僕の頭を笑顔でなでてくれた。「よくやったなルーク」って、難しい本が読めた時みたいにほめてくれた。
「テスラ……。テスラも、こっちに来てくれ」
「わうわうっ。お父さんっ、嬉しい」
テスラがしっぽをふって、お父さんがテスラの背中をなでる。ちょっとだけ胸がちくっとした。
「うふふ。あなた、そろそろ始めない? 狩りを」
「……ああ、そうだな。よしルーク、お母さんのおにぎりを食べたら、テスラの部屋の前に来るんだ」
お父さんとお母さんはとても楽しそうで、よかったと思った。みんなみんな楽しくなった。
ご飯をたくさん食べて、僕はテスラの部屋の前に行った。お父さんは大きな弓と矢を持って、お母さんはひじやひざを革の防具でおおっていた。
「よく聞くんだルーク、テスラ。お父さんはまず、村の入り口に行って教団の人と村長を止める。その間にお母さんはお隣さんから順に『じゃれて』いくから、ルークとテスラはマーシャさんのところへいくんだ。わかった?」
お母さんは楽しそうに隣の家を見ている。隣の家のお姉さんもおばさんも、まだ寝てる時間かな。
「あなた。気をつけてね」
お母さんがお父さんのほっぺたをなめる。お父さんはお母さんのほっぺたに口をつけた。テスラが僕の服の袖をひっぱったから、僕たちも同じことをした。
「ふふっ。あなたたちも、きっと立派なお父さんとお母さんになるわ。お母さん、嬉しい。グルル」
「わうわうっ。お兄ちゃん、きいたっ?」
うん。僕も嬉しいよ。
お父さんが「じゃあ、後でな」と言って向こうのほうにある村の門へ歩いていく。お母さんは嬉しそうに笑って、「じゃあね」と言って隣の家の窓から入った。なんだか悲鳴が聞こえたけど、すぐになくなってお母さんの嬉しそうな鳴き声がした。
僕とテスラは、マーシャさんがいつもお祈りしているほこらまで行った。長い髪のお姉さん、マーシャさんは僕を見て、テスラを見て、「えっ……」と驚いた顔をした。
「わうわうっ。おねえさんもワーウルフっ。わうっ!」
マーシャさんの首にテスラが噛み付いて、マーシャさんが倒れる。しばらくばたばた手を動かしていたけど、止まって、頭から狼の耳が生えたら、また楽しそうに笑った。
「わふぅ……すっごく気持ちいいわ。ルークくん、ありがとう。テスラちゃんも。はじめまして、かな? わふっ」
よかった。マーシャさんも楽しそう。
「これで魔物に怯えることもないわ。あら、今はわたしが魔物、だったかしら。わふっ」
「うん。えっと、お父さんが村で村長さんを止めてるみたいなんだけど……」
「そっかー。じゃあわたしはお母様を狙おっと。お母様もワーウルフ、わたしもワーウルフ、素晴らしいわ」
マーシャさんは手と足を使って、すごい速さで村長さんの家に入っていった。
隣のお姉さんが綺麗なワーウルフになって、おじさんの家の、隣の席の女の子もワーウルフになって、みんなでおじさんにじゃれついた。
おじさんは最初は怖がってたけど、すぐにみんなをなでてくれた。僕と同じだ。
村長さんもマーシャさんと村長さんのおばさんに押し倒されて、嬉しそうな顔をしてた。
そうそう。教団の真っ白い鎧を着た人たちが来たけど、お母さんやマーシャさん、ワーウルフのみんなが後ろから襲い掛かって、いつものシスターさんや鎧を着た人もワーウルフになって、笑いながら教団の男の人を押し倒していた。
こうして、テスラとお母さん、お父さんにせまった危機は終わった。
テスラは、いなくならない。
よかった。
僕は、この小さなアッサ村でワーウルフのテスラと、ワーウルフのお母さんと、優しいお父さんと暮らしてる。
みんなみんな笑顔で、時々みんなで狩りに行って。村にいる人もたくさん増えたし、ほかの村のワーウルフの女の人も遊びに来てくれたり。
しあわせだ。
時が経って。
テスラは青い髪のとても綺麗な女性になった。僕はまあ、わからないけど、狩りの腕と教団を撒く力、村を守る力だけは父さんに負けないと思っている。今は狩りも出来るし、剣術だってリザードマンから習った。
テスラにふさわしい男になれただろう。
そろそろ母さんに、子作りと旅の許可をもらう頃だ。
姉さんの敵討ちとか、そんなどろどろした感情じゃない。ワーウルフは旅が好きなんだ。それがこの村に幸せを運んだ発端でもあったのだろう。
そして僕はテスラやマーシャさんと一緒に、幸せを運びに行く。
この草原の向こうの、果てしない村へと。
愛するテスラと、共に。
12/05/01 10:56更新 / 地味